2014/06/30

日の出とともに早朝目が覚めて、安眠出来ない

青森市の日の出時刻

遮光カーテンを閉じた寝室。
今年(2014年)の夏至は6月21日。
夏至近辺の、青森市の日の出時刻を調べてみた。
国立天文台のサイト、天文情報センター暦計算室のページに各地の「日の出、日の入り」の情報がある。
青森市で、日の出時刻が午前4時5分台である期間は、6月9日から夏至(21日)まで。
その時刻が年間を通して最も早い。

2014/06/29

遮光器土偶のつがる市木造駅と駅前食堂(神武食堂)


通りの向こうに巨大な遮光器土偶のモニュメント。


 つがる市木造にある大溜池の感傷的な見物の後、木造駅に向かった。
 木造駅の壁面に設置されているという巨大な遮光器土偶を見物するためだ。

で、ご対面したのが下の写真の遮光器土偶。

もちろん、これは亀ヶ岡遺跡の出土品ではなくて 、それの拡大コピー。
コピー元は、東京国立博物館所蔵の遮光器土偶。
木造の亀ヶ岡遺跡から発掘された重要文化財である。

この建物に貼り付いた物体を、モニュメントと呼ぶべきなのか、オブジェと言うべきなのか。
堂々と胸を張って、駅前通りを見下ろしている。
いや、どこか遠くを眺めている。
まるで、望郷人形。
故郷を遠く離れた人達の、魂のオブジェのようにも見える、と言ったら言い過ぎか。

駅舎同様コンクリート製で、高さが17メートル。
愛称は「シャコちゃん」。


木造駅舎前面に貼り付いた遮光器土偶。


木造駅は、JR東日本・五能線の駅。
巨大な土偶駅は、1988年から1989年にかけて、日本の各市区町村に対し、地域振興に使える資金1億円を交付した「ふるさと創生一億円事業」によって建築された。

当初は、列車が到着すると遮光器土偶の細い目が光っていたらしいが、子どもが怖がるので止めたという。
謎めいて神秘的なこの遮光器土偶そのものが、一部の恐がりな子ども達にとっては恐怖の対象かもしれない。
縄文時代の子どもたちも、「遮光器土偶」に対して畏敬の念を感じていたことだろう。


横から見たところ。


この駅舎自体を、掘立柱建物や竪穴住居を模倣したものに造っていれば、縄文ムード満天なのでは。
などと考えていたら、どこからか醤油スープのいいにおいが。

時刻は昼食どき。
出し汁のにおいの元を探して駅前を歩いてみたら、駅のすぐ近くに食堂があった。
食堂の名前は、神武食堂。
「えっ、神武って、あの神武天皇のジンム?」
ムードは縄文時代から神話時代へ。
ってほどでもない、田舎の駅前の、ごくありふれた食堂なのだが。
えらく混んでいる。
私たちの前に、空き待ちの家族連れが3名。


駅前食堂のメニュー。


ここはきっと美味しいに違いないと、席が空くのを待った。
連れとふたりで、下の写真のラーメンと焼きそばを食べたが、好みの味。
あっさりしていて美味しい。
くどい味が好みの方には、あっさりし過ぎかもしれないが、私には充分だった。
 あっさり津軽味ラーメン。

えらい混み様だったので、有名な食堂なのではと思い、ネットで調べてみたら、そのようだった。
店名は「神武( ジンタケ)食堂」と読む。
大正時代の末に「神(ジン)武次郎(タケジロウ)」さんという方が開いた食堂なので「神武(ジンタケ)食堂」。
現在の店主は4代目だとか。
ちなみに、「神」というのは「ジン」と読む名字のこと。
津軽地方に特有の名字である。

時代は、神話時代から大正時代へ。
木造というところは、いろんな時代を感じさせる町である。

※「神武食堂」に興味をお持ちの方は、「木造 津軽百年食堂」で検索して下さい。



中華そば。


五目あんかけ焼きそば。

つがる市木造(きづくり)大溜池の畔に建つはずだった「亀ヶ岡城」

大溜池周辺図。


縄文館が畔にある大溜池を見物しようとしたが、「瞰湖台」みたいな所は見当たらない。
大溜池は鬱蒼とした森に囲まれていて、なかなか岸辺には近づけない。
また、近づけたとしても、岸辺が私有地のため、立入禁止になっていたり。

