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猿を聞人捨子に秋の風いかに

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富士川の捨て子 東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。
富士川付近からも富士山を望見できるのだが、「富士を見ぬ日(江戸離れ)」を目指した旅なので、芭蕉はもう富士には触れない。

以下は、「野晒紀行」の富士川について書かれた文である。

「富士川のほとりを行(ゆく)に、三(み)つ計(ばかり)なる捨子(すてご)の、哀氣(あはれげ)に泣有(なくあり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計(ばかり)の命待(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげてとをるに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

次に、私の現代語訳。
「富士川の辺りを進んでいると、三歳ぐらいの捨て子が悲しそうに泣いているのに出会った。富士川の急流を渡るのに比べると、浮世の荒波を渡るのはむずかしい。露のようなはかない命が消えるのを待つ間もないと捨て置かれたのであろう。小萩の根本に捨て置かれて秋の風が冷たく吹いている。捨て子は小萩の花のように今夜に散るかもしれない、明日にはしおれるだろうと思われ、袂から食物を出して捨て子の方へ投げて通るけれども、」

富士川を長江に模して
猿を聞人(きくひと)捨子(すてご)に秋の風いかに

中国の長江で、川の両岸の猿が悲しげに鳴いているなかを、舟がまたたくまに急流を下ったという漢詩を連想させるような挿話と発句である。
その漢詩は「白帝城(はくていじょう)」と題された李白の作。
日本三大急流のひとつである富士川の急流を、芭蕉は長江の急流に模したのだろう。
掲句の「猿を聞人」とは、猿の鳴き声を聞きながら長江を舟で下った李白のことと思われる。
猿の鳴き声ならばいかに悲しそうでも、これを聞き流してそのまま船で下ることが出来る。
だが、寒い秋風に晒されている捨て子の泣き声だったら、どうして船で通り過ぎることができようか。
というイメージなのではと私は感じている。

捨て子に説教 掲句の後に次の文章が続く。

「いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「どうしてそんなに…

芭蕉の江戸離れの句「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

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西行の富士の歌 「西行物語」によれば、西行は陸奥への旅の途中、東海道を東に進みながら駿河国で「風になびく富士のけふりの空にきえてゆくえも知らぬ我思ひかな」と詠んでいる。
その敬愛する西行の五百回忌の年に、芭蕉が奥州・北陸の地を行脚したのが「おくのほそ道」の旅だったが、それは「野晒紀行」の旅から五年後のこと。

「野晒紀行」の旅で芭蕉は、西行とは逆に東海道を西に進み、箱根の関にさしかかる。
箱根あたりで芭蕉は、西行の富士の歌を思い浮かべていたかもしれない。
ところが、あいにく箱根は雨降りで、周囲の山は雲に隠れて見えない。
箱根からは、雄大な富士山を望むことができたのに。
そこで芭蕉は見えない富士山を句に詠んだ。

見えない富士の句
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
松尾芭蕉

「関越ゆる日は雨降りて、山みな雲に隠れたり」という句の前文が「野晒紀行」に書かれている。
富士山は歌枕の地である。
古来より多くの歌人たちが、富士を歌に詠んでいる。

芭蕉は、富士山が雲に隠れて見えないのなら、見えない富士を句にするのも面白いと思ったのかもしれない。
そして、それをそのまま句に詠んだのである。

箱根から雄大な富士の姿を眺めることができれば、それは旅の大きな励みになる。
上方の人々への、旅の土産話にもなる。

「初度の文学行脚※」の途上で雄大な富士の姿を望見できないことはとても残念なこと。
だがそれを「口惜しや」とか「無念なり」とか句に詠んだら、マイナス志向になる。
「野晒紀行」の旅は、不吉な言葉である「野ざらし」を掲げながらも、それを打ち消していく旅である。
それは、マイナス志向を打ち消していく旅でもある。
【※初度の文学行脚:「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」より引用。】

