2018/03/31

大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも


岩を砕く波


海水面は、風や月の引力の影響で波を作る。
風の強い日は、その波が沖合いから陸地めがけて押し寄せ、大きな音をたてて磯に衝突する。

岩にぶつかって割れる波。
大きな岩に砕かれる波。
岩の細い隙間に入り込んで裂ける波。
そして最後には、波の先端が飛沫となって空に散る。

海辺での波の変化を思い描いていると、あることに気づいた。
磯に押し寄せる波は、岩によって砕かれているように見える。
だが、割れたり砕けたり裂けたり散ったりしてできた波の破片は、すぐにまた一体化してもとの姿に戻っている。

破壊されているのは波ではなくて、磯にある岩の方なのだ。
波の浸食によって磯が、割れ、砕け、裂けて、その破片が海の底へ散っている。

2018/03/26

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮

「国定忠治・赤城山」での頑鉄の台詞

「ああ、雁が鳴いて 南の空へ飛んで往かあ!」
という赤城山での台詞を、私は国定忠治のものと長い間思っていた。
ところが、実際は忠治の子分の清水頑鉄の台詞だった。
「国定忠治・赤城山」のあらすじを何かの本で読んだときに、その勘違いに気付かされた。

頑鉄は、役人に包囲されているピンチな状況のなかで、南の空へ飛んでいく雁の姿に感動したのである。
自分も雁のように空へ飛び立って、このピンチを切り抜けたいと切望した。
そう願いつつ、月に照らされて夜空を飛んで行く雁の姿に感動したのだ。

私は、新古今和歌集に収録されている西行の次の歌に接するとき、この赤城山の場面を思い起こすことがある。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮
西行

頑鉄の感動

「西行の歌に、新国劇の任侠物芝居を持ち出すなんて!」
研究熱心な国文学ファンの方に叱られそうである。
トウシロのくせに、格調高い西行の歌を大衆演劇と一緒にするなんてケシカラン、と。

だが、忠治の子分の頑鉄は、鳴いて飛んでいく雁に、「あはれは知られけり」だったのだと私は思っている。
頑鉄は、自分の身の上を「心なき身」と感じていたのかもしれない。

沈みかけた名月に映ったのは、夜を通して飛ぶ渡りの雁の姿。
それを眺めて頑鉄は、「こんなヤクザな俺でも、自ずと感動できる心があったのだなぁ」と思い、しみじみと感じ入る。
もしかしたら自身の感動している姿に、自身が驚いているのかもしれない。

こういう劇のシーンを描いた作者は、人間の詠嘆を自然の情景で表現する「短歌的な抒情」という日本の伝統美を、踏まえていたに違いない。
観客は、日本人の感性に染み込んだ「短歌的な抒情」に喝采をおくる。
頑鉄の心情に一体感を覚えるのである。

「心なき」の意味

西行の歌にある「心なき」を岩波古語辞典で調べてみた。

こころなし(心無し)【形ク】
  1. 思いやりの心がない。無情である。
  2. 思慮がない。不注意である。非常識だ。
  3. 情趣を解さない。
  4. 物心がつかない。無心である。
「心なき身にも」は「思いやりの心がない無情な私でも」という意味であると私は感じている。
西行のどのへんが、「心なき身」なのだろうか。
追いすがる妻子を縁側から蹴落として出家したという西行の伝説の虚実は私には不明だが、西行の心情の比喩としては合っているのではないだろうか。

西行の出家

鳥羽天皇に「北面の武士」として仕えていた西行(佐藤義清)が、二十三歳のときに突然出家する。
出家後は、気に入った場所に草庵をいとなみつつ、諸国を巡る漂泊の旅に出る。
家庭から解放された心情と、家庭を見捨てた苦しい心情。
それが西行の「こころなき身にも」であると私は感じている。

西行の歌の「こころなき身にも」を、インターネットのWeblio古語辞典で調べると、「 情趣を解さない、出家のわたしの身にも」と出ている。
たぶん、出家した西行の歌だから「 情趣を解さない、出家のわたしの身にも」という「解釈」なのだろう。
この歌に関するネットの記事を読んでも、こういう「解釈」が多い。
しかし私は、「こんな薄情な私でも」というストレートなイメージを抱いている。

「あはれ」の意味

「知られけり」の「れ」は自発の助動詞「る」の連用形。
「けり」は、岩波古語辞典では、「助動詞の連用形を承ける。」とある。
その意味は「そういう事態なんだと気がついた」ということ。
「気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。」とある。
「あはれ」は、「しみじみと湧き上がってくる気持ち」と解されることも多いようだ。
だが私は、「あはれ」を「寂しさ・悲しさ・哀愁」という現代語に近い意味合いで読んだ。

西行の旅立ちの歌?

