2018/10/31

猿を聞人捨子に秋の風いかに

【富士川渡船場の絵。「五十三次名所図会 蒲原 岩渕の岡より不二河眺望」歌川広重画。国立国会図書館デジタルコレクションより 】

富士川の捨て子

東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。
富士川付近からも富士山を望見できるのだが、「富士を見ぬ日(江戸離れ)」を目指した旅なので、芭蕉はもう富士には触れない。

以下は、「野晒紀行」の富士川について書かれた文である。

「富士川のほとりを行(ゆく)に、三(み)つ計(ばかり)なる捨子(すてご)の、哀氣(あはれげ)に泣有(なくあり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計(ばかり)の命待(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげてとをるに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

次に、私の現代語訳。
「富士川の辺りを進んでいると、三歳ぐらいの捨て子が悲しそうに泣いているのに出会った。富士川の急流を渡るのに比べると、浮世の荒波を渡るのはむずかしい。露のようなはかない命が消えるのを待つ間もないと捨て置かれたのであろう。小萩の根本に捨て置かれて秋の風が冷たく吹いている。捨て子は小萩の花のように今夜に散るかもしれない、明日にはしおれるだろうと思われ、袂から食物を出して捨て子の方へ投げて通るけれども、」

富士川を長江に模して


猿を聞人(きくひと)捨子(すてご)に秋の風いかに

中国の長江で、川の両岸の猿が悲しげに鳴いているなかを、舟がまたたくまに急流を下ったという漢詩を連想させるような挿話と発句である。
その漢詩は「白帝城(はくていじょう)」と題された李白の作。
日本三大急流のひとつである富士川の急流を、芭蕉は長江の急流に模したのだろう。

掲句の「猿を聞人」とは、猿の鳴き声を聞きながら長江を舟で下った李白のことと思われる。
猿の鳴き声ならばいかに悲しそうでも、これを聞き流してそのまま船で下ることが出来る。
だが、寒い秋風に晒されている捨て子の泣き声だったら、どうして船で通り過ぎることができようか。
というイメージなのではと私は感じている。

捨て子に説教

掲句の後に次の文章が続く。

「いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「どうしてそんなに泣くことがあろうか。おまえは父親に憎まれたと思っているのか、母親に嫌われたと思っているのか。父親はおまえを憎んでなどいないだろう、母親はおまえを嫌ってはいないであろう。ただ言えることは、おまえが捨てられたことは、天がおまえに与えた運命であるから、そのことに気づかないおまえの未熟さを嘆け。」

これはちょっと主観的な意訳が過ぎるであろうか。
なんと芭蕉は、三歳ぐらいの捨て子に、考え方や生き方について説教したのである。
いや説教というより叱咤激励か・・・
上記の激励を切りに、この捨て子のエピソードは終わっている。

捨て子のその後

そのあと、この捨て子はどうなったのだろう。
芭蕉に言い聞かされて泣くのをやめ、プラス志向に転じ、渡し船の船頭の弟子になったか、商人に拾われて丁稚奉公に励んだか。

そんなことまで芭蕉は書かない。
「野ざらし」ではじまり、「野ざらし」を打ち消しながら「野晒紀行」の旅を進めていた芭蕉。
芭蕉は、この富士川でも「野ざらし(マイナス志向)」を打ち消したに違いない。

プラス志向

ちなみに、「猿を聞人捨子に秋の風いかに」に対するインターネットの評判は悪い。
それは、芭蕉が捨て子にわずかばかりの食料を投げ与えて、薄情にもその場を立ち去ったという「解釈」に因っている。

はたしてそうだったのか。
あるいは、この話自体が、「富士川の急流」と「浮世の荒波」を掛け合わせるためのフィクションだったのか。
それは芭蕉のみぞ知る。

ただ私は、「野晒紀行」の旅を、芭蕉がマイナス志向を打ち消していく旅だと感じているゆえに、捨て子の生きる道を空想したまでである。


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2018/10/29

芭蕉の江戸離れの句「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

【「西行物語(敬文堂刊)」国立国会図書館デジタルコレクションより。「風になびく・・・」の歌は左側、後ろから二番目にある。】


西行の富士の歌

「西行物語」によれば、西行は陸奥への旅の途中、東海道を東に進みながら駿河国で「風になびく富士のけふりの空にきえてゆくえも知らぬ我思ひかな」と詠んでいる。
その敬愛する西行の五百回忌の年に、芭蕉が奥州・北陸の地を行脚したのが「おくのほそ道」の旅だったが、それは「野晒紀行」の旅から五年後のこと。

「野晒紀行」の旅で芭蕉は、西行とは逆に東海道を西に進み、箱根の関にさしかかる。
箱根あたりで芭蕉は、西行の富士の歌を思い浮かべていたかもしれない。
ところが、あいにく箱根は雨降りで、周囲の山は雲に隠れて見えない。
箱根からは、雄大な富士山を望むことができたのに。
そこで芭蕉は見えない富士山を句に詠んだ。

見えない富士の句


霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
松尾芭蕉

「関越ゆる日は雨降りて、山みな雲に隠れたり」という句の前文が「野晒紀行」に書かれている。
富士山は歌枕の地である。
古来より多くの歌人たちが、富士を歌に詠んでいる。

芭蕉は、富士山が雲に隠れて見えないのなら、見えない富士を句にするのも面白いと思ったのかもしれない。
そして、それをそのまま句に詠んだのである。

箱根から雄大な富士の姿を眺めることができれば、それは旅の大きな励みになる。
上方の人々への、旅の土産話にもなる。

「初度の文学行脚の途上で雄大な富士の姿を望見できないことはとても残念なこと。
だがそれを「口惜しや」とか「無念なり」とか句に詠んだら、マイナス志向になる。
「野晒紀行」の旅は、不吉な言葉である「野ざらし」を掲げながらも、それを打ち消していく旅である。
それは、マイナス志向を打ち消していく旅でもある。
【※初度の文学行脚:「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」より引用。】

「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句で、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の暗雲を打ち消した。
霧と時雨の箱根では、雲に隠れて富士が見えないというマイナスを、打ち消してプラスに変えなければならない。

「秋晴れに富士」という絵に描いたような風景美よりも、むしろ「霧しぐれ」に隠れた見えない富士を描いた方が、「却って」面白いと芭蕉は思ったのではあるまいか。
西行は、富士山の噴煙が空にあがって消えていく様を「わが思ひ」と詠んだ。
芭蕉は、視界から消えた富士を「面白きと詠んだのである。
  • 【※「面白き」の「き」は過去をあらわす助動詞の「き」ではなく、形容詞「面白し」の連体形の「面白き」と解釈した。したがってこの句では「面白き」の下にくる語が省略されていると思われる。私は活用語の連体形について感動・詠嘆をあらわす「哉(かな)」ではないかと思っている。(古文のお勉強を忘れないために)】

