2018/12/09

支考の雑談のような句「いま一俵買おうか春の雪」 

「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか(著 大輪靖宏)」に「芭蕉を受け継ぐ弟子たち」というタイトルで、主だった門人の紹介文が記されている。
その中に短いが、各務支考の紹介文もある。

「各務支考(かがみ しこう)(1665~1731)は芭蕉没後、美濃派を起こして蕉風の普及に努めた人で、著書も多い。」(「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか」より引用)

芭蕉は1644年生まれだから、1665年生まれの支考は芭蕉より二十一歳若いことになる。
この芭蕉と支考の関係が面白い。

芭蕉と支考がどのようにして知り合ったのか。
いつごろ支考は蕉門に加わったのか。
私には、それを明らかにする術はない。

2018/12/08

この冬はじめての雪かき

【この冬はじめて、クルマが降雪のため雪に埋まった。】


朝起きたら、クルマに30センチぐらいの積雪。
家の前の駐車場も、たっぷりの白い雪。
なので、この冬初の雪かきとなった。

天気予報は、強い冬型の気圧配置になると言っていたが、そのわりには寒くない。
雪かきをすると、地面と接している部分の雪は融けかかっている。
ここのところ暖かい日が続いたので、地面の温度はまだ低くない。
その地面に着地した雪は融ける。

でも、降っている雪の量が多いので、融けるのが積もるのに追いつけない。
積もる雪は、ゆうゆうと融ける雪を追い越してザンザカ降り積もる。
その結果の今朝の積雪である。

積雪の底の雪は、融けて水っぽくて重い。
積雪の上層の雪は、スコップやスノーダンプの底にくっついて離れず、雪かきがやりにくい。
パウダーなのだが、スキーの底にくっつく嫌なパウダーである。
おそらく、雪かきがやりにくい雪質は、スキー滑降にとっても面倒な雪である。

私が雪かきをしていると、愛犬が家のなかで騒ぐ。
ワンワン吠えて、ピーピー泣く。
私が雪と遊んでいると思っているのだ。
自分(愛犬のことね)をほったらかしにして、白いもの(雪のことね)で遊んでいる。

近所迷惑なので、雪かきを途中にしたまま愛犬の散歩に出かける。


【家の入口付近を雪かき。】


公園の植え込みには、ドウダンツツジの紅葉がまだ残っていて、白い雪に映えている。
紅葉した赤い葉が、いっそう鮮やかである。
下の写真のドウダンツツジは、夏の頃にヤブガラシにおおわれてゴチャゴチャになっていた植栽。

それが、ヤブガラシも枯れてなくなり、スッキリして、いい感じになっている。
雪対策のため、荒縄でしばられて窮屈そうだが、ヤブガラシまみれよりはいいでしょう。

ドウダンツツジは、ヤブガラシにからまれない冬のあいだ、上空の開放感を楽しんでいる。

ほんまかいな。
この重い頭の雪は・・・
気にしない気にしない。


【雪の公園を愛犬と散歩。】


【公園に住みついているノラネコ。雪が降っても健在。】

おや、ノラネコくんも健在だ。
この冬も、ここで越年するのですね。
ふてぶてしいひと睨みに、愛犬はうつむいてばかり。

ご立派ご立派とブツブツ言いながら、足早に遠ざかる愛犬。

ノラネコくんにエサをやっているオバハンがいるんやでえ、と私。

せやろ、そうでなきゃ生きていかれへんわ、と愛犬。

それにしても、ようこえとるわ、と私。

そのオバハンに、よっぽどええもん食わしてもろてはるんやろ、と愛犬。

そんなこといいな、うちでなんも食わしたらんみたいやんか、と私。

感謝してまっせ、と大あくびする愛犬。

雪が積もると、ふだん聞こえない雑談が、どこからともなくヒソヒソと聞こえてくるもんです。


【雪の上に散ったドウダンツツジの紅葉。】

2018/12/06

芭蕉のさわやかな一句「田や麦や中にも夏はほととぎす」

「曾良書留」にある芭蕉句

元禄二年四月三日に、「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行(芭蕉と曾良)は那須黒羽の余瀬(よぜ)に到達。
四月四日に、黒羽大関藩家老浄法寺図書(じょうほうじ ずしょ)に招かれ、四月十日まで浄法寺宅に滞在したと「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」にある。
「曾良随行日記」には、四月六日より九日まで雨止まずと記されてある。
梅雨時だったと思われる。

