2015/10/26

農民たちの祈願「あの雲は稲妻を待たより哉」

私が子どもの頃、津軽半島の村では、雷の閃光のことを「イナビカリ」と呼んでいた。

「あっ、イナビカリが光った!」と叫んで耳をふさぎ、身を縮こませる。
すぐに「ドドドーン」という音が響き渡る。
「あっ、落ちた、近い近い!」と騒ぐ。
子ども達にとって、雷鳴の恐怖は、まだ遊びの範疇だった。

その頃は「稲妻」が標準語で、「イナビカリ」は津軽の方言だと思っていた。
が、「イナビカリ」は「稲光」と漢字表記される立派な標準語。

「稲光」も「稲妻」も稲がつくのは、それらが稲を実らせると考えられていたからだという。

「雷」は夏の季語。
これに対して、「稲妻」が秋の季語となっているのは、稲にまつわる上記の理由があったからである。
とすれば、「雷」と「稲妻」は「別物」だということになる。

これは知覚的に「別物」ということだろうか?
雷は聴覚でその存在を知る。
稲妻は視覚でその存在を知る。

いや、違う。

同じ現象なのに、まったく違う呼び方が存在する。
これは、その属する季語が違うように、季節によって「別物」になるということだ。

夏のカミナリは田に雨の「雷」なのだが、秋になると、稲の妻の「稲妻」になる。
呼び方の違いは、豊作を願う農民の「祈願」である。

あの雲は稲妻を待(まつ)たより哉
松尾芭蕉

夏場に雨不足が続いて、初秋の稲の実り具合が芳しくない。
芭蕉は、そういう田園地帯を旅していたのかもしれない。

出会う農民たちは、誰もが皆、空を見つめながら雷雲の出現を待っていた。
「稲妻」が光れば、まだ不作を挽回できる。
農民たちは、僧侶姿の芭蕉に「稲妻乞い」を真顔で頼んでいたかもしれない。
それだけ「稲妻」を待つ気持ちは切実だ。

芭蕉は農民たちと心を一つにして雲の出現を願った。
だが雲は現れない。

芭蕉が、幻の雲を目で追っていたとき、句が湧いた。

「あの雲は稲妻を待たよりかな」

「たより」の意味は「知らせ」とも「よりどころ」とも取れる。
「稲妻」は豊作の「知らせ」であり「よりどころ」でもあるのだ。

これらは、私の勝手な推測。

さらに勝手な推測を重ねると、「たより」は「田より」とも取れる。
農民たちが雷雲の出現を待っている村の上空に、待望の雲が湧いた。
あの雲は、稲妻を待っている農民たちの田より出でたのだ、と芭蕉は思った。
広い田んぼに点々と散らばって、頭上の空に雲の出現を待つ農民たち。
あたかも彼らが立っている田より湧きあがったような雲。

こうイメージすると、天の雲と地の田園風景が、句の風景を広大にしているようで面白い。

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