投稿

11月, 2018の投稿を表示しています

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

イメージ
「大和(やまと)の國に行脚(あんぎゃ)して、葛下(かつげ)の郡(こほり)竹の内と云(いふ)處に(は)、彼(かの)ちり(千里)が旧里(ふるさと)なれば、日ごろとゞまりて足を休む。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

「大和の国に旅を進め、葛下の郡、竹の内という所に着いた。ここは、同行者の千里(ちり)の故郷なので何日かの間とどまって旅の足を休めた。」

大和竹内村に数日滞在 芭蕉は伊賀上野から、同行者の生まれ故郷である「竹の内(竹内村)」に向かう。
「竹の内」では、苗村千里の実家もしくは庄屋の家に数日滞在したと思われる。
伊賀から「竹の内」までは名張街道を経由して行ったのだろうか。
行程の記載はない。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく
松尾芭蕉

『天理本「野ざらし紀行」』には、句の前書きとして「やぶよりおくに家有。」とある。
「わた弓」とは、綿打ち弓のことで、弓の形をした綿打ち道具。
綿の繊維をほぐすために、弓の弦を指ではじいて使うとのこと。
綿を打つときに琵琶のような音色がするという。

竹林で琵琶の音を聞く 『天理本「野ざらし紀行」』にある「やぶよりおくに家有。」の「家」は、芭蕉が滞在した家なのだろう。
竹やぶの奥の芭蕉の宿からさらに奥に農家があって、その農家で綿打ちの作業をしている。
清々しい竹の間を通って聞こえてくる綿打ち弓の音が、琵琶の音色のようで心が休まることだというイメージの句。

風でざわめいている竹林の中を貫いて響いてくる風雅な音に、芭蕉はしばらく耳を傾けたことだろう。

「実」から「虚」へ 兄や姉妹、親類縁者が暮らす「実」の地である伊賀上野を離れ、芭蕉はまた「虚」の世界の旅人となった。
こうして旅の宿に身をおいていると、綿打ち弓の音さえ琵琶の音色に聞こえてくる。
この宿では竹林が、芭蕉の「虚」の世界を「実」の世界から隔てているようである。

竹林に集まって酒宴をひらき、清談を行い、琴や琵琶で音楽を楽しんだという中国の「竹林の七賢」の伝説もある。
芭蕉は竹林に、風雅な世界を囲い込むバリアーのようなものを感じていたのかもしれない。

「野晒紀行」に書かれていない竹内村のこと 「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」によると、芭蕉は「竹の内」の里の長(おさ・庄屋?)にあたる人物に、「竹の奥」と題した俳文と掲句を書いて「蕉散人桃青」と署名し押印した懐紙を贈っている。
その人物は油屋喜衛門とい…

芭蕉の帰郷「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

「野晒紀行」は紀行文ではなくて「俳文集」 「野晒紀行」は、「てふ」の茶店のあと、唐突に「閑人(かんじん)の茅舎(ぼうしゃ)をとひて」という話(文章)に続く。

芭蕉は、俗世間を離れてゆったりと暮らしている人物の草庵を訪ねる。
その草庵がどこにあって、どういう人物が暮らしているのかについての記載はない。
「蔦植ゑて竹四五本の嵐哉」と一句あるだけである。
そしてこの「閑人の茅舎」から一足飛びに故郷に帰り着く。

ここまで「野晒紀行」を読んできて、私同様多くの読者は「はて?」と思ったことだろう。
はたしてこれは「紀行文」なのだろうか?と。

「紀行文」ないし「紀行」とは、旅行中の行動・人との出会い・見聞・感想などを、旅の足どりを追って書き記した文章のこと。
「野晒紀行」で記されている文章のほとんどは、発句の「前書き」であり、発句に添付された「説明文」である。

以前「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句のことを記事にしたとき、「野晒紀行」の名称について触れたことがあった。
「野晒紀行」は、芭蕉の命名では無いと書いたのだった。

とすれば、この「野晒紀行」は、紀行文として芭蕉が上梓したものではない可能性が大きい。
後世の人々によって「野晒紀行」と名付けられはしたものの、実は芭蕉の「旅の発句と俳文を集めたもの」なのではないだろうか。