下記の句は、四月七日の作。

田や麦や中にも夏はほととぎす
松尾芭蕉

この句は「おくのほそ道」には載っていない。
「曾良書留(俳諧書留)」に記された芭蕉の句である。

時期的に水田の稲は緑が濃くなりだし、麦畑の麦は赤みがかった黄色になりかけている頃の作。
稲や麦が成熟に向かって、変化していく季節。
夏から秋にかけて実りをむかえ、収穫され脱穀されて、食料となっていく。
稲や麦は、そういう農家の労働の対象としてある。
そして農家の労働は、人の命の糧を産み出す尊い仕事である。

「田や麦や」句文

下の文章は、この句の前におかれた句文の一部。

「苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

「粒々にからきめ」とは「粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)のことであろう。
「粒粒辛苦」とは、米や麦の一粒一粒は、農民の苦労と努力の結果実ったものであるという意味。
唐の詩人「李紳(りしん)」の「憫農(のうをあわれむ)」が出典となっているとのこと。
芭蕉はそれを踏まえて「粒々にからきめ」と言ったのだろう。

「粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく」は、「農民の苦労と努力をまのあたりにして」という意味かと思われる。

句文を現代語にした私の「訳文」は以下の通り。

「(稲の)苗は緑色、麦の穂は赤みがかった黄になってきた。米や麦の一粒一粒につらい思いをする農民の働きも間近に目にする。まったく(農家の人たちは)春秋の趣や月雪の景色以外、今は夏の初めであるから、(忙しくて)名勝地ひとつすら見ることができない。(そういう農民の苦労を見て私は)、ただ言葉をのみ込んで、黙って筆を置くだけであったなあ。」

農民と芭蕉との対比

「田や麦や」とは、人にとって無くてはならない食料を生産する場所である。
また、その生産に携わっている農民をも、「田や麦や」で表しているように思われる。
農民は、水田や麦畑での作業におわれて、行楽地で景色を眺めるなどの人生の楽しみを享受できないでいる。

それにくらべたら私は、夏にやってくる渡り鳥の「ほととぎす」のようなもの。
いろいろな景色を見ながらこの地にやってきた。
鳴きながら旅を続ける「ほととぎす」に、芭蕉は句を作りながら旅を続けている自身を重ねたのだろう。
「田や麦」と「ほととぎす」との対比は、「苦労の絶えない農民」と「漂泊詩人である芭蕉自身」との対比であるように思われる。
「定住するもの」と「流動するもの」との対比。

それはまた、「農業生産に携わる者」と「文化の創造に携わる者」との対比でもある。
夏の田園地帯で、芭蕉はその「取合せ」を見たのだろう。

芭蕉の思いをさわやかな一句にした

「定住するもの」は「流動するもの」の到来を楽しみに待つ。
冬が来れば、春の到来を待ち焦がれ。
ウグイスが鳴けば、「ほととぎす」もと、その声を待ちわびる。

「田や麦」は、収穫され脱穀され食料となっていくなかで、一年中農民についてまわる存在。
そのなかで芭蕉は「夏はほととぎす」なのである。
その地その地で、ひととき人々の気分を潤す鳴声をあげる「ほととぎす」のように、芭蕉は流動する者として、句を作ることで世の中に潤いをもたらしたいと思ったのではあるまいか。
またしても私というトーシロの推測。

それにしても、梅雨時に作ったとは思われないさわやかな一句。
あまり話題にのぼらない句ではあるが、私は名句だと思う。

田や麦や中にも夏はほととぎす



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2018/12/01

芭蕉の縄文的発想「猪もともに吹かるゝ野分かな」

幻住庵記

元禄三年四月六日から七月二十三日まで、芭蕉は大津にある国分山の幻住庵に滞在した。そのとき、俳文「幻住庵記」を書いている。

「幻住庵記」は何度も改稿が試みられ、八月中旬にようやく最終稿が完成。
最終調整の後、蕉門の発句・連句集である「猿蓑」にて公表された。
その「幻住庵記」に猪(イノシシ)についての記載がある。

「昼は稀々(まれまれ)とぶらふ人々に心を動かし、あるは宮守(みやもり)の翁(おきな)、里のをのこども入り来たりて、ゐのししの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我(わが)聞きしらぬ農談、」(「芭蕉年譜大成」より「幻住庵記」の一部を引用)

「日中はごくまれに訪ねてくる人たちに興味をおぼえた。あるときは、神社の番をしているご老人がみえた。あるときは、村里の男たちが訪ねてきた。イノシシが稲を食い荒らしたり、兎が豆畑にやってくるなど、私が聞いたことのない農業の話を(していく)」

芭蕉は琵琶湖の南側にある幻住庵で三ヶ月半の閉居生活をおくったが、たまに訪れる地元の人達と雑談を交わすこともあったようである。
その話のなかで、稲を食い荒らしたというイノシシの話に興味をおぼえたのだろう。

