長谷川伸の「相馬大作と津軽頼母」を読んだ感想
ノンフィクション小説
この前読んだ海音寺潮五郎の「檜山騒動」は興味深い読物だった。それで、他の作家の「相馬大作事件」を扱ったものを読んでみたくなった。
すると、長谷川伸に「相馬大作と津軽頼母(つがる たのも)」という「ノンフィクション小説(長谷川伸命名)」があるのを見つけた。
徳間文庫の裏表紙には、「広汎な史料に拠って」という宣伝文句が記されている。
その宣伝文句につられて、古本を購入した(徳間文庫版は絶版)。
小説本文は文庫本403ページの長編だが、面白くて一気に読めた。
参勤交代の帰路にあった弘前藩主・津軽寧親(つがる やすちか)を、大館近くの白沢村岩抜山で襲撃しようとした相馬大作の動機。
未遂に終わった後の行動。
そして弘前藩・盛岡藩それぞれの反応が事細かに描かれている。
三人の鍛冶職人
海音寺潮五郎の「檜山騒動」では、盛岡藩領福岡(現岩手県二戸市)出身の下斗米秀之進(別名・相馬大作)が武術や学問に長けた武士であるとしている。北方からのロシアの侵略に対する防衛が日本国の緊急の課題であるとする国防論者であり、盛岡藩(南部藩)の主君にたいして篤い忠義心を持った人物であるとも描かれている。
それは、長谷川伸の作も同様である。
だが、「檜山騒動」が生え抜きのエリートである相馬大作に重点を置いて描いているのに対して、長谷川伸は、生活者である鍛冶職人の三人を丁寧に描いている。
鍛冶職人周辺の家族や親戚の姿も、活き活きと描かれており、小説の世界に親しみが持てるような仕上がりになっている。
この鍛冶職人の三人は、ほとんどの「相馬大作物」では、相馬大作の企みを弘前藩に「密告」した「裏切り者」であるとして悪人扱いされているらしい。
「檜山騒動」においても、そのように描かれていた。
鍛冶職人の三人とは、刀鍛冶である大吉(佐々木四郎五郎万歳安国)と嘉兵衛(小島喜七信一)、大吉の弟子である徳兵衛(菊池徳兵衛)である。
なお、大吉の見習いである庄次という16歳の少年も、陰ながら大吉を支える存在として魅力的に描かれている。
彼らは、生活のための収入を得る目的で、相馬大作の実家がある南部福岡に、たまたま滞在することになる。
そこで大吉は相馬大作に鍛冶の腕を見込まれ、接触を重ねるうちに、弘前(津軽)藩主襲撃計画に巻き込まれていく。
特に、大吉と徳兵衛は、相馬大作に巧みに利用されたようにも思える。
盛岡藩の領民ではない大吉にとって、襲撃の企みは恐ろしいものだった。
そんな大それた行いは成功するはずがないと懸念し、その一味に加わったら、自分は死罪になるであろうと大吉は確信する。
そのことを弟子の徳兵衛に相談して、自身の身を守るために、弘前藩に「注進」することを決心する。
大吉は、「注進」の役を、大作からは離れた地(三戸)に住む嘉兵衛に頼んだ。
これが、世間一般に流布している「密告」のイメージとは異なる「真相」であったと長谷川伸は記している。
相馬大作は大吉に刀や短刀や鉄砲の弾丸などを作らせたが、その代金を支払っていない。
それも、徳兵衛には気に入らないところだったが、同時に徳兵衛は大作にシンパシーを感じてもいた。
相馬大作が持っているカリスマ性に惹かれたのである。
そういうこともあって、徳兵衛は、襲撃を予定していた岩抜山まで大作一味に同行し、襲撃武器の運搬・撤去も手伝ったのであった。
さらに作者は作中で、「下斗米大作実伝(大正11年・下斗米与八郎・編)」、「忠孝節義相馬大作(明治25年・亀井栄)」、「下斗米将真伝(江戸時代・藤田東湖)」、「相馬大作伝(芳野金陵)」等々から「小説・芝居・映画・講談・浪曲までことごとく津軽側を被告とした原告で、原被両告を抱容したものが今までにない。この小説は原被両告の真中にいるもので史実と小説を両立させんとする性質をそのためにももつものだ」と作家の立場を明確に述べている。
ウェキペディアには、本名が津軽模宏(つがる のりひろ)で「『津軽十万石に過ぎたる名家老、天下の三大家老』と言われた」とある。
本作では、津軽頼母は、藩主襲撃計画の報告を受けて、血気にはやる藩士を抑え、藩主津軽寧親が逗留している横手へ馬を走らせる。
既定ルートの強行突破を主張する寧親を説得して、海防検分を理由に 、西浜通行を提案。
寧親一行は、秋田領の能代通りを大間越えして無事弘前に帰り着いた。