「富士を見ぬ日」とは何か

私は上記のように感じたのだが、「富士を見ぬ日ぞ」の「日」がどうも気になる。
「日」で芭蕉は何をあらわそうとしたのだろう。

話は八年後のことになるが、元禄五年に第三次芭蕉庵が竣工したとき芭蕉は「芭蕉を移詞(うつすことば)」という俳文を綴った。
その俳文のなかに「地は富士に対して、柴門景を追ってななめなり」という文がある。
富士山を眺めることが、芭蕉にとって日々の楽しみであった。
そう伺い知れる文であると思う。

芭蕉が「野晒紀行」の旅に出立したのは、第二次芭蕉庵からであった。
第二次芭蕉庵も第三次芭蕉庵も、第一次芭蕉庵の近くに建てられた。
したがって、芭蕉が江戸深川で暮らしていた頃は、晴れていれば富士山を望み見ることが出来る環境にいたことになる。
それが芭蕉庵での日常だった。

新たな俳諧生活の「日」

こう考えると、「富士を見ぬ日ぞ」の「日」は、芭蕉が江戸で富士を眺めて暮らしていた日々を示唆していると考えられる。
「初度の文学行脚」で富士山の近くにさしかかったとき、富士は霧と時雨のために見えなかった。
そして旅を続ければ、江戸深川芭蕉庵から遠ざかり、「富士を見ぬ日」が新たな日常になる。
それは同時に江戸での「俳諧生活」から遠ざかり、「新たな旅の俳諧生活」に暮らすことになる。

そういう「新たな日常=新たな俳諧生活」もまた興味深いものであるという芭蕉の感慨。
その感慨が込められた「日」なのではあるまいか。

「旅先での新たな俳諧生活」は新たな創作につながるかもしれない。
芭蕉は、「富士を見ぬ日」である「新たな俳諧生活」を「面白き哉」と句に詠んだ。
そうやって、雲に隠れた富士の横を意気揚々と通り過ぎたことだろう。

旅の同行者の紹介文

「野晒紀行」では、掲句の後に同行者である苗村千里(なえむら ちり)の紹介文が続く。

「何某(なにがし)ちりと云いけるは、此(この)たびみちのたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心を盡(つく)し侍る。常に莫逆(ばくげき)の交(まじはり)ふかく、朋友信有(ある)哉此(この)人。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「何とかいう名字のちりという者は、今回の旅の助けになってくれている人で、いろいろと気を配って世話をすることに心をつくしている。普段から親しい間柄でつきあいもふかく、この人は信用のおける友人である。」

芭蕉を富士に預け行く

芭蕉は同行者をほめたたえ、その文の後に「深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく)」という苗村千里の句を載せている。
芭蕉がこの箇所に千里の句を配置したのは、まさにこの句を「みちのたすけ」とするためだったのではあるまいか。

千里の句は「旅で留守にしている江戸深川よ、富士山が見れなくて心残りな芭蕉を富士山に預けていくよ。」ということではないであろう。
なぜなら「深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく)」は、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」に呼応して作られたものと思うからである。

芭蕉の新たな俳諧模索の句

それは、「江戸深川よ、芭蕉庵で富士山を眺めていた頃の芭蕉を、富士山に預けていくよ。」という意味合いを含んでいる句なのではないだろうか。

千里が富士山に預けたのは「富士を見る日>江戸深川芭蕉庵での日常的な俳諧」だったのだろう。

そして千里が此(この)たびみちのたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心を盡(つく)し」たのは、【芭蕉の富士を見ぬ日>芭蕉の「初度の文学行脚」>芭蕉の新たな俳諧模索】だったのではあるまいか。

芭蕉の江戸離れの句は、芭蕉の旅立ちの句。
「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」は、新たな俳諧模索の句だったのだと私は感じている。


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2018/10/27

秋十とせ却って江戸を指す故郷

【芭蕉紀行文集(岩波文庫)より「野ざらし紀行」の頁。】


「野晒紀行」の旅

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」の貞享元年のページには、以下の記述がある。
「貞享元年八月、芭蕉は初度の文学行脚に旅立つ。以後、生涯を終えるまでの十年の歳月の間に通計四年九箇月を旅に暮らす境涯に入る。」

この「初度の文学行脚」で芭蕉は、俳諧紀行文「野晒(のざらし)紀行」を著している。
芭蕉が「野晒紀行」の旅へ出発したのは、貞享元年八月の中旬頃とされている。
「旅人と我が名呼ばれん」という思いを、この頃すでに抱いていたのではあるまいか。

「野晒紀行」の旅の行程の概略は、以下の通り。
江戸深川から東海道経由で伊勢→伊賀上野→大和北葛城郡竹内村→吉野→山城・近江路→美濃大垣→桑名→熱田→名古屋→伊賀再訪(越年)→奈良→京都→伏見→大津→水口→桑名再訪→熱田再訪→鳴海→甲斐→甲州街道経由で江戸帰着(貞享二年四月末頃)。

旅の同行者は、門人の苗村千里(なえむら ちり)。
芭蕉はこの旅で多くの土地を訪問し、多くの知己を得たとされている。
結果的に「蕉門」の地盤を築く旅になったのである。

芭蕉の年齢は、四十一歳から四十二歳の頃。
季節は、秋から翌年の初夏まで。
日数は、約八ヶ月半。

俳諧紀行文「野晒紀行」

「野晒紀行」の書き出しは、「千里に旅立(たびだち)、路糧(みちかて)をつゝまず、三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)に入(いる)と云(いひ)けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享(ぢようきょう)甲子(きのえね)秋八月江上の破屋をいづる程(ほど)、風の聲そゞろ寒氣也」となっている。
芭蕉の俳諧紀行文の第一作が、この「野晒紀行」である。

以下は、私の下手な現代語訳。
「旅の携帯食を持たずに、千里の長い旅に出る。子の刻の月の下では、無我の境地に至ると言われている。そういう昔の人の言葉をよりどころにして、貞享“きのえね”の年の秋八月、川のほとりの草庵を出るにつれて、風の音がなんとなく寒々と聞こえる。」

「江上の破屋」とは、旅の詩人としての「風狂」的なイメージを、深川の芭蕉庵にかぶせようとしたのだろう。
「風の聲そゞろ寒氣也」は「この旅は困難なものになるであろう」という芭蕉の心境を吐露したもののように思われる。

この書き出しの後、芭蕉は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とつぶやく。
それは、劇を演じる旅人の台詞のようである。
この句を詠むことによって、芭蕉は旅の舞台に立ったのである。

