2015/07/30

思いっきりくしゃみをしたら、ギックリ腰になりそうだった

思いっきりくしゃみをしたら、腰の辺にギックリ腰の予感が走った。

私は30代の頃まで6回ぐらいギックリ腰をやった経験がある。
40代に入ってからは、無茶な体の使い方をしなくなったので、ギックリ腰は起こらなくなったが、そのかわり慢性腰痛に悩まされている。

6回もギックリ腰をやると、身体の防衛能力が高まるのか、ギックリ腰が起こる直前に、ある種の予感のようなものが発生する。
「これは、ヤバイ」という感覚。
以前記事にした「負けた感覚」である。
「負けた感覚」が身を守る。
だから、「負けた感覚を身につけよう」。

2015/07/27

青森の夏の花ハマナスは、青森のハイビスカスか

ハマナスの果実。
青森市の市街地でハマナスを見かけた。
ハマナスはバラ科バラ属の落葉低木。
海岸の砂地に自生する植物である。
街で見かけるものはほとんどが植栽で、野生のハマナスとは違った趣がある。
街のハマナスは比較的に背が高い。
津軽地方の西海岸での野生のハマナスは、背が低く、砂地を這うように生育しているものを多く見かける。

2015/07/26

変化に富んだ人気コース北八甲田大岳ハイキング(下山)

本日の行程図。出典:国土地理院ホームページ(http://maps.gsi.go.jp/?vs=c1&z=16#16/40.656558/140.868051)※緑色行程線はブログ管理人の書き込み
「大岳ハイキング登り」の続編。

八甲田大岳の山頂は、強風状態。
おまけに雲におおわれて視界がきかない。
のんびり山頂風景を楽しむこともなく下山する登山者たち。

変化に富んだ人気コース北八甲田大岳ハイキング(登り)

本日の行程図。出典:国土地理院ホームページ(http://maps.gsi.go.jp/?vs=c1&z=16#16/40.656558/140.868051)※緑色行程線はブログ管理人の書き込み
夏山としては久しぶりの北八甲田大岳ハイキング。
お天気は曇りで午後から雨の予報だったが、さいわい雨にはあわなかった。

おもに春の残雪スキーで毎年八甲田大岳(標高1584.5メートル)に来ているのだが、夏山は15年ぶりぐらいになる。
ゆっくり歩いて、変化に富んだコースを楽しみ、懐かしんだ。

今にも雨に変わりそうな曇り空だったが、こんな天気でも人気コースだけあって登山者が多い。
山中ではたくさんの老若男女の登山者とすれ違ったり、登山者に追い越されたり。

2015/07/24

芭蕉の幻「行く春や鳥啼き魚の目は泪」

行く春や鳥啼(な)き魚(うを)の目は泪(なみだ)
松尾芭蕉

「おくのほそ道」には、この句に以下の前文がある。
弥生(やよい)も末の七日、明ぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明(ありあけ)にて光収まれるものから、富士の峰かすかにみえて、上野、谷中の花の梢、又いつかはと心細し。睦(むつ)まじき限りは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千住という所にて 舟をあがれば、前途(せんど)三千里の思ひ、胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の泪(なみだ)をそそぐ。
  (出典:伊藤善隆「芭蕉」>おくのほそ道>千住)

この前文にある「幻の巷(ちまた)」とは、何だろう。
「旅の生活」と比べて、芭蕉が定住した「江戸の暮らし」を儚いものと感じ、それを「幻の巷」としているのだろうか。

もう戻っては来れないかもしれないという「離別」の思い。
その思いにとらわれた芭蕉に、江戸の町は遠い昔の夢幻のごとく見えたのだろうか。

まだ見ぬ陸奥(みちのく)の地に、漠然とした不安と憧憬をいだきながら望む。
その立ち位置から振り返れば、江戸の暮らしは過ぎ去った時間。

芭蕉は、前へ進もうとしている。
俳諧の新境地を切り開くための旅立ちなのだ。
前方に、陸奥の地という未知の現実。
かえりみる江戸の暮らしは、過去の幻影としての「幻の巷」となるのかもしれない。

このとき芭蕉は四十六歳。
江戸を離れ、「おくのほそ道」の旅に向かう。
句は、舟に乗り合わせて千住まで見送ってくれた親しい人々に対する「別離の挨拶句」とされている。

前文で「前途(せんど)三千里」と表現しているように、苦難の長い道のりを辿ろうとしている旅人として、又いつかはと心細し」と、再び生きて江戸にもどることがあるのだろうかという「惜別の念」が、この句に込められている格好になる。