こう考えると、それぞれの発句に添付された文章が、旅の時間の流れにたいして唐突であることが納得できる。
芭蕉の職業は俳諧師である。
芭蕉はいつでもどこでも句を詠まなくてはならない。
また、句を詠むことができなくてはならない。

旅のなかで俳諧のことを考え、思いついた句を書きとめる。
そして、その句にふさわしい文章を書きとめる。
おそらく、こうしてできた「吟行」の成果をまとめたものが、後世の人々に「野晒紀行」と命名されたのだろう。
私は、そう考えている。

亡き母の墓参りのための帰郷 さて、「野晒紀行」での、故郷の伊賀上野に到着した際の文章は以下の通り。

「長月(ながつき)の初(はじめ)、故郷に歸りて、北堂の萱草(くわんさう)も霜枯果(しもがれはて)て、今は跡だになし。何事も昔に替(かは)りて、はらからの鬢(びん)白く、眉(まゆ)雛(皺)寄(より)て、只(ただ)命有(あり)とてのみ云(いひ)て言葉はなきに、このかみの守袋(まもりぶくろ)をほどきて、母の白髪(しらが)お(…

此梅に牛も初音と鳴きつべし

イメージ
若き日の芭蕉は、西山宗因の「江戸俳壇」への台頭とともに、宗因風(談林俳諧)の影響を強く受け、宗因風に傾倒したとされている。
そして、延宝三年ごろ、芭蕉は談林俳諧流行の波に乗って活発な俳諧活動を展開したと「芭蕉年譜大成」にある。
まだ深川村の草庵に隠棲する前の芭蕉は、「江戸中屈指の俳諧点者」※に登りつめていたという。

ではそのころの、宗因風に傾倒したという芭蕉の句。
言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風がみられる芭蕉の句とは、どんなものであったのだろう。

(この)梅に牛も初音と鳴きつべし

延宝四年春、芭蕉三十三歳のときの句。
「芭蕉年譜大成」によれば、掲句は芭蕉が友人の山口素堂と両吟で天満宮奉納二百韻を興行した際の発句とされている。
深川の草庵(芭蕉庵)に入庵する前の作なので、芭蕉は「桃青」の俳号を用いている。

「此梅に」とは湯島天神(湯島天満宮)の境内に咲いている「ここの梅に」というニュアンスと、「この美しい梅に」というニュアンスが含まれているように思われる。

天満宮といえば、菅原道真公を祀っている神社。
その天満宮には、梅が植えられて牛の象がおかれている。

開花期と初音がほぼ同時期であるから、和歌では梅に鶯というのが定番であるが、芭蕉は天満宮の梅に置物の牛を取り合わせた。

「初音と」の「と」は、「・・・のように」という比喩の格助詞。
「鳴きつべし」の「つべし」は、「つ(確述の助動詞)」+「べし(推量の助動詞)」で「きっと・・・だろう」の意。

あまりにも天満宮の梅が美しいので、置物の牛さえも初音のように、きっと鳴声をあげることだろう。
という滑稽諧謔な場面を、芭蕉は作りあげた。
生きた牛が鶯の初音のように鳴いても面白いが、置物の牛が鳴くのだからなおさら面白い。

掲句の場面自体は滑稽であるが、梅の美しさは損なわれてはいない。
むしろ梅の美しさを、よりいっそう引き立てているような芭蕉の滑稽句である。
ただの言葉遊びではなく、滑稽句のなかにうまく美を組み込んでいるという印象の句である。

「牛も」の「も」は「・・・さえも」という類推の係助詞。
と同時に「もー」という牛の鳴声に掛けているように思われる。
これを言語遊戯性と言えなくもない。

それと、句全体に自然なリズムが感じられるのは、句のなかの語の韻のせいではあるまいか。
「梅」と「牛」の…

宗因の諧謔「ながむとて花にもいたし頸の骨」

前回の記事で西山宗因のことについてちょっと触れた。
宗因は、延宝期(1670年代)を中心に流行した宗因風(談林俳諧)の創始者。
しかし、宗因風の言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風が次第にマンネリ化して、宗因の死を契機に宗因風俳諧は衰退したとされている。