そして続けて、もっと名調子な台詞を独白する。
あたかも観客に語りかけるように。

旅立ちの句

秋十(と)とせ却(かえ)って江戸を指(さ)す故郷

これから故郷へ向けて江戸を旅立つ身だが、江戸で十回の秋を過ごした歳月を思うと、故郷は伊賀上野ではなくて、逆に江戸のような気がしてくるなあ。
という感慨を、旅の舞台で観客に向かって披露する。

観客とは、「初度の文学行脚」を見送る杉山杉風(すぎやま さんぷう)や李下(りか)ら門人たち。
やがては紀行文を読むであろう読者たち。
そして、その観客たち後ろには、旅人の行く末を見つめる芭蕉自身がいる。
これから書く紀行文の編者として、この旅の始終に目をこらしている芭蕉。
芭蕉は劇を演じ、その劇を見て「野晒紀行」を書いていたのかもしれない。

こうして冒頭部分にあげた旅の行程を、四十一~四十二歳の芭蕉が、秋から翌年の初夏へと約八ヶ月半かけて歩み続けたのであった。

ところで、上にあげた二句は、旅立ちの句として対をなしているように私には感じられる。
それは言ってみれば、「はじまり」と「おわり」である。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」は、たとえ「野ざらし」になってもかまわないという決意を「心」に、寒風を「身」に受けて、旅に出発するという句。

一方、「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の「却って」は「帰って」に掛けているように思われる。
「野ざらし」になってたまるものか、十数年過ごした故郷とも言える江戸を目指して、かならず帰って来るよ。
帰ってきて、この旅を成就させてみせる。
そういう決意の句のようにも感じられる。

プラマイゼロ

「野ざらし・・・・」と声に出したものの、「野ざらし」なんて縁起でもない。
不吉な言葉を口に出したら、それが現実になる。
【そういう考えが、芭蕉にあったかどうか・・・・。言葉の達人であった芭蕉は、誰よりも言葉を畏れていたのではあるまいか。】

とにかく、「野ざらし」はマイナス志向。
ここは、プラス志向の句をもうひとつ作って、プラマイゼロにしなければならない。
【そういう考えが、芭蕉にあったかどうか・・・・】

だが、出発そうそう無事帰着の句では、「野ざらし」の覚悟や意気込みにかっこうがつかない。
そこで、さらに調子をあげて「秋十とせ却って江戸を指す故郷」と体言止めの力強い句を詠む。
しかし、江戸を故郷と思って旅に出るぐらいのイメージでは、プラマイゼロにはならない。

プラマイゼロにするためには、「野ざらし」に続く句が「自己成就予言」でなければならない。
「却って」は、予想とは反対になるさまをあらわす言葉である。
「反対に」とか「逆に」という意味がある。

「却って」で俳諧の旅の成就を願う

芭蕉は「却って」という言葉を使うことで、「野ざらし」とは「逆を指す」という呪文を念じたのである。
「逆を指す」とは、「野ざらし」に向かう方向を変えて「江戸を指す」ことにつながる。
さらに、「江戸」を「故郷」と想定し、かならず「故郷」に「却って>帰って」俳諧の旅を成就させようと、「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句を詠んだのではあるまいか。

「野ざらし」で「はじまり」、「江戸を指す故郷」で「おわり」である。
「おわり」を予言することで、人生はじめての長旅の成功を祈ったのである。

「野晒紀行」の旅で大垣に到着したとき、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」という句を作っている。
その前文に「武蔵野を出づる時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、」とある。

芭蕉は、「野ざらしを心に」の句を作った後、すぐに「秋十とせ却って江戸を指す故郷」を作って、縁起でもない思いを打ち消したのだった。
だが「野ざらし」のことが、旅の途上大垣あたりまでずっと頭に残っていたのかもしれない。

その思いを「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」ですっかり打ち消した。
この句でプラマイゼロどころか、プラスを獲得したという心境になったのではなかろうか。

お笑いめさるな、いつもの「トーシロ」の推測なのだよ。

ところで、芭蕉が江戸に出てきたのは、寛文十二年(1672年、二十九歳)の春であるから、貞享元年(1684年、四十一歳)は厳密に言うと「秋ととせあまりみとせ」となる。
念のために。

「野晒紀行」の名称について

なお、「芭蕉紀行文集(岩波文庫、中村俊定校注)」によれば、「野ざらし紀行」は芭蕉自ら命名したものではないとのこと。
元禄七年(1694年)には「芭蕉翁甲子の紀行」、元禄十一年(1698年)には「芭蕉翁道乃紀」、正徳五年(1715年)には「草枕共野ざらし紀行共いふ」とある。
それが、明和五年(1768年)には「野ざらし紀行」、安永四年(1775年)には「野晒紀行」や「甲子吟行」となったという。


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2018/10/24

手を打てば木魂に明くる夏の月

【「芭蕉年譜大成」と「芭蕉紀行文集」。】


木魂信仰

「木魂(こだま)」は、森のなかの木に宿る精霊。
遠い昔には、そう言われていたという。
山や谷で大きな声を出すと、その声が遠くからかえってくるように聞こえる現象はこの「木魂」という精霊のしわざであると信じられていた。

その信仰は、樹木に神様が宿っているという自然崇拝や山岳信仰につながるものであったのだろう。

「木魂」が反響音であると江戸時代には、解明されていたかどうか。
たとえ解明されていたとしても、江戸時代の人々は現代人よりも「木魂」に対して神秘的なイメージや「信仰心」を抱いていたのではあるまいか。

句文集「嵯峨日記」の句

手を打てば木魂に明る夏の月
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」には、元禄四年四月二十三日の作と記されている。
上方漂泊中の芭蕉が、向井去来の別荘である落柿舎に滞在していたときの句である。
四月二十三日は「終日来客なし。」であったという。

落柿舎は京の嵯峨野にあった。
嵯峨野の西側には小倉山があり、北側に愛宕山がある。
南側は嵐山である。
「芭蕉年譜大成」によれば、芭蕉は落柿舎に元禄四年四月十八日より五月四日まで滞在し、「嵯峨日記」を著した。

落柿舎で独り住まいを楽しんだ芭蕉

岩波文庫「芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記」を読むと、廿三日の日付の箇所に掲句が収まっている。
芭蕉は「獨住(ひとりすむ)ほどおもしろきはなし」と書いて、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなう」という「隠棲者」の言葉を引用している。
孤独を楽しんでいたようだが、凡兆夫妻や史邦、丈艸、乙州、それに曾良と訪問客も多かったようである。