過ぎていく春とともに江戸を離れて行くことに、鳥は啼き魚は涙をながして別れを惜しんでいるというイメージ。
前文にあるように、まさに、離別の泪をそそぐ」だった。

そんなこの句の「シュール」な一面が美しい。
「行く春や」という現実が、「魚の泪」という超現実へ、スムーズに移行している。
この「行く春や」が、前文にある「幻の巷」と呼応しているように思える。
とすれば、「魚の目は泪」は何と呼応しているのだろうか。

「行く春や」は江戸・千住の現実。
「鳥啼き」は現実でもあり、夢の世界でもあるような。
句は、だんだんと「現実」から「幻」へとグラデーションを描き、私たちは水面下の「魚の目は泪」という幻の世界へ吸い込まれていく。
江戸の空から幻の水中へ。

それは、江戸の「現実」から「おくのほそ道」の「幻」へと、句を読むものを誘導する。
芭蕉にとって江戸の「現実」は、過去の「幻の巷」となった。
そして、「おくのほそ道」の地が次第に新たな「幻」として現実味を帯びてくる。
それは、「創作世界」として現実味を帯びてくるということでもあると思う。

「おくのほそ道」で確立したとされている蕉風俳諧の新境地。
「不易流行の論理」と「かるみの境地」。
世間の人々は、風狂俳諧師が酔狂な長旅に出ると思っていたことだろう。
そういう世間は「幻の巷」として芭蕉のはるか後方にある。
「不易流行の論理」と「かるみの境地」が、新しい「幻(創作世界)」を現出させるに違いないという芭蕉の思い。

「鳥啼き」は、「現実」への別離のこと。
「魚の目は泪」は、新しい「幻」の世界への旅立ち。
それは、過ぎ去った「幻の巷」から前途(せんど)」の「幻(創作世界)」へと向かう「劇」のようでもある。

「行く春や・・・」の句の前文は絵画的で、「劇」の背景として鮮明な印象を与える。
別れを惜しみ寄り添う人々も背景となり、芭蕉がそこで独白する。
以下は私の勝手な空想。

「私は、過ぎていく春とともに旅に出る。
これまで、鳥の鳴き声を聞きながら旅路を歩んで来たように。
今回は、これまで以上に新しい世界に身を置き、新しい境地を得ようという覚悟である。
これが永遠の別れになるかもしれない。
まさに、別離こそが旅の始まりである。
そこには「魚の泪」の幻が見える。
その幻を追いかけて、私の旅がはじまるのだ。
おそらく、「幻(創作世界)」が現実となるまで私の旅は続くことだろう。」

この「別離の挨拶句」には初案があった。
千住で詠んだ句は、「鮎の子の白魚送る別れかな」であったという。
芭蕉が旅を終えて江戸へ戻り、「おくのほそ道」を著述・編集するにあたり、「矢立初めの句」を「行く春や鳥啼き魚の目は泪」に改めたらしい。
 ※矢立:筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具のこと。

ということは、芭蕉が「おくのほそ道」の旅から戻ってから、「おくのほそ道」旅立ちの句を作ったことになる。
そのことを考えると「魚の目は泪」という表現は、ある方向性を持って描かれたように思われる。
また、「魚の目は泪」は「新境地」であり、既存の世界(俳諧)は幻影(幻の巷)となったという芭蕉の宣言のようにも受け取れる。

芭蕉は「おくのほそ道」を著述・編集するにあたって、旅の土産物(新境地)を予めほのめかすために「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を、「矢立初めの句」として配したのかもしれない。

なお芭蕉四十五歳の時、「おくのほそ道」以前の「笈の小文」の旅の終わりで、「蛸壺やはかなき夢を夏の月」という「シュール」な句を作っている。
儚い夢を見ている蛸の目が感じられる句である。
「笈の小文」での「蛸(の目)」。
それから約1年後の「おくのほそ道」旅立ちの句での「魚の目」。
「蛸(の目)」から「魚の目」へ。
それは「世間的現実」から、よりイメージを深める非現実(幻)を見ることへの、視点の移行であるのかもしれない。

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雨不足のせいかドウダンツツジの生垣が枯れている

葉が赤っぽいが紅葉ではない。ドウダンツツジの生垣が枯れかかっているのだ。


青森市内は雨不足。
22日付の東奥日報夕刊では、岩木川上流の目屋ダムが雨不足で水位が低下しているとのこと。そのため、岩木川流域水田地帯への農業用水の供給が困難になっているという記事。
まとまった降水が待たれているのだが、なかなか降りそうにない。