この歌がいつ頃の作かは、私には不明である。
だが、「心なき身にも」を「こんな薄情な私でも」という意味合いで読み、「あはれ」を「寂しさ・悲しさ・哀愁」という意味合いで読んでいたら、この歌は西行の旅立ちの歌なのかもしれないと思うようになった。

それは、「家族を捨てて出家できるのは、己が薄情者であるからこそと思っていたのだが、いざ旅に出てみると、こんなに悲しい気持ちが湧いてくるなんて・・・」というイメージを「心なき身にもあはれは知られけり」の句に感じたからである。

夕暮れに染まる秋の沼沢地で、そんな思いに浸っていたら、群生するススキの陰から鴫の群れが一斉に飛び立った。
西行は、この飛び立った鴫の群れに感動したのだろうか。
いや、飛び立った鴫は、西行が作った旅立ちの舞台の背景であるのだろう。

もしかしたら西行は、自身に憐憫の情があることに驚いたのではないだろうか。
そうして、西行はそういう自身に感動しているのだ。
その感動の旅立ちの舞台には、背景としてドラマチックな「鴫立つ沢の秋の夕暮」が必要だった。

あたかも頑鉄が、観客に感動を与える場面に、月に照らされて夜空を飛んで行く雁の姿が必要であるように。

芭蕉の旅立ちの句と比べる

この西行の歌を、出家の後の旅立ちの歌であると仮定したら、以下のような思いに辿り着いた。
西行が「劇的」に旅立ってから約五百四十年後に、西行を敬慕する松尾芭蕉もまた「野ざらしを心に風のしむ身哉」と「劇的」な旅立ちの句を詠んだ。
この芭蕉の句は、西行の旅立ちの歌の投影であるように私は感じている。

両者を比べてみると面白い。
なきにもあはれは知られけり」と「に風のしむ哉」は、ともに内省的な雰囲気を漂わせている精神的な詩である。
そして西行の「なき」とは、「に風のしむ」でもあるのではないだろうか。

その「心」の背景に西行は、「鴫立つ沢の秋の夕暮」と抒情的な夕景色を配した。
それにたいして芭蕉は、旅での自身の死の予感を、「野ざらし」という言葉に象徴し、それを自らの「心」の風景とした。

さらに出家する前の西行の「身」は、北面の武士という安定した身分であった。
一方、「野晒紀行」の旅に出る前の芭蕉の「身」は、蕉門とともに自身の存在感が世間に大きくクローズアップしつつある身分であった。
西行も芭蕉も、ある程度安定した生活を捨てて、精神性の高い詩作の旅に出たのである。

西行の歌に「赤城山」を思い浮かべた所以

ただ、芭蕉の旅立ちの句が象徴的であるのに比して、西行の歌にある抒情的な哀感は、大衆にとって受け入れやすいもののように思える。
それが、この歌が人口に膾炙している理由かもしれない。

「野ざらし」という不吉な言葉を用いた芭蕉の句は、当時としては前衛的であり実験的なものであったに違いない。
こういう句を発して旅立った芭蕉の冒険的な「心」は、センチメンタルな潔さをもった西行の「心」をどう評していたのだろう。

ともあれ、私もまた「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」の歌のカッコ良さにしびれているひとりなのだ。
この歌に「国定忠治・赤城山」を連想したのは、日本人好みのセンチメンタルな潔さのせいなのかもしれない。

2018/03/25

青森市滝沢、折紙山方面574ピーク尾根へ

【「みちのく有料道路」料金所下の野内川に架かる橋から、ルート上の尾根を眺める。】


今日はトレーニングがてら、「みちのく有料道路料金所下」と「滝沢574ピーク尾根」を往復のショートコース。

青森市滝沢にある山は、私好みのスキーツアーが楽しめるところ。
低山が連なった山地だが、奥が深く変化に富んでいて、スキーツアーの様々なコース取りが組めるお気に入りの場所である。

積雪期にこの山に通いだして、十五年ぐらいになる。
それでも、私なりに魅力的と思われる未踏の尾根は、まだたくさんある。

どちらかと言うと、スキーでの尾根歩きを主に楽しめる山だが、滑りを楽しめる斜面もないことはない。
八甲田山のような無立木の大斜面には巡り会えない。
でも、快適な林間中小斜面なら無数にある。

そんな斜面と尾根をコースに組み入れる。
今日のようなショートコースや、健脚者向きのロングコース。
この山でのコース取りは、体力しだいである。

津軽半島の積雪期の低山も魅力的ではあるが、冬場は自動車が林道に入れないので、アプローチが遠すぎる。
その点、滝沢は自動車道路(一般県道 天間舘馬屋尻線)が通っているので、駐車場所から尾根の取り付きまでが近い。