「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句で、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の暗雲を打ち消した。 霧と時雨の箱根では、雲に隠れて富士が見えないというマイナスを、打ち消してプラスに変えなければならない。
「秋晴れに富士」という絵に描いたような風景美よりも、むしろ「霧しぐれ」に隠れた見えない富士を描いた方が、「却って」面白いと芭蕉は思ったのではあるまいか。
西行は、富士山の噴煙が空にあがって消えていく様を「わが思ひ」と詠んだ。
芭蕉は、視界から消えた富士を「面白き※」と詠んだのである。
【※「面白き」の「き」は過去をあらわす助動詞の「き」ではなく、…

秋十とせ却って江戸を指す故郷

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「野晒紀行」の旅 「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」の貞享元年のページには、以下の記述がある。
「貞享元年八月、芭蕉は初度の文学行脚に旅立つ。以後、生涯を終えるまでの十年の歳月の間に通計四年九箇月を旅に暮らす境涯に入る。」

この「初度の文学行脚」で芭蕉は、俳諧紀行文「野晒(のざらし)紀行」を著している。
芭蕉が「野晒紀行」の旅へ出発したのは、貞享元年八月の中旬頃とされている。
「旅人と我が名呼ばれん」という思いを、この頃すでに抱いていたのではあるまいか。

「野晒紀行」の旅の行程の概略は、以下の通り。
江戸深川から東海道経由で伊勢→伊賀上野→大和北葛城郡竹内村→吉野→山城・近江路→美濃大垣→桑名→熱田→名古屋→伊賀再訪(越年)→奈良→京都→伏見→大津→水口→桑名再訪→熱田再訪→鳴海→甲斐→甲州街道経由で江戸帰着(貞享二年四月末頃)。

旅の同行者は、門人の苗村千里(なえむら ちり)。
芭蕉はこの旅で多くの土地を訪問し、多くの知己を得たとされている。
結果的に「蕉門」の地盤を築く旅になったのである。

芭蕉の年齢は、四十一歳から四十二歳の頃。
季節は、秋から翌年の初夏まで。
日数は、約八ヶ月半。

俳諧紀行文「野晒紀行」 「野晒紀行」の書き出しは、「千里に旅立(たびだち)、路糧(みちかて)をつゝまず、三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)に入(いる)と云(いひ)けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享(ぢようきょう)甲子(きのえね)秋八月江上の破屋をいづる程(ほど)、風の聲そゞろ寒氣也」となっている。
芭蕉の俳諧紀行文の第一作が、この「野晒紀行」である。

以下は、私の下手な現代語訳。
「旅の携帯食を持たずに、千里の長い旅に出る。子の刻の月の下では、無我の境地に至ると言われている。そういう昔の人の言葉をよりどころにして、貞享“きのえね”の年の秋八月、川のほとりの草庵を出るにつれて、風の音がなんとなく寒々と聞こえる。」

「江上の破屋」とは、旅の詩人としての「風狂」的なイメージを、深川の芭蕉庵にかぶせようとしたのだろう。
「風の聲そゞろ寒氣也」は「この旅は困難なものになるであろう」という芭蕉の心境を吐露したもののように思われる。

この書き出しの後、芭蕉は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とつぶやく。
それは、劇を演じる旅人の台詞のようである。
この句を詠むことによって、芭蕉は旅の舞台に立ったの…

手を打てば木魂に明くる夏の月

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木魂信仰 「木魂(こだま)」は、森のなかの木に宿る精霊。
遠い昔には、そう言われていたという。
山や谷で大きな声を出すと、その声が遠くからかえってくるように聞こえる現象はこの「木魂」という精霊のしわざであると信じられていた。

その信仰は、樹木に神様が宿っているという自然崇拝や山岳信仰につながるものであったのだろう。

「木魂」が反響音であると江戸時代には、解明されていたかどうか。
たとえ解明されていたとしても、江戸時代の人々は現代人よりも「木魂」に対して神秘的なイメージや「信仰心」を抱いていたのではあるまいか。

句文集「嵯峨日記」の句手を打てば木魂に明る夏の月
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」には、元禄四年四月二十三日の作と記されている。
上方漂泊中の芭蕉が、向井去来の別荘である落柿舎に滞在していたときの句である。
四月二十三日は「終日来客なし。」であったという。