雨不足のせいか、青森市堤小学校北側の小公園を囲んでいるドウダンツツジの生垣が赤茶色に枯れ始めている。
ここのドウダンツツジは、秋になると鮮やかに紅葉し、通勤の人々の目を楽しませてくれる。

それがこの状態だと、今年の紅葉は危ぶまれるのではあるまいか。


カラカラに枯れた葉っぱ。


ドウダンツツジは耐寒性はあるが、真夏の直射日光には弱いらしい。
今年は雨が降らないので、ことさら直射日光が堪えたのだろう。
そういえば、今年の春は、この垣根の花が少なかった。
雨不足だけでなく、他の原因もあるのかも知れない。

この生垣で葉が枯れているのは東側だけで、西側のドウダンツツジの葉は緑のまま。
東側は小学校のグランドの延長で、鉄棒や緑地になっており木立は無い。
一方西側は、小公園の木立が並んでいて保湿がまだ効いている状態だと思われる。

ツツジやサツキは根の浅い低木であるとはよく聞く話。
ここの生垣は、写真の通り、石垣の土留めの際に植えられている。
石垣が夏の気温で熱をもてば、地面の水分の蒸発を促す。
そのためここは他の場所よりも地面が乾きやすい環境にある。
これで雨不足では、根の浅いドウダンツツジは水分を吸い上げることができずに枯れてしまう。

西側の緑のままのドウダンツツジは、木立に助けられて、涼を得、夜露を得ているに違いない。
だから、雨不足・水不足でも枯れずに済んでいる。
木立はありがたいものだ。

というのは、素人な私の推測。
根を食害する害虫もいることだし、葉が枯れる原因は他にあるのかもしれない。
秋の紅葉が楽しみなだけに、これからの経過を見逃せないところだ。


西側(葉が緑色の部分)は枯れていない。


枯れた葉が広がっている。

2015/07/21

芭蕉の意志「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」

「痩せながら」にはふたつのイメージがあるように思う。
  1. ひとつは「痩せたまま」の意で未成熟・未発達というイメージ。
  2. もうひとつは、「痩せてはいるが」という逆接的なイメージ。
(1)のイメージでは「つぼみ」も痩せた弱々しい印象である
(2)では、菊の茎や葉は弱々しくて、とても花を咲かせる道理などないが、それに反してこの「つぼみ」は・・・・と余韻を持たせているように感じられる。

2015/07/20

津軽半島の北端、津軽海峡に面した美しい海岸線をドライブ、鋳釜崎から高野崎へ

鋳釜崎の海岸
鋳釜崎から津軽海峡を眺める。


竜飛崎(たっぴざき)は津軽半島最北端の地。
津軽半島の西側に位置していて、津軽海峡に突き出た岬である。

その竜飛崎から、津軽海峡に面した道路を東に向かい今別町に入ると、鋳釜崎(いがまさき)と高野崎(たかのさき)がある。
一帯は袰月(ほろづき)海岸と呼ばれ、津軽国定公園に指定されている。

津軽国定公園の海岸部は東津軽郡外ヶ浜町(旧平舘村)から西津軽郡深浦町(旧岩崎村)までの約180キロメートル。
鋳釜崎と高野崎は、美しい海と特異な海岸浸食景観で知られ、夏になるとキャンプや海水浴、磯遊び、釣りなどが楽しめる。

両海岸とも、奇岩、怪岩がいたるところに突き出ていて、迫力のある景勝地となっている。
晴れた日には竜飛岬、下北半島、を眺めることが出来、津軽海峡をはさんで見える北海道の眺望が素晴らしい。

鋳釜崎海岸では、このページの写真の通り黒い岩が、独特な雰囲気を持っている。
すぐそばの高野崎とは、かなり違う印象。

昭和45年3月発行の経済企画庁総合開発局「土地分類図付属資料(青森県)」によれば、津軽半島の山地は「ほとんどが第三紀層および火成岩からなり・・・・・」とある。
鋳釜崎海岸の黒岩も火成岩なのだろうか。
火成岩とは、マグマが冷えて固まった岩石のこと。
鋳釜崎海岸の黒岩が火成岩なら、どの辺から噴き出たマグマがこの海岸に流れ落ちたのか。

第三紀層とは、6430万年前から260万年前の形成された地層のこと。
想像を絶する太古から、ここの岩は黒々として、波に削られてきたのだろう。

下北半島には恐山や陸奥燧岳(むつひうちだけ)などの火山があるのに対して津軽半島には火山が無いとされている。
だが過去の火山帯区分では、下北半島を「那須火山帯」が通っているのと同様に、津軽半島においては「鳥海火山帯」が北海道の渡島大島まで通っているとされていた。
津軽半島は、まったく火山に縁が無いという土地柄では無いようだ。