ようやっと、岸辺と接している道路を見つけ、大溜池の一端を眺めることが出来た。
その地点が、「大溜池周辺図」の「写真撮影地点」と記したところ。
赤丸のポイント。
この記事に添付している写真は、ここから撮ったもの。
小雨模様の曇り空だったので、冴えない写真になってしまった。

この溜池がこんなに入り組んだ形になっているのは、この付近の丘陵の地形が入り組んでいるからだ。
大溜池は、弘前藩2代目藩主、津軽信枚(のぶひら)によって作られたという。

津軽信枚は、1622年、この地に「亀ヶ岡城」を築こうとした。
ところが、築城の途中、江戸幕府から「一国一城令」が発せられたため、廃城となり、「亀ヶ岡城」は幻となった。
城の堀にする予定だった「大溜池」は溜池として、そのまま残したという。


津軽亀ヶ岡城図(カルコ展示物)

津軽亀ヶ岡城の図(カルコ展示物)


「写真撮影地点」あたりを境に西側は丘陵地帯(大溜池)、東側は水田地帯となっている。
この境界線上に堤防を築けば、西側の丘陵地帯の低地部分に、雨水や湧き水や、雪解け水などの流入水が溜まり、入り組んだ溜池が出来上がる。

溜池のタイプから言えば、「谷池」の一種になるのだろう。
溜池は、入り組んだ丘陵地の森に囲まれていて、なかなか景観が良い。
「リアス式湖岸」というようなイメージ。
こうして出来上がった見栄えのある溜池に、信枚公はどんな名前をつけようとしたのだろう。
築城を断念した失意のあまり、そのまんまの「大溜池」という味気ない名前をつけて仕舞いにしたのかもしれない。

縄文館内の「木造亀ヶ岡考古資料室 」受付でいただいた「つがる市資料館ガイド」というパンフレットには「亀ヶ岡城跡」という項目がある。
以下はそのパンフレットからの抜粋。

木造考古資料室の北隣地区は亀ヶ岡城の予定地であった。しかし徳川幕府の「一国一城令」に従い、築城途中でやむなく廃城となった。この付近の台地を囲む「大溜池」は亀ヶ岡城の堀として予定されたものであるほか、現在、城跡には築城時をしのぶ土塁や巨大な空堀などの遺構が残っている。なお、過去には「亀ヶ岡遺跡発見のきっかけ=亀ヶ岡城の築城」とする説もあったが、これは誤りで城跡と亀ヶ岡遺跡の間には1kmほどの距離がある。 


大溜池。右側のスロープは小舟を着水させるためのもの。


睡蓮の花が咲いていた。


入り組んだ外観の大溜池。


亀ヶ岡遺跡についての最初の記録とされる「永禄日記(1623年)」の写本「館野越本(たてのこしぼん)」には、亀ヶ岡城の正式名は「近江野沢城」と記されているという。
もしこの地にお城が出来ていたら、現在の亀ヶ岡や木造館岡、木造大湯町は、その昔、にぎやかな城下町になっていたかもしれない。

信枚公の、築城による都市開発と新田開発との同時開発は、幻のプロジェクトとなった。
都市と農村との同時発展は、夢のまた夢。
森に囲まれたリアス式湖岸の「大溜池」の 雰囲気は、なかなか神秘的だ。
そのムードは、この地に眠っている幻のプロジェクトがもたらしているのかもしれない。

木造地区の新田開発が本格的に着手されたのは、1682年頃、弘前藩4代藩主津軽信政(のぶまさ)によってであるとされている。
信政公は、岩木おろしや日本海からの強風・飛砂をおさえるために、この地の農民にクロマツやカシワを植えさせ、屏風山の植林事業に力を注いだという。

大溜池は、この頃から、また息を吹き返し、農業用貯水池として活躍したに違いない。
城下町という都市は出来なかったものの、木造地区の新田開発が進展したのは、幻の亀ヶ岡城のおかげもあったかもしれない。


森に囲まれた大溜池。

つがる市木造の亀ヶ岡考古資料室(縄文館内)

