梅一輪いちりんほどの暖かさ
冬の終わり頃から早春にかけて話題にされる句である。
「冬→寒い→嫌だ→早く春になってほしい」という心情。
「春→暖かい→快適→春が待ち遠しい」という心情。
この句が話題に登るのは、そういう一般的な心情が背景にあるからだと私は思っている。
とすれば、この句は一般的な心情を表している句ということになる。
そういう面で、人口に膾炙(かいしゃ)する句となっているのだろう。
冬の終わりごろには、格言のようにもてはやされている。
コマーシャルの世界では、春の訪れを待ち焦がれるキャッチコピーのように利用されている。
俳諧の題材は日本の四季を取り上げているものが多い。
それぞれの季節の美しさや厳しさがテーマとなっているもの。
季節と人の暮らしとの関わりがテーマになっているもの。
自身の感情を、季節に関連付けているもの。
様々なテーマが詠われているが、その根底には自然に対する深い畏怖の念があると思う。
俳諧師にとっては、厳冬の季節に対する畏怖の念はあっても、「冬が嫌い」などという言動は禁句なのではあるまいか。
本音はともかくとして、四季に対しては悪感(あっかん)を抱かない。
それが、日本の四季を愛する俳諧師の建前となっているのではないだろうか。
梅一輪いちりんほどの暖かさ
服部嵐雪
服部嵐雪と言えば、「梅一輪」の句と言われほど有名な句である。
前述した通り、「一輪の梅の開花に温もりを感じて、暖かい春を待ち焦がれる。」という「解釈」が多くなされている。
一般的な心情を背景にして成り立っている「解釈」である。
「梅の花が一輪咲くごとに暖かい春が近づいて来るんだよ。」という希望的な「解釈」。
だが日本の俳諧師に「冬来たりなば春遠からず」という西洋の詩人の感性は、有り得ようか?
厳冬の美しさも厳しさも、そのまま受け入れようというのが嵐雪という詩人の魂なのではあるまいか。
「嵐雪」という俳号にそれが表れているような気がするのだ。
ところで、梅は桜の前に咲く花。
でも、桜のように一斉にひとかたまりでは咲かない。
梅の花は控えめで、ひとつの枝でぽつっぽつっと一輪ずつ蕾を開いていく。
その様子が「梅一輪いちりん」なのだろう。
それを眺めながら嵐雪は、暖かい春を待ち焦がれたのだろうか?
早咲きの梅は2月頃に、咲くという。
嵐雪は、まだ冬の名残が強い寒気のなかで、梅の花を咲かせる「暖かさ」に驚いたのだろう。
人間にとってはこんなに寒いのに、梅にとっては一輪の花を咲かせるだけ暖かいのだと感じたのだろう。
梅の花を一輪咲かせるのには、その程度の暖かさで充分なのだと思い知ったのかもしれない。
そして、梅一輪ほどの「暖かさ」を梅と一緒に自らも感じようとこの句を作ったのではあるまいか。
その時々の自然をそのまま淡々と受け入れることが、嵐雪の叙景であると私は思っている。
それは、映画のワンシーンのような叙景「名月や煙はひ行く水の上」でもうかがい知ることができる。
「木枯らしの吹き行く」方角へ旅立っていく主人公(芭蕉)の姿を映像としてとらえたような「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」にも、その「叙景志向」が現れているように思う。
「冬→寒い→嫌だ→早く春になってほしい」という心情。
「春→暖かい→快適→春が待ち遠しい」という心情。
この句が話題に登るのは、そういう一般的な心情が背景にあるからだと私は思っている。
とすれば、この句は一般的な心情を表している句ということになる。
そういう面で、人口に膾炙(かいしゃ)する句となっているのだろう。
冬の終わりごろには、格言のようにもてはやされている。
コマーシャルの世界では、春の訪れを待ち焦がれるキャッチコピーのように利用されている。
俳諧の題材は日本の四季を取り上げているものが多い。
それぞれの季節の美しさや厳しさがテーマとなっているもの。
季節と人の暮らしとの関わりがテーマになっているもの。
自身の感情を、季節に関連付けているもの。
様々なテーマが詠われているが、その根底には自然に対する深い畏怖の念があると思う。
俳諧師にとっては、厳冬の季節に対する畏怖の念はあっても、「冬が嫌い」などという言動は禁句なのではあるまいか。
本音はともかくとして、四季に対しては悪感(あっかん)を抱かない。
それが、日本の四季を愛する俳諧師の建前となっているのではないだろうか。
梅一輪いちりんほどの暖かさ
服部嵐雪
服部嵐雪と言えば、「梅一輪」の句と言われほど有名な句である。
前述した通り、「一輪の梅の開花に温もりを感じて、暖かい春を待ち焦がれる。」という「解釈」が多くなされている。
一般的な心情を背景にして成り立っている「解釈」である。
「梅の花が一輪咲くごとに暖かい春が近づいて来るんだよ。」という希望的な「解釈」。
だが日本の俳諧師に「冬来たりなば春遠からず」という西洋の詩人の感性は、有り得ようか?
厳冬の美しさも厳しさも、そのまま受け入れようというのが嵐雪という詩人の魂なのではあるまいか。
「嵐雪」という俳号にそれが表れているような気がするのだ。
ところで、梅は桜の前に咲く花。
でも、桜のように一斉にひとかたまりでは咲かない。
梅の花は控えめで、ひとつの枝でぽつっぽつっと一輪ずつ蕾を開いていく。
その様子が「梅一輪いちりん」なのだろう。
それを眺めながら嵐雪は、暖かい春を待ち焦がれたのだろうか?
早咲きの梅は2月頃に、咲くという。
嵐雪は、まだ冬の名残が強い寒気のなかで、梅の花を咲かせる「暖かさ」に驚いたのだろう。
人間にとってはこんなに寒いのに、梅にとっては一輪の花を咲かせるだけ暖かいのだと感じたのだろう。
梅の花を一輪咲かせるのには、その程度の暖かさで充分なのだと思い知ったのかもしれない。
そして、梅一輪ほどの「暖かさ」を梅と一緒に自らも感じようとこの句を作ったのではあるまいか。
その時々の自然をそのまま淡々と受け入れることが、嵐雪の叙景であると私は思っている。
それは、映画のワンシーンのような叙景「名月や煙はひ行く水の上」でもうかがい知ることができる。
「木枯らしの吹き行く」方角へ旅立っていく主人公(芭蕉)の姿を映像としてとらえたような「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」にも、その「叙景志向」が現れているように思う。