一晩に降った雪で、あたりが一面の雪野原となった朝。
宿の外へ出て街道を眺めると、白い世界を移動していく人々の影が朝日にくっきりと浮き上がって見える。
昨日までは、晩秋の枯れた風景だったのに、たった一晩で様変わり。
馬をさへながむる雪の朝(あした)哉
松尾芭蕉
2016/11/29
2016/11/28
浮世の重み「我が雪と思へば軽し笠の上」
宝井其角の句で、作者の意図とは別に、人生訓や「ことわざ」や格言として親しまれているものに「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥(ほととぎす) 」がある。
この句が有名な「ことわざ」になったのは、リズミカルで平明な作風が江戸の庶民に愛されたせいなのだろう。
才気煥発でありながら、放蕩に明け暮れたと言われている宝井其角。
松尾芭蕉の代表的な門人として知られた其角。
その暮らしぶりが、「伝説」となり、其角の言葉(句)が「伝説の人」の名言のように巷間に伝わったから、其角の句は庶民のあいだで「ことわざ」としてもてはやされたのかもしれない。
我が雪と思へば軽し笠の上
宝井其角
掲句は、其角編集の俳文集である「雑談集(ぞうたんしゅう)」に収録されている。
「雑談集」は元禄5年の発刊。
この年に第三次芭蕉庵が完成し、芭蕉は、江戸を離れることになる元禄7年5月までの2年間をそこで過ごした。
芭蕉が大坂(大阪)で亡くなったのは元禄7年(1694年)10月、51歳だった。
関西を旅行中であった其角は、芭蕉の「いまわの際」に立ち会うことができた。
江戸の門人のなかでは、唯一、師の最期を看取ったとされている。
この句も、口伝えで江戸の庶民の間に広く知れ渡ったと思われる。
「我が物と思えば軽し笠の雪」は、ある種の人生訓やことわざに特有な、単眼的な主張になっている。
笠に重く積もった雪も、自分の物だと思えば重く感じることはない、という意味なのだが。
さらに飛躍して、苦しいことや辛いことは、それが自分のためになることだと思えば気にならないものだ、という内容に変化している。
当時の江戸っ子は、ためになる俳諧を探して、浮世の「教訓」を導き出そうとしていたのだろうか。
生活の役に立たなければ、俳諧の存在意義は無いと、多くの人々が思っていたのかもしれない。
本来の句である「我が雪と思へば軽し笠の上」はどうだろうか。
以前、服部嵐雪の「梅一輪いちりんほどの暖かさ」の記事で私は『俳諧師にとっては、厳冬の季節に対する畏怖の念はあっても、「冬が嫌い」などという言動は禁句なのではあるまいか。本音はともかくとして、四季に対しては悪感(あっかん)を抱かない。それが、日本の四季を愛する俳諧師の建前となっているのではないだろうか。』と書いた。
このことは、其角の「笠の上」の句にも言えると思う。
この句が有名な「ことわざ」になったのは、リズミカルで平明な作風が江戸の庶民に愛されたせいなのだろう。
才気煥発でありながら、放蕩に明け暮れたと言われている宝井其角。
松尾芭蕉の代表的な門人として知られた其角。
その暮らしぶりが、「伝説」となり、其角の言葉(句)が「伝説の人」の名言のように巷間に伝わったから、其角の句は庶民のあいだで「ことわざ」としてもてはやされたのかもしれない。
我が雪と思へば軽し笠の上
宝井其角
掲句は、其角編集の俳文集である「雑談集(ぞうたんしゅう)」に収録されている。
「雑談集」は元禄5年の発刊。
この年に第三次芭蕉庵が完成し、芭蕉は、江戸を離れることになる元禄7年5月までの2年間をそこで過ごした。
芭蕉が大坂(大阪)で亡くなったのは元禄7年(1694年)10月、51歳だった。
関西を旅行中であった其角は、芭蕉の「いまわの際」に立ち会うことができた。
江戸の門人のなかでは、唯一、師の最期を看取ったとされている。
その其角は、宝永4年(1707年)に47歳の若さで病没。
永年の飲酒癖が祟ったと言われているが、定かではない。
掲句も「あの声で蜥蜴食らうか時鳥 」同様、人生訓として人口に膾炙している。
人生訓としての句は、「我が物と思えば軽し笠の雪」と「変形タイプ」になっている。
このほうが人生訓としてより分かりやすいからなのだろう。
この句も、口伝えで江戸の庶民の間に広く知れ渡ったと思われる。
人から人へ伝わるうちに、リズムが良くて覚えやすい句に変えられてしまったのかもしれない。
しかし、「我が雪と思へば軽し笠の上」と「我が物と思えば軽し笠の雪」ではイメージがだいぶ違う。
「我が物と思えば軽し笠の雪」は、ある種の人生訓やことわざに特有な、単眼的な主張になっている。
笠に重く積もった雪も、自分の物だと思えば重く感じることはない、という意味なのだが。
さらに飛躍して、苦しいことや辛いことは、それが自分のためになることだと思えば気にならないものだ、という内容に変化している。
当時の江戸っ子は、ためになる俳諧を探して、浮世の「教訓」を導き出そうとしていたのだろうか。
生活の役に立たなければ、俳諧の存在意義は無いと、多くの人々が思っていたのかもしれない。
本来の句である「我が雪と思へば軽し笠の上」はどうだろうか。
以前、服部嵐雪の「梅一輪いちりんほどの暖かさ」の記事で私は『俳諧師にとっては、厳冬の季節に対する畏怖の念はあっても、「冬が嫌い」などという言動は禁句なのではあるまいか。本音はともかくとして、四季に対しては悪感(あっかん)を抱かない。それが、日本の四季を愛する俳諧師の建前となっているのではないだろうか。』と書いた。
このことは、其角の「笠の上」の句にも言えると思う。
「我が雪と思」うことは、其角が俳諧師としての生き方を選んだ以上、ごく自然な考えである。
四季をはじめとして、俳諧の題材となるものは、すべて其角にとって創作意欲をかきたてるもの。
雪が重いから辛いという不平不満は有るはずがない。
しかし其角は、「雪が重いから辛い」という庶民の生活も知っている。
しかし其角は、「雪が重いから辛い」という庶民の生活も知っている。
其角が書く「笠の上」とは、雪を降らせている上空のことだと私は感じている。
庶民の暮らしを圧迫する天候のことを「笠の上」と表現しているのではないだろうか。
江戸の庶民感情では、生活が制限されるから「雪は嫌だ!」ということになる。
だが其角にしてみれば、雪は俳諧のネタ。
「我が雪」なのである。
そう思えば「笠の上」のことは、其角にとってあまりしんどいことではない。
「軽し」なのだ。
では、何に比べて軽いのだろう。
それは、浮世(憂き世)の暮らしに比べたら、笠の上の雪など軽いものだと言っているように聞こえる。
庶民の暮らしを圧迫する天候のことを「笠の上」と表現しているのではないだろうか。
江戸の庶民感情では、生活が制限されるから「雪は嫌だ!」ということになる。
だが其角にしてみれば、雪は俳諧のネタ。
「我が雪」なのである。
そう思えば「笠の上」のことは、其角にとってあまりしんどいことではない。
「軽し」なのだ。
では、何に比べて軽いのだろう。
それは、浮世(憂き世)の暮らしに比べたら、笠の上の雪など軽いものだと言っているように聞こえる。
