自作掌編小説「猫の影」

 失職して田舎へ帰って来たが、やることがない。
 毎日ぶらぶらしている私を見かねて、母が納屋の掃除を言いつけた。しかし小屋の中は、きちんと整理整頓が行き届いている。几帳面な母が、散らかしておくはずがない。
 小屋の中を見回したら、子どもの頃に使っていた釣り竿が目に入った。フナ釣り用の粗末な竹の竿が、板壁の隅に立てかけてある。浮きもテグスも釣針も、昔のままだ。触れてみると、懐かしい思いに胸が踊った。
 お天気が良いので、釣竿を肩にかけて、昔の釣り場に向かった。
 家が建ち並んだ集落の、メインの通りから外れ、杉木立の坂道を下りながら、水田地帯を眺めた。眼下に広がる田園の、緑の苗が風に揺れて、まるで海の様だった。
 
 こんなに広かったかなあと驚いた。子どもの頃はフナ釣りに夢中で、あまり風景や地形のことを気にしなかった。農道をしばらく歩いてから見覚えのある畦道に入り、目当ての小川を目指した。泥の匂いと畦道の草いきれに、子どもの頃が思い出された。
 着いてみると、小川の流れが速すぎる。記憶の川は、こんなに急流ではなかった。ほとんど淀みに近い状態で、生い茂った浮草の隙間がポイントだった。
 そこは、フナの集まるところらしく、同時に二つの針にかかったことが何度もあった。その手ごたえが面白くて、いつも通っていた場所だったのだ。
 ところが、目の前の川には水草も生えていない。時々強くなる流れに、水際に生えている草が、流水に引き込まれそうになって抗っている。近くに、農機具を移動させるためのコンクリート橋が架かっているから、場所はここで間違いないはずなのだが。

 どこかに淀みが無いかと、小川沿いの畦道を下流に向かって歩き出した。暇を持て余していたから、故郷の土地を散策しようと思った。
 陽気に誘われて、一時間ほど歩いたが、流れは、ますます急速になるばかりだった。流れをじっと見つめていると、自分が後ろへ運ばれていくような錯覚に襲われた。風が出てきたせいか、田んぼの苗も、ザワザワと大きく波うっている。目を空に移しても、運ばれていく感覚から覚めない。
 やがて前方に、ゴーッという水の音が聞こえだした。
  
 近づいてみると、小川の水が滝となって、崖下の大きな川に水しぶきとともに落下している。崖は一面白い岩が露出していて、岩の隙間に背の低い草が縫い込まれたように生えている。こんなところがあったとは、誰にも聞いたことが無い。崖下から風が上がって来て、足元を寒くした。
 断崖の底を流れる川と、そこに落ちる滝を見ていると、宙に浮いていくようで、足元が危なっかしい。滝から目をそらして、後ろを振り返ると、緑の水田と青空が、のどかに広がっている。
「おかしいな」
 違う土地に迷い込んだような気がしだした。水田の向こうには山並みが見えて、山裾には人家が見えるはずだった。
 それが消えている。
 水田と空が、風景を覆うように広がっているだけだった。
 
 こわごわ断崖の下の川を見下ろすと、一艘の小舟が下流に向かって進んでいる。
 驚いたことに、舟に乗っているのは、人間ではなく猫だった。五~六匹の猫が、釣竿を垂直に立てて、進行方向を向いている。
 姿を隠そうと身を引いたときに、崖際の小石が数個、岩に跳ね返りながら転がり落ちた。その音に一匹の猫が崖の上に顔を向けた。すると猫たちが、一斉に舟の上を走り回り出した。突然の出来事にあわてふためいているというように。
 その動きがぴたりと止むと、揃ってこちら側の船縁に身を乗り出して、いぶかしげな鳴き声をあげた。舟が川岸に寄せられ、猫たちが崖を這いあがって私に向かってくるようだった。
 私は、釣竿を放り投げて、逃げた。
 小川に沿った畦道を草藪に足をとられながら夢中で走った。記憶の釣り場が消えて、見知らぬ風景が後ろから覆いかぶさってくる。

