2016/09/01

「マイペース」とは、人生のなかで変化し発展してきた大切な能力である

■自身を活かす能力

若い頃、マイペースについて、友人達といろいろ考えたことがあった。
そしてマイペースとは、様々な状況のなかで、自身のペースをコントロールできる能力のことであるという結論を、私は得たのだった。
と同時に、マイペースとは、自身をベストな状態にキープできる能力のことでもあると考えた。
つまり、マイペースとは、自身を活かす能力のことであると思ったのだ。
友人たちも、マイペースについて自分の意見を持ったようであった。
マイペース故に、意見は様々である。

■世間的な常識

マイペースというと世間的には自己中心的な性格としての印象が強い。
自分本位とか、相手のことを考えないとか。
常に自己犠牲を強いるような「世間的常識論」からみれば、そうなるのだろう。

でも、それはマイペースとは言えない。
それは、マイペースとは無関係な単なる自己中心であり、単なる自分本位であるのだ。
「あなたって、自己中心的ね。」とか「あんたってずいぶん自分本位ね」と、面と向かって言えない場合、やんわりと「あなたって、とてもマイペースな方ね。」なんて言ったりする。
「世間的常識論」では、マイペースは便利な言葉なのである。

■マイペースの対義語

マイペースというのは和製英語だそうで。
マイペースを知るには、マイペースの対義語を知ることもヒントになると思った。
マイペースの対義語はユアペースであると言った友人がいた。
ユアペースという語の響きは良いが、内容がいまひとつピンとこない。
八方美人とか優柔不断という4文字熟語を上げる方もいた。
これは、意味的にはピンとくるが、語の響きがマイペースと合わない。
そこで私は、ノーペースではどうだろうかと思いついた。
ペースが無いというノーペースなら、八方美人とか優柔不断にも意味的につながる。

ペースとは、物事を進める速度や進み具合のこと。
それが無いのであるから、ノーペースは最悪である。
したがって、マイペースを維持しなければ、最悪の事態を招きかねない。

マイペースとは、自分の能力を高めるための方法だと、私は結論した。
ノーペースは、結果的に自分の能力が充分発揮されない事態に陥る過程であるかもしれない。
自己を犠牲にして他人に奉仕する結果に陥るという意味ではユアペースのイメージと合っている。
しかし、ユアペースとして自身のペースをコントロールできるのだから、ユアペースはマイペースのひとつの形と言える。
やはり、マイペースの対義語は、ペースがコントロール不能な状態であるノーペースがふさわしい。
ペースのコントロールは、理性の働きによってなされる。
マイペースを支えているのは理性の働きなのである。

■ノーペースの原因

他人に振り回されてしまいがちなノーペースの原因は何だろう。
それは他人に気を使い過ぎること。
他人に合わせ過ぎること。
自己犠牲というよりも、滅私活動に近いかもしれない。

こんな例えはどうだろうか。
食事は腹八分で、体のコンデッションがちょうどいい少年がいる。
彼は親戚の家で食事をすすめられて適量(マイペース)を食べたのだが、大人たちから「遠慮しないで、もっと召し上がれ」と言われる。
そこで少年は、大人たちに気を使って、必要以上に食べ過ぎてしまう。
大人たちは喜び顔だが、少年の能力は低下する。
腹いっぱいでは、上手く遊べないし会話も弾まない。
挙句の果てに親戚の大人たちから「あの子はご飯はいっぱい食べるけれども、頭の働きは鈍いんじゃないの?」と思われたりする。

あるいは、こんな例えはどうだろう。
ペースは遅いが、確実でセンスの良い仕事をする職人がいる。
それが彼のマイペースであり能力なのだが。
あるとき、手が速くて無難に仕事をこなす先輩職人と一緒に仕事をしなければならなくなった。
彼は先輩職人に気をつかってペースを速め、マイペースを失ってしまう。
自分も速く仕事をこなせるのだという「見栄」もあったのだろう。
結果的に彼は自身の能力を低下させ、注意力を失う。

マイペースとは、自分と言う個性が生まれ持って身につけている能力のこと。
マイペースとは、人生のなかで変化し発展してきた大切な能力なのである。
だから、マイペースを守って、もっと自分を活かそう。

■ブログはマイペースな存在

ところで、私が若い頃はパソコンなんて無かったし、ブログも無かった。
今こうして、ブログを書いていて思うのは、ブログってけっこうマイペースな存在である。
こういうマイペースな存在であるブログは、自分の意見が育つ場なのではあるまいか。
ブログとマイペースの良い関係を保つことが、雑多系ブログ「雑談散歩」のテーマなのかもしれない。

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