江戸っ子に支持され、庶民とともに生きている其角にとっては、現実に起きている地平の出来事の方が重大である。
抑えきれない欲望や、人との争い事や、浮世のいざこざや・・・・・。
笠の上の雪などたいしたことではない。
笠の下の現実が重いのだと、詠っているように私には聞こえる。
抑えきれない欲望や、人との争い事や、浮世のいざこざや・・・・・。
笠の上の雪などたいしたことではない。
笠の下の現実が重いのだと、詠っているように私には聞こえる。
2016/11/26
白秋の大発見「瓦斯燈に吹雪かがやく街を見たり」
北原白秋は、南国生まれの詩人。
九州の熊本県で生まれ、福岡県の現・柳川市で少年期を過ごした。
後に上京。
東京で暮らすようになった白秋は、冬場に雪を見ることはあったかもしれない。
しかし、雪国によくある「吹雪」を、東京で体験したことがあっただろうか。
そんな北原白秋の「吹雪」を題材にした俳句が面白い。
九州の熊本県で生まれ、福岡県の現・柳川市で少年期を過ごした。
後に上京。
東京で暮らすようになった白秋は、冬場に雪を見ることはあったかもしれない。
しかし、雪国によくある「吹雪」を、東京で体験したことがあっただろうか。
そんな北原白秋の「吹雪」を題材にした俳句が面白い。
景色のなかの「もの」に接近する「水鳥や嵐の浪のままに寝る」
見た景色を、そのまま句にする。
いつも目にしている日常ではあるが、それを句に切り取ると、普段では見えなかったものが見えてくる。
なんてことが、あるだろうか。
いつも目にしている日常ではあるが、それを句に切り取ると、普段では見えなかったものが見えてくる。
なんてことが、あるだろうか。
2016/11/25
三つの季重ね「肌寒し竹切る山の薄紅葉」
現代では、「季重ね」は避けた方が無難といわれているが、江戸時代ではどうだったのだろう。
「季重ね」と言えば、「目には青葉山ほととぎす初鰹」という山口素堂(やまぐちそどう)の有名な句が思い浮かぶ。
この句の「青葉」と「ほととぎす」と「初鰹」の三つは、夏の季語となっている。
三つの「季重ね」で出来上がっている句なのである。
「季重ね」と言えば、「目には青葉山ほととぎす初鰹」という山口素堂(やまぐちそどう)の有名な句が思い浮かぶ。
この句の「青葉」と「ほととぎす」と「初鰹」の三つは、夏の季語となっている。
三つの「季重ね」で出来上がっている句なのである。
凡兆の詩のテーマ「灰捨てて白梅うるむ垣根かな」
炭を焚いて出た灰や、薪を燃やして出た灰は、木灰(きばい・もっかい)といって農作物の肥料になる。
私が子どもの頃、津軽地方の実家では冬期に薪ストーブを使っていた。
一日中、薪を燃やしていると、夕方ごろにはブリキのストーブの底にたくさんの灰がたまった。
その灰を、肥料になるからと、雪の積もった畑の上に撒く。
風の吹いているときは、灰が舞ってズボンに付いたり。
粒子の細かい灰が、繊維の隙間に潜り込んで払い落すのに苦労した経験がある。
灰捨てて白梅うるむ垣根かな
野沢凡兆
私が子どもの頃、津軽地方の実家では冬期に薪ストーブを使っていた。
一日中、薪を燃やしていると、夕方ごろにはブリキのストーブの底にたくさんの灰がたまった。
その灰を、肥料になるからと、雪の積もった畑の上に撒く。
風の吹いているときは、灰が舞ってズボンに付いたり。
粒子の細かい灰が、繊維の隙間に潜り込んで払い落すのに苦労した経験がある。
灰捨てて白梅うるむ垣根かな
野沢凡兆
2016/11/23
2016/11/22
ものの在り方「捨舟のうちそとこほる入江かな」
捨舟とは、捨てられた小舟のこと。
舟底の板が剥がれたり。
舟底の板が剥がれたり。
舟底に大きな穴が開いたりして、舟として役に立たなくなったものが湖に放置されている。
棄てられたまま、少し傾いて浮かんでいる。
舟の縁には、うっすらと白い雪。
「捨舟」の背後には、寒々とした冬の入江の、侘びしいモノクロームの光景が広がっている。
生活者の目「上行と下くる雲や穐の天」
秋は台風の季節。
台風が過ぎ去っても、その余波の風に、雲が激しい動きを見せる。
青空がもどった空で、雲の展示会が始まる。
刻々と積乱雲が姿を変え、積雲が移動していく。
遠くの積雲は低い下の位置に見え、頭上の積雲は高い上の位置に見える。
台風が過ぎ去っても、その余波の風に、雲が激しい動きを見せる。
青空がもどった空で、雲の展示会が始まる。
刻々と積乱雲が姿を変え、積雲が移動していく。
遠くの積雲は低い下の位置に見え、頭上の積雲は高い上の位置に見える。
2016/11/18
ハイラックスピックアップの夏タイヤを、5年目に入ったスタッドレスタイヤと交換
タイヤ交換の道具。 |
もう八甲田の山岳道路は雪が積もっている。
夏タイヤでは、山道は走れない。
今日はお天気も良く、暖かいので絶好のタイヤ交換日和。
そこで、ハイラックスピックアップの夏タイヤをスタッドレスタイヤに交換した。
作業は40分弱ぐらいで終了。
歳をとって筋力は落ちたが要領が良くなったのか、タイヤ交換の所要時間が短くなったような気がする。
面倒くさいという気分もなく、作業がまったく苦にならない。
スタッドレスタイヤのブロックと細い溝(サイブ)。 |
私のピックアップのタイヤサイズは、「265/70R15」とスタッドレスタイヤのサイドに刻印されている。
「265」はタイヤの幅が265ミリであるということ。
「70」は、このタイヤの扁平率。
この扁平率の意味は、タイヤのサイド(タイヤの側面)幅がタイヤ幅の70パーセントであるということ。
従って、265ミリ×70%=185.5ミリとなり、私のスタッドレスタイヤのサイド幅は185.5ミリであることがわかる。
「R」はラジアルタイヤであることを示す記号。
現在流通しているタイヤのほとんどはラジアル構造であるという。
「15」は、タイヤに適合するホイールのリム径のことで、タイヤの輪っかの内径を示している。
リム径の単位はインチ。
このあいだ交換した軽乗用車のタイヤのサイズが、145/80R13。
軽のタイヤは小さくて軽いので扱いが容易だが、ピックアップのタイヤはそういう訳にはいかない。
でもまだ大丈夫。
上述した通り、手早くタイヤ交換作業が終了。
歳をとってもピックアップのタイヤ交換ぐらいはまったく苦にならない。
雪が積もれば、スキーの楽しみが待っている。
そんな気分も手伝っているから、タイヤ交換作業が意欲的に行えるのだろう。
雪国青森の冬は厳しい。
高齢になるにしたがって、ますます厳しいものになっている。
そんな季節の生活に積極的になれるのは、スキーや冬山の楽しみが私の気持ちを支えてくれているからだ。
ところで、私のスタッドレスタイヤはこの冬で5年目に入る。
写真の通り、ブロックの高さもあるしサイブもくっきりとしている。
サイブとは、ブロックの表面に切られているギザギザ線の細い溝のこと。
このサイブとブロックが、雪上でのグリップ力を確保しているという。
写真で見る限り、まだいけそうである。
ただ5年の年月で、ゴムが経年劣化して硬くなっていることが懸念される。
ネットでは7年目のスタッドレスでも全然問題無いとの記事もあるが・・・・?
