2017/12/31

「問わず語り」という慣用表現について

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」
なんてのは、よく目にする文章である。

今まで何度もこんな文章を目にして、私は何の抵抗もなく読み流していた。
それがあるとき、この文章はちょっと変ではないかと思うようになった。
そう思いはじめると、私のなかでこの文章は、変以外のなにものでもないものになってしまっていた。


この文章の、どこが「変」かというと・・・。
まあ文章なんてどこかに「変」が潜んでいて、それが面白かったり、それが騙しだったりするもの。
と、トーシロながら思っているのだが。

そもそも文章を書くということは、何かを仕掛けることなので、読む人が「変」と思えば「変」。
「変」じゃないと思えば、「変」じゃない。
「変」とか「変」じゃないとかよりも、その仕掛けを解き明かすこと。
それが、文章を読む楽しさだと、トーシロながら思っている。

それはそうなのだが、一旦湧き上がった「変」という思いは捨てきれない。
ということで、この文章のどこが「変」かと言うと、「問わず語り」という言葉が「変」。

この「問わず語り」という言い回し。
誰が誰に対して問わないのか。
誰が誰に対して語るのか。
私には、どーもこのあたりがピンとこないのである。

というのは、「問わず」と「語り」の連続した動作の主は、同一人物でなければならないという漠然とした思いが、私にはあるからである。

たとえば、「やらずぼったくり」という慣用表現がある。
この「やらず」と「ぼったくり」の連続した動作の主は同一人物である。
そんな感じで「問わず語り」も同一人物の動作であると思っているのだ。

「問わず語り」や「やらずぼったくり」は「動詞+動詞」。
いわゆる「複合動詞」である。
そうであれば動作の主は同一でなければならない。

問わないのは「彼女」、語るのも「彼女」

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」
上記例文の登場人物は、「彼女」と「僕」。
この「問わず語り」における「彼女」と「僕」の関係はどうなのだろう。
いったい、「問わず」と「語り」の連続した動作の主は、どちらなのか。

それを「彼女」であると想定すると。
「彼女」が「僕」に何も問わずに、「彼女」が「僕」に何かを語り始めたということになる。

つまり「彼女」は、長い沈黙があったにもかかわらず、「僕」に対して何かしゃべってもいいですかと問うこともなく、勝手に何かを語りだした。
こういう「彼女」の、驚くほどの身勝手さが、「僕」を身震いさせた。

問わないのは「僕」、語るのは「彼女」

「変」では無いが、どこか「変」。
というのは、これは一般的ではないからだ。
良識ある世間は、そうではない。

一般に慣用表現には、世間に認められた意味がある。
長い年月を経て、人々が使い慣らしてきた意味があるから慣用表現なのである。

「問わず語り」には、相手に問われもしないのに自分から語り出すこと、という公に認められた意味がある。
上記例文でいうと「問わず語り」は、「僕」に問われもしないのに「彼女」が自分から語り出したということになる。
問わないのは、「問わず語り」を語る「彼女」ではない。
「僕」が「彼女」に何も問わずにいるのだ。

「問わず語り」は、この例文では「僕がそのことについて何も問わずにいるのに、彼女は自分からそのことについて語りだした」を省略した言い方とも思える。

行為か事柄か

ひょっとしたら「問わず語り」は、「問わず語り」という行為よりも「問わず語り」が暗に示している事柄にスポットライトを当てるための慣用表現なのかもしれない。

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」

「僕」は「彼女」に対して、ある事についてなかなか訊き出せないでいた。
それを訊くことが、「彼女」を傷つけることになるのではないかという心配が「僕」にあったからである。
そのため、長い沈黙が続いた。

その沈黙を破るように、「彼女」は「問わず語り」に、そのことについて話はじめた。
その話の内容は、「僕」の想像をはるかに越えるほど凄いものだったので、「僕」は驚きのあまり自身の身震いを隠すことができなかった。

というような事柄を上記例文から思い浮かべることができる。
これは「問わず語り」という慣用表現の持っている独特のイメージ力が、そういう事柄を思い浮かべるのに効力を発揮するからだろう。

問われず語り

本当は「問わず語り」ではなくて、「問われず語り」と言うべきかもしれない。
そうすれば、「問わず語り」にまつわる「変」な印象を拭い去ることができるのではないだろうか。
しかしどうして「問われず語り」と言わずに、「問わず語り」と言うのだろう。

「問われず語り」だったら、語呂的にまどろっこしいからか。
「問われず語り」だったら、いかにも間が抜けているふうにも感じられる。
「問われず語り」だったら、どことなく言い訳っぽい。

「問わず語り」とは、語りの聞き手である「僕」の印象を、この例文の作者が書いているである。
語り手である「彼女」は、これから「問わず語り」を行うぞという決意で話し始めるわけではない。
無意識のうちに語りだした結果、それが「問わず語り」になったということだ。
これが「問われず語り」だったら、「彼女」が問われないことに対して意識しつつ語り出したということになりはしないだろうか。

「問わず語り」は。こんな意図的でわざとらしいものであってはならない。
なぜなら、話し方を「問わず語り」だと決めるのは、語りの聞き手でなければならないと思っているからだ。

「問わず語り」という慣用表現には、その場の行きがかり上、気がついたら自分から話し始めていたというニュアンスがある。
まるで魔法にでもかけられたように、訊かれもしない身の上話を、物語を語るように話してしまう。
「問わず語り」は、そういう傾向を含んでいる。

動作の主は、やはり同一人物

話は戻るが、問わないのも語るのも「彼女」と想定すると、もうひとつ別の解釈がある。

「問わず」とは、尋ねないということではなく。
「相手が、話を聞ける状態かどうかを問題にすることもなく」という意味にもとれる。
「問わず」には、「相手を考慮しない」という微妙な意味合いが含まれているのではないだろうか。
「問わず」は、いわゆる「空気が読めない系な人(KYな人)」の行為。
そういうふうに考えれば「問わず語り」とは、結局「自分語り」ってことになる。

周りが見えていない人。
人の話を聞かない人。
気が利かない人。
自尊心が強い人。
こんな人が、聞くに耐えない「自分語り」を長々と実行する。

しかしこれでは、「問わず語り」のセンチメンタルな面が、突如として消えてしまう。
一般に「問わず語り」には、心中を明かすという切実なニュアンスがある。
「自分語り」では、そういうデリケートな面が無くなってしまう。
これでは「問わず語り」は表現として色を失ってしまう。

とはずがたり

と、ここまで空想の世界をさまよっていたら、古典の「とはずがたり」が頭に思い浮かんだ。
これは「とはずがたり」という告白形式で書かれた日記風読み物で、作者は後深草院二条という鎌倉時代中期の女性とされている。

現代人が使う「問わず語り」は、案外、この古典に端を発しているのではなかろうか。
この「日記文」の題名となっている「とはずがたり」は、「問わず」と「語り」の「動詞+動詞」の「複合動詞」では無い。
これらの動詞がつながって、名詞化されて出来たものなのではないだろうか。
「問わず語り」は「とはずがたり」という名詞なのである。

