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空地の草むらが復活

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先月の6日に草刈りによって一掃された隣家の空地の草達が復活した。
また、一面の草はらにもどった。

歳をとって、身長も縮んだが脚も短くなった?

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この頃、脚が短くなったのでは、と感じることが多い。
というのは、最近、ズボンの裾を引きずるようになったから。
同じズボンで、以前はこういうことが無かった。

岩木川河畔の草薮で見つけた花はガガイモだった

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 「稲垣河川公園」の岩木川河畔の草薮で上の写真の野草を見つけた。
ネットの「四季の山野草」というサイトで調べたら、「ガガイモ」でばっちり。

ガガイモとはよく聞く名前だが、ようやく花と名前が一致した。
葉がちょっとヤマイモの葉に似ていて、ガガイモという名前だから、根に芋が付いているのかと思ったが、芋は無い。

じゃ、どうしてガガイモなんだろう。
名前の由来はいろいろあって、定かではない。

子どもの頃、岩木川の川岸で遊んだことがあるから、この花は、なんとなく見覚えがある。
あの頃は、この花をなんと呼んでいたのだろう。




葉の根元やツルを、折ったり傷つけたりすると白い液が出る。
当時の子ども達は、そうやって遊んでいた。
川岸で遊んでいて、蚊や虫に刺されたりすると、この白い液を患部に塗っていた。
ガガイモの白い液は、解毒や腫れ物の沈静に効果があるという「言い伝え」があったからだ。

また、ガガイモの葉は、チドメグサ同様ツルツルしていて、傷口にくっついた。
ちょっとした傷にはガガイモの葉を貼って遊んでいた。
当時の子ども達の遊びは「自給自足」的。
軽い怪我は、遊びのうちだったのか。
そうやって、自身の体のことや、「危険なこと」について学んでいたのかもしれない。

当時の子ども達は、「言い伝え」に従順だった。
子ども時代のことを思い出して、縄文時代の子ども達もそうではなかったろうかと考えると微笑ましい。

と、同時に不思議な気がする。
なぜ江戸時代や平安時代や弥生時代ではなく、縄文時代なのか。
野での子どもの遊びは、明治時代にも鎌倉時代にも古墳時代にもあっただろうに・・・。
それを縄文時代に直結してしまうのは、そこが原点であると暗に感じているからだろうか。
縄文時代に発見された「言い伝え」が延々と現代まで言い伝えられているのではと思うのは考え過ぎか。

ガガイモは、古事記や日本書紀に登場する数少ない植物だという。
そういうガガイモの存在感が、縄文時代の言い伝えという発想を呼び起こすのか。

 「自給自足」の遊びは、「自然との共生」遊び。
今では、川岸は危険だからと、川に近づくことを禁じる立て札が立っている。
縄文時代には必修科目だった子どもの川遊びが、現代では「禁忌行為」。
川に近づかなければ、縄文のガガイモには出会えない。



頭皮を湿布摩擦

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背中の湿布摩擦を習慣化していることは、以前、記事にしている。
タオル地の手ぬぐいに、青森天然ヒバ油の水溶液を軽くスプレーして、乾布摩擦の要領で背中をこする。

つがる市木造の丸山溜池にいた夏の白鳥

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つがる市木造の県道12号線沿いや、それと平行する屏風山広域農道(通称メロンロード)沿いには溜池が数多く見られる。
大小様々なものがあり、ここら辺一帯の溜池密度はかなりなもの。
溜池で野鳥を観察するのではなく、溜池そのものを観察する「ため池ウォッチング」という「自然観察」が出来そうな地域である。

「稲垣河川公園」のステキなヤナギ並木

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「一本タモ」を見物した後、愛犬の散歩に「稲垣河川公園」をまた訪れた。
前回は雨降りだったので近づけなかったヤナギの並木へ。

その並木の中を歩いてみたら、素晴らしい。
並木の中は、涼しい木陰。
暑苦しい現世とは別世界。
さらに、岩木川の方から涼しい風がそよそよ。
なんと居心地の良い空間なんでしょう。





