2018/05/27

鶴田町「富士見湖パーク」近くにある「鶴の里ふるさと館(旧川村家)」を見物

(鶴の里ふるさと館。旧川村家)


鶴田町の富士見湖パークの北側に、上の写真の古民家が展示されている。
私が訪れたときは、狼野長根(おいのながね)の「楠美家住宅」と違って、見物人は皆無であった。

この施設の名称は「鶴の里ふるさと館」。
入場は無料。
休館日は、冬期である11月から3月まで。
開館時間は、9時から16時まで。

この「旧川村家」は、鶴田町の後中野(こうなかの)集落にあった建物を、平成七年に現在の場所へ移築したもの。
移築時で、築百二十年であったという。
移築前の建物部材を極力使用して復元したものとのこと。

この雪多い津軽の地で、よく百二十年以上も持ちこたえたものである。
貴重な「歴史的建築物」である。


(古民家の案内看板。)


上の写真は、建物の前に建っている看板で、この古民家についての説明が書かれている。
下の記載(赤文字部分)は、看板の説明書きを引用したものである。

「鶴の里ふるさと館(旧川村家)は、一八七四年頃に川村半助氏(一八四四年生まれ)が水元村大字下藤代四九番地に、材料を原木で購入し、三年の歳月をかけ製材、建築された津軽地方を代表する茅葺き住宅です。建築材は耐久性の強いヒバやケヤキが主となっているため、内外部とも保存がゆきとどき、当時の建築様式を原形のまま今日にとどめています。
 屋根は茅葺き造りで地面から八方と呼ばれる煙出しまでの高さは十m、玄関引戸、格子戸には、飾り板など当時の木工技術が施され、屋根には銅板が、使用されています。
 また欄間は、弘前市の高名な方の作と言われ、当時としては珍しい帳場室、茶室などがあります。
半助の長男川村享氏(一八七〇年生まれ)は、慶應義塾に学び大正八年から昭和六年まで県会議員三期、この間に県議会議長を務められ、県政会の重鎮として活躍した生家であり時代の繁栄がうかがえる上層農家住宅であります。」
(句読点等、看板原文のママ)


(旧川村家前景。)


(通常入口。)


(風除室の奥の、屋内に入る引き戸。)


奥の板の引き戸を開けて、中へ入る。
引き戸は、ネズミなどの侵入を防ぐために閉めっぱなしにしておかなければならない。
建物の中に管理人や案内人はいない。


(土間。右手奥が馬小屋である「まや」)

建物内の主要な部屋には、その部屋の名称と説明を記した小さな看板が置かれている。
以下の「赤字部分」は、その看板からの引用である。

「どま ワラ打ちなどの作業を行なう場所です。同時に、田畑からのさまざまな収穫物を、一時的に取り込んでおく空間です。」



(「土間」から「板の間」と「常居(じょい)」を見る。)


(板の間から屋根裏の小屋組みを見上げる。)


(台所。)


「だいどころ(台所) 朝食とともに、この空間から一日がはじまり、そして夕食で終わります。まさしく家族の毎日の食生活は、この空間でまかなわれていました。」



(座敷。)


「ざしき(和室) 2階の和室は、家人の寝所です。」


(常居。)


「じょい(常居) 応接間、小さな囲炉裏が片隅に設けられています。この部屋で特別な行事が行われるときには火鉢が用いられました。」



(寝所。)


「ねんどこ(寝所) 主人のねま(寝所)」



(座敷の横から2階へ上がる階段)


(座敷横からの階段を上がった2階の部屋。家人の寝所。)


(仏間。右手の部屋は床の間。)


(床の間。書院風な違い棚は、当時の上層農家の流行か。)


「床の間(とこのま) 特別な行事が行われるときに用いる。」



(まげ。)


「まげ(間木) 間木(まげ)は住み込みの使用人(女中)の部屋です。」


(「めんじゃ」と呼ばれていた流し。)