孤独を楽しみ、来客も楽しみ、芭蕉は落柿舎でゆったりとした時間を過ごした。
そんな日々のなかで、掲句は終日来客がなかった日の発句である。
そのせいか、独り住まいの清々しさが伝わってくるような句であると感じた。

明け方の清らか嵯峨野のイメージ

「明くる夏の月」とは夏の残月のことだろうか。
未明に目覚めて、誰か人がいるような気配を夢うつつに感じる。
芭蕉は横になったまま手を叩いてみたが、誰も返事をしない。
森閑とした嵯峨野におられるのは、「木魂」という精霊だけ。
その精霊が、芭蕉の手の音に応えている。
やがて夜が明けはじめ、夏の残月が精霊の気配とともに、朝日に消えかかる。
私は掲句にそんなイメージを感じた。

二十三夜の月待信仰

掲句が二十三日の発句で月が題材であるため、「二十三夜の月待(つきまち)信仰」の句という読み方もあるようだ。
「月待信仰」とは、定まった月齢の夜に、月の出を待ってその夜の月を祀る信仰のこと。
旧暦の二十三日の夜も、この「定まった月齢の夜」にあたっていて、二十三夜と呼ばれていたという。

ただしこの「月待信仰」は、人々が集まって行うものであったらしい。
訪問客のいなかったこの日の夜に、芭蕉はたったひとりで「月待」を行ったのだろうか。

いや、森閑とした嵯峨野で、芭蕉は多くの精霊たちを感じていたのかもしれない。
そして、その精霊たちと「月待」を行ったのだろう。

芭蕉が、月よ出ておいでくださいと柏手を打つ。
しばらくして、その「木魂」がかえってくる。
それが、人々が集まって柏手を打っているように聞こえる。
多くの精霊たちのしわざである。

そうしているうちに、その精霊に呼応するように二十三夜の月が姿をあらわしたというイメージ。
「明くる夏の月」とは、月が嵯峨野の山の端から空へおいでくださったという表現なのだろう。

この天と地の対比が、「月の出」の風景の広がりを感じさせている。
芭蕉が独住している空間を神秘的なものにしている。
これもまた「獨住ほどおもしろきはなし」なのかもしれない。

なお、元禄四年四月二十三日は、太陽暦では1691年5月23日である。
この日の月のかたちをインターネットの「満月カレンダー」で調べたら、月齢24.8の三日月であるとのことだった。


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2018/10/18

上林暁の「野」を読んだ感想

【「本をつんだ小舟」と「野」が収録されている上林暁の短編集「聖ヨハネ病院にて/大懺悔」】

「野」についての、宮本輝氏の読後感想

本棚を整理していたら、二十年ぐらい前に読んだ「本をつんだ小舟(文藝春秋)」という本が奥のほうから出てきた。
この本の著者は、宮本輝氏。
「本をつんだ小舟」は、宮本輝氏の中学時代から高校時代にかけての読書歴をまとめたエッセー集である。

「本をつんだ小舟」をめくると、【上林暁(かんばやし あかつき)「野」】というページが目にはいった。
そうだ、思い出した。
二十年ぐらい前に「本をつんだ小舟」を読んだとき、この「野」という小説を読んでみようと思ったのだった。

いつのまにか、すっかり忘れていた。

宮本輝氏は「野」について、【いい小説を味わいたいと思う人は、ぜひ「野」を初めから終わりまで精読してもらいたいものである。】と述べておられる。

家の周辺にある「野」の散策物語

そこでいろいろ調べて、市内の書店から上林暁の「聖ヨハネ病院にて/大懺悔(講談社文芸文庫)」という文庫本を取り寄せた。
文庫本なのに価格が1,500円(税別)とは、ずいぶん高いんじゃねーかと思いながら。
「野」はこの短編集の二作目にあった。

「野」は「二年ばかり前のこと、薄い靄のかかった或る晩秋の日の午後、私は或る郊外電車のG駅へ通ずる広いバス道路を歩いていた。」という文章で始まる。
ひとつのセンテンスのなかに「或る」がふたつも続けてあるのがちょっとくどいなと思ったが、この「くどさ」が「野」の微妙な味付けになっている。

「私」という主人公が暮らしている家の周辺に広がる「野」。
おそらく舞台は東京都(旧東京市?)の武蔵野あたりと思われる。
小説「野」は、その「野」を散策する物語であると、わたし(ブログ管理人のことね)は感じた。

主人公の境遇

まず、「私(小説の主人公のことね)」とは、いかなる人物か。
それを小説の文章からひろってみると以下のようになる。
  1. 「敗残の身を持て余し、生きているとも思われない日々を過ごしている」
  2. 「日々の食事も乏しく」
  3. 「からだは病み」
  4. 「文学への希望は報われず」
  5. 「あばらや同然の家の中に、親子五人が生活とも言えない生活を営んでいる」

(2)の後に、「朝飯二杯、昼飯二杯、夕飯三杯ときめて」とか。
(5)の前に、「畳は破れ、襖には穴があき」とある。
こういうところが、わたしには「くどさ」であり、微妙な味わいに感じられるのだ。
「敗残」なのに、ちょっとユーモラスでもある。

「私」の生活は、上記(1)~(5)のように苦労がたえない。
ところが、この小説には、苦労が多々な物語にありがちな暗さが感じられない。
たとえて言えば、暗雲が立ち込めているような暮らしぶりなのだが、いたって晴れやかな雰囲気なのだ。
この小説を読んで、そう感じたのはわたしだけだろうか。

苦労の多い生活のなかで「私」は、昔のことも昨日のことも、今現在のことも夢のなかのことのように思われる「精神薄弱状態」にある。
さらに、「俗風景が詩的風景に見えたり、散文的な雰囲気が神秘的な雰囲気と感じられる」ことが多くある。
また作者は、「私がここにこれから書こうとしている野の風景も、すべてそういう精神の所産なのである。」と「私」に述べさせている。

「私」は、「自分の上にのしかかる現実の重みから脱れるために」「野」へ出るのであった。

ふたつのタイプの登場人物

こうして「私」は、「野」を散策するなかで様々な「野」に出会うのである。
まず、登場人物をあげてみよう。
この小説の登場人物はふたつのタイプに分けられる。

ひとつは、遠くから眺めるだけの「野」の風景の添景のような人たちである。
もうひとつは、現実の人間関係の中に登場する人物である。

前者は、添景としてただ眺めるだけの存在なので、前者から現実的な対応をせまられることはない。
しかし、思索の対象として「私」の詩的(神秘的)な好奇心を刺激している。
一方、後者に対しては、「私」は現実の人間関係を保っている。