独特な黒い肌の岩


津軽海峡の潮の流れが、津軽半島の北側に海岸浸食景観をつくった。
その海岸の岩場は、太古の火山活動によってつくられたものなのかもしれない。

津軽海峡に面した美しい海岸線、鋳釜崎から高野崎へのドライブは、津軽半島の一面を垣間見せてくれるコースでもあるようだ。


黒い岩と青い海。


海岸浸食の景観。奥の方に竜飛崎が見える。


断崖と青い海。


鋳釜崎キャンプ場の東屋。


高野崎の海と灯台のある岬。


高野崎の西側の海岸線。


海岸の岩山に生えた樹木と空。


奇岩の上にカモメ鳥。


高野崎のキャンプ場から海岸に下りる長い石段。


岩場をつなぐふたつの赤い橋、潮騒橋と渚橋。


高野崎の東側の海岸線。


高野崎の灯台。


高野崎から東方向の下北半島を眺める。

青森市郊外の山の中にある「小牧野遺跡」の環状列石を見物

出典:国土地理院ホームページ(http://maps.gsi.go.jp/?vs=c1&z=16#16/40.745225/140.733576)
小牧野遺跡赤丸表記:ブログ管理人書き込み。


国指定史跡「小牧野遺跡」は青森市野沢字小牧野にある。
遺跡へは県道122号線(酸ヶ湯・高田線)を下湯温泉を目指して進む。
途中、高田中学校前を通り「野沢」に入ったあたりに、「小牧野遺跡」の案内看板がある。

注意しないと見落としそうな頼りない案内看板を辿って、「小牧野」に至り、看板に従って林道(農道)を山へ向かう。

小牧野遺跡は、荒川と入内川に挟まれた「舌状台地」上、標高140メートル付近にある。
「小牧野」から遺跡までは未舗装の林道(農道)を進む。
林道(農道)に入って、ようやく明確な案内標識が現れる。

遺跡のある場所は、地元住民が営む「畑作地」が点在する山の中である。
従って観光地とは違い、売店とかは皆無。
遺跡への路線バスも無い。
市営バスを利用する場合は、「大柳辺線」に乗り、「野沢」停留場で下車、そこから林道を30分ぐらい歩く。

道沿いの林は、杉林だったり、雑木林だったり。
夏であれば、林縁に大型の植物、「オオウバユリ」の蕾や花の姿を見ることが出来る。
遺跡駐車場そばに、「小牧野の森・どんぐりの家」という遺跡観察施設が建っていて、その建物にトイレや休憩スペースが備わっている。


林道(農道)の分岐点に案内看板。


分岐点を左折し、開けた農道を進む。


畑作地の奥に駐車場と「小牧野の森・どんぐりの家」がある。



オニグルミの果実。


大きな立石。


上の写真、左側の大きな立石には嘉永7年(1854年)の年号が刻まれた江戸時代末期の馬頭観世音碑となっている。
この場所一帯は、江戸時代に馬の放牧場として使用され、「小牧野」の地名はそのことに由来しているという。
馬頭観世音碑は、元からその場所にあった環状列石の石を利用したものと考えられている。


小牧野式配列。


森に囲まれた環状列石。


環状列石の中心部(中央帯)。


土坑墓遺構が発見された個所を盛り土して「整備?」。


住居跡。


土坑墓。


捨て場跡。


展望所から青森市内を眺める。


小牧野の森・どんぐりの家。


休憩スペースとパネル展示スペースを兼ねたホール。


「小牧野遺跡について」の説明パネル。


パネル「小牧野遺跡について」に書かれている記事の概略は以下の通り。

小牧野遺跡は、縄文時代後期前半(約4,000年前)につくられた環状列石(ストーンサークル)を主体とする遺跡。
遺跡は、八甲田山系から青森平野に向かって延びている台地上に位置する。
この台地は、荒川と入内川に挟まれている。
1995年3月17日に国史跡に指定され、約90,000㎡が史跡の範囲として保護されている。


「小牧野の森・どんぐりの家」のパネル。


パネル「小牧野の森・どんぐりの家」に書かれている記事の概略は以下の通り。

この施設の愛称の由来や、施設の外観が、どんぐりや縄文住居を思わせるような形状になっていること。
●入館料:無料
●開館時間:5月1日~9月30日(9:00~17:00)
        10月1日~11月15日(9:00~16:00)
●休館日:11月16日~翌年4月30日


