初時雨猿も小蓑を欲しげなり
時雨
松尾芭蕉の忌日の呼称は、「芭蕉忌」の他に「時雨忌」というのもある。
亡くなった頃が「時雨(しぐれ)」の多い時期であることと、芭蕉が「時雨」をよく句作に用いていたことによるという。
そういえば、「旅人と我が名呼ばれん初時雨」という貞享四年の「笈の小文」旅立ちの句にも「時雨」は使われている。
芭蕉にとって「時雨」は、旅のシーンを演出するキーワードのひとつであったのかもしれない。
「時雨」とは晩秋から初冬にかけて降ったりやんだりする冷たい雨のこと。
寒冷前線がもたらす雨(驟雨)であるから気温は低めである。
帰省途上の山の中で作った発句
初時雨猿も小蓑を欲しげなり
松尾芭蕉
元禄二年の初冬(九月末頃)、芭蕉四十六歳のときの作である。
奥州・北陸の旅(おくのほそ道)を岐阜大垣で終えた芭蕉は、元禄二年九月から元禄四年十月二十九日まで、二十五ヶ月間の長期に渡って上方(関西地方)にとどまっている。
芭蕉年譜大成(著:今榮藏)に「上方漂泊期」と記されている期間である。
掲句は、その「上方漂泊期」の初期に作られたもの。
伊勢神宮式年遷宮奉拝の後、伊賀上野への帰省途中での発句とされている。
また掲句は、蕉門の撰集「猿蓑」の冒頭句に掲げられていて、撰集名「猿蓑」の元となっている句でもある。
句の前書きに、以下の詞がある。
この年の七月十五日に金沢入りした芭蕉は、会うのを楽しみにしていた一笑が、去年の冬にすでに亡くなっていたことを初めて知らされ、深い悲しみにとらわれる。
その追善句会で「塚も動け我泣声は秋の風」という句を詠んだ。
また、前書きの「山家」とは、山村とか山里とかのことであろう。
芭蕉は、帰省する途中の山村で「初時雨」にうたれた。
蓑で身をつつみながら、こんなに冷たい雨なら山の猿も小さな蓑を欲しかろうにと思ったことだろう。
山のなかで、冷たい「時雨」にうたれて寒そうにしている猿を、芭蕉は実際に見たのかもしれない。
当時は、現代のように優れた防寒着などない時代である。
冬の寒さに対する恐れは、現代人には推し量れないほどのものであったに違いない。
冬の雨の日は、雪の日よりも寒く感じる。
以前、私はこのブログでそんな記事を書いたことがあった。
「野晒紀行」や「笈の小文」その他で、幾度となく冬の旅を経験した芭蕉は、時雨に濡れることのやっかいさを痛感していたことだろう。
一時の通り雨でも、冬の雨に濡れるのはつらい。
蓑で雨から身を守らないと体温を奪われてしまう。
まして山のなかで低体温症になったら、生命の危険にもかかわる重大事である。
そんな事態を芭蕉は、「猿も小蓑を欲しげ」と軽く書いた。
この句を読んで、冷たい雨の日に「小蓑」を着た「猿」の姿を、読者は思い浮かべる。
それはユーモラスであるとともに、なにやら安堵を感じるあたたかい光景でもある。
この句には、様々な「対比」があると私は感じている。
芭蕉句における「対比」とは、相対するふたつの物事を提示することによって、両方の物事が単独の場合よりも相互に際立ち、印象が鮮やかに感じられること。
時雨のなかを故郷に向かって山道を歩いていた芭蕉。
芭蕉は、木陰で雨宿りしている子猿を見かける。
子猿は、好奇心あふれる大きな瞳で、じっと芭蕉を見つめている。
その子猿の目を見ながら、この子猿も棲家から離れて旅に出たいのではあるまいかと芭蕉は空想する。
そんな子猿を芭蕉は句に登場させたのではあるまいか。
芭蕉の「上方漂泊期」に編集され、元禄四年七月に発刊された「猿蓑」の序文で、宝井其角は掲句に触れている。
その部分を抜粋したのが下記のもの。
「ただもう己の俳諧に魂を吹き込もうと、師匠が旅をしていたころ、伊賀へ山越えする山中で(子)猿に小蓑を着せた句をつくり、その句には俳諧の神髄が入っているものなので、たちまちに(母猿が)断腸の思いを叫んだようである。敵にとっては恐ろしい俳諧の技である。」
私は「あた」を「敵=蕉門に対峙するもの」の意と解した。
向井去来が「去来抄(下京や)」で述べた「他門の人」にあたると思われる。
「猿蓑」は、芭蕉一門の手によって当時の俳壇に一石を投じた俳諧撰集であるから、この序文は宝井其角の蕉風批判勢力に対するアジテーション的なものであったのでは、と私はトウシロながら憶測している。
其角は、芭蕉が猿に小蓑を着せたことを俳諧の神髄であると述べている。
私は、この序文を読んで、そう理解した。
「小蓑を欲しげ」な猿は、防寒着を欲しげな猿ではない。
旅人の「蓑を欲しげ」な猿なのである。
そう其角は感じた。
子猿は、旅人の「蓑を欲しげ」に、芭蕉の後をついて行った。
棲家を離れた子猿に対して「母猿」が「断腸のおもひを叫びけむ」となったのである。