風景の添景のような人々

前者のタイプは、以下の人々である。
  1. 「神学校通り」でバスを降りた神学校の学生:「ひたむきな精神で過ごすことの出来る彼に、私は言いようのない羨望を感じたのだ。」
  2. 近所にある大学の運動競技場の学生たち:「私は何ひとつ運動競技が出来ずに学生時代を過ごして来たけれど、・・・・青春をむなしく過ごしてきたと悔恨したことは一度もない。」
  3. 近くの喫茶店に集まって高談している実業専門学校の学生たち:「私は七度び生まれ変わっても実業家などにはなりたくないと思うのである。」
  4. 弓の稽古をしている跛の神学生:「狂熱的であった。」
  5. ゴルフパンツのようなズボンをはいて、カスミ網で雀をとる男:「その男の身振りはいよいよ得体の知れない奇怪なものに思われるのであった。」
  6. 植木屋の老人と買い手の若者:「小狡い若者と、耄碌した老人との取引を、胸苦しさのため夢のなかでのようにぼんやり聞きながら、」
  7. 乗馬倶楽部の騎手:「気息奄々として薄汚い姿をしていた私は、格別の思いで、彼の新鮮な姿を見守らぬわけにはいかなかった。」
  8. 大鷲神社の酉の日に集まる人々:「幸運が授かると言えば、どんなちっぽけな場所も見逃さず、押し寄せてゆく人間の浅間しさ、弱さ、悲しさなどを考えながら、」
  9. 若い男女がボート遊びをしている池のすぐそばで、畑仕事をしている農婦と娘:「野に出て、土にまみれた百姓の姿を見ると、世にも悲しい気持ちになる。」
この他にも、神学校の西洋人とか、応召出征する青年を見送る人々とか、演習帰りに行進する兵隊たちとか、様々な人物たちが添景として登場する。
そして、それらの人々は「そういう精神の所産」である「野」そのものでもあるように、わたしには感じられる。

家族や親戚、交友関係にある人々

次に後者のタイプ。
現実の人間関係の中に登場する人物は以下の人々である。
  1. 主人公の妻と子どもたち:「私」の収入がないに等しいので、家庭生活に自信を失いつつある妻。小説の最終部では、神経衰耗(すいこう)に陥り入院するが、三ヶ月後に回復して退院する。
  2. 親戚の青年:「私」が見送りした応召出征する青年。出征の電車の席で、見送りにきた「私」にニコニコ笑いかける。
  3. 大学時代の友人:「私」の貧しい家に、立身出世した友人が10年ぶりに訪れる。「私」と妻は惨めな思いをする。
  4. 友人:文学仲間のKさんとA君。「野」のZ池へ三人で遊びに行った思い出をつづった部分が、この小説のなかで最も明るい雰囲気を漂わせている。楽しかった日のエピソードに多くの文字数が費やされている。
おそらく、KさんとA君が「私」の理解者なのだろう。
「野」での夢遊病者のような主人公の散策劇のなかで、このZ池のシーンが唯一の救いのように描かれている。

主人公の好奇心の対象となる動物たち

面白いことに、「野」にはたくさんの動物が登場する。
この動物たちにたいして「私」は、「野」の添景のような登場人物たち同様に、活き活きとした好奇心を働かせている。
  1. 神学校の庭の雀。
  2. 武蔵野牧場の牛。
  3. 枯蘆の茂みの雀。
  4. 路ばたの山羊。
  5. 乗馬倶楽部の馬。
  6. 池のかいつぶり。
  7. 小川で毛並みを洗われているシェパード。

町の風景がどうして「野」に見えたのだろう

「野」というと、広い原っぱのような場所を思い浮かべる。
だが、この小説の舞台となっている「野」は、二箇所の風致区に指定された区域を有する
東京郊外の町である。
年代は、雰囲気的に太平洋戦争開始前と思われる。

この小説にある「野の風景」とは、当時の東京郊外の町の風景なのである。
その町の風景のなかに、神学校や欅並木や櫟林や、麦畑、農家、牧場、乗馬倶楽部馬場、神社、S池、Z池、そして「野の果ての静かな病院」などが点在している。
こういう町の風景が、「私」にはどうして「野」に見えたのだろう。

それは、この感想文の初めのほうで引用した文章に拠っている。
ちょっとくどいが、もう一度詳しく引用しよう。

「その当時の私は、遠い昔に自分のしたことが夢のように思われるのは勿論のこと、昨日一昨日にしたこともなんだか夢のようだし、今さっきしたことも、更に現在自分がなしつつあることも夢のなかの事のように思われる精神薄弱状態にあったから、一寸でも風変わりな雰囲気に接すれば、私の心の状態はもはやそれを只事とは思わないのであった。そのために、俗風景が詩的風景に見えたり、散文的な雰囲気が神秘的な雰囲気と感じられるくらい珍しくはないのであった。私がここにこれから書こうとしている野の風景も、すべてそういう精神の所産なのである。」

「私」にとっては、自身が暮らしている町が「野の風景」であるのと同様に、町のなかの人々も「野の風景」なのである。
そして、二人の友人(文学仲間)と「私」の窮乏な「文学生活」を支えてくれている妻が、「私」の散策物語のなかでは夢ではなく現実的な存在となっている。
言いかえれば、「非文学的世界」である町の風景は「俗風景」となり、そのなかに潜む「詩的風景」「神秘的な雰囲気」「野の風景」なのであった。

「野の風景」と「町の風景」が逆転する

それが、物語の最後には、「野の風景」が「町の風景」に逆転する。
その部分を引用しよう。

「私はその朝鮮女が熊手を持っているのを見ると、私も一つ熊手が欲しくなった。私は十銭の小さな熊手を買った。それには箒のつもりで藁しべを挟み、出世大鷲神社御守護のお守りもついていた。私は熊手を持って、ひどく嬉しくなって、すぐに家にかえって来た。家にかえると、冗談ともつかず本気ともつかず、妻や子供や自分の頭にその熊手をのせ、今までは病気やなんかしてどうもよくなかった、来年は一つの幸運に授かろうじゃないかと言って、高く笑った。」

小説「野」は、「精神薄弱状態」にある「私」が「そういう精神の所産」「野の風景」を書いた私小説である。
だが、そういう小説にありがちな観念的な表現は、ほとんどみられない。
「私」が「野の風景」をみる目は、夢想的でありながらも現実的な根拠をもっているように思われる。

それは、「私」自身の存在が「夢」的なのであって、周囲の「野の風景」「野の風景」としての現実なのである。
極端に言えば、「私」は「野」をウロウロと歩き回る「犬」のような存在であったのかもしれない。
だが、「犬」の眼で見た「町の風景」を「野の風景」として描くというほどこの小説は技巧的ではない。