「複合動詞」では無いから、誰が誰に対して問わないのか、誰が誰に対して語るのかなんてことは、あまり関係がない。
鎌倉時代の王朝文芸の作者が「問わず語り」調で書いた物語の題名が、そのまま現代の慣用表現として使われているのではなかろうか。
「とはずがたり」が長い時代を生き延びて、現代の慣用表現としての「問わず語り」に乗移っている。

「問わず語り」とは、過去の物語を踏まえた表現なのだろう。
言葉は時代を超えて生きながらえる生き物。
現代を基準にして言葉を考えるから、ちょっと「変」という感想が生まれる。
日本の古典に触れることで、言葉の生き生きとした姿を見ることができるのかもしれない。
そう思った「問わず語り」巡りであった。

2017/12/26

はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに

古くから、能を郷土芸能としている地域は、日本全国に割と多い。
青森県の東通村に伝わる郷土芸能。
能舞は、国の重要無形民族文化財に指定されている。
そんな立派な能もあれば、その地域だけでひっそりと行われる里神楽もある。
小さな村の、田舎芝居。
神楽のような能のような。

田舎芝居と一口に言っても、色々ある。
文字通り田舎で、お祭りの時に催される素人芝居。
都会の役者が演じるものでも、見ていられないほど下手くそな芝居。
それも田舎芝居。

舞台と言えるほどの施設もない。
そんな山間の村で、夏祭りの出し物として演じられる能舞。
演じる人が下手でも、「田舎芝居!」とやじる者はいない。

一般に能舞で使われる能面は、彫り込まれた立体的なものがほとんど。
この山村では、ただの平板に目の穴を開け、口の穴を開け。
塗料で眉や鼻や頬を描いたものを使っている。
村の老人たちは、このお面を「板面(いたづら)」と呼んでいた。
「いたづら」という呼び方には、それはそれで、それなりの古風な趣が感じられる。

この「板面」はリバーシブルになっている。
表が翁なら裏が鬼神だったり。
貧しい山村の倹約精神が、そうさせているのである。
はて、翁と鬼神が同時に出る場面では、どうすることやら。

そんな「素人の心配」をよそに、今年も村の青年会で夏祭りの準備が進められている。
青年会と言っても、かなりの高齢者で占められているのだが。

やはり祭りのメインは能舞。
翁の役をやるのは、村はずれに一人住まいしている老人。
翁であるからこの老人に面など不要と思われる。
しかし、素顔が怒りっぽい顔つきなので、やはり柔和な翁の板面が必要である。

開催日が間近に迫って、今夜も独りで熱心に舞を練習している老人。
ふと気がつくと、板面の裏面の塗料が汗で溶け出したのか、老人の鼻に色が移っている。
板面の染料が鼻の頭との摩擦で、鼻に色移りしたものと思われる。
翁の裏は、恐ろしげな鬼神。
鬼神を描いたサイケデリックな原色が、老人の鼻に。

癇癪持ちの老人は、板面を脱ぎ捨てて床に投げつけた。
それでも気がおさまらずに、足で板面を蹴ったりした。
だが、すぐに正気にかえった。
「蹴りな!そんなに蹴りーな!」と声を出して、怒りを制した。

大事なお面である。
村人の共有財産である。
そう思うと、老人の心に自制の念がよみがえった。
「蹴りな!そんなに蹴りーな!」

鼻の色は移りに蹴りな板面(いたづら)に。
鼻にお面の裏の色が移ったとしても、怒って板面にあたって蹴ったりしてはいけない。
老人は気を取り直したが、興奮したせいでひどく疲れた。

今夜はこれで終いにしよう。
自宅に向かって、山道をトボトボ歩いていると、何やら白いものが降ってきた。
「はて、冬でもないのに。」

老人は、その白いものを手で受けてじっと見た。
見てびっくり。
これは、我が頭の白髪ではないか。
それが夜の闇を縫うように、降り落ちる。

我髪夜に降る、とは。
さては、鬼神の板面の祟ではなかろうか。

白髪は、最初短めのものが降っていたが、それがだんだん長めのものに変わってきた。
その長さは、まるで鬼神の髪の毛のようである。
鬼神の長めの髪は、背の方で縞になって垂れている。
長め背縞に。

その髪の縞を、背で揺らしながら舞うのが鬼神の演技の見せ所なのだが。
今は、そんなことはどうでもよかった。
ただただ怖かった。
老人は、恐ろしさのあまり、知らずに駆け出していた。

山道を鬼神のごとく駆け上がる翁。
山の柏の葉が風にざわめく。
老人の首の後に、ピタリと冷たい手が。
「ひえーっ、ひえーっ。」
それは、夜露に濡れた柏の葉だったのだが・・・。

「ああ、おそろしや。」
長めの髪で背が縞になっている鬼神の姿が、老人の頭から離れない。
我髪夜に降る、鬼神の長めの髪で背が縞に。
鼻の色は移りに蹴りな板面に我髪夜に降る長め背縞に。

「ひえーっ、ひえーっ。」
老人の叫び声が、谷にこだまする。

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2017/12/23

おくやまにもみぢふみわけなくしかのこゑきくときぞあきはかなしき

秋は物悲しい季節である。
葉を落として、黒く尖った木々の枝先が、曇天を刺すように連なる。
暗い雲の下を鳴きながら飛んでいく夕暮れの雁。
そんな晩秋の景色に触れると、いっそう物悲しい気分になってくる。

秋子は、自身の名前に季節の秋の字が用いられているせいか、秋に対する思い入れが人一倍強い。
秋は、冬が間近な季節。
過ぎていく秋を、物悲しく思う気持ちが募ると、人恋しい気持ちも募ってくる。
人恋しい気持ちには、しみじみとした哀愁が伴う。

秋子は食品開発課の上司である奥山課長を密かに慕っていた。
課内での飲み会の席で、思いのほか酔いがまわっていた秋子は、奥山課長にビールを注ぎながら「お慕い申しております・・・」と言った。
そんな秋子の古風な言い方を戯言のように聞き流しながらも、奥山は好感を持った。
短歌をたしなむ奥山は、古風な趣を日本人の知的共有財産だと思っていた。

マイペースな今の若い女子社員は、上司にお酌などめったにしない。
奥山は、秋子の仕草に雅な情緒を感じて、その雰囲気を楽しんでいた。
「この子は私の趣味を感じとるアンテナを持っている。」
などと、秋子を評価した。

そんな二人の様子をじっと見ている男子社員がいた。
奥山課長と同期入社の鹿野係長だった。
鹿野は入社当時から業績が芳しくなく、今では同期の奥山の後塵を拝することとなった。
奥山の有能さを認めている鹿野は、先を越されたことを恨んではいなかった。

その鹿野は、理知的な雰囲気を漂わせている秋子に好意を寄せていた。
そして、秋子が奥山を好いていることをうすうす感じてもいた。

食品開発課は、奥山課長をリーダーとして新商品の開発に取り組んでいる。
奥山は自らが提案した「もみじ麩」の商品化に熱心だった。
「もみじ麩」は、すでに他社で商品化されていたが、奥山が考えているものは、日本ならではの美しい細工食品としての「もみじ麩」であった。
日本人が古来より抱いている美意識を、現代の商品に反映させよう。
それが、奥山が抱いているテーマであった。