「めんじゃ(流し) 炊事及び洗面所」

「めんじゃ」は、「水屋」の訛った呼び名なのだろう。
「めんじゃ」の左側に「かまど」が設置されている。



(「まげ」へ上がる急階段。)


(板の間の囲炉裏の上部。格子状の板は火棚。)


(屋根の棟に八方と呼ばれる立派な煙出し。まるで天守閣。煙出しの下が、板の間の囲炉裏に通じている。)


(玄関。唐破風のような小屋根とそれを支えている「雲形肘木」。右手に出格子窓。)


当時の津軽地方の玄関とは、特別な客を迎えるための特別な出入口。
普段はほとんど使用しない。

玄関の小屋根がアーチ状に造られている。
神社や寺院の唐破風屋根を思わせる造りである。
さらに、雲形肘木のような装飾板でその屋根を支えている。
玄関の右手に出格子窓があったり。
当時の津軽の上層農家は飾りを重んじたようである。

この「旧川村家」を富士見湖パークの近くに復元移築した目的は、古民家を通して「当時の生活の様子を後生に伝える(鶴田町ホームページより引用)」ことであるとのこと。

五所川原の「楠美家住宅」を見物したときにも感じたことだが、「当時の生活の様子」と言っても、「旧川村家」の生活の様子は、この地方の上層農家の「生活の様子」。
つまり資産家の「代表例」としての「生活の様子」を保存していることになる。

では、その他大勢の、代表になれなかった「生活の様子」はどうだったのだろう。
と、こんなことを思うのは私だけだろうか。

これは「歴史的建築物」の保存であると同時に、「当時の上層農家の価値観」の保存なのではないのだろうか。
たとえば、唐破風屋根風な玄関とか、出格子窓とか、書院造り風な床の間とかにその「価値観」が漂っているように見える。

「楠美家住宅」同様「旧川村家」も、無人の荒野のなかにぽつんと一軒だけ存在したわけではあるまい。
おそらく、一定戸数の集落の代表的な存在だったのだろう。

とすれば、この「代表」は、集落の一部分としてあったのである。
そういう視点で、この「歴史的建築物」を見れば、代表になれなかった「生活の様子」も、またおぼろげながら見えてくるのでは。

この代表的な建物の部分部分から、当時の一般的な「生活の様子」を垣間見ることができるのではあるまいか。
たとえば、土間の隅から、「めんじゃ」の端から、「まげ」の壁から、板の間の囲炉裏から、「まや」の暗がりから。
居住空間のそういう部分から、伝わってくるものがある。

一方では「富」を表さなくてはならない玄関や床の間があり、他方には、あまり「富」を表さなくていい土間(どま)や馬小屋(まや)や屋根裏部屋(まげ)がある。
そのバランス感覚が興味深い。

子細に見れば、茅葺屋根は縄文的であり、その下の玄関の「唐破風」風小屋根は弥生的であると探りをいれることもできるかもしれない。

それはともあれ。
「旧川村家」は当時の豪農のお屋敷ではあったのだろうが、豊かさの「見本」ではなかった。
ついつい私は、「〇〇家住宅」という展示物に、豊かさの「見本」や「象徴」を見ようとするのだが、「〇〇家住宅」から伝わってくるのものは別のものだった。

そう思った今日の古民家見物であった。

そういえば、「型」としての「旧川村家」なら、私が生まれ育った旧稲垣村の集落でも、よく見かけた。


(建物正面の左手側面。)


(建物の背面。)


(建物正面の右手側面。)

津軽富士見湖に架かる美しい木造橋「鶴の舞橋」

津軽富士見湖(廻堰大溜池)周辺地形図(国土地理院ホームページより)


愛犬の散歩がてら、鶴田町の津軽富士見湖(廻堰大溜池)に架かっている「鶴の舞橋」を見物に行った。

「鶴の舞橋」は、2016年にJR東日本「大人の休日倶楽部」のCMに登場して話題になった大きな木造橋。
そのCMの主演が吉永小百合さんで、美人女優と美橋「鶴の舞橋」との美の共演であったとか。

