2018/04/29

山の中腹に「唐川城跡」の展望台があったものの、いったい遺跡はどこに?

【唐川城跡展望台の休憩所。】


大沼公園の北東方向に、南北に長い山がある。
頂上の標高が166メートルの、地図には名前の載っていない山。

大沼公園から見れば、津軽山地の西端に位置する小高い丘のような山である。
その山に「唐川城跡」がある。

自動車道路は、標高110メートルまで続いている。
標高110メートルの地点が広場になっていて、乗用車が5~6台駐車可能なスペースがある。

十三湖に向いた広場の端に、上の写真の、展望台の休憩所のような建物が建っている。
「唐川城跡」と記された木杭の看板もある。

自動車道路は、ここから下って「春日内観音堂」の方へと続いているが、自動車での通行はあまりおすすめではない。
舗装はされているが、急傾斜の細い道で、アスファルトの上に泥がのっているのでスリップしやすい(体験談)。

グーグルマップで調べると、この広場の住所が、五所川原市磯松唐皮と出る。
なるほど、唐皮なので「唐川城」なのだと納得。


【唐川城跡展望台から十三湖(奥)と(大沼)を眺める。】


展望台からは、西方向の風景がよく見える。
大沼公園の奥に十三湖が横たわっている。

休憩所のなかには、下の写真にある看板が掲げられている。
看板の「唐川城跡(からかわじょうあと)」と題された説明書きを、書き写したものが以下の「赤文字」部分である。

「 唐川城跡は十三湖北岸の標高140~160mの独立丘陵上にあります。唐川城跡の中腹にある展望台からは、岩木山や日本海、十三湖の絶景を眺めることができます。ここからの景観は中世に西浜と呼ばれた地域を一望でき、岩木川水系や日本海の水上交通を押える要衝にあったことが分かります。唐川城跡は展望台裏の高い平場にあり、土塁と堀跡などが現在も良く残されています。
 これまで唐川城跡は伝承に従って、安藤氏に関わる中世城館と理解されてきました。南部氏に追われた安藤氏が居館であった福島城跡を捨て、最後に立てこもった詰城(つめじろ)と理解されてきました。いよいよ落ち延びる際に、今も残る井戸跡に宝物を隠して、北海道へ渡っていったという興味深い伝承があります。
 平成11~13年度に富山大学がその実態解明のため発掘調査を行いました。その結果、安藤氏時代よりも古い平安時代後期(10世紀後半~11世紀代)に築城されたことが判明しました。高地性環濠(かんごう)集落と呼ばれる性格のものであり、その後、安藤氏時代(15世紀)に一部が再利用されていることが判明しています。唐川城跡は南北700m、東西200mの規模を持ち、他の環濠集落を圧倒する大規模なものです。山頂の平坦面には土塁と堀によって、大きく3つの郭(くるわ/北郭・中央郭・南郭)が設けられ、その東側には帯郭(おびぐるま)状の堀を巡らす比較的単純な構造になっています。さらに、北郭と南郭には現在でも大きな井戸跡が残っており、南郭の井戸跡周辺には竪穴住居跡と考えられる窪地(くぼち)が多数確認されています。発掘調査では主に南郭の井戸跡と周辺の竪穴住居群の調査が行われています。
 調査の結果、井戸跡は上端幅10m、深さ2.5mに及び、岩盤を大きく刳(く)りぬいて造られていました。また、周囲には竪穴住居跡二軒、精錬炉跡(せいれんろあと/鉄を溶かす炉)一基が検出されています。竪穴住居跡では床面が焼土で覆われ、金床石(かなとこいし/鉄を打ち付ける台)や鍛冶(かじ)関連遺物が検出されています。精錬炉跡では、フイゴ羽口(はぐち/風を送る道具)や多量の流動滓(りゅうどうさい/鉄くず)が伴っていました。
 このことから、唐川城内で鉄製品を作る集団がいたことが判明しています。また、竪穴住居跡内からは平安時代後期にあたる土師器の坏(つき)・甕(かめ)、五所川原産須恵器(すえき)の長頸壺(ちょうけいこ)・甕(かめ)、土錘(どすい/漁業用網のおもり)のほか、北海道を起源とする擦文(さつもん)土器も伴っていました。
 一方、標高160mと最も高い中央郭では、南東部に連続した二つの平坦面(屋敷地)の存在が明らかとなり、安藤氏時代(15世紀前半)の小規模な掘立柱建物の柱跡や陶磁器が見つかっています。」


【休憩所の中にある説明看板。】


下の写真は、看板左側の図や写真を拡大したもの。
看板には、出土した土器や陶磁器の写真、遺跡の調査風景写真、精錬炉跡の写真、及び「唐川城跡」の地形測量図などがプリントされている。

この看板をじっくり読めば、この遺跡の概要が分かるようになっている。
いろいろ遺跡の看板を見てきたが、こんなに詳細な看板は初めてである。

詳細な看板も、それはそれで良いものである。
その場で読めなくても、デジカメで撮っておけば、読みたいときに読むことができる。

そうであるから遺跡見物に専念できる。
と、ところで遺跡はどこに?


【説明看板の左側を拡大。】


少し前に、「中世十三湊の世界(新人物往来社)」という本を図書館で拾い読みしたことがあった。
その本には、「唐川城跡の発掘調査」という項目があって、「津軽地方の中世の城跡という伝承のある場所を発掘してみると、非常に高い確率で古代の遺物が出土してくる。」という意味のことが書かれてあった。

例として、中里城や蓬田城、尻八館(シリポロチャシ)が上げられていた。
何やら「津軽半島文化」の特質を示しているようで面白いと思ったのだった。

だが、実際「唐川城跡」に来て、目にしたものは詳細な看板だけ。
看板に記された遺構は山に中に隠れていて、それを見物できる遊歩道も無い。

これでは多くの訪問者が、古代や中世の在りし日をイメージできないではないか。
帰り道で「唐川城跡」の山を眺めて、しみじみとそう思った。

道路に設置された「唐川城跡」という案内看板につられて、遠方からやってきた観光客の方が展望台までクルマを進めるかもしれない。
やって来たものの、「唐川城跡」の遺構は見れないのである。

詳細な看板があれば、それが示している現物を見たくなるはず。

ところが何もない。
「なんにもないじゃん!遺跡はどこに!」
というガッカリ声が聞こえてきそうな「唐川城跡」であった。


【岩井牧場付近から「唐川城跡」がある山を眺める。】

津軽半島の大沼に架かっている「東日流館橋」は、日本一長い木製屋根付き橋

大沼遺跡の看板。


小泊(こどまり)から国道339号線を今泉に向かって南下中。
途中で、「大沼公園」という道路の案内標識を見つけた。
五所川原市相内岩井のあたり。

これは新発見で未踏の地なので、寄ってみることにした。

後で気がついたことだが、この公園へのメインロードは、もう少し手前(小泊寄り)にあった。
その進入路には道路案内標識が無く、小さな看板が建っていただけなので見逃してしまったのだった。

