月花の愚に針たてん寒の入り
「寒の入り」とは、暦の上で寒が始まる「小寒」のこと。
一年を二十四等分して季節を分けたのが二十四節気。
「小寒」は、その二十四節気の二十三番目にあたる。
旧暦の十一月後半から十二月前半あたりに「小寒」の日があるという。
「小寒」の前の二十二番目は、おなじみの「冬至」。
「小寒」の後の二十四番目は、二十四節気の最後「大寒」。
「小寒」から一層寒い日が続くようになるので、「寒の入り」と呼ばれている。
江戸時代では、「寒の入り」が来ると本格的な冬が始まるとされていた。
現代では、「寒の入り」の頃には体調を崩す人が増え、風邪やインフルエンザが流行する。
月花(つきはな)の愚に針たてん寒の入り
松尾芭蕉
元禄五年十一月二十九日、「寒の入り」の日の発句。
「寒の入り」になったら、体の変調を治すために鍼治療を受ける習慣が、江戸時代にあったのだろうか。
寒くなると血の巡りが悪くなって、体のあちこちが凝ってくる。
それを解消するために鍼治療を受けることになる。
鍼治療が、筋肉の緊張をゆるめ血行状態を良くすることは一般に認められていることである。
「針たてん」の「針」は鍼治療の「針」のことと思われる。
「月花の愚」で、風雅に酔いしれることを愚行としている。
月や花に執着する風雅の生活を、愚かしい性癖であると自己批判。
寒さが厳しくなる前に、この愚かしい性癖を鍼治療で追い払ってしまおうという気持ちを詠んだ句のようである。
俳諧師としては自虐的な句のように見える。
「針たてん」には、鍼治療の「針」を自らたててやろうという強い意思が表現されている。
だが芭蕉は鍼灸師では無い。
俳諧師である。
鍼灸師では無いのだから、自らの病癖を治療することは出来ない。
俳諧師ならば、俳諧創作の不出来(愚)を自ら改めることが出来なくもない。
このとき芭蕉は四十九歳。
芭蕉は、出生地の伊賀上野で、十代後半頃俳諧に興味を抱いたとされている。
「春や来し年や行きけん小晦日」は芭蕉十九歳のときの作で、作年次が判明している最古の句となっている。
俳諧の世界に身を入れてから、元禄五年の「寒の入り」まで約三十年を経ている。
三十年の俳諧生活。
四十一歳からは、その俳諧生活に「俳諧行脚」の暮らしが加わる。
そうして四十九歳。
このごろは、風雅三昧に旅三昧。
ちょっと「風狂」が過ぎているから、そういう自分にお灸を据えねばならんな。
もう爺だし。
それに「寒の入り」だし。
というような自虐的表現の裏に、創作上の戒めを込めているのではなかろうか。
と私は思ったりしている。
「月花」という伝統的な題材にばかり凝り固まって、芭蕉が提唱する「新しみ」や「かるみ」に目を向けない傾向は愚かしいことで、「寒の入り」になったのを良い機会に、そんな傾向には針をたて、お灸を据えねばならないという芭蕉の胸の内かもしれない。
いわば、自虐的なポーズを装った俳諧批評。
この句ができる半年ちょっと前、元禄五年五月七日、芭蕉が向井去来に送った書簡には、江戸においては「点取俳諧」がはびこって勢いを増していることが書き添えられている。
以下はその書簡を「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋したものである。
「芭蕉年譜大成」によると、芭蕉は延宝三年(三十二歳)頃から点者(てんじゃ)生活に入り、延宝末年(三十七歳)には江戸中屈指の俳諧点者に数えられていたという。
俳諧点者とは、俳諧(句)を評点し、その優劣を判定する者。
やがて芭蕉は、点取に狂奔する俳壇大衆とその点料で生活を立てる点者間の顧客争奪に嫌気を覚える。
例によって、私の個人的な空想に過ぎないのだが。
月花の愚に針たてん寒の入り
一年を二十四等分して季節を分けたのが二十四節気。
「小寒」は、その二十四節気の二十三番目にあたる。
旧暦の十一月後半から十二月前半あたりに「小寒」の日があるという。
「小寒」の前の二十二番目は、おなじみの「冬至」。
「小寒」の後の二十四番目は、二十四節気の最後「大寒」。
「小寒」から一層寒い日が続くようになるので、「寒の入り」と呼ばれている。
江戸時代では、「寒の入り」が来ると本格的な冬が始まるとされていた。
現代では、「寒の入り」の頃には体調を崩す人が増え、風邪やインフルエンザが流行する。
月花(つきはな)の愚に針たてん寒の入り
松尾芭蕉
元禄五年十一月二十九日、「寒の入り」の日の発句。
「寒の入り」になったら、体の変調を治すために鍼治療を受ける習慣が、江戸時代にあったのだろうか。
寒くなると血の巡りが悪くなって、体のあちこちが凝ってくる。
それを解消するために鍼治療を受けることになる。
鍼治療が、筋肉の緊張をゆるめ血行状態を良くすることは一般に認められていることである。
「針たてん」の「針」は鍼治療の「針」のことと思われる。
「月花の愚」で、風雅に酔いしれることを愚行としている。
月や花に執着する風雅の生活を、愚かしい性癖であると自己批判。
寒さが厳しくなる前に、この愚かしい性癖を鍼治療で追い払ってしまおうという気持ちを詠んだ句のようである。
俳諧師としては自虐的な句のように見える。
「針たてん」には、鍼治療の「針」を自らたててやろうという強い意思が表現されている。
だが芭蕉は鍼灸師では無い。
俳諧師である。