これは、実際に雪道を走ってみて確認するしかない。
今年の冬も安全運転で乗り切ることにしよう。
5年目になるタイヤのサイブ。 |
私の背中の痒みは、乾布摩擦でほぼ解決
勘違いの寒風摩擦
私は、いろいろと勘違いが多い。子どもの頃、乾布摩擦を「寒風摩擦」と思い込んでいた。
当時は、「かんぷ摩擦」を行うと、風邪をひきにくい体質になると言われていた。
これを聞いて私は、「かんぷ摩擦」イコール「寒風摩擦」だと思い込んだのだ。
寒風のなかで背中をタオルでこする運動をすれば、寒さで体が鍛えられて風邪をひかなくなる。
そう思っていたのだ。
2016/11/17
梅一輪いちりんほどの暖かさ
冬の終わり頃から早春にかけて話題にされる句である。
「冬→寒い→嫌だ→早く春になってほしい」という心情。
「春→暖かい→快適→春が待ち遠しい」という心情。
この句が話題に登るのは、そういう一般的な心情が背景にあるからだと私は思っている。
とすれば、この句は一般的な心情を表している句ということになる。
そういう面で、人口に膾炙(かいしゃ)する句となっているのだろう。
冬の終わりごろには、格言のようにもてはやされている。
コマーシャルの世界では、春の訪れを待ち焦がれるキャッチコピーのように利用されている。
俳諧の題材は日本の四季を取り上げているものが多い。
それぞれの季節の美しさや厳しさがテーマとなっているもの。
季節と人の暮らしとの関わりがテーマになっているもの。
自身の感情を、季節に関連付けているもの。
様々なテーマが詠われているが、その根底には自然に対する深い畏怖の念があると思う。
俳諧師にとっては、厳冬の季節に対する畏怖の念はあっても、「冬が嫌い」などという言動は禁句なのではあるまいか。
本音はともかくとして、四季に対しては悪感(あっかん)を抱かない。
それが、日本の四季を愛する俳諧師の建前となっているのではないだろうか。
梅一輪いちりんほどの暖かさ
服部嵐雪
服部嵐雪と言えば、「梅一輪」の句と言われほど有名な句である。
前述した通り、「一輪の梅の開花に温もりを感じて、暖かい春を待ち焦がれる。」という「解釈」が多くなされている。
一般的な心情を背景にして成り立っている「解釈」である。
「梅の花が一輪咲くごとに暖かい春が近づいて来るんだよ。」という希望的な「解釈」。
だが日本の俳諧師に「冬来たりなば春遠からず」という西洋の詩人の感性は、有り得ようか?
厳冬の美しさも厳しさも、そのまま受け入れようというのが嵐雪という詩人の魂なのではあるまいか。
「嵐雪」という俳号にそれが表れているような気がするのだ。
ところで、梅は桜の前に咲く花。
でも、桜のように一斉にひとかたまりでは咲かない。
梅の花は控えめで、ひとつの枝でぽつっぽつっと一輪ずつ蕾を開いていく。
その様子が「梅一輪いちりん」なのだろう。
それを眺めながら嵐雪は、暖かい春を待ち焦がれたのだろうか?
早咲きの梅は2月頃に、咲くという。
嵐雪は、まだ冬の名残が強い寒気のなかで、梅の花を咲かせる「暖かさ」に驚いたのだろう。
人間にとってはこんなに寒いのに、梅にとっては一輪の花を咲かせるだけ暖かいのだと感じたのだろう。
梅の花を一輪咲かせるのには、その程度の暖かさで充分なのだと思い知ったのかもしれない。
そして、梅一輪ほどの「暖かさ」を梅と一緒に自らも感じようとこの句を作ったのではあるまいか。
その時々の自然をそのまま淡々と受け入れることが、嵐雪の叙景であると私は思っている。
それは、映画のワンシーンのような叙景「名月や煙はひ行く水の上」でもうかがい知ることができる。
「木枯らしの吹き行く」方角へ旅立っていく主人公(芭蕉)の姿を映像としてとらえたような「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」にも、その「叙景志向」が現れているように思う。
「冬→寒い→嫌だ→早く春になってほしい」という心情。
「春→暖かい→快適→春が待ち遠しい」という心情。
この句が話題に登るのは、そういう一般的な心情が背景にあるからだと私は思っている。
とすれば、この句は一般的な心情を表している句ということになる。
そういう面で、人口に膾炙(かいしゃ)する句となっているのだろう。
冬の終わりごろには、格言のようにもてはやされている。
コマーシャルの世界では、春の訪れを待ち焦がれるキャッチコピーのように利用されている。
俳諧の題材は日本の四季を取り上げているものが多い。
それぞれの季節の美しさや厳しさがテーマとなっているもの。
季節と人の暮らしとの関わりがテーマになっているもの。
自身の感情を、季節に関連付けているもの。
様々なテーマが詠われているが、その根底には自然に対する深い畏怖の念があると思う。
俳諧師にとっては、厳冬の季節に対する畏怖の念はあっても、「冬が嫌い」などという言動は禁句なのではあるまいか。
本音はともかくとして、四季に対しては悪感(あっかん)を抱かない。
それが、日本の四季を愛する俳諧師の建前となっているのではないだろうか。
梅一輪いちりんほどの暖かさ
服部嵐雪
服部嵐雪と言えば、「梅一輪」の句と言われほど有名な句である。
前述した通り、「一輪の梅の開花に温もりを感じて、暖かい春を待ち焦がれる。」という「解釈」が多くなされている。
一般的な心情を背景にして成り立っている「解釈」である。
「梅の花が一輪咲くごとに暖かい春が近づいて来るんだよ。」という希望的な「解釈」。
だが日本の俳諧師に「冬来たりなば春遠からず」という西洋の詩人の感性は、有り得ようか?
厳冬の美しさも厳しさも、そのまま受け入れようというのが嵐雪という詩人の魂なのではあるまいか。
「嵐雪」という俳号にそれが表れているような気がするのだ。
ところで、梅は桜の前に咲く花。
でも、桜のように一斉にひとかたまりでは咲かない。
梅の花は控えめで、ひとつの枝でぽつっぽつっと一輪ずつ蕾を開いていく。
その様子が「梅一輪いちりん」なのだろう。
それを眺めながら嵐雪は、暖かい春を待ち焦がれたのだろうか?
早咲きの梅は2月頃に、咲くという。
嵐雪は、まだ冬の名残が強い寒気のなかで、梅の花を咲かせる「暖かさ」に驚いたのだろう。
人間にとってはこんなに寒いのに、梅にとっては一輪の花を咲かせるだけ暖かいのだと感じたのだろう。
梅の花を一輪咲かせるのには、その程度の暖かさで充分なのだと思い知ったのかもしれない。
そして、梅一輪ほどの「暖かさ」を梅と一緒に自らも感じようとこの句を作ったのではあるまいか。
その時々の自然をそのまま淡々と受け入れることが、嵐雪の叙景であると私は思っている。
それは、映画のワンシーンのような叙景「名月や煙はひ行く水の上」でもうかがい知ることができる。
「木枯らしの吹き行く」方角へ旅立っていく主人公(芭蕉)の姿を映像としてとらえたような「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」にも、その「叙景志向」が現れているように思う。
2016/11/16
日常から1000文字以上を探す出すことが、私がブログを書く上での仕事となっている
トップブロガーとは?
