2016/06/27

ケヤキの張り出した横根を見て思ったこと

ケヤキの長く張り出した横根。


以前読んだ「植物のあっぱれな生き方」(著:田中修)という本に、面白い記事があった。
それは、動物と植物の違いについて書かれたもの。

動物には、動かなければならない理由がある。
それは、食べ物を探したり、子どもを残すために生殖行為の相手を探したり、ねぐらを探したり、敵から避難したり。

そういう理由で動物は動かなければならないとのこと。
これに対して植物は、一ヶ所でじっとしていても、これら全てをまかなえるので動き回る必要が無い。
植物は動物と違って動かなくても生きていける生き物なのだと。

そして、植物は動物の食糧をもまかなって生きている。
人間や動物は、植物が自らの体内で作った「ブドウ糖」を摂取して、それをエネルギー源として忙しく動き回っている。
この本の筆者は、植物と動物とどちらが偉いかを言っているのではない。
植物と動物と、どちらが便利かとも言っているわけではない。
動くものは動かないものに生かされて動いている一面があるということを読者に示しているのだ。
その植物の本によって私は、比較や対立といった観点では見えないものがあると気づかされた。


一方向に巨大な横根。


ところで、写真のようなケヤキの横根に出会うと、ケヤキは動かないために少しずつ根を動かしていると思えてくる。
その場所に止まるために、その場所を占有する。
まるで戦国武将の居城のように。
植物が成長することは動的ではあるが、動物の動的な生き方とはまったく違う。
でも写真のように、地面に露出した太い根で、大地を鷲づかみにしている姿には、動物的な力強さを感じさせるものがある。

その力強さは、難攻不落のお城というイメージである。
ケヤキは背丈が高く、枝ぶりが大きくて大柄である故に風当たりが強い。
強風に耐えるために、根を四方八方に這わせている。

樹木の根には、深根(しんこん)性と浅根(せんこん)性があるという。
深根性は、直根(ちょっこん)を深く伸ばすタイプで、アカマツが代表的な樹木。
浅根性は、地面をほふくするように横根(よこね)を伸ばすタイプで、ケヤキが代表的な樹木と言われている。


太い横根や細い横根。


浅根性と言っても、この公園のケヤキの根の発達ぶりには驚かされる。
まるで蛸の足のような横根の張り具合。
ケヤキを家の近くに植えると、その横根によって家の基礎が壊される危険性があるという話も充分頷ける。
この公園の歩道の縁石も、ケヤキの横根によって持ち上げられている個所が2~3ある。
ガス管や水道管、下水管なども、張り出したケヤキの横根によって壊されることが考えられるという。
時には人工物を壊して、自身の存在を支えているケヤキの大木。
その迫力に圧倒される。
立身出世した人物の姿を、ケヤキの大木に重ね合わせるのも無理は無い。

昔のお年寄りが、若者に向かって「一ヶ所に根を張って大きく生きなさい。」と助言しているのをよく聞いた。
「自分の城を構えることが男として立派な生き方なのだ。」という台詞もよく使われた。
ケヤキの横根を眺めて、そんなことを思い浮かべる人が多いのではなかろうか。
そういえば「寄らば大樹の陰。」なんて諺もあったっけ。

しかし、この公園のケヤキの根の力強さを目の当たりにすると、動物とか植物とかの区別を越えた生き物としての力強い存在を感じてしまう。
それは、大木にちなんだ「人生訓」をも曇らせてしまうほどの迫力。
私には大木が「私のように根を張って大きく生きなさい。」と言っているようには聞こえない。

大地に太い根を張り天空に枝葉を大きく広げているケヤキの大木。
そんなケヤキが、公園のあちこちに立っている。
私には、そのケヤキが「たまには、ここで休んでいきなさい。」と言っているように聞こえるのだ。