その後も、「鶴の舞橋」は、いろいろなコマーシャルシーンに登場している。
そのおかげか、津軽富士見湖(廻堰大溜池)を訪れる観光客が増えている。
尚、津軽富士見湖は青森県内で最も大きな人造湖である。

ここへ遊びに来たのは15年ぶり。
そのころも「鶴の舞橋」はあったのだが、観光地としては閑散としていた。
現在みたいに売店も並んでいなかった。


湖北東岸より「鶴の舞橋」を眺める。


つがる富士見湖散策コースの案内看板。


自転車乗入れ禁止、ペット入場禁止の看板。


駐車場にクルマを止め、愛犬をクルマから降ろして、橋見物に歩きかけたら、公園の職員らしき男性から声をかけられた。
「ここは全域ペット禁止ですよ。」と。

その職員さんの話によると、犬のリードに足を引っ掛けて、転んでケガをした観光客がいらっしゃったようで、それからペット入場禁止になったのだという。
あたりを見回すと、あちこちに「犬バッテン」マークの看板が設置されている。

なるほど、これも観光客が増大したことの結果なのだね。
仮にこの橋が、ユネスコの世界遺産に認定されれば、橋を渡ることも制限されるかも。
などと思いながら、ひとりで「鶴の舞橋」見物に出かけたのだった。


雲が似合う「鶴の舞橋」。南側より撮影。


「鶴の舞橋」の概要看板。


南側の橋の袂に、上の写真の看板が建っていた。
橋の概要についての看板である。
せっかくなので、記述を引用させてもらおう。


『鶴の舞橋(つるのまいはし)』の概要
◇長さ:300m(日本一なが~いきの橋)
◇幅:3m
◇橋脚の径:直径30cm(樹齢150年以上)
◇使用材料:県産「ひば」1等材
◇最も高い所:湖底面より8m
◇中間2ヶ所の休憩所としてのステージ:大ステージ10m×21m 小ステージ9m×9m
◇親柱:直径60~80cm(樹齢400年以上)
◇総工事費:2億6千万円
◇工期:平成3年10月~平成6年7月
◇開通:平成6年7月8日
◇所管省:農林水産省
◇実施機関:青森県 北土地改良事務所
◇管理機関:鶴田町 

蛍の照明について
 夜になると橋の欄干に付けられた110基の照明が足元を照らしてくれます。その明かりは、薄緑色で、蛍をイメージして造られており、水面に写しだされる3連の明かりが何とも言えない情緒とロマンチックなムードを漂わせてくれます。

この橋は農業農村整備事業により造られました。橋の名称は、多くのみなさんに末長く親しまれるよう、県内公募の中から「鶴の舞橋」としました。

【上記の赤字部分は、ブログ管理人が、上の看板から引き写したもの。】


南側の橋の袂。


南側より屋根のかかった小ステージを撮影。


橋の造りは、3連の木造太鼓橋となっており、日本一の長さであるという。
アーチ状に高低差があるので、橋の上が人で混み合った場合でも、平坦な橋よりは視界が確保されている。
秀麗な津軽富士である岩木山を眺め、風に波打つ湖面を眺めるのに適した造りとなっている。


南側より大ステージを撮影。


大ステージは、小さな演奏会でも催せそうなぐらい広い。
夏の夜にこの空間で、弦楽四重奏でも開催したら心地よい気分になれそうである。
真夏の夜のジャズも良い。
和風の構造であるから、青森特有の「能舞」も似合うかもしれない。



大ステージの中に設置された「津軽富士見湖の伝説」の看板。


湖には伝説がつきものである。
伝説が、湖としての格調を高める。
溜池から湖へと、景観的なグレードを上げる。
上の写真の看板に書かれている伝説は、鶴田町を統治する城主と町娘にまつわる悲恋物語であるとされているが・・・

