内田百閒の「尽頭子(じんとうし)」を読んだ感想・「皿鉢小鉢てんりしんり」
「尽頭子」のページ。 |
小説の題名になっている「尽頭子(じんとうし)」とは何か?
インターネットで検索して、色々調べたが解らない。
ただ「尽頭」については、ネットに記載があった。
明治・大正時代に「尽頭」という漢字表記があって、それを「はずれ」と読み、「尽頭」は空間的な「はずれ・端」を意味する言葉として使われていたという。
たとえば「町尽頭」という漢字表記は、「まちはずれ」と読み、当該区域の端っこを意味する言葉であるとのこと。
小説のなかに出てくる「尽頭子」とは、なりゆきで、馬にお灸を据える先生の弟子となってしまった男(私=語り手)が、先生からつけてもらった「号」のこと。
「尽頭」が「はずれ」なら、「尽頭子」は「はずれの人」または「端の人」。
「はずれの人」や「端の人」は、こちら側と向こう側との「境界線にいる人」である。
内田百閒の小説では、土手や横町といった現実空間(こちら側)が、夢幻空間(向こう側)への通路になっていることが度々ある。
なので、現実空間の「はずれ」は、夢幻空間へ通じる「境界線」と位置付けることができる。
現実空間の「はずれ」が境界を通り越して、夢幻空間のなかにずれ込む。
目に見えないものの境界は、そのようにあいまいである。
これらのことから「尽頭子」は、現実空間と夢幻空間の境目にいる人のことであると理解した。
「尽頭子」に、「境界線上の者」というイメージを抱いて、この小説を読み進めた。
ところで、先述したなりゆきとは、他人の妾を世話された男(私)が女に会いに行き、座敷に上がりこんで食事をしているときに女の旦那(先生)が帰宅し、女が機転を働かせて、弟子入り希望の人だと先生に男を紹介したこと。
そういうなりゆきで、「私」は先生の弟子になってしまう。
この時点で、「私」は、先生がどんな仕事をしている人物なのかをまだ知らない。
「尽頭子」を「境界線上の者」と解釈すれば、思い当たるふしがいくつかある。
「私」が、「人の一人も通っていない変な道を、随分長い間歩いて」女の住まいである「二階建ての四軒長屋の左から二軒目の家」にたどり着いたとき、「私」は「左が北だということ丈は、どういうわけだか、ちゃんと知れていた。」と感じる。
一般に動物の方向感覚は人間よりも優れている。
動物は地磁気に対して敏感であるとされているので、移動中に北の方向を知ることは可能であるだろう。
さらに、「私」が「広い座敷の真中に坐っているのが、どうも気に掛かって、なんだか落ちつかない」と感じているのは、動物は無防備になる真中よりも、壁際とかの隅に居る方が安心するからではないだろうか。
とすれば、「私」の正体は、異種(動物)と人間との「境界線上の者」なのではあるまいか。
先生は、「私」を一目見るなり、その正体を見破って「尽頭子」という「号」をつけたのかも知れない。
なぜなら、先生は「境界の向こう側の者(馬)」であると思われるから。
作者は、先生と先生の弟を、馬に似た長い顔の持ち主として、暗にそれを示している。
先生の妾も、狐のしぐさをする女、すなわち「境界の向こう側の者(狐)」であることを暗に示しているとブログ管理人は感じている。
さて小説「尽頭子」で読者諸兄が、謎の言葉として話題に上げている「皿鉢小鉢てんりしんり」という女の台詞がある。
これは、妾の旦那の帰宅でうろたえている「私」を、女が落ち着かせるために言った台詞である。
「皿鉢小鉢てんりしんり、慌ててはいけません。私がいいようにして上げますから落ちついているといいわ」内田百閒の短篇小説「ゆうべの雲」にも狐らしき女が登場する。
小説の中で女は「大藪(おおやぶ)小藪(こやぶ)」の童歌の話をするのだが、「皿鉢小鉢てんりしんり」は「ゆうべの雲」のこのシーンを連想させる。
「皿鉢小鉢てんりしんり」は地方の童歌だろうかとネットで検索したが、見当たらない。
ピンチにあったときのおまじないでもないようである。