道路案内標識に限って言えば、今泉寄りのサブロードの方がメインぽい。
サブと言っても、広い駐車場完備である。
だが、公衆トイレは無い。

散策を終えた後、メインロードの方へも進入してみたが、こちらがいかにもメインだという格好の、立派な木柱看板が建っていた。
駐車場も広いし、トイレも完備。
「大沼野外ステージ」という謎の構造物有り、親水護岸ありで、やっぱりこっちの方がメインしている。


「大沼遺跡」の看板の「五所川原市史跡案内略図」部分をアップ。


サブの駐車場のすぐそばに、この記事冒頭に掲げた写真の看板が建っている。
「大沼遺跡」というのが看板のタイトル。

著されている文言は「唐川城南麓の沼、別名で佐称宇知沼、白太鼓沼と呼ぶ。北岸一帯には縄文時代・古代の竪穴住居群が知られている。」

その左側に、「五所川原市史跡案内略図」が添えられている。
その略図には、十三湖の北岸周辺に遺跡が散在していることが記されてある。

「佐称宇知沼」とか「白太鼓沼」とか、古風な別名があるということは、この沼は古代から存在していたのだろう。
沼の周囲や、十三湖北岸の丘陵地は、古代人の生活圏だったのだ。

こんな広範囲を見物している時間は無い。
とりあえず、愛犬と一緒に大沼の遊歩道を散策することにした。


縄文の橋。


すると、いきなり「縄文の橋」の出現である。
橋脚や橋桁、橋板、手すり(欄干)は木製であるが白い柱は鋼製。
この白い柱が縄文をイメージしているようである。

この橋の向こうに縄文遺跡があるのか。
そう思って渡り始めたら、なんと左手に屋根付きの不思議な橋があるではないか。
なんとなく雅な雰囲気の橋が、沼の水面を横切っている。
水上の楼閣か。
それが下の写真。

あの橋を渡らねばなるまい。


縄文の橋の上から東日流館橋を眺める。背後の山は、唐川城跡のある山。


縄文の橋。白い柱が縄文っぽい。


遊具広場。


「縄文の橋」を渡った先は、緩やかな傾斜の広場になっていた。
ひとけのない広場に、若干の遊具が、しみじみとあはれを誘う。
というような「中世的あはれ感」の広場を、沼沿いに進むと、先程の橋のたもとに着いた。


前方に東日流館橋が見えた。


橋のたもとの右側に「東日流館橋」の看板。


東日流館橋を渡る。


この橋の名称は、「東日流館橋(つがるやかたばし)」。
「東日流」とは、津刈や都加留同様、地名である「ツガル」の当て字と思われる。
橋のデザインが古めかしいので、橋の名前も古代をイメージして命名したのだろう。

この橋の散歩者は、私と愛犬のみ。
この雅な空間を占有とは、なんと贅沢。

あとで知ったことだが、「東日流館橋」は屋根付きの木橋としては日本最長とのこと(2015年6月現在)。
全長は136メートルあるという。


1階の広い展望デッキ。


右側に2階に登る階段がある。


橋の中間二箇所に展望デッキのような広間が設けられており、そこから二階の櫓部分に上がるための急傾斜な階段が掛けられている。

あいにく、二階の櫓フロアの写真は撮り忘れた。
櫓フロアの空間も、なかなか素敵で離れがたい。


2階へ上がる梯子段。


2階の展望櫓から橋の屋根を見る。橋の屋根は銅板葺か、銅板風トタン板葺か。


「東日流館橋」から「縄文の橋」を眺める。


下の写真は、「東日流館橋」を渡って着いた広場に建っていた看板。
看板の左下に、四角で白く囲んで、大沼公園整備事業の概略が書かれている。

県営大沼地区地域用水環境整備事業(農業農村整備事業)
工期 平成9~14年度
事業費 6億7千6百万
工事内容 東日流館橋、縄文の橋、広場等

下の看板の「現在地」から、沼を右手に見ながら、遊歩道を歩いて駐車場まで戻った。
看板のイラストの「縄文の橋」近くの駐車場である。

この駐車場が、私が言っている「サブ」駐車場。
イラストの「B&G船着場」とかあるところが、私の言っている「メイン」駐車場。

さて、帰りの遊歩道は、途中に湿地状態になっている箇所が三ヶ所ぐらい有り、あまり快適ではなかった。
左手には、市営牧場の柵が巡らされて、看板には「牛とのふれあい広場」なんて書かれてあるが、沼側からは立入禁止となっている。

この広大な公園を散歩中に、私と愛犬が出会った散歩人はゼロ。
沼の岸で釣りをしている、出立ちおしゃれなフィッシャーマンを二名見かけただけだった。

「しみじみとしたあはれ」を感じたいなら、大沼公園(函館じゃないよ!)に来るが良かろう。
無人の水上楼閣「東日流館橋」の櫓から、沼を眺めれば「しみじみ」としてくるはず。

「しじみ」が食いたいなら、十三湖へ。


大沼公園概略の看板。


メイン駐車場の木柱看板。



メイン駐車場にある親水護岸から東日流館橋を眺める。

外ヶ浜町の観瀾山で見かけたナガハシスミレ

白い距がとても長いナガハシスミレ。


外ヶ浜町の観瀾山公園遊歩道でスミレが咲いているのを見つけた。
クロマツの林縁で、日当たりの良さそうな場所に生えている。

よく見ると、あまり見かけない形のスミレである。
距(きょ)がびっくりするぐらい長い。
【距とは、花びらやガクの付け根にある突起部分。唇弁に付属する袋状の組織。袋の内部には蜜腺(みつせん)がある。】

こんなに長い距を持ったスミレは初めてだ。
2~2.5センチぐらいはある。
ちょっと異様な長さである。

花の形が、踏みつけられたような感じで平べったい。
花の正面から押されて、つぶれた形と言うべきか。
花の直径は、1.5センチぐらい。
なんというスミレだろう?
変異したものだろうか?