今のところ、道路の空きスペースに路上駐車という駐車スタイルであるが・・・
みちのく有料道路料金所の側に、乗用車10台分ぐらいの駐車場と公共トイレが完備されている。
しかしこれは、有料道路利用者のための駐車場なので、登山者は遠慮しなければならない。

バックカントリースキーヤーは広大な急斜面をガンガン滑るために山へ入る。
そういう方たちに滝沢の山は向かない。
気に入った尾根ルートを歩く楽しみと、到達点から戻るための滑り。

山行目的は、雪山散策である。
スキー滑降は副次的な楽しみとなる。

お天気に恵まれれば、気分の良い尾根歩きが楽しめる。
ヒバの森やブナの森。
そういう景観も、この山の楽しみのひとつである。

滝沢の山には、スキーよりもスノーシューに向いている山域も少なくない。
時間をかけてのんびり山歩きを楽しむには、スキーよりもスノーシューの方が適しているかもしれない。
ときにはスキーで、ときにはスノーシューで山を歩く。
これが、この山地の自然を深く体験する贅沢な方法である。

滝沢には折紙山という名前を知られた山があるので、折紙山を目指して残雪期に山に入る登山者が多いと聞く。
しかし、私は、山行中に登山者と遭遇したことはない。

折紙山が知られているとは言え、全体としては、津軽半島の山ほど山岳愛好家に親しまれていない山域である。
その理由は、無雪期の登山道が無く、名前を冠っているピークが少ないためだと私は思っている。

逆に言うと、名前の付いている山は、地形に特徴があったり景観が素晴らしかったりと、名を冠せられるそれなりの理由があるのだろう。
そういう山は、その名前を呼ばれることで、多くの登山者・観光客から親近感を獲得している。

私がよく行く734ピークは、滝沢の山では唯一山頂が無立木で360度パノラマが楽しめる山。
そういう特徴的な山でも名前が付いていない。
去年の残雪期にスキーハイキングした高地場山は、特に目立った山ではないが立派な名前が付いている。
【※734ピーク「無雪期藪漕ぎ山行の記事リンク」 「残雪期スキーハイキングの記事リンク」

滝沢の山の、そんなところが不満でもあり面白くもある。
今日眺めた574ピークにもカッコいい名前がほしいところだ。


【野内川の広い河川敷(標高170メートル)。ここから山に取り付く。】


【杉林の急斜面を登る。登ってきた斜面を振り返って見ている。】




【支尾根に到着。標高280メートルあたり。】


【登るほどに広くなる支尾根。】


【太いブナの木の向こうは東岳(標高683.9メートル)。】


【574ピーク尾根(右側)に到着。奥に見えるピークが574。】


【尾根から沢の斜面へ滑り込む。奥に平内の大毛無山(標高736.5メートル)や三角岳(標高753メートル)が見える。】


【沢斜面の重い雪を、やっとのアルペンターンでなんとか滑る。】

2018/03/22

水深く利鎌ならす真菰刈

真菰(まこも)の思い出


子どもの頃、水田の用水路の泥底から生えた細長い草の茎を食べたことがあった。
歯で茎の皮をかじって剥いて、その白い芯を食べていた。
美味しいものではなかったが、不味くもなかった。

かすかに甘みが感じられるクセのない味。
新鮮なネマガリタケのタケノコは、皮を剥いて生でも食べられるが、昔食べたその草の芯も似たような味だったなと記憶している。
私が育った村(西津軽地方)では、その草のことを「ガジギ」と呼んでいた。
「ガジギ」の葉は剣状で、それで笹舟のような「葉舟」を作って遊んだこともあった。

「利根の川風『マコモ』に吹けば」


その「ガジギ」が、マコモ(真菰)という抽水植物の地方名だと知ったのは二十歳を過ぎてからだった。

そもそもマコモという植物の名は、ある歌謡曲で知ったのである。
その当時学生寮に入っていた私は、お決まりのメンバーでよく酒を飲んだ。
そして酔いが進むと、よく歌った。
その歌のひとつに、三橋美智也の「一本刀土俵入り」があった。