「俗風景」への精神の逆転

それはともかくとして、おそらく「私」は、妻の入院を契機に「夢」的な存在から開放されたのだろう。
覚醒したと言うべきか。

であるから最後の「来年は一つの幸運に授かろうじゃないか」という精神の逆転が成るのだと感じたしだいである。
活き活きとした「俗風景」への精神の逆転である。

「赤字」:「野」からの引用です。

上林暁(かんばやし あかつき):1902年~1980年。文学への純粋な情熱を胸底に七十八年の生涯を私小説一筋に生きた。(講談社文芸文庫「聖ヨハネ病院にて/大懺悔」ブックカバーより)

2018/10/15

小滝の森でナメコ採り

【山麓の紅葉。今年はちょっと鮮やかさに欠ける。】


きのうの日曜日は仕事だったので、きょうは代休をとって、ことし初のキノコ採りにでかけた。
毎年キノコ採りハイキングに出かけている「小滝の森」。
お天気にめぐまれて、気分のいい一日を過ごすことができた。

収穫は、ナメコが少々。
サモダシ(ナラタケ)は、大きくそだったものが黒く腐っている。
そんな状態のものがほとんどで、私の行く森では、ナラタケは発生終了のようである。

ナメコも、傘が開ききったものが腐っているのをたくさん見かけた。
同時に、ナメコの幼菌も、まだ発生している。
ナメコの収穫は、もうちょっと期待できそうである。

ツキヨタケ(毒)は終了したのか、姿をみかけなかった。
ツキヨタケが終了しそうなころに出てくるムキタケ(食)も幼菌しかみかけなかった。
猛毒のドクツルタケの白い姿は皆無。

毎年毎年、キノコの出方には変化がある。
毒キノコも食菌も、豊作の年もあれば不作の年もある。
今年はナメコが豊作と聞いたが、私はその恩恵に授かっていない。

八甲田山麓の紅葉は、そろそろ終わりかけ。
色づいた葉が枯れはじめて、散る準備をしている。

初冠雪の話はまだない。
でも、山は寒波来襲とともに初冠雪・初雪の時期。
雪が降る前の森のにぎわいは紅葉だが、キノコは隠れたにぎわい。

その隠れたキノコを見つけ出して採るのだから、キノコ採りは宝さがしに似ている。
楽しい遊びだが、キノコ採りは山岳遭難や食中毒の危険をともなう遊びでもある。

そんな危険をクリアして、今年もキノコ採りを楽しむことができた。
キノコ採りは、自身の判断力と体力を確認する遊びである。

いわば、キノコ探しは自分探し。
今年も元気な自分を見つけることができた。
それは、大豊作。
いえいえ、少し過大評価。


【ちょこんと切り株の上にのっかっているサモダシ(ナラタケ)が三本。私にとって、今年の初もの。】


【涸れ沢のブナの紅葉。もう、終わりかけ。】


【大量にあったが、腐り始めているナメコ。来年はタイミングよく収穫できますように。】


【腐りかけたナメコの成菌の向こうにナメコの幼菌。一番手と二番手の交代劇。】


【つぶナメコちゃん。これは頂戴いたしました。】


【こんなのはじめて。めずらしや、立ち枯れのブナの、地上から2メートルぐらいの位置についていたナメコ。】


【林床にヤブがないブナの森はここだけ。地表の下は、軽石や火山灰層で水はけが良すぎるのか。ここはいつ来ても乾いた森である。こんな森はキノコが少ない。キノコがなくても、気分のいいブナの森。】


【傘は開いているが、きれいなナメコ。グットタイミングで見つけた。】


【沢の近くの倒木についていた、おいしそうなナメコ。】


【名無しの小滝。この滝の周辺の森が「小滝の森」。】

2018/10/14

地に倒れ根に寄り花の別れかな

「劇的な句」とは

芭蕉の追悼句のなかで「劇的な句」と言えば、「塚も動け我泣声は秋の風」があげられる。
私の知るかぎりでは、こんなに激情をあらわにした芭蕉の句は他に見あたらない。

私が言う「劇的な句」とは、芭蕉が激しい感情をあらわにして詠いあげた句のこと。
あたかももうひとりの芭蕉が、ヤマ場の舞台で台詞を発するように。
そういうシーンを思い起こさせる句のことである。

「塚も動け我泣声は秋の風」の句では、自身の「劇」のなかへ観客を誘い込み、その「劇」のなかで芭蕉は亡き友の面影をよみがえらせようとしたのではあるまいか。

現実には登場しえない故人を、芭蕉の「劇」のなかに「我泣声」を発するもうひとりの芭蕉とともに登場させたのである。

伝えるための「劇的な句」

舞台上での感情過多な台詞は、芝居をみている観客に劇の内容を鮮明に伝えるために必要である。
舞台を間近でみている観客は、その迫力に圧倒される。

芭蕉は、自身の悲愁を門人以外の者にも広く伝えるために「劇的な句」を詠んだのであろう。
伝えることで、死者は芭蕉の「舞台」の上でよみがえる。

亡き担堂和尚のための追悼句

地に倒れ根に寄り花の別れかな
松尾芭蕉

貞享三年の春の句であると「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」では推定されている。
前書きに「坦堂和尚を悼み奉る」とある。
知人の死に対する追悼の句である。

地に倒れたのは芭蕉か?

この句にある「地に倒れ」たのは、芭蕉なのだろうか。
悲しみのあまり、地面に倒れ伏す芭蕉。
倒れたまま、桜の木の根元に寄りすがる。
これもまた「劇的」なシーンである。

知人の死を悼むように花びらが散っている。
故人は、花を愛した俳諧師であったのだろう。
その花が、ひらひらと散っている様は、故人との別れを惜しんでいるようである。
そういう情景を芭蕉は演じようとしたのだろうか。

地に倒れたのは担堂和尚か?