インターネットで調べてみたら、ナガハシスミレという種であることがわかった。
「長嘴菫」と、漢字で書き表されている。
長い距を嘴(くちばし)にみたてたものと思われる。

別名テングスミレ。
距が天狗の鼻のようなので、納得。

ナガハシスミレの分布は、主に本州の日本海側山地とされている。
他に、北海道南部でも生育しているとのこと。


観瀾山は陸奥湾に面した低山であるが、位置的に日本海側と言えなくも無い。
ナガハシスミレは、日本海側の多雪な山地を好む植物であるらしい。

よく似たスミレに、アワガタケスミレという種がある。
距が長くて、花の格好はナガハシスミレとまったく同一であるという。
ナガハシスミレに似ているのは、アワガタケスミレしか無いとのこと。
花の形や色では、そっくりなので見分けが難しい。

同定の決め手は、葉の形。
アワガタケスミレの葉は、三角形に近く、基部が切形(せつけい)になっている。
なお、アワガタケスミレの分布は、新潟県、福島県、山形県の日本海側多雪地帯とのこと。
名前の由来は、新潟県の粟ヶ岳で発見されたことによるらしい。
【切形とは、葉の基部が直線になるもの】

改めて写真の葉を見たが、私の写真の葉は、あまりうまく撮れていない。
が、よく見ると葉の基部が心形(しんけい)なのは明瞭である。
ということで、このスミレはハシナガスミレに間違いなしと確信した。
【心形とは、葉の基部がハート形にへこむもの】



花が正面から押されたように平べったくなっている。これも他のスミレと違うナガハシスミレの特徴。


葉は、濃い緑色。やや厚みがあって、光沢がある。


葉の形は、先の尖った心形。葉脈は鮮明。


草丈は、10~15センチぐらい。


距は様々な方向に曲がっている。

津軽半島の山並みや日本海を見渡せる竜泊ライン

竜泊ラインに生息する野生のニホンザル。
ガードレールにちょこんと座った野生のニホンザル。


津軽半島の日本海側ドライブコースである「竜泊(たつどまり)ライン」。
ここを竜飛岬から小泊に向かって南下した。

ゴールデンウィークは、ほとんど毎年、津軽半島をドライブしている。
【「竜泊ライン」とは、国道339号線のうち、竜飛岬から小泊の区間を示す観光道路の名称。】

「竜泊ライン」の最高地点は、竜飛岬近くの「眺瞰台(ちょうかんだい)」と呼ばれている展望所。
標高が505メートル。

「竜泊ライン」の小泊側の端に、道の駅こどまり「ポントマリ」がある。
そのポントマリの横の自動車道が最低標高地点で7.5メートル。
標高差約500メートルのドライブコースである。


自動車道路を横断する猿。


この標高差500メートルの間の景観が素晴らしい。
山岳コースあり海岸コースあり。

津軽半島は「山岳半島」である。
「津軽山地」と呼ばれている山脈が、津軽半島の脊梁となっている。
「竜泊ライン」を走ると、そんな津軽半島の独特の景観を楽しむことができる。

竜飛岬から小泊にかけての海岸線は、断崖から砂浜へと変化している。
山岳コースの海岸線は、断崖。
海岸コースは、岩混じりの砂浜。
その砂浜が、「竜泊ライン」を過ぎてから七里長浜へと続き鰺ヶ沢へ至る。

七里長浜の全長は、約30キロメートル。
その背後には屏風山砂丘が控えている。

さて、「竜泊ライン」前半の山岳コースは、津軽半島の山並みと、眼下に広がる日本海の景観が素晴らしい。
強風地帯なので、背の高い樹木が少なく、展望が開けている。
カーブを曲がるたびに展開する景色に心が躍る。

今日は好天に恵まれたので、眺望が素晴らしかった。
割とガスに覆われることの多い山岳コース。
今日は、見晴らしが得られて幸運であった。

津軽半島の日本海側は、何度訪れても見飽きない景観。
ただし、急カーブが多いので、クルマの運転は慎重に。

山から下りれば、目前に日本海が広がる海岸コース。
コース的には、シーサイドロードって言うんでしょうか。
その海岸道路脇の空き地にクルマを止めて、来た道を振り返ると津軽半島の山々。
津軽半島の山が迫る日本海の海岸風景が楽しめる。
海岸の景観は、砂浜に大小の岩が点在するというもの。
小泊に近づくほど、その砂浜が広がる。


津軽半島の山並み。


山から下りてちょっと進むと「傾がり石(かたがりいし)」というところに出る。
斜めに傾がったような大岩の前に「みちのく松蔭道入口」という柱看板が建っている。
ここから延びている林道が、かつて吉田松陰が歩いたという「みちのく松蔭道」である。
【1852年、吉田松陰が津軽海峡の警防状況を視察するために歩いた山道を、青森県が1998年に「みちのく松蔭道」として整備した。ちなみに、吉田松陰が通った算用師峠を、1802年8月に伊能忠敬も通っていたという。】

さらにクルマを進めると、七ツ滝という滝の景勝地がある。
この滝は、落差21メートル。
その名の通り七段になっている。
海からの風が強い日は、落下する滝の水が強風に煽られて飛沫となって舞い上がるという。
海岸近くの滝ならではの光景を目撃することができるらしい。


日本海。


この滝の周辺に、昔の「津軽森林鉄道」の隧道(ずいどう)があると聞いたことがある。
森林鉄道の遺構を探し歩くマニアにとっては聖地のような津軽半島。
なにしろ「津軽森林鉄道」は、日本で最初の森林鉄道なのだから。
「日本の森林鉄道の歴史は、1909年(明治42年)12月20日に開通した津軽森林鉄道に始まる。」とウィキペディアにも記載されている。

七ツ滝を過ぎてちょっと行くと「竜泊温泉青岩荘」という民宿の温泉場がある。
鄙びた感じが好きな方には魅力的かも、という雰囲気の宿である。
津軽半島の数少ない温泉地としても貴重な存在であるが、残念ながら私はまだ入浴したことがない。

「竜泊ライン」のゴールは、道の駅こどまり「ポントマリ」。
ここでゆっくりと休憩。
そう言えば、スタート地点の竜飛岬にも道の駅「みんまや」があったが、道の駅としてはイマイチ。
どちらかと言うと、「青函トンネル記念館」としての観光施設色が濃いので、農産物や海産物の販売コーナーは設けられていない。


小泊(こどまり)到着。

蓬田村の玉松台と古城の沼に架かった木造浮橋

玉松の案内看板。


青森市街から蟹田方面へ向かう国道280号線(松前街道)の途中に玉松海水浴場がある。
玉松海水浴場は、蓬田村(よもぎたむら)の陸奥湾内の海水浴場で、遠浅で穏やかな遊泳場として知られている。

海水浴場の西側の高台は玉松台と呼ばれ、玉松という特異な一本の松が生育しているという。
玉松の噂は、以前から聞いていたが、まだ見たことはなかった。

そこで、玉松台の西側に位置する玉松台スポーツガーデンの駐車場にクルマを止めて見物に出かけた。


玉松。


玉松の案内看板に導かれて丘へ登ると、普通の松が生えていた。
園芸の植栽にタマツゲというのがあるが、そんな感じの、木の形が球状の松だろうと思っていたのだが、アテがはずれた。