こうして襲撃計画を未遂に終わらせ、計画が実行されれば勃発するかも知れなかった弘前藩と盛岡藩の衝突を防いだのである。
相馬大作は、計画が破綻した後、家族と門弟数名を連れて盛岡を離れ、江戸で道場を開く。
しかし、弘前藩の御用人である笠原八郎兵衛の画策で、幕府役人によって捕縛されてしまう。
作者は、笠原八郎兵衛に対して批判的である。
笠原八郎兵衛の暗躍は「まことをかけはなれた目的に終始した」とし、「この古い型の政治手腕は雲りつ濁りつを免れなかった」としている。
相馬大作に同情的な幕府要人や江戸市民が多い中で、笠原八郎兵衛は大作の死刑促進のために賄賂などを用いて画策したことが描かれている。
津軽頼母は、相馬大作の死刑には反対だった。
武術と学問に優れ、指導力もあり、国際情勢にも詳しいこの人物は、蝦夷地でロシアからの侵略を防衛する任に当たらせるべきと考えたのである。
主従の義よりも日本の義を訴えたという。
しかし、弘前にいた津軽頼母の声は江戸まで届かなかった。
おそらく、江戸にいる笠原八郎兵衛が頼母の声を遮ったのであろう。
こうして、相馬大作と門弟の関良助は処刑された。
どこまでが「ノンフィクション」で、どこまでが「小説(推察)」なのか、史実に疎いブログ管理人には不明である。
しかし、この小説で作者は、ふたつの「義」について描いていることは確かである。
相馬大作の盛岡藩やその藩主である南部利敬に対する「義」が弘前藩主の襲撃を企てさせた。
一方、庶民である鍛冶職人の師匠や家族に対する「義」が、自らの生活防衛のために、弘前藩に「注進」させているのである。
はたして、どちらの「義」が尊いのだろうか。
相馬大作も津軽頼母も、北方の危機から日本(主君・天子様)を戌(まも)らねばならぬという「義」は一致している。
そして、彼らが志した北方出兵の陰で、多くの農民が寒地の病に倒れ、命を落としていったことも、忘れてはならない。
読者は、「英雄」でも「罪人」でも「密告者」でもなく、多様な人々が抱えていた「武家社会という時代の構造」に目を向けることになる。
物語の終わりに、長谷川伸はこう述べている。
「実に藤田東湖の『下斗米将真伝』を編みたるは士道振起という目標があってのことであった。
それとは違い、これはありしがままに事実を語り継ぐために編まれたノンフィクション小説であった」
「みちのく忠臣蔵」などと祭り上げ、主君への「武士の義」に喝采した世間の熱狂に対し、長谷川伸は沈黙のうちに距離をとっている。
それこそが、この作品に込められた、生活者の「義」への秘かな「敬意」であったのだと、ブログ管理人は感じている。
彼らは、生活のための収入を得る目的で、相馬大作の実家がある南部福岡に、たまたま滞在することになる。
そこで大吉は相馬大作に鍛冶の腕を見込まれ、接触を重ねるうちに、弘前(津軽)藩主襲撃計画に巻き込まれていく。
特に、大吉と徳兵衛は、相馬大作に巧みに利用されたようにも思える。
津軽藩主襲撃計画を注進
まずはじめに計画を知らされたのは大吉だった。盛岡藩の領民ではない大吉にとって、襲撃の企みは恐ろしいものだった。
そんな大それた行いは成功するはずがないと懸念し、その一味に加わったら、自分は死罪になるであろうと大吉は確信する。
そのことを弟子の徳兵衛に相談して、自身の身を守るために、弘前藩に「注進」することを決心する。
大吉は、「注進」の役を、大作からは離れた地(三戸)に住む嘉兵衛に頼んだ。
これが、世間一般に流布している「密告」のイメージとは異なる「真相」であったと長谷川伸は記している。
相馬大作は大吉に刀や短刀や鉄砲の弾丸などを作らせたが、その代金を支払っていない。
それも、徳兵衛には気に入らないところだったが、同時に徳兵衛は大作にシンパシーを感じてもいた。
相馬大作が持っているカリスマ性に惹かれたのである。
そういうこともあって、徳兵衛は、襲撃を予定していた岩抜山まで大作一味に同行し、襲撃武器の運搬・撤去も手伝ったのであった。
作家の動機
