雑談散歩

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芭蕉の旋律「瓶割るる夜の氷の寝覚め哉」

多くの人たちが若い頃そうだったように、私も音楽を夢中で聴いていた一時期があった。
フォルクローレとかマンボとかタンゴとかの中南米音楽がそれだった。
今にして思えば。年若い頃の特有のこだわりだったのだろう、それぞれの音楽に好きな演奏者がいた。
このジャンルなら、この演奏者でなければならないと思い込んでいたのである。

フォルクローレはウニャ・ラモス。
特に「コンドルはとんで行く」だったら断然ウニャ・ラモス。
アンデスの岩山の上を勇壮に飛んでいるコンドルの姿が目に浮かぶようだった。

マンボは、ペレス・プラード。
あの軽いノリのリズムと、ほんのちょっと哀愁を含んだメロディ。
陽気などんちゃん騒ぎと、騒ぎすぎた後の寂しさ。

そしてタンゴなら、コンチネンタル・タンゴのアルフレッド・ハウゼや、アルゼンチンタンゴのフランシスコ・カナロ。
聴く者の心に迫ってくるリズムとメロディを、彼らは演奏してくれた。
タンゴは、マンボのどんちゃん騒ぎとは別の、世界の広がりを感じさせてくれる音楽だと感じていた。
姿勢を正してザッザッザッと、悲壮な行進を続けるようなリズム。
バイオリンが奏でる、哀愁ただようメロディ。
バンドネオンのドラマチックで鋭いリズム。

ある冬の日に、寒い部屋の中でタンゴを聴いていたら、よりいっそう音楽が心に迫ってきた。
重厚で哀愁をおびたバンドネオンの音色や感傷的なバイオリンの音色が冬の寒さにマッチしているように思えたのだ。
その時から、タンゴは冬に聴くとさらにイイと思うようになったのだった。
キリリと引き締まったものをタンゴの曲から受け取っていた。
同時に、冬に向かっていく躍動感もタンゴの曲から受け取っている。
その思いは、現在でもかわらない。
アルフレッド・ハウゼ楽団のタンゴは今でもYouTubeで聴いている。

どうしてこんなことを書いたのかというと、下記の芭蕉の句を読むとタンゴの旋律を連想してしまうからである。
この句には、読む者の心に迫ってくるリズムとメロディがある。
そう感じている。

(かめ)割るる夜(よる)の氷の寝覚め哉
松尾芭蕉

発句の前書きに「寒夜」とあるように、厳冬に詠んだ句のようである。
この句には、凛とした厳冬の抒情が漂っている。
  1. 「瓶割るる夜の」と続く「る」の音がリズミカルで、タンゴのザッザッザッという律動感を連想させる。
  2. 「夜の氷の寝覚め」がとてもメロディアス。
  3. 「瓶」の「め」と「寝覚め」の「め」で、かすかに脚韻を踏んでいる。
キリリと引き締まった厳冬の句は、キリリと引き締まったタンゴの旋律を感じさせる。
掲句は、そういう雰囲気を持っていると私は感じている。

瓶に入れていた水が凍って膨張し、陶器である瓶を割ってしまうほどの厳しい寒さ。
瓶の割れる音にびっくりして目がさめる。
目がさめると、底冷えしている冬の厳しさが一層身にしみてくる。
そんなイメージの句である。

瓶が割れて目が覚める光景は、とてもリズミカルに思える。
目が覚めた後、いろいろな思いが湧いて出る。
「今夜の寒さは特別だ。」とか「瓶から水を抜いておけば良かったなあ。」とか、「このまま凍え死ぬのではなかろうか。」とか。
あるいは、遠い昔の冬の日を思い出したり。
そんな様々な思いがメロディのように句の中に流れている。
そう感じた。

そして特記すべきは「氷の寝覚め」。
現代詩をも想起させるメタファーではないだろうか。
瓶を割った氷が、眠っている人の目を覚ましたのと同時に、厳冬の夜に氷自身が目を覚ましたようなイメージ。
なんとシュールな詩の世界だろうか。
暗く寒い夜の土間で、白く浮かんだ瓶が音をたてて割れる
そんなイメージの傍らで、アルフレッド・ハウゼの「夜のタンゴ」を聴いているような不思議な感覚。

「瓶割るる夜の氷の寝覚め哉」には芭蕉が奏でる独特の旋律があるように感じている。
私にとっては、それがタンゴなのである。
この句を読まれた方々は、いったいどんな旋律を思い浮かべるのだろうか。
とても興味深いことである。

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