また、「地に倒れ」たのは、担堂和尚であるようにも受けとれる。
旅に死すというイメージである。
旅の途次で病が高じてか、担堂和尚は地面に倒れ伏す。
傍らで桜の花が咲いている。
せめて桜の花の下で死のうと、木の根元へ身を寄せる旅人。
やがて、花に包まれた旅人の亡骸が、桜の下で発見される。
そういう「劇」も思い浮かぶ。
芭蕉もまた「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「劇」的に宣言した旅人なのである。

担堂和尚の死を、地に落ちた花にたとえた

さらに、もうひとつ。
地面に落ちた花を、芭蕉は担堂和尚の死にたとえたのかもしれない。
花は散って、翌年の春に咲くために根に帰る。
根のそばに寄って、再生のための養分になる。

あなたとの別れは、そんなしばしの花の別れのようなものでしょう。
と芭蕉が、舞台で別れの言葉を発する。

季節がめぐれば、桜の花が再生するように、あなたも花とともに再生するのでしょう。
という芭蕉の「劇」。
その「劇」のなかで、芭蕉は亡き友の面影をよみがえらせようとしているのだ。
そういうふうに読むと、掲句も「塚も動け我泣声は秋の風」のような「劇的な句」であるように思われる。
「地に倒れ根に寄り」という畳み掛けるような言葉が、散った花に対する芭蕉の感情の高まりを表しているように思われる。

崇徳院の「花は根に鳥は古巣に帰るなり」

この句を彷彿させる歌に、崇徳院の「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき(千載和歌集)」がある。
この歌の「花は根に鳥は古巣に帰るなり」が「格言」のように巷に流布している。
それが、この歌をなお有名なものにしている。

散った花は根本に落ちて木の養分となる。
空をあてもなくとびまわっているようにみえる鳥も、夜になればねぐらへ帰る。
このようにすべてのものは、元にもどるという意味合いの格言である。

芭蕉の時代に、この歌が格言として利用されていたかどうかは定かではない。
ただ思えるのは、この歌から感じられる死生観を元にして、芭蕉が掲句を作ったのではないかということ。
「地に倒れ根に寄り花の別れかな」は、芭蕉が演じる「劇」において、亡き友の再生を願う「わかれうた」なのかもしれない。


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2018/10/11

三尺の山も嵐の木の葉哉

私ぐらいの年代(1951年生まれ)では、一尺が約30cmであることを知っている。
したがって三尺は、約90cmとなる。

また三尺(さんじゃく)と聞けば、子供のころ着ていた浴衣の帯のことを思い出す。
子どものころ生活した家の、畳の短辺の寸法も、三尺に近い値だった。

現在では、ベニヤ板やコンパネなどでサブロク板といえば、三尺×六尺の大きさの板のこと。
90cm×180cmは、ホームセンターなどで売られているベニヤ板やコンパネのポピュラーなサイズである。

このように三尺は、今でも身近な存在である。


三尺の山も嵐の木の葉哉
松尾芭蕉

元禄三年十二月末の句とされている。
前書きに「大津にて」とある。
芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて、上方近辺を漂泊した時期の作である。
元禄三年の大晦日ごろに、芭蕉は京都から大津の義仲寺(ぎちゅうじ)境内の無名庵(むみょうあん)に移っている。

さて、掲句の「三尺の山」については、インターネットにいろいろな書き込みがある。
その多くは、「三尺の山」は存在しないというもの。
この句の「三尺の山」とは、きわめて低い山のたとえであるという「解釈」がほとんどである。

それは上五の「三尺の」の「の」を、比喩に用いられる格助詞としているからだろう。
そこから、「三尺しかないような低い山も」という「解釈」を導きだしている。

そこで、古文の格助詞「の」について調べてみると、「比喩」の働きをもつ格助詞「の」は、用言を修飾する連用修飾語になるとのこと。
ところが、「三尺の」に続く「山」は体言(名詞)である。
この句に用言は無い。
体言と助詞だけでできた句なのである。

もしかしたら芭蕉は、「山」の前につけるべき「低い」とか「小さい」とかの形容詞を省略して、「三尺の」でその省略した形容詞を修飾したのだろうか。
とすれば「山も」の「も」は、強意を示す係助詞の「も」であろうか。

高い山は風当たりが強いので、嵐の影響を強く受けるのは当然のこと。
このたびは、三尺しかないような低い山でも、まあ嵐の影響で木の葉がすっかり散ってしまっている。
それだけ今回の嵐は強烈だった。
というような。
だが、それではあまりにもそのまんま過ぎる。

私は、違うイメージを感じている。
「三尺の山」は義仲寺の庭に存在したのではあるまいか。
三尺の石灯籠があるように、三尺の作られた山があったのではないか。

無名庵が建っている義仲寺の庭にある「三尺の山」。
「三尺」という身近な寸法を山につけることで、「三尺の山」が人工の山であることを暗に示しているように思われる。

天気の良い日は美しい庭園だったが、嵐のせいで落ち葉に埋もれてしまった。
芭蕉は、人工の庭と自然の脅威を対比させて、そこに無常観を漂わせているのではないだろうか。

「の」が連続する掲句は、軽快な感じである。
と同時に、自然の脅威のスピード感をもあらわしているように私には感じられる。
脅威のスピードが美しい庭を破壊して、折れた枝と落葉の残骸だらけの無残な姿に「山」を変えてしまった。

芭蕉が、「三尺の山」の庭園に感じたのは、無常迅速であったのかもしれない。

この年から四年後の元禄七年十月十二日、芭蕉は大坂(大阪)にて病没。
十月十四日に、この義仲寺で葬儀が行われ、境内に埋葬された。

インターネットで、義仲寺にある芭蕉の墓を探せば、墓の写真は容易に見ることができる。
三角の形をした墓石が印象的である。


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2018/10/08

津軽半島中泊町の「不動の滝」への遊歩道が、土砂崩れのために通行不能だった

【滝ノ沢ふるさと砂防ランドの看板。】


私の知っている限りでは、津軽半島にふたつの「不動の滝」がある。
五所川原市飯詰の「不動の滝・不動滝」。
中泊町中里の「不動の滝」。

「不動の滝・不動滝」という名の滝は、全国に多くあるらしい。
ご近所では、岩手県八幡平市にある「不動の滝」。
昔の修験者の道場だったと伝えられている。
滝の左岸に不動明王が安置されているという。

全国の「不動の滝・不動滝」も、不動明王がその名の由来になっている滝が多いとのこと。
かつての「行場(ぎょうば)」だった滝が多いとか。
はたして、津軽半島の「不動の滝・不動滝」はどうなのだろう。
津軽山地を闊歩した修験者の滝だったのだろうか。
【※行場とは、修験道の修行道場】

今日は愛犬の散歩がてら、中里の「不動の滝」見物にでかけた。
が、残念ながら滝の手前100メートルぐらいのところで土砂崩れが発生していた。
そのため、遊歩道が通行不能になっていた。

狭いV字峡谷の奥にある滝なので、滝に近づくほど谷は険しくなっている。
そのせいで、滝に近づくほど土砂崩れの痕跡が目立っている。

この谷は、土砂崩れが常に発生しているような地形である。
こんな場所に遊歩道を作って観光客を呼び込んでよいものだろうかと、私的には心配になるような峡谷である。

ところどころに「落石危険」の看板が立っている。
「転落危険」の看板も見える。

遊歩道入口の看板には、「危険箇所もあるので、自己責任で行動して下さい」というような意味合いの注意書きが記されている。
たしかに命がけの修験者なら「自己責任」で通じると思うが、老若男女の観光客ではどうなのだろう。

