芭蕉の帰郷「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

「野晒紀行」は紀行文ではなくて「俳文集」

「野晒紀行」は、「てふ」の茶店のあと、唐突に「閑人(かんじん)の茅舎(ぼうしゃ)をとひて」という話(文章)に続く。

芭蕉は、俗世間を離れてゆったりと暮らしている人物の草庵を訪ねる。
その草庵がどこにあって、どういう人物が暮らしているのかについての記載はない。
「蔦植ゑて竹四五本の嵐哉」と一句あるだけである。
そしてこの「閑人の茅舎」から一足飛びに故郷に帰り着く。

ここまで「野晒紀行」を読んできて、私同様多くの読者は「はて?」と思ったことだろう。
はたしてこれは「紀行文」なのだろうか?と。

「紀行文」ないし「紀行」とは、旅行中の行動・人との出会い・見聞・感想などを、旅の足どりを追って書き記した文章のこと。
「野晒紀行」で記されている文章のほとんどは、発句の「前書き」であり、発句に添付された「説明文」である。

以前「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句のことを記事にしたとき、「野晒紀行」の名称について触れたことがあった。
「野晒紀行」は、芭蕉の命名では無いと書いたのだった。

とすれば、この「野晒紀行」は、紀行文として芭蕉が上梓したものではない可能性が大きい。
後世の人々によって「野晒紀行」と名付けられはしたものの、実は芭蕉の「旅の発句と俳文を集めたもの」なのではないだろうか。

こう考えると、それぞれの発句に添付された文章が、旅の時間の流れにたいして唐突であることが納得できる。
芭蕉の職業は俳諧師である。
芭蕉はいつでもどこでも句を詠まなくてはならない。
また、句を詠むことができなくてはならない。

旅のなかで俳諧のことを考え、思いついた句を書きとめる。
そして、その句にふさわしい文章を書きとめる。
おそらく、こうしてできた「吟行」の成果をまとめたものが、後世の人々に「野晒紀行」と命名されたのだろう。
私は、そう考えている。

亡き母の墓参りのための帰郷

さて、「野晒紀行」での、故郷の伊賀上野に到着した際の文章は以下の通り。

「長月(ながつき)の初(はじめ)、故郷に歸りて、北堂の萱草(くわんさう)も霜枯果(しもがれはて)て、今は跡だになし。何事も昔に替(かは)りて、はらからの鬢(びん)白く、眉(まゆ)雛(皺)寄(より)て、只(ただ)命有(あり)とてのみ云(いひ)て言葉はなきに、このかみの守袋(まもりぶくろ)をほどきて、母の白髪(しらが)お(を)がめよ、浦島(うらしま)の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老(おい)たりと、しばらくなきて、」

以下が私の現代語訳。
『九月のはじめに故郷に着いて、北に位置する母の居室の庭に植えていた忘れな草も霜のために枯れ果てたようすで、今はその跡さえ見ることができない。何事も昔と変わってしまい、兄の鬢(びん)は白髪が目立ち、眉の付近に皺が寄って、「おまえ(芭蕉)が生きていてくれた、それだけでいい」とだけ言って交わす言葉はなく、兄は自分のお守り袋を開いて、「母親の白髪を拝んでくれ、この袋はおまえ(芭蕉)にとって浦島の子の玉手箱のようなもの、おまえの眉もだいぶ老いて白く見える」と、しばらく泣いて、』
【※「兄」とは芭蕉の長兄であり松尾家の当主である松尾半左衛門】

芭蕉の旅の目的は、前年の六月に死去した母親の墓参だった。
前年の天和三年六月に、芭蕉が伊賀上野に帰郷したという記録は見当たらないので、芭蕉は母の最後を看取ることができなかったのだろう。

それにしても、せっかく故郷に帰ってきたのに、ずいぶん暗い文章である。
この暗さは、長いこと故郷を留守にした後悔から生じる暗さなのだろうか。
延宝四年六月以来、八年ぶりの芭蕉の帰郷であった。

手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜
松尾芭蕉

亡くなった母の白髪を手にしたら、「浦島の子」のように長い間故郷を留守にしていた自分の人情の無さを思い知り、熱い涙があふれた。
この私の涙に、秋の霜も消えてしまうことだろう。
というイメージ。

この句の破調ぶりは、今までの比ではない。
定型で読もうとする読者は、この句をどこで区切って読んだらいいのか迷うことだろう。

私は掲句に、芭蕉の後の句である「 塚も動けわが泣く声は秋の風」を思い浮かべた。
「塚も動け・・・」の句と掲句との対応ぶりをみると、下記のようになる。

「塚も動け」>「手にとらば消えん」(動きの様子:変化)
「わが泣く声は」>「なみだぞあつき」(心の様子:感情)
「秋の風」>「秋の霜」(季節:季語)

俳文は句の舞台装置

「塚も動け・・・」の句が劇的であるのと同様、掲句も劇的であると感じている。
「劇的な句」とは、読者がその場に居合わせた観客のように、ドラマの一場面を垣間見るような句のことであると私は思っている。
芭蕉が句で創り上げた「劇」に、読者は観客としてその場面に臨(のぞ)んでいるような気分になる。

そういう気分にさせるには、さらに舞台が必要である。
芭蕉は、「俳文」という舞台装置で、その発句(劇)を支えようとしたのだろう。
こうしてできあがったものが、「野晒紀行」という仮名(かめい)の「読み物」なのではと私は思っている。

なお、この年から三年後の貞享四年十二月末に「笈の小文」の旅で帰郷した芭蕉は、「旧里や臍の緒に泣くとしの暮れ」という亡き母を悲しむ句を作っている。

虚と実

芭蕉は、旅の前年である天和三年に、宝井其角(たからい きかく)編の俳諧撰集「虚栗(みなしぐり)」のために、跋文を書いている。
その跋文の最後の方に、「虚栗」を評して「其語震動、虚実をわかたず、」(「芭蕉年譜大成より引用)とある。

『「虚栗」に載っている句は、躍動感にあふれて、しかも創作物と現実が一体となっている』と芭蕉は述べているのであろう。
それが俳諧の魅力であると言わんばかりである。

「虚栗(みなしぐり)」とは、「実無し栗」の意。
芭蕉は「虚栗」という俳諧撰集の標題に、なかばしゃれて「虚実をわかたず」と記したのだろう。
だが、「野晒紀行」においても「虚実をわかたず」がひとつのテーマであるように思える。

芭蕉は、長い間帰省しないで江戸で俳諧に専念していた生活を、故郷の現実をかえりみない「虚」の暮らしと見ていたのではあるまいか。
そう考えると、以下のような句のイメージも思い浮かぶ。
「浦島の子が玉手箱」のような母の形見の白髪を手にとってみたら、「浦島の子」が現実にかえったように、私の「虚」も消えてしまうであろう。
それだけ現実の涙は、秋の霜をとかすほど熱かったのだ。

「虚」の世界の旅人である芭蕉が、実家の兄によって「母の白髪おがめよ」「実」を突きつけられたのである。
その兄は「只命有とて」とだけ言って、芭蕉の「虚」の暮らしぶりについては何も言わなかったのだった。

手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜

-----<幕>-----


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