2016/11/25

凡兆の詩のテーマ「灰捨てて白梅うるむ垣根かな」

炭を焚いて出た灰や、薪を燃やして出た灰は、木灰(きばい・もっかい)といって農作物の肥料になる。
私が子どもの頃、津軽地方の実家では冬期に薪ストーブを使っていた。
一日中、薪を燃やしていると、夕方ごろにはブリキのストーブの底にたくさんの灰がたまった。
その灰を、肥料になるからと、雪の積もった畑の上に撒く。
風の吹いているときは、灰が舞ってズボンに付いたり。
粒子の細かい灰が、繊維の隙間に潜り込んで払い落すのに苦労した経験がある。

灰捨てて白梅うるむ垣根かな
野沢凡兆

最初この句に出会ったとき、どういう図柄なのだろうと「?マーク」に頭を支配されたのだった。
白梅の垣根に灰を捨てたので、飛び散った灰のため「白梅」の花がぼんやりとしてしまった、のか?
「うるむ」とは、色つやが薄れるとか鮮やかでなくなるとか物の輪郭がぼやけるとかの意。
美しい「白梅」が、灰を被ってしまって、美しくなくなったというイメージか?
だが、「白梅」の垣根?ってどういう垣根なのだろう?

肥料として灰を垣根の根元に捨てたら、垣根の側に立っている「白梅」の花が灰まみれになって、鮮やかさが消えてしまった。
気を利かしたつもりでも、それが仇になってしまうこともあるという教訓俳諧?。

垣根の根元に灰を捨てたら、灰が風で舞い上がって、垣根の枝のところどころを白く染めた。
それは、垣根の枝から、「白梅」がぼんやりとにじみ出ているように見える。
灰を捨てたら「白梅」がにじみ出てきた垣根であるなあ、というイメージ。
まるで花咲か爺さんのようで、こういうイメージなのかもしれない。

垣根というのは、暮らしに密着したもので、ほとんどが観賞に値しないものが多い。
所有地を仕切る囲いである。
その囲いが、偶然、「白梅」に化けた。
燃えカスとしての灰と、観賞に値しない垣根が合体して、人々にちやほやされる「白梅」を現出させたのだ。
花咲か爺さんは、逆転の発想。
ここにも観賞すべき「白梅」があったという発見。
こんな発想と発見もまた、凡兆の魅力である。

ところで、この句に登場する「灰」とはどんな「灰」か。
灰汁桶の底にたまった残りカスだったのだろうか。
とすれば、生活の残りカスで描かれた幻の白梅ということになる。
灰汁桶の残りカスの方が、粒となって垣根の枝につくから、粉状の灰よりも「白梅」を連想しやすい。

古来より風雅の代表的な題材として詠われてきた「白梅」。
万葉集には、梅の花が、雪が降ったのかと見まがうほどに咲いているという和歌があった。
「白梅」の清らかなイメージは、天から降ってくる白い雪に例えられることが多いのかもしれない。

それを凡兆は、地に捨てられた灰を「白梅」に例えたのである。
日本に、古来から伝わる美意識に反して。
「灰」や「捨舟」「錆びた剃刀」「倒れる案山子」
滅んでいくものや廃れたものも、凡兆の詩の、ひとつのテーマであったのだろう。

灰捨てて白梅うるむ垣根かな

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