落柿舎は京の嵯峨野にあった。
嵯峨野の西側には小倉山があり、北側に愛宕山がある。
南側は嵐山である。
「芭蕉年譜大成」によれば、芭蕉は落柿舎に元禄四年四月十八日より五月四日まで滞在し、「嵯峨日記」を著した。

落柿舎で独り住まいを楽しんだ芭蕉 岩波文庫「芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記」を読むと、廿三日の日付の箇所に掲句が収まっている。
芭蕉は「獨住(ひとりすむ)ほどおもしろきはなし」と書いて、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなう」という「隠棲者」の言葉を引用している。
孤独を楽しんでいたようだが、凡兆夫妻や史邦、丈艸、乙州、それに曾良と訪問客も多かったようである。

孤独を楽しみ、来客も楽しみ、芭蕉は落柿舎でゆったりとした時間を過ごした。
そんな日々のなかで、掲句は終日来客がなかった日の発句である。
そのせいか、独り住まいの清々しさが伝わってくるような句であると感じた。

明け方の清らか嵯峨野のイメージ 「明くる夏の月」とは夏の残月のことだろうか。
未明に目覚めて、誰か人がいるような気配を夢うつつに感じる。
芭蕉は横になったまま手を叩いてみたが、誰も返事をしない。
森閑とした嵯峨野におられるのは、「木魂」という精霊だけ。
その精霊が、芭蕉の手の音に応えている。
やがて夜が明けはじめ、夏の残月が精霊の気配とともに、朝日に消えかかる。
私は掲句にそんなイメージを感じた。

二十三夜の月待信仰 掲句が二十三日…

上林暁の「野」を読んだ感想

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「野」についての、宮本輝氏の読後感想 本棚を整理していたら、二十年ぐらい前に読んだ「本をつんだ小舟(文藝春秋)」という本が奥のほうから出てきた。
この本の著者は、宮本輝氏。
「本をつんだ小舟」は、宮本輝氏の中学時代から高校時代にかけての読書歴をまとめたエッセー集である。

「本をつんだ小舟」をめくると、【上林暁(かんばやし あかつき)「野」】というページが目にはいった。
そうだ、思い出した。
二十年ぐらい前に「本をつんだ小舟」を読んだとき、この「野」という小説を読んでみようと思ったのだった。

いつのまにか、すっかり忘れていた。

宮本輝氏は「野」について、【いい小説を味わいたいと思う人は、ぜひ「野」を初めから終わりまで精読してもらいたいものである。】と述べておられる。

家の周辺にある「野」の散策物語 そこでいろいろ調べて、市内の書店から上林暁の「聖ヨハネ病院にて/大懺悔(講談社文芸文庫)」という文庫本を取り寄せた。
文庫本なのに価格が1,500円(税別)とは、ずいぶん高いんじゃねーかと思いながら。
「野」はこの短編集の二作目にあった。

「野」は「二年ばかり前のこと、薄い靄のかかった或る晩秋の日の午後、私は或る郊外電車のG駅へ通ずる広いバス道路を歩いていた。」という文章で始まる。
ひとつのセンテンスのなかに「或る」がふたつも続けてあるのがちょっとくどいなと思ったが、この「くどさ」が「野」の微妙な味付けになっている。

「私」という主人公が暮らしている家の周辺に広がる「野」。
おそらく舞台は東京都(旧東京市?)の武蔵野あたりと思われる。
小説「野」は、その「野」を散策する物語であると、わたし(ブログ管理人のことね)は感じた。

主人公の境遇 まず、「私(小説の主人公のことね)」とは、いかなる人物か。
それを小説の文章からひろってみると以下のようになる。
「敗残の身を持て余し、生きているとも思われない日々を過ごしている」「日々の食事も乏しく」「からだは病み」「文学への希望は報われず」「あばらや同然の家の中に、親子五人が生活とも言えない生活を営んでいる」
(2)の後に、「朝飯二杯、昼飯二杯、夕飯三杯ときめて」とか。
(5)の前に、「畳は破れ、襖には穴があき」とある。
こういうところが、わたしには「くどさ」であり、微妙な味わいに感じられるのだ。
「敗残」なのに、ちょっとユーモラスでもある。