上の写真のように、二本の太い枝が湾曲して輪を描いている。
お金を表すのに、親指の先と人差指の先をくっつけて輪を作るジェスチャーがあるが、そんな感じである。

お金持ちの方が庭木として欲しがるような松であった。
この銭松・・・おっと失礼玉松は樹齢三百年以上の老松だそうである。

江戸時代に陸奥湾の津軽半島沿岸を航行する船が、この玉松を目印にしたという。

津軽海峡から陸奥湾に入って、半分ちょっとを過ぎたあたりに玉松台がある。
地形図で見ると玉松台の標高は、高いところで11.4メートルぐらい。
玉松台よりも北側の蟹田とか平舘は、山間部が海岸に迫っており、断崖地形である。

玉松台よりも南側は、油川や青森まで、山のない平坦な土地続き。
青森港に近づくに従って陸地の標高が、4メートル、3メートル、2メートルと低くなる。
陸地に平野部が開けてくる。

陸地の山間部と平野部の境目に玉松台が位置している。
それは、船が航行する海底の地形にも関係があるかもしれない。
岸から離れていても、あんまり海底が浅いと座礁する恐れがある。

距離の目安と航行ルートの目安。
そういう意味で玉松台は、油川港や青森港に向かう目安になったことだろう。

けれども、玉松が沖から見えたかどうか。
江戸時代の頃は、今よりもひと回り小さかっただろうから。


玉松海水浴場を眺める。


南側の公園入口。


古城の沼。


蓬田村が開設しているホームページに、「蓬田村史」のページがあって、それによると玉松台は縄文時代の遺跡でもあると記されている。

しかし、ここから出た遺物は公園造成中に見つかったもので、本格的な発掘調査がなされていないので、「玉松台遺跡(縄文時代中期~)」の規模とか年代とかは詳らかではないとされている。

また近隣には、「蓬田大館遺跡(縄文時代)」や「瀬辺地遺跡(縄文時代前期~中期)」、「小館遺跡(擦文文化)」があり、玉松台一帯が古代人の生活の跡を遺している土地であることを示している。
この高台に、そんな歴史を感じさせる面影が、見当たらないのは残念であるが・・・

玉松台と玉松台スポーツガーデンとの間に、「古城の沼」という名前の池がある。
この意味ありげな「古城の沼」命名の由来は、どこにも記されていない。
「古城」とは、「チャシ」のことか「館(たて)」のことかと想像してみたが、明記されてない以上、それは不明である。

その「古城の沼」に、下の写真のような橋が架かっている。
橋脚には浮力体が固定されており、橋を渡ると、ゆらゆら揺れる。
橋の先にある東屋は、沼の底に基礎を設けているようでしっかりと建っている。
残念ながら、この橋に名前は付けられていない。

余談だが、金木の芦野湖(藤枝ため池)に架けられている浮橋は「芦野夢の浮橋」という名前が付けられている。
名前があるから広く人々に親しまれている。

玉松台では、「古城の沼」というネーミングがあまりにもロマンチックすぎて、この橋の名前が消えてしまったのだろうか。
津軽の木の橋の文化の一端であるのに、名前が無いなんてもったいない。

あまり人が訪れることのない「古城の沼」。
古城の姿が無い「古城の沼」。
この池の水面で、名無し橋は、所在無げに浮いている。

浮橋。

浮橋と奥の東屋。

玉松台のイラスト看板。

2018/04/28

芭蕉のブラックな駄洒落?「姥桜咲くや老後の思ひ出」

「芭蕉年譜大成」寛文4年のページ。
「芭蕉年譜大成」より

姥桜咲くや老後の思ひ出(いで)
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」によれば、寛文四年発刊の「佐夜中山集」に入集の二句の中のひとつとされている。
芭蕉二十一歳のときの発句。
※佐夜中山集(さよのなかやましゅう):俳諧集。京都在住の俳人である松江重頼(まつえしげより)が編集。

芭蕉が、実名の松尾宗房を俳号として名乗っていた頃、実家のある伊賀上野で暮らしていた時の作である。

「姥桜」の相対するふたつの意味

「姥桜」を辞書で引くと以下のように記載されている。
  1. 葉の出るよりも先に花の咲く種類の桜の俗称。ヒガンザクラやウバヒガンなど。葉を歯と掛けて、花期に歯無しであるから姥の文字をあてている。
  2. 娘盛りの年頃を過ぎても、なお美しい器量を保っている女。
(1)は、葉(歯)のない花(女)なので、「姥桜(老婆)」という駄洒落である。
(2)は、桜は老木でも美しい花を咲かせるので、「姥でも美しい女=姥桜」ということ。
「老醜」と「美しい器量」と、「姥桜」には相対するふたつの意味が込められている。

老いても美しい女としての「姥桜」

まず、(2)の意味で「姥桜咲くや・・・」を読んでみると、そのイメージは下記のようになりはしないだろうか。
  1. 今年もこの老木に、美しい桜の花が咲いた。
  2. この桜の木も老後には朽ちて、花が咲かなくなることだろう。
  3. 老後になってから、かつて美しい花を咲かせていた頃を思い出すために、今はこうして咲いているのだなあ。
これでは、ちょっと説明的な印象のイメージである。
説明的な句からは、句の文脈に沿った明解なイメージを感じ取ることはできるのだが。
一方では、イメージの広がりが感じられずに、平坦でつまらないという印象である。
なにか、格言や諺に応用できそうな教訓的なものも垣間見える。

歯無しの老婆としての「姥桜」

それに比べて、「姥桜」(1)の視点で読むとどうであろうか。
  1. 「姥桜」は葉無し(歯無し)で咲くのであるから、咲いている「姥桜」は老婆である。
  2. 老後に達した老婆が、老後を思い出すとは、その老婆はもう冥土に入りつつあるということ。
  3. 「姥桜」は、老婆の冥土の土産に咲いているのだという芭蕉のブラックな駄洒落。
  4. それとも、「姥桜」の咲いているのを見ると、亡くなった老婆の、歯無しの滑稽な姿を思い出すなあということか。
むしろこういう傾向の方が、当時の流行に合っていたようだ。
伊賀在郷時代の芭蕉(宗房)は、「貞門風(ていもんふう)」俳諧の影響を受けていたとされている。
【※貞門風:松永貞徳(まつながていとく)を中心とする江戸時代前期の俳諧の一流派の句風。】