トップブロガーとは「読者にとって価値のある記事」が書ける人であると、多くの有名ブロガーが、そう仰っている
もちろん、トップブロガーはトップアフィリエイターでもある。
プロブロガーとして高額な収入を得ている、一握りの人達のこと。
トップブロガーになるためには、ユーザーのことを第一に考えているブロガーでなければならないという。
なるほど、流石、有名ブロガーさんのお話はためになる。
彼らがトップブロガーでもある所以である。
検索エンジン最大手であるGoogleも、「読者にとって価値のある情報」があるサイトは、検索順位が上位にランクされると仰っている。
プロブロガーとして高額な収入を得ている、一握りの人達のこと。
トップブロガーになるためには、ユーザーのことを第一に考えているブロガーでなければならないという。
なるほど、流石、有名ブロガーさんのお話はためになる。
彼らがトップブロガーでもある所以である。
検索エンジン最大手であるGoogleも、「読者にとって価値のある情報」があるサイトは、検索順位が上位にランクされると仰っている。
2016/11/15
「名月や煙はひ行く水の上」服部嵐雪
![]() |
木の枝のあいだからスーパームーンが上る。 |
今日のニュースで、どうやらそれは、「スーパームーン」のせいであることがわかった。
スーパームーンとは、月が地球に最接近した日が、月が満月となった日と重なる現象のこと。
月は楕円状の起動を描いて地球の周りを回っているから、こういう現象が起こるらしい。
その日が、本日の11月14日。
満月として最接近するのは、68年ぶりの出来事だとか。
散歩の途中、コンパクトデジタルカメラでスーパームーンの写真を撮ってみたが、オートで撮るのでご覧の通りお月様が真っ白に写ってしまう。
月って、けっこう明るいのだ。
名月や煙はひ行く水の上
満月として最接近するのは、68年ぶりの出来事だとか。
散歩の途中、コンパクトデジタルカメラでスーパームーンの写真を撮ってみたが、オートで撮るのでご覧の通りお月様が真っ白に写ってしまう。
月って、けっこう明るいのだ。
名月や煙はひ行く水の上
服部嵐雪
掲句も、私の好きな句である。
スーパームーンを眺めながら、嵐雪が見た名月はどんなお月様だったのだろうと思いを巡らした。
「煙はひ行く水の上」で満月が煌々と光り輝いている。
ところで「煙」って何だろう?
古文で使われる「煙」には、いろいろな意味がある。
Weblio古語辞典で調べたら、以下のようなことが書かれてあった。
掲句も、私の好きな句である。
スーパームーンを眺めながら、嵐雪が見た名月はどんなお月様だったのだろうと思いを巡らした。
「煙はひ行く水の上」で満月が煌々と光り輝いている。
ところで「煙」って何だろう?
古文で使われる「煙」には、いろいろな意味がある。
Weblio古語辞典で調べたら、以下のようなことが書かれてあった。
- けむり(火から出る煙)。
- 水蒸気、霞(かすみ)、靄(もや)、霧。(煙のようにたなびいたり、かすんだり、立ちのぼったりするもの。)
- 火葬の煙。
- 炊事の煙。
この「煙」がどんな「煙」にせよ、夕暮の水面の上を這うように行き過ぎる「煙」であることに違いはない。
その水面は、川面であるかもしれないし湖面であるかもしれない。
もしかしたら海面であるかもしれない。
海霧がたちこめる海面から上る満月とくれば、雄大だが、あいにく海霧は主に夏に発生する。
名月と合わない。
やはりこの句の「水の上」は、川か湖か沼か池か内陸の水面なのだろう。
そこには森があって山があって、ひっそりと暮れていく風景がある。
もしかしたら海面であるかもしれない。
海霧がたちこめる海面から上る満月とくれば、雄大だが、あいにく海霧は主に夏に発生する。
名月と合わない。
やはりこの句の「水の上」は、川か湖か沼か池か内陸の水面なのだろう。
そこには森があって山があって、ひっそりと暮れていく風景がある。
そのような「水の上」で、水面と霧と、煌々と白く輝いている月。
「水の上」から空へ上って行く満月。
「水の上」から空へ上って行く満月。
それは、映画のワンシーンのような、静かな夕暮の景色である。
寒気が入って、冷え込んだ夕暮。
周囲の空気よりは温度の高い水面から、蒸気霧が上がって揺らめく。
それが風に押されて、水面を這うように移動する。
幻想的な世界。
「水の上」の美しい満月が、あたりをいっそう幻想的にしている。
現実が暮れていく狭間に現れた夢幻の世界。
蒸気霧が、幻の煙のように水面で舞っている。
名月や煙はひ行く水の上
寒気が入って、冷え込んだ夕暮。
周囲の空気よりは温度の高い水面から、蒸気霧が上がって揺らめく。
それが風に押されて、水面を這うように移動する。
幻想的な世界。
「水の上」の美しい満月が、あたりをいっそう幻想的にしている。
現実が暮れていく狭間に現れた夢幻の世界。
蒸気霧が、幻の煙のように水面で舞っている。
名月や煙はひ行く水の上
![]() |
公園のヒマラヤスギの梢にスーパームーン。 |
2016/11/14
歯医者通い(歯周病の治療)
歯欠け爺
65歳になって、歯を治そうと決意した。過去に、何度も歯茎が痛んだ経験がある。
痛いのを我慢して、放っておいて抜けた歯が3本もある。
なんだかんだで欠けてしまった歯や、抜けた歯の合計は7本。
65歳の歯欠け爺なのだ。
2016/11/11
ノブドウとヘクソカズラにおおわれて、せっかくのドウダンツツジの生垣が荒れ放題
![]() |
生垣におおいかぶさるノブドウの蔓。 |
青森市内では、ドウダンツツジの紅葉が色鮮やかになりつつある。
街の方々で、ドウダンツツジの植え込みが赤く染まっている。
もうすっかり真紅に燃え上って、散るのを待つばかりのものも見かける。
家から歩いて15分ほどの、近所の小学校には、校庭の北側にドウダンツツジの生垣がある。
この生垣は1~2年前まで、秋になると紅葉の鮮やかさで通行人の目を楽しませてくれていたのだが。
この頃は手入れがされていないせいか、荒れ放題。
こころなしか、紅葉もだんだんと色褪せてきたように見える。
![]() |
無残、生垣の東側は荒れ放題。 |
道路に沿って東西に延びている生垣の、東側が特に酷い。
ノブドウとかヘクソカズラとかの蔓性植物が、生垣に覆いかぶさって、ドウダンツツジの採光を遮っている。
特に今年の夏は、蔓性植物の繁茂が著しかったと私は感じている。
蔓性植物にとってドウダンツツジの生垣は、格好の「手掛かり」であり「足掛かり」なのだ。
生垣のてっぺんに這い上れば、邪魔者はいない。
もう、天下をとった気分。
ドウダンツツジの生垣は、快適な「蔓生活」にうってつけのお立ち台になっている。
この生垣を復活させるためには、素人ながら以下のことを考えた。
まず、蔓性植物を刈り払って撤去する。
次に、ドウダンツツジの枯枝を剪定する。
これによって、日照を確保し、生垣のなかの風通しも良くなる。
そうすれば、ここのドウダンツツジは、もう少し元気になるのではあるまいか。
![]() |
ノブドウの蔓。葉と果実。ノブドウの紅葉は、まだ始まっていない。 |
この生垣は、小学校の校舎から遠く離れた校庭のはずれにある。
そのおかげで放っておかれているのだろか。
学校からは目の届かない場所だが、大勢の人が通る道路に接している場所なのだ。
荒れ放題の垣根を通して眺める校舎は、ひどく荒廃しているように見える。
