2015/10/01

作者不明の自由律俳句だと思っていた「日暮れて道遠し」

日暮れて道遠し

私は、この句から感じられる豊富なイメージが好きだった。
こんなに短い言葉なのに、様々な情景が思い浮かんで、空想が広がる。

その道は学校帰りの小学生の下校の道か、戦争から故郷の家へ帰る兵士の道か、サラリーマンの帰宅の道か、漂泊者の帰るあてのない彷徨い道か・・・・・・・。

いずれにしてもそのイメージは、どこかへ帰る人の姿と、日が暮れていく情景だった。

帰る人の心中は、待っている人のために早く帰らなければならないという思いだったり、早く家の者に会いたいという希望だったり、朗報を持ち帰ることが出来ない悲嘆な思いだったり、行くあてのない心を持ち歩く絶望だったり・・・・・・。

その足取りも軽快だったり重かったり、あるいは、もう動けなくなって無念にも倒れこんでしまったり。

いろんな情景が思い浮かぶが、暗くなってもなお遠い道を歩き続けようという気持ちが感じられて好きだったのだ。

「日暮れて道遠し」は文語体だが、どこか自由律俳句の面影が感じられる。
この言葉自体が、どんな能書きをも寄せつけない、独立した独特の世界を形づくっているようで興味深かった。

私は、今までこの言葉から教訓的なものを感じたことが少しも無かった。

遅まきながら最近になって、この言葉が、「ことわざ」として利用されていることがほとんどであることを知った。
この「ことわざ」の原典は、中国の史記にある「伍子胥(ごししょ)伝」での伍子胥(ごししょ)が言った言葉であるという。
ネットの「故事ことわざ辞典」には以下の記述がある。

「日暮れて道遠しとは、年をとってしまったのに、まだ人生の目的が達成できていないことのたとえ。また、やらねばならない仕事がたくさんあるのに一向に仕事がはかどらないことのたとえ。」

「日暮れて道遠し」から上のような意味を導き出すなんて、なんという発想だろう。
その想像力は、人生に対して脅迫的でもある。

いくつかの俳諧が「格言」として一般に知れ渡っていることを以前記事にしたことがある。
「文句(言葉)」から教訓や意味を引き出すのに熱心なあまり、その「文句(言葉)」が醸し出している豊かな情感(情景)が見落とされるという意味合いのことを書いたのだった。

言葉から「論理」を導き出すのか。
その言葉から汲み取れる情感を感受するか。

言葉から教育的な格言を探り出して、その中で安堵するか。
言葉の情感の世界を彷徨うか。

「日暮れて道遠し」という言葉から、私は限りなく後者であるなと感じている。
さて、あなたはどちらでしょう?

どちらでもない、という世界もまた興味深い。

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