その「もみじ麩」の着色の見分けを、奥山は鹿野に頼んだ。
色彩感覚に自信が無い鹿野は、秋子に仕事を手伝ってもらおうと思った。
一石二鳥。

「奥山にもみじ麩見分け・・・・」と鹿野は秋子に話しかけた。
話の末尾が聞き取りにくい鹿野の話し方に、秋子は苛立ちを覚えていた。
その口調が泣きながら言っているような感じなので、秋子はいつもの「泣く鹿野」が始まったと思った。

秋子は、鹿野の態度を男らしくないと思いながらも、係長である鹿野の申し出を断る訳にもいかない。
それで秋子は、「もみじ麩」の着色の見分けに協力することにした。
あいかわらず優柔不断で決断力に乏しい鹿野は、なかなか自分の意見を言わない。
泣くような声で、秋子の判断ばかりを求める。

奥山課長は、麩という日本の伝統的な食品に、「もののあはれ」的な色合いを添えようとしているのだ。
奥山課長がイメージしている「もののあはれ」的な色合いを、秋子はよく理解していた。
麩という食品は、精進料理や懐石料理に採用されながらも、やがて庶民の食卓にあがるようになった。
「もののあはれ」も、古の王朝文芸の感覚から離れて、庶民的な色合いを発するようになった。
そんな色合いの「もみじ麩」を課長は希望しているのだ。

鹿野係長は、そんなことには無頓着。
私に泣くようにせがむばかりで、自身では結論を出そうとしない。
奥山課長に、「もみじ麩」の見分けを頼まれて泣く鹿野の哀れさ。
それよりも、こういう男が部下では奥山課長が可哀想だ。

奥山課長の苦労が痛いほどわかった。
心が哀愁に震えて、秋子はしみじみとした気持ちになった。
奥山課長が哀れであった。
鹿野係長の無能さが悲しかった。

奥山に「もみじ麩」見分け泣く鹿野声聞く時ぞ秋は悲しき。

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2017/12/22

布さらすうすや川辺冬木立

布さらすうすや川辺(かわべの)冬木立
野沢凡兆

最初この句を読んだ時「うすや」の「うす」は「失す」だと思った。
「うすや」の「や」は詠嘆の間投助詞「や」。
「や」は、句の切れ字でもある。
それで、この句から感じたイメージは以下の通りであった。

季節は冬。
川に晒された布が、川べりの物干しに下げられている。
川の水で晒したあとは、天日に晒すために布を広げているのだ。
川から上がった布が、次々と干されていく。

幾枚も、幾枚も。
干されるたびに、いままで見えていた川辺の風景が消えていく。
川辺の木立が視界から消える。
真っ白な布の幕が冬の陽光に輝いている。

ああ、川辺の木立が白く消えていくなあ。
と凡兆はため息をつく。
人の生活と自然との境目が白い布のようで面白い。
そう、凡兆は感じたのか。
そんな冬の情景を句に詠んだ。

江戸時代では、綿や麻の布を純白にするために、川に布を晒した。
さらにそれを天日に晒して漂泊したという。
掲句は、凡兆がその作業を眺めながら詠んだものと、私は思っていた。

ところで最近、「野洲川(やすがわ)や身は安からぬさらしうす」という句を見つけた。
この句は、松尾芭蕉の「存疑句」と言われているもの。
そのせいかこの句は、「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」には載っていない。

滋賀県野洲市に「 百足山(むかでざん)十輪院」という寺院がある。
その境内に「野洲川や・・・」の句を刻んだ「芭蕉句碑」があるという。
ただこの句の出典が不明であるため、この句が芭蕉作であるかどうかの真偽は不明となっている。

この句で私が気になったのは「野洲川」「さらしうす」という言葉。
野洲川(やすがわ)は滋賀県最大の川で、琵琶湖に注いでいる。
野洲川は「野洲晒(やすさらし)」で知られている川である。
「野洲晒」とは、野洲地方の産物の晒し麻布。
この麻布を、野洲川の水に晒す工程があるとのこと。

京都で和装繊維製品総合卸売業を営んでいる「株式会社市原亀之助商店」のホームページに、「野洲晒」についての説明がある。
それによると「野洲晒」は、「晒粉に浸し>水洗>布炊き>布天日干し>灰汁うち>杵で布搗(ぬのつち)>糊付け」という工程を経るという。

この工程の「杵で布搗(ぬのつち)」とは、臼のなかに布を入れて杵で打つこと。
とすれば、 「野洲川や身は安からぬさらしうす」「うす」とは「臼」のことと思われる。


【布晒し作業のイラスト。「日本山海名物図会(平瀬徹斎 撰、長谷川光信 画)」国立国会図書館デジタルコレクションサイトより。


上の図は、国立国会図書館デジタルコレクション>日本山海名物図会 5巻>[4]にあるインターネット公開許可のある画像。
画像右側の説明書きの部分を、私が拡大したものが下にある縦長の画像である。
このページのタイトルが「奈良晒(ならさらし)」となっているのを読むことができる。


奈良晒の説明書き。「日本山海名物図会(平瀬徹斎 撰、長谷川光信 画)」国立国会図書館デジタルコレクションサイトより。


「奈良晒」をインターネットで検索していたら、小学館の「日本大百科全書(ニッポニカ」の記事に辿り着いた。
その記事を簡略にまとめると下記のようになる。
  1. 農家の副業として行われた。
  2. 生産工程は、農閑期に手績(う)みにより糸を作る。
  3. 織り上げたのち、灰汁(あく)に浸(つ)けて不純物を除く。
  4. 臼(うす)で搗(つ)いて柔軟にする。
  5. 河原や野原で晒す。
これを読むと「野洲晒」と「奈良晒」の工程に、共通している部分があることが分かる。

「臼(うす)で搗(つ)いて」という共通部分は、布晒しの工程で「臼」を使うことを示している。
「野洲晒」でも、下の画像の「奈良晒」のイラストにあるような「臼」を使っていたに違いない。
これで、「野洲川や身は安からぬさらしうす」「うす」は「臼」であることが分かった。


布晒しの臼のイラスト。「日本山海名物図会(平瀬徹斎 撰、長谷川光信 画)」国立国会図書館デジタルコレクションサイトより。


と、ここまで長々と書いたのは「野洲川や身は安からぬさらしうす」と「布さらすうすや川辺冬木立」との共通点を探るためであった。

このふたつの句に共通する言葉は、「川」と「さらし(す)」と「うす」である。
そしてふたつの句が、布を漂泊する「晒し」という仕事を取り上げている。

となれば、凡兆の「布さらすうすや川辺冬木立」の「うす」は「失す」ではなくて「臼」であると言えるのではあるまいか。

凡兆は、「布晒し」の産地の川辺りを歩いていた。
そして、木立の間に置かれた布を晒す「臼」を目にしたのだろう。
人のいない川辺りにポツンと置かれた「臼」の存在感が凡兆にとって印象的だった。
これが、寒い冬に布を晒す道具の「臼」なのだと心を動かされる。