小滝の森でナメコ採り

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きのうの日曜日は仕事だったので、きょうは代休をとって、ことし初のキノコ採りにでかけた。
毎年キノコ採りハイキングに出かけている「小滝の森」。 お天気にめぐまれて、気分のいい一日を過ごすことができた。
収穫は、ナメコが少々。 サモダシ(ナラタケ)は、大きくそだったものが黒く腐っている。 そんな状態のものがほとんどで、私の行く森では、ナラタケは発生終了のようである。
ナメコも、傘が開ききったものが腐っているのをたくさん見かけた。 同時に、ナメコの幼菌も、まだ発生している。 ナメコの収穫は、もうちょっと期待できそうである。

ツキヨタケ(毒)は終了したのか、姿をみかけなかった。
ツキヨタケが終了しそうなころに出てくるムキタケ(食)も幼菌しかみかけなかった。
猛毒のドクツルタケの白い姿は皆無。

毎年毎年、キノコの出方には変化がある。
毒キノコも食菌も、豊作の年もあれば不作の年もある。
今年はナメコが豊作と聞いたが、私はその恩恵に授かっていない。
八甲田山麓の紅葉は、そろそろ終わりかけ。 色づいた葉が枯れはじめて、散る準備をしている。
初冠雪の話はまだない。
でも、山は寒波来襲とともに初冠雪・初雪の時期。 雪が降る前の森のにぎわいは紅葉だが、キノコは隠れたにぎわい。
その隠れたキノコを見つけ出して採るのだから、キノコ採りは宝さがしに似ている。
楽しい遊びだが、キノコ採りは山岳遭難や食中毒の危険をともなう遊びでもある。

そんな危険をクリアして、今年もキノコ採りを楽しむことができた。
キノコ採りは、自身の判断力と体力を確認する遊びである。

いわば、キノコ探しは自分探し。
今年も元気な自分を見つけることができた。
それは、大豊作。
いえいえ、少し過大評価。




















地に倒れ根に寄り花の別れかな

「劇的な句」とは 芭蕉の追悼句のなかで「劇的な句」と言えば、「塚も動け我泣声は秋の風」があげられる。
私の知るかぎりでは、こんなに激情をあらわにした芭蕉の句は他に見あたらない。

私が言う「劇的な句」とは、芭蕉が激しい感情をあらわにして詠いあげた句のこと。
あたかももうひとりの芭蕉が、ヤマ場の舞台で台詞を発するように。
そういうシーンを思い起こさせる句のことである。

「塚も動け我泣声は秋の風」の句では、自身の「劇」のなかへ観客を誘い込み、その「劇」のなかで芭蕉は亡き友の面影をよみがえらせようとしたのではあるまいか。

現実には登場しえない故人を、芭蕉の「劇」のなかに「我泣声」を発するもうひとりの芭蕉とともに登場させたのである。

伝えるための「劇的な句」 舞台上での感情過多な台詞は、芝居をみている観客に劇の内容を鮮明に伝えるために必要である。
舞台を間近でみている観客は、その迫力に圧倒される。

芭蕉は、自身の悲愁を門人以外の者にも広く伝えるために「劇的な句」を詠んだのであろう。
伝えることで、死者は芭蕉の「舞台」の上でよみがえる。

亡き担堂和尚のための追悼句地に倒れ根に寄り花の別れかな
松尾芭蕉

貞享三年の春の句であると「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」では推定されている。
前書きに「坦堂和尚を悼み奉る」とある。
知人の死に対する追悼の句である。

地に倒れたのは芭蕉か? この句にある「地に倒れ」たのは、芭蕉なのだろうか。
悲しみのあまり、地面に倒れ伏す芭蕉。
倒れたまま、桜の木の根元に寄りすがる。
これもまた「劇的」なシーンである。

知人の死を悼むように花びらが散っている。
故人は、花を愛した俳諧師であったのだろう。
その花が、ひらひらと散っている様は、故人との別れを惜しんでいるようである。
そういう情景を芭蕉は演じようとしたのだろうか。

