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宮部みゆきの短篇小説「雪娘」を読んだ感想

【宮部みゆき著「雪娘」光文社文庫】

一人称視点で描かれたミステリーには、
それを読む者の感情を、
小説の語り手である「わたし」の感情に、
寄り添わせてしまうような「仕掛け」が潜んでいる。

このため読者は、
「わたし」に対して共感を覚えることで、
物語に没入する。
小説を読み進めるうちに、
「わたし」の視点に囚われてしまう。

宮部みゆきは、読者がどの辺で「事実」に気がつくだろうと思いながら、一人称視点の小説「雪娘」を描き進めていたのかもしれない。

私は、「わたし」によって結末が明かされるまで「事実」に気がつかなかった。
読み進める過程で、「それらしい伏線」は、見つけられなかった。
何よりも私は、「わたし」の物憂げな雰囲気に好感をもち、その表情が「事実」を隠しているとは思わなかった。

でも、宮部みゆきを読み慣れた読者なら、「わたし」の「隠蔽」を見抜くかもしれない。
物語を導いている「わたし」が、何かを隠していると。

そういうパターンもあると会得している読者は、いつ「わたし」が白状するのかと、わくわくしながら、読書を楽しむことだろう。
語り手が犯人である場合、事件の解決は「わたし」の告白に因るところが多いからである。

宮部みゆきは、小説「雪娘」で、エンターテイメント性を充分に発揮している。
読者に、物語へ没入していく楽しさを与え、雪景色のなかに幽霊という非日常を垣間見せた。
ファンタジーやホラー的な要素を盛り込んで、結末に哀感を漂わせた。

でも、本当に「伏線」は無かったのだろうか。
と、「わたし」の言動を思い返してみると、いくつかの不確かながら不穏な点が思い浮かぶ。

優等生で、人付き合いの計算もできた子どもの頃の「わたし」は、学校の成績が悪かった遊び仲間を、見下していた感がある。

「かけ算も割り算も覚えられず、九九の暗唱試験を四度もやり直したヤスシ」とか、
「ユキコはあまり成績が良くなかった」とか、
「まーこはひらがなでさえつっかえる」とか。
「わたし」は、自身の成績の良さで、遊び仲間を差別するような傾向をもっていた。

無念の死を遂げた幼馴染みの「雪子の墓に詣でたことが一度もない」とか、スギジと仲の良かったユキコに、子どもながら嫉妬していたとか。

そして最後に「わたし」は読者に向かって、自身の幼い頃の「殺人」を告白する。
「殺人」の動機を告白する。

明かされた動機は、嫉妬と見下しと、幼いながらの歪んだ自尊心に根ざしたものだった。
私は、「わたし」の物憂げな雰囲気に共感していた。
しかし、その物憂げさこそが、ただならぬ自己愛を正当化する隠れみのだったのだ。

この「どんでんがえし」を驚くより先に、背中が冷たくなるような不快感が全身を包んだ。
これまで愛着を感じていた「わたし」の姿が、一瞬で姿を変える。

平易な「語り口」で読者を安心させ、その安心を裏切るかたちで残酷な結末を突きつける。
小説「雪娘」は、一人称の仕掛けを用いて、語り手の「悪」だけでなく、読み手の油断をも明るみに出した。

読者が愛着を感じていたかもしれない「わたし」は、善良な読者が信じがたい人物像にすり替わる。

この小説は、巧みな語りのトリックで読者を誘導している。
その結末は、「見たいものだけを見る」という心理の傾向を示している。

ユキコの幽霊を見たかったのは、ヤスシとまーこ。
「わたし」は、ヤスシやまーこよりも、成功した自身を見たかったのだ。

しかし実際に見たのは、「ユキコを殺したとき、ユキコと一緒にわたしが殺したわたし」だった。

語りの罠にかかっていたのは、「わたし」という主人公でもあった。
そう感じさせる宮部みゆきのイロニーが不気味に残る一作だった。

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