などというおせっかいな人もいるかもしれない。
その反面、荒れ放題もまたひとつの風情。
そう感じる人もいることだろう。
整然とした生垣には、生垣の美しさがある。
荒れ放題の藪には、藪の野生美がある。
この両者が眺められれば、それは本当に楽しいこと。
通りすがりの散歩人は、そんな能天気な感想を持っているのだが。
それは、ともかく。
ここのところ、ノブドウとヘクソカズラにおおわれて、せっかくのドウダンツツジの生垣が荒れ放題である。
2016/11/10
晩秋のケヤキ広場に雪
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【ケヤキ広場にうっすらと雪が積もった。】 |
青森市内は、昨日降った雪が融けずに朝まで残った。
平和公園のケヤキ広場にも、落葉の上に雪。
このあいだの落葉の山は、すっかり片付けられていた。
頭上のケヤキの枝には、まだたくさんの葉が残っている。
葉が散って、その上に雪が積もる。
その上にまた葉が散って、また雪が降る。
ケヤキ広場の冬は、全てのケヤキの葉が完全に散るまで、その繰り返し。
ケヤキの花は、桜が開花するころに咲く。
人々は桜の花に夢中で、ケヤキの花には気がつかない。
ケヤキの花は、葉が出るのと同時に咲く。
木があまりにも大きくて高いので、葉の陰の小さな花に気づく人は少ない。
雌花も雄花も葉と同じ緑色なので、なおさら目立たないのかもしれない。
ただ雄花の花被が赤いので、注意深く枝を見上げれば、見つけることができる。
そもそも、ケヤキに花が咲くということを知らない人が多い。
だからケヤキの花は、世間に知られていないのだ。
それに開花の時期がソメイヨシノと同じとくれば、影の薄いケヤキの花は見向きもされない。
艶やかに咲き誇るソメイヨシノ。
それに比べて、まったく地味なケヤキの花。
そんなケヤキの花が好きという変わり者も、いないわけではない。
ケヤキの花は、風媒花である。
だが、カツラやサンシュユみたいにヒラヒラしていない。
ケヤキの果実は、秋になると黒く熟す。
風散布型の翼果である。
だが種子は、カツラやイロハモミジの実みたいに翼が大きくはない。
ケヤキの果実は、木の先端の細い枝につく。
やがて果実のついた枝は脱落して、その枝全体が風に運ばれて遠くに着地する。
翼が小さくても、風散布型の種子として充分その務めを果たしているのだ。
晩秋には、そんなケヤキの小枝をよく見かけるが、今年は見なかったように思う。
ケヤキの実も不作だったのか。
そういえば、平和公園西側の池の畔に立っているサンシュユの実も、今年は数が少なかった。
そのかわり、北側のドウダンツツジの枝に絡まっているヤブガラシの果実を見つけたり。
植物たちのいろいろなドラマを垣間見ることができたのも、愛犬の散歩のおかげ。
そして今日、晩秋のケヤキ広場で、紅葉と雪景色を見ることができた。
裸木になりつつあるケヤキの樹影を見ていると、天に向かって扇形に枝を広げている姿の気高さに改めて感心させられる。
厳冬期になれば、その黒い枝に白い雪が貼りつく。
冷えた朝、ケヤキ広場が雪の花で賑わうさまは、清浄さに満ちている。
そんな時期も、もうすぐやってくる。
早朝の都市公園の美しさ。
犬の散歩人は、愛犬に感謝するばかり。
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【ケヤキの黄葉と紅葉(手前の枝)。】 |
2016/11/09
アメリカ大統領選で日本が大騒ぎ
「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」服部嵐雪
服部嵐雪(はっとりらんせつ)の句と言えば、「布団着て寝たる姿や東山」や「梅一輪いちりんほどの暖かさ」がよく知られている。
これらの句は、現代でも人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)するものとなっている。
芭蕉の句を、拍手と掛け声を浴びながら舞台下手に去っていくという旅人の芝居に例えれば、嵐雪の句はモノクロームの映画のラストシーンのようである。
これらの句は、現代でも人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)するものとなっている。
嵐雪は、蕉門の古参の俳諧師で、芭蕉亡きあとは宝井其角(たからいきかく)と江戸俳壇を二分したと言われている実力者。
後に嵐雪は俳諧流派「雪門」の祖となり、其角は俳諧流派「江戸座」の祖となった。
後に嵐雪は俳諧流派「雪門」の祖となり、其角は俳諧流派「江戸座」の祖となった。
芭蕉が、其角や嵐雪の才能を高く評価し、「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と褒め称えたのは有名な話である。
私は、嵐雪の次の句が好きである。
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉
服部嵐雪
この句は、「笈の小文」の旅に出る芭蕉への「送別吟」とされている。
貞享4年10月に、芭蕉は、江戸深川をスタートし「笈の小文」の旅に出る。
私は、嵐雪の次の句が好きである。
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉
服部嵐雪
この句は、「笈の小文」の旅に出る芭蕉への「送別吟」とされている。
貞享4年10月に、芭蕉は、江戸深川をスタートし「笈の小文」の旅に出る。
そのときの芭蕉の旅立ちの句が「旅人と我名よばれん初時雨」である。
順序から言えば、まず芭蕉の旅立ちの句があって、次に見送りの人々の句があったと考えられる。
実際は、蕉門の送別会的な句会での句なのだろうが、出立の日の路上で、旅立っていく芭蕉とそれを見送る弟子たちというシーンが思い浮かぶ。
それだけ「旅人と我名よばれん初しぐれ」には劇的な印象を強く感じてしまうのだ。
それに対して嵐雪が「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」という対応を見せる。
芭蕉の旅立ちの句には、宣言的な威勢の良さが感じられる。
年老いた旅人の覚悟と決意が込められているように思う。
また、この旅をやり遂げてやるぞという自信も伝わってくる
「初時雨」がそれを景気づけて、よく演出している。
一方、見送る嵐雪の句には、芭蕉ほどの感情の高まりは無い。
淡々とした、静かな映像を思わせる句になっていると思う。
芭蕉の句を、拍手と掛け声を浴びながら舞台下手に去っていくという旅人の芝居に例えれば、嵐雪の句はモノクロームの映画のラストシーンのようである。
「木枯らしの吹き行く」方角へ旅立っていく主人公。
木枯らしに背中を押されながら静かに旅立っていく主人公の後姿。
そういう映像が思い浮かぶ。
それが嵐雪の、師に対して思い描いた姿であったのかもしれない。
そういえば、前述した嵐雪の句、「布団着て寝たる姿や東山」や「梅一輪いちりんほどの暖かさ」も、どこか映像的である。
芭蕉ほどダイナミックではなく、どことなく慎ましい情景。
芭蕉ほど鳴物入りではなく、物静かに対象を見つめる眼差し。
そういう平明で温和な感性が、私の好きなところでもある。
2016/11/08
ハードボイルドだった湯たんぽ