農業者トレーニングセンターも兼ねた縄文館。


亀ヶ岡遺跡を見物したかったが、あいにくの雨。
そこで、大溜池の畔にある縄文館を訪れた。

その場所は、案内誘導看板があるものの、非常にわかりにくい。
集落の曲がりくねった道を通ったり、畑の中の細い道を通ったりして、やっと辿り着いた次第。

木造(きづくり)地区の農業者トレーニングセンターも兼ねた縄文館の一階に、亀ヶ岡考古資料室があって、主に亀ヶ岡遺跡の出土品が展示されている。
入場料は、大人200円。

「亀ヶ岡式土器」は、日本の縄文晩期の文化を代表する造形美を持っていて、特に精緻な文様や漆による赤彩などがある精製土器は、縄文土器造形の極致と言われている。
が、残念ながら、この縄文館には、そういう出土品は見当たらなかった。

見応えのある精緻な造形物を期待して訪れたので、少々、がっかり。
でも、それなりに面白い出土品見学が出来た。

「亀ヶ岡文化」についての説明パネルが展示してあったので、以下はその転載。
 日本を代表する縄文文化の一つである縄文時代晩期の亀ヶ岡文化、亀ヶ岡式土器とは、この縄文館が所在する木造町館岡(たておか)の亀ヶ岡遺跡に由来する名称である。

 亀ヶ岡文化は、北は北海道から南は東北地方南部と新潟県の一部までを含む広大な文化圏を形成した。秋に実りをもたらし、初冬に葉を落として再び春に若葉をつける、そういう季節感あふれる落葉広葉樹林帯の豊かな自然を背景に育まれたものである。
つまり、縄文時代晩期のものとして、この地の亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が、北海道から新潟県の一部まで、広い範囲で発見された。
そのため、亀ヶ岡式土器をもたらした文化を、「亀ヶ岡文化」と呼んで特徴付けている。


鏃(やじり)。

土偶。

土器類。

土偶頭部。

玉の砥石(といし)

プリミティブな土偶。



「亀ヶ岡式土器の特徴」という展示パネルがあったので、その説明文を以下に転載した。
 亀ヶ岡式土器の特徴は、器面を研磨(けんま)し粗製(そせい)と精製(せいせい)の土器を作り分け、深鉢形、鉢形、浅鉢形、皿形、台付鉢形、壷形、注口(ちゅうこう)形、香炉形などの多様な種類の器形と、入組み磨消(すりけし)縄文などの華麗な文様を器面に施して、装飾性の強い美しさを意識していること、である。・・・・・・

 亀ヶ岡文化を代表する眼部を誇張した遮光器土偶(しゃこうきどぐう)は、自然界と人々の生活の豊穣(ほうじょう)を祈るために作られた女性像である。その他に、岩偶(がんぐう)、土版(どばん)、岩版(がんばん)、土面(どめん)、石刀、石棒、石剣、耳飾り、翡翠生丸玉(ひすいせいまるだま)や勾玉(まがたま)、編布(あんぎん)、漆器など、いずれも高度な技術と文化の存在を物語る遺物が多い。 


土偶。


なお、この考古資料室に展示中の出土品の多くは、個人所有のものであるという。
地域の人々が、過去に、畑仕事の際に掘り当てた個人所有の土器などを、縄文館でお借りして飾っているのだという。
そのために、各出土品には所有者の名札が添えられてある。
このことが、亀ヶ岡遺跡の特徴となっている。

亀ヶ岡遺跡についてネットで調べてみると、以下のような遺跡発見の歴史と、乱掘による土器散失の歴史とを垣間みることが出来る。

(1)この遺跡は、弘前藩の2代目藩主である津軽信枚が1622年に、この地に「亀ヶ岡城」を築こうとした際、土偶や土器が出土したことにより発見された、と言われているが?
(2)この地区の丘から甕(かめ)が出土したことから「亀ヶ岡」と呼ばれるようになったという。
(3)この一帯には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路をつくったので「木造村(きづくりむら)」と呼ばれるようになった、という。
(4)「亀ヶ岡城」は造りかけの状態で、江戸幕府の「一国一城令」が出たため、やむなく廃城となった。
(5)江戸時代に、この遺跡から発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ、 遠くオランダまで売られたものもある、と言われている。
(6)1万個を越える完形の土器が、勝手に発掘されて持ち去られたという。

