2015/11/17

埋火や壁には客の影法師

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えてから、京都、大津、伊賀上野などで暮らし、48歳の初冬に、江戸深川にもどってくる。
年が明けて、元禄5年、49歳の5月に「第三次芭蕉庵」が完成。
この草庵で、51歳の初夏に、帰郷のために江戸を離れるまでの2年間を暮らしたとされている。
この旅立ちが最期であったので、この時以来、もう芭蕉はこの草庵にもどることは無かった。

埋火(うずみび)や壁には客の影法師
松尾芭蕉

芭蕉49歳のときの作。
「おくのほそ道」旅立ちのとき、「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」と詠って人に譲った芭蕉庵の近くに、「第三次芭蕉庵」は新築されたという。
新しい草庵で、初めての冬を迎える。

冬をむかえる準備の際、「炉開きや左官老い行く鬢の霜」と詠った。
そして、炭に火をおこす。
新しい草庵の暖房器具は、囲炉裏だったのか火鉢だったのか。
掲句は、冬の寒さが募り、暖房から離れられない生活が続く頃の作である。

「埋火」とは、消えないように灰の中に埋めた炭火のこと。
灰の中に炭火を埋めると、火の持ちがよい。
火種を絶やさないための先人の知恵である。

灰の中に埋まって燃える炭火であるから、火から発せられる灯りはほのかである。
芭蕉は「埋火」で背中をあぶって暖をとっていた。
目の前の白い漆喰の壁に、見慣れない老人の影がぼんやりと映っている。
芭蕉は、その影の客と思い出話をしたのだろう。

自身の旅を振り返ったり、句の推敲を重ねていたのかもしれない。

単独で山を歩く登山者は、自身の恐怖心を友として山に挑むという。
自身の恐怖心をなだめたり、恐怖心の言うことに耳を貸したり。
そうして、独りうなずきながら黙々と山を登る。
芭蕉の影も、そんな存在ではなかったろうか。

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた元禄2年の冬頃から、自身の俳諧理念である「不易流行」を説きはじめたという。
あたかもその「不易流行」が、掲句に投影されているようだと感じるのは私だけだろうか。
「不易」としての自身と、「流行」としての影。

「埋火」は、芭蕉の詩作を照らすほのかな灯。
その灯りに照らされた影は、ときどき現れる「旅の同伴者」だった。
芭蕉は、同伴者をなだめたり、同伴者の言葉に耳を貸したり。
そうして、独りうなずきながら黙々と旅を続けてきた。
旅を終えた芭蕉は、草庵に落ち着き、「埋火」の影となって現れた同伴者を客としてもてなし、静かな夜を過ごしたのだろう。

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