私は、いつも「利根の川風マコモに吹けば」と歌う。
この歌を、そう聞き覚えていたのだ。
そして、マコモはススキのような草だろうと、漠然と思っていた。

ところがある夜、メガネをかけた賢顔のひとりの寮生が、それは「利根の川風まともに吹けば」だろうと言った。

「へっ、まともだって、それはまともじゃないねえ。」と私。
「だって、正確な歌詞に従って歌えば『利根の川風まともに吹けば』だぜ。」と賢顔ハンサム。
「けっ、『まとも』じゃ詩情に欠けるじゃないか!『マコモ』のほうが断然イイ!」と阿呆面私。
「詩情に欠けるとか欠けないとか言ってるんじゃないよ、歌詞を正しく歌えば『まとも』だと言ってるんだよ。」と賢顔。
「へっ、てめえはまともなつもりかよ!」とメチャクチャ阿呆面。
「じゃキミは、マコモってどういう植物か知って言ってるのか。」
「けっ、なんかススキのアレだろ・・・」
「アレって、何だよ。」
「へっ、アレって、アレに決まってるだろ・・・」

ガジギ=マコモ


利根の川風に吹かれて似合うのは、ススキみたいなもの以外にはない。
私の頭のなかでは、そう決まっていた。

その後、学校の図書室でマコモ(真菰)の正体を知った。
野生植物図鑑に、イネ科の大形多年草で水辺や水中に群生するとあった。
新芽は食用になる。
東北地方では、カツミ、カッツギの呼び名があるとも書かれていた。

「カッツギ」という呼び方は、私の知っている「ガジギ」に似ている。
それに食用になるという共通点もある。
図鑑の写真をよく見ると、それはもう、あの「ガジギ」であった。

してみると、私がかじって食べていたのはマコモの茎ではなく新芽だったようだ。
私にとって、腹をすかした餓鬼時代の哀愁のマコモであった。
やはり、哀愁ただよう利根の川風には、マコモが似合う。

蕪村の「真菰刈り」の句


前置きが長くなってしまった。
下記の句は、その「真菰」を題材にした蕪村の句。

水深く利鎌(とがま)ならす真菰刈
与謝蕪村

「利鎌」とは、切れ味の鋭い鎌のこと。
「ならす」は多分「鳴らす」のことと思われる。
鎌を水中で動かして「真菰」の茎を切り取る。
そのザクッと切れる水の中の音が、水面上に響く。

「真菰刈」の季語は晩夏。
夏の終わり頃に「真菰」を刈るのは、「真菰」の茎や葉を、筵(むしろ)の材料にするためとのこと。
掲句について「日本詩人選18 与謝蕪村(筑摩書房)」で、その著者安東次男氏は、「視界の外にあるものにさえ、その目は執拗に及んでいる。」と蕪村を評している。

「真菰」は背丈が2メートル近く伸びる大型植物。
深い水の底からでも茎を伸ばすという。
泥底に生える植物であるから、人が足を踏み入れると、水の中は濁って見えなくなる。
その見えない水の底までも、蕪村の視線は届いていると安東次男氏は述べているのだろうか。

泥で濁って見えない「利鎌」の動きを蕪村はじっと見ている。
時折、水面近くでうっすらと光る鋭い鎌の刃。
見えない世界から聞こえてくる「利鎌」の切断音。
その鋭利な世界に、無音な詩情を感じて、蕪村はこの句を作ったのかもしれない。

天明の飢饉


だがこの句からは、そういった田園風景の詩情描写以上のものを私は感じている。
見えない水中で「真菰」を刈り取る「利鎌」のかすかな音が、蕪村の憤りや苛立ちのように聞こえてくるのだ。
「利鎌」の鋭い刃の存在感は、いったい何を暗示しているのだろうか。

労働としては、「真菰」を浅い箇所で刈ったほうが効率が良くて時間内の収穫も多い。
作業をする者の体も楽である。
「真菰」を刈る農民を水深いところまで追いやったものは何だったのだろう。
上句の「水深く」という表現には、尋常ではない農民の深く重い状況が察せられる。

掲句が、いつの作かは私には不明である。
以前記事にしたが、蕪村は天明2年から天明8年にかけて発生した大飢饉の最中、「紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞」という句を作った。
その記事で私は、この句にはなにやら蕪村の苛立ちのようなものを感じると書いたのだった。
「水深く利鎌・・・」の句にもそれを感じるとしたら、やはり天明の飢饉が掲句の背景となっていると仮定することも可能なのではないだろうか。

視界の外にあるもの


天明期に発生した百姓一揆・打毀しがこの句の背景にあるとしたら、「水深く利鎌ならす真菰刈」の「ならす」は「慣らす」ともとれるのではないだろうか。
飢饉のなかで、食料を求めて「真菰」を刈る。
イネ科の植物である「真菰」の種子は、稗(ヒエ)や粟(アワ)同様緊急時の食料となる。
その「真菰」も水の浅い場所では採り尽されて、農民たちは沼や川の深い場所へと食料を得るために追い込まれる。
水の中で時折光る鎌の刃は、そんな農民たちの鬱屈した不満の象徴のように蕪村の目に映ったのではあるまいか。