このオノマトペのような「てんりしんり」を漢字で書けば、その第一候補は「天理真理」であろう。
「天理真理」は、「自然の道理は真実である」という意味合いの四文字熟語として成立可能である。
「現実空間と夢幻空間の境界があいまいなのは、自然の道理であって、それは現実空間にとっても夢幻空間にとっても真実である」と、狐女は「私」に唱えたのかもしれない。
「てんりしんり」の前の文句である「皿鉢小鉢」はどうであろうか。
「皿鉢」は、形が皿と鉢の中間にあるような食器。
皿のような鉢、あるいな鉢のような皿。
その境界は、あいまいである。
だが、ふたつを並べて比較すれば、判別は容易。
「皿鉢」と「小鉢」も、並べて比べれば、その違いは明瞭。
「皿鉢小鉢てんりしんり」は、「物事の境界があいまいであるのは真実であるが、比較すればその違いは明瞭である」という意味合いの「お囃子」のようなものであるのか。
このタイミングで狐女がそう唱えるのは、物語の進行順序に沿っていないような気がする。
「皿鉢小鉢てんりしんり」が物語のテーマであるにしろ、物語を覆うムードであるにしろ、登場が早急すぎると思う。
しかし、物語は、狐女を軸に展開していると読むこともできる。
そうであれば、「皿鉢小鉢てんりしんり」の登場に、創作上の制限はないであろう。
ブログ管理人はトーシロながら、そう感じた次第である。
これも「尽頭子」を「境界線上の者」と理解した上でのハナシなのだが。
さて、もう少し、小説を読み進めよう。
「私」が、「家の中の様子が変に陰気で、薄気味がわるい」から帰りたいと女に告げたら、女は「私」をなだめながら「貴方は私を忘れてはいないでしょうね」と言う。
この言葉を聞いた「私」は、「そう云われて見ると、昔、この女にかかわり合いのあった様な気もするけれど、なんだか解らない」と思う。
ここでも作者は読者に対して、「私」が狐女とつながりのある「境界線上の者」であることを暗に示している。
「私」の記憶があいまいなのは、現実空間と夢幻空間の境目があいまいなせいである。
先生が仕事に出かける段になって、ようやく「私」は女から、先生が馬にお灸を据える先生であると知らされる。
そして「私」と先生と先生の弟の三人は連れ立って、「雨天体操場」のような巨大な厩舎に向かう。
以下の文章で小説「尽頭子」は閉じられている。
すると暗闇の中にいる馬の大きな目が、さっきの通りに光りを帯びて、爛爛と輝き渡ると同時に、その時馬の間に起っていた先生の弟の姿が、燃え立っている馬の目の光りで、暗闇の中にありありと浮かび出た。その顔を一目見たら、私は夢中になって悲鳴をあげた。いきなり提灯を投げすてたまま、知らない道を何処までも逃げ走った。もう女どころではなかった。先生の弟は馬の顔だった。
このシーンで、ようやく「私」は、先生の弟と馬を比べることが出来たのである。
先生の弟の顔は,厩舎に居並ぶ馬と同一である。
あるいは、夢幻空間のなかで同一に変化したのか。
「私」が、現実空間の「はずれ」からずれ込んで夢幻空間に迷い込んだのだと、読者も知ることになるであろう。
異種との「境界線上の者」である「尽頭子」は、「知らない道を何処までも逃げ走った」のだが、はたして「私」は「知っている道」に戻ることが出来るのだろうか。
異種の哀愁譚とも読める「尽頭子」は、この小説の三カ月前に発表された小説「件」を連想させる。
「尽頭子」の異種ぶりは、「件」ほど明瞭ではないが。
色文字部分:小説「尽頭子」からの抜粋
参考文献
尽頭:「盡頭」「盡處」考―如何にして明治・大正期の小説に用いられるようになったのか
富田 美乃里著
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「尽頭子」
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「ゆうべの雲」
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「件」