内田百閒の「由比駅」|悔恨が作り出した幻想
内田百閒の短篇小説「由比駅」は、幼少の頃に虐待した飼い犬が、大人になった主人公の前に人間として現れることに端を発する、幻想的な物語である。
その虐待とは、飼い犬を追いかけて、三間竿で突っつくというもの。
「急に憎くなったのでも邪魔にするのでもないけれど、そういう癖を覚えてから、毎日止められない。」
主人公は、その時の感情を、「春機発動期の終り頃で、後から考えると、えたいの知れない憂悶のはけ口がなかった為かも知れないが、」と独白している。
この「春機発動期」という、おもに動物の発情期を意味する言葉を、主人公(作者)が、幼い自身の衝動に当てはめたのは、自身が、獣としての肉体に目覚めた時期であることを示している。
主人公が東京駅で出会った「いち」と名乗る男は、人間に化身した昔の飼い犬であった。
男は初対面なのに「栄さん、大きくなられましたな」と主人公の名前を口にした。
さらに、「いちと云う犬がおったでしょうが」と主人公に語りかけている。
動物的な存在でもある自己を認識した幼少の頃との対比として、虐待した犬が人間になって育っている。
そんな、幻想上の逆転劇が、読み取れる。
小説「由比駅」は、昭和27年8月に「文芸春秋」で発表された。
その前年の昭和26年6月に、「区間阿房列車」という鉄道旅行紀行文が「小説新潮」に掲載されている。
「区間阿房列車」には、百閒が由比駅に降りた記事がある。
彼は、由比の浜辺を散歩しながら浜辺沿いを通り過ぎる汽車を眺めた。
そして「昔から何十篇も、数が知れない程この辺りを通り過ぎる度(たび)に、汽車の窓から眺めて馴染になった磯に起って、今度は磯から通り過ぎる汽車を眺める。若い時の事が今行った汽車の様に、頭の中を掠める。」という感慨を抱いた。
その視点で、自身の来し方を眺めたのであろう。
この散歩の途上で、百閒は犬を見かけたことを二度書いている。
田舎町で犬を見かけることは、そんなに珍しいことではない。
敢えて百閒が、犬の事を記事にしたのは、「頭の中を掠め」た「若い時の事」のなかに、幼少の頃の飼い犬の虐待があったからではないだろうか。
ひょっとしたらこの時に、小説「由比駅」のプロットを思いついたのかもしれない。
それほど、この犬の記事は、暗示的である。
話を「区間阿房列車」から「由比駅」にもどそう。
私が気になることは、なぜこの小説の題名が「由比駅」なのだろうということ。
由比駅という駅そのものにおいては、何の異変も起ってはいない。
主人公を東京駅から由比駅に向かわせたのは、百閒が「由比」という地名(言葉)に興味を抱いたからではないだろうか。
過去の行為の「由(よし)」と対比の「比」。
地名を、そう読み解けば、この幻想劇はさらに深まりを見せる。
主人公(おそらく百閒自身)のなかで、年月とともに、過去の行為を悔いる感情が育ち、
その罪悪感が、虐待した飼い犬を人間として育てているのではないか。
そのことに本人は気付いてはいない。
東京駅において、すでに逆転劇は始まっていたのだが、由比は、その結末が訪れる場として機能している様に思われる。
幼少期に犬を虐げた主人公は、幻想の東京駅で人間的存在となった「いち」と出会い、由比のホテルでは、道中付きまとっていた女に「いち」の家内であると告げられる。
過去の行為の「由(よし)」は問われることなく、ただ対比の関係だけが「いち」や「いちの家内」となって増殖していく。
そして、もうひとり。
増殖している影の存在。
東京駅で待ち合わせをした、今回の旅の連れ(友人)は、その存在だけを匂わせて小説には具体的に登場しない。
ただ、東京駅の案内所を介して、「先に行っている」と主人公に告げている。
発車の時刻は限られているから、待ち合わせた相手が先に行くことなど、現実には不可能だが、幻想上の人物なら可能である。
影は、「先に行っている」と言いながら、列車やホテルで、文字通り影のように同伴している。
列車の乗務員や「いちの家内」やホテルのボーイは、そのことを知っているようなのだが、主人公は気付いていない。
この影は、人間として成長した飼い犬「いち」と引き換えに、動物となった主人公の化身であると想像できる。
薩埵(さった)峠の二つのトンネルの間で列車に轢かれた黒く大きな獣は、主人公の罪悪感が育てている、もう一人の自身ではないかと思えてくる。
主人公にとって由比は、その幻想の獣が、影の自身が、まさに主人公の現実に侵入してくる場所なのかもしれない。
しかし、トンネルを出たり這入ったりしていた獣は、列車に轢かれて死んでしまった。
ホテルのボーイが「出たり 這入ったり すっ込んだ」と歌ったように。
歌の前にボーイは「旦那様、もうおよしなさいね」と言っている。
この台詞は、意味深である。
その受け取りは、読者に任されている。
主人公とボーイのやりとりの中で、「あの時分はボイではありませんでした」との返答に対して主人公が「何だったのだ」と問うシーンがある。
そのとき、「ボイが少しいやな顔をした」という、主人公の「観察」が書かれている。
このシーンも、それとなく「化身」を匂わせている風に思われる。
物語の前半に、主人公が幼少の頃、工事のため山を爆破したことがあって、その上にあった墓地が崩れて、近所のおばあさんの棺桶が露出したというエピソードが挿入されている。
おばあさんの遺体は「死蝋(しろう)」というものになっていて、生きていたときの姿のままだったとある。
このエピソードは、作中で主人公が「飼い犬の虐待」を思い出すきっかけに使われているのだが、「死蝋」という「永久死体」は、動物の剥製を連想させる。
と同時に、「時間の凍結」という意味では、大人に成長しながらも罪悪感が消え去ることがないことを示していると思えるのだ。
そして最後に、「ボイの白い顔と白い上衣が、境目がなくなった」とあるように、現実と幻想の境目も消えるのである。
由比に滞在している主人公は現実世界にもどったのか、それとも幻想世界にとりこまれたのか。
ボーイの謎の歌が、その結末を示しているような気がする。
「網ノ浜の 茗荷の子 出たり 這入ったり すっ込んだ」
「すっ込んだ(引っ込んだ)」のは、主人公の悔恨の影なのか。
それとも、主人公自身なのか。