横根に「つまずき注意」の看板


縁石を持ち上げている横根。


太い横根を上から写す。横根から横根が派生しながら大地をつかんでいる。


こちらも縁石を持ち上げている横根。


四方八方に横根。

2016/06/25

人混みのなかの笑顔「東北六魂祭2016青森」

青森駅前広場
今日は「東北六魂祭2016青森」の初日。
天気もいいことだし、祭りの賑わいを見物しに散歩がてら会場へ出かけた。
と、予想以上の人出に、ちょっとびっくり。
祭り好きな人たちが、会場に押し寄せている。

青森市港町の名前の無い海辺の公園は、実は「緩傾斜護岸」だった

公園の入口


青森市港町3丁目に陸奥湾に面した、東西方向に細長い公園がある。
公園の周辺を見渡しても、この公園の名前を記した標示板は見当たらない。
この公園の東端の向こうは合浦2丁目。

この公園から東方向に道路を600メートルほど歩いたところに、「日本の都市公園100選」に選出されている合浦公園がある。
合浦公園は、青森市立の総合公園で、緑地にはソメイヨシノやクロマツが林立し、砂浜は夏場に海水浴場として開放されている。

近所に立派な合浦公園があるせいか、この「無名公園」は影がうすい。
存在感が希薄で、あまり人には知られていない。
公園の周辺は、水産物の加工工場が多く、住宅は少ない。
そのせいか、公園全体に寂しい空気が漂っているようである。

そういえば、港町は1丁目から3丁目まであるが、緑地公園が少ない。
港町1丁目の堤川の東側に、川に沿って青森市の都市公園である「堤公園」と、町の北側の端に、岸壁に沿った緑地遊歩道があるくらいである。

港町の西を流れる堤川の河口の西側には「堤川緑地公園」がある。
所在地は青柳1丁目。
この緑地公園には、駐車場あり、クロマツの並木あり、小高い丘に東屋あり、アスレチック遊具あり、すわって海を見渡せるベンチあり、もちろんトイレありで公園として一通りの設備が整っている。
海辺で釣りを楽しんでいる人もいる。

埠頭の先端にある「堤川緑地公園」の周辺は、冷蔵庫会社だったり生コン工場だったりで、住宅はほとんどない。
くらべてみたら、むしろ「無名公園」の方が、近くに住宅が多い。


スロープ入口のゲート。錆びていて動かない。


この「無名公園」には、「堤川緑地公園」のような、夏の陽射しを遮ってくれる木陰も無ければ、目に優しい緑地も無い。
あるのは金属とタイルとコンクリートで構成された殺風景な空間だけ。
上の写真のように、スロープの入り口にあるシャレたゲートは、錆びついていて回転しない。
まるで何年も人が訪れたことの無い公園のようだ。
海釣り公園でもなさそうだし、いったい、この広場の用途は何なのだろう。
公園の散歩人の私としては、実に不思議な感じの公園なのだった。
謎と言ってもいいくらいだ。

ところで、この公園の東端の階段の下に、下の写真のような看板がある。
単なる注意書だろうと気にかけなかったが、よく見ると気になる文字が書かれてある。
看板上部の赤帯びには「緩傾斜護岸(かんけいしゃごがん)利用についての注意」と黒文字で記されてあった。
赤ベタに黒文字じゃ、スッゲー目立たないじゃないか。
と思いながら、注意深く看板を見ると、看板の左下には、「施設管理者:東青地方漁港事務所」と記されてある。


注意書きの看板。


これで納得。
ここは、青森市が管理する都市公園では無くて、青森県の「東青地方漁港漁場整備事務所」が管理する「緩傾斜護岸」であるらしい。
この看板を見て、そう納得したのだったが、「緩傾斜護岸」とは何なのか?
「緩傾斜護岸」という謎のような名称が、一層の混迷を誘っている。
そして、生活に馴染みの無い「緩傾斜護岸」という漢字だらけの堅苦しい専門用語が、一層人を近寄りがたくしているのではないかと思えてくる。

