2018/07/30

ノートパソコンで複数のディスプレイを使うときは、「表示画面を拡張する」に設定すると便利である

【デスクトップ画面を右クリックしてメニューウィンドウを開く。】


「表示画面を複製する」から「表示画面を拡張する」に

ノートパソコンに大型ディスプレイを接続したと、この前の記事で書いた。
複数のディスプレイを使うときのパソコンの設定は、「表示画面を複製する」を選択して使っているのだが。
Windows7では、「表示画面を拡張する」という機能も用意されている。

今使っている「表示画面を複製する」は、ノートパソコンの画面が大型ディスプレイに拡大複製されるだけ。
小さいものが大きく見えて快適であるというもの。

それに対して「表示画面を拡張する」は、ノートパソコンの小さいディスプレイではスクロールしないと見えない部分までもが、大型ディスプレイのサイズに合せて同解像度で表示されるという仕組み。
「表示画面を拡張する」の方が、断然使い勝手が良さそうである。

そこで「表示画面を拡張する」で大型ディスプレイを使うことにした。

デスクトップを右クリック

上の写真のように、デスクトップ画面を右クリックすると、デスクトップ画面に関するメニューが現れる。

メニューのなかの「画面の解像度」をクリックする。


【「表示画面を拡張する」を選択する。】


「ディスプレイ表示の変更」で「表示画面を拡張する」を選択

すると、上の写真のような「ディスプレイ表示の変更」のウィンドウが開く。
「複数のディスプレイ」という欄は、「表示画面を複製する」になっている。
そのプルダウンメニューを開いて「表示画面を拡張する」を選択。


【(1)と(2)のデスクトップアイコン。】


「表示画面を拡張する」を選ぶと、上の写真のように(1)と(2)のふたつのデスクトップアイコン(サムネイル?)が表示される。
左側の(1)のアイコンをクリックすると、アイコンが青い囲み線でハイライト表示され、「ディスプレイ」の欄にディスプレイの名前(種類)が表示される。

「メインディスプレイ」をノートパソコンにする

(1)がノートパソコンのディスプレイである。
「これをメインディスプレイにする」にチェックを入れる。
メインディスプレイには、パソコンのデスクトップがそのまま表示される。


【(2)のアイコンをクリックする。】


上の写真のように(2)のアイコンをクリックすると、「ディスプレイ」の欄に大型ディスプレイの名前が表示される。
「解像度」の欄も、大型ディスプレイのものになっている。

実際のディスプレイの配置も、設定画面のアイコンのように(1)を左に、(2)を右に置くと解りやすい。

でも私の場合は、スペースが限られている。
それで、下の写真のように上下に置くことにした。
上のノートパソコンが(1)で、下の大型ディスプレイが(2)である。


【ノートパソコンを起動させると、このようになる。上が(1)で下が(2)。】


マウスポインタの動き

上の写真はノートパソコンを起動させたもの。
(1)は、パソコンの普通のデスクトップ。
(2)の画面は、待ち受け状態。

実際は上の写真のように、上下にディスプレイを置いているのだが、パソコンの想定では左右にディスプレイを設置していることになっている。
なので(1)から(2)へのマウスポインタの動きも、ディスプレイ上での左右の動きになる。

マウスポインタを(1)の画面の右端に隠れるようになるまで移動すると、マウスポインタは(2)の画面の左端から現れる。

逆も可である。
マウスポインタを(2)の画面の左端に隠れるようになるまで移動すると、マウスポインタは(1)の画面の右端から現れる。


【アイコンを上下に配置。】


ディスプレイ配置は、上下でも可能

ここで、ちょっとひらめいた。
「ディスプレイ表示の変更」ウィンドウの(1)と(2)のアイコンを上下に配置替えできないものだろうか?と。

それでやってみたら、上の写真のように、実際のディスプレイの配置と同じようにアイコンを置くことができた。
下の「OK」ボタンをクリック。
両方のディスプレイが暗転した後、マウスポインタの移動は上下で可能になった。

ディスプレイはふたつともワイドタイプなので、マウスポインタの移動は左右よりも上下の方がスムーズである。


【CorelDRAWを起動させている。】


ソフトウェアの操作画面の移動

次に、ソフトウェアの操作はどうするのか。
このパソコンで最も使用頻度が高いCornellDRAWを起動させる。
上の写真が起動中のもの。
パソコンのシステムの動作は、全て(1)で行なう。


【(1)にCorelDRAW新規作業画面が表示された。】


上の写真のように(1)にCorelDRAWの操作画面が表示された。
(2)は、ただ静観しているだけである。

次に、(1)に表示されているソフトウェアの操作画面をマウスポインタでつかんで、(2)の方へドラッグする。
移動の方法は、マウスポインタの移動と同様である。


【(1)から(2)へCorelDRAWの作業画面を移動中。】


さて、ここからはソフトウェアの操作画面の移動になるのだが、左右の移動についての説明となる。
「ディスプレイ表示の変更」メニュー画面にあるアイコンを上下配置にすれば、上下の移動も可能なのだが、CorelDRAWの操作画面は(2)から(1)に戻らなかった。

ソフトウェアの操作画面が、すべて可逆的に移動するのは、左右の移動に限られているのかもしれない。
そこでここでは、一般的と思われる左右の移動についての話を進める。

上の写真は、(1)でCorelDRAWの操作画面をディスプレイの右側にドラッグしているところ。
CorelDRAWの右端は(2)のディスプレイの中ほどまで進入している。


【(2)のディスプレイに操作画面を移動完了。】


上の写真は、CorelDRAWの操作画面が完全に(2)に入り込んだ姿。
(1)には、CorelDRAWの「ドッキングウィンドウ」が残っている。


【ドッキングウィンドウをドラッグ中。】


上の写真は、(1)に残った「ドッキングウィンドウ」をマウスポインタでドラッグして(2)に移動中のもの。
「ドッキングウィンドウ」が(1)の右端と(2)の左端にまたがっている。



