内田百閒の随筆「琥珀」を読んだ感想
琥珀。 |
「琥珀」という随筆を読んでみた。
内田百閒は、小説も面白いが随筆も面白い。
そういう評判なので、読んでみようと思ったのだ。
百閒の場合、小説と随筆の区分けが、あまり明白に感じられないものもある。
以前、「梟林記」を小説だと思って読んだ。
ところが、「梟林記」は「百鬼園随筆」の「七草雑炊」という項目に収録されている。
なので、随筆だったのかもしれない。
内田百閒の作品には、主人公が「私」で始まるものが多い。
その「私」が、いかなる「私」であるのか。
内田百閒本人なのか、それとも創作上の「私」なのか。
随筆とは、作者の実体験が元となっているノンフィクションである。
そう言われているから「私」が内田百閒なら随筆ということになる。
だが、前半随筆っぽくて、後半小説っぽいというのもあるので油断できない。
たとえば、以前読んだ「鵯(ひよどり)」がその例である。
そういう「内田百閒ワールド」を体験すると、随筆と小説の境界線を行き来するような感覚に陥る。
その感覚が面白いので、ジャンル分けの詮索は、無意味に思えてしまう。
さて「琥珀」は次の文章で始まる。
「琥珀は松樹の脂が地中に埋もれて、何萬年かの後に石になったものである、と云ふ事を學校で教はって、私は家に帰って來た」
これは作者が、琥珀がどのようにして出来上がるのかを読者に説明しているのである。
その後、作者の幼少の頃の稼業についての説明が始まる。
「家はその當時、造り酒屋だったので、酒を樽に詰めて、遠方に積み出す時、樽の隙目から酒が漏らない様に、吞口や鏡のまはりを流して固める松脂のかたまりが、いつでも倉の隅にころがってゐた」
さて「琥珀」は次の文章で始まる。
「琥珀は松樹の脂が地中に埋もれて、何萬年かの後に石になったものである、と云ふ事を學校で教はって、私は家に帰って來た」
これは作者が、琥珀がどのようにして出来上がるのかを読者に説明しているのである。
その後、作者の幼少の頃の稼業についての説明が始まる。
「家はその當時、造り酒屋だったので、酒を樽に詰めて、遠方に積み出す時、樽の隙目から酒が漏らない様に、吞口や鏡のまはりを流して固める松脂のかたまりが、いつでも倉の隅にころがってゐた」
これらは、作者が用意した読者のための「伏線」であり「資料」なのだ。
これらの文章から読者は、次に何が起こるかを自分なりに想像できるようになる。
読者自身が小説を思い描くのである。
好奇心の強い内田栄造少年なら、製作方法と材料がそろっていれば、琥珀の試作に取り掛かることは目に見えている。
と読者は思い描くことだろう。
そして、読者自身が描いた小説と、随筆に書かれている出来事がほぼ一致する。
そのことに、読者は満足するのである。
自身が土中に埋めた原材料が、三万年後に琥珀として完成することを夢見て、栄造少年は期待に胸を膨らませる。
だがこれは、夢(小説)の世界である。
現実(随筆)の世界では、読者の期待は、見事に裏切られる。
気紛れで飽きやすく、短気だった栄造少年は、一晩眠った次の日の夕方に、松脂を埋めた場所を掘り返してしまうのだ。
三万年という気の遠くなるような年月と、それに比べて一瞬のような自分の一生を、少年なりに儚く思ったのかもしれない。
いくら「氣がかりで、不安で、待遠しくて」も、三万年を一瞬に縮めることはできない。
少年は取り出した固まりを部屋に持ち帰って眺めたが、松脂くさいので、ちり紙につつんで屑籠の中に捨ててしまう。
適わぬ夢を現実に持ち帰り、現実的な処理をしたのである。
こうして小説の世界に滑り込んだ読者の夢が、小説から抜け出して、作者の随筆の世界に戻る。
いっとき読者は、栄造少年を体験し、三万年の時間を非体験して日常にもどるのである。
内田百閒の少年時代に想いを馳せて、読者が少年と共有した「体験と非体験」の夢世界。
それが随筆「琥珀」の魅力なのかもしれない
※「赤字」部分は内田百閒「琥珀」からの引用