2022/04/24

松前藩の参勤交代の謎と祭神マーシー号の謎、その答えを知っている「土手山のケヤキ」

土手山神社の境内に立っている「土手山のケヤキ」。左側の赤い祠に「マーシー号」が祭られている。

大ケヤキ

国道4号線は、七戸町方面から十和田市街地に向かう途中で、左に折れて五戸町方向へ進む。
この分岐を左折せずに直進すると、分岐点から道は県道10号線になる。

県道10号線に入ってちょっと走ると、左手に大きなケヤキが見えてくる。
「土手山のケヤキ」という名称の大ケヤキだ。

大ケヤキは、ちいさな赤い祠の横に威風堂々と立っている。
所在地は、青森県十和田市三本木字北平。
ちいさな祠やケヤキのある場所は、土手山神社の境内となっている。

ケヤキと言えば、昨年に七戸町で見た「天間舘一里塚の巨大なケヤキ(名称:天間のツキノキ」が記憶に新しい。

「土手山のケヤキ」の「目通り幹囲」は約5m(出典:『人里の巨木たち』サイト)。
「天間のツキノキ」の幹周は、10.8m。

「土手山のケヤキ」は「天間のツキノキ」の約半分の幹周であるが、存在感は十分にある。
樹皮のささくれは、「天間のツキノキ」よりも激しい。
交通量の多い道路沿いに立っているせいだろうか。

謎の説明看板

説明看板。

上の写真のように、ブロック塀の後に「土手山のケヤキ」の立派な「説明看板」が建っている。
以下の記述は、看板の内容を引用したもの。

土手山のケヤキ
※幹囲 胸高の周囲 四メートル九十五センチ
    根元の周囲 十メートル
※樹高 二十六メートル
※樹齢推定 三〇〇年
このケヤキの大木は松前藩主が参勤交代の折に植えられたものと伝えられている。
相坂から洞内茶屋までの奥州街道沿いの風雪の強くあたる箇所に高さ七尺位、根通り八尺位、上巾二尺五寸位の土手を築き松や雑木を植えた。その土手がごく最近まで残っていたことから土手山の名称が生まれたものである。
なお街道両側に築いたところの道幅は十四.五間あった。
また当時この土手を利用して馬の放牧による飼育や草刈場などを設ける等村の人々の日常生活にかかせないものとなっていた。


※名称 土手山神社
※祭神 マーシー号
※例祭日 九月十五日
同社は昭和四十三年から元町老人クラブ千歳会と土手山町内会の方々が交通安全の守護神として祭事をとり行っている。なおマーシー号小岩井牧場で生まれたサラブレッドの召雌馬で昭和二十五年ダービー優勝馬、クモノハナ号(兄馬)をしのぐ駿馬であった。
   
  十和田市
  (社)十和田青年会議所

(原文ママ)

 

松前藩の参勤交代

説明文を読むと、「土手山のケヤキ」は松前藩の殿様が植樹したものらしい。
おっちょこちょい者には、高さ2.1mの風雪除けの土手も松前の殿様が築いたように読みとってしまう。

土手は誰が造ったのでしょう。

さらにおっちょこちょい者は、松前藩の参勤交代が厳冬期に行われたと思ってしまう。
参勤交代の行列を襲う地吹雪が激しいので、風雪除けのための土手が必要だったのかと。

そこで、「松前藩 参勤交代」というワードでGoogle検索したら「第4章 松前藩の成立」というページを見つけた。
このページには、論文のように詳細な記事が第一節から第十六節まで記されてある。

第一節の最後に「参勤交代」という項目があって、「松前家の場合、在所が遠国で、これに要する費用も多くかかるので、対馬の宗氏と共に、特例として三年一覲が認められ、その後五年一覲となっているが、その時期は不明である。交代は主に秋10月松前を発し、翌年2~3月江戸から帰国することを例とした」と書かれている。

記事の日付が旧暦であるなら、松前出発は新暦の10月下旬から12月初旬位で、青森地方が厳冬期に入る手前ぐらいになる。
帰国時の江戸出発は、旧暦の二月なら春めいた頃になる。

元禄五年の二月九日に江戸を出発し、三月四日に松前へ帰着した例を見ると、二月二十六日に七戸あたりを通過している。
旧暦の二月二十六日は、新暦の三月中旬から四月下旬ぐらい。
二月二十六日が新暦なら、季節外れの猛吹雪があったかもしれない。