【移動し終わったら、全画面表示にして完成。】


便利で快適な「マルチディスプレイ」を実感

上の写真は、CorelDRAWの操作画面が(2)に完全に移動したもの。
操作画面を全画面表示にすれば、(2)で快適にCorelDRAWの作業ができる。

操作画面を(2)に移動してしまえば、その後は(1)で起動して(2)で展開するというスタイルになる。
これはウェブブラウザや他のソフトウェアでも同一である。

ノートパソコンで複数のディスプレイを使うときは、「表示画面を拡張する」に設定すると、便利で快適である。
Windows10では、この「マルチディスプレイ」がもっと便利に活用できるようになっているとか。

なお、(1)からソフトウェアのアイコンやゴミ箱のアイコンを(2)に移動すると、(2)のディスクトップ上で通常通り動作した。
ただしWindows7では、移動できるアイコンは1個だけであった。

2018/07/29

CorelDRAWX8をCorelDRAW2018にバージョンアップした。

【CorelDRAW2018の起動画面。】


おととし(2016年)の12月に導入した「CorelDRAW Graphics SuiteX8」を「CorelDRAW Graphics Suite 2018」にバージョンアップした。

その結果、動作がちょっと速くなった。
これが、いまのところいちばん気に入っている点である。
ほんのちょっとの変化だが・・・・

ツールボックスでツールを選択しても、ファイルが重いときは、なかなか選択が反映されなかった。
その動作が、ちょっと速くなったのだ。

起動も少し速くなったような気がする。
でも、上の写真のように起動画面が静止したまま、なかなか次に進まないときもある。
フリーズかな?まだ生きているのかな?と思うほど待たされてから、ようやく動き出したり。

結局、ソフトの起動や動作が、目に見えて改善したわけでは無い。
ほんのちょっと速くなったような気がするという程度である。
並行して使っているAdobeのIllustratorにくらべると、CorelDRAWはまだまだ気分屋さんな「グラフィックデザインソフトウェア」である。

それでも私にとっては面白いソフトなので、奮発してアップグレード版を購入した。
費用は、税込みで26,784円だった。

新機能はというと、そんなにめぼしいものはない。
下の写真は、新機能であるブロックシャドウ効果とインパクト効果を使って、ロゴのようなものをお試しに作ってみたというもの。

「まあボチボチこれからですワ」とか、
「使っていて楽しいんだから、良いんじゃない」とか、
「Adobe Illustratorでの作業もマンネリ化してきたからなぁ」とか、
まあ、心のつぶやきですな。

だが、これだけは言える。
仕事のソフトをアップグレードしたということは、仕事へのやる気もアップグレードしたということ。

もうすぐ67歳。
私の鮮度を保つ方法である。

ちなみに私は、CorelDRAWを事務所のWindowsPCと事務所備品のノートパソコンにインストールしている。
パソコン2台にインストールすることは、Corel社の「エンドユーザーライセンス契約」に反してはいない。

Corel社の「エンドユーザーライセンス契約」は、以下(「赤文字」:Corel Japan Ltd.様サイトより抜粋)のようになっている。

「中国、インド、インドネシアまたはベトナムに居住している場合を除き、2 台目のコンピュータ装置 (たとえばスタンドアロン コンピュータおよびラップトップ) を持つ AfterShot、CorelDRAW Graphics Suite、CorelDRAW Technical Suite、CorelCAD、ParticleShop、Corel Painter、Corel PaintShop Pro、および Corel WordPerfect Office のプライベート ユーザーおよびビジネス ユーザーは、これらのソフトウェア製品のいずれをも、同じ住所に所在する最大 2 台の装置にダウンロードおよびインストール可能です。ただし、一度につき 1 台の装置でのみ、お客様のみにより使用可能であるものとします。」

ノートパソコンは携帯するものだから、持ち歩いていろんなところでCorelDRAWのファイルを開いている。
自宅にも持ち帰って、自宅でもCorelDRAWを使用している。
でも、WindowsPCとノートパソコンの所在は「同じ住所」であるから、これは問題無いと思っている。

ノートパソコンに大型ディスプレイをつないだのも、CorelDRAWのアップグレードを念頭においてのこと。
もっともディスプレイは、ノートと違って持ち歩けないけどね。


【新機能であるブロックシャドウツールとインパクトツールをお試し使用。】


■興味をお持ちの方は下記リンク先へどうぞ

2018/07/28

ノートパソコンに27インチディスプレイを接続して作業効率をアップ

【ノートパソコン。】


事務所で使用しているパソコンは、MacintoshもWindowsもデスクトップタイプ。
ディスプレイは、それなりに大型のものにしてある。

ところが、自宅での作業用パソコンは、中古で買ったWindowsのノートパソコンひとつだけ。
上の写真が、そのノートパソコンである。

このノートパソコンのディスプレイが、「15.6型ワイドTFTカラー液晶(HD:1366×768ドット LED液晶)」というもの。
サイズが15.6インチでは、グラフィックソフトを使ってのレイアウト作業は、画面が小さ過ぎてやりにくい。

細部を見るために拡大表示。
全体を見るための縮小表示。
また細部を見るために拡大表示。
さらに、全体を見るための縮小表示。

こんな動作のくり返しに時間をとられてしまう。
目の疲れも進むことになる。


【ノートパソコンにディスプレイとキーボードをセット。】


そこで、大き目のディスプレイをノートパソコンに接続して、表示画面を複製することにした。
購入したのは「株式会社アイ・オー・データ機器」の「KH275V」という製品。
27インチのディスプレイということでかなり大きい。

上の写真は、キーボードも加えてディスプレイをセットしたもの。
接続は、付属の「HDMIケーブル」を使った。
格好は、デスクトップパソコンの本体部分をノートパソコンに置き換えたというもの。
ノートパソコンのディスプレイよりも、「KH275V」の方が広々としていて気持ちが良い。