そこで「ネット検索」で検出されたサイトを右往左往。
「一般社団法人 日本埋立浚渫協会(にほんうめたてしゅんせつきょうかい)」のウェブサイトに「緩傾斜護岸」についての説明書きを見つけた。
それを私なりにまとめたのが、以下のもの。
  1. 緩やかに傾斜する水際線を造って、海と陸とのなだらかな連続性を意識した護岸。
  2. 広いスペースをとることができるため、開放的な空間にすることが可能である。
  3. 親水性や景観を意識して造られた護岸である。
  4. 親水護岸は、水辺の復権へ向けた港湾構造物を象徴する施設。
  5. 座って海を眺めたり、散歩や子どもの遊び場になる。
  6. 建設するのに適した地形は、長い水平距離をとることができる静穏な水域。


タイル敷きの広場。


なるほど、ここを公園として見ると、なにか変な公園だなと感じる。
「堤川緑地公園」に備わっているようなものは、ほとんど無いと言っていい。
わずかに、東屋とベンチがあるだけである。
ところが、「緩傾斜護岸」という港湾施設だと知ると、なるほどそういうものだったのかと納得する。
でも、「緩傾斜護岸」の内容を知らなければ、「緩傾斜護岸」って何だという人が多いのではあるまいか。

尚、「緩傾斜護岸」はこの施設の東側だけで、東屋やベンチのある西側のタイル敷き広場は、直立式護岸とテトラポットの組み合わせである。
一見公園のように見える西側の広場は、実は「緩傾斜護岸」付属の施設で、しかも直立式護岸なのだ。
ここが、この施設の紛らわしいところ。
「緩傾斜護岸」についての「説明書き」が、この施設のどこかになければ、この空間は理解できないのではないだろうか。

公園の散歩人は、家でブログを書きながらそう思った次第である。


広場からは東岳が見えた。


広場にはベンチ、ベンチつきテーブル、東屋といった設備がある。


広場の東側に、海辺に下りるブロック階段がある。これが「緩傾斜護岸」。


「緩傾斜護岸」の緩い傾斜で水際へ近づく階段。これが「親水護岸」と呼ばれる所以。


自動車道路からタイル敷き広場へ至る階段。


階段を登ってタイル敷き広場へ。

港町の岸壁沿いの遊歩道で「メノマンネングサ」という可愛い花に出会った

輝くように咲くメノマンネングサ。


青森市港町に、岸壁(北側)と自動車道路(南側)に挟まれて東西にのびる、幅7~8メートルの緑地遊歩道がある。
岸壁沿いの遊歩道とは言っても、海からは50~80メートルほど離れた位置を通っている。
犬を連れて、この遊歩道を散歩していたら、キリンソウによく似た花の野草を見つけた。

葉はキリンソウ同様に肉厚系であるが、葉の形がまるで違う。
キリンソウの葉は倒卵形で鋸歯がある。
誰が見ても葉っぱという形をしている。

ところが、こいつの葉は円柱状で先がまるくなっている。
なにやら棒のような形だ。
しかも、花のついた赤っぽい茎の傍らに、やはり円柱状の葉でおおわれた、背の低い茎が生えている。
その無花茎のモコモコした感じが面白くて可愛い。
なんとなく癒し系である。
黄色い花の径は12~15ミリ。
小さな花で、人知れずひっそりと咲いている風ではあるが、花は無数についていて、足元がとても賑やか。


茎の先端に花のついた赤い有花茎と、葉でおおわれた無花茎。


キリンソウは、ベンケイソウ科に分類されている。
同じベンケイソウ科にマンネングサ属があるというのをネットで調べて知った。
マンネングサ属の花は、キリンソウによく似ていて、黄色い星型。
この遊歩道で見つけた野草はマンネングサ属のどれかであると見当をつけた。

ところで、マンネングサ属は種類が多い。
一個一個ネットで調べたが、ここにある写真と共通の外観を持つものは、なかなか見つからない。
似たようなものは、たとえばメキシコマンネングサとかタイトゴメとかがあるが、微妙に形が違っていたり生育地方が違っていたり。

そこで、「草花を愛でる方々のためのお尋ねBBS」に写真を添えて質問したら、「メノマンネングサ」ではないかというアドバイスをいただいた。
「メノマンネングサ」でいろいろ検索した結果、メノマンネングサに間違いなしと結論が出た。
最大の理由は、下の写真のように有花茎が赤いものが多いこと。
それと、葉の形が円柱状であること。