実際看板を読んでみると、男女間の裏切りあり、入水自殺した女性の祟あり、裏切った男の狂乱連続殺人ありで、なにやらおどろおどろしい。
この物語の底には、リアルな文脈も潜んでいたりして・・・

湖にちなんだ美しい伝説を期待して読んだのだが、ホラーがかった意外な物語の展開に、このブログへの引用は控えさせてもらった。
ご興味ある方は、湖の風に吹かれながら看板を一読されよ。

大ステージの中に設置された「廻堰大溜池の沿革」の看板。


大ステージには、伝説の物語看板の横に「廻堰大溜池の沿革」の看板も設置されている。
以下の赤文字の文章は、この看板から引用したものである。


廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)の沿革(えんかく)
 古記によると、このため池は岩木山を水源とする白狐沢からの自然流水による貯水池であったものを、万治3年(1660年)に四代目藩主津軽信政公が樋口権右衛門を廻堰大堤奉行に任命し、柏村地方の用水補給のための堤防を築き用水池にしたものと記録されている。
 その後、豪雨、融雪と自然災害により元禄、寛政、文政、明治、大正と堤防が決壊し、そのたびに大修理が加えられ関係者の苦難は、多大なものであった。

 しかし、この長期にわたる努力と地域住民の献身的な働きかけにより、国や県の手により堤体や取水施設等の整備がなされ現在のため池となっている。
 貯水量は、1,100万トン(直接かんがい面積393ヘクタール、補給面積6,500ヘクタール)をかかえ、満水面積281ヘクタールと県内でも最も大きな人造湖であり当地域の重要な農業用水施設となっている。
 また、このため池は周囲11kmのうち堤長4,178m堤高7mと日本でも有数の大きなため池であり、ことに堤長に関しては日本一である。
 ため池にうつる壮大な岩木山の姿から「津軽富士見湖」の愛称で親しまれており、また古くから豊富な淡水魚類、野鳥の宝庫として知られている。

(句読点その他は看板原文のママ)


大ステージより南方向に岩木山(津軽富士)を眺める。

大ステージより東方向に八甲田連峰を眺める。

南岸より大ステージと岩木山を眺める。

緻密に組まれた橋脚。

北側の橋の袂。まるで岩木山に架けられた橋のようである。

南側湖岸と岩木山。湖岸の湖畔林の景色もなかなか良い。


この溜池を美しく見せているのは、南方にそびえる岩木山と、ヤナギを中心とした豊かな湖畔林、津軽平野の広がりと、その向こうに連なる山並みの美しさである。
そして、和風な木造橋「鶴の舞橋」が湖の風光を際立たせている。

このあいだの、津軽半島大沼に架かっている「東日流館橋(つがるやかたはし)」も良かった。
今日の「鶴の舞橋」も良い。

津軽地方の溜池文化は、溜池の機能と景観を両立させているところがすごい。
金木町の芦野湖(藤枝ため池)や中泊町の大沢内ため池だってそうである。
つがる市の木造にある大溜池の景観も美しい。

津軽の溜池文化が、廻堰大溜池に「鶴の舞橋」を造らせたと言えるだろう。
津軽の豊かな自然に支えられている溜池文化は、水の文化。
水の文化は、稲作の文化かそれとも山の文化か。

この地方の人々の、ものの考え方や行動に大きな影響を与えているのは、岩木山の存在感。
存在感という文化なのだ。
湖越しに岩木山を眺めながら、そう思った。
文化は山から里へ、水のように流れている。

そして、橋の向こうに雲を携えてそびえている岩木山を見れば、この橋は岩木山という異界に架けられた橋のようにも思えるのだ。
「鵲(かささぎ)の渡せる橋に・・・・」という古歌(新古今集)があったが、「鶴の舞橋」は「鶴の渡せる橋」であり、鶴は岩木山という「幻想の津軽」に橋を渡しているようにも見える。
幻想風景として、そう見ることもできるのだ。