そういう猿を想像し描くことが、「俳諧の神を入たまひ」であり、「あたに懼るべき幻術」であると其角は述べているのだ。
この序文の内容を、「猿蓑」編者である向井去来と野沢凡兆が了承した。
そして何よりも、「猿蓑」の編集をきびしく監修したであろう芭蕉が了承した。
「其角よ、いいセンスしてるじゃん。」と師匠が言ったかどうか・・・・
こうして、「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」は、名実ともに「猿蓑」の冒頭を飾る句となったのである。
ちなみに「猿蓑・巻之一」は、冒頭の芭蕉の掲句に続いて、向井去来の十三句目まで「時雨」を題材にしたものである。
私の好きな野沢凡兆の句は九句目。
時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり
<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ
元禄二年の初冬(九月末頃)、芭蕉四十六歳のときの作である。
奥州・北陸の旅(おくのほそ道)を岐阜大垣で終えた芭蕉は、元禄二年九月から元禄四年十月二十九日まで、二十五ヶ月間の長期に渡って上方(関西地方)にとどまっている。
芭蕉年譜大成(著:今榮藏)に「上方漂泊期」と記されている期間である。
掲句は、その「上方漂泊期」の初期に作られたもの。
伊勢神宮式年遷宮奉拝の後、伊賀上野への帰省途中での発句とされている。
また掲句は、蕉門の撰集「猿蓑」の冒頭句に掲げられていて、撰集名「猿蓑」の元となっている句でもある。
句の前書きに、以下の詞がある。
五百里の旅路を経て、暑かりし夏も過ぎ、悲しかりし秋も暮れて、古里に冬を迎へ、山家の時雨に逢へばこの前書きにある「悲しかりし秋も暮れて」とは、北陸の旅の途上、金沢で門人小杉一笑の死を知らされたことと思われる。
この年の七月十五日に金沢入りした芭蕉は、会うのを楽しみにしていた一笑が、去年の冬にすでに亡くなっていたことを初めて知らされ、深い悲しみにとらわれる。
その追善句会で「塚も動け我泣声は秋の風」という句を詠んだ。
また、前書きの「山家」とは、山村とか山里とかのことであろう。
初時雨と山の猿
芭蕉は、帰省する途中の山村で「初時雨」にうたれた。
蓑で身をつつみながら、こんなに冷たい雨なら山の猿も小さな蓑を欲しかろうにと思ったことだろう。
山のなかで、冷たい「時雨」にうたれて寒そうにしている猿を、芭蕉は実際に見たのかもしれない。
当時は、現代のように優れた防寒着などない時代である。
冬の寒さに対する恐れは、現代人には推し量れないほどのものであったに違いない。
冬の雨の日は、雪の日よりも寒く感じる。
以前、私はこのブログでそんな記事を書いたことがあった。
「野晒紀行」や「笈の小文」その他で、幾度となく冬の旅を経験した芭蕉は、時雨に濡れることのやっかいさを痛感していたことだろう。
一時の通り雨でも、冬の雨に濡れるのはつらい。
蓑で雨から身を守らないと体温を奪われてしまう。
まして山のなかで低体温症になったら、生命の危険にもかかわる重大事である。
そんな事態を芭蕉は、「猿も小蓑を欲しげ」と軽く書いた。
この句を読んで、冷たい雨の日に「小蓑」を着た「猿」の姿を、読者は思い浮かべる。
それはユーモラスであるとともに、なにやら安堵を感じるあたたかい光景でもある。
対比
この句には、様々な「対比」があると私は感じている。
芭蕉句における「対比」とは、相対するふたつの物事を提示することによって、両方の物事が単独の場合よりも相互に際立ち、印象が鮮やかに感じられること。
- 「初時雨」→天(の現象)/「猿」→地上(の生き物)
- 「初時雨」→寒い・冷たい/「猿も小蓑」→ユーモラス・愛らしい(暖かい)
- 「初時雨」「猿」→自然・風景/「欲しげ」→人工(擬人)・感情
- 「猿」→動物/「小蓑」→人間
- 「初時雨」→旅(移動する雲)/「猿」→山(定住)
- 「初時雨」→客観/「猿も小蓑を欲しげ」→主観
これらの「対比」によって、この句は読む者に鮮やかな印象を与えている。
さらにこの句の様々な「対比」を想起することによって、読む者のイメージが広がっていく。
ここまで書いてきて、ふと疑問が湧いた。
野生の猿に、いくら寒くても蓑は必要だろうか。
毛皮に被われた猿にとって、雨が我慢できない寒さをもたらすとしたら、猿は木陰や岩陰に身を隠して雨に濡れるのを避けるのではあるまいか。
そんな猿を、なぜ芭蕉は「小蓑を欲しげ」と表現したのだろう。
もし蓑を欲しげな猿がいるとしたら、それは冷たい雨の中でも芭蕉のように蓑を着て歩みたいと願う猿ではないだろうか。
野生の猿に蓑?