追跡者が、とうとう逃亡者の隠れ家をつきとめ、深夜に踏み込んだときは、建物のなかに人影はなかった。男は寝室をのぞき、お決まり通りベッドのなかへ手を差し込んだ。布団のなかは冷え冷えとして、温もりが感じられない。「奴は、まだ帰っていない。ここで待っていれば、そのうち現れるさ。」彼は仲間にそう言って、注意深く部屋のなかを見回した。長い逃亡生活を経てたどり着いた部屋の割には、そういう殺伐感がにじんでいない。ごく普通の生活者の匂いがした。
追跡者のひとりが、丹念にベッドを調べている。すると彼は、ベッドの足元のほうで、バスタオルに包まれた湯たんぽを見つけた。タオルをはらって、ポリ製湯たんぽの凹凸面を指でなぞっていた彼が、突然声を上げた。「ボス、奴は、さっきまでここに居たんですぜ!」湯たんぽにかすかな温もりが感じられたのだ。かすかな温もりは、逃亡者のかすかな存在証明だった。追跡者一同、半信半疑で、ボスの指示を待った。ボスと呼ばれた男は、さし出された湯たんぽを受け取り、そのかすかな温もりを確かめた。
逃亡者は、あまりの寒さに、眠りから覚めた。彼は極端な冷え性で、熟睡が出来ない性質だった。夜中に何度も目が覚める。何度目かに目を覚ました時、彼の身体は死人のように冷えていた。これでは眠れるわけがない、と彼は悲しそうにつぶやいた。緊張の連続が、彼の自律神経を圧迫し、失調ぎみにしていたのだ。そのとき、階下のドアを蹴破る音がした。続いて階段を駆け上がる数人の足音。彼は、衣類を抱え、バックを握って、窓から非常用梯子に飛び移った。梯子から降りて、ヒイラギの生垣をもがきながらくぐり抜け、傷だらけになって道路の暗がりへ消えていった。
追跡者のボスが「まだここにいるかもしれない。あいつを探し出せ!」と男たちに号令をかける。手に持っていた湯たんぽを、いまいましそうに床に叩きつけた。すると、まさかそんなことになろうとは、ポリ製の湯たんぽがバウンドして、ボスの顎に激突。そのショックで握っていた銃の引き金を引いてしまい、ボスは自身の足の甲を撃ち抜いた。それに気づいた男たちが一斉に湯たんぽに弾を浴びせる。湯たんぽは、たちまち穴だらけ。かすかな温もりが床に流れ出している。「クソッ!クソッ、クソッ!」ボスの罵声が虚しい部屋に響く。自身の失態を呪っているのか、ボスは激しい憎悪の目を窓の外へ向けた。
「ボス、今日のところは引き上げましょうぜ。」男のひとりが言った。「今の銃声を聞いて、もうじき警察もやって来るでしょうから。」ボスは無言でうなづいた。男ふたりが両脇からボスを支えて、寝室を後にする。「またしてもあの野郎命拾いしやがったな。」最後尾の男がつぶやいた。「もうしばらく、眠れない夜を過ごすがいいさ。」ボスは、足の痛さと悔しさに涙ぐみ、終始無言だった。追われる身でありながら、部屋に普通の暮らしの匂いがあったことが意外だった。湯たんぽがバウンドしたことも意外だった。普通のようで普通でない。それが逃亡生活というものなのだろうか。追跡者にはわからぬ世界だった。
追跡と逃亡の劇を成り立たせているのは、知恵とか判断力とか運の良さとかでは無いかも知れない。それは、物。ちょっとした生活の小物だったりする。存在自体が気にならない物が、劇を意外な展開に導く。帰りのクルマの中で、追跡者たちはしみじみとそう感じた。「敵の能力よりも、その周辺に無造作に置かれている『物』に気をつけろ。」やっと口を開いたボスが、自戒の念を込めて男達にそう命じた。
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追跡者のひとりが、丹念にベッドを調べている。すると彼は、ベッドの足元のほうで、バスタオルに包まれた湯たんぽを見つけた。タオルをはらって、ポリ製湯たんぽの凹凸面を指でなぞっていた彼が、突然声を上げた。「ボス、奴は、さっきまでここに居たんですぜ!」湯たんぽにかすかな温もりが感じられたのだ。かすかな温もりは、逃亡者のかすかな存在証明だった。追跡者一同、半信半疑で、ボスの指示を待った。ボスと呼ばれた男は、さし出された湯たんぽを受け取り、そのかすかな温もりを確かめた。
逃亡者は、あまりの寒さに、眠りから覚めた。彼は極端な冷え性で、熟睡が出来ない性質だった。夜中に何度も目が覚める。何度目かに目を覚ました時、彼の身体は死人のように冷えていた。これでは眠れるわけがない、と彼は悲しそうにつぶやいた。緊張の連続が、彼の自律神経を圧迫し、失調ぎみにしていたのだ。そのとき、階下のドアを蹴破る音がした。続いて階段を駆け上がる数人の足音。彼は、衣類を抱え、バックを握って、窓から非常用梯子に飛び移った。梯子から降りて、ヒイラギの生垣をもがきながらくぐり抜け、傷だらけになって道路の暗がりへ消えていった。
追跡者のボスが「まだここにいるかもしれない。あいつを探し出せ!」と男たちに号令をかける。手に持っていた湯たんぽを、いまいましそうに床に叩きつけた。すると、まさかそんなことになろうとは、ポリ製の湯たんぽがバウンドして、ボスの顎に激突。そのショックで握っていた銃の引き金を引いてしまい、ボスは自身の足の甲を撃ち抜いた。それに気づいた男たちが一斉に湯たんぽに弾を浴びせる。湯たんぽは、たちまち穴だらけ。かすかな温もりが床に流れ出している。「クソッ!クソッ、クソッ!」ボスの罵声が虚しい部屋に響く。自身の失態を呪っているのか、ボスは激しい憎悪の目を窓の外へ向けた。
「ボス、今日のところは引き上げましょうぜ。」男のひとりが言った。「今の銃声を聞いて、もうじき警察もやって来るでしょうから。」ボスは無言でうなづいた。男ふたりが両脇からボスを支えて、寝室を後にする。「またしてもあの野郎命拾いしやがったな。」最後尾の男がつぶやいた。「もうしばらく、眠れない夜を過ごすがいいさ。」ボスは、足の痛さと悔しさに涙ぐみ、終始無言だった。追われる身でありながら、部屋に普通の暮らしの匂いがあったことが意外だった。湯たんぽがバウンドしたことも意外だった。普通のようで普通でない。それが逃亡生活というものなのだろうか。追跡者にはわからぬ世界だった。
追跡と逃亡の劇を成り立たせているのは、知恵とか判断力とか運の良さとかでは無いかも知れない。それは、物。ちょっとした生活の小物だったりする。存在自体が気にならない物が、劇を意外な展開に導く。帰りのクルマの中で、追跡者たちはしみじみとそう感じた。「敵の能力よりも、その周辺に無造作に置かれている『物』に気をつけろ。」やっと口を開いたボスが、自戒の念を込めて男達にそう命じた。
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2016/11/07
軽自動車の夏タイヤをスタッドレスタイヤに交換
晩秋の風物詩、平和公園ケヤキ広場の落葉掃除
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平和公園ケヤキ広場の落葉掃除が始まった。平和公園東側入口よりケヤキ広場を眺める。
|
業者の方が、各所に落葉を集めて、写真のような山を作っている。
この時期の、おなじみの風景である。
広場のケヤキは、紅葉がほとんど終盤。
終盤ながらも、紅葉するケヤキと黄葉するケヤキが混じっていて、彩りがきれいだ。
泣きっ面にハチ
「ねえ、ママ、向かいのお店、閉めちゃったみたいよ!」
「向かいの店って、スナック薔薇のこと?」
「そー、なんでもねチィママが一ヵ月分の売り上げ持ち逃げしちゃったんだってさー。」