その橋の袂に、一本の美しいヤナギの木。
下の写真にあるシロヤナギの大木である。
ヤナギは挿し木でよく根付くので、復活と再生のシンボル。
美しい自然の象徴である。

津軽富士見湖に来ると、津軽という抽象的なイメージが、岩木山や溜池や水辺のヤナギや木造橋に象徴される。

それらが一体になった風光を眺めながら、訪れた人たちは異土としての「津軽」を感じているのかもしれない。

十三湖近くの大沼公園に架かっている「東日流館橋」を見た勢いで、鶴田までやって来て、「鶴の舞橋」を改めて見た感想は、「異土としての『津軽』を感じている」だった。


南側湖岸の美しいシロヤナギの大木。根元が水につかっている。

富士見湖パークの案内看板。


津軽富士見湖の周辺は、富士見湖パークと呼ばれている。
遊具広場あり、古民家の展示あり、温泉あり、丹頂鶴自然公園ありで、多様な興味心を満足させてくれる場所となっている。

2018/05/26

幹が朽ちかけたフジに白い花が咲いた

公園のフジの幹で、徐々に進行している腐朽。


 幹の腐朽が進んでいるフジに白い花が咲いた。
こころなしか、花のつき方がまばらなような。

全体として、花房の数がまばら。
総状花序の花数もまばら。
蔓枝が伸びて、パーゴラが緑に被われているけれども、フジの花が目立たない。
【総状花序:花序の軸に、花柄をもった花が並んで付着して、総 (ふさ) の形になっている花のつき方。】

この時期、他所のフジは、滝のように花房を垂らしている。
紫色のフジの花のカーテンが、訪れる人達の目を楽しませているというのに。

ここのフジはこんなものだったか。
今までは気にしていなかったので、記憶にない。

しかしこのスカスカの花の房はどうしたことだろう。
花びらよりも、細い花柄の方が目立っている。
その細さが痛々しい。
もともと細いものなのだけれども。

この不安げな花の咲き方はどうだろう。
その弱々しい存在感がパーゴラ空間を荒んだものにしている。
弱いことは荒むこと。

乱雑に生い茂る枝と葉。
樹木は、根も幹も枝も葉も、日々成長している。

根は土から養分を吸収し。
葉は光合成で、太陽光から養分を吸収し。

では、吸収された養分はどこに貯蓄されるのだろうか。
おそらく幹、大部分が幹に貯蓄されるのでは。

葉や根が、稼いでも稼いでも、破れた幹から収入が漏れてしまう。
栄養貯蓄の無い樹木は滅びるばかりである。

しかし、秘策がないわけではない。
樹木は樹勢が衰えそうになると、「ひこばえ」を出して樹幹を更新する。
「ひこばえ」は、漢字で表すと「孫生え」。

「ひこばえ」とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
はたして公園のフジは、「ひこばえ」を生やして、新たな幹の構築に取り組むのだろうか。

植物は、さまざまな「自助努力」に懸命になる。
公園の散歩者は、フジ自身の起死回生の策を見守るばかりである。


白いフジの花が垂れている。

花の数は、少ない。

白いフジの花。

葉は賑やかなのだが、花がさびしい。

2018/05/20

安藤氏の居城だったと推定される、十三湖近く「福島城跡」を見物

国道339号線道路脇の「福島城跡」誘導看板。


大沼公園入口から国道339号線を2.6キロメートルぐらい今泉方面へ下ると、上の写真にある「福島城跡」への案内看板が右手にあらわれる。

右折して狭い道へ入る。
道はすぐに未舗装になり、ちょっと進むと、堀と土塁らしきものが正面に見えてくる。
右側に下の写真の看板が建っていて、その奥に崩れかけた櫓(やぐら)が見える。

人を招く看板は建っているが、駐車場は無い。
農道のような遊歩道のような道が、堀に沿って左右に延びている。
道路の空きスペースにクルマを止めて、「福島城内郭跡」を見物。