では、その宗因風の言語遊戯性や滑稽諧謔とはいかなるものであったか。
以下は、宗因作の有名な句である。

ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
西山宗因

この句は一幽という俳号で、万治元年刊の「牛飼」(燕石撰)や、寛文六年刊の「俳諧独吟集」(重徳撰)に収められている。【「貞門俳諧の諸問題」(中村俊定)より】

美しい桜の花を、よく見ようと思って眺めていたら首の骨が痛くなったというイメージの句である。
桜の花を愛でるという風雅と、首を傾けて上を見続けた結果首を痛めてしまった滑稽さの取り合わせが軽妙なユーモア(諧謔)を生んでいる。
落語のネタにでもなりそうな皮肉な句であるが、この句にはパロディ(言語遊戯性)も備わっている。

西行に「眺むとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」という歌がある。
新古今和歌集に収録された歌である。
「ただ眺めているだけと思っても、眺めているあいだにも桜の花に非常に慣れ親しんだので、今となっては花が散って花と別れることが悲しいことになってしまった」というイメージの歌である。

西山宗因はこの西行の歌をもじって「散る別れこそ悲しかりけれ」という風雅な詠嘆を「いたし頸の骨」とまぬけな失態に変えてしまった。
西行の短歌の五・七の部分を借用し、「いたく(甚く)」という語を「いたし(痛し)」ともじったのである。

この西行の歌を知らない読者でも「ながむとて花にもいたし頸の骨」はけっこう笑える。
さらに、この句が西行の歌のパロディであると知っている読者は、笑いつつ、イメージの転換の巧みさに感心する。
「さすが宗因」とうなずく。
これが宗因風(談林俳諧)の真骨頂であるとされている。

延宝期に全盛を誇ったとされる宗因風(談林俳諧)に芭蕉(当時は桃青)は心酔したという。(芭蕉年譜大成による)

【桃青もまた宗因との一座を機にこれに心酔し、その波に乗って活発な俳諧活動を展開する。延宝三年頃からは門人もでき、「坐興庵」を称して点者生活に入り、次第に一門の勢力も増して、延宝末年には江戸…

芭蕉の香り「蘭の香やてふの翅にたき物す」

蘭の香の句「其(その)日のかへさ。ある茶店に立寄(たちより)けるに、てふと云(いひ)けるをんな、あが名に發句せよと云(いひ)て、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)侍る。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

芭蕉一行は、西行谷からの帰りに、とある茶店に立ち寄る。
その茶店の「てふ」という名の女性が、白い絹の布を出して、「私の名前が入った句を詠んで下さい」と芭蕉に頼んだ。 そこで芭蕉は、その布に詠んだ句を書き付けた。
蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す
「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」には、掲句に「校注」が付いている。
その「校注」によると、この挿話は西山宗因の物語にならったものであるらしい。
服部土芳の「三冊子(赤冊子)」に、そう記されてあるとのこと。
西山宗因のエピソード 西山宗因は江戸前期の連歌師で俳人。
宗因は、自由・斬新な作風の宗因風(談林俳諧)を展開して、若い日の芭蕉もそれに学んだとのこと。
しかし宗因風俳諧は、その言語遊戯性や滑稽諧謔の作風が次第にマンネリ化し、天和二年三月の宗因の死を境に冷え込んでいった。(芭蕉年譜大成による) 宗因風の衰退の後、あらたな試みとしての芭蕉の蕉風が注目されることとなった。

三冊子によると、宗因が伊勢神宮への参宮の際に立ち寄った茶店があった。
宗因はその茶店の女将に「つる」という彼女の名前を入れた句を詠んでくれるように頼まれたという。
そこで宗因は、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」という句を作って、茶店の女将に贈った。

蕉風の香りの翼 芭蕉の「蘭の香やてふの翅にたき物す」は、この宗因のエピソードに模して作られた句であるらしい。
もしかしたら、芭蕉が立ち寄ったという茶店での「てふ」との出会いは、宗因の物語に模した芭蕉のフィクションであるのかもしれない。

そう考えると「蘭の香」は、芭蕉の香りのことではないかと思えてくる。
「たき物」とは薫物の意で、香をたいてその香りを衣服などにしみこませること。
その昔は宗因風(談林俳諧)が羽ばたいていたが、今では蕉風の香りを染み込ませた翼が自由に飛び回っているというイメージではあるまいか。