黄色い花と赤い茎が可愛らしい。


以下はネットで調べたメノマンネングサの特徴である。
  1. 多年草で常緑。
  2. 植生帯は、山地、海岸の岩上、石垣。
  3. 花茎は長く地上を這い、上方で斜上または直立する。
  4. 花茎は、普通赤みを帯び、多数の枝を分岐する。
  5. 花は、茎の先に5弁花を集散状につける。
  6. 葉は単葉でまばらに互生し、形は円柱状。
などなど。
花はまるで違うが、茎も葉も肉厚系なので、マンネングサ属はスベリヒユを連想させる雰囲気がある。
スベリヒユは食用になるのだが、マンネングサ属はどうなのだろう。
そう思って調べてみたら、韓国ではツルマンネングサをサラダやナムルにして食べるそうである。
ツルマンネングサの他には、マンネングサ属の食用の記事はなかったので、メノマンネングサの可食性は不明。
いずれにしても、遊歩道で出会ったメノマンネングサは可愛い花で、たっぷりの癒し系笑顔を振りまいていた。


線香花火が弾けているようなメノマンネングサの花。

2016/06/23

ステキに仰々しいオオヨシキリの鳴き声「能なしの眠たし我をぎやうぎやうし」

空地
私の仕事場の南側に葦の生い茂っている空地がある。
この空地に、毎年、夏の初めにオオヨシキリがやってくる。
今の時期は、朝早くから夕暮までオオヨシキリの鳴き声で、独りの仕事場がにぎやかだ。
葦原に生えた柳の枝に止まって、オオヨシキリが赤い口の中をのぞかせて、しきりに鳴いている。

2016/06/22

野辺地町にある芭蕉の句碑「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」

野辺地町に芭蕉の句の石碑があると、人から聞いた。
野辺地町の桜の名所である「愛宕(あたご)公園」というところに、その句碑があるのだという。

芭蕉の「おくのほそ道」の旅の北限の地は平泉である。
野辺地までは足を延ばしていない。
「おくのほそ道」の通り道でもないのに、どうして野辺地町に芭蕉の句碑があるのだろう。
そう思って調べてみた。

この句碑は、文政十二年(1829年)に、俳聖芭蕉を慕う野辺地の俳諧師たちによって建てられたものであるという。
松尾芭蕉は元禄七年(1694年)十月に、大坂(現大阪)で亡くなっている。
その百三十五年後に、野辺地の地に芭蕉の句碑が建てられたことになる。
石碑の裏面には「東奥野辺地社中」と彫られている。

江戸時代の野辺地に、すでに熱心な芭蕉ファンがいらっしゃったのだ。
野辺地は、古くから交通や商業の重要な地として栄えた所。
生活に余裕のある商人達が、商いの品と一緒に情報を集め、風雅の世界に興じていたのだろう。

その石碑の表には、以下の句が刻まれてある。

花盛り山は日ごろの朝ぼらけ

この句は、芭蕉が貞享五年(1688年)に桜の名所吉野山で詠んだものとされている。
芭蕉は貞享五年三月(陰暦)頃、「笈の小文」の旅で吉野を訪れた。
ところが掲句は、芭蕉が著した俳諧紀行「笈の小文」にはおさめられていない。

作ってはみたものの、あまり気に入らなかったのだろうか。
私がこの句に接したとき、芭蕉の他の句とくらべて、ちょっとぼんやりした感じだなぁという印象を持ったのだったが・・・・。

掲句は、江戸時代前期の俳諧師である「中村史邦(なかむらふみくに)」という方が、芭蕉の没後に編んだ「芭蕉庵小文庫(ばしょうあんこぶんこ)」におさめられているという。

「芭蕉庵小文庫」は、元禄九年(1696年)三月の発刊。
江戸の俳諧の動向を絶えず注視していたであろう野辺地の俳諧師たちにとって、俳諧関係の出版物は熱望の的だったに違いない。
愛宕山に句碑を建立するにあたって、「東奥野辺地社中」の方々が、芭蕉句の出版物を前に、石碑に刻む句の選択に白熱した会議を幾日も開いていたであろう様子が想像される。