物を描くことで、「もの」の存在感を表現しようとする凡兆。
凡兆は、この川辺りの冬木立のなかで行われる「布晒し」の作業を思い浮かべた。
農閑期の農民たちが、寒空の下で「晒し」を生産する。

「布さらすうす」という生活(仕事)の道具と、「川辺冬木立」という冬の自然。
それらを、切れ字「や」で結びつけた凡兆。
「や」には、強い詠嘆が込められている

自然のなかに置かれた臼を描くことで、布を晒す農民の存在感を強く表現しようとしたのではあるまいか。
掲句は、そういう凡兆の感情が伝わってくるような叙景句であると私は感じている。


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2017/12/17

あまのはらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも

冬になると、大根の煮物が食べたくなる。
寒さが増すたびに、大根の煮物を食べたいという気持ちが募る。

そうなると、度々訪れる天野原食堂。
ここの大根と豚バラの煮物は最高に美味しい。
豚バラの旨味が程よく染み込んだ飴色の大根。
口の中で、ジュワ~と広がる幸せの味。
もう絶品だと私は思っている。

天野原食堂は、天野という名字のご夫婦が経営している食堂。
奥さんの旧姓が原だったので、ふたり合わせて天野原食堂という屋号になったのだとか。

駅を出て、駅前の通りをしばらく歩くと、右手に飲食店街の長い横丁が見えてくる。
その横丁に入り、店の看板に照らされた細い道をしばらく歩く。
すると、前方のはるか奥に、天野原食堂の赤い提灯が小さく見える。
横丁の途中には広い畑が海のように横たわっており、海のなかの小道を渡って続きの横丁へと辿り着く。

その続きの横丁の最奥で、天野原食堂の赤い提灯が灯っているのだ。
今の時期は、畑のなかの作物がすっかり取り払われて、暗がりの中、露出した土塊が波のようにうねって見える。

横丁の入口から、はるか遠くにある天野原食堂の赤い提灯を望み見るときの、思いもかけない気分は何だろうか。
ちょっとしたときめきを抱きながら、天野原食堂をふりさけ見る。
天野原ふりさけ見れば・・・・。
この気分は、大根と豚バラの煮物によるものではない。

天野原食堂の美味しい大根の煮物のことを、ある女性に教えたことがあった。
その女性に再会できるかもしれないという、期待のような憧憬のような。
もしかしたら、郷愁に似た気持ちかもしれない。

その女性とは三笠という和食処で出会った。
三笠は、ここからそれほど遠くない春日町の丘の上にある和食処である。
丘と言っても、駅前の通りからは、ちょっとした山のように見える。
商店の灯で明るい駅前通りからは、和食処三笠のある一帯は、黒い塊の山のようであった。
黒い山の中に、和食処三笠の乳白色の明かりがポツンと灯っている。
春日なる三笠の山に・・・・、明かりが灯っている。

私も彼女も独りで和食処三笠に食事に来ていた。
あるとき、カウンターに隣り合わせになったことがあった。
いろいろと食べ物の話に花が咲いて、彼女が大根の煮物が好物だと言ったので、天野原食堂の大根と豚バラの煮物は格別だと教えたのだった。

彼女は季節によって食事をする店を変えるのだと私に言った。
その季節の旬のものを美味しく食べさせてくれる店を巡っているのだという。
季節ごとに店を巡るとは、まるでお月さまのようですねと私が言ったとき、彼女はまるで夜空の月のように微笑んだ。
「それでは冬になったら天野原食堂を訪ねてみたいと思います。」と言って、お月さまは席を立った。

前方で、天野原食堂の小さな提灯が赤く灯って揺らいでいる。
第一横丁の賑やかな飲食店街を過ぎて、寂しい畑地にさしかかる。
土のうねりが、行く手を阻む波のように見える。
畑の片隅に置いてある板切れが、難破船の残骸のように闇に浮かんでいる。
駅の近くとは言っても、地方都市のこと。
通りから一歩外れると、いたって侘しい。

広い畑地の向こうの第二横丁は、第一横丁よりもひっそりとしていて静かな佇まい。
畑の道の中ほどに差し掛かったとき、天野原食堂の格子戸の前で人影が動いた。
その人影は、女性のように思えた。
女性は、入口の前でちょっと立ち止まってから暖簾をくぐり、ガラス戸を開けた。
店の中の明かりが彼女に降り注ぎ、その女性は月のように白く光った。

胸の鼓動が高鳴った。
私の足は、今にもひとりでに駆け出しそうだった。
ああ、あの女性に違いない。
あの月の女性に違いない。
天野原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも。

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2017/12/16

一茶の風とインターネット「焚ほどは風がくれたるおち葉かな」

「今日はヒトデ祭りだぞ!」というブログで、「【100万PV達成】雑記ブログでアクセスアップする方法を全て教える」という記事をみつけた。

【100万PV達成】とは、一ヶ月間にブログのページビュー数(PV数)が100万回あったということ。
ページビュー数とは、ブログのページが開かれた回数を表す数字のことである。
このページビュー数の数字が多いブログは、それだけ多くの訪問者が訪れているということになる。

月間100万PVと言うと、一日あたりの平均PV数が約33,000回。
これは、すごい数字。
私のブログ「雑談散歩」の、PV数の一ヶ月分でさえ33,000回には遠く及ばない。

2017/12/15

意味のない音と無意味なことば

「あなたを思えばこそ言ったんですよ。」とその男が言った。

私が考え事をしながら道を歩いていたら、前方からやってきた男にぶつかりそうになったのだ。
私の不注意なのだが、「どこ見て歩いてるんだよ。」と高飛車に言われると、ムカつく。
「おまえが避けて通ればいいだろう。」と身構えて睨んでしまった。
男は中年の勤め人風。
私は、遊人風。

その男のほうが、私をよく見ていなかったのだ。
私の風体をチェックしていれば、そんななめた口はきけなかったはず。
男の顔がちょっと困惑気味になって「あなたを思えばこそ言ったんですよ。」と言った。

「怪我でもしたら大変でしょう、前をよく見て歩いて下さいよ。」
私は、初対面の人に親身に思われるほど人懐っこい顔をしているわけではない。
その男は如才ない言葉で、その場を繕うとしたのだろう。

「その『くそ』って何だい。」と私が言った。
「えっ?・・・。」と男の目が宙を泳いだ。
目をパチパチ。
まるで目の中に虫が入ったみたいに。

「だから『思えばくそ』の『くそ』ってどういうことだい。」
「いや・・・、わたしは『思えばこそ』って言ったのですが・・・。」

たしかに私の耳は「こそ」という音を聞いたようだった。
だが私は「思えばこそ」というようなことばの使い方を知らなかった。

「くそ」のほうが私の日常に馴染んでいる。
「くそえらそうにしやがって!」とか「くそくらえ!」は私の口癖。
それで私の短絡な脳は、「くそ」にしてしまったようだった。