深い水のなかで、「真菰」を刈る。
それは、農民たちの陥った状況に鎌を慣らしてでもいるような。
仕事の道具を、苦境に順応させることで、農民自身も苦境に耐えようとしているのではないだろうか。
蕪村は、「ならす(慣らす)」にそういう意味合いを含めた。

たとえば「鮒売り」という言葉は、鮒を売り歩く行為をさしていると同時に、それで生活している人の代名詞にもなっている。
「真菰刈」もまた、飢饉によって没落した農民の代名詞であるとしたら、深い水の中で「真菰」を刈るために「利鎌」を慣らす「真菰刈」の姿が、リアリティをもって私の脳裏に浮かび上がってくる。

「真菰刈」の姿は、農民たちの情念のようなもの。
それは、平穏な田園風景の「視界の外にあるもの」である。

安東次男氏の解説をそう考えると、蕪村の目は、執拗に視界の外へ及んでいると私にも感じられる。

掲句を天明期の作であると仮定したうえでの話であるが・・・。

<関連記事>
蕪村しみじみ

2018/03/21

青森市滝沢の神堤山へスキー散歩

本日の行程図(赤色点線:往復路。行程線はブログ管理人の書き込み)。出典:国土地理院ホームページ。

去年の秋に山麓周辺を散策した滝沢の神堤山。
この山を残雪期に登ってみようと地形図を見ながら思いをふくらませていたのだが、今日それが実現した。
地形図を見ながら思いをふくらませる時間は楽しい。
実際に登ってみると、なお楽しい。
「楽しい」×「楽しい」のスキー山行。

道路脇の駐車場所(スタート地点)の標高は、約95メートル。
神堤山は、標高465.6メートル。
今日は、標高差にして370メートルのスキー散歩を楽しんだ。

滝沢の名有山(なありやま)シリーズ

今シーズン初回の山スキーなので、神堤山は足慣らしにちょうど良い。
この山は、滝沢の山の中では名前がついている数少ないピーク。
去年の春の高地場山に続いて、滝沢の名有山(なありやま)シリーズ4回目となった。
振り返って見れば、初回は折紙山(標高920.7メートル)2回目が葉抜橋山(標高615.2メートル)3回目が去年の高地場山(標高459メートル)

神堤山の山裾の林道は、無雪期に何度か散策したことはあるが、無雪期有雪期を通して登頂は今回が初めて。
未知のルートを歩く楽しさは、好天のおかげもあって最高だった。

変化に富んだ行程

下折紙沢の渓谷有り、青森県に特有なヒバ林有り。
尾根の形状も、細い尾根や広い尾根、緩い尾根や急傾斜の尾根といろいろあって、変化に富んだ雪山山行が楽しめた。
ま、山はどこでも変化に富んでいるのだがね。

青森市街を背にして、みちのく有料道路の「新折紙橋」を越えた付近に、左側へ抜ける林道がある。
林道は、積雪のため自動車は通れない。
なので、林道入口の広くなっているところにクルマを路駐した。

しばらくは林道歩き

上の地形図にあるように、駐車地点から林道をしばらく歩く。
下折紙沢を渡るまでは、下折紙沢の渓谷沿いに林道が続いている。
ときどき急峻な渓谷を覗き込みながら歩いていると、林道は二手に分かれる。
右手に進み、下折紙沢に架かったコンクリート製の橋を渡る。

橋を渡ってから林道は、やや傾斜を増して、神堤山の山裾を巻くように上に伸びている。
橋付近の河原には、太いヒバの木の林がある。

山腹を巻く林道に、雪崩の起こりそうな箇所は見あたらない。
ただ、落石が転がっているところが数箇所あったので注意が必要だ。

林道から尾根へ

傾斜の緩い尾根への取り付き地点は、そのそばを高圧線が走っているので、それが目印になる。
緩い尾根を林道に沿って登っていくと、傾斜がだんだん急になる。
登りきったところが351ピーク。
ピークの西側は雪解けが早い。
ピークの東側を、雪庇崩れに気をつけながらトラバースして、神堤山への渡り尾根に取り付く。

渡り尾根の西側は、雪解けが進んで、背の低い笹藪地帯が露出している。
無雪期でも藪こぎ無しで、心地よい尾根歩きが楽しめそうな具合である。
尾根を渡り切ると、急傾斜の細い尾根にぶつかる。
木が立て込んでいて残雪も少ないので登るのに難儀した。