芭蕉の活躍

貞門風俳諧は、滑稽や駄洒落に代表される言葉遊び的な傾向の強い句風。
まだ若かった芭蕉に、自身の老後を案じる気持ちは無かっただろう。
機知に富んだ芭蕉は、当時の流行を巧みに取り入れて句を作り、新人気鋭の俳人として上野俳壇の顔になっていたという。

<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/04/27

津軽の「サルケ」は伊賀の「うに」、「香に匂へうに掘る岡の梅の花」

「芭蕉年譜大成」より

香に匂へうに掘る岡の梅の花
松尾芭蕉

元禄元年三月中旬の発句。
芭蕉はこの年の二月十八日に亡父の三十三回忌の法要のため、「笈の小文」の旅の途中で故郷の伊賀上野に立ち寄っている。
帰郷も、この旅の目的のひとつであった。

掲句は芭蕉の後輩にあたる同郷の門人服部土芳(はっとり とほう)の「土芳庵(とほうあん)」で詠まれたとされている。
「土芳庵」は後に、芭蕉の「蓑虫の句」にちなんで「蓑虫庵」と名付けられた。

伊賀の「うに」は泥炭のこと

この句で面食らったのは、「香に匂へうに掘る」の「へうに」である。
「匂」を送り仮名無しで「におひ」と読んでしまい、「香ににおひへうに掘る」と訳がわからなくなった。
古典には「読み」も意味も難解な古語が使われているという先入観念が、こういう錯覚につながったのだろう。

いろいろ調べて、この句は「香(か)に匂(にお)へ うに掘る岡の 梅の花」と「読み」の方は解ったが、「うに掘る」の「うに」の意味が解らない。
これもまたいろいろ調べたら、「うに」は雲丹(ウニ)のことだった。
「うに掘る岡」の「うに」が、海に生息するウニではますます解らない。

江戸時代の伊賀上野で「うに」と言えば泥炭のことだという。
泥炭とは、枯れた湿地植物などが堆積して炭化したもので、可燃性がある。

津軽の「サルケ」も泥炭

泥炭と言えば、昔の津軽地方には「サルケ」と呼ばれていた燃料があった。
あまり炭化が進んでおらず、植物の繊維が表面に残っていた。
それが猿の毛を思わせるから「サルケ」なんだと村のお年寄りから教えてもらった記憶がある。
(※サルケはアイヌ語の「サルキ」に由来するという民間の説もある。「サル」はアイヌ語で低湿地のこと。「キ」は湿生植物のヨシとかカヤのこと。「サルキ」で、湿原に生えているヨシを意味するとのこと。このヨシとかカヤが枯れて堆積し「サルケ」になる。)

この「サルケ」の繊維のトゲトゲが、ウニのトゲに似ていなくもない。
津軽の「サルケ」が伊賀では「うに」だったのだ。
なんと面白い。

私が子どもの頃、津軽半島の稲垣村(いながきむら)では、軒下に「サルケ」を積んで乾燥させていた家があった。
1950年後半頃のことである。
(稲垣村は、青森県西津軽郡にかつてあった村。2005年2月11日、新設合併による「つがる市」発足に伴い廃止された。)

稲垣村は岩木川の中流域に位置するかつての湿地帯である。
その湿地跡で「サルケ」をブロック状に切り出して採掘したのである。
冬にそれを囲炉裏に焚べて暖をとっていた。
燃え始めは燻(いぶ)っている感じで、かなりの煙が出ていたと記憶している。

「うに」の悪臭

「サルケカマリ」という、「サルケ」臭の方言があったから、燻るときに相当な匂いが発生していたに違いない。
でも匂いの記憶は私には無い。
植物の遺骸が燻る匂いであるから、かなりな悪臭だったのではないかと思われる。

さて掲句は、泥炭である「うに」を採掘する岡の、「梅の花」を詠ったものである。
嫌な「うに」の匂いを消すほどに香り強く匂ってくれ、「うに」採掘場の岡に咲く梅の花よ、という句のイメージであろう。

これは伊賀地方のローカルハイカイである。
江戸の人々は「うに」を知らないから、この句を鑑賞できない。
「うに」が燻って出す悪臭を知っている土地の人でなければ解らない。

まして現代では、「うに」も「サルケ」も、採掘されていたその土地でも忘れ去られた存在である。
薫り高い梅の花の対比として泥炭の「うに」の悪臭を想像するしかない。

ただ「サルケ」を体験したことのある津軽地方の爺様婆様達なら、「香に匂へうに掘る岡の梅の花」を「香に匂へサルケ掘る岡の梅の花」と置き換えると、この句の実感を蘇らせることができるかもしれない。

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2018/04/24

芭蕉が感じた面影「草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな」

蛍は夏の風物詩

「蛍は夏の風物詩」とは、よく聞く文句。
ところで、「風物詩」とは何?

風物は、風の物。
風とは。
暖かい風や冷たい風。
優しい風や破壊的な風。
懐かしい風やよそよそしい風。

風は季節によって姿を変える。
なので風とは季節のことである。

風物詩と短歌の抒情

風物とは、その季節の物。
その季節に特有の物。
季節が過ぎれば、消滅してしまう物。
春であれば桜の花とか、夏であれば蛍とか。
秋であれば紅葉とか、冬であれば雪とか。
季節が過ぎれば消滅してしまうから、そこに独特の詩情が生まれる。

日本の伝統的な詩情は、短歌で表現されている。
いわゆる短歌的な抒情である。
おそらく大部分の日本人の、季節の事物に対する感性は、短歌的な抒情によって養われている。
そう言えるのではないだろうか。
だから、「風物詩」の詩情とは、古い時代の歌に込められた詠嘆に依っていると思われる。

蛍は古い時代の面影

蛍は、生育環境の悪化によって減少しつつある昆虫。
蛍がたくさん飛んでいた時代は、今よりも自然が豊かだった時代。
現代の蛍の名所へ出かければ、そんな時代の面影を覗き見ることができる。
「風物詩」とは過去の面影を覗き見ることかもしれない。
古き良き時代の名残。

私達が「蛍は夏の風物詩」と言う時、私達は古い時代の面影を頭の片隅に思い浮かべているのだ。
情報にあふれた現代では、「風物詩」が情緒としてよりも情報として存在している。
だが情報ではなく、自然に対する詠嘆が、いつもあちこちで囁かれていた時代もあったのではないだろうか。
自然に対する詠嘆が、短歌や俳諧に詠われた時代。

瀬田で蛍見物


草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな
松尾芭蕉

元禄元年六月上旬、芭蕉四十五歳の作。
「笈の小文」の旅を須磨で終えた芭蕉が、関西地方を周遊していた頃、大津滞在中に詠んだ句とされている。
大津の蛍の名所である瀬田で蛍見物をしたときの発句と思われる。