ところが、やっぱり「こそ」だった。
しかも「思えばこそ」なんて、なにがなにやら意味不明。

「じゃ、その『こそ』って、どういう意味だい?」
私はイラついて、その男に迫った。

「いや、そのー・・・、話の流れでそう言ったまでですよ。」
と男が言った。

ことばとは不思議なものだ。
ろくに意味も知らずに、勢いや流れで、つい口に出してしまう。
それが案外、自然に相手に伝わる。
相手も、そのことばの意味を知らないのだが、疑うこともなく了解する。
話し手は話の流れで言い、聞き手はそれを、心地よく聞き流してしまう。

「こそ」も、そういう音なのだ。
私の脳は、どんどん「こそ」の意味から遠のいて、「こそ」を音としてしか聞き分けられなくなっている。

するとその「こそ」が、「ガガ」とか「ゲゲ」とかのように、まったく意味のない音のように思えてくる。
この男が発した「こそ」という音には、いかなる意味もない。

この男の「こそ」は、自身では所有していない意味を、あたかも持っているかのごとく再現した音なのだろう。
そして多くの人は、自身の記憶にまだ残っているかすかな意味を、もっともらしく聞き流す。

だがその音は、ことばとしては無効になった音だ。
言っても無意味な音。
言っても言わなくても同じという空疎な響きの音。

そういう日常に慣れた勤め人と、そういう日常に無知な遊人が、ぶつかりそうになったというオハナシ。

突然、男のポケットで携帯電話が鳴る。
サンタナの「哀愁のヨーロッパ」。
前奏だけが虚しく繰り返される。
意味のないことばと、意味ありげな音。

「ことばはもう一度、音からやり直したほうがいい。」と言ったのはどなただったか。
チャンドラーで無いことは確かだ。
私は、チャンドラーの名文句なら、たいがい知っている、と思っている。

男は、ほっぺたに貼付けた携帯電話に向かって「はい、はい、」と言いながら、私の脇を足早に通り抜けた。
「はい、はい、はい・・・。」と言う安堵した背中が、目の前から遠ざかる。

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2017/12/12

月花の愚に針たてん寒の入り

「寒の入り」とは、暦の上で寒が始まる「小寒」のこと。
一年を二十四等分して季節を分けたのが二十四節気。
「小寒」は、その二十四節気の二十三番目にあたる。

旧暦の十一月後半から十二月前半あたりに「小寒」の日があるという。
「小寒」の前の二十二番目は、おなじみの「冬至」。
「小寒」の後の二十四番目は、二十四節気の最後「大寒」。

「小寒」から一層寒い日が続くようになるので、「寒の入り」と呼ばれている。
江戸時代では、「寒の入り」が来ると本格的な冬が始まるとされていた。
現代では、「寒の入り」の頃には体調を崩す人が増え、風邪やインフルエンザが流行する。

月花(つきはな)の愚に針たてん寒の入り
松尾芭蕉

元禄五年十一月二十九日、「寒の入り」の日の発句。
「寒の入り」になったら、体の変調を治すために鍼治療を受ける習慣が、江戸時代にあったのだろうか。
寒くなると血の巡りが悪くなって、体のあちこちが凝ってくる。
それを解消するために鍼治療を受けることになる。
鍼治療が、筋肉の緊張をゆるめ血行状態を良くすることは一般に認められていることである。

「針たてん」の「針」は鍼治療の「針」のことと思われる。
「月花の愚」で、風雅に酔いしれることを愚行としている。
月や花に執着する風雅の生活を、愚かしい性癖であると自己批判。
寒さが厳しくなる前に、この愚かしい性癖を鍼治療で追い払ってしまおうという気持ちを詠んだ句のようである。
俳諧師としては自虐的な句のように見える。
「針たてん」には、鍼治療の「針」を自らたててやろうという強い意思が表現されている。

だが芭蕉は鍼灸師では無い。
俳諧師である。
鍼灸師では無いのだから、自らの病癖を治療することは出来ない。
俳諧師ならば、俳諧創作の不出来(愚)を自ら改めることが出来なくもない。

このとき芭蕉は四十九歳。
芭蕉は、出生地の伊賀上野で、十代後半頃俳諧に興味を抱いたとされている。
「春や来し年や行きけん小晦日」は芭蕉十九歳のときの作で、作年次が判明している最古の句となっている。
俳諧の世界に身を入れてから、元禄五年の「寒の入り」まで約三十年を経ている。

三十年の俳諧生活。
四十一歳からは、その俳諧生活に「俳諧行脚」の暮らしが加わる。
そうして四十九歳。

このごろは、風雅三昧に旅三昧。
ちょっと「風狂」が過ぎているから、そういう自分にお灸を据えねばならんな。
もう爺だし。
それに「寒の入り」だし。

というような自虐的表現の裏に、創作上の戒めを込めているのではなかろうか。
と私は思ったりしている。

「月花」という伝統的な題材にばかり凝り固まって、芭蕉が提唱する「新しみ」や「かるみ」に目を向けない傾向は愚かしいことで、「寒の入り」になったのを良い機会に、そんな傾向には針をたて、お灸を据えねばならないという芭蕉の胸の内かもしれない。
いわば、自虐的なポーズを装った俳諧批評。

この句ができる半年ちょっと前、元禄五年五月七日、芭蕉が向井去来に送った書簡には、江戸においては「点取俳諧」がはびこって勢いを増していることが書き添えられている。
以下はその書簡を「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋したものである。
「此方俳諧の体、屋敷町・裏屋・背戸屋・辻番・寺方まで、点取はやり候。尤も点者共の為には、悦びにて御座有るべく候へ共、さてさて浅ましく成り下がり候。中々新しみなどかろみの詮議思ひもよらず、随分耳に立つこと、むつかしき手帳をこしらへ、磔・獄門巻々に言ひ散らし、あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候。愚案此節、巻きて懐にすべし。予が手筋此の如しなど顕し候はば、尤も荷担の者少々一統致すべく、然らば却つて門人共の害にもなり、沙汰もいかがに了簡致し候へば、余所に眼を眠り居り申し候。」
上記抜粋を、私なりの「意訳」でまとめたものが以下の箇条書きである。
  1. 近頃の俳諧事情は、江戸の町のあらゆる階層の人達の間で点取俳諧が流行っていること。
  2. 点料を稼いで生活している点者にとっては喜ばしいことであろうが、なんとまあみっともなくおちぶれたことである。
  3. とても「新しみ」や「かろみ」などの句法を検討する考えもない。
  4. 目立って聞こえてくることは、気味の悪い俳諧をこしらえて、「磔巻」とか「獄門巻」とか触れ回っていること。
  5. あるものは古臭くて重厚で、句の作りがまったくなっていない。
  6. 私のアイデアはこういう時期には、懐に隠しておこう。
  7. 私の俳諧の方法はこういう具合であると明らかにすれば、本当に私に同意してくれる人が多少はいるであろう。
  8. そういう人たちをひとつにまとめなければならないが、そうすれば逆に門人たちに害が及ぶ。
  9. 蕉門の者で点料で生計を立てている者もいるので、その扱いをどう判断すれば良いのか。
  10. 関係ないこととして、目をつぶって知らん振りをしておこう。
こんな手紙を去来に出した芭蕉ではあるが。
「芭蕉年譜大成」によると、芭蕉は延宝三年(三十二歳)頃から点者(てんじゃ)生活に入り、延宝末年(三十七歳)には江戸中屈指の俳諧点者に数えられていたという。
俳諧点者とは、俳諧(句)を評点し、その優劣を判定する者。
その際の報酬を「点料」という。

