オギとカヤの勘違いの原因
知人と、「侵略的外来種」と呼ばれているセイタカアワダチソウの話をしていたときのことである。
私は、知ったかぶりをかました。
「日光の戦場ヶ原の広大なススキ原は、一時セイタカアワダチソウに侵略されそうになったが、今ではススキが耐性を獲得してセイタカアワダチソウを駆逐しつつある」
と、いかにも事情通らしく語った。
すると彼女は、戦場ヶ原には興味を示さず、ススキは茅葺屋根(かやぶきやね)の材料になるそうだから、ススキのことも「カヤ」と呼ぶそうねとおっしゃった。
実は、これは正解なのだ。
しかし、会話中の私は、深く考えることも無く、「それは違う」と断言してしまった。
「ススキとカヤは、同じイネ科で、外見もよく似ているが、違う植物である」と。
おそらく地方によっては、ススキのことも「カヤ」という方言名で呼ぶことがあるかも知れないが、と賢ぶって付け加えた。
「植物の標準名で言えばススキはススキ、カヤはカヤ」という私の、いかにも尤もらしい言葉に、彼女は納得したようだった。
ところで、恥ずかしい話だが、私は「カヤ」という植物の特徴を確認して「カヤ」を見た事が一度もない。
これはススキに似ているが、穂の雰囲気がどことなくススキと違うから「カヤ」かもしれないというのが、私の見分け方だった。
つまり、カヤという植物を知っているわけではないのである。
ススキに似たススキ以外の植物としての、漠然とした「カヤ」という名前しか知らなかった。
私は昔から、言い切ったあとになって、不安になる癖がある。
「本当にそうだったか」と、少し遅れて疑念が湧いてくる。
今回もそうだった。
時間が経つにつれて、先ほどの会話が妙に気になり始めた。
あのときの彼女の、あっさりとしたうなずき方が、頭のどこかに引っかかっている。
「本当にそうだったか」と、少し遅れて疑念が湧いてくる。
今回もそうだった。
時間が経つにつれて、先ほどの会話が妙に気になり始めた。
あのときの彼女の、あっさりとしたうなずき方が、頭のどこかに引っかかっている。
そこで、「カヤ」について調べてみた。
すると、彼女の言ったことが正しかったことに、ようやく気がついた。
一般に「カヤ」とは、ススキやヨシ、チガヤなど、茅葺き屋根の材料になる草の総称であり、特定の一種の植物名ではない、とのこと。
なので、「カヤという固有な植物の特徴」などというものは、あり得ないのである。
さらに調べてみると、私がカヤだと思っていた植物は、実は「オギ(荻)」だった。
この「オギ(荻)」という馴染みの薄い植物名は、荻野目洋子という歌手が登場した時に知ったが、その実態については、まったく知らなかった。
茅葺屋根がまだ点在していた津軽の農村地帯で生まれ育った子どもの頃から、よく目にしていた草なのに、「オギ」という名前を聞いたことが無かった。
これは私の推測だが、津軽では「オギ」のことを「カヤ」と呼んでいたのかもしれない。
八甲田山麓の「萱野高原」とか弘前市にある「萱町」はすぐに思い浮かぶが、津軽地方で「荻(オギ)」の字の付く地名は、私には見つけられなかった。
とすれば、私の勘違いは地域性に由来する勘違いなのではあるまいか。
中央の「植物名」と、本州最北端の津軽地方の「草の姿」のズレ。
言葉と、見てきた風景とのあいだに、ズレがあったのだ。
ズレにあぐらをかいた、それらしい理解ができあがっていた。
その理解の奥に、「ほんとうの姿(オギ)」と「言葉で空想している姿(カヤ)」の混同が潜んでいたのである。
そう考えてみれば、今回の勘違いは、必ずしも「思い込みが激しい」とか「自信過剰」とかが原因ではないという思いに至った。
いつもと違って、自身の知ったかぶりに対する反省ではなく、妙な安堵を覚えた「勘違い」であった。