急傾斜の斜面を登って、神堤山山頂から西へ延びている緩い尾根に取り付く。
西尾根に乗れば、山頂までは間近。
山頂付近の雰囲気を楽しみながらのんびりと登る。

神堤山山頂

スタート地点から2時間弱で山頂到着。
山頂はこぢんまりとしていて、端正な面持ちが感じられた。
端正な面持ちと言うのもちょっと変かもしれないが、三角山特有の端正さである。
小さな山頂広場の周辺には木が立ち込めていて、見晴らしはあまり良くない。
北側がちょっと疎らで、樹間から東岳(標高683.9メートル)を眺めることが出来た。

ゆっくりと休んで、帰りに備えた。
雪がガリガリだったので緩むのを待ったが、一時間経っても緩まない。
ガリガリの急斜面は慎重に横滑りで下りた。

林道の緩斜面はベチャベチャ雪でスキーが走らない。
日陰部分がザラメ雪になっていたので、ほんのちょっと快適スキー。
ほんのちょっと快適スキーでも山スキーは楽しい。

山を歩く固有な視線

山を歩く人は、その人固有の視線を持っている。
その視線で地形図を読み、その固有の視線に導かれて山を歩く。
この視線は、その人自身が山の楽しさを発見するレーダーのようなものなのかも知れない。

山を歩かない人は、この視線を持っていない。
だから、山から下りた者を不思議そうな目で眺める。
八甲田ならまだしも、ノーブランドの滝沢あたりではそういう目にさらされることが多い。

私も時々不思議な気分になる。
なんでこんなに滝沢の山が好きなんだろうと。
そう思いながら山を眺めていると、いつの間にかそれが私固有の視線に変わっている。
だからまた滝沢の山へ出かけることになるのだった。


駐車地点から神堤山(写真中央の三角山)を眺める。

野内川越しに神堤山を眺める。

日陰の林道は雪が凍っていてガリガリ。右手が下折紙沢の渓谷。

橋の上から、下折紙沢の小さな滝を見下ろす。

神堤山の山裾を巻いて延びている林道。

低山の林道歩きならでは。カーブミラー自撮り。

林道を離れて、平坦な尾根に入る。

登り始めは傾斜が緩い尾根。

登るに従って傾斜が増し、立木も混んできた。

351ピークへ登る尾根の途中から、神堤山が姿を現す。

雪解けの早い渡り尾根。登ってきたルートを振り返って眺める。

急斜面を登って神堤山の山腹へ。登ってきたルートを見下ろしている。

神堤山西尾根の様子。西側を眺めている。

山頂付近のハッピーエリア。

神堤山山頂。北の方角に東岳が見える。

やはらかに柳あをめる・・・・下折紙沢の岸辺。

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2018/03/18

今シーズンの初滑りは八甲田ロープウェイコース

レストハウスの「臨時休業」の貼紙。

今日がスキー初め。
いろいろあって、今シーズンは遅い初滑りとなった。

山で滑る前に、今年の滑りをスキー場で点検しなければならない。
高齢者のバックカントリースキーは、入念なチェックが必要だ。
去年と同等の滑りができるのかどうか。
チェックポイントは、腰とか膝とか関節系。
これらの調子が悪いと雪山で動けなくなる。

スキー場で滑りながら、腰や膝のご機嫌をうかがう。
『今年も雪山へ行っても良いですか?』
自身の身体と対話できるようになったのも山歩きのおかげか。

筋力チェックも大事。
ちょっと滑って大腿部の筋肉がパンパンに突っ張るようではトレーニングが必要。
去年の状態が維持されているのか、衰えているのか。
まあ、衰えていると自覚したほうが無難でしょう。

身体と同時に、用具の点検も。
  1. スキー板の劣化状態、まだ山での使用に耐えそうかどうか。
  2. ビンディングのネジが緩んでいないか。
  3. スキー靴にヒビ割れがないか。
  4. などなど。
これらは、毎回チェックすることでもある。
スキー初日は、チェック項目を再確認するようなものですね。

さて、八甲田国際スキー場へ着いたらリフトは故障のため動いていない。
レストハウスも臨時休業。
ガランとした無人のゲレンデが目の前に広がっているだけ。
リフトの休業を知って、そのままモヤヒルズへUターンするスキーヤーもいたが、私はロープウェイを使うことにした。

八甲田ロープウェイの片道券が1,180円。
2本滑って2,360円。
あんまり使うことのないロープウェイだが、今日はお天気が良いので楽しむことにしたのだ。

一本目はダイレクトコース、二本目はフォーレストコースを滑った。
どちらも雪がガリガリに凍ったコンデション。
横滑りやらボーゲンやらでやっと降りてきた有様。
でもまあ、それなりに滑れたし、それなりに楽しめた。
66歳にしては体力がある方じゃないかねえ。
のんびりペースでやれば今年も大丈夫そうである。
無理をせず、安全第一を心がければ、まだまだ雪山を楽しめそうである。