「出立のころにはすでに宗因風からも模索期の天和調からも脱皮して、芭蕉の目には明白な新境地が見えていた。旅中作には天和調の破調句そのたの残滓が若干影をとどめるが、宗因風以来の、滑稽諧謔のための複雑な言語遊戯技巧と過剰な当…

梅が香や砂利しき流す谷の奥 

イメージ
インターネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」で「猿蓑(さるみの)俳句鑑賞(著:伊東月草 古今書院 昭和十五年出版)」を見ていたら服部土芳の句に出会った。

梅が香や砂利(じゃり)しき流す谷の奥 
服部土芳

インターネットで調べると、服部土芳(はっとり とほう)は、松尾芭蕉と同郷で伊賀上野の俳人。
芭蕉の後輩にあたり、伊賀蕉門の中心人物として活躍したという。
土芳は、有名な俳論書である「三冊子(さんぞうし)」を著したことでも知られている。
「三冊子」は、芭蕉の俳論を伝える貴重な資料となっている。

句の前書きに「庭興」とある。
「庭興」とは、庭の味わいとか、庭の面白みとかの意味であろう。

「砂利しき流す谷」とあるので、「枯山水」という様式の日本庭園を詠ったものと思われる。
白い玉砂利を敷き詰め、その中に灰色などの色をもった石をポツポツと配置する。
そんな水の流れを模した小さな谷が思い浮かぶ。

砂利を敷いて川の流れを表現した谷の奥から、梅の香りが漂っているというイメージである。
春の日の静寂な一角を切り取ったような句である。

掲句は、蕉門の句集である「猿蓑」の、「巻之四 春」に収められている。
「巻之四 春」は、十五句目まで梅を題材にとった句が続く。
土芳の句は、その四番目。
四番目に、爽やかな梅の風がそよいだという印象の句である。

伊東月草は、掲句を評して「現在の私達の俳句観からいふと、いかにもお誂へ向に過ぎる境致で、大して迫力を感じないが、」と述べている。
ここで使われている「境致」とは、禅宗における伽藍や庭園の作庭法のことと思われる。
「俳句観がお誂え向きの境致」という文脈から考えると、この「境致」は「境地」の誤植ではないかと私は思っている。
「俳句観がお誂え向き」とは、日本庭園の風流・風雅を重んじるということが、当時の俳諧師の心情としてあったということなのだろう。

しかし私は、梅の香りと無機質な砂利の谷を設定し、その奥を感じる心は、日本庭園の風流・風雅を重んじる心情だけではないような気がしている。
この句には、様々な対比が感じられる。

梅と石。
季節の動きと、静止した築庭。
春の躍動感と、過ぎた冬の寂寞感。
生命の活動と、生命の活動がない物質。 ぬくもりと、血の通っていない冷たさ。
華やかな雰囲気と、無表情。
生と死。

梅と石から様々なイメージが湧くので…

イモカタバミとベニカタバミの見分け方

イメージ
アップルヒルの緑地に咲いていた花 この記事にある写真は、10月21日に「道の駅なみおか アップルヒル」の緑地で撮ったもの。
葉が3小葉からなる複葉でカタバミに似ているので、写真を撮ったときはムラサキカタバミではないかと思っていた。
それが今日、「日本の野草(山と渓谷社)」で調べてみたら、この花はムラサキカタバミではなかった。 この花の葯(やく)は、上の写真の通り黄色である。 葯とは、雄しべの先っぽの花粉の入った袋のこと。 だが、ムラサキカタバミの葯は白色。
それに、ムラサキカタバミの花の中心部(雄しべや雌しべが集まっている部分)は、こんなに濃い紫色ではない。 ムラサキカタバミの花の中心部は、「日本の野草」の写真を見ると淡い黄緑色になっている。


イモカタバミ この花をムラサキカタバミと見間違えるほどだから、写真の花はカタバミの仲間であることは間違いない。 そこで、インターネットの野草サイトをいろいろ見て回ったら、この花はイモカタバミというカタバミ科の植物だった。