それとも、句碑の建立場所が愛宕山に決定した段階で、彫刻する句は「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」と決まっていたのかもしれない。
歌人西行が愛した吉野山の桜。
西行を慕っていた芭蕉もまた、吉野山へは幾度も訪れている。
前述の通り、掲句は桜の花盛りの吉野山で詠まれたもの。

「東奥野辺地社中」の方々は、野辺地の愛宕山を奈良の吉野山に模したのではなかろうか。
現在の愛宕公園には、樹齢三百年と推定されている「エドヒガン」という桜の野生種が立っている。
愛宕山が、野辺地町を一望できる桜の景勝地「愛宕公園」として整備されたのは、明治17年の頃という。
だが、それ以前から愛宕山は、江戸時代の野辺地の人々にとって「エドヒガン」の花見の場所であったことだろう。

「東奥野辺地社中」の方々も、愛宕山で優雅な花見の句会を開いていただろうことは容易に想像できる。
愛宕山で桜を眺めながら芭蕉を偲んで、遠い奈良の吉野山の桜に思いを馳せていたのかもしれない。
当時、交通や商業活動の要衝だったとはいえ、野辺地は、江戸からみれば北の奥の辺境である。
辺境に暮らす俳諧師たちは、芭蕉の句碑を、野辺地と江戸をつなぐモニュメントとしたに違いない。

この句には、北方の辺境に暮らす俳諧師達の思いを彷彿させるものがある。
それが、この句を石碑に刻んだ理由ではないかと私は思っている。
「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」。

多くの蕉風俳諧師達が活躍している江戸は、俳諧の花盛りだろうが、ここ野辺地は、いつもと変わらぬ朝夕の繰り返しであるなあという感慨。
そう感じた野辺地の俳諧師たちが、「憧憬」にも似た感慨を芭蕉の句に寄せたことだろう。

考えすぎだろうか。


<関連記事>
◆松尾芭蕉おもしろ読み:芭蕉俳諧についての記事のまとめページです。興味のある方はどうぞ

2016/06/19

「オヤスとトンケイ」の伝説の山、雲谷峠へ愛犬とミニハイキング

雲谷の山。


今日は、雲谷(もや)峠へミニハイキング。

雲谷峠は、青森市の南側に位置し、八甲田山へ至る「案内標識」のような山。
大きな三角形の山は、青森市街地からよく目立つ。
雲谷峠山頂の標高が553メートル。

スタート地点のモヤヒルズ第7駐車場の標高が約250メートルだから、標高差300メートルのミニハイキングである。
アスレチック遊具のある冒険広場の東側を通り、ヒルズサンダーコースに沿ってアケビペアリフトの始点まで登った。

そのリフト始点から、ウィンターシーズンのスキーゲレンデとなっているトンケイコースをのんびりと登る。
ところで、「トンケイ」とは聞きなれない言葉。
スキー場(モヤヒルズ)の各ゲレンデ名は、コスモス、オダマキ、ワラビ、カタクリ、カランツ(アカフサスグリ)と、雲谷峠に自生する植物にちなんだものがほとんどである。
モヤヒルズに、「トンケイ」という名の植物は存在しない。

調べてみると「トンケイ」というのは、昔、雲谷の山に館をかまえていたアイヌ戦士の名前であるらしい。
その「トンケイ」の姉は「オヤス」という名前で、ここのアイヌ集落の「部族長」を務めていたという。
このアイヌ集落は、坂上田村麻呂という人の「蝦夷征伐」によって滅ぼされてしまった。

坂上田村麻呂が、大きな灯籠を持ち出して、笛や太鼓でアイヌ戦士達を誘い出して騙し討ちにしたという滑稽な伝説は、あまりにも有名だ。
これが「ねぶた祭り」の起源と言われているが、現在では否定的な意見が主流のようである。
坂上田村麻呂が、現在の青森県まで攻め入ったという史実は、今のところ存在しない。