また、ノートパソコンのディスプレイでは、見る角度によって表示画面の色合いに濃薄があった。
ところが、「KH275V」では、それが軽減されている。
ディスプレイを見る位置や角度での色やコントラストの変化が、ノートパソコンよりもかなり少ない。

残念なのはノートパソコンの解像度。
古いものなので、最高でも1366×768しか無い、
しかし、ディスプレイ「KH275V」の最大解像度は、1920×1080。

ノートパソコンの解像度が劣っているので、「KH275V」の表示能力を活かせないでいる。
そのため、インターネットのブラウザーの文字が微妙に潤んでいるように見えたり。
そうであっても、今までにくらべたら大きく見えることは素晴らしい。

66歳で、老眼になりかけている私の目には、大助かりである。
自宅での見積書作成や、CorelDRAWを使用してのグラフィックデータ作りも楽になった。
ノートパソコンに27インチディスプレイを接続したおかげで、いろいろな作業の効率が確実にアップしたように思う。

ちなみに「ノートパソコン拡張」費用は、22,384円だった。
「KH275V」が21,384円。
キーボードが1000円。


【棚の上のノートパソコンと、机の上の大型ディスプレイ。】

2018/07/21

美味しいミズ(ウワバミソウ)が育つ谷

【駐車用広場から谷へ下りる林道(廃道)。】


今年初めてのミズ採りに出かけた。
場所は、去年の秋にミズ採りに下りたミズの谷

ここの林道は、年々人の足が遠のいて荒れ放題。
特に、ここ3~4年のツキノワグマ出没騒ぎで、入山者が減っている。

私がこの谷を見つけた15年ぐらい前は、人の訪れた形跡がけっこう残っていた。
道もはっきりとついていた。
ところがこのごろは、この谷底でミズを採るのは、私だけになってしまったようである。

クマを畏れてか。
あるいは、ここでミズを採っていた御仁が、高齢になって歩くのがつらくなったのか。

いずれにせよ、谷に下りる踏跡は藪に覆われて、谷底へは誰も来なくなった。
おかげで、手付かずの上物を採ることができた。

【小尾根の広場。】


上の写真は、谷へ下りる直前の小尾根。
以前ここは、草や灌木が無くて、地面が露出した広場だった。

伐採された木が丸太になって積み置かれていた。
転がっている丸太に座って休憩できる場所だったが、今は深い藪の中である。
林業の伐採道としての役割を終えた廃道なのだ。

さて、ミズ採りは今年初めてだが、ミズはけっこう食べている。
知人にもらったり。
スーパーで買ったものを、油炒めして食べたり。

でも、なんだか物足りない。
やっぱり、自分で採集したミズを食べたい。
そういう気分が強くなって、谷へ下りたのだった。
クマは恐いが、美味しいミズが食べたい。

この間見物に行った「山王坊遺跡」では、たくさんのミズが杉の林床に生育していた。
あのとき、今度はこの谷へミズ採りに出かけようと思ったのだった。

とは言うものの、真夏になるとミズの茎が筋っぽくなって、あまり美味しくなくなる。
この時期にスーパーに出回っているミズに、そういうものが多い。

ミズの美味さの条件は、柔らかくて、シャリシャリの歯ごたえと独特の粘りが豊富であること。
私を含めて、多くの人々がそう思っているに違いない。


【谷底に続く急坂の道は、藪の中。】


上の写真は、ミズの谷へ下りる急坂。
ここの藪がいちばん深い。
灌木の小枝が、行く手を阻む。

ここでは、踏跡も見当たらない。
斜面を確認しながら、ひたすら下へ下りていく。

この谷から採ってくるミズは、私の知人のあいだでは評判が良い。
美味いミズだと皆が褒める。

真夏に、この谷のミズを採ったことは無い。
真夏のミズは、だいたい硬い。

ミズは、涼しい秋になると食感の柔らかみが回復すると言われているので、去年も秋になってからミズ採りに出かけたのだ。
真夏に採ったミズが美味しければ、この谷のミズは美味しい上物であるということになる。

ミズの採れる場所は、青森市周辺に無数にある。
林道脇に生えているミズは、クルマから降りてすぐに収穫できるので手間いらずだ。
だが、楽して採れるミズに良いものは無い。

それに、そんな採り方は楽しく無い。
山歩きを楽しんでこそ、ミズ採りは楽しいものになると私は思っている。


【谷底にミズバショウの群落。】


ゆったり歩いて30分ちょっと。
急いで歩けば、20分ぐらいで谷底に着く。

ミズの谷には、ミズバショウがまだ青々と生い茂っていた。
ミズバショウの大群落である。
広いミズバショウの葉の隙間から、細長いミズが顔を出している。

ミズバショウの葉を手で払うと、みずみずしいミズが束になって生えている。
ミズ採りの楽園。
目方にして25キロぐらいのミズを20分ぐらいで採集。

この谷底は、湿原になっていて、その中を小さな沢が流れているという地形。
年中湿っていて、地面は砂混じりの柔らかい土質になっている。

沢から離れた、あまり水気の無い斜面でもミズの群生を見かけることがある。
でも、水際に生えたミズの方が、柔らかくて断然美味しい。
この谷底は、美味しいミズが育つ条件がそろっている。
  1. いつも湿潤で、栄養豊富な谷底の土。
  2. 砂混じりの柔らかい土質。
  3. ミネラル分が豊富な沢の流水。
  4. 樹木に囲まれていて日陰が多く、夏でも低温ぎみ。
などが、この谷の特徴である。
これらの特徴が、美味しいミズを育んでいると思う。

【ミズバショウとミズの群落が共存。】

帰りは25キロぐらいのミズと、水筒や雨具を詰めたリュックを背負って急坂の藪漕ぎ登り。
味見のつもりでちょっと採る予定が、ついつい欲張ってしまった。
重い分、山歩きの良いトレーニングになる。

小股でゆっくりと登る。
休まずに、わずかづつ足を運び続ける。
これが最良の山の登り方であると私は思っている。

そうやって歩いて、30分ちょっと。
いいペースで駐車用広場に着いた。


【みずみずしいミズ。】


下の写真は、ミズの薄皮を剥いたもの。
この量で、収穫したものの四分の一程度。
自分で採ってきたミズなら、皮を剥く手間も苦にならない。

さっそく油炒めで食べてみた。
油揚げと糸コンを添える。
私がいちばん美味しいと思っているミズの食べ方である。

結果は、大満足。
チョー美味しい。
真夏なのに、アンビリバボー!