やがて芭蕉は、点取に狂奔する俳壇大衆とその点料で生活を立てる点者間の顧客争奪に嫌気を覚える。
点を掛けること自体に対する疑問も生じ、芭蕉は点者生活から抜け出して俳諧そのものに徹すべく江戸都心部から離れた深川に隠棲する。
延宝八年、芭蕉三十七歳の冬のことである。

それから芭蕉五十一歳の元禄五年。
元禄五年五月七日の去来宛書簡にあった「点取はやり候」さてさて浅ましく成り下がり候」という「此方俳諧の体」は半年後の「寒の入り」まで続いていたのかもしれない。
去来への手紙では「余所に眼を眠り居り申し候。」と書いたが、芭蕉は目をつぶって知らん振りは出来なかった。

芭蕉は、かつて自身がその点者として生計をたてていたことを、愚かしいこととし「月花の愚」と詠んだのかもしれない。
「あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候」という「此方俳諧の体」を戒めようとした。
厳冬期を前に、自身の愚かしい記憶と「此方俳諧の体」に針をたてて、自身ともども俳諧をリフレッシュさせようとしたのではあるまいか。

例によって、私の個人的な空想に過ぎないのだが。

月花の愚に針たてん寒の入り

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2017/12/11

紫陽花の雪囲い、えっ紫陽花って木だったのか?

立木に結わえられて、雪囲いされている紫陽花。


 愛犬の散歩で訪れている公園は、もうほとんど雪囲いが終わっている。
大掛かりなものは、板で組んだ屋根があり、まるで小屋のようになっている。

簡単なものは支柱を立てて、植え込みをその支柱ごと結わえているもの。
もっと簡単なのは、植え込みを荒縄で結わえただけのもの。


紫陽花の天然のドライフラワー?。花弁に見えるのは、実はガク(萼)。


公園で、そんないろいろな雪囲いを眺めていたら、紫陽花が雪囲いされているのが目に入った。
側の立木を支柱代わりにして結わえられているもの。
ただ紫陽花の茎だけが荒縄で束ねられているもの。
そのなかには、上部の「房」が今朝の雨を吸って重くなり、地面へ頭を垂れているものもある。

なんだ丈の高いものは草まで雪囲いするのか、と違和感を覚えた。
枯れた茎を切ってしまえば、また来年の春に地面から伸びてくるものを、と思ったからだった。
それからすぐに「いや違うだろう。」という「訂正」が頭をよぎった。
毎年春になると紫陽花の枯れたような茎から新芽が出てくるのを、私は目撃しているではないか。
てことは、紫陽花って木(木本)だったかな?

散歩から帰って調べてみた。
結果、紫陽花は木本だった。
紫陽花は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種とウィキペディアにある。
紫陽花の枯れた枝が空洞になっているのをよく見かけたから、紫陽花は草だと思っていたのだが、なんと木だったのだ。
年輪が出来、幹が年々太くなるものを木だと思っていたのだが、そうではない木もあったのだ。

年輪ができるものが木であるという見方は多くの人に普及していると思われる。
であるから、私のように勘違いされる方はけっこういらっしゃるかもしれない。
勘違いするには勘違いするだけの理由があるのだ。
  1. 外見が木っぽくない(幹が草っぽいとか)。
  2. アジサイのサイがヤサイのサイを連想させ、アジサイは草本であると思い込みやすい。
以上が私の勘違いの理由。
ちょっとこじつけがましいが。

しかし実際草本と木本の見極めは難しい。
「立てば芍薬、座れば牡丹」で知られる芍薬と牡丹。
どちらも似たような大輪の花を咲かせるので、その見分けが難しいことでも知られている。
芍薬と牡丹の大きな違いとは、芍薬は草であり、牡丹は木であるということだという。
芍薬は、冬に茎が枯れてしまい、地中の根から春の新芽が出る。
牡丹は、幹のまま冬を越して、紫陽花のように春に幹から新芽を出す。

この違いは、冬の過ごし方の違い。
幹(茎)のまま冬を越すのが木本。
茎は枯れて、根が残って冬を越すのが草本。
タンポポのようにロゼット葉で冬を越すのも草本。

冬期に茎(幹)があるかないかで木か草かを見分けること。
これが紫陽花は木だと知った私の到達点。

都市公園では、低木類は雪囲いされる。
アジサイは幹を持った低木で、毎年その幹から芽を出すから雪囲いされているのだね。
しかし外見が草のようであるから、ツツジみたいに丁寧な屋根付きの雪囲いは施されない。

雪の重さに幹が耐えられるように、荒縄で幹を束ねられるだけ。
バラバラだと、雪の重さで折れてしまうが、荒縄で団結すれば折れない。
60年代の労働者みたいにスクラムを組んでいるのだね。


萼片(ガクヘン)は枯れると葉のようにも見える。


上部が重いので、支えが無いと倒れ込む。

猫の恋やむとき閨の朧月

早春の猫の発情期の鳴き声を、「うるさいなあ」と感じる人は多い。
うるさいはずである。
発情期の鳴き声のなかには、メス猫を奪うためにオス猫同士がバトルする雄叫びも含まれるからである。

恋に焦っているオス同士が、あふれるばかりの敵愾心を相手に向かってぶつけているのだから大音量になる。
もちろん、オス猫を呼び込もうとしているメス猫の鳴き声もかなりうるさい。
それに応えて、メス猫の鳴き声をまねるように鳴くオス猫の声が、また一段とうるさい。
そんな猫達の鳴き声が、行き来し増幅する。

猫の恋やむとき閨(ねや)の朧月
松尾芭蕉

元禄五年の春の句。
芭蕉四十九歳のときの作。
芭蕉は、元禄五年の正月を江戸日本橋橘町の仮住まいで迎えている。
深川の第三次芭蕉庵への入居は五月中旬であるから、この句は橘町の仮居での作と思われる。

発情した猫の鳴き声は、深夜になってもなかなか止まない。
芭蕉にとっては、その鳴き声がやかましくもあり興味深くもあったのではなかろうか。
猫の鳴き声は千変万化。
芭蕉はそれを、人の言葉に翻訳しようと耳を傾ける。
メス猫の鳴き声に芭蕉は、「まったく奔放なもので・・・・」と思った。
源氏物語の「朧月夜」を思い出したのである。
「朧月夜」は、物語中随一艶やかで奔放な気性の女性である。
「朧月夜」はメス猫がモデルであったのか、などと芭蕉が思ったなんてことは、ただの私の空想。

地上の生き物の営みと、天空の月との取り合わせによって空間的な広がりが感じられる句である。
「猫の恋」の騒然とした様子と、それが止んだときの「閨の朧月」の静寂感との対比が、朧な春の夜を表現していて面白い。
などという感想を掲句に持ったのだが。
ただ、どうして芭蕉は「閨」という言葉を使ったのだろう。