「オヤス」と「トンケイ」という姉弟の存在も、山の麓の村に伝わる「昔話」の域を出ていない。
敗れはしたものの、坂上田村麻呂と対峙した岩手地方実在のアイヌ戦士「アテルイ」や「モレ」を模して作られた伝説かもしれない。
そういう伝説を持つことで、「モヤ」の山麓に住む人々は、中央政権に対して「まつろわぬもの」としての矜持を密かに保ったのか。
とすれば、雲谷の三角山は、中央政権に従わぬ者の象徴とも言える。

それはともかく、この雲谷峠の山は急峻な円錐形で、アイヌの部族が「チャシ(アイヌ人の館の意)」を築くのに適している。
青森市の後潟に「シリポロチャシ」があったように、この山にも「チャシ」が存在したことを信じたい。
統率力に優れた「オヤス」と、勇猛な戦士であった「トンケイ」の存在も信じたい。


アケビペアリフト始点の横からトンケイコースを登る。


ちなみに、「トンケイ」の名を冠したトンケイコースは、スキー技術では中級コース。
姉の「オヤス」の名は、トンケイコース滑り出し(アケビペアリフト終点)にある「オヤスの鐘」として残っている。
「トンケイ」の名は、モヤヒルズの最急斜面(現カタクリゲレンデ、旧雲谷スキー場の頃は第三ゲレンデ)の名前として残してほしかったものだが・・・・。

雲谷峠という山の名前も、その昔、ふもとの集落の古老が、アイヌ戦士「トンケイ」の名にちなんで「モヤノトンケ」とか「モヤトンケ」と呼んでいたことに由来すると言われている。
そのため、地名を地図に書き入れるお役人が、雲谷の山を漢字で「雲谷峠」と記入したという。
よっぽど耳の悪いお役人だったようだ。


トンケイコースの緩斜面を登る。


登り始めがお昼近くだったので、夏の太陽は真上。
歩いたコースに日陰はほとんど無く、ときおり涼しい風が吹くものの、愛犬にとっては相当難儀な山登りだったようだ。
愛犬は、口から舌を垂らして、ハァハァ荒い息で登って、ようやく「オヤスの鐘」までたどり着いた。

「オヤスの鐘」から山頂までは踏み跡(登山道)がのびている。
木々に囲まれた細い道で、よく踏まれていて心地よい登山道である。
木々の葉が陽を遮ってくれて、風がいっそう涼しく感じられる。
「オヤスの鐘」から山頂までは5分ぐらい。
山頂は立木に閉ざされていて展望がきかない。
雪が降り積もった冬場は、見晴らしの良いところなのだが。

雲谷峠には、愛犬がまだ1歳のころ登ったことがあった。
今から9年前のこと。
そのころの記憶があるのかどうか、愛犬はしきりに山頂付近の匂いを嗅ぎまわっている。
幼い頃初登山した山に、老いてまた登る。
感慨ひとしおなのは人間ばかりで、犬はただしんどいのみ。


トンケイコースのちょっとした急坂を登り切ったところ。背後に見えるのは合小沢記念公園あたり。


「オヤスの鐘」から北方向に平坦な尾根が延びていて、その尾根の東側は展望が開けている。
東岳方向を遠望することが出来る。
尾根の北端からは、青森の市街地や陸奥湾を見渡せる。

アケビペアリフト終点の小屋の日陰でゆっくり休憩。
愛犬を休ませた。

四方に急峻な斜面をしたがえた、この平坦な尾根の上に「チャシ(館・砦)」を構えたら難攻不落だったのではないか。
飲料水は、東側の崖下の、沢の水を利用したのだろうか。
雲谷峠の麓の平地と、ホテルヴィラシティ雲谷(現在閉鎖中)が建っている平地を含めた大集落があったのかもしれない。
などと、空想が広がる。