地に倒れたのは担堂和尚か? また、「地に倒れ」たのは、担堂和尚であるようにも受けとれる。
旅に死すというイメージである。
旅の途次で病が高じてか、担堂和尚は地面に倒れ伏す。
傍らで桜の花が咲いている。
せめて桜の花の下で死のうと、木の根元へ身を寄せる旅人。
やがて、花に包まれた旅人の亡骸が、桜の下で発見される。
そういう「劇」も思い浮かぶ。
芭蕉もまた「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「劇」的に宣言した旅人なのである。

担堂和尚の死を、地に落ちた花…

三尺の山も嵐の木の葉哉

私ぐらいの年代(1951年生まれ)では、一尺が約30cmであることを知っている。
したがって三尺は、約90cmとなる。
また三尺(さんじゃく)と聞けば、子供のころ着ていた浴衣の帯のことを思い出す。 子どものころ生活した家の、畳の短辺の寸法も、三尺に近い値だった。
現在では、ベニヤ板やコンパネなどでサブロク板といえば、三尺×六尺の大きさの板のこと。 90cm×180cmは、ホームセンターなどで売られているベニヤ板やコンパネのポピュラーなサイズである。
このように三尺は、今でも身近な存在である。

三尺の山も嵐の木の葉哉 松尾芭蕉

元禄三年十二月末の句とされている。
前書きに「大津にて」とある。
芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて、上方近辺を漂泊した時期の作である。
元禄三年の大晦日ごろに、芭蕉は京都から大津の義仲寺(ぎちゅうじ)境内の無名庵(むみょうあん)に移っている。

さて、掲句の「三尺の山」については、インターネットにいろいろな書き込みがある。
その多くは、「三尺の山」は存在しないというもの。
この句の「三尺の山」とは、きわめて低い山のたとえであるという「解釈」がほとんどである。

それは上五の「三尺の」の「の」を、比喩に用いられる格助詞としているからだろう。
そこから、「三尺しかないような低い山も」という「解釈」を導きだしている。

そこで、古文の格助詞「の」について調べてみると、「比喩」の働きをもつ格助詞「の」は、用言を修飾する連用修飾語になるとのこと。
ところが、「三尺の」に続く「山」は体言(名詞)である。
この句に用言は無い。
体言と助詞だけでできた句なのである。

もしかしたら芭蕉は、「山」の前につけるべき「低い」とか「小さい」とかの形容詞を省略して、「三尺の」でその省略した形容詞を修飾したのだろうか。
とすれば「山も」の「も」は、強意を示す係助詞の「も」であろうか。

高い山は風当たりが強いので、嵐の影響を強く受けるのは当然のこと。
このたびは、三尺しかないような低い山でも、まあ嵐の影響で木の葉がすっかり散ってしまっている。
それだけ今回の嵐は強烈だった。
というような。
だが、それではあまりにもそのまんま過ぎる。

私は、違うイメージを感じている。
「三尺の山」は義仲寺の庭に存在したのではあるまいか。
三尺の石灯籠があるように、三尺の作られた山があったのではないか…

津軽半島中泊町の「不動の滝」への遊歩道が、土砂崩れのために通行不能だった

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私の知っている限りでは、津軽半島にふたつの「不動の滝」がある。
五所川原市飯詰の「不動の滝・不動滝」。 中泊町中里の「不動の滝」。
「不動の滝・不動滝」という名の滝は、全国に多くあるらしい。 ご近所では、岩手県八幡平市にある「不動の滝」。 昔の修験者の道場だったと伝えられている。 滝の左岸に不動明王が安置されているという。
全国の「不動の滝・不動滝」も、不動明王がその名の由来になっている滝が多いとのこと。 かつての「行場(ぎょうば)」※だった滝が多いとか。 はたして、津軽半島の「不動の滝・不動滝」はどうなのだろう。 津軽山地を闊歩した修験者の滝だったのだろうか。 【※行場とは、修験道の修行道場】
今日は愛犬の散歩がてら、中里の「不動の滝」見物にでかけた。 が、残念ながら滝の手前100メートルぐらいのところで土砂崩れが発生していた。 そのため、遊歩道が通行不能になっていた。
狭いV字峡谷の奥にある滝なので、滝に近づくほど谷は険しくなっている。 そのせいで、滝に近づくほど土砂崩れの痕跡が目立っている。
この谷は、土砂崩れが常に発生しているような地形である。 こんな場所に遊歩道を作って観光客を呼び込んでよいものだろうかと、私的には心配になるような峡谷である。
ところどころに「落石危険」の看板が立っている。 「転落危険」の看板も見える。
遊歩道入口の看板には、「危険箇所もあるので、自己責任で行動して下さい」というような意味合いの注意書きが記されている。 たしかに命がけの修験者なら「自己責任」で通じると思うが、老若男女の観光客ではどうなのだろう。
遊歩道は、スタートから行程の三分の一ちょっとは、「深谷沢」の右岸に設けられている。
途中で沢を越えてから遊歩道は沢の左岸に替わる。