それで亀ヶ岡考古資料室には「めぼしい土器」が無い。
かつて存在した縄文晩期の豊富な生活遺物が、散失してしまったという事実(史実?)を知ることも、この縄文館を訪れる意義のひとつであるかもしれない。

そういえば、私が小学生の頃、学校の先生から、「亀ヶ岡式土器」のいくつかが、終戦後、進駐軍の将校の手に渡ったことがあるという噂話を聞かされたことがあった。
それが真実だったかどうかは、不明であるが、土器散失は事実だったので、それを飾る虚構としての「作り話」であったのかもしれない。
現在は、無断で発掘することは禁止されている。

なお、出土遺物中で最も有名な、明治19年出土の「遮光器土偶」は、個人の所蔵を経て、現在は、重要文化財として東京国立博物館の所蔵となっている。
つがる市木造の縄文館に飾られているのは、そのレプリカである。


赤彩された土器。

注ぎ口のついた土器。

遮光器土偶

つがる市稲垣町の広い河川公園を散策

案内看板。


小雨の中、つがる市稲垣町の河川公園を散策した。
右の案内看板に、この公園の名前は記載されていない。
こんなに大きな公園なのに、名前が無いなんて。
国土交通省 青森河川国道事務所 五所川原出張所のサイトには、「河川公園(つがる市稲垣町)」という名前でしか紹介されていない。


この道の奥が岩木川。


「稲垣河川公園」という通称があるようだが、これはこの公園の正式名称では無いようだ。
地図で見ると、この河川公園のほとんどは、五所川原市藻川に属している。
稲垣町の市町村境界の外の、藻川地区に所在する公園なので、公園入口が稲垣町にあっても、正式に「稲垣河川公園」とは呼べないのだろう。

遠くからここを訪れた人は、この看板の前に立って、「ずいぶん広い公園だねぇ、はて?このやけに広いだけの公園の名前はなんて言うんだろう?」と思うはず。
その人は、家に帰ってから、友人や近所の人に、この大きな公園の話をするに違いない。
その際、この公園の名前を尋ねられて、返答に窮することだろう。
岩木川の河川公園は、青森河川国道事務所五所川原出張所管内だけで、五ヵ所ある。
この「河川公園(つがる市稲垣町)」は、固有の名前が無いおかげで、多くの県民には知られていない存在かもしれない。
そのせいか、雨のせいか、この公園に散歩にきた物好きは、私達だけだった。


菖蒲園。


「河川公園(つがる市稲垣町)」は、稲垣町の稲垣小学校の東側に広がる岩木川河川敷を利用した公園。
つがる市稲垣町は、旧稲垣村の田園地帯の町。
五所川原市から岩木川沿いの堤防道路(県道43号五所川原車力線)を12キロメートルほど十三楜に向かって下った所にある。

河川敷が広いので、この公園も広い。
ただ広いだけの公園が好きな方には、もってこいの公園。
広い芝生の上でのんびりしたい、という人にも最適。
平面的なので、広い場所を思い切りウオーキングして汗をかきたいという人にもおすすめ。
ほんと、思い切り歩ける場所である。
芝生もよく整備されている。
芝生広場・遊歩道・多目的運動場・浮き橋・ゲートボール場・バーベキュー広場・グランドゴルフ場などが整備されていて、多目的に使用出来る公園となっている。


パーゴラ(日陰棚)


この公園に、子ども向けの遊具は見当たらない。
公園の中で、お子さんを遊具で遊ばせたい、という目的の方には不向き。
高低差のない河川敷の公園なので、変化に富んだ自然公園が好き、という方にも不向き。
岩木川には近づけないようになっているので、親水公園とは言えない。
トイレは簡易トイレで快適ではない。
日陰が少ないから、真夏だとタープを持参した方が無難。
風光明媚な観光地ではないから、そういう場所が好きな方には不向き。
こうしてみると、行楽場所としては不向きな要素が強いようだ。