鍼灸師では無いのだから、自らの病癖を治療することは出来ない。
俳諧師ならば、俳諧創作の不出来(愚)を自ら改めることが出来なくもない。
このとき芭蕉は四十九歳。
芭蕉は、出生地の伊賀上野で、十代後半頃俳諧に興味を抱いたとされている。
「春や来し年や行きけん小晦日」は芭蕉十九歳のときの作で、作年次が判明している最古の句となっている。
俳諧の世界に身を入れてから、元禄五年の「寒の入り」まで約三十年を経ている。
三十年の俳諧生活。
四十一歳からは、その俳諧生活に「俳諧行脚」の暮らしが加わる。
そうして四十九歳。
このごろは、風雅三昧に旅三昧。
ちょっと「風狂」が過ぎているから、そういう自分にお灸を据えねばならんな。
もう爺だし。
それに「寒の入り」だし。
というような自虐的表現の裏に、創作上の戒めを込めているのではなかろうか。
と私は思ったりしている。
「月花」という伝統的な題材にばかり凝り固まって、芭蕉が提唱する「新しみ」や「かるみ」に目を向けない傾向は愚かしいことで、「寒の入り」になったのを良い機会に、そんな傾向には針をたて、お灸を据えねばならないという芭蕉の胸の内かもしれない。
いわば、自虐的なポーズを装った俳諧批評。
この句ができる半年ちょっと前、元禄五年五月七日、芭蕉が向井去来に送った書簡には、江戸においては「点取俳諧」がはびこって勢いを増していることが書き添えられている。
以下はその書簡を「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋したものである。
上記抜粋を、私なりの「意訳」でまとめたものが以下の箇条書きである。「此方俳諧の体、屋敷町・裏屋・背戸屋・辻番・寺方まで、点取はやり候。尤も点者共の為には、悦びにて御座有るべく候へ共、さてさて浅ましく成り下がり候。中々新しみなどかろみの詮議思ひもよらず、随分耳に立つこと、むつかしき手帳をこしらへ、磔・獄門巻々に言ひ散らし、あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候。愚案此節、巻きて懐にすべし。予が手筋此の如しなど顕し候はば、尤も荷担の者少々一統致すべく、然らば却つて門人共の害にもなり、沙汰もいかがに了簡致し候へば、余所に眼を眠り居り申し候。」
- 近頃の俳諧事情は、江戸の町のあらゆる階層の人達の間で点取俳諧が流行っていること。
- 点料を稼いで生活している点者にとっては喜ばしいことであろうが、なんとまあみっともなくおちぶれたことである。
- とても「新しみ」や「かろみ」などの句法を検討する考えもない。
- 目立って聞こえてくることは、気味の悪い俳諧をこしらえて、「磔巻」とか「獄門巻」とか触れ回っていること。
- あるものは古臭くて重厚で、句の作りがまったくなっていない。
- 私のアイデアはこういう時期には、懐に隠しておこう。
- 私の俳諧の方法はこういう具合であると明らかにすれば、本当に私に同意してくれる人が多少はいるであろう。
- そういう人たちをひとつにまとめなければならないが、そうすれば逆に門人たちに害が及ぶ。
- 蕉門の者で点料で生計を立てている者もいるので、その扱いをどう判断すれば良いのか。
- 関係ないこととして、目をつぶって知らん振りをしておこう。
「芭蕉年譜大成」によると、芭蕉は延宝三年(三十二歳)頃から点者(てんじゃ)生活に入り、延宝末年(三十七歳)には江戸中屈指の俳諧点者に数えられていたという。
俳諧点者とは、俳諧(句)を評点し、その優劣を判定する者。
その際の報酬を「点料」という。
やがて芭蕉は、点取に狂奔する俳壇大衆とその点料で生活を立てる点者間の顧客争奪に嫌気を覚える。
点を掛けること自体に対する疑問も生じ、芭蕉は点者生活から抜け出して俳諧そのものに徹すべく江戸都心部から離れた深川に隠棲する。
延宝八年、芭蕉三十七歳の冬のことである。
延宝八年、芭蕉三十七歳の冬のことである。
それから芭蕉五十一歳の元禄五年。
元禄五年五月七日の去来宛書簡にあった「点取はやり候」が「さてさて浅ましく成り下がり候」という「此方俳諧の体」は半年後の「寒の入り」まで続いていたのかもしれない。
去来への手紙では「余所に眼を眠り居り申し候。」と書いたが、芭蕉は目をつぶって知らん振りは出来なかった。
元禄五年五月七日の去来宛書簡にあった「点取はやり候」が「さてさて浅ましく成り下がり候」という「此方俳諧の体」は半年後の「寒の入り」まで続いていたのかもしれない。
去来への手紙では「余所に眼を眠り居り申し候。」と書いたが、芭蕉は目をつぶって知らん振りは出来なかった。
芭蕉は、かつて自身がその点者として生計をたてていたことを、愚かしいこととし「月花の愚」と詠んだのかもしれない。
「あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候」という「此方俳諧の体」を戒めようとした。
「あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候」という「此方俳諧の体」を戒めようとした。
厳冬期を前に、自身の愚かしい記憶と「此方俳諧の体」に針をたてて、自身ともども俳諧をリフレッシュさせようとしたのではあるまいか。
例によって、私の個人的な空想に過ぎないのだが。
月花の愚に針たてん寒の入り