道が左岸に替わったあたりから谷が急峻になる。
沢から15メートルぐらい上がった山肌についている遊歩道を歩くことになる。 「深谷沢」は中里川の支流(枝沢)で、この沢の名が谷の険しさを示している。
幅1メートルぐらいの平坦な遊歩道は、よく整備されている。 滝までは、1kmちょっとで、片道徒歩20分~30分の行程である。
よく整備された遊歩道ではあるが、行程のあちこちに土砂崩れの痕跡がある。 大雨の翌日などの入山は、やめたほうが良いと思う。
「不動の滝」への遊歩道入口周辺は、「滝ノ沢ふるさと砂防愛ランド」と…

安藤サクラと江口のりこが、うりふたつに見える

2014年後半のNHKの朝ドラは、「マッサン」だった。
ドラマの主人公は、大正時代から昭和にかけて、国産のウイスキーづくりに情熱をかたむける造り酒屋の長男。

「マッサン」というのは、この主人公のニックネームである。
ニッカウヰスキーの創業者の、竹鶴政孝氏をモデルにしたドラマだとされている。

このドラマのはじまりの頃に、主人公が若い頃勤めていた大阪の住吉酒造というちいさな造り酒屋のシーンが登場する。
その会社の事務員を演じている女優を、私は「安藤サクラ」だと思いこんでいた。

面長な顔に、一重のちょっとはれぼったいような目。
私から見れば、彼女は安藤サクラにそっくりなのである。
ドラマのタイトルバックに流れる役者名にあまり注意しない私は、そのまちがいに気づくことはなかった。
「安藤サクラ」の演技って面白いなあと思っていたのだった。

2015年のNHKの大河ドラマは、「花燃ゆ」。
このドラマの主人公は、吉田松陰の妹である文(フミ)。
井上真央さんが演じておられた。

そのフミが、長州藩の奥御殿につかえるシーンで、また「安藤サクラ」が「女中頭補佐」のような役柄で登場した。
ここで「安藤サクラ」は、「マッサン」のときとは違う印象で演じていた。
私は、「安藤サクラ」ってなかなか存在感のある女優だなあと思ってドラマをみていたのだった。

そして、今年後半の朝ドラ「まんぷく」に安藤サクラは主役で出演している。
「えっ!」と私は思った。
「マッサン」や「花燃ゆ」のときとぜんぜん表情が違うではないか。
さすが安藤サクラは名優だね、ドラマの内容に合わせて自分の顔をイメチェンできる女優なんだ。
と感心してしまった。

昨夜、NHKの「LIFE!~人生に捧げるコント~」をみていたら、「安藤サクラ」が「自撮り」というコントに年増のOL役で出ていた。

このとき、私ははじめて違和感をおぼえた。
違和感をおぼえつつも、感心もしていた。
「まんぷく」とは違う表情に豹変していたからだ。
「安藤サクラ」って、顔つきをガラリと変えることができる女優なんだ。
ちょっとチャラけたような、こんなセリフの言い回しもできる女優なんだ。
と感心したのだ。

安藤サクラが「まんぷく」で笑顔を演じるときの三日月目は、なんとも愛嬌のある演技だが。
「LIFE!~人生に捧げるコント~」では、ときおり見せるややシャープな視線。
こうま…

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