「閨」とは寝室の意であるが、特に夫婦の寝室という意味合いが濃い。
いきなり「閨」では、句を読む者が戸惑う。
しかも「やむとき」の「とき」もなんとなく唐突な印象である。
「朧月」というボンヤリとしたムードに対して「とき」は、あまりにも端的で鮮明だ。
「猫の恋やむころ閨の朧月」と詠んだ方が雰囲気が良いのでは、とトーシロの私は勝手に思ったりしている。

ひょっとしたらこの句は、発句ではなく「歌仙(俳諧の連歌・連句)」の前句(長句・五七五)なのではあるまいか。
この句が、歌仙で表された物語のなかの一幕だとすると、なんとなくイメージが湧いてくる。

猫の鳴き声が止んで、急に静まり返った「閨」に今は春の朧月の光が射し込んでいる。
音で充満していた「閨」が、今は朧な光に満ちている。
猫の鳴き声に耳を奪われ、朧月の淡い光に目を奪われ。
そんなこの空間に不足しているのは人の恋ではないだろうか、と芭蕉が投げかける。

芭蕉は源氏物語を下敷きにして、曖昧に「閨の朧月」という語を使い、これに続く詠み手に仕掛けていたのかもしれない。
さて、これに続く付句(七七)はどんなだったろうか。
次のメンバーは、凡兆か去来か其角か。
凡兆なら、軽くかわす。
生真面目そうな去来なら、正面から攻め込んで討ち死に。
其角は、芭蕉の期待通り。
などとトーシロは勝手な空想を楽しんでいる。

「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべしとなり」と先師(芭蕉)が仰った。
芭蕉の弟子である向井去来が著した「去来抄」に、そうあるとか。

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2017/12/09

雪国の冬の必需品、ゴム長靴にあいた穴(亀裂)を補修する

ゴム長靴補修キット。


 三年前に買ったゴム長靴に穴(亀裂)が開いて、水が靴内に入り込むようになった。
釘かなんかで引き裂いてできた穴では無く、劣化によるひびわれが進んで細長い穴があいているような状態である。
雪かきをしているときに靴下が濡れて足が冷たくなってくる。
これは、とても我慢できるものではない。

三年経ったとは言え、冬場だけの使用なので、このまま捨てるのはもったいない。
それに、外見もそんなにヘタってはいない。
まだ黒ツヤが残っている。

まだ黒ツヤが残っているのに、浅いひびわれが生じて、劣化が進んでいるような部分もある。
「ミツウマ」のメーカー品なのにと思ったが、今時の合成ゴムは劣化が早いらしい。
ホームセンターで売っている千円前後の安いゴム長靴は一冬ぐらいの寿命だという。
合成ゴムより天然ゴムの方が劣化が早いと言われている。
でも、昔の天然ゴム製の長靴の方が、今の合成ゴムの長靴よりも寿命が長かったような気がする。

という気分で、近所のホームセンターをうろついていたら、「ゴム長靴補修キット」というのを見つけた。
インターネット販売のページにも出ていて、レビューが一件だけだったが、「上手く行きました・・・・すばらしい商品です。」とベタ褒めされていたものである。
一件だけのちょっとあやしいレビューなのだが。
ホームセンターでの値段が、税込みで511円だったので、試してみることにした。


パッケージの裏に「ご使用方法」の記載がある。

付属の紙やすり。

亀裂部分周辺を紙やすりで荒らす。


付属の紙やすりで、亀裂部分周辺のゴム表面を荒らす。
ゴムの表面を適度に荒らした方が、接着剤の効き目が強い。


補修用パッチ


補修用パッチを適当な大きさに切ったら、下の写真のように四隅の角を落として角丸にしておくと剥がれにくくなる。
補修用パッチには、裏に粘着剤が施されているので、裏紙を剥いで長靴に貼り付ける。


適当な大きさに切ったパッチと接着剤。

接着剤を亀裂周辺に塗って伸ばす。

接着剤を塗ったら五分間放置し、そのあとパッチ(合成ゴムシート)の裏紙をはがして貼り付ける。

もう一ヶ所の亀裂部分に紙やすりをかける。

パッチを貼る。

肉盛り補修剤。


補修用パッチの合成ゴムシートは、薄くてちょっと頼りない感じだったので、上の写真の「肉盛り補修剤」をパッチごと上塗りして補強した。
これで、パッチが端から剥がれるのも防げると思う。
ちなみに、セメダインの「クツ底の肉盛り補修剤・シューズドクターN」は、ホームセンターで1100円ぐらいだった。
修理材料の購入合計額は1600円ぐらいだが、今回は材料の2.5割ぐらいを使用した。
材料経費が400円のゴム長靴補修である。

「肉盛り補修剤」を塗ったあとは約24時間静置することと使用説明書に書かれてある。
さて、修理の出来栄えやいかに。
愛犬の散歩や自宅前の雪かき、現場での軽作業。
この時期、雪国ではゴム長靴の使用機会が多い。


パッチの上と、パッチ周辺に塗る。

「シューズドクター」付属のヘラで伸ばして塗る。

2017/12/08

草いろいろおのおの花の手柄かな

芭蕉は元禄元年八月に、仲秋の名月を鑑賞するために美濃の地から信州更科への旅に出る。
「更科紀行」の旅である。
そのときに芭蕉は、見送りに来た岐阜の門人たちに留別吟を残している。
留別吟とは、旅立つ人があとに残る人に向けて詠む別れの句のこと。
芭蕉にとっては、「笈の小文」の旅へ出て以来、信州更科を経て、約十ヶ月ぶりに江戸へ帰る旅となる。

草いろいろおのおの花の手柄かな
松尾芭蕉

掲句は、その留別吟のひとつ。

見送りの門人たちを草に喩えているというのが一般的な「解釈」であるようだ。
いろいろな特長を持った草があるように、私(芭蕉)にはいろいろな特長を持った弟子がいる。
その弟子たちがそれぞれの特長を活かしてすばらしい花を咲かせている。
という、見送りの門人たちへの感謝と賞賛の念を表明している句であるとされている。
なるほど。
平易で馴染みやすい句である。

芭蕉の俳諧は様々なイメージを表現している。
ひとつの句の中にイメージが混在しているのではと思うこともしばしばである。
当然のことながら、新たなイメージを句から感じたときは、それまでとは異なる視点でその句に接していることになる。
視点を変えれば、別な世界が広がって見える。
これも芭蕉の俳諧を読む楽しさのひとつ。

草が大地に根を張って、雨風をしのいでいろいろ努力している結果、おのおのの開花が実現している。
花が咲いているのは草の手柄であるというイメージ。
そういうイメージがある一方、いろいろな草が豊かに生い茂っているのは、それぞれの花の手柄であるというイメージ。
花が受粉を促し結実して種子をつくる。
その種子が発芽して草を生い茂らせている。

鶏が先か卵が先かではないが。草と花の手柄あらそいという印象を掲句から感じている。
花は、芭蕉が師となっている蕉門の喩え。
草は、その門人の喩え。
そうであるとしたら、これは門人と蕉門(芭蕉)の一門発展の手柄あらそいを彷彿させる。

