2017/10/17

海士の屋は小海老にまじるいとど哉

「いとど」とは昆虫の名で「カマドウマ」のこと
コオロギに似ているが「カマドウマ」は羽根を持たず、長い後ろ足で跳びはねる。
背が曲がっているので「海老蟋蟀(えびこおろぎ)」という異名もあるという。
現代では「便所コオロギ」と呼ばれたりしている。

海士(あま)の屋は小海老にまじるいとど哉
松尾芭蕉

掲句は、前回記事にした「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」の「姉妹句」のような句であると私は感じている。
芭蕉は、琵琶湖西岸の堅田から木曾塚(義仲寺)へ戻る途中、風邪の症状が悪化して「蜑(あま)の苫屋に旅寝を侘び」た。
そこで「病雁の・・・・」の句を詠み、続けて掲句を詠んだものと思われる。
「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」には、この二句が同時期の作として、並んで掲載されている。

琵琶湖の名物で、小さな食材として知られているスジエビ。
この海老漁は現在でも行われているという。
芭蕉が堅田を訪れたときは海老漁以外の漁も盛んに行われていたのかもしれない。
「蜑(あま)の苫屋」も琵琶湖沿岸に数多くあったことだろう。

掲句が作られたのは晩秋の頃。
獲ってきたスジエビは寒いときによく跳ねるという。
体調を崩したとはいえ、芭蕉が閑寂な旅寝を楽しんだ「蜑(あま)の苫屋」
その土間では、獲れたての「小海老」が籠からとび出てピチピチと元気に跳ねている。
よく見ると、「小海老」のなかに「いとど」も混じって一緒に跳ねている。
そんな様子を詠った句である。
「蜑(あま)の苫屋」に立ち寄らなければ見ることや想像することが出来なかった光景である。

そんな光景を楽しんだから芭蕉は蜑(あま)の苫屋に旅寝を侘びて風流さまざまの事共に御座候。」と茶屋与次兵衛宛の書簡に記したのだろう。
「風流」とは、「病雁の・・・」の句と「海士の屋・・・」の句を漁師小屋で詠んだことではあるまいか。

「病雁」を想定して、その雁に自身を重ねて不安な旅の心情を描いた。
次に、小海老に混じって跳びはねるユーモラスな「いとど」を想定して、つかの間の安堵感を描いた。
小海老は、やがて人間に食べられる存在である。
一緒に跳びはねていると「いとど」も小海老と一緒に人間に食われてしまうぞという芭蕉のブラックユーモアなのかもしれない。
いずれにしても、芭蕉が偶然に立ち寄った「海士の屋」は、不安と安堵と、ユーモラスな生き物が混在している空間だった。

そして、空の「雁」と土間の「小海老にまじるいとど」とが天と地の対照的な関係にあるように、「病雁の・・・・」と「海士の屋は・・・」のふたつの句自体も対照的であると私は感じている。

「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか(著:大輪靖宏)」や「芭蕉(著:伊藤善隆)」を読むと、「病雁の・・・」の句と「海士の屋は・・・」の句についてのエピソードが書かれている。
このふたつの句を芭蕉が、向井去来(むかい きょらい)と野沢凡兆(のざわ ぼんちょう)に提示して、この二句のうちどちらを蕉門の句集「猿蓑」に入れたら良いか意見を尋ねたというのだ。
このエピソードは去来が著した「去来抄」に書かれている。
去来と凡兆は、芭蕉が任命した「猿蓑」の編者である。
この芭蕉の問掛けに対して、去来は「病雁の・・・」を支持し、凡兆は「海士の屋」の句を支持したという。
しかし結論が出ずに、結局は両方とも「猿蓑」に入集させたとのこと。
その後芭蕉は、「病雁を小海老などと同じごとく論じけり」と言って笑ったという。

「去来抄」の原典は、「国文学研究資料館」のサイトの「国文学研究資料館トップ 」> 「電子資料館 」>「  日本古典籍総合目録データベース 」> 「国文研所蔵資料」>「統一書名、よみを入力して探す」の検索ボックスに「去来抄」と入力することで探して見ることができる。
さて、どうして芭蕉は自作の句を「小海老などと」といって笑ったのだろうか。
気になるところである。

寛文十二年、芭蕉二十九歳のとき、『春 江戸に下る。古伝によれば離郷に際し、友人への留別として「雲と隔つ友かや雁(かり)の生き別れ」の吟を残したという(竹人「蕉翁全伝」等)。ただし句は存疑。』と「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」にある。
もし「雲と隔つ・・・」の句が芭蕉の作であるなら、芭蕉は友人との別れを雁の別れにたとえてこの句を詠んだことになる。
そして芭蕉自身をも、旅立つ雁にたとえたのだ。
雁(かり・かりがね)は万葉集や古今和歌集に題材としてよく登場する鳥のひとつ。
その雁を俳諧の題材として用いることは、その句の格調を高める効果がある。
「雲と隔つ・・・」の句が「存疑」であっても、芭蕉が雁と自身とを重ね合わせて雁の句を詠んでいたかもしれないということが、「病雁の・・・」の句を読む上でヒントになっている。
雁は冬の時期を日本で過ごし、春になると北方へ帰る渡り鳥。
芭蕉にとって雁は、旅人としての自身と重ね合わせることができる代表的な存在なのではあるまいか。
堅田の地で、体調が優れない地上の芭蕉は、琵琶湖の空を飛ぶ「落雁」の群れに「病雁」を仮想して、その雁に自身を投影しようとした。
芭蕉にとって「病雁」は、自身の心情が通じる存在なのである。

一方「小海老」や「いとど」は、芭蕉にとっては心情を通じ合わせるような存在ではない。
今まで句に詠んできた「蛙」「白魚」「蝶」などのように、雅なイメージも持ってはいない。
芭蕉は、ユーモラスな形をした「小海老」や「いとど」との、旅先での奇遇に安堵を覚えた。
だが芭蕉の心情は、空を旅している「病雁」の方に向けられていたのだろう。
芭蕉は、このふたつの対照的な句そのものよりも、「病雁」と「小海老」という題材について去来と凡兆が言及していることに対して笑ったのではあるまいか。

一方凡兆は、「小海老」や「いとど」で構成された「海士の屋」の空間感覚に興味を持ったのではないだろうか。
「ナメクジ」「蠛(うんか)」「剃刀の錆」「かうの物」を題材に取りあげながら独特な空間感覚や抒情を展開してきた凡兆にしてみれば、弱々しい「病雁」よりも「海士の屋」での「小海老」や「いとど」の生命の躍動感がある句を選んだのは、トウシロながら私にも肯ける。
生命の躍動感は、凡兆の詩のテーマのひとつである「生への賛歌」につながるのだと思う。

おそらく芭蕉は、去来と凡兆の議論を大いに楽しんだことだろう。
私には対照的に感じられる「病雁の・・・・」と「海士の屋は・・・」のふたつの句。
それぞれの句を推した去来と凡兆もまた対照的な「俳人」であったのかもしれない。
また対照的な「俳人」であったからこそ、芭蕉はふたりを「猿蓑」の編者に任命したのではあるまいか。
などと、またしてもトウシロの空想が過ぎたようだ。

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