猪の句

この「幻住庵記」の最終稿は、芭蕉が幻住庵を引き払って大津滞在中(義仲寺?)に完成。
そのころ、琵琶湖西岸にある堅田本福寺の住職三上千那(みかみ せんな)に書簡をおくっている。
その書簡にイノシシを詠んだ下記の句を添えている。

(いのしし)もともに吹かるゝ野分(のわき)かな
松尾芭蕉

元禄三年八月四日の作と「芭蕉年譜大成」にある。
この句は「幻住庵記」にあるようなイノシシの「食害」の句ではない。
この句の感想を述べる前に、野生動物の「食害」についてちょっと書いておこう。

山村部におけるイノシシやツキノワグマ、カモシカやサルの「食害」は現代でもよく聞く話。
「幻住庵記」には、里の男たちの話として、イノシシやノウサギの「食害」のことも書かれている。
これを読めば、野生動物の「食害」が江戸時代からあったことがうかがわれる。
でもそれは、江戸時代どころか、もっと以前からあったと考えられる。
農耕文化が始まった弥生時代から野生動物の「食害」はあったと思われる。

野生動物の「食害」は弥生時代から

話はちょっとそれるが、以前読んだ『「森の思想」が人類を救う』という梅原猛氏の講演集に「環境破壊」について述べておられる箇所があった。
この本のなかで梅原氏は、「環境破壊」の危機について、「人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して以来、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。」と書いている。

日本では、「縄文時代」と呼ばれている頃は、狩猟(漁撈)採集文化だった。
森の中の植物を採集し、獣や魚を捕獲。
それらを食料にして暮らしていた。
縄文文化は、あるがままの自然を利用して人の暮らしを成り立たせてきた文化だと言われている。

やがて、稲作技術をもった人々が日本にやってきて、平野部の森を開墾し、水田や畑を作った。
現代で「弥生時代」と呼ばれている農耕文化の到来した時期である。

弥生人たちは、縄文人たちがやらなかったことをした。
それは、縄文人たちが神のいる場所として崇めた森を、農作地を作るために破壊したこと。
この農耕文明を基盤にしてできあがった都市文明が、森林破壊をいっそう進めることになったと梅原氏は述べておられる。
その頃から、森のイノシシやノウサギは、田や畑作地に新しい餌場を求めるようになったのだ。

縄文人の自然観

縄文人たちは、森のなかから必要なものだけを頂いて暮らしていた。
それは、自然との共生を目指した暮らし方だと言える。
イノシシやノウサギを捕獲しても、自分たちの食料にする以上の殺戮は行わなかったに違いない。
資源の枯渇に注意を払いつつ自然のもとで生きたのである。
であるから、田畑のない縄文時代には「食害」は存在しなかった。

芭蕉が暮らしていた幻住庵にやってきた人たちは、農家の男たちである。
田畑から収穫をあげることが生活の支えになっている人たちである。
イノシシやノウサギの「食害」は、さぞ頭痛の種であったことだろう。

一方芭蕉は、自然を愛する漂泊詩人であるから、イノシシやノウサギの食害は我聞きしらぬ農談」となる。
だが、まったく無関心ではない。
農民にとっては害獣であるイノシシにたいして、芭蕉は別の想像力を働かせた。
台風(野分)という自然災害に対しては、イノシシも人間もともに被害を受ける存在であるという発想。

芭蕉の縄文的発想

強大な自然の力にたいしては、縄文人と同じように人間は自然の力を神と崇める。
そして、自然の神の前では、野生動物と人間は共存状態にある。
と芭蕉が思ったかどうかは定かではないが・・・

ただ、森の恵みや海の幸を求める旅を続けながら暮らしていた縄文人と、俳諧の新境地を求めながら旅を続けている芭蕉には共通するものがあったのではないだろうか。
大津の農民の、弥生人のような定住性にたいして、縄文人のような芭蕉の流動性。
言ってみれば芭蕉は、縄文人の「DNA」が濃かったのかもしれない。

だから縄文人のように、野分にイノシシとともに吹かれるという発想ができたのではないだろうか。
掲句は、芭蕉の「縄文思想」を詠ったものなのではという風に私は想像をしている。
農耕文明のなかでは、「猪もともに吹かるゝ野分かな」などという有様は考えにくい。

森や田畑を暴風が吹き飛ばし、人家の近くに出没する害獣のイノシシをも一緒に吹き飛ばしたことだろうなあという芭蕉の感慨も感じられるのだが。
「野分」にイノシシが登場するのは唐突である。
森の恩恵を受け、森と共生している生き方への共鳴があるからこそ「猪もともに吹かるゝ」という芭蕉の縄文的自然観が表現されているように思えるのだ。

なお掲句は、九月六日の曲水(在江戸)宛書簡では、「猪のししのともに吹かるる野分哉」と改案されている。


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