「それは願ったり叶ったりね。ここんところ、お向かいさんにお客取られっぱなしだったから。下手すると、こっちがつぶれるところだったのよ、ヨーコちゃん。」
「あのママねえ、借金まみれってうわさじゃない。借金返せなくて自己破産しちゃうらしいわよー。」
「まあ、薔薇のママ、踏んだり蹴ったりじゃないの。」
「それがねえママ、そうでもないのよ。あそこの常連客に、お医者さんがいたんだって。」
「そうそう、あのママ、けっこういい客をつかんでたみたいね。」
「そのお医者さんと、結婚したみたいよ。もう玉の輿ね。そんでもって、借金も彼氏が肩代わりしてくれるんですって。」
「それは、至れり尽くせりね、大喜びしてるでしょうね、あのママ。」
「そう、ピンチをチャンスにしてしまったわけよ。うらやましいわねぇ。」
「ヨーコちゃん、あんたもまだ若いんだから、少しはがんばんなさいよ。」
「そういうママだって、背が高くてハンサムな彼氏がいるじゃない。わたし、いい男には縁もゆかりもないのよ。」
「あんなの見かけ倒しよ。定職につかない怠け者で、おまけにギャンブル狂い。もうひとつおまけに嘘つきなのよ。平気で嘘八百並べるんだから、もう弱り目に祟り目よ。」
「へえー、いい男って、諸刃の剣ね。」
「そうよ、ヨーコちゃんも見かけだけで判断しちゃだめよ。パッとしないけど、世の中、可も無く不可も無くって男が一番いいのよ。」
「それはそうとねえ、薔薇のママは、押しも押されもしない院長婦人になっちゃったわけだけど、その院長先生が医者の不養生で寝たり起きたりの生活らしいのよ。」
「それじゃ、病院の経営も大変なんじゃない。」
「もう、尻に火がついてるってうわさよねえ。」
「まあ、薔薇のママも、元も子もないわね。せっかく伸るか反るかの大博打を打ったのに。」
「あらママったら、そんな言い方したら身も蓋もないでしょう。」
「これも自業自得だからね。あのママは浪費癖があってね、それで借金がふくれあがったのよ。」
「そういう話よねえ。」
「店をやってた頃もね、女の子への払いも滞りがちだったっていうじゃない。だから女の子も入れ代わり立ち代わりだったみたいね。」
「あら、ママもよくご存知ね。」
「蛇の道は蛇よ。」
「じゃわたしは、蛙の子は蛙。」
「あら、じゃヨーコちゃんとわたしは持ちつ持たれつね。」
「そう、ママのこと杖とも柱とも思っているわ。」
「まあ、わたしはこの商売から引くに引けないわねえ」
「ところで最新情報だけどねえ、その薔薇のママ、カムバックするみたいよ。」
「ええ、それって、元の木阿弥ってこと。ヨーコちゃん、それを早く言ってよね。あのママは煮ても焼いても食えないんだから。もう油断大敵。」
「薔薇のママにも、止むに止まれぬ事情があるみたいでさー。」
「せっかく喜んでいたのに、これじゃまたうちも閑古鳥が鳴くのね。」
「これでこの店がつぶれたら、恥ずかしくて泣きっ面に恥じね。」
「ヨーコちゃん、それを言うなら泣きっ面にハチでしょ。」
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「向かいの店って、スナック薔薇のこと?」
「そー、なんでもねチィママが一ヵ月分の売り上げ持ち逃げしちゃったんだってさー。」
「それは願ったり叶ったりね。ここんところ、お向かいさんにお客取られっぱなしだったから。下手すると、こっちがつぶれるところだったのよ、ヨーコちゃん。」
「あのママねえ、借金まみれってうわさじゃない。借金返せなくて自己破産しちゃうらしいわよー。」
「まあ、薔薇のママ、踏んだり蹴ったりじゃないの。」
「それがねえママ、そうでもないのよ。あそこの常連客に、お医者さんがいたんだって。」
「そうそう、あのママ、けっこういい客をつかんでたみたいね。」
「そのお医者さんと、結婚したみたいよ。もう玉の輿ね。そんでもって、借金も彼氏が肩代わりしてくれるんですって。」
「それは、至れり尽くせりね、大喜びしてるでしょうね、あのママ。」
「そう、ピンチをチャンスにしてしまったわけよ。うらやましいわねぇ。」
「ヨーコちゃん、あんたもまだ若いんだから、少しはがんばんなさいよ。」
「そういうママだって、背が高くてハンサムな彼氏がいるじゃない。わたし、いい男には縁もゆかりもないのよ。」
「あんなの見かけ倒しよ。定職につかない怠け者で、おまけにギャンブル狂い。もうひとつおまけに嘘つきなのよ。平気で嘘八百並べるんだから、もう弱り目に祟り目よ。」
「へえー、いい男って、諸刃の剣ね。」
「そうよ、ヨーコちゃんも見かけだけで判断しちゃだめよ。パッとしないけど、世の中、可も無く不可も無くって男が一番いいのよ。」
「それはそうとねえ、薔薇のママは、押しも押されもしない院長婦人になっちゃったわけだけど、その院長先生が医者の不養生で寝たり起きたりの生活らしいのよ。」
「それじゃ、病院の経営も大変なんじゃない。」
「もう、尻に火がついてるってうわさよねえ。」
「まあ、薔薇のママも、元も子もないわね。せっかく伸るか反るかの大博打を打ったのに。」
「あらママったら、そんな言い方したら身も蓋もないでしょう。」
「これも自業自得だからね。あのママは浪費癖があってね、それで借金がふくれあがったのよ。」
「そういう話よねえ。」
「店をやってた頃もね、女の子への払いも滞りがちだったっていうじゃない。だから女の子も入れ代わり立ち代わりだったみたいね。」
「あら、ママもよくご存知ね。」
「蛇の道は蛇よ。」
「じゃわたしは、蛙の子は蛙。」
「あら、じゃヨーコちゃんとわたしは持ちつ持たれつね。」
「そう、ママのこと杖とも柱とも思っているわ。」
「まあ、わたしはこの商売から引くに引けないわねえ」
「ところで最新情報だけどねえ、その薔薇のママ、カムバックするみたいよ。」
「ええ、それって、元の木阿弥ってこと。ヨーコちゃん、それを早く言ってよね。あのママは煮ても焼いても食えないんだから。もう油断大敵。」
「薔薇のママにも、止むに止まれぬ事情があるみたいでさー。」
「せっかく喜んでいたのに、これじゃまたうちも閑古鳥が鳴くのね。」
「これでこの店がつぶれたら、恥ずかしくて泣きっ面に恥じね。」
「ヨーコちゃん、それを言うなら泣きっ面にハチでしょ。」
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2016/11/05
省略と強調「踏んだり蹴ったり」
例文
「きのうね、私ね、駅で転んじゃって。そのとき眼鏡も壊しちゃって。もう、『踏んだり蹴ったり』だったのよ!」とか。「先週は、空き巣に入られるわ、愛車は後から追突されるわ、ほんと『踏んだり蹴ったり』だったね。」とか。
「風邪をひいて頭痛が酷いわ、虫歯が痛いわで『踏んだり蹴ったり』さ。」とか。
「踏んだり蹴ったり」という言い回しが使われる例としての、ありそうな話はいくらでも出る。
それほど「踏んだり蹴ったり」はお馴染みの言い回しなのだが、この慣用句に違和感を覚える方も少なからずいらっしゃるという。
その違和感とは、「当人が被害を受けたんだから『踏まれたり蹴られたり』って言い方の方が合っているんじゃない?」ということ。
意味と、その使い方
ところで、「踏んだり蹴ったり」って、どういう意味なのだろう?それは、災難や不運が続いて散々な目にあう(あわされる)ことの例え。
踏まれたり蹴られたりするほどの酷い目にあったということ。
では、なぜ「踏まれたり蹴られたり」と言わずに「踏んだり蹴ったり」と言ってしまうのだろう?