遊歩道は、スタートから行程の三分の一ちょっとは、「深谷沢」の右岸に設けられている。
途中で沢を越えてから遊歩道は沢の左岸に替わる。

道が左岸に替わったあたりから谷が急峻になる。
沢から15メートルぐらい上がった山肌についている遊歩道を歩くことになる。
「深谷沢」は中里川の支流(枝沢)で、この沢の名が谷の険しさを示している。

幅1メートルぐらいの平坦な遊歩道は、よく整備されている。
滝までは、1kmちょっとで、片道徒歩20分~30分の行程である。

よく整備された遊歩道ではあるが、行程のあちこちに土砂崩れの痕跡がある。
大雨の翌日などの入山は、やめたほうが良いと思う。

「不動の滝」への遊歩道入口周辺は、「滝ノ沢ふるさと砂防愛ランド」という親水公園になっている。
小規模ながら、キャンプ場もある。

ホタルの名所になっていて、夏には中泊町主催の「ホタルまつり」が開催されているとか。
ここでホタルを見たら楽しいだろうなという雰囲気漂う「森のやぐら」もある。

訪れる人があまりいないのか、親水エリアである「せせらぎ広場」は雑草に埋もれていた。
大都市の近くにこんな場所があったら賑わうのだろうが、津軽半島の山の中じゃ遊びに来る人も少ないのだろう。

でも、静寂を求めるキャンパーには最高かもしれない。
そういえば津軽半島には、静寂を求めるキャンパー向けのキャンプ場がたくさんある。


【案內看板。】


【「森のやぐら」。】


【「森のやぐら」を見上げる。】


【「森のやぐら」の通路兼ベランダ?】


【「森のやぐら」のステージから通路を撮る。】


【「滝ノ沢ふるさと砂防愛ランド」の管理棟。】


【炊事棟。写真の右側がテントサイト。】


【青森ヒバの木の枝に猿くん。】


【「ホタルの一生」の看板。】


【「不動の滝」の案內看板。】


【堰堤の下の芝生広場。】


【「不動の滝」遊歩道の入口。】


【遊歩道の様子。距離表示看板はこまめに立っている。】


【土砂崩れで通行不能。】


【樹間からちょっぴり滝が見える。その滝を撮ったはずだが、この写真では見えない。下手くそ(自分)。】

2018/10/06

安藤サクラと江口のりこが、うりふたつに見える

2014年後半のNHKの朝ドラは、「マッサン」だった。
ドラマの主人公は、大正時代から昭和にかけて、国産のウイスキーづくりに情熱をかたむける造り酒屋の長男。

「マッサン」というのは、この主人公のニックネームである。
ニッカウヰスキーの創業者の、竹鶴政孝氏をモデルにしたドラマだとされている。

このドラマのはじまりの頃に、主人公が若い頃勤めていた大阪の住吉酒造というちいさな造り酒屋のシーンが登場する。
その会社の事務員を演じている女優を、私は「安藤サクラ」だと思いこんでいた。

面長な顔に、一重のちょっとはれぼったいような目。
私から見れば、彼女は安藤サクラにそっくりなのである。
ドラマのタイトルバックに流れる役者名にあまり注意しない私は、そのまちがいに気づくことはなかった。
「安藤サクラ」の演技って面白いなあと思っていたのだった。

2015年のNHKの大河ドラマは、「花燃ゆ」。
このドラマの主人公は、吉田松陰の妹である文(フミ)。
井上真央さんが演じておられた。

そのフミが、長州藩の奥御殿につかえるシーンで、また「安藤サクラ」が「女中頭補佐」のような役柄で登場した。
ここで「安藤サクラ」は、「マッサン」のときとは違う印象で演じていた。
私は、「安藤サクラ」ってなかなか存在感のある女優だなあと思ってドラマをみていたのだった。

そして、今年後半の朝ドラ「まんぷく」に安藤サクラは主役で出演している。
「えっ!」と私は思った。
「マッサン」や「花燃ゆ」のときとぜんぜん表情が違うではないか。
さすが安藤サクラは名優だね、ドラマの内容に合わせて自分の顔をイメチェンできる女優なんだ。
と感心してしまった。

昨夜、NHKの「LIFE!~人生に捧げるコント~」をみていたら、「安藤サクラ」が「自撮り」というコントに年増のOL役で出ていた。

このとき、私ははじめて違和感をおぼえた。
違和感をおぼえつつも、感心もしていた。
「まんぷく」とは違う表情に豹変していたからだ。
「安藤サクラ」って、顔つきをガラリと変えることができる女優なんだ。
ちょっとチャラけたような、こんなセリフの言い回しもできる女優なんだ。
と感心したのだ。

安藤サクラが「まんぷく」で笑顔を演じるときの三日月目は、なんとも愛嬌のある演技だが。
「LIFE!~人生に捧げるコント~」では、ときおり見せるややシャープな視線。
こうまで別人のような演技ができるものだろうか。

まてよ。
「LIFE!~人生に捧げるコント~」では、「安藤サクラ」の背が伸びているじゃないか。
違和感が、だんだんふくらんできた。

そこで、NHKのサイトで昨夜の「LIFE!~人生に捧げるコント~」の配役を調べてみた。
おどろいたことに、安藤サクラの名前はどこにもない。

女性の出演者は、飯豊まりえ、池谷のぶえ、それに江口のりこ。
女性出演者のひとりひとりの写真をネットで調べてみる。
なんと、顔が安藤サクラに激似の女優がいるではないか。
それは、江口のりこという女優で、初めて知る名前である。

住吉酒造の女性事務員も、長州藩奥御殿の「女中頭補佐」も、演じているのは安藤サクラではなくて江口のりこだったのだ。

とんだ相貌失認(そうぼうしつにん)。
私は、かなり前に相貌失認の事を記事に書いた。
氷川きよしを杉浦太陽と勘違いし。
若かった頃の栗原小巻を吉永小百合と勘違いし。
若かった頃の山崎努を緒方拳と勘違いし。

最近では、小池栄子を篠原涼子と見間違えたり。
まったくとんだ相貌失認。

ところが、安藤サクラと江口のりこに関しては、相貌失認ではないのだ。
ネットで調べてみると、多くの方たちが激似であるとおっしゃっている。
多くの方々がそうであれば、私なんかはイチコロさ。
見分けがつくはずがない。

それはそうと。
今回の勘違いで江口のりこという女優を知った。
今でも顔だけみたら、見分けは困難。
クッソリ(そっくりの俗語)のうりふたつ。

でも、一重まぶたに面長の、なかなかイイ女優じゃないか。
ファンになった。
クールな表情でのユーモラスな演技が、なんとも味がある。