「草の葉を」の「を」は、「動作の起点」を示す格助詞で「・・・から」の意。
「落つるより」の「より」は、「即時」の動作を示す格助詞。
「・・・やいなや」とか「・・・するとすぐに」という意味。

草の葉に止まって、光を放っている蛍。
その蛍が、草の葉から落下するように見えたが、すぐに飛び上がった。
その蛍の一瞬の動作を目撃した芭蕉が、それをそのまま句に詠んだ。
素朴で叙事的な印象の句である。

この句の季語は「蛍」。
季語も「風物詩」的な雰囲気を持っている。
だが「風物詩」は、季語と違ってその人の体験のなかで、その人の情緒に直接に働きかけるものである。

吉野の面影

芭蕉は、蛍にどんな面影を感じたのだろう。
それは、「笈の小文」の旅で立ち寄った吉野の面影ではあるまいか。
芭蕉が瀬田へ蛍見物に出かけたとき「目に残る吉野を瀬田の蛍かな」という句も詠んでいる。
「目に残る吉野」とは、この年の三月「笈の小文」で旅をした吉野のこと。
そこで目にした吉野の桜を瀬田の蛍に重ね合わせたのだろう。
芭蕉は瀬田の蛍に、西行が愛した吉野の桜を想い、西行の面影を見たのかもしれない。
面影とは、目に残る像や有り様のことでもあるのだ。

江戸時代の感覚

現代に生きる私達は、掲句から「夏の風物詩」的な抒情を感じる。
テレビやインターネットで蛍の動画を見て、夏がやってきたのだという感慨に浸る。
そんな抒情を感じるのだ。
そして、儚い蛍の姿に、心持ちがちょっと浄化されたような気分になる。

だが江戸時代に暮らす人々はどうであったろうか。
自然に対する感度が、現代人よりもずっと鋭敏だった人々は、掲句を読んでどんな感想を持っただろうか。

私がこの頃、気になっていることである。
江戸時代当時の人々は、芭蕉の句に何を感じたのだろう。
生活環境の圧倒的な違いを考えれば、現代に生きる私達には想像もできない何かを感じていたと思われるのだ。

それは、ともかく。

蛍がもたらした無常観

芭蕉は、この瀬田の蛍を詠ったときから二年後の元禄三年夏に「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という句を作って、蝉の「無常」を詠んでいる。
鳴き続ける蝉に対して感じた「無常」を、芭蕉は二年前に、瀬田の蛍に対しても感じたのではないだろうか。

草の葉の上で光が消えた時、芭蕉は蛍に寿命が来たのかと思った。
その落ちたように見えた蛍が、また火を灯して飛び上がり、光の群れのなかに混じる。
その光は、儚い命の光。
やがては目の前で消えていく光なのだ。

芭蕉は、乱舞する蛍の光に何かの面影を見た。
葉から落ちた蛍の句を詠んで、芭蕉はその面影を蘇らせたのかもしれない。
「落つるより飛ぶ」ことは蘇ること。

面影を蘇らせる句

芭蕉は面影の消滅に無常観を募らせる。
季節が過ぎていくのも、無常迅速。
それが「夏の風物詩」→「面影」→「無常」というイメージのルートとして見えてくる。
掲句の「落つる」という往路のルートである。

芭蕉の視点はそのルートを辿りながら、「無常」→「面影」→「夏の風物詩」という復路を辿って「飛ぶ蛍」に至る。
蛍に感じた面影を、「落つるより飛ぶ」ことによって、芭蕉は瀬田の川辺に甦らせた。
そんな句であるように私は感じている。

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2018/04/23

山吹や宇治の焙炉の匂う時

芭蕉自画賛「山吹や」芭蕉年譜大成より

山吹

山吹はバラ科の落葉低木。
夏が間近な時期に、黄色い花を枝先につける。
樹形が株立状になっていて、晴れた日には、木全体に付いている無数の黄色い花が輝いて見える。
青森市周辺でも晩春になれば、丘陵地や山林の中でちょくちょく見かける花である。

山吹には、面影草(おもかげぐさ)という異名がある。
この植物は樹木ではあるが、茎が細く柔らかいので、背の低い個体なら草のようにも見える。
ちょうど私が紫陽花を草だと思ったように。
それで面影草なんてしゃれた草の名前がついたのだろう。

農家の製茶の作業


山吹や宇治の焙炉(ほいろ)の匂う時
松尾芭蕉

元禄四年春、「上方漂泊期」に、郷里の伊賀上野に滞在したときの句とされている。
前書きに「画賛」とあるから、誰かが描いた絵に贈った句なのだろう。
芭蕉はこの後伊賀を出て、四月十八日に京都嵯峨の落柿舎に入っている。
(※落柿舎(らくししゃ):向井去来の別荘。芭蕉はここに五月四日まで滞在して「嵯峨日記」を著した。)
伊賀上野で「山吹」の花の絵を見た時、芭蕉はこれから向かう京都のことが頭に浮かんだのだろう。

「焙炉(ほいろ)」とは、製茶用の乾燥炉のこと。
下から弱く加熱して茶葉を乾燥させる。
乾燥させながら、手揉み作業を行えるようになっている茶農家の作業台である。

ちょうど「山吹」が咲く頃、「宇治」では茶葉を焙(ほう)じる匂いが「焙炉」から漂ってくる。
どこの農家でも、茶葉を手揉みしながら乾かす作業に追われる。
芭蕉は、そんな「宇治」を散歩したことがあったのかもしれない。

また、「宇治」は大津に隣接している。
芭蕉が京都と大津を行き来するときは、「宇治」を通っていたに違いない。
旅の途中で、「宇治の焙炉」の「匂い」を嗅いだことだろう。

五感に訴える句

掲句は、色や香りなどで読む者の五感に訴える。
  1. 「山吹」の花の鮮やかな黄色を眺めて楽しみ。
  2. 「焙炉」から漂ってくる茶の香りを楽しみ。
  3. 「焙炉」のなかで爆ぜる炭の音に耳を傾け。
  4. そして、美味しい新茶を味わう。

空間の広がり

平坦な印象の句であるが、じっくり読むと味わいのある句であることがわかる。
「宇治の」という地名を出すことによって、「焙炉」のある場所が、「山吹」が咲いているところから離れていることを暗に示している。
そこから空間の広がりが感じられ、「山吹」と「焙炉の匂う」で季節のボリュームも感じられる。