やっぱり、ここのミズは一級品だった。
肥沃な落葉樹林帯の贈り物。
森の宝物。

おそらく縄文時代には、美味しいミズの群生する谷がいっぱいあったに違いない。
春から秋まで、枯れずに生育しているミズ。
近くにそんな谷があれば、農耕は不要。
採集だけで集落の食料をまかなえる。
山の麓が天然の畑だったのだろう。

山麓で食料を得て生命を保ち。
山に対する感謝の念で、信仰心(自然崇拝)を育む。

現代に暮らして、縄文人の真似事ができるということは、それだけ自然が豊かだということ。
縄文文化は自然崇拝文化だということを痛感したミズ採りだった。

ところで、ツキノワグマの話。
ツキノワグマは、山の雪解けの時期にミズバショウの葉を食べるという。
ミズバショウは、全草にシュウ酸カルシウムの毒を含んでいるとされている。
毒なのになぜ?

ツキノワグマがミズバショウを摂取するのは、越冬後などに体内の老廃物等を排出するために、嘔吐剤・下剤として食べるためなのだとか。
これはあくまでも風聞。

だが、ミズバショウのあるところにツキノワグマが出没する可能性は、あるとみなければならない。
美味しいミズはミズバショウと同居している。

であるから、美味しいミズのある場所へはツキノワグマもやってくる。
山スキーにとって快適な急斜面は、雪崩の危険度が高い斜面である。
それと同様に、美味しいミズのある場所は恐いクマの出没頻度が高い。
と思って、用心するにこしたことはない。

山では、快楽と危険はつきもの。
美味しいミズが育つ谷は、ツキノワグマの通り道。
ということを念頭において、クマ対策も怠り無く。

私のクマ対策は、また別の機会に。


【皮むきをしたミズ。】

2018/07/19

五月雨や色帋へぎたる壁の跡

【「芭蕉年譜大成」と「芭蕉紀行文集」】


「嵯峨日記」は、芭蕉が上方漂泊期に、嵯峨の「落柿舎」で十八日間過ごした日々を綴ったものである。
発句と、日記風文章で構成されている。

「落柿舎」は、京都在住の門人向井去来の、嵯峨野にある別荘。
芭蕉はこの「落柿舎」に、元禄四年四月十八日から五月四日まで滞在した。
ちなみに、芭蕉が「落柿舎」を初めて訪れたのは、元禄二年十二月だといわれている。

以下の「赤文字」部分は、「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」より書き写した「嵯峨日記」冒頭の文である。

「元禄四辛未(しんび)卯月十八日、嵯峨にあそびて去来落柿舎(らくししゃ)に到(いたる)。凡兆(ぼんてう)来りて暮に及(および)て京帰る。予は猶(なほ)(しばらく)とゞむべき由にて、障子つゞくり、葎(むぐら)(ひき)かなぐり、舎中の片隅一間(ひとま)なる處伏處(ふしど)ト。机一、硯、文庫、白氏集、本朝一人一首、世継(よつぎ)物語、源氏物語、土佐日記、松葉集(しょうえふしふ)を置(おく)。并(ならびに)唐(から)の蒔絵(まきゑ)書たる五重の器(うつわ)にさまゞの菓子(もり)、名酒一壺(いっこ)盃を添(そへ)たり。夜るの衾(ふすま)、調菜(てうさい)の物共(ども)、京ゟ(より)(もち)来りて乏しからず。我貧賤をわすれて清閑(たのしむ)。」

以下は、私の現代語拙訳。

「元禄四年かのとひつじ四月十八日、嵯峨野を散策して向井去来の落柿舎に着いた。野沢凡兆が同行して、夕暮れになって京都に戻った。私はさらにしばらく滞在するということで、障子が修繕され、庭のムグラ(トゲのある蔓草の一種)がむしり取られていて、別荘の片隅の一部屋が寝室として提供されていた。この部屋には、机一つ、硯(すずり)、蔵書は白氏文集、本朝一人一首、栄華物語、源氏物語、土佐日記、松葉集が備えてあった。これらとならんで、中国の蒔絵を描いたような五種類の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一本に盃を添えてあった。夜に寝る布団、副食物などは、京都より持ってきたもので貧弱ではない。自身の貧しく身分賤しいことを忘れて、世俗から離れた静かさを楽しんでいる。」

「嵯峨日記」は上記のように、「野ざらし紀行」や「笈の小文」、「おくのほそ道」の宣言調の書き出しと違って、のんびりとおだやかな語り口で始まる。

芭蕉は、「落柿舎」でゆったりとした日々を過ごしたようである。
滞在期間中は、凡兆・羽紅夫妻をはじめとして、関西の門人たちや曾良が訪れ、芭蕉は親しく歓談している。

そんな充足した時を過ごしたが、やがて「落柿舎」を去るときがきた。

五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡
松尾芭蕉

元禄四年五月四日、夕暮れに作った句と思われる。
句の前の、「嵯峨日記」の〆の文が以下である。
「明日は落柿舎を出(いで)んと名残(なごり)をしかりければ、奥・口の一間(ひとま)ゝを見廻(めぐ)りて、」

夕刻まで居た曾良が「落柿舎」を去り、ひとりになった芭蕉は、この十七日間過ごした家の中を見て回る。
掲句は、翌日(五日)に「落柿舎」を去るにあたっての挨拶の句であり感傷の句でもある。