じゃ、この公園のどこが良いんだと言うと、下記の事柄が、やっと思い浮かんだ。

こんなに広い河川敷は、そうあるものでは無い。
もし河川敷ファンという人達がいたら、そういうファンにはたまらない公園。
でも、川との一体感は無いし、自然の要素も少ない。

広いから、愛犬とのびのびと散歩できる。

山間部の自然公園の高低差によるストレスが無い。
足腰が弱い方でも散策を楽しめる。
だから、自然のお花畑とか樹木とか、視覚的に楽しめるものがもっとあったら良いのだが。

他ではあまり見られない大きいヤナギの木がある。
このほか、川辺と言う自然環境に特徴的な観賞物が、もっとあったら楽しいのだが。

こう書いてくると、この公園は、変に手を加え過ぎて、ただ広いだけのつまらない公園になっている傾向があるなあと思えてくる。


河川公園の中の池。

睡蓮の花


昔、この周辺には、河川敷の森(河畔林)があったのだが。
岩木川の川岸の自然が、長い年月をかけて、自ら育んだ立派な森があったのだがなあ。
小鳥がいて、蝉とかカブトムシとかの昆虫がいて、小動物が棲息していたはず。
ハルニレやヤチダモ、ヤナギの木が大きく枝を広げていた。
あの貴重な森を活かした公園は造れなかったものか。
あの森を伐採してしまったのは、ほんとうにもったいないなあという思いが湧いてくる。
半世紀前に、肥後の守一丁をポケットに忍ばせて、この森の中を散策した少年がいたっけ。

しかし、その当時と現在とでは、岩木川の「形態」が違っている。
昔は、もっと大きく、ゆったりと蛇行していたのだが。
現在は、改修工事によって蛇行部が 解消された姿に変わってしまった。
川の流れが、曲線ではなく直線に近い形に変えられたのだ。
市町村境界はそのまま残って、今も、昔の岩木川の蛇行に沿って引かれている。
この「河川公園(つがる市稲垣町)」の場所は、昔は五所川原市藻川の水田地帯だった。
だから、この公園が出来る以前は、水田が広がっていて、森ではなかった。
森(河畔林)は、この公園の場所の、上流側と下流側に広がっていた。
森のなかには、部分的には畑もあったが。
しかし、大部分が水田で占められていた旧稲垣村のなかでは、広くて立派な森であった。


大きなヤナギの木。


世界自然遺産というブランドと比較するのもおかしいが、岩木川の源流部である白神山地のブナの原生林が貴重なら、岩木川の河畔林も貴重なはず。
つがる市稲垣町に限らず、岩木川下流域で、河畔林が現存している場所はあるのだろうか。
河川公園として残すなら、河川森林公園として残してほしかった。
河川森林公園でも、地域住民のコミュニティの場になり得るのでは。
でも、もう伐採してしまったものは、もとには戻らない。

これは自然保護とかの、だいそれた意見ではない。
自然と親しみ楽しみたいという、遊び心的な発想なのだが。


雨の中、芝生に佇む犬。

2014/06/27

朝、遠くのものが見えにくい

早朝散歩は、目がしょぼい。
仕事の都合で早起きして、犬の散歩にも早く出かけた。
近所の公園を散歩しながら、いつものように周囲の木々を眺めていたら、なんだか変だと気がついた。
遠くのものが、ぼやけて見えにくい。
近視が急激に進んだような具合。
目を見開いたり細めたりしてみたが、いつもと違う。
遠くと言っても20mから50mぐらい離れた辺りが不鮮明に見えて、ちょっと不快な気分になった。

2014/06/26

ニホンハッカとドクダミのせめぎ合い

ニホンハッカ(手前)とドクダミ(奥の白い花)。
梅雨の中休みなのか、今朝は晴れ上がっていた。
犬の散歩のついでに、近所の空き地を覗くと、ニホンハッカとドクダミの群れ。
ニホンハッカは、前回見たときよりも上背が増して、緑色も一段と鮮やかになっている。

2014/06/22

白神ライン「一ツ森峠」から白神山地「太夫峰」へ

(岩崎へ向かう途中の、道の駅ふかうら「かそせいかやき村」。)


