2016/10/27

青森市平和公園の紅葉が、「街の風情」として、それなりに見ごろに

色づき始めた平和公園の紅葉。
今年の八甲田の紅葉はどうなんだろう。
この頃、山へ行ってないからわからない。
写真は、毎日のように犬の散歩で訪れる平和公園。
ボチボチ紅葉が見ごろになってきた。

山には、山の風情がある。
一方、都市公園の紅葉は、街の風情で満ちている。
そうは言ったものの、街の風情って何だろう?
都会暮らしのなかで感じるものだから、その人の心に育っている都市生活者の情感みたいなものかな。

手前の植え込みは、ドウダンツツジ。赤く色づき出している。
儚い暮らし、慎ましい暮らし、空虚な暮らし。
なんとマイナーな情感。
そんな街の暮らしの傍らで、公園の紅葉が進んでいる。
公園の紅葉を眺めていると、街の暮らしを取り巻いている四季の移り変わりに対する感傷が湧いてくる。
それが「街の風情」を紅葉のように色濃くしている。
秋の夕暮、西日に染まる窓。

街のなかで紅葉が進む。
その小じんまりとした、身近な自然。
公園は、暮らしの一部に融けこんだ小自然なのかもしれない。
こうして紅葉を身近に感じていると、「街の風情」が風のように心のなかに吹く。

山の紅葉を眺めて美しいと思うのは、自身のなかにそういう美意識があるからで。
公園の紅葉を身近に感じるのは、自身のなかに、そういう「街の風情」があるからだろう。
そう思うと、暮らしの儚さや慎ましさや空虚さが、色となって表れるのが公園の紅葉であるような気にもなってくる。
これも「街の風情」というものか。
風情の堂々巡り。
スパイラルで深まっていく哀愁の秋。

池の柵に絡まっているツタの紅葉。
しかし、街で日常的に触れているのは自然とは言えない。
アパートの庭の落葉も、お屋敷の生垣も、通りの街路樹も、都市生活の傍らの植物。
そんな風に考えると、身近な自然なんて有り得るはずがないように思えてくる。
公園が、暮らしの一部に融けこんだ自然だなんて錯覚さ。

公園は植物の展示場。
お祭りの無いお祭り広場。
サーカスが消えた天幕の中のような虚しさ。
日々の暮らしに、儚さや慎ましさや虚しさは途絶えない。
そんな情感が、木陰に佇んでいるかもしれない平和公園で、紅葉がそれなりに見ごろだ。
お散歩に出かけると、自身のあざやかな「街の風情」が見えてくるかもしれない。
それが色褪せて、枯れていく情景。
紅葉を見て元気になるのは、そんな情景を受け入れているから。
紅葉の季節がくるたびに、自身の覚悟を確かめる。

池と、噴水と、紅葉と、雲にかくれた青空。

通路の傍らの、イロハモミジの紅葉。

モミジと青空。

シェーの銅像(アメノウズメノミコト)の背後にオオヤマザクラの紅葉。

夕日に輝いているカツラの黄葉。

ケヤキの赤い紅葉。

鮮やか!エゴノキの黄葉とハウチワカエデの真紅の紅葉。

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