たった十七日間ではあっても、慣れ親しんだ「宿」なら、離れがたい愛惜の念がわく。
外は五月雨。
雨の音が、壁の内側へ伝わってくる。

壁には、色紙を剥ぎ取ったらしい跡があった。
跡の色は、周囲の壁の色とくらべると少し汚れが少ない。

まるでそこだけ時間の経過が遅れている感じである。
その印象が、五月雨のように、名残惜しい気分に染み込んでくる。
去年亡くなった杜国のことなど、様々な過去の思い出が、芭蕉の脳裏をよぎっていく。

「それにしても」と芭蕉は思う。
「私が来るというので、去来は壁の色紙を外したのだろうか?」と。
「障子も貼り替えてあったし、庭の草むしりもしてあったし・・・」
「その色紙には、いったいどんな句が書かれていたことだろう。」と、芭蕉が思ったかどうか。

五月五日、芭蕉は「落柿舎」を出、洛中小川椹木(さわらぎ)町上野沢凡兆宅に移る。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/07/15

十三湖北岸の中世宗教遺跡「山王坊遺跡」を見物

シンボルの山王鳥居
【シンボルとして近年建立された「山王鳥居」】


「道の駅十三湖高原」方面から国道339号線を小泊へ向かって走っていると、右手に上の写真の鳥居が現れる。
赤い鳥居は、かなり手前からでもよく目立っている。

山王坊川にかかっている山王坊橋を越えたところに道路案内標識が建っている。
それには「山王坊遺跡 日吉神社」と記されている。

ここを通るたびに気になっていた鳥居だった。
津軽半島にあるものにしては、かなり違和感が漂っている。
通常の鳥居の上に、小さな鳥居状のものが載っている。
「なんだ、これは?」てな感じである。

今日は、前から気になっていた「国指定史跡 山王坊遺跡」を見物した。
国道339号線沿いの鳥居は、近年に建てられたシンボル塔であるとのこと。


【鳥居脇の看板。】


上の写真は、「東北自然歩道 安東史跡をめぐる道」と題された看板。
この看板の太い赤線で描かれた道は、自動車でも通れそうな印象である。

だがこのルートは、山間部に急坂があったり、道が狭かったり、自動車では通行困難な箇所もあるので注意が必要である。
看板マップ上の「山王坊日吉神社」と「春日内神社」間は、クルマでは通行不可能。
「安東史跡をめぐる道」は、看板通りの「歩道」のルート。
自動車通行可能な箇所は限られている。

また、上の看板で表示されているエリアの、道端に建っている案内看板には、残念ながら不明瞭・不明確なものもあるので、これも要注意である。

【駐車場から山王防遺跡の参道前広場を見ている。】


国道から1.35km入ると、上の写真の広い駐車場に着く。
左側の看板の手前が、舗装された駐車場で、普通乗用車が50台ぐらいは駐車できそうな広さである。
奥のタクシーが停まっている場所は、参道前の広場のようなところ。
広い駐車場が整備される前の、旧駐車場だったのかもしれない。


【参道横に建っている立派な看板。広場から見ている。】


参道の右側に立派な看板が建っている。
この地が、本当に由緒ある場所だと訴えているような看板である。

看板右側には、「山王坊遺跡と日吉(ひえ)神社」と題された説明書きが書かれている。
以下の「赤文字」部分は、その説明書きを書き写したもの。

『 山王坊川が流れる山間の奥まった谷間に日吉神社が勧請されている。この一帯は「山王坊」とも呼ばれ、山林に囲まれた境内地は古来より霊地として地域住民に畏敬の対象とされ、大切に守られてきた。
 これまで①安藤氏に関する日吉神社の地である②「十三往来」に記載される阿吽寺跡の地である③南部氏によって焼き打ちされた地であるといった伝承が語られてきた。
 さらに山王坊一帯からは南北朝~室町時代の五輪塔・宝篋印塔・板碑などの石造物が多く出土しており、「十三千坊」の中心地と考えられてきた。
 昭和五七年~平成元年度の調査では、最奥にある丘陵中腹から奥院と考えられる方形配石墓や幣・拝殿跡、大石段(石組階段)が一直線上に配置されて発見された。
 一方で、平坦地からは南北一列に並ぶ拝殿、渡廊、舞台、中門、瑞垣、本殿跡といった社殿跡(神社跡)として復元可能な礎石建物跡が発見された。
 平成一八~二一年の調査では、西側丘陵の山際から、新たに三棟の礎石建物跡が発見された。そのうちの一棟が南側を正面とする入母屋造か寄棟造で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物跡であることが分かった。最大の特徴は、流水(水路)に跨って建てられていることであり、自然の流れを利用した庭園を伴っていた可能性が考えられる。
 山王坊遺跡は十三湊安藤氏の盛衰と一致する一四世紀中頃から一五世紀中頃(南北朝~室町前期)に繁栄を極めた神仏習合を如実に示す貴重な宗教遺跡である。』


【看板左側の、仏堂跡復元図(左)と山王坊日吉神社復元図(右)。】


看板左側の復元図は、素人ではちょっとわかりにくい。
それに現在地も示されていない。

「発掘調査報告書」の図面を、そのまま看板に使用したものと思われる。
ここには、「山王坊遺跡」全体の概略図(イラストマップ)看板が必要であると感じた。


【日吉神社参道。】


上の写真は、「山王鳥居」と呼ばれてる参道の鳥居。
「山王鳥居」を大辞林で調べると「鳥居の様式の一。笠木(かさぎ)の中央に棟柱を建てて合掌形の破風を架したもの。日吉(ひえ)山王権現の鳥居から始まったという。」とある。

「山王鳥居」に象徴される「山王信仰」とは、「山王総本宮 日吉大社(滋賀県大津市)」のサイトに以下のように説明されている。
  1. 最澄が比叡山に天台宗を開いた。
  2. 唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた「日吉大神」を「山王権現」と称した。
  3. 神仏習合の信仰である。
「神仏習合」とは、大辞林に日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。」とある。
なお日吉神社の鳥居のように、鳥居本柱の前後に短い控え柱を立て、貫板(ぬきいた)で本柱とつないだ鳥居を「両部鳥居」と言い、「両部鳥居」は神仏習合の名残であるとのこと。