東京から、両親の墓参りにきた姉が、白神山地を見てみたいというので案内した。
登山コースは、登山口が岩崎村からのアプローチが近くて、山頂までの距離が短い一ツ森~太夫峰(たゆうみね)を選んだ。

私にとっても未踏のコースである。
太夫峯の山頂からは、白神山地の最高峰である向白神(むかいしらかみ)岳や白神岳、天狗岳などが見渡せるという。
この3峰は、昔、訪れたことがある。

登山口へのアプローチ

青森市を7時に出発したときは、梅雨時の曇り空。
鰺ヶ沢町を過ぎたあたりから、青空がひろがりはじめ、好天に。
道の駅ふかうら「かそせいか焼き村」で、親切なおばさんから昼食用の弁当を購入。
400円で総菜豊富、お値打ちな弁当だった。
深浦町から岩崎村に入り、道路標識に従って、今まで走ってきた国道101号線をはずれて白神ライン(県道28号線)に進入。

笹内川沿いから尾根に登りかける辺りまでは舗装道路。
それからは、未舗装のデコボコ砂利道。
四駆車で走るのが無難な山岳道路である。
一ツ森公衆トイレ付近は舗装されていた。


(太夫峰登山口約2キロ手前(岩崎寄り)一ツ森公衆トイレ。)

(お天気は上々。)

(このタイプの看板が2基ならんだところが登山口。)


まだ新しい一ツ森公衆トイレから、2キロほど西目屋方面に走ると右手に看板が見える。
上の写真がそれ。
この看板の左手に登山道の標識がある。
駐車スペースは、この看板より20メートルぐらい進んだところに、乗用車2台分ぐらいの空き地があった。
そこにクルマを駐車し、山歩きの身支度を整える。

登山開始

登山道に入ると、林の中に、よく踏まれた道が延びている。
国土地理院の地形図には、「太夫峰」という山名も、この登山道も記載されていない。
道は、向白神岳へ続く稜線を辿る。
稜線上の各ピークを結ぶ線がルートとなっている。
ピークを巻くような道は無いので、アップダウンが7~8カ所あった。
長くて急なアップと短めのダウンを繰り返しながら高度を上げていく尾根歩き。
ピークは、一ツ森寄りから、745、919、1015、1164(太夫峰)。
スタート地点の標高が約670メートルで、ゴールの太夫峰が1164メートルだから標高差約500メートルの山行となる。
登山口から太夫峰までの距離は2.8キロメートル。
数は少ないが、要所に行程標識が設置されていた。
中には壊れかけて不鮮明なものもあるから、要注意。


(登山口と標識)

(745ピークを過ぎたあたりの緩やかな尾根道。)

コース最大の難所

745ピークを下りると、緩い傾斜の尾根歩きがちょっと続く。
やがて、前方のブナの林の間隙に急勾配の森が見える。
それが919ピークの山裾。
919ピークへの急登は丸太棒で作られた階段状の道を登る。
100段以上あると思われる長い階段道が下段と上段の2カ所。
階段道に沿って補助用のロープが張られていた。
短い階段道も2~3カ所ある。
階段道は無いけれども急登箇所には補助用ロープが張られていたり。
地形図で予想はしていたが、919の山頂までは厳しい急登を強いられる。
急な傾斜地の階段道は踏み面が狭くて足場の確保がしにくい。
濡れた丸太や、苔の生えた丸太は滑りやすく、慎重な歩みが必要。
朽ちかけた丸太棒もあるので要注意。
919ピーク越えが、このコース最大の難所である。


(919ピークに向かう急登の丸木階段。中途から上部を見る。)

(丸木階段の中途から下部を見る。)

(1015ピーク付近の登山道沿いの森。)

太夫峰山頂到着

1015ピーク付近では、登山道をわずかに被っている残雪の上を歩くところが2~3カ所あった。
登山道脇の窪地のような場所に雪解け水が流れ込んで沼のようになっているところもあった。
1015ピークを過ぎると、だんだんと視界が開けてくる。
登ってきた尾根の方向に岩木山が見えたり。
天狗峠から天狗岳へと延びている尾根筋が見えたり。
このあたりから太夫峰頂上へは短い緩急の登り。
やや急な登りを我慢すれば前方が開けて、太夫峰の小さな山頂広場が現れる。


(登山道を残雪が被っている。)

(残雪が融けて窪地に小さな沼をつくっている。水の中の白いもち状の物体は蛙の卵か?)

