雑談散歩

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サンシュユの花を見て「自動詞」と「他動詞」について考えてみた

サンシュユの花(1)

このブログにサンシュユの開花の写真を載せた直近の記事は、2015年4月9日公開のもの。
2015年は、愛犬リリーが、まだ元気だった。
新型コロナ感染症もなかった。
ロシアによるウクライナへの大規模な侵略戦争も、今みたいな形では始まっていなかった。

2015年4月は、2011年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」から4年経っている。

テレビのニュース映像で見ると、4年経っていても、被災地ではまだその跡が生々しかった。
私が暮らしている青森市内は、当時の震源地から離れている。
そのため、「東北地方太平洋沖地震」の傷跡は、ほとんど見当たらない。

あの頃(2015年)はサンシュユの花を見て、愛犬とともに、いつもの春のはじまりを淡々と感じていたのだった。

時期になると、いつものように花が咲く。
いつものように春が始まっている。
のほほんと、そう感じていた。

もちろん、サンシュユはひとりでに花が咲くわけではない。

サンシュユのなかで緻密な準備がなされ、花が咲く。
サンシュユの木が、そう活動しているのだ。
サンシュユの木の働きで花が咲くから、「咲く」という言葉は自動詞になる。

いっぽう「サンシュユは、今年もきれいな花を咲かせてくれた」などという場合、「咲かせて」は他動詞になる。

このように、動作や変化や存在や状態を表現する言葉である動詞には、自動詞と他動詞がある。
「咲く」は自動詞。
「咲かせる」は他動詞。

花が咲くのは、木の活動。
地面が大きく揺れるのは地下の事情。
戦争が起こるのは、国家元首の政策。
「自動詞」するものは、木とか地面とか国家元首とか、限られた存在だ。

しかし、自動詞だけでは、動作や変化や存在や状態を理解するのに不足がある。

花を咲かせる。
大地震を起こす。
戦争を起こす(始める)。

他動詞で言われると、「何が」という疑問がつきまとう。
それは、意図的な行為であるかどうかは別にしても、他者の力が働いているということを表現しているからだ。

それに加えて、「他動」するものは「自動」するもののようには限られてはいない。
極端に言えば、「自動」するものは自分自身に限られているが、「他動」するものは自分以外のその他大勢である。

無数の「何が」を他動詞は示唆している。
例文の「他動詞」の場合、私の理解が正しければ、以下のようになるのでは。

花を咲かせているのは、気温とか太陽とか雨とか、無数の自然(環境)の要素。
大地震を起こしているのは、断層とか地殻変動とか火山噴火とかの様々な地球環境の要素。
戦争を始めているのは、政治環境・経済環境・軍事環境の様々な要素。

「自動詞」的な考えでは見えなかったものが、「他動詞」的に考えると見えるような気がしてくる。

世界を解き明かす国語文法を勉強しなくっちゃ。

などと、サンシュユの花を見て空想に耽った。

サンシュユの花(2)

サンシュユの花(3)

サンシュユの花(4)

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