ちなみに松尾芭蕉の句「辛崎の松は花より朧にて」の舞台である琵琶湖西岸の「唐崎神社」は、「山王総本宮 日吉大社」の摂社であるという。


【(山王防遺跡 遺構配置図)の看板。】


上の写真は、「日吉神社」鳥居の手前にある看板。
「遺構配置図」の看板であるが、これも「発掘調査報告書」の図面をそのまま看板に使用したものと思われる。

細い線で描かれた図面は、冊子でなら見やすいのだろうが、看板にすると非常に見にくい。
私のような素人では、図面のイメージが現場の景観と重ならず、イライラしてくる。

彩色したり挿絵を使ったり散策路を明記したり、分かりやすい案内看板としての表現方法がいろいろありそうなものだが・・・・
訪問者に不親切な看板であるな、と感じた。


【木陰から建物が見える。】


【日吉神社拝殿の裏の階段廊下。】


【日吉神社拝殿?】


上の3枚の写真の建物が「日吉(ひえ)神社」であるらしい。
看板が無いから、なんともわからない。
固く閉ざされた戸は、訪問者と賽銭を拒絶しているような印象である。
私は取り出した1万円札を、また懐深く押し戻したのであった。


【石碑のお堂。】


「日吉神社」横のお堂。
お堂の奥に、真新しい塔婆が八本立てかけられてあった。
塔婆の「宛名」は、「前九年後三年合戦犠牲者」とか「承久の乱犠牲者」とか年代がかったもの。
「施主」は、八本の塔婆すべて「龍王寺」とあった。


【境内にはミズ(ウワバミソウ)が群生している。】


杉木立が立ち並ぶ境内は、湿潤である。
境内には、水辺を好む野草であるウワバミソウ(ミズ)、フキ、ヤグルマソウなどが群生していた。


【礎石。】


上の写真奥の、細長い東屋みたいな木造建物の柱に、この遺構の説明看板が付いていた。
以下の「赤文字」部分は、その看板を書き写したものである。

「神社跡(本殿・舞殿・渡殿・拝殿)

 この遺跡は、神仏混淆の濃厚な神社跡と推定される。本殿は前庭を持って瑞垣を回らし、前方に舞殿・渡殿・仏堂風の拝殿が南北に並ぶ。神事は舞殿、仏事は拝殿で行われ、その西方の建物は本地堂と多目的の講坊であろう。」


【板敷きの遊歩道を歩く愛犬。】


【奥へ続く遊歩道。】


この遊歩道は、「東北自然歩道 安東史跡をめぐる道」の看板で、「森林浴ロード」と記されている道。
鬱蒼とした杉木立をくぐる遊歩道である。


【踏段。】


上の写真は、「森林浴ロード」の終点の踏段。
この踏段を上がると、山王坊川に設けられた現代の砂防ダムがある。


【磐座信仰。】


「日吉神社」の東側の遊歩道脇に鎮座している「磐座(いわくら)」。
「磐座」とは、自然の岩石に神が依りつき宿っているとした古神道(こしんとう)の信仰とのこと。

自然崇拝は、日本人の信仰の原点と言われている。
この地の信仰の原点は、「山王信仰」以前にこの「磐座」にあったのではないだろうか。

この「磐座」を見ていると、沸々と妄想が湧いて出た。
それは、「山王信仰」の民が「磐座信仰」の民を追い出し、征服の証に「山王坊日吉神社」を建立し、彼らの神を勧請したのではないだろうかという妄想。

「山王信仰」は、当時の大津・京都の文化。
「磐座信仰」は、古代より伝わる津軽半島文化だったのではあるまいか。
だが津軽半島で栄えたかに見えた「大津・京都の文化」は、南部氏の安藤氏追放によって衰退してしまう。

「山王信仰」は「国指定史跡 山王坊遺跡」として脚光を浴びているが、「磐座信仰」の土着の神は、世間の関心を惹くことは少ないであろう。

だが消え去ることなく、今も津軽半島で存在し続けているに違いない。


【山王坊川から引き込んだ水路。】


下の写真の看板は、「日吉神社」と「磐座」の間に建っている「宗教施設跡」と題された看板。
「日吉神社」と「磐座」の間にある遺構についての説明看板のようである。

以下の「赤文字」部分は、看板に記された説明書きを書き写したもの。

「 この遺跡は大石階の北に展開しており、出土礎石などから推定し、南から礼拝施設、東西二個の礎石は鳥居、最北は方形基壇を持つ中心的な建物であり、出土遺物は仏教的であることから、密教に関係する廟所や宝塔などが考えられる。さらに大石階は早くから使用中止となり埋没したと思われる。石階上の推定礼拝場所に現存する礎石と西側の礎石群は、同形大小二棟の並立建物と推定され、前方傾斜面の石階の位置から、後世になっての神社二棟の可能性もある。」

なお「山王坊遺跡」の詳細については「五所川原市のホームページ > 教育・文化・スポーツ > 文化 > 山王坊遺跡」に記事があるので、興味のある方はご覧くだされ。


【(宗教施設跡)の看板。】

川風や薄柿着たる夕涼み

【都林泉名勝図会(文:秋里籬島 挿絵:佐久間草偃、西村中和、奥文鳴)四条河原 国文学研究資料館様ホームページより転載】


江戸時代に京都四条の河原(鴨川)では、陰暦の六月七日から六月十八日の十二日間、「夕涼み」が行われていた。
京都盆地は、冬は底冷えがして酷く寒く、夏は酷く蒸し暑い。
この夏の暑さをしのぐために、水辺の涼を楽しんでいたようだ。

芭蕉は元禄三年の夏、上方漂泊中の京都で、四条の河原の「夕涼み」に出かけている。
上の写真は、四条の河原で行われていた「夕涼み」のイラスト。
江戸時代に描かれたものである。