福島城の内郭跡の看板。


上の看板に「福島城跡」の「内郭」の説明文が記されてある。
記載内容は、以下に通り。


福島城跡・内郭(ふくしまじょうあと・ないかく)
 
 福島城跡の「内郭」は、一辺が約200m四方の方形を呈する土塁跡で囲まれ、外側に堀跡を巡らせています。現況では「内郭」北辺部だけが良好に残されています。
 平成17~21年度にかけて、青森県教育委員会が「内郭」の発掘調査を行った結果、南東部の一角から板塀で区画された中世の武家屋敷跡が発見されています。
 東西70m×南北50mの板塀で区画された中に「主殿(しゅでん)」(対面行事をする場所)とみられる大型掘立柱建物跡を含む五棟の建物群や池状遺構などが発見されました。また、「内郭」東側の堀跡底面からは多くの木製品も出土しています。
 このように、「内郭」が中世の十三湊安藤氏時代に築城された居城跡の一つであることが判明しました。

【上記赤文字部分、看板より引用。】



「内郭」南東部で検出された武家屋敷跡(平成20年度調査)。



「内郭」東側土塁の堀跡(平成18年度調査)



「内郭」南側土塁で見つかった門跡(平成21年度調査)。



堀の橋(再現)と内郭の櫓(再現)


上の写真にあるように、堀に架けられた木造の橋を渡り、櫓の門をくぐって、「内郭」へ入る。
橋と櫓は、再現建造物。
堀と土塁は手付かずで、中世から時を経た姿で残っているという。


内郭から土塁を見る。

内郭の外から、堀と土塁を見る。

内郭は、今は広大な原っぱ。


「内郭」には遺跡を示す展示物は見当たらなかった。
とても草深くて、広い原っぱを歩く気分にならなかったから見落としがあったかもしれない。

1メートル近い草丈の、穂状の花を咲かせているオオアワガエリが、福島城の「内郭」跡で生い茂っている。
尚、オオアワガエリはヨーロッパ原産の帰化植物。
日本には明治時代初頭にアメリカから入ってきたと言われている。


内郭に建てられた看板。

内郭から櫓を見る。

オオアワガエリが生い茂る原っぱ。

駐車場の前の看板。


「福島城内郭跡」から国道339号線に戻り、今泉方向に600メートルぐらい南下すると、上の写真のような看板が右手奥に見える。

畑の中の舗装道路を100メートルぐらい入ると、乗用車20~25台分の駐車場が整備されている。
改めて見ると、屋根付きのなんと立派な看板。

観光マップなどには「福島城址展望台」と記入されている場所だが、「福島城跡」の展望は、まったく得られない。
こんな所がどうして展望台なのだろうと思いつつ、あたりを散策。