過去と現在の対比

さらに掲句で面白いところは、「山吹や宇治の」という部分。
「山吹」は古くから和歌の題材として好んで使われている言葉。
風雅の印象が濃い言葉である。

「宇治」には、平安時代に貴族たちの別荘があったという。
源氏物語の舞台になったり、平等院鳳凰堂の地だったり。
「山吹」も「宇治」という地名も、日本の「中世王朝」の面影や香りのする言葉である。

その印象が、句の後半では「匂い」に転換する。
「焙炉」という道具(作業台)を使って製茶の作業をしている農家からの「匂い」である。
この対比が面白い。
「中世王朝」と「茶農家」との対比。

また、「中世王朝」のイメージと、「焙炉の匂う」という現在のイメージとの対比が、「匂う時」という「時」を軸にして行われている。

空間の広がりと時間の広がり。
掲句は、読めば読むほど立体的な像を浮かび上がらせる。

山吹をなぜ面影草と呼ぶのか、その由来については定かでは無い。
芭蕉は「山吹」に、「宇治」の中世王朝の面影を託したのかもしれない。
そして現在の茶農家と対比させ、過去の歴史に思いを馳せたのだろう。

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2018/04/22

満開の桜並木を散歩することで、気持ちを晴れやかな気分へと導く

桜川通りで桜が満開。

 桜の花は、どうして気分を晴れやかなものにしてくれるのだろう。

その理由は、淡い花の色のせいなのか。
それとも桜が、小さな無数の花の集合体であるせいなのか。
枝いっぱいに盛り上がった花のボリュームによるものか。
風雪の歴史を感じさせる古木の樹形のためか。
などと、ぼんやりと考えをめぐらす。
そうすると、そのすべてが、理由としての説得力を持っているように思われる。

そんなふうに、桜の花の下で桜について考えること自体が、気分を晴れやかにしているのかもしれない。

晴れやかとは、 何の心配事もなく、すがすがしい気持ちであること。
桜が咲いているのを眺めていると、そういう気持ちになってくる。
それは、ほんのいっときの安らいだ気分である。

長い年月を、晴れやかな気持ちで過ごすことは稀なこと。
というか、ほとんど皆無。

桜の花の時期は、何の心配事もなくすがすがしい気持ちになれると、わたしたちは「仮想」しているのかもしれない。
そう「仮想」すると、現状は一旦停止する。
いろいろなわだかまりや心配事について、考えるのをお休みにするのである。

冬の疲れがなかなか抜けなくて、身体的にも気持ち的にも調子が出ない時期。
春はお天気が不安定で、生活環境も変化しやすい時期である。
いろいろなストレスで、気持ち的にも身体的にもバランスを崩しやすい季節。
そんな頃に、桜の花が咲く。
春に向かって生活を再起動させるために、桜の花が疲れた気分をリセットさせてくれる。

「桜の花の時期」と書いたのは、花見の対象であるソメイヨシノは、短期間のうちに一斉に咲き一斉に散るからである。
すべてのソメイヨシノは、限定された原木のクローンであるとされている。
それが、一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっている。

一地域のソメイヨシノが、長い期間に咲いたり散ったりを繰り返すのではなくて、短期間のうちに咲いて散る。
「桜の花の時期」が短期間であるために、わたしたちは晴れやかな気分を「仮想」できるのではあるまいか。

桜の名所と称される公園で花見をする。
それも楽しいが、町並みと桜並木が一体となっている通りを散歩するのも楽しい。
桜川通りは、青森市の代表的は桜並木の通りである。

仕事のついでに、ちょっと回り道して、クルマで桜のトンネルを抜けるのもいい。
時間があれば、南北に長い桜川通りを散歩しながら、満開の桜を感じるのもいい。

散歩は、もっとも簡単な有酸素運動である。
桜風景を眺めながら、気持ちをリラックスさせる。
有酸素運動で、体の血液循環を改善させる。
自律神経のバランスを整える。
【自律神経:本人の意志とは関係無く作用する神経のこと。消化器や血管系、内分泌腺などの不随意器官の機能を調節する働きをもつ。】

桜の花は、その時期のいろいろな出来事を思い出させてくれる。
楽しい思い出は、心を浄化すると言われている。
悲しい思い出も、ときには心を浄化してくれるらしい。

抑圧されている現在の感情が、思い出によって取り除かれる。
そんな体験をされた方は、少なく無いはず。
桜の花の、思い出の効能。
それもまた、沈んだ気持ちを「晴れやかな仮想気分」にしてくれる。
「さまざまの事おもひ出す桜かな」という芭蕉の句があるように、桜は様々な事を思い出させてくれるのだ。

日本人は、いろいろな場所にせっせと桜の木を植えてきた。
公園、学校の校庭、お寺の境内、ショッピングセンターの駐車場、工場の空き地、街路樹、堤防など様々な空間を桜の花で飾ってきた。
それは、自律神経のバランスをとるための日本人の知恵であるのかもしれない。
冬から春への季節の変わり目を「晴れやかな仮想気分」で過ごせるように桜の木を増やしてきたのだろう。

冬の疲れよ、さようなら。
新しい生活よ、こんにちは。
というのが「桜の花の時期」を利用して、「晴れやかな仮想気分」を得るための日本人の方法である。

桜川通りの桜のトンネル。

青空を背景に桜の笑顔。

2018/04/21

蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

蓑虫とは

蓑虫(みのむし)は、ミノガ科のガの幼虫。
口から糸を出して小枝や葉の欠片を絡み合わせ、筒状の巣を作って、その中で越冬する。
その筒状の巣が、藁で作った雨具の蓑に似ているので蓑虫と呼ばれるようになったとか。

幕末から明治にかけて活躍した放浪の画人土岐源吾は「蓑虫山人(蓑蟲山人)」を名乗って諸国を歩き回った。
青森県内にも長く逗留し、明治20年に、木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を行ったことで知られている。

生活用具一式を背負い、ときには野宿を重ねて旅を続ける姿を、自ら蓑虫に喩えた。
後世では奇人と称されたりしているが、その土地々々の公共事業に参画したり、様々な人々と交流したりして、世捨て人の奇人には見えない。
蓑虫のように棲家を身にまとって、旅に生きる生き方ゆえ、自らを蓑虫と名乗ったのだと思われる。

一所にぶら下がって移動しない蓑虫に、旅人のイメージは見当たらない。
しかし、「蓑」にくるまってじっと動かない虫が、実は、「蓑」のなかで旅を夢見ているのだという粋人の空想があっても、それは不思議ではない。

比喩としての蓑虫


蓑虫の音(ね)を聞きに来(こ)よ草の庵
松尾芭蕉

貞享四年秋、芭蕉四十四歳のときの句
この年の八月中旬、「鹿島紀行」の旅からもどった芭蕉が、深川の芭蕉庵で詠んだ句。

句の前書きに「草のとぼそに住みわびて、秋風のかなしげなる夕暮れ、友達のかたへ言い遣わし侍る」とある。
「草庵で暮らすのが侘びしくて、秋風が悲しい音をたてて吹く夕暮れなど、(私は居ても立ってもおられず)友人諸氏に言い伝えるのである。」というのが、私の現代語意訳。