そもそも「股旅物」の作者として知られた長谷川伸が相馬大作の小説を書くきっかけになったのは、この徳兵衛の子孫から、「祖先の冤(えん)をそそいでくれるとも、いやだと断るとも、自由にどうぞ」と家に伝わる文書一切を預けられたことによると小説の後記に記している。さらに作者は作中で、「下斗米大作実伝(大正11年・下斗米与八郎・編)」、「忠孝節義相馬大作(明治25年・亀井栄)」、「下斗米将真伝(江戸時代・藤田東湖)」、「相馬大作伝(芳野金陵)」等々から「小説・芝居・映画・講談・浪曲までことごとく津軽側を被告とした原告で、原被両告を抱容したものが今までにない。この小説は原被両告の真中にいるもので史実と小説を両立させんとする性質をそのためにももつものだ」と作家の立場を明確に述べている。
津軽頼母とは
さて、小説のタイトルに名があがっている津軽頼母とはいかなる人物か。ウェキペディアには、本名が津軽模宏(つがる のりひろ)で「『津軽十万石に過ぎたる名家老、天下の三大家老』と言われた」とある。
本作では、津軽頼母は、藩主襲撃計画の報告を受けて、血気にはやる藩士を抑え、藩主津軽寧親が逗留している横手へ馬を走らせる。
既定ルートの強行突破を主張する寧親を説得して、海防検分を理由に 、西浜通行を提案。
寧親一行は、秋田領の能代通りを大間越えして無事弘前に帰り着いた。
こうして襲撃計画を未遂に終わらせ、計画が実行されれば勃発するかも知れなかった弘前藩と盛岡藩の衝突を防いだのである。
相馬大作は、計画が破綻した後、家族と門弟数名を連れて盛岡を離れ、江戸で道場を開く。
しかし、弘前藩の御用人である笠原八郎兵衛の画策で、幕府役人によって捕縛されてしまう。
津軽頼母と笠原八郎兵衛の対立
小説の最終部は、相馬大作の処分を巡る津軽頼母と笠原八郎兵衛との対立劇が描かれている。作者は、笠原八郎兵衛に対して批判的である。
笠原八郎兵衛の暗躍は「まことをかけはなれた目的に終始した」とし、「この古い型の政治手腕は雲りつ濁りつを免れなかった」としている。
相馬大作に同情的な幕府要人や江戸市民が多い中で、笠原八郎兵衛は大作の死刑促進のために賄賂などを用いて画策したことが描かれている。
津軽頼母は、相馬大作の死刑には反対だった。
武術と学問に優れ、指導力もあり、国際情勢にも詳しいこの人物は、蝦夷地でロシアからの侵略を防衛する任に当たらせるべきと考えたのである。
主従の義よりも日本の義を訴えたという。
しかし、弘前にいた津軽頼母の声は江戸まで届かなかった。
おそらく、江戸にいる笠原八郎兵衛が頼母の声を遮ったのであろう。
こうして、相馬大作と門弟の関良助は処刑された。
江戸での驕奢な暮らしぶりや、幕閣
への賄賂で江戸市民から憎まれていた弘前藩は、ますますその風潮を広げたという。
藩主にお気に入りの笠原八郎兵衛は、派手な生活を好む寧親に迎合して、弘前藩の財政を不健全化させたのだった。
ふたつの義
「相馬大作と津軽頼母」は「ノンフィクション小説」と銘打たれている。どこまでが「ノンフィクション」で、どこまでが「小説(推察)」なのか、史実に疎いブログ管理人には不明である。
しかし、この小説で作者は、ふたつの「義」について描いていることは確かである。
相馬大作の盛岡藩やその藩主である南部利敬に対する「義」が弘前藩主の襲撃を企てさせた。
一方、庶民である鍛冶職人の師匠や家族に対する「義」が、自らの生活防衛のために、弘前藩に「注進」させているのである。
はたして、どちらの「義」が尊いのだろうか。
相馬大作も津軽頼母も、北方の危機から日本(主君・天子様)を戌(まも)らねばならぬという「義」は一致している。
そして、彼らが志した北方出兵の陰で、多くの農民が寒地の病に倒れ、命を落としていったことも、忘れてはならない。
「みちのく忠臣蔵」の熱狂
この小説には、事件の首謀者や事件の周辺にいて事件に巻き込まれた「士農工商」の生活者達が、それぞれの立場で自問し、悩み、決断していく様子が描かれている。読者は、「英雄」でも「罪人」でも「密告者」でもなく、多様な人々が抱えていた「武家社会という時代の構造」に目を向けることになる。
物語の終わりに、長谷川伸はこう述べている。
「実に藤田東湖の『下斗米将真伝』を編みたるは士道振起という目標があってのことであった。
それとは違い、これはありしがままに事実を語り継ぐために編まれたノンフィクション小説であった」
「みちのく忠臣蔵」などと祭り上げ、主君への「武士の義」に喝采した世間の熱狂に対し、長谷川伸は沈黙のうちに距離をとっている。
それこそが、この作品に込められた、生活者の「義」への秘かな「敬意」であったのだと、ブログ管理人は感じている。