福島城跡の説明看板。


看板には、福島城についての説明が記されている。
以下の赤文字記述は、私が看板から引き写したものである。


福島城跡

福島城跡は十三湖北岸に面する標高二〇~三〇mの丘陵西端にある。この城跡は内郭と外郭の二重構造をなす。内郭は一辺が約二〇〇m四方の方形で、土塁と堀を巡らしている。一方、外郭は一辺が約一kmで、土塁や堀、一部自然の沢を利用した三角形の要害を為す約六二万平方メートルの広大な面積となっている。
 これまで福島城跡は近世編纂物の『十三往来』や『十三湊新城記』にみえる「新城」ではないかとする見解があった。『十三湊新城記』に登場する「新城」については、鎌倉時代末の正和年中(1312~17)に安倍(安藤)貞季(さだすえ)が築いた城郭と記されていることから、従来この地域に勢力を誇った安藤氏の居城として理解されてきた。
 また、福島城の名称は『十三往来』に記載された「福島之城郭」が初見となっているが、名称の由来は明らかではない。江戸時代後期の寛政八年(1796)、この付近を訪れた菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、「南のかたに大野とてひろ野あり、そこに、誰ならんすみつといふふる柵のあとあり。」と記録しており、江戸時代にはすでに城主や名称についての伝承は絶え、城跡の存在が知られているに過ぎなかった。
 古くは昭和三〇年に東京大学東洋文化研究所、平成四~五年に国立歴史民俗博物館、近年では平成一七~二一年に青森県教育委員会が発掘調査を行った。
 青森県教育委員会では土塁や堀跡・区画施設・門跡といった福島城跡に直接関わる城郭遺構について重点的な調査を行った。その結果、「外郭東門」や「内郭」といった主要な城郭遺構がそれぞれ安藤氏時代(一四世紀後半~一五世紀前半)に造られたことが確実となった。特に注目されたのは、「内郭」の南東部分から板塀で区画された武家屋敷跡が発見されたことである。東西七〇m×南北五五mの板塀で区画された中に「主殿」とみられる大型の堀立柱建物跡や付属建物跡、池跡も発見されている。

この看板の左手に遊歩道らしきものがあって、そこを散策したら、「福島城址井戸跡」があった。
丸太柱看板が建っているだけで、井戸の痕跡らしきものは見つからなかった。

「福島城址展望台」から国道339号線にもどって、さらに150mぐらい南下したところに、「福島城外堀跡」がある。
こちらも、丸太柱看板が建っていて、明確な堀と土塁が確認できた。

「福島城跡」の遺構を見物したり看板の説明文を読んだりして感じたことは、「福島城」という城の名前についてである。
城跡がある場所の地名は「福島」ではないのに、なぜ「福島城」なのだろう。
看板の説明文にも、「名称の由来は明らかではない。」と書かれている。

一帯においては、「トサ」が古くからの地名であったという。
現在の「十三湖(じゅうさんこ)」の「十三」は「トサ」に漢字をあてたもの。
「トサ」はアイヌ語の「トー・サム」からきているという説がある。
アイヌ語の「トー・サム」は、日本語では「湖・のほとり」という意味だという。

城の名前にその土地の名前を使うことは広く行われてきたこと。
安藤氏は、なぜこの城の名を「十三湊(とさみなと)城」と公にしなかったのだろう。

「福島城」という名前の城は、本当に存在したのだろうか・・・・
というのが気になるところだ。

さて、十三湊(とさみなと)は、鎌倉時代後期には和人と北海道のアイヌ人との、重要な交易拠点であったと伝えられている。
また十三湊において、朝鮮半島や中国との貿易が行われており、当時の博多湊に並び称される港湾都市であったとも伝えられている。

十五世紀半ば(室町時代)、八戸に拠点を置く南部氏の津軽支配の攻勢によって、安藤氏は津軽を追われ、十三湊を奪われてしまう。
しかし南部氏は、重要な交易拠点である十三湊に興味を抱かなかったようである。

その後、南部氏を津軽地方から掃討した津軽氏は、十七世紀の初めに、新たに十三湊の再興を図ったとされている。
岩木川を利用した「十三小廻し」と呼ばれる年貢米の舟運が十三湊で行われていた。
しかし十三潟の入口が砂で埋まるようになってから、しだいに水運も廃れ、十三湊も衰退していったとのこと。

こうして、十三湊も「福島城」も歴史の砂に埋れ、「福島城」の謎を深めることになったようである。

十三湊に埋もれているのは、縄文遺構であり、古代アイヌ人遺構であり、地方豪族の遺構であり、その上に弘前藩の遺構も若干乗っかているかもしれない。
その上に現在の歴史観が乗っかり、自治体の「観光史観」が乗っかり。

なんと重層的な史跡であることか。
というのが、「福島城跡」を見物した私の感想である。


福島城跡の遺構配置図。

福島城外郭門跡の説明看板。

外郭門跡。

福島城井戸跡の木柱看板。

福島城外堀跡の木柱看板。

外堀の堀と土塁。