愛犬もここが好きとみえて、ヤナギの木陰で気持ち良さそうにくつろいでいる。
口角が上がっている表情を見れば、うれしい気分に違いない。

この並木を、南から北へ、折り返して北から南へゆっくり散歩するも良し。
並木の途中の木陰で、しばらく読書するも良し。
おそらく猛暑のときでも、ここだけは別天地と思われる。
ヤナギの木が、こんなにのんびりとした癒し空間を作ってくれるなんて。
知らなかった。
初ヤナギ体験。
ヤナギのしなやかな枝葉が、気持ちをしなやかにしてくれるのか。

近所に御立ち寄りの際は、是非訪れてみるべし。
「稲垣河川公園」のヤナギ並木。
ヤナギ並木の場所は、だだっ広い「稲垣河川公園」の進入路を岩木川(東側)に向かって進む。
岩木川に沿った薮の手前10mほどの芝生を下流側(北側)に歩く。
すると、最初、ナナカマドの並木に出会う。

これは、あまりよろしくない。
病んだナナカマドもあったりして。
なんともくたびれた様子がだらしない。
なんでこんな平地にナナカマドを植えたもんだか。
ここは遠巻きにスルーして、彼方に見える風景画的なヤナギ並木を目指した方が断然良い。

今日にいたって、初めて、このブログで人様の役に立つ記事を書いたような気がする。
実に本日、そういう発見をしたのだ。
日常の小事。
とてもささやかな発見。
ささやかな発見だが、このヤナギ並木情報は、きっと多くの人の役に立つ。
このヤナギの写真を見れば、一目瞭然。

だいいち、都市生活者は、ほとんどヤナギの木をご存知ないのでは。
水辺を好み、山地を好むヤナギに、コンクリートジャングルは適さない。
ヤナギは田園風景のなかに紛れ込んで、田園風景を一層穏やかなものにしている。
そういう樹木なのだ。

だから、都市生活者のコンクリート心を、きっと潤してくれるに違いない。
一見の価値あり。
「稲垣河川公園」のステキなヤナギ並木。
すばらしい「癒し空間」。




つがる市稲垣町にある巨樹「一本タモ」の幹周はヤチダモとして日本一

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五所川原市から十三湖方面に向かう道がある。
岩木川の左岸の堤防道路で、県道43号線(五所川原車力線)だ。
岩木川沿いのその道を下流に向かって北上する。
細い道路で、車線も明確ではないから、猛スピードの対向車に注意しながら運転しなければならない。

ミスをすると、道路の外の中空に落輪する。
運が悪いと、堤防の斜面上を転げ落ちる。
かつて、そんな事故が何件もあったらしい。

つがる市の旧稲垣村地区に入る。
県道43号線と、つがる市役所稲垣町支所方面に向かう道路が交わるT字型の交差点がある。
その交差点の右手(東側)に、上の写真のような赤い鳥居と大きな立木が見える。

県道の交差点からは、ちょっと高い位置に鎮座している。
ここが地元の人達から「一本タモ」と呼ばれている場所。
路線バスのバス停の表示も「一本タモ」。
ここに「一本タモ」と呼ばれているヤチダモの巨樹がある。

鳥居のすぐ後ろの、背の高い大きな木がよく目立つので、この木が「一本タモ」と思われがちだが、そうではない。
鳥居の奥に小さなお堂があって、その後ろにある幹の太い老木が「一本タモ」。
赤く塗られた木の柵で囲まれてある。


 鳥居の前には細くて背の高い石碑が立っている(上の写真)。
そこに彫られている文字がちょっとおかしいと言うか面白い。
「一本」は漢字なのだが、その下の○○という二文字が不明だ。
ハングル文字のような、日本固有の文字(?)と言われている「神代文字」のような・・・。
神代文字は偽物と言われているから、たぶんハングル文字なのだろう。

「イ・サン」という人気韓国ドラマに「茶母(タモ)」という仕事についている女性が登場する。
「茶母(タモ)」はハングル文字で、「다모」と書くらしい。
発音が同じであるなら、この石碑での一本タモは「一本다모」という表記でなければならない。
写真の石碑は「一本다모」とは若干異なる表記。