(天狗岳方面。)

山頂広場にて

山頂広場に到着してまもなく、向白神岳方面に黒い雲が下り始めた。
だが、帰り方向の一ツ森方面の上空は晴れていたので、ゆっくり休憩。
ここに立てば、奥深くて、険しい白神山地を一望できる。
急峻な尾根と深い谷が、人の手を拒んできたのだろう。
そのため、広大なブナの原生林が、手つかずのまま保たれているのだということがよく分かる。

実は、私は軽い二日酔い状態。
途中から、胸のあたりがムカムカして気分が悪くなり、休み休み登っていたのだった。
同行者の姉は軽快な足取りで、先に山頂に到着。
こんなに歩ける人なのかと驚いた。
一ツ森から太夫峰まで2時間40分ぐらいのタイムだったが、私の体調が良かったら2時間ちょっとか、2時間を切るぐらいの行程だったかもしれない。
私は昼食もとれず、向白神岳方面の写真も撮れず、下りに備えて、山頂広場でただじっと休むばかり。
(太夫峯山頂で、余裕でお昼の弁当を食べている同行者。)

(向白神岳へ続く稜線を背景に疲れ果てた自分。)

下山

帰り道のアップダウンでさらに気分が悪くなり、途中何回か吐いた。
朝食もとっていなかったので、口から出たのは、登りの時に飲んだ水だけ。
水分が補給出来ない状態で脱水症状にならなかったのは、暑い日ではなかったからだろう。
これが夏真っ盛りの暑い日の登山だったら、水分不足から熱中症になっていたことだろう。
高齢者登山の遭難事故も、こんな発端で起きるのかもしれない。
年齢を考えずに前の晩に飲み過ぎたとか、若い頃の体力を過信して無理なコース選びをしたとか・・・。
ただ足の運びは、自分なりにしっかりしていると感じたので、深刻なことは考えなかった。

太夫峰登山のまとめ

一ツ森~太夫峰登山コースは、距離は短いが急傾斜のアップダウンが多く、私的に、しんどいコースであるように思った。
また尾根道に2~3カ所、樹間から深い谷傾斜を垣間見る「痩せ尾根」の通過もある。
樹木が両サイドに立っている「痩せ尾根」なので、険悪ではないのだが、疲れているときには注意が必要だ。
登山道は、直角に曲がる所が2カ所ぐらいあった。
そこは、チシマザサが生い茂った中の、直進の踏み跡らしき筋に迷い込みそうなポイントになっている。
でも、登山道全体に、明確な踏み跡がついているので、注意深くそれを確認すれば迷うことは無い。

前半は、白神山地の展望はあまり得られない。
このコースは、太いブナの木も少ない。
一面のお花畑も無い。
だが、森の中のなだらかな尾根歩きあり、急登あり、ちょっとした湿地帯ありで楽しいコースだった。
太夫峰山頂広場は、登山者が10~13人ぐらいで満杯になるような広さ。
立木はあるものの、ダケカンバなどの低い木立なので、白神山地深部の展望はまあまあだった。
途中、登山道沿いで見たお花は、シラネアオイ、ギンリョウソウ、オオバキスミレ、ゴゼンタチバナ、ヒトリシズカ、ユキザサなどなど。
花の写真を撮る余裕がなかったのが残念。
場所柄、黒い練り状のクマの糞も見かけた。
下痢をしていたのだろうか、練り状の灰色の糞もあった。
人間だったら灰色便は、胆管か肝臓の疾患が原因。
おっと、これは余談。
前半は、エゾハルゼミの音のシャワー状態。
下りのアップダウンと、919ピークからの急な階段道を考慮すれば、下りの時間も、登りに要した時間同様に余裕をみる必要があると感じた。

好天だったのに、山行中、登山者は私たちだけ。
近場の手頃なコースなので、かなりの人が入山していて、クルマの駐車場所に困るのではないかと気になっていたが、いらぬ心配だった。


(深浦西海岸に傾きかけた太陽。帰り道、国道101号線から眺める。)