この句では「蓑虫の音」と詠んでいるが、蓑虫は鳴かない。
おそらく芭蕉は、自身を蓑虫に喩えているのだろう。
自分は芭蕉庵で蓑虫のようにじっとして暮らしている。
そんな私の声を聞きに来いよと、友人たち招いているのである。
その一方で芭蕉は、自身を蓑を着て旅に出かける「旅の虫」のようなものだと自身を喩えているのではないだろうか。

旅立ちの宣言

事実「蓑虫の音・・・」の句を詠んだすぐ後の、十月中旬に芭蕉は「旅人と我が名よばれん初詩雨」と劇的に宣言して「笈の小文」の旅に出る。
この宣言が、芭蕉の「蓑虫の音」のように思える。

この年の秋九月に「芭蕉帰郷餞別七吟歌仙」が内藤露沾(ろせん)公邸で開かれている。
「笈の小文」の旅は、芭蕉の郷里である伊賀上野への帰郷も兼ねたものだったからである。
内藤露沾は、磐城平藩主内藤義泰(風虎)の次男の内藤義英。
芭蕉はこの年の夏に、「露沾公に申し侍る」と前書きして、「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」の句を贈っている。
「鳰(にお)の海」と呼ばれている琵琶湖へ「鳰の浮巣」を見に行くのだぞ、と内藤露沾に宣言しているのだ。
(※鳰は、琵琶湖に多く生息する水鳥、カイツブリのこと。)

ちなみに、「芭蕉帰郷餞別七吟歌仙」で、芭蕉は露沾公から「はなむけの初めとして」「時は秋吉野をこめし旅のつと」という句を贈られている。
(※「笈の小文」では「時は冬よしのをこめん旅のつと」となっている。)

芭蕉は「笈の小文」の旅を須磨で終えた後、京都、伊賀、岐阜、大津、名古屋を周遊している。
「蓑虫の音を・・・」の句を詠んだ時に芭蕉は、「笈の小文」の旅の構想に胸をふくらませていたに違いない。
いや、その前の「五月雨に・・・」の句を露沾公に贈った時、すでに旅程を組んでいたのかもしれない。

蓑虫の音

「百骸九竅(ひゃくがいきうけう)の中に物有(あり)、かりに名付(なづけ)て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好(このむ)こと久し。 終(つひ)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦(うん)で放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立(たて)むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學(まなん)で愚を曉(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只(ただ)此一筋に繫(つなが)る。西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道(そのくわんだう)する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ざうくわ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」
上記は、紀行文「笈の小文」の序文。
この序文に書かれてあること、「造化にしたがひ、造化にかへれ」などが、芭蕉の「蓑虫の音」なのではないかと私は感じている。

■参考文献「芭蕉年譜大成(新装版)」著:今榮藏 角川学芸出版
「芭蕉紀行文集」所収『笈の小文』校注:中村俊定 岩波文庫

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2018/04/20

己が火を木々の蛍や花の宿

言葉の意味

その言葉の意味もわからずに音の調子良さだけで、その文句を口ずさむということが、子どもの頃は多かったように思う。
たとえば、童謡(わらべうた)の「ずいずいずっころばし」なんかはそのいい例で、わけもわからずに大声でよく歌っていた。
唱歌の「いらかのなみとくものなみ」の「いらか」の意味を覚えたのは、「鯉のぼり」を歌わくなる年齢になってからだった。

青い森セントラルパークはレンギョウの花盛り

青い森セントラルパーク東側入口


 愛犬の散歩で、久しぶりに青い森セントラルパークへ行ったら、レンギョウの花盛りだった。
公園の残雪はすっかり消えて、春のポカポカ陽気。
黄色いレンギョウの花が、陽光に輝いている。

春先は黄色の花が多い。
青森市内の平和公園で、残雪が消えかかる頃に咲くサンシュユも黄色
里山で早春に咲く小さなマンサクの花も黄色。
フクジュソウもタンポポも黄色。
春先では無いが、初夏の風がそよぐ頃にはヤマブキの黄色い花が咲き乱れる。

黄色は、赤色やオレンジ色とともに暖色系に属する。
暖色・寒色の区別は、あくまでも見た印象。

暖かそうな感じの色や、寒そうな感じの色。
その見た印象が、神経に影響を与えるという説があるが、それはなんとなくわかる。
体験的にわかるのだ。


樹形は株立状。


暖色は交感神経に影響を与えると言われている。
交感神経は、活動している時や緊張している時、ストレスを感じている時に働く。
赤色を見ると、確かに交感神経が刺激されているなと感じるときがあるが、黄色はどうだろうか。

明るい黄色にリラックス感を覚えるときもあるので、黄色い色は副交感神経に影響を与えているのではと思うこともある。
副交感神経に影響を与えるのは寒色系の役割。

でも、今日のレンギョウの黄色は晴れやかで、気分が高揚してきて、何やら身体が活動的になっている。
愛犬を急かして、先へ先へと進む。

青い森セントラルパークの周囲には、点々とレンギョウが配置されており、この時期はレンギョウ花見が楽しめる。
レンギョウの株からレンギョウの株へとレンギョウ巡り。
街の通りを散歩しているときよりも、レンギョウを目にしてから歩きが活動的になっている。

ちょっとは交感神経が刺激を受けて働いているようである。
と同時に、ゆったり気分も味わっているので副交感神経とやらも働いている。
これは、自律神経のバランスがイイということではないか。


花弁は鮮やかな黄色。


黄色は、自律神経のバランスを良くする色なのかもしれない。
厳しい冬が終わって、雪が溶けて、いきなり赤色を目にして発奮。
急に活動的になってはケガをする事多し。
ということで黄色い色から始めよ、という天の采配か。

それはともかくとして。
レンギョウに似たお仲間に、シナレンギョウとチョウセンレンギョウがあるという。
シナレンギョウは、葉が出ると同時に花が咲くので、青い森セントラルパークのレンギョウはシナレンギョウでは無い。

レンギョウとチョウセンレンギョウは、ほとんど大差が無い。
ただ、レンギョウの幹は中空。
チョウセンレンギョウの幹も中空だが、薄い隔膜で細かく仕切られているという。

枝を折れば、青い森セントラルパークの樹種がレンギョウであるか、チョウセンレンギョウであるか判別できるのだが。
公園樹なので枝を折るわけにはいかない。


花弁は4枚。