このイラストも面白いが、「夕涼み」の様子を書いた芭蕉の文章がもっと面白い。
当時の「夕涼み」の様子が目に浮かぶようである。
以下の「赤文字」は、「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」に載っている芭蕉の文を書き写したもの。

四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明(ありあけ)過ぐるころまで、川中に床を並べて夜すがら酒を飲み、物食ひ遊ぶ。女は帯の結び目いかめしく、男は羽織長う着なして、法師・老人ともに交(まじ)り、桶屋・鍛冶屋の弟子子(でしご)まで、暇得顔(いとまえがお)に歌ひののしる。さすがに都の気色(けしき)なるべし」

「暇得顔(いとまえがお)に」とは、「良い機会を得たとばかりに」という意。

別に現代語に訳さなくても、その賑わいの様子が伝わってくる文章である。

川風や薄柿(うすがき)着たる夕涼み
松尾芭蕉

元禄三年の夏の句。
京都四条の鴨川の河原で行われた「夕涼み」を詠った句である。

「薄柿」とは、柿渋で染めた薄い赤茶色(薄柿色)。
また、その色の帷子(かたびら)のこと。
帷子とは、麻で仕立てた夏用の単衣の着物。

薄柿の帷子は、その当時流行したのではあるまいか。
それで、「夕涼み」の河原では、「法師・老人ともに交(まじ)り、桶屋・鍛冶屋の弟子子(でしご)まで、暇得顔(いとまえがお)に」薄柿を着ていたと私は想像している。

薄柿を着て鴨川の川原で夕涼み。
それが、京都の夏のファッションだったのかもしれない。

その様子を、「さすがに都の気色(けしき)なるべし」と芭蕉は楽しんでいるように思える。

ところで、日本の伝統色である薄柿とは、「和色大辞典」というサイトによると以下の色である。


【薄柿】



【浴衣の上に薄柿を羽織った町人。】



薄柿を、CMYKカラーモデルで表すと「C=20% M=38% Y=26% K=0%」となる。
そこで、京都の町人風の男性をCorelDRAWで上の図のように描いてみた。

芭蕉の文に、「男は羽織長う着なして」とあるので、浴衣の上に薄柿を羽織っていたのではないかという私の想像である。
浴衣だけで外出というのは、ちょっとだらしないような印象なので。

「都林泉名勝図会」の「四条河原・夕涼み」の絵には、羽織のようなものを着た人たちも描かれている。

でも、この推測は的外れかもしれない。
薄柿は単衣のことで、薄柿の羽織は考えにくい。
羽織の下に薄柿の単衣を着ていたのだろう。

もう一案が下の図。
冒頭の「都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)」の絵を、CorelDRAWでトレースして着色したもの。
町人風の男が薄柿の単衣を着て、お酒を飲んでいる図である。
このほうが、ずっと夏向きに見える。

はたして、どうだったのだろう。

川風や薄柿着たる夕涼み


【都林泉名勝図会の四条河原のイラストをCorelDRAWで手動トレース。】


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2018/07/09

世の人の見付けぬ花や軒の栗

栗の花
【里山の栗の花】


この時期の青森市近辺の里山では、栗の花が満開である。
山沿いの道をクルマで走る。
すると、あちこちの山の麓で、白く細長い栗の花が風に揺れているのが見える。

夏の濃い緑に、白っぽい花はよく目立つ。
花が咲いて初めて栗の木の存在がわかる。
栗の木って、山にけっこうあるんだなあと思う。

里山の山桜もそうだし藤もそうだ。
花が咲くってことは、木々が、私達はここにいる!って叫んでいるようなもの。
「咲け」という言葉は「叫べ」と通じているんじゃないだろうか。
などと思ってしまう。

穂状の花をひらひらさせているので、栗の花は風媒花かと思ったら虫媒花だった。
「しまった!」
知ったかぶりして、栗の花って風媒花なんだぜと、ある人に教えてしまった。

「風媒花って、なに?」とその人は聞いた。
花粉が風で運ばれて受粉する花さ、風を媒体にするから風媒花。
「じゃ花粉症の原因は、風媒花のせいなんだ。」
「そ、そうなるね・・・」

世の人の見付けぬ花や軒の栗
松尾芭蕉

元禄ニ年四月の句。
「おくのほそ道」の旅の途上、須賀川で詠んだ句。

掲句の初案は、四月二十四日、可伸(栗斎)庵で行われた七吟歌仙の芭蕉の発句「隠れ家や目だたぬ花を軒の栗」である。
この句は、亭主である栗斎への挨拶句。
栗斎の脇句は「まれに蛍のとまる露草」

「遁世して暮らす草庵にふさわしく、軒の栗が目立たないようにひっそりと花を咲かせているよ。」と芭蕉が詠う。
栗斎は、「訪れる人はめったに無いが、たまにホタルが草庵の草むらにやってくるよ。」と芭蕉の挨拶に応ずる。

時期になると栗の花は賑やかに咲くので、よく目立つ。
見ようとしなくても目に入ってくるのが栗の花である。
しかし栗斎の草庵の栗の木は、主人の遁世の心をよく知っているので、目立たないように咲いている。
芭蕉は、初めて訪れる栗斎の草庵に対して、そういう挨拶を述べた。

「おくのほそ道」に収められた改案の掲句には、以下のような前書きがついている。

『この宿(しゅく)のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼(たの)みて、世をいとふ僧あり。橡(とち)拾ふ太山(みやま)もかくやと閒(しづ)かにおぼえられて、ものに書き付けはべる、その詞(ことば)、「栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生 杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。」 世の人の見付けぬ花や軒の栗』
『「おくのほそ道(全)」著:松尾芭蕉 武田友宏 角川ソフィア文庫より