 どれぐらい走ったろうか、前方の雑木林の中に水門が見えた。柔らかく輝いている新緑の木漏れ日を浴びて、錆色の太いネジ棒が二本、角のように空をさしている。後ろを振り返ると、猫たちの気配は消えていた。
 林の奥に堤防があった。この堤防は、実家のある集落に通じているはずである。理由もないのに、そういう思いに駆られた。
 堤防に駆け上がって、あたりを見廻すと、見慣れた風景は、どこにも無かった。
 駆け抜けた林の向こうは、茫漠と広がる水田地帯。一方、堤防の上から見える風景は、河岸に広がる葦原と、湾曲して葦原に入り込んだ銀色の川だった。水田の小川は、この川から流れているらしい。
 私は土手道を川の上流に向かって歩き出した。とにかく、人に会って安心したい。そういう気持ちでいっぱいだった。土手道の先に、河原へ下りる細い道がついていて、道の先に作業小屋のようなものが建っていた。人の気配に、ほっと安堵した。
 その道を降りると、川岸に数艘の小舟を係留してあるのが見えた。小屋の陰から初老の男が出てきて、こちらを見ている。
 その顔に見覚えがあったが、思い出せない。男は、私を見て驚いたようだった。小屋の中から数匹の猫が現れて、男と何かを話している。猫の小さな舌が、見えたり隠れたり。男の方へ近づくと、輪郭がぼやけて、彼らは、影のように消えてしまった。 
 遠くの川岸で、舟のそばにいる猫が、じっと私をみつめている。その顔にも見覚えがあるような気がした。
 川、田んぼ、猫と、頭の中で映像がせわしく回っている。
 
 田舎の家で放し飼いにしていた猫は、よく仔猫を産んだ。そのたびに母は、飼えないので捨てるようにと私に命じた。かわいそうじゃないかと言っても、返事をしない。それで、命じられるままに、河原や田んぼに、段ボール箱ごと仔猫を捨てた。
 柔らかい子猫の身体をつまんで、箱に入れた感触が、手指に残っている。まさかあの時の猫ではあるまいと思って近づくと、小舟も猫も、ぼんやりとした形になって消えてしまった。さっきの男の姿も、どこにも見えない。
 見たものがぼやけて消えたら、子どもの時分に感じたざわざわした感覚が甦った。草藪をかき分けて、ミャアミャアと追いすがる仔猫。
 このまま去ってはいけないような気分になったのは、当時と同じだった。だが、よみがえる記憶と、消えていく影への後ろめたい気持ちから、その場を離れた。
 重苦しさから解かれないまま、堤防を歩き続けて、どうやら家に帰って来た。

 食卓で酒を飲んでいた母は、じろりと私を見上げただけだった。昔から母は、仕事が終わると、いつも酒を飲んだ。酔いが回ると、「うちは、鬼の末裔かもしれん」と言っていた。両袖を肩までまくり上げて、筋肉質な太腿も露わに、あぐらを組んでコップ酒をあおる。酒に火照った赤い顔でそう言われると、子どもの私は、気おくれして後ずさりするしかなかった。
 父のことは、家族を捨てて失踪したのだと言っていたが、鬼嫁が亭主を追い出したという噂を耳にしたこともあった。
 その晩私は、東京へ戻って、また職を探すと母に告げた。
「そうしなさい、そうしなさい」と母は笑いながら繰り返した。
空のコップを幾度もあおりながら。

 岡山駅から東京行きの新幹線に乗った。
 列車は平島を過ぎると、妙見山、第二吉井、第一吉井と、続けて三つのトンネルを抜ける。トンネルとトンネルの合間の一瞬の風景を後方へ飛ばして、闇の中を疾駆する。
 第一吉井トンネルを抜けると、ぱっと視界が開け、前方に吉井川が見えた。吉井橋梁を走る車窓から、川の美しい風景が目に入った。
 
 穏やかな川面に川舟が一艘浮かんでいる。
 舟の上には数匹の猫がいて、こちらに背中を向けて、漁をしているらしいのがぼんやりと見えた。
 その様子をじっと眺める間もなく、列車はすぐに橋梁を通過した。
 車窓に顔を押し付けていた私は、次々と変わっていく町の風景に目を移した。
 だが、彼らの小さな背中が、いつまでも脳裏から離れなかった。
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