2017/09/28

吹き飛ばす石は浅間の野分哉

芭蕉は「笈の小文」の旅からの帰りに京都に立ち寄っている。
「卯月廿三日、京へ入る。」と「芭蕉年譜大成(今榮藏)」にある。
京都逗留中、歌舞伎見物などをして、五月十日前後に京都を出発。
この京都滞在中に、芭蕉は野沢凡兆と初めて会っている。
五月中旬頃岐阜に至り、五月末には大津へ戻った。
大津で歌仙を巻いたりして過ごし、六月六日に大津を出発。
六月八日に、また岐阜に舞い戻っている。

この岐阜滞在中に、有名な「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」の発句を詠んでいる。
七月三日には、「尾張広井村村八間屋敷の円頓寺に在り」とあるので、名古屋に出かけたようである。
八月上旬に、名古屋在住の越智越人を伴って岐阜に移る。
八月十一日に、「信州更科に仲秋の名月を賞すべく、越人同伴で岐阜を発つ」
「更科紀行」の旅に出かけたのである。

「笈の小文」の到達地点は兵庫の明石
そこから江戸帰着までの芭蕉の足取りを、「芭蕉年譜大成」の記述から箇条書きにしてみた。
  • 四月二十一日:兵庫を出、京に向かう。
  • 四月二十三日:京に入る。
  • 五月十日前後:京を出る。
  • 五月中旬:岐阜に至る。
  • 五月末:岐阜より引き返して大津に在。
  • 六月六日:大津を出る。
  • 六月八日:岐阜に至る。
  • 七月三日:名古屋在。
  • 八月上旬:岐阜に移る。
  • 八月十一日:「更科紀行」の旅のため、岐阜を発つ。
  • 八月中旬:木曾街道に入り、寝覚の床・木曾の桟橋・猿が馬場・立ち峠などを経過。
  • 八月十五日:夜、更科の里に到着。
  • 八月下旬:江戸帰着。
江戸の其角亭での送別会で「旅人と我が名よばれん初しぐれ」と吟じ、貞享四年十月二十五日に江戸を発足してから、貞享五年(元禄元年)八月下旬江戸帰着までの長い旅。
芭蕉はこのとき四十五歳、「一所不在」の旅人であった。
「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、・・・」
「更科紀行」の書き出しの文章である。
「更科の里、姨捨山の月を見ることを、繰り返し促す秋風が心の中に吹き騒いで」芭蕉は越智越人を伴って信州への旅に出る。

吹き飛ばす石は浅間の野分哉
松尾芭蕉

「更科紀行」に載っている句のなかで、私が一番好きな句が掲句である。
好きな理由は、何よりも平明であること。
句の調子に躍動感があること。
イメージが雄大であること。

句の「浅間」とは、標高2568メートルの浅間山のこと。
安山岩質の成層火山である。
成層火山と言えば、青森県の最高峰岩木山(標高1625メートル)も安山岩質の成層火山。
だが、写真で見ると浅間山は、緑に囲まれた岩木山とは山容が大きく異る。
群馬県側から望むと、崖や古い土石なだれの堆積物が露出していて、山容が荒々しい。
爆発性の噴火を繰り返していたことを物語っている山容である。

浅間山の麓には、噴火による降下火砕物である軽石が降り積もっている。
そのなかの小粒な軽石が、台風などの強烈な風に煽られて粉塵のように舞い飛ぶことがあったかもしれない。
「野分」とは台風や秋の暴風のこと。
芭蕉は信濃善光寺から中山道を通って江戸へ向かっている。
中山道の難所である碓氷峠の手前の「軽井沢宿」あたりで、浅間山を眺めたのであろう。
山麓の里では強風が吹くと軽石が飛ぶという話を地元の人から聞いていたのかもしれない。
芭蕉が浅間山麓を通ったのは、八月の中旬から下旬にかけてである。
旧暦のその時期に、台風が信州近辺に上陸していたということもありうる。
芭蕉が、「野分」によって軽石が吹き飛ぶ様子を目撃していたことも考えられる。

石が風に吹き飛ぶ様子は、浅間山の噴火を連想させる。
過去の火山の噴火が、目前の石を吹き飛ばしている。
そんな「野分」であるなあと、芭蕉は感じていたことだろう

強風に舞い上がり、吹き飛んでいく石に、芭蕉は浅間山の時間の流れを感じたのではないだろうか。
「浅間」とは、浅間山のことであり、火山の噴火のことであり、ひょっとしたら火山に対する山岳信仰のことかもしれない。
芭蕉は、「浅間」という言葉にいろいろな意味を含めた。
そう考えると、「野分」という風の流れは、時の流れのようにも感じられる。

芭蕉は、噴煙を上げている浅間山に、かつては表現したことのない「自然」を感じていたのではないだろうか。
花鳥風月とは違う、自然の有様。
短歌的な抒情では表現できない「自然」。
観月の名所姨捨山で月を見た芭蕉だったが、それは古典のなかの「自然」。
芭蕉が浅間山で見たのは、はるか古典をも通り越した「始源」とも言える「自然」ではなかったろうか。
太古の営みを今に感じさせる火山の「自然」である。
それが、「更科紀行」の発句のなかで、唯一掲句が異彩を放っている理由であると私は感じている。

このあと芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で、江戸深川や京都で接していた花鳥風月とは別の自然に出会っていく。
その出会いのなかで、たくさんのダイナミックな句を残している。
その代表的な句が「雲の峰幾つ崩れて月の山」とか「五月雨をあつめて早し最上川」とか「暑き日を海にいれたり最上川」とか「荒海や佐渡に横たふ天の河」である。

貞享三年の春に「古池や蛙飛び込む水の音」で、古典とは違う季節感を詠った芭蕉。
貞享四年十月から、元禄元年八月までの長い「笈の小文」行脚。
その長い旅の最後に、芭蕉は浅間山という火山を目の当たりにする。
噴煙を吹き上げている荒々しい山容の「浅間」が芭蕉の感性に何らかの影響を与えたことは充分考えられる。
「更科紀行」の最後尾で異彩を放っている「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」がそれを示している。
実際の旅は貞享四年十月から始まっているのだが、句のうえでは「古池や蛙飛び込む水の音」からこの旅が始まっているような気がする。
そうやって「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」に辿り着いた長い旅の行程は、芭蕉の詩作の行程であったように私は感じている。

「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」
この句を詠んで、芭蕉は意気揚々と江戸への帰路に着いた。
芭蕉の心のなかでは、すでに新しい旅が始まっていたことだろう。

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