凡兆の計略?「秋風の仕入れたを見よ枯れ尾花」
「秋風」は秋の季語だが、「枯れ尾花」は冬の季語となっている。
季節の違うふたつの季語がひとつの句のなかに入っている。
これを「季違い」と称して、句をつくる上では避けるべきことであるとされている。
などという約束事やら技術めいたことやらは、俳句の実作者ではない私には、よくわからない。
観賞者である私は、句の言葉にあるイメージを感じ取るのみ。
秋風の仕入れたを見よ枯れ尾花
野沢凡兆
季節の違うふたつの季語がひとつの句のなかに入っている。
これを「季違い」と称して、句をつくる上では避けるべきことであるとされている。
などという約束事やら技術めいたことやらは、俳句の実作者ではない私には、よくわからない。
観賞者である私は、句の言葉にあるイメージを感じ取るのみ。
秋風の仕入れたを見よ枯れ尾花
野沢凡兆
凡兆の句のなかでは、マイナーなものである。
蕉門の俳諧集である「猿蓑」には載っていない。
「猿蓑」所収の凡兆の句には印象の鮮明なものが多かった。
この句に人気が無いのは、印象が鮮明ではないからか。
そもそもこの句には、凡兆特有の「言葉の感覚」が発揮されていないように思われる。
凡兆は生活のなかにある「もの」を組み入れて句を作ってきたと私は思っている。
「灰」や「捨舟」、「錆びた剃刀」、「倒れる案山子」、「灰汁桶」、「砂よけ」などなど。
日常のなかから見つけ出した「もの」が、句の言葉に反映されていない。
「もの」の存在感が伝わってこない。
掲句の特徴は、俳諧に馴染みの多い「秋風」と「枯れ尾花」に挟まれて、その「秋風」や「枯れ尾花」に馴染みそうにない「仕入れた」という言葉があること。
この「仕入れた」が、鮮明になるべき光景をぼかしているのではないだろうか。
いったい「秋風」は何を、何のために「仕入れた」のだろう?
掲句では「秋風」を行商人のようにたとえて、擬人化している。
その「秋風」が「仕入れた」のは「枯れ尾花」なのか。
「秋風」が、「枯れ尾花」をご覧あれと売り歩く。
そのように「枯れ尾花」は、「秋風」が「仕入れた」もののように、揺らいでいる。
そんなイメージか。
ちょっとピンとこない。
「仕入れた」という言葉を使った凡兆の意図は何なのだろう。
「枯れ尾花」とは、枯れたススキのこと。
ススキは、いつも風に揺れている存在である。
暑い夏の終わりごろは、朝夕に涼しい風が吹くようになる。
そうなるとススキは、「秋風」が爽やかさを仕入れて自分に届けてくれたと思うことだろう。
凡兆は、ススキに成り代わって自然を感じようと試みたのかもしれない。
そして冬が近づく。
「秋風」は、こんどは何を仕入れてきたのだろう。
「枯れ尾花」よそれを見てみろよ、と「枯れ尾花」を擬人化してみたり。
「枯れ尾花」が凡兆自身でもあるようなイメージ。
凡兆の叙景句は、感情を込めないものに、鮮明な印象の句が多かったのだが。
掲句の「見よ」には強い感情が働いているように思う。
「仕入れたを」という表現にも、凡兆の感情の動きが感じられる。
この句は、句会の連句で詠まれた凡兆の句なのだろう。
「秋風」や「枯れ尾花」を擬人化することで、凡兆は連句にメルヘン的な「物語性」を出そうとしたのではあるまいか。
この句に「もの」の存在感はみられないが、この句から「物語」の予感を受け取ることはできる。
「仕入れたを見よ」という意志的な表現は、句会のメンバーに働きかけた凡兆の計略。
「この連句をメルヘンに作り上げようぜ。」という凡兆の「はかりごと」なのではあるまいか。
この句を連句のなかへ溶け込ませようとしたために、この句の独自性があまり鮮明では無いのだろう。
例によって、私の空想に過ぎないかもしれないが。
「秋風の仕入れたを見よ枯れ尾花」
■野沢凡兆の俳諧のページへ
「猿蓑」所収の凡兆の句には印象の鮮明なものが多かった。
この句に人気が無いのは、印象が鮮明ではないからか。
そもそもこの句には、凡兆特有の「言葉の感覚」が発揮されていないように思われる。
凡兆は生活のなかにある「もの」を組み入れて句を作ってきたと私は思っている。
「灰」や「捨舟」、「錆びた剃刀」、「倒れる案山子」、「灰汁桶」、「砂よけ」などなど。
日常のなかから見つけ出した「もの」が、句の言葉に反映されていない。
「もの」の存在感が伝わってこない。
掲句の特徴は、俳諧に馴染みの多い「秋風」と「枯れ尾花」に挟まれて、その「秋風」や「枯れ尾花」に馴染みそうにない「仕入れた」という言葉があること。
この「仕入れた」が、鮮明になるべき光景をぼかしているのではないだろうか。
いったい「秋風」は何を、何のために「仕入れた」のだろう?
掲句では「秋風」を行商人のようにたとえて、擬人化している。
その「秋風」が「仕入れた」のは「枯れ尾花」なのか。
「秋風」が、「枯れ尾花」をご覧あれと売り歩く。
そのように「枯れ尾花」は、「秋風」が「仕入れた」もののように、揺らいでいる。
そんなイメージか。
ちょっとピンとこない。
「仕入れた」という言葉を使った凡兆の意図は何なのだろう。
「枯れ尾花」とは、枯れたススキのこと。
ススキは、いつも風に揺れている存在である。
暑い夏の終わりごろは、朝夕に涼しい風が吹くようになる。
そうなるとススキは、「秋風」が爽やかさを仕入れて自分に届けてくれたと思うことだろう。
凡兆は、ススキに成り代わって自然を感じようと試みたのかもしれない。
そして冬が近づく。
「秋風」は、こんどは何を仕入れてきたのだろう。
「枯れ尾花」よそれを見てみろよ、と「枯れ尾花」を擬人化してみたり。
「枯れ尾花」が凡兆自身でもあるようなイメージ。
凡兆の叙景句は、感情を込めないものに、鮮明な印象の句が多かったのだが。
掲句の「見よ」には強い感情が働いているように思う。
「仕入れたを」という表現にも、凡兆の感情の動きが感じられる。
この句は、句会の連句で詠まれた凡兆の句なのだろう。
「秋風」や「枯れ尾花」を擬人化することで、凡兆は連句にメルヘン的な「物語性」を出そうとしたのではあるまいか。
この句に「もの」の存在感はみられないが、この句から「物語」の予感を受け取ることはできる。
「仕入れたを見よ」という意志的な表現は、句会のメンバーに働きかけた凡兆の計略。
「この連句をメルヘンに作り上げようぜ。」という凡兆の「はかりごと」なのではあるまいか。
この句を連句のなかへ溶け込ませようとしたために、この句の独自性があまり鮮明では無いのだろう。
例によって、私の空想に過ぎないかもしれないが。
「秋風の仕入れたを見よ枯れ尾花」
■野沢凡兆の俳諧のページへ