2016/12/08

鷲の巣の楠の枯枝に日は入りぬ

句の前書きに、「「越(こし)より飛騨へ行くとて籠(かご)の渡りのあやふきところところ道もなき山路にさまよひて」とある。
「籠の渡り」とは籠渡しのこと。
籠渡しとは、橋を架けることができないほどの険しい谷の両岸の間に綱を渡し、その綱に籠を吊り下げたもの。
当時は、籠に人を乗せたり荷物を入れたりして対岸まで渡していたという。
江戸時代末頃の浮世絵師である歌川広重の「飛騨籠渡図」が、籠渡しの絵(版画)として有名である。
絵を見ると、急流の上にそびえる両岸は、目もくらむばかりの絶壁となっている。

鷲の巣の楠(くす)の枯枝(かれえ)に日は入りぬ
野沢凡兆

「籠渡し」に恐々乗ったり、険しい山道を長く歩いたり。
そういう旅の途中で、凡兆が見た光景を句に詠んだものと思われる。
「日は入りぬ」とあるから、時刻は夕暮近く。
この時刻では、宿がある里にだいぶ近づいていたことだろう。
山麓の山道を里に向かって下りていたのかもしれない。

歩きながら、なにげなく西の空の方を眺めると、大きな立ち枯れのクスノキが虚空に突き立っている。
上の方の枯れ枝には、鷲の巣がかけられてあった。
私の空想では、巣の中に鷲の姿は見えない。
空になった鷲の巣が宙に浮いているような。
その巣のある枯枝を、沈みかかった夕陽が赤く染めている。
そんな光景が思い浮かぶ。
夕陽に染まった山を背に、凡兆はゆっくりと里へ下りて行ったことだろう。

視線が、どんどん遠退いていくようなイメージの句である。
助詞の「の」が、リズミカルに言葉をつないで、視線を運んでいく。
そして句の末尾、完了の助動詞「ぬ」で、視線は空に吸い込まれていく。
「鷲」とか「巣」とか「楠」とか「枯枝」とか、宙に突き出たものが、夕暮の空に吸い込まれていく。
そういう山の風景が、遠近感を伴って、鮮やかに描かれている。

凡兆は、独特の視点で山の中の「もの」に目を向ける。
やがてその「もの」が、夕暮とともに山の中に溶け込んでいく。
他の句にも、「黒木」とか「灰汁桶」「案山子」「剃刀」「捨舟」「灰」「骨柴」など、様々な「もの」が登場する。
日常生活のなかに「もの」を見出す視点が、旅の途中で独特の「もの」を見出して山の風景を描いている。
句を読む者は、思いがけない山の姿に新鮮な感動を覚える。
そして、描かれた風景を、鮮明な映像として思い浮かべるのだ。
感情を盛り込まずに、叙景に徹した詩人凡兆の、俳諧の方法なのではあるまいか。

■野沢凡兆の俳諧のページへ

スポンサーリンク