「環状列石の発見」の説明パネル。


パネル「環状列石の発見」の記載内容概略は以下の通り。

小牧野遺跡の環状列石は1989年(平成元年)に地元の高校生たちによって発見された。
「石神平(いしがみたい)」と呼ばれている場所で、丸みを帯びた河原石が地面の上に転がっていた。
そこを発掘調査したら、縄文時代の環状列石が発見された。


「環状列石の配置」の説明パネル。


パネル「環状列石の配置」の記載内容概略は以下の通り。

全体の直径は、外径が55m。
外帯が直径35m。
内帯が直径29m。
直径2.5mの中央帯の三重の輪や特殊組石、環状配石などで構成される。
「小牧野式配列(配石)」:小判型の石を縦に置き、その両側に平らな石を3~6個ぐらい積み重ね、これを繰り返してつくられている。



「石はどこから」の説明パネル。


パネル「石はどこから」の記載内容概略は以下の通り。

石の数は約2,900個。
これらの石は、遺跡東側の「荒川」一帯から運ばれたものと推定されている。
石1個あたりの重さを平均すると、10.8㎏となる。



「発見された遺構」の説明パネル。


パネル「発見された遺構」の記載内容概略は以下の通り。

竪穴(たてあな)住居跡や貯蔵穴(ちょぞうけつ)、捨て場、湧水遺構など生活に関わる遺構の発見。
土坑墓、土器棺墓など墓に関わる遺構の発見。



「土器」の説明パネル。


パネル「土器」の記載内容概略は以下の通り。

この遺跡からは、鉢(はち)、壷(つぼ)、注口土器(ちゅうこうどき)の出土が多い。
日常生活用のものと祭祀用のものと、使い分けされていた。



「小牧野遺跡の墓」の説明パネル。


パネル「小牧野遺跡の墓」の記載内容概略は以下の通り。

この遺跡には100基をこえる土坑墓(どこうぼ)環状列石の東側斜面に分布している。
土坑墓とは、土を掘って穴をつくり、そこに亡くなった人の遺体を埋葬する墓のこと。
埋葬した後は、土盛りをして墓を完成させたと考えられている。



「小牧野遺跡の土器棺墓」についての説明パネル。


パネル「小牧野遺跡の土器棺墓」の記載内容概略は以下の通り。

土器棺墓(どきかんぼ)とは、一度墓に埋葬した遺体が数年後に骨になったのを取り出し、土器棺におさめ、再び埋葬する施設のこと。
この遺跡の環状列石から合計4基の土器棺墓が発見されている。


「石器」の説明パネル。


パネル「石器」の記載内容の概略。

小牧野遺跡からは、2,709点の石器が出土している。
ナイフとして使われたと考えられる不定形石器は、出土した石器の6割。
磨石(すりいし)や敲石(たたきいし)といった、木の実などを磨りつぶしたりするための道具は約2割。



「弥生時代の小牧野遺跡」についての説明パネル。


パネル「弥生時代の小牧野遺跡」の記載内容概略

箆状(へらじょう)石器やスクレイパーなど弥生時代の遺物も出土。
「続縄文土器」も多く見られる。



「土製品と石製品」説明パネル。


パネル「土製品と石製品」の記載内容概略。

土偶やミニチュア土器・鐸型(たくがた)土製品などが852点。
三角形岩板や円形岩板などが919点出土している。
アクセサリーとして使用されたと考えられる有孔石製品なども出土。

環状列石(ストーンサークル)は縄文時代の共同墓地と考えられている。
もしそうであるなら、近くに大規模の集落跡があるのでは。
それが、この遺跡の北側約10㎞に位置する三内丸山遺跡では、ちょっと離れすぎているように思われる。
なによりも、三内丸山遺跡は縄文時代前期から中期の遺跡。
小牧野遺跡は、縄文時代後期の遺跡。
地理的な距離も年代も離れすぎている。

やはり、この舌状台地のどこかに、大きな集落があったのではと、勝手な空想を楽しんでいる。
それは、「環状列石」のある場所よりも低い場所であったに違いない。
ストーンサークルが尊い場所であったなら、そう考えるのが自然。

環状列石のある場所は、それが造られた時代に幾度かの大規模な造成工事が行われたと考えられている。
また、谷を流れる荒川から大量の大きな石が運び込まれている。
この工事には、かなりの屈強な人手が必要だったはず。
その人々が暮らしていた集落跡が見つかれば、「環状列石」という施設の意味も、もっと解明されるのでは、と空想は尽きない。