ということよりも何よりも、石碑の表記がどうして「一本○○」なのか。
それについての説明はどこにもない。

さて、この「一本タモ」の木、樹種はヤチダモで、幹周りは7メートル60センチ、樹高は14メートル。
1988年に環境省が行った巨樹巨木林調査結果を示すデータベースに、そう記載されている。

推定樹齢は千年で、上記サイズは、ヤチダモとして日本最大級であると言われている。


「一本タモ」についての、上の…

大湯環状列石のそばに建っている大湯ストーンサークル館で「大湯式土器」を見物

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駐車場脇にある大湯ストーンサークル館には、大湯環状列石周辺からの出土品が展示されている。
展示ホールには解説パネルなどが豊富。
太陽の動きと大湯環状列石の関係がわかる「天体ドーム」というものもある。
これで、太陽の動きに従って、日時計状組石の影がどう動くのかを見ることができるという。







































展示されている土器の文様が、青森県つがる市木造の亀ヶ岡遺跡や八戸市の是川遺跡の出土品のそれとだいぶ違う。
深鉢形土器や壷形土器に付いているクネクネ曲がった曲線模様が特徴的だ。
これが、「大湯式土器」と呼ばれている理由らしい。

大湯式土器の特徴は、「入組文 (いりくみもん)」と呼ばれている文様。
下の写真のように、「S字」を横に連結したような入組文や花弁の形をした文様の土器が多い。

また、その使い方によるのか、様々な形の土器が多い。
なかでも、「片口土器」は、大湯環状列石の遺跡を代表するものであるという。









秋田県鹿角市の舌状台地にある置石の輪(大湯環状列石)

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秋田県鹿角市十和田大湯にある国の特別史跡「大湯環状列石」を見物。
大湯環状列石は、縄文時代後期の大型配石遺跡である。

東北自動車道を「十和田南インター」でおりて、国道103号線を東(十和田湖方面)に向かう。

「大湯環状列石」の道路案内標識に従って進む。
すると、クルマは平野部から大湯地区の「舌状台地(ぜつじょうだいち)」へと導かれ、大湯環状列石の遺跡に着く。

ガランとした台地の広がりの中に、無数の大きな石が、輪のように置かれているというような感じ。
あ、トラックだ。
これは、古代の運動公園だったのではないかと、早速、素人発想が湧いて出たが、いまのところ、そんな見解は無いらしい。




大湯環状列石は、すぐそばに隣り合った、ふたつの環状列石で構成されている。
大湯字万座地内にある「万座(まんざ)環状列石」。
大湯字野中堂地内にある「野中堂(のなかどう)環状列石」。

ふたつとも、ほぼ同一の構造であるらしい。
石の下にお墓が作られているタイプの環状列石であるという。
お墓があるのだから、陸上競技場ではないのだろう。
いや、古代では有りかも。
運動公園と霊園が同居。

万座環状列石は、二重の配石の円で出来ている。
外側の大きな円を「外帯」。
内側の小さな円を「内帯」。
と、専門家は呼んでいるらしい。

万座環状列石の「外帯」は 直径52メートル。
約五千個の石で作られているという。




万座環状列石の東、県道をはさんだところに野中堂環状列石がある。
野中堂環状列石の「外帯」は、直径44メートル。
石の数は、約二千個。




上の写真の、5本柱の中心に、火を焚いた跡が見つかっているらしい。
この遺構の周囲からは、土器や土製品が多く見つかっているという。
この構造物が何であるのか、いまのところ解明されていないらしい。
陸上競技の選手控室であったのでは、という素人推測を言った者は、残念ながらいない。






万座環状列石の周りには、八軒ほどの掘立柱(ほったてばしら)建物がある。
この建物から、火を焚いた跡や使用していた土器が見つかっていないらしい。
そのことから、暮らしの場としての、家としては使われていなかったのでは、と推測されている。
建物の周囲からは、祭りや祈りに使われる土製品などが多く出土しているという。
死者と競技者に祈りを捧げる観覧席であったという可能性は、誰によっても示されていない。








 万座環状列…

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