きっと土手は、寒がりの殿様を地吹雪から守ったに違いない。

松前藩主が強いた負担

以前記事にした青森市六枚橋の「昇龍の松」も、松前藩主から松前街道の宿泊所へのプレゼントだったとされている。

殿様が植えた「土手山のケヤキ」や「昇龍の松」のエピソードをみると、松前の殿様は、当時の街道沿いの住民にとって非常に良い人だったような印象が濃い。

ところがどっこい。
陸奥新報のサイトにある「大名が通る松前街道=91(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹・中野渡一耕)」の記事を読むと、印象がだいぶ違うものになる。

松前藩主の参勤交代は、街道沿いの村々の住民に大きな負担を強いたという。
村々には助郷役(すけごうやく)という人馬の徴発が課せられ、
農繁期には人手不足を生じるなどの支障が出ていたらしい。

陸奥新報サイトの記事はさらに続く。
北方探検家の松浦武四郎は、1844年(弘化元年)に松前藩主の一行に遭遇したときの様子を「東海沿海日誌」に記録しているとのこと。
遭遇した場所(今別の赤根沢付近)は、かなりの難所だったようだ。

藩主の駕篭を人足22人で担いでいたが、駄賃は3人分しか出なかったという。
差額は、付近の村の持ち出しになったらしい。

その後、松前藩主の側室が通過した際は、海岸部の七つの村の男たちが皆人足に駆り出されたという。
松浦武四郎は、松前藩主が多額の負担を松前街道沿いの村人に強いていることを「
東海沿海日誌」上で批判していたとのこと。

街道沿いの住民にとっては、あまりありがたくない殿様だったようだ。
となれば、土手山にケヤキの植樹をした際も、地元民に負担を強いたのではなかろうか。

マーシー号

「説明看板」の「祠」の箇所でも気になった点があったのでGoogle検索で調べてみた。
駿馬「マーシー号」のことである。

インターネット上に「マーシー号」の記事はほとんど無い。
「競走馬 マーシー号」というワードで検索したら、「netkeiba.com」というサイトに「マーシー」のデータが保管されていた。

生年月日:1965年
通算成績:12戦1勝
父:ワラビー
母:ライモンドクイン
兄弟馬:マウントナイン、サンリージ、マウントノボル、センナリクエン

このデータを見ると、「マーシー号」は駿馬ではなく、しかもクモノハナ号の妹でもない。

クモノハナ号

「クモノハナ号」をGoogle検索すると、Wikipediaに記事があった。
「終戦間もない1950年に皐月賞、東京優駿(日本ダービー)のクラシック二冠を達成」とある。
「GHQによる財閥解体の影響で1949年に競走馬生産を中止した小岩井農場が生産した6頭目にして最後のダービー馬である」とのこと。
クモノハナ号の父はプリメロで、母は第参マンナ。

前述サイト「netkeiba.com」で、「クモノハナ号」を「馬名で検索」したら、「クモノハナ号」の兄弟姉妹に「マーシー号」はなかった。
ちなみに「マーシー号」は雌馬、「クモノハナ号」は牡馬。

前述のWikipediaの記事には、「クモノハナ号」について、「翌1950年秋をもって引退。軽種馬農協に買い上げられ、東北支部(青森県)で種牡馬となった」とある。

「クモノハナ号」が引退後15年経ってから「マーシー号」が生まれた勘定になる。
「クモノハナ号」の産駒については、クロシオやマルキシオー、ステツプホースらを出すに留まり、1959年に廃用となったとある。
「クモノハナ号」が廃用になってから6年後に「マーシー号」誕生。

調べてみると「クモノハナ号」の生涯に「マーシー号」という名の雌馬は登場しない。
なのに説明看板では、クモノハナはマーシーの兄であるとし、マーシーは兄よりも駿馬であったと謳っている。
謎である。

「マーシー号」は、いつ頃、どんないきさつで土手山神社に祭られたのか。
「マーシー号」が「交通安全の守護神」となるには、どんな物語があったのか。

ひょっとしたら祭神はクモノハナなのでは、というのが私の空想。
クモノハナは土手山の地で亡くなって神になった。
クモノハナノカミの方が日本の神様らしいではないか。

土手山の土手は、三本木原の新田開発のために、「ヤマセ(この地方特有の冷涼な東風)」除けとして、南部藩主か三本木原周辺の有力者が造ったものなのでは。
その土手に、松前の殿様が「ありがたいことだ」と感謝してケヤキを植えたのかどうか。

それは謎。

謎の答えは、「土手山のケヤキ」が知っている。

郷土史。

根がムクノキのように板根状に発達している。

天空を捧げ持つような姿が神々しい。

県道10号から眺める「土手山のケヤキ」