たとえばAという男が「Bのやつ、生意気言うんで踏んだり蹴ったりな目にあわせてやったよ。」と言う。
この台詞自体には違和感を覚えないが、あまりこういう言い方はしない。
逆にBのほうが、「Aのやつに、事あるごとに因縁つけられて、ほんと俺は、踏まれたり蹴られたりだったよ。」と言うと、これも脈絡としてはおかしくないが、どことなく一般的な言い方では無い。
Bが、「Aのやつに、事あるごとに因縁つけられて、ほんと踏んだり蹴ったりだよ。」と言うと、この言い分はごく自然に耳に入ってくる。
受動と能動
酷い目にあうということは受動的なことである。つまり、他からひどい仕打ちを受けたということ。
ところが「踏んだり蹴ったり」は能動的な行為。
つまり、自分が相手を踏んだり蹴ったりしたということ。
自分は、他から踏まれたり蹴られたりしているのに、どうして自分が他を踏んだり蹴ったりしているような言い方をしてしまうのか。
ネットで調べると、様々な理由・根拠が述べられている。
どれもこれも、それとなく肯けるが、なるほどそうなのかと思うほどのものはない。
省略と強調
で、それとなく私の考えを言うならば、以下の通り。「踏んだり蹴ったり」とは、「踏んだり蹴ったりされたような目にあった」という表現が、省略されてそうなったのではと考えている。
省略された表現は、表現したい内容を引き締めて強調させるのに効果的である。
「踏んだり蹴ったり」という語を、文字通りの行為としてのみ着目するから、受動態だ能動態だという話になる。
「踏んだり蹴ったり」は、その行為よりも、なんらかの行為によって引き起こされた散々な状態を強調している言い回しなのである。
一方「踏まれたり蹴られたり」だって、被った状態を表す言葉じゃないかという意見も成り立つ。
しかしそれでは実際の動作としての「踏まれたり蹴られたり」という狭い意味が表に出過ぎている。
「踏んだり蹴ったり」は酷い状況におちいったことを表す比喩として使われる。
しかも、被った被害状態を強調したいときに使う言い回しである。
言葉に勢いがあって、印象も強烈。
慣用句は、威力や迫力がある表現でなければならない。
ということで、結果的に「踏んだり蹴ったり」が、散々な目にあったという言い回しとして一般的になったのではないだろうか。
ただくどくどと訳も無く「踏んだり蹴ったり」について考えたというだけの話なのだが。
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2016/11/03
トムクルーズ
老人がリードを引っ張って、犬と一緒に自動車道路を横切ろうとしている。白い大きな犬は首を引っ張られながらも、前足を突っ張って、老人のする通りにはならない。首を振り振り、嫌々をして進もうとしない。杖をつきながら、散歩をしていた通りすがりの老人がそれを見て「あっちへ行かないって言ってるんじゃないの。」と注意口調。リードを引く手を緩めながら、「そんなことは、わかってるさ。」と犬連れの老人が言い返す。「雨が降りそうだから、引き返さなくっちゃいけないんだよ。」「黒い雲がきて、もうすぐ土砂降りになるってことぐらい、空を見たらわかるだろう。」
杖の老人は、そんなことにはお構い無し。「立派な犬だねえ、なんという犬ですか?ゴールなんとかっていう犬ですか?」と犬を見回している。「トムクルーズって言うんだよ。」犬連れの老人がイライラぎみで答える。「へえ、トムクルーズかね、あまり聞かない犬だねえ。」「でも、そんなに引っ張っちゃ、犬がかわいそうですよ。」老人は、杖で歩道のブロックをトントンしながら、またもや注意口調。
杖の老人は、そんなことにはお構い無し。「立派な犬だねえ、なんという犬ですか?ゴールなんとかっていう犬ですか?」と犬を見回している。「トムクルーズって言うんだよ。」犬連れの老人がイライラぎみで答える。「へえ、トムクルーズかね、あまり聞かない犬だねえ。」「でも、そんなに引っ張っちゃ、犬がかわいそうですよ。」老人は、杖で歩道のブロックをトントンしながら、またもや注意口調。
「雨が降るってときに、どうしようとオレの勝手だろう!オレの犬なんだから。」またリードを引きながら老人が、今度は強い調子で怒鳴った。「おお、こわい。」と杖の老人が後ずさり。犬連れの老人は空を見上げたり、犬を睨めたり。イライラはつのるばかり。車道へ出て、「トム!」と叫んで、腕に満身の力をこめて犬の首を引く。犬はよろよろと四歩ほど進んで、車道にパタリと倒れ込んだ。今度は横になったまま動こうとしない。「おっ、転んだ、怪我でもしたんじゃないかい。」杖の老人が車道に下りて近づく。「うるさい!トムにかまうんじゃない!」老人が怒鳴る。通行中のクルマが止まる。トムは知らん顔で、尖った鼻筋をつんとさせて、横目で空を見ている。
そこへ雷鳴。通行止めになったクルマが数台。そのうちの最後尾のクルマがクラクションを鳴らす。杖の老人は腰を曲げてオロオロ。「立て!トム、立つんだよトムクルーズ!」リードで車道を叩きながら老人は半狂乱。そこへ、バラバラと音をたてて土砂降りの雨。轟く雷鳴。クルマは渋滞。10数台並んだクルマのクラクション。走り出して、帰宅を急ぐ中学生。杖で頭を覆うようにしてヨロヨロと去っていく老人。対向車線のクルマの飛沫が老人とトムにかかる。あたりは夜のように暗くなり、クルマのライトに、ずぶ濡れになった老人と犬の姿が浮かび上がる。老人は無理やり車道を横切ろうとする。トムクルーズはズルズルと引きずられながら、ひっくり返った亀みたいに手足をパタパタ。
と、対向車線の向こうの駐車場で、クルマの下から野良猫の黒い影が飛び出す。それを目ざとく見つけたトムクルーズが、ガバッと飛び起きて、老人の手を振り切り、野良猫を追いかける。胸を張った独特の走りっぷり。ハンドルを切り損ねた対向車線のクルマが渋滞のクルマの列に突っ込む。後続車がそれに追突。回転するクルマ。宙返りするクルマ。火を噴くクルマ。その間隙をぬって、トムクルーズが黒い影を追いかける。すばらしい猛ダッシュ。胸を張った独特の走りっぷりで。老人は、騒然とした路上で、ずぶ濡れのまま立ち尽くす。「トムクルーズ!戻ってこい!」と老人が叫ぶ。「てめえがどけよ!」とクルマの運ちゃんが叫ぶ。車道からは大量の雨水が側溝へと吸い込まれ。救急車の音、パトカーのサイレン。さながらニューヨーク。老人は、よろけるように歩道へ上る。老人が辺りを見回しても、もうトムクルーズの姿は、どこにも見えない。
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