以下は「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋。
「近来各地の芭蕉人気の上昇を背景に、旅の経過地ごとに前回にも増した歓迎に逢う中で各地の蕉門勢力は増大する。再訪の地尾張では一月半にわたって多くの新参も交える連日の句会に引き回され、・・・・・・・・。歳末から翌春三月までの伊賀帰省中のは俳交の記録と参入の門人の顔ぶれも一挙に増え、滞在中に再訪した伊勢山田でも多数の新人の参加で賑わう。・・・・・初訪問の岐阜俳壇の歓迎は殊に熱烈で、ここに蕉門の一淵叢(えんそう)が誕生する。」                                          ※淵叢(えんそう):物事の寄り集まる所。活動の中心地。(ブログ管理人注)
上記抜粋を読むと、「笈の小文」の旅の訪問地での蕉門の盛況ぶりを窺い知ることができる。
掲句は、芭蕉がその盛況ぶりの感想を句に詠み、その句を留別吟としたのである。
「笈の小文」の旅を終えた芭蕉の感想が、そのまま留別吟となったのだと思う。

蕉門という花が見事に咲き乱れているのは、草に喩えた門人たちの活躍によるものである。
と同時に、生い茂る草のように門人たちが活躍できるのは、蕉門という大きな花が咲いているから。
芭蕉が蕉門の名声を世に轟かせているからである。
蕉門俳諧の発展の手柄は、草(門人)と花(蕉門=芭蕉)の双方にあるという芭蕉のメッセージのようにも受け取れる留別吟である。

芭蕉は、蕉門の一淵叢(えんそう)が誕生」した岐阜の門人たちに「君たちもえらいが、俺もえらい。」と言い残して信州更科へ旅立ったのです。


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2017/12/05

月はやし梢は雨を持ちながら

芭蕉は「鹿島紀行」の冒頭部分で「このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり」と書いて、「鹿島紀行」の目的のひとつが鹿島での月見であることを記している。
鹿島にある鹿島神宮は、万葉集に集められた「防人の歌」の歌枕の地である。

また「旅立ち」や「門出」を意味する言葉である「鹿島立ち」は、防人が旅立つ際に道中の無事を鹿島神宮に祈願したことに由来すると言われている。

「鹿島紀行」の旅の後、その年内に「笈の小文」の旅。
さらに翌年の「更科紀行」、翌々年の「おくのほそ道」と芭蕉の旅は続く。
芭蕉の「鹿島詣」は、これから続く「俳諧行脚」への無事祈願も目的のひとつだったのかもしれない。

月はやし梢(こずえ)は雨を持(も)ちながら
松尾芭蕉

貞享四年八月十五日、鹿島根本寺の前住職、仏頂和尚の隠居所である長興庵に宿泊した際の発句である。
ここで芭蕉は仏頂和尚との旧交を温めながら月見をしようとしたのだが、あいにくの雨で空は曇っていたようである。
だが、未明(あかつき)に雨が上がって、月の光が見えた。
そのときのことが「鹿島紀行」に記されている。
以下、抜粋。
ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此寺におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるににたり。あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるゞると月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。
「人をして深省を発せしむ」とは、「発人深省(はつじんしんせい)」のことと思われる。
出典は杜甫の五言律詩「遊龍門奉先寺」であるとか。
「発人深省」とは、「人を発憤させ啓発して、物事を深く考えるようにさせること。」と辞書にある。
仏頂和尚は、そういう人物だったのだろう。
芭蕉は、そういう人物と語らい、「しばらく清浄の心をうるににたり」だった。
やがて「あかつき(未明)」に、空が少し晴れた。
皆が仏頂和尚に起こされて、雲間から差し込んだ月の光を眺めた。
もしかしたら月の光は一瞬だったかもしれない。

一瞬の「月のひかり」「雨の音」、それらの趣があまりにも侘びしくて、句を詠もうとしても言葉がなかった。
はるばると江戸から月を見に来て、その素晴らしさを描こうと思ったのに、甲斐もない。
芭蕉の思惑通りにはならないことだった。

そう紀行文に書きながら、芭蕉は掲句を詠んだ。
ほんとうは感動的な名月鑑賞の句を作りたかったのだが、満足に月を見ることが出来なかったということなのだろう。

「月はやし」は、雲の速い動きのため、見え隠れする月が、まるで素早く移動しているように見えること。
その錯視を「月はやし」と表現したというのが、現代での一般的な「解釈」のようである。

私は別の感想を持った。
未明(あかつき)の月ではあるけれど、明方が近い。
太陽が見る見るうちに上がって、明方の月が薄らいでいく。
あるいは、西の方角にまた雲が迫り出してきて、月は隠れてしまう。
あかつきにせっかく顔を見せかけた月だが、早くも姿を隠してしまったという「月はやし」なのではないだろうか。
月ははやくも姿を隠してしまったが、梢には昨夜の雨がまだ残っていて、明方の薄明かりに輝いている。

「梢は雨を持ちながら」とは、梢は雨の雫をとどまらせているけれどもというイメージに思える。
「持ちながら」の「ながら」は逆接の接続助詞で「~けれども」の意と思ったからである。
掲句は、「月」と「梢」を対照的な存在として描いているのではなかろうか。
それが、天と地の空間的な広がりを現出させている。

月は、はやくも空から姿を隠してしまった。
芭蕉は、カメラを夜明けの広大な空から、寺の境内の梢に移動させる。
梢の細枝に付いている雨露をズームアップ。
水滴が夜明けの光に輝いて見える。

月はやし梢は雨を持ちながら

この句は、鹿島の月を詠ったものではないであろう。
月が消えた後の、梢の枝に付着した水滴を詠った句なのではあるまいか。
もしそうであれば、紀行文の「はるゞると月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。」という下りが辻褄が合うように思えるのだ。

掲句に対する私の感想は、紀行文を読んで類推したものである。
紀行文を読まなかったら、掲句について別の感想を持ったかもしれない。
雨上がりの月は動きが早い。
まるで天空のパノラマショーみたいに。
それと比べて、境内の杉の古木は、じっと動かず。
杉の梢には、まだ雨の水滴が残っているけれども、月は早くも西の空に沈みかけている。
などと。
いろいろなイメージを持っているのが、芭蕉の俳諧である。

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2017/12/04

花にうき世我酒白く飯黒し

「銀シャリ」という言葉を初めて聞いたのは、子どもの頃。
テレビドラマを見ていたときだったような。
刑務所での食事の時間に、受刑者がつぶやく。
「もうクサイ飯は食い飽きた。早くシャバへ出て銀シャリが食いてえぜ。」
そうそう、「シャバ」という言葉もそのドラマで覚えたのだった。
テレビドラマは、津軽半島の寒村で暮らす子ども達にとって、未知の世界のボキャブラリーの宝庫だったのだ。

2017/12/02

葱白く洗いあげたる寒さかな

昨夜の降雪で白くなった公園。凛とした寒さが、この公園を美しくしているようだ。
青森市は本格的な冬に入ったのか、ここのところ寒い日が続いている。
寒い日が続くと、私みたいな初老のオジンでも、体が寒さに慣れてくる。
津軽の冬仕様の体になってくるのだ。

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