動いていないリフト。

田茂萢岳山頂から南八甲田連峰の主峰「櫛ヶ峰(標高1516.6メートル)」を眺める。

田茂萢岳山頂から北八甲田「大岳」方面を眺める。「赤倉岳(標高1548メートル)」(左)、「井戸岳(標高1537メートル)」(中)、「大岳(標高1584.5メートル)」(右)。

ダイレクトコースから西方向を眺める。「白神山地」(左にぼんやりと白く)と「岩木山(標高1625メートル)」(右)。

もう樹氷の姿は無い。

コースに沿ったパウダー斜面。コースを外れるのはコースを見失う可能性があるので禁止されています。

スキー場は無人。

八甲田国際スキー場「ふりこ坂コース」。

フォーレストコース斜面。「鳴沢大地(標高1232メートル)」(左)と「赤倉岳(標高1548メートル)」(右)。

「前嶽(標高1251.7メートル)」。

ブナの木に咲いた雪の華(霧氷)。

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2018/03/17

初時雨猿も小蓑を欲しげなり

時雨


松尾芭蕉の忌日の呼称は、「芭蕉忌」の他に「時雨忌」というのもある。
亡くなった頃が「時雨(しぐれ)」の多い時期であることと、芭蕉が「時雨」をよく句作に用いていたことによるという。

そういえば、「旅人と我が名呼ばれん初時雨」という貞享四年の「笈の小文」旅立ちの句にも「時雨」は使われている。
芭蕉にとって「時雨」は、旅のシーンを演出するキーワードのひとつであったのかもしれない。

「時雨」とは晩秋から初冬にかけて降ったりやんだりする冷たい雨のこと。
寒冷前線がもたらす雨(驟雨)であるから気温は低めである。

帰省途上の山の中で作った発句


初時雨猿も小蓑を欲しげなり
松尾芭蕉

元禄二年の初冬(九月末頃)、芭蕉四十六歳のときの作である。
奥州・北陸の旅(おくのほそ道)を岐阜大垣で終えた芭蕉は、元禄二年九月から元禄四年十月二十九日まで、二十五ヶ月間の長期に渡って上方(関西地方)にとどまっている。
芭蕉年譜大成(著:今榮藏)に「上方漂泊期」と記されている期間である。

掲句は、その「上方漂泊期」の初期に作られたもの。
伊勢神宮式年遷宮奉拝の後、伊賀上野への帰省途中での発句とされている。
また掲句は、蕉門の撰集「猿蓑」の冒頭句に掲げられていて、撰集名「猿蓑」の元となっている句でもある。

句の前書きに、以下の詞がある。
五百里の旅路を経て、暑かりし夏も過ぎ、悲しかりし秋も暮れて、古里に冬を迎へ、山家の時雨に逢へば
この前書きにある「悲しかりし秋も暮れて」とは、北陸の旅の途上、金沢で門人小杉一笑の死を知らされたことと思われる。
この年の七月十五日に金沢入りした芭蕉は、会うのを楽しみにしていた一笑が、去年の冬にすでに亡くなっていたことを初めて知らされ、深い悲しみにとらわれる。
その追善句会で「塚も動け我泣声は秋の風」という句を詠んだ。
また、前書きの「山家」とは、山村とか山里とかのことであろう。

初時雨と山の猿


芭蕉は、帰省する途中の山村で「初時雨」にうたれた。
蓑で身をつつみながら、こんなに冷たい雨なら山の猿も小さな蓑を欲しかろうにと思ったことだろう。

山のなかで、冷たい「時雨」にうたれて寒そうにしている猿を、芭蕉は実際に見たのかもしれない。
当時は、現代のように優れた防寒着などない時代である。
冬の寒さに対する恐れは、現代人には推し量れないほどのものであったに違いない。

冬の雨の日は、雪の日よりも寒く感じる。
以前、私はこのブログでそんな記事を書いたことがあった。
「野晒紀行」や「笈の小文」その他で、幾度となく冬の旅を経験した芭蕉は、時雨に濡れることのやっかいさを痛感していたことだろう。

一時の通り雨でも、冬の雨に濡れるのはつらい。
蓑で雨から身を守らないと体温を奪われてしまう。
まして山のなかで低体温症になったら、生命の危険にもかかわる重大事である。

そんな事態を芭蕉は、「猿も小蓑を欲しげ」と軽く書いた。
この句を読んで、冷たい雨の日に「小蓑」を着た「猿」の姿を、読者は思い浮かべる。
それはユーモラスであるとともに、なにやら安堵を感じるあたたかい光景でもある。

