2015/10/22

芭蕉の岐路「旅に飽きてけふ幾日やら秋の風」

吉本隆明氏に「言葉からの触手」(河出書房新社)という刺激的な題名の著作がある。
「あとがき」で吉本氏自身が言っているように、この本は、「生命が現在と出合う境界の周辺をめぐって分析をすすめている」断片集でできている。

その「断片集」の60ページ目に「11 考える 読む 現在する」という題の「断片」がある。
以下に、私が気になっている冒頭の文章を引用させていただく。
「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業は<考えること>をたすけるだろうか。さかさまに、どんな資料や先立つ思考にもたよらず、素手のまんまで<考えること>の姿勢にはいったばあい<考えること>は貧弱になるのではないか。わたしたちは現在、いつも<考えること>をまえにしてこの岐路にたたずむ。」

与謝蕪村は芭蕉の句を、松尾芭蕉は西行の歌を下敷きにして作った句がいくつかあると言われている。
与謝蕪村の「門を出ればわれも行人秋のくれ」は、松尾芭蕉の「此道や行人なしに秋の暮」を下敷きにしていると言われている。
芭蕉の句をモチーフに蕪村がオリジナルを作ったのである。

また、松尾芭蕉の「何の木の花とはしらず匂哉」は、西行の歌「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」を踏まえていると言われている。

これらは、吉本氏の言う「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業」の結果の創作なのだろう。
そして、その創作物を読む私たちも、「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業」を続けなければ、その創作物にうまく接することができないでいる。

では、「どんな資料や先立つ思考にもたよらず、素手のまんまで」作られたものとは、どんなものなのだろう。

次の芭蕉の句が、それにあたらないだろうか。

旅に飽きてけふ幾日(いくか)やら秋の風
松尾芭蕉

この句に「知的な資料」先立つ思考」の存在は感じられない。
芭蕉が「素手のまんまで」考えた句である。

そして、この句が「貧弱」であるかどうかは、私にはわからない。
ただ芭蕉にも、こういう気分におちいるときがあるのだと思い知る。

芭蕉は、旅を続けることをまえにして、幾日この「岐路」にたたずんだことだろう。
「秋の風」が「旅に飽き」た芭蕉に旅立ちをうながしている。

「旅に飽き」た芭蕉は、また新たな旅を素手のまんまで<考えること>」から始めようとしているのかもしれない。

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◆松尾芭蕉おもしろ読み

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