雑談散歩

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芭蕉の俗語の句「手鼻かむ音さへ梅の盛り哉」


芭蕉雑記


芥川龍之介の「芭蕉雑記」をネットの青空文庫で拾い読みしていたら、芭蕉の面白い句を見つけた。
それは、「梅雨(つゆ)ばれの私雨(わたくしあめ)や雲ちぎれ」というもの。
芥川龍之介は、この句について「芭蕉はその俳諧の中に屡(しばしば)俗語を用ひてゐる」と言い、『「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉(ことごとく)俗語ならぬはない』と言っている。
そして、「しかも一句の客情(かくじやう)は無限の寂しみに溢(あふ)れてゐる。」と書いている。
確かに雅語ではないが、俗語と呼ぶには普通すぎるのでは、というのが私の感覚。
もっとも芥川龍之介は、短歌的な抒情を含んでいない言葉として、これらを「俗語」と言っているのかもしれないが。

無限の寂しさ?


いつ頃の作だろうかと「芭蕉年譜大成(今榮藏著)」を調べてみたが「梅雨ばれの・・・」は載っていない。
芭蕉に「五月雨」の句は多いが、「梅雨」という言葉を使った句はほとんど無い。
私が知っている限りでは、芭蕉がまだ二十代の伊賀在郷時代に「降る音や耳も酸うなる梅の雨」という句だけである。
それに「梅雨ばれの・・・」の句が「無限の寂しさに溢れてゐる」とは、私は思わない。
旅の句のようなので、私でもこの句から少々の旅情は感じ取れる。
でも、「無限の寂しさ」は大仰ではあるまいか。
あっけらかんとした句だなと、というのが私がこの句に感じた印象である。

句の真偽


「洗馬(せば)にて」というのが、この句の前書きであるらしい。
「洗馬」は長野県にある旧中山道「洗馬宿」のことで、当地にはこの句の石碑があるという。
関西大学学術リポジトリの「芭蕉の存疑句-重厚蒐集の芭蕉発句をめぐって-」(竹内千代子著)によれば、「梅雨ばれの・・・」の句は、「芭蕉翁発句集」に出典を求めることができるという。
竹内氏の著作では、「梅雨ばれの・・・」の句は、「しなのゝ洗馬」と前書きがあって「つゆばれのわたくし雨也雲ちぎれ」と記載されている。

「芭蕉翁発句集」は「蝶夢」という江戸時代中期の俳人が編集したもので、その原典はインターネットのサイト「愛知県立大学図書館貴重書コレクション」で見ることができるが、江戸時代の崩し字は私には読めない。
よって、学術研究者ではない私には、この句の真偽はわからない。
ただ芥川龍之介の言う『「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉(ことごとく)俗語ならぬはない』は、芥川龍之介の美意識からすれば「俗語」でしかないということなのだろう。

芭蕉の「手鼻」の句


俗語と言えば下記の句に用いられている「手鼻」こそ俗語中の俗語ではあるまいか。

手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
松尾芭蕉

「伊賀の山家にありて」と句の前書きがある。
元禄元年の春、芭蕉四十五歳の作である。
このとき芭蕉は「笈の小文」の旅の途中実家に立ち寄っている。
「芭蕉年譜大成」によれば、「二月十八日 伊賀の実家に帰る。この日、亡父三十三回忌の法要が営まれる。」とある。
この春の伊賀滞在中の発句のひとつが「手鼻かむ・・・」である。

梅の花が咲き誇る頃、人々は梅見物に梅の木のもとに集まる。
梅の花を眺め、その香りを嗅いで楽しむためである。
王朝貴族なら梅の香を感じて楽しんだことだろう。
だが、元禄時代の庶民は鼻を花弁に近づけて、その香りを直接嗅いで楽しんだのではあるまいか。

手鼻をかむ理由


ところで、私が子どもの頃は、津軽地方の村で「蓄膿症」や「慢性鼻炎」に罹っている人が多かった。
子どもの洟垂れをたくさん見たが、洟を垂らした大人の人も見かけたものだった。
かくいう私も「蓄膿症」を患っていた
昭和三十年代中頃、津軽半島の寒村では、食事の栄養状態が十分ではなかったため、そのことが原因のひとつとなって「蓄膿症」患者が多かった。

江戸時代の庶民の暮らしぶりはどうであったのだろう。
動物性蛋白質と動物性脂肪が十分に摂取できなかった江戸時代の庶民のなかには「蓄膿症」や「慢性鼻炎」に罹って始終洟水を垂らしている人が多かったのではあるまいか。
そういう人たちが、梅の香りを嗅ぐ前に、まず鼻の通りを良くしようと手鼻をかむ。
梅の花の盛りの頃は、梅林のあちこちで手鼻をかむ音が聞こえる。
その手鼻をかむ音さえも、梅の盛りの賑わいになっているようだ。
この句には、そんなイメージが思い浮かぶ。

古典を庶民の日常のなかに取り入れる


短歌をたしなむ王朝貴族が聞いたら眉をひそめることだろう。
「梅」と「手鼻」を取合せるなんて、悪趣味にもほどがあると憤るかもしれない。
「手鼻」は、「梅」という雅語を貶める俗語であり、「梅」そのものの雅な品性を貶める下品な卑語(鄙語)であると、泡を飛ばして断言するに違いない。

元禄時代の農業生産力の増大と商品流通の拡大は、大坂や京都のような商業都市の繁栄をもたらした。
それまで蔑まれていた町民(庶民)勢力が抬頭し、活気ある「町民(大衆)文化」を形成し、古典志向や貴族趣味を排除する動きも出てきた。

職業俳諧師である芭蕉は、そういう動きも射程内におさめていたのではあるまいか。
芭蕉は、古典を巧みに日常性のなかに取り入れて、読むものの想像力を刺激する多様な句を作っている。
それは同時に、古典に対する新しい接し方であったのかもしれない。
あるいは、花鳥風月に代表される短歌的な抒情に変わって、新しい詩的抒情の出現を目指していたのかもしれない。

それが、「古池や蛙飛び込む水の音」であり掲句「手鼻かむ音さへ梅の盛り哉」であり「鶯や餅に糞する縁の先」などであったのではあるまいか。
「蛙」や「梅」や「鶯」という短歌でよく使われていた言葉を、「飛び込む」や「手鼻」や「糞」という「俗語」と取合せる。
「二物衝撃」させる。
それによって従来の短歌では表現し得なかった世界を、俳諧で描こうとしたのではあるまいか。
芭蕉の俗語は、芭蕉の詩の世界を広げた。
私は、そう感じている。

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