対比


この句には、様々な「対比」があると私は感じている。
芭蕉句における「対比」とは、相対するふたつの物事を提示することによって、両方の物事が単独の場合よりも相互に際立ち、印象が鮮やかに感じられること。
  1. 「初時雨」→天(の現象)/「猿」→地上(の生き物)
  2. 「初時雨」→寒い・冷たい/「猿も小蓑」→ユーモラス・愛らしい(暖かい)
  3. 「初時雨」「猿」→自然・風景/「欲しげ」→人工(擬人)・感情
  4. 「猿」→動物/「小蓑」→人間
  5. 「初時雨」→旅(移動する雲)/「猿」→山(定住)
  6. 「初時雨」→客観/「猿も小蓑を欲しげ」→主観
これらの「対比」によって、この句は読む者に鮮やかな印象を与えている。
さらにこの句の様々な「対比」を想起することによって、読む者のイメージが広がっていく。

野生の猿に蓑?


ここまで書いてきて、ふと疑問が湧いた。
野生の猿に、いくら寒くても蓑は必要だろうか。

毛皮に被われた猿にとって、雨が我慢できない寒さをもたらすとしたら、猿は木陰や岩陰に身を隠して雨に濡れるのを避けるのではあるまいか。
そんな猿を、なぜ芭蕉は「小蓑を欲しげ」と表現したのだろう。
もし蓑を欲しげな猿がいるとしたら、それは冷たい雨の中でも芭蕉のように蓑を着て歩みたいと願う猿ではないだろうか。

時雨のなかを故郷に向かって山道を歩いていた芭蕉。
芭蕉は、木陰で雨宿りしている子猿を見かける。
子猿は、好奇心あふれる大きな瞳で、じっと芭蕉を見つめている。
その子猿の目を見ながら、この子猿も棲家から離れて旅に出たいのではあるまいかと芭蕉は空想する。
そんな子猿を芭蕉は句に登場させたのではあるまいか。

宝井其角の「猿蓑」序文


芭蕉の「上方漂泊期」に編集され、元禄四年七月に発刊された「猿蓑」の序文で、宝井其角は掲句に触れている。
その部分を抜粋したのが下記のもの。
「只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」
これを岩波古語辞典を引きながら、私なりに意訳を含めて現代語訳してみたのが以下のものである。

「ただもう己の俳諧に魂を吹き込もうと、師匠が旅をしていたころ、伊賀へ山越えする山中で(子)猿に小蓑を着せた句をつくり、その句には俳諧の神髄が入っているものなので、たちまちに(母猿が)断腸の思いを叫んだようである。敵にとっては恐ろしい俳諧の技である。」

私は「あた」を「敵=蕉門に対峙するもの」の意と解した。
向井去来が「去来抄(下京や)」で述べた「他門の人」にあたると思われる。
「猿蓑」は、芭蕉一門の手によって当時の俳壇に一石を投じた俳諧撰集であるから、この序文は宝井其角の蕉風批判勢力に対するアジテーション的なものであったのでは、と私はトウシロながら憶測している。

其角は、芭蕉が猿に小蓑を着せたことを俳諧の神髄であると述べている。
私は、この序文を読んで、そう理解した。

「小蓑を欲しげ」な猿は、防寒着を欲しげな猿ではない。
旅人の「蓑を欲しげ」な猿なのである。
そう其角は感じた。

子猿は、旅人の「蓑を欲しげ」に、芭蕉の後をついて行った。
棲家を離れた子猿に対して「母猿」が断腸のおもひを叫びけむ」となったのである。
そういう猿を想像し描くことが、俳諧の神を入たまひ」であり、「あたに懼るべき幻術」であると其角は述べているのだ。

この序文の内容を、「猿蓑」編者である向井去来と野沢凡兆が了承した。
そして何よりも、「猿蓑」の編集をきびしく監修したであろう芭蕉が了承した。
「其角よ、いいセンスしてるじゃん。」と師匠が言ったかどうか・・・・
こうして、「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」は、名実ともに「猿蓑」の冒頭を飾る句となったのである。

ちなみに「猿蓑・巻之一」は、冒頭の芭蕉の掲句に続いて、向井去来の十三句目まで「時雨」を題材にしたものである。
私の好きな野沢凡兆の句は九句目。

時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり

※「猿蓑」
俳諧撰集。六巻。去来・凡兆編。1691年刊。芭蕉七部集の一。発句・歌仙のほか幻住庵記・几右日記などを収める。景情融合の発句,匂付(においづ)けによる連句など,蕉風俳諧の一つの到達点を示す。(大辞林より)

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