以下は、私の現代語訳。
『この宿場町のそばに、大きな栗の木の下を頼りに俗世を避けて暮らしている僧がいる。(西行法師)が「橡拾ふ」という歌を作って暮らした深山もこうであったろうと思うほどの静かさに、次のような詞を書き留めた。「栗の字は、西の木と書いて、西方の極楽浄土に縁故があるということで、行基菩薩が生涯、杖や柱としてこの木を用いたと聞く。」 世の人の見付けぬ花や軒の栗』

「世の人の見付けぬ花」とは、栗の花の外観のことと思われる。
桜や梅の花と比べれば、栗の花は花としては風変わりである。
異形とさえ言える。

大きな栗の木の、繁っている枝を軒のように利用している草庵。
その草庵で暮らしている遁世の僧は、栗の花同様に世間から見れば風変わりに見える。
世間の人は、この僧を見慣れない者と決めつけることであろう。
しかし、こういう人こそ生き方を見習うことにおいて、杖とも柱ともなり得る人なのだ。

こういう芭蕉の実感が伝わってくるような句であると私は感じた。
芭蕉はこの栗斎を自身の同志だと感じていたのではないだろうか。
『私もまた「世の人の見付けぬ花」なのだ。』と、芭蕉が叫んでいるような句である。


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2018/07/08

芦野公園に展示されている旧津軽森林鉄道の酒井C-19形5屯機関車

【酒井C-19形5屯機関車。


芦野公園西側エリアの西端に建っている「五所川原市金木歴史民俗資料館」は休館中だった。
定休日による休館ではなくて、開館する予定は当分無いという休館状態。

「金木歴史民俗資料館」には、、芦野七夕野遺跡などの出土土器を展示する「考古資料展示室」があるということなので、楽しみにしていたのだが残念だった。

資料館の建物の前には、津軽森林鉄道で活躍していた機関車が展示されている。
津軽森林鉄道は、「日本の森林鉄道の歴史は、1909年(明治42年)12月20日に開通した津軽森林鉄道に始まる。」とウィキペディアにも記載されているように、日本で初めての森林鉄道である。

明治42年(1909年)12月20日に開通式が行われ、昭和42年(1967年)11月に津軽森林鉄道は58年の歴史に幕を閉じた。
その後も一部の支線の運行は続けられたが、昭和45年(1970年)にすべての支線が廃止されたという。

現在でも津軽半島の山間部各所に、その軌道跡を見ることができる。


【運転席。】


上の写真は、運転席の後ろの窓から運転席の内部を撮ったもの。
運転席は、けっこう狭い。
軽四の乗用車の運転席よりもちょっと狭いぐらい。
座席がふたつあるので、この狭い空間で運転士と助手が操縦に関わっていたのだろう。


【荷台と車輪。】



【材木を搭載した姿。】


下の写真は、この機関車の説明看板。
真鍮の板に彫刻文字で製作されている。
重厚な歴史を感じさせる演出である。

インクジェットプリンターで出力したフィルムをアルミ複合板に貼り付ける安価な看板では、58年の歴史の重みは出ない。

以下の「赤文字部分」は、この看板の内容を書き写したものである。


わが国最初の森林鉄道

 津軽半島を縦に走る中山山脈、そこに広がるヒバ林は、日本三大美林の一つに数えられ、最盛期ここから切り出される木材は質、量とも国内有数であった。中でも金木営林署は木材輸送及び集積の拠点として、県内最大の規模を誇り、それに伴い町も大いに栄えた。
 この木材輸送手段として森林鉄道が計画され、金木(喜良市)、青森間67kmが明治39年着工から明治42年までの、わずか3年5か月で完成した。当時の土木技術とすれば驚異的記録であり、これを可能にしたのは、当時の鉄道院の協力により、東北・奥羽本線から優秀で経験豊富な技術者や労働者を多数得られたためであるとされている。そして、この区間は我が国の森林鉄道開通第一号であり、この地方の良質のヒバが、いかに重要であったかがうかがえる。開通当時は蒸気機関車であったが、後にガソリンエンジンに変わり、戦後はディーゼルエンジンとなる。
 この車両は昭和42年森林鉄道廃止まで使用していたもので、その後旧金木小学校大東ヶ丘分校が教材として譲り受けたものをもとに、忠実に復元したものである。そして、これらは豊かさと文化をこの地に運んだシンボルとして、永く展示保存するものである。


諸 元

車名:酒井C-19形5屯機関車
製作:株式会社酒井工作所 昭和30年製作
形式:ボギー車
全長:3.54m
全幅:1.4m
重量:4.8t
エンジン:いすゞDA-120-501746 ディーゼルエンジン
     排気量6.120cc 直型6気筒
     最大出力125馬力/3200回転
動力伝達方式:トルクコンバーター/直結併用式
牽引力:50t
最高速度:20km/時
平均速度:15km/時
客車:総ヒバ造り、当時は地元の大工などによる手造りであった。主に山林労働者及び 要人輸送用であるが、終戦直後は金木~市浦間を客車として営業運行したこともある。
貨車:(名称 青森型SA木車)展示のように、丸太の前後2台で1組となり、これを8組連結した。

この展示されている機関車は、過去に実際に走っていたものを復元したものであるとのこと。
復元されたものでも、実物同様の存在感を持っていると私は感じた。

2009年まで、総ヒバ造りの客車も連結され展示されていたという。
その客車は、2009年9月9日に放火による火災のため全焼。
現代ではメルヘンチックな外観の客車を、もう見ることができない。

森林鉄道ができる前の木材の搬送方法は、積雪期の雪ぞりだったり、雪解け水で増水した川への放流だったという。
そういう脆弱だった搬送方法が、森林鉄道の完成とともに飛躍的に改善された。

そうして津軽半島の豊富で良質な木材が、効率よく青森市に集まったという。
津軽半島の森林鉄道軌道跡が、近代化遺産として尊ばれている所以である。

この津軽半島の林業に携わった津軽半島人の独自の文化もあったことだろう。
そういう「民俗」的なものも、「五所川原市金木歴史民俗資料館」に展示されていることだろうが、永続的な休館で見れなくて残念だった。

【説明が彫り込まれた真鍮製銘板。】