雲谷峠は、「オヤスとトンケイ」の伝説の山であり、その伝説がこの山のミニハイキングに歴史的な彩を添えてくれる。
ただ、スキー場の中を登るのは、ちょっと味気ない。
山の東側が森になっているので、そこに遊歩道を築いたら、雲谷峠は四季を通じて都市近郊型の素敵なアウトドアフィールドになるに違いない。
ただ、この山には地権者がいらっしゃるので、のんきで手前勝手な「構想」は靄(もや)のごとく消え去るのみである。


私と愛犬のケツ。

奥にアケビペアリフトの終点が見える。

アケビペアリフト終点にある「オヤスの鐘」。この柱の脇から「登山道」がのびている。

トンケイコースの滑り出しに沿って山頂への踏み跡がついている。

踏み跡ははっきり確認できる。

山頂はもうすぐ。

雲谷峠山頂。

山頂付近の、謎のコンクリート構造物。

カタクリペアリフト終点の滑り出しから青森市街を見下ろす。

カタクリペアリフト終点からカタクリゲレンデの急斜面を見下ろす。

雲谷峠の山の向こうに北八甲田が見える。

アケビペアリフト終点の小屋が唯一の日陰をつくっている。あたりは、草が刈り払われたばかりのようだった。

2016/06/18

滝沢の谷でミズ採り

ミズの山
青森市滝沢の山。


今日は午後から、青森市郊外の滝沢の山でミズ採り。
このところ、新鮮なミズを求めてあちこちの山へ出かけている。
ミズを食べると胃腸の調子がいいからだ。
今年は、ミズをたくさん食べよう。
ミズを食べて、大腸ポリープと慢性胃炎の悪化を遠ざけよう。
そう思ってミズ採りに精を出している。

滝沢はミズの豊富な山。
そのため、ミズ採りにやってくる人が多い。
林道入口には鍵のかかった柵があるものの、その柵の脇が大きく空いている。
そのため車両の通行が可能で、楽して大量のミズが入手できる。
長く歩くこと無く、ミズの繁殖地にたどり着けるのだ。
しかも、大量のミズをクルマで運搬できる。
山菜採りの人達にとっては天国のような山。

この林道は、路肩の崩れかかった箇所があるので、私のピックアップでは通るのがためらわれる。
林道を通るクルマは、軽トラや軽のワゴンがほとんど。
私は、滝沢の山をハイキングするときと同様に、みちのく有料道路脇の駐車スペースにクルマを止めた。
そこから15分ほど歩いたところが、今日の採集場。

近場の平坦な沢沿いの群生地は、クルマで入ったミズ採りによって採りつくされている。
生えているのは、茎の細い未熟なミズばかり。

山の険しい傾斜地のミズはまだ手つかずで、食べごろのミズが生い茂っていた。
そこで、急傾斜の沢を奥の方まで登り、そこでミズを採った。
楽してミズを採ろうという人々の手は、ここまで伸びていない。

谷の風景を楽しみながら、のんびりとミズ採りを楽しんだ。
青森ならではの贅沢な楽しみ。
そう思っているのは、私だけだろうか。

急傾斜のミズの谷。
手頃な量のミズをポリヒモで束ね、根についた泥を沢の水で洗う。
そうやって6束をリュックに詰めた。
リュックを担いだ感じは20キロ強ぐらいの重さ。
あまり重いと帰りが剣呑だ。
急な岩の斜面と、滑りやすい足元。
足を滑らせて転落したら、怪我は免れない。
慎重に下って、今日の仕事は無事終了。
作業時間は、駐車場所からの行き帰りを合わせて2時間ぐらい。

群生しているミズ。
家にもどったら、シャワーを浴びてからミズの皮抜き。
ミズは、茎の薄皮を剥がないと美味しくいただけない。
ミズを採るのは楽しいが、皮剥き作業がなかなか面倒。
しかし、食べる楽しみが待っている。

ミズの油炒めをつまみにビールを飲む。
ミズは油とよく合う。
おまけに、ビールともよく合う。
おっと、飲み過ぎに注意。
私は肝臓の方も要注意なのだ。
長い年月で使い古した体をミズが若返らせてくれる。
そんな思いもあって、ミズを食べている。
消化吸収はバッチリ。

