雑談散歩

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芭蕉の微視的な季節感「物いへば唇寒し穐の風」

私には、自身の「唇寒し」という感覚がよくわからない。

口を動かす筋肉が寒さに強ばって、うまく物が言えない、ということはある。

もし物を言おうとでもすれば、口元が寒く強ばって、うまくしゃべらせてくれない秋の風だ。
冷たい秋の風が吹いているときは、何も言えない。
まだ寒さに慣れていない身には、秋の風は物を言いづらいというイメージなのだろうか?

物いへば唇寒し穐の風
松尾芭蕉

上記の句に、前書きとして「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」という文言が付いているという。
そのため、この句が格言的な意味合いで語られることが多いらしい。

だが、芭蕉のこの句から格言や人生教訓めいた意味をくみ取るには無理があるように私には思える。
前書きだとされている文言は「相手に対して奢った物言いをしてはいけない」というような格言である。
私には、「物いへば唇寒し穐の風」と、そういう格言をうまく結びつけるイメージ力が無い。
「穐の風」が「世間の風評」の比喩だとしたら、多少は肯けそうだが、そうとも思われない。
そういうしらじらとした世俗的な「教訓」を、芭蕉は俳句の題材に選ぶだろうか。

やはり、口元を強ばらせる寒い秋風が吹くようになったというイメージしか思い浮かばない。
それでは、どうして「物いへば口元寒し穐の風」ではいけないのか。

「口元」ではごついのだ。
野暮ったいとか粗雑とか。
髭面の顎とかが連想されて、美観上よろしくない。
もっと美しい局部をクローズアップして、色気を出したいと芭蕉は思ったのではないか。

秋から冬に向かうダイナミックな季節の動きに対比させた小さな唇。
その唇に季節感を込めた。
物事を微細に観察する芭蕉の目が、唇に読者の意識を誘導しようとしたのではなかろうか。

物を言おうとしたのは、芭蕉自身ではなく、芭蕉の目に触れている人だった。
その人の唇が秋の風に寒々と震えているように見える。

あの女性は何を言おうとしたのだろう、吹き荒れる冷たい秋の風に小さな唇が寒そうだ、というイメージ。
広い空から吹きつける木枯らし。
それと対比させようとする視線が唇を微視的にとらえる。

そういう艶やかなイメージは、もう道徳的な格言からは遠い存在だ。

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