ここまで書いてきて、ふと疑問が湧いた。
野生の猿に、いくら寒くても蓑は必要だろうか。
毛皮に被われた猿にとって、雨が我慢できない寒さをもたらすとしたら、猿は木陰や岩陰に身を隠して雨に濡れるのを避けるのではあるまいか。
そんな猿を、なぜ芭蕉は「小蓑を欲しげ」と表現したのだろう。
もし蓑を欲しげな猿がいるとしたら、それは冷たい雨の中でも芭蕉のように蓑を着て歩みたいと願う猿ではないだろうか。
時雨のなかを故郷に向かって山道を歩いていた芭蕉。
芭蕉は、木陰で雨宿りしている子猿を見かける。
子猿は、好奇心あふれる大きな瞳で、じっと芭蕉を見つめている。
その子猿の目を見ながら、この子猿も棲家から離れて旅に出たいのではあるまいかと芭蕉は空想する。
そんな子猿を芭蕉は句に登場させたのではあるまいか。
宝井其角の「猿蓑」序文
芭蕉の「上方漂泊期」に編集され、元禄四年七月に発刊された「猿蓑」の序文で、宝井其角は掲句に触れている。
その部分を抜粋したのが下記のもの。
「只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」これを岩波古語辞典を引きながら、私なりに意訳を含めて現代語訳してみたのが以下のものである。
「ただもう己の俳諧に魂を吹き込もうと、師匠が旅をしていたころ、伊賀へ山越えする山中で(子)猿に小蓑を着せた句をつくり、その句には俳諧の神髄が入っているものなので、たちまちに(母猿が)断腸の思いを叫んだようである。敵にとっては恐ろしい俳諧の技である。」
私は「あた」を「敵=蕉門に対峙するもの」の意と解した。
向井去来が「去来抄(下京や)」で述べた「他門の人」にあたると思われる。
「猿蓑」は、芭蕉一門の手によって当時の俳壇に一石を投じた俳諧撰集であるから、この序文は宝井其角の蕉風批判勢力に対するアジテーション的なものであったのでは、と私はトウシロながら憶測している。
其角は、芭蕉が猿に小蓑を着せたことを俳諧の神髄であると述べている。
私は、この序文を読んで、そう理解した。
「小蓑を欲しげ」な猿は、防寒着を欲しげな猿ではない。
旅人の「蓑を欲しげ」な猿なのである。
そう其角は感じた。
子猿は、旅人の「蓑を欲しげ」に、芭蕉の後をついて行った。
棲家を離れた子猿に対して「母猿」が「断腸のおもひを叫びけむ」となったのである。
そういう猿を想像し描くことが、「俳諧の神を入たまひ」であり、「あたに懼るべき幻術」であると其角は述べているのだ。
この序文の内容を、「猿蓑」編者である向井去来と野沢凡兆が了承した。
そして何よりも、「猿蓑」の編集をきびしく監修したであろう芭蕉が了承した。
「其角よ、いいセンスしてるじゃん。」と師匠が言ったかどうか・・・・
こうして、「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」は、名実ともに「猿蓑」の冒頭を飾る句となったのである。
ちなみに「猿蓑・巻之一」は、冒頭の芭蕉の掲句に続いて、向井去来の十三句目まで「時雨」を題材にしたものである。
私の好きな野沢凡兆の句は九句目。
時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり
※「猿蓑」
俳諧撰集。六巻。去来・凡兆編。1691年刊。芭蕉七部集の一。発句・歌仙のほか幻住庵記・几右日記などを収める。景情融合の発句,匂付(においづ)けによる連句など,蕉風俳諧の一つの到達点を示す。(大辞林より)
<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