人間を丸飲みしたウワバミが、腹ごなしにミズを食べるという民話がある。
上方落語の「蛇含草(じゃがんそう)」という話の元になった民話である。
「蛇含草」とはウワバミソウ、つまりミズのこと。
ミズは胃腸の消化吸収能力を高めるという古来からの言い伝えがあるのだろう。

新鮮なミズを存分に食べる。
やはり、青森ならではの贅沢である。

茎の太いものを採取。

2016/06/15

散歩がてら浦町神明宮の宵宮見物

屋台が道の両側にびっしりと。


13日の勝田稲荷神社の宵宮につづき、今夕は浦町神明宮(うらまちしんめいぐう)の宵宮見物。
夕暮の蒼き空の下、夜店の灯りがカラフルに輝いている。

その夜店に囲まれた道路には、すでに大勢の参拝客。
浦町神明宮は勝田稲荷神社よりも1キロメートルほど北の場所に鎮座している。

浦町神明宮の住所は橋本2丁目。
浦町神明宮の「浦町」とは、現在の青森市の「浦町」のことでは無い。

その昔、このあたり一帯が浦町村であった頃、「浦町」という地名を神明宮の頭に冠したためと思われる。

浦町神明宮の創建の年は不明とされている。
青森県神社庁の由緒書きによると、創建されたときは青森浦町元伊勢という所に鎮座していたという。

「元伊勢」という古い地名は、現在の浦町神明宮が建っている場所を示しているらしい。
それが、 寛永二十年、 弘前藩二代藩主信牧公の時、 青森町繁栄のため、 浦町村元伊勢より柳町へ遷宮。

現在の「浜町神明宮」は、当時の浦町村元伊勢より遷宮した「神明宮」が諸事情により遷宮を繰り返し、現在の地(本町2丁目)に鎮座したものであるという。

一方「神明宮」を失った浦町村の人々は、嘆願により浦町神明宮を享和2年に再興した。 
浦町神明宮は、明治六年「村社(そんしゃ)」に列せられたという。

ちなみに「村社」とは、旧制度の社格(神社の格式のこと)のひとつ。
「村社」の格式は、「郷社(ごうしゃ)」の下で、「無格社」の上であるとされる。


夜店が立ち並ぶ。


「神明宮」は全国各地に鎮座し、全て伊勢信仰に由来するものであるという。
青森県内にも、54の「神明宮」が存在する。

浦町神明宮の御祭神は、天照大神(アマテラスオオミカミ)・大宮能賣神(オオミヤノメノカミ)・猿田彦神(サルタヒコノカミ)。

天照大神と猿田彦神はよく知られているが、大宮能賣神についてはあまり知られていない。
これにはいろいろな説があり、判然としない。
一説には大宮能賣神は、皇宮の祀祭神八柱のうちの一神で、「稲倉魂大神(うかのみたまのおおかみ)」の母神であり、人間と稲荷様との中継ぎをしてくれる女神様であるという。
「倉稲魂大神」は先日お参りした勝田稲荷神社の御祭神でもある。

浦町神明宮の宵宮では、賑やかにカラオケ大会が奉納されていた。
「大宮能賣神」は「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」の別名であるという説があり、「天宇受賣命」が「技芸上達の神様」とされることから、カラオケ大会が催されているのだろう。

そのカラオケ大会は天照大神にも捧げられている。
こうしてみると、古代神話の神様と現代人との交流が宵宮祭りなのではあるまいかと思えてくる。

浦町神明宮の摂社(末社)に「岩木山大神」が祀られたあった。
八甲田山の裾野にある青森市であるから、八甲田神社の摂社(末社)のほうがふさわしいのではと思うのだが、素人の浅はかさであろうか。
「岩木山大神」の力の大きさを見せつけられた印象を持った。

散歩がてらに浦町神明宮の宵宮を見物して、宵宮巡りも面白いなと実感した次第である。

※参考サイト
青森県神社庁ホームページ
日本の神社・寺院検索サイト「八百万の神」


参道の入り口。


参道。


コンクリート造りの拝殿。


奉納カラオケ大会。


岩木山大神の摂社(末社)。