ところが、このイモカタバミにそっくりなカタバミがある。 そのそっくりさんは、ベニカタバミというカタバミ科の野草。 ベニカタバミの葉は花弁よりも小さくて光沢がある。 葉の柄が短いので、ベニカタバミの葉は地を這うようにして広がっている。
一方イモカタバミの葉は、この記事にある写真の通り、花弁と同じぐらいに大きい。 それに葉の柄も長いので、花びらにせまるように葉が生い茂っている。
「イモ」と「ベニ」の見分け方 以下に、イモカタバミとベニカタバミの見分け方をまとめておこう。
花の形 ●イモカタバミ:やや細長い。 ■ベニカタバミ:やや丸みを帯びる。
小葉の形 ●イモカタバミ:はっきりした倒心形。 ■ベニカタバミ:切れ込みの浅い倒心形。
葉の大きさ ●イモカタバミ:花弁と同じぐらい大きい。 ■ベニカタバミ:花弁より小さい。
葉のツヤ ●イモカタバミ:ない。 ■ベニカタバミ:ある。
葉柄(ようへい) ●イモカタバミ:葉がひょろひょろと伸びるぐらい長い。 ■ベニカタバミ:葉が地に接するぐらい短い
自分で二期作 イモカタバミの花期は4月から6月。 暑い夏は、半休眠し葉も枯れて地下部だけが残るという。 そして涼しくなった秋頃からまた咲き始め、12月まで咲いているものもあるという。
そういえば、青森市の新中央埠頭緑地のミヤコグサも雪が降る頃まで…

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

西行谷 芭蕉は、西行が晩年に庵を結んだとされている西行谷を訪れる。
【「芭蕉紀行文集 中村俊定校注」(岩波文庫)】によれば、西行谷は、神路山(かみぢやま)の南にある谷とのこと。
神路山は、伊勢神宮内宮の南方の山域の総称である。

「野晒紀行」には以下の文がある。

「西行谷(さいぎゃうだに)の麓(ふもと)に流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

西行谷の麓に沢が流れ込んでいる。
芭蕉は、その沢で芋を洗っている女たちを見かけた。

芋を洗う女
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

女たちが芋を洗っている光景を見て、西行なら、この風情を歌に詠むことだろう。 さて、どんな歌を詠むことだろうなあ。 というような、西行谷を訪れた芭蕉が、敬愛する西行に対して詠んだ挨拶句なのではと感じたが。
ところが、この句をもうちょっと読み込んでみると、また違うイメージが湧いてくる。
「芋洗ふ女」を見て、西行が「芋洗ふ女」の歌を詠む格別な所以がないのである。
西行は、桜の歌人として広く知られている。
しかし、「仕事に励む女」を題材にして多くの歌を詠んだという西行の話はほとんど聞かない。

だからといって、「芋洗ふ女」の歌を詠むはずがないとは言えないのだが・・・

「芋洗ふ女」は女の子か? 西行が晩年に、子どもの遊びを詠った「たはぶれ歌」と称されている十三首の歌が「聞書集(ききがきしゅう)」にあるという。
芭蕉が西行谷で目撃した「芋洗ふ女」が家事を手伝う女の子たちということも考えられなくもない。
でも、「野晒紀行」に、「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とある。
「をんな」は成人した女性の意なので、「女の子」は無理かな・・・

そこをあえて「芋洗ふ女」の「女」を「をみな」と読めば、「をみな」は若い女性ということになる。
若い女性のなかには女の子も含まれるのではあるまいか。

芭蕉が見た女の子たちは、わらべ唄なんかを歌いながら手伝い仕事をしていた。
遊びながら家の手伝いをしている女の子たちを見て、芭蕉は、西行なら「たはぶれ歌」を詠んだことだろうなあと思い、それを「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」と句にした。

でも「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とあるから、無理かなあ・・・

それでは、いったい誰が歌を詠むのだろう?

「谷」を省略? 今まで「野晒紀行」で字余りの句を三句…

駿河から伊勢神宮へ「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

大井川の川越 芭蕉一行は大井川にさしかかる。
富士川は舟に乗っての川越(かわごし)だった。
一方大井川は、馬や人足を利用しての川越になる。
雨が降り続いて川が増水すると、旅人は何日も川留(かわどめ)の憂き目をみる。
芭蕉と千里(ちり)の一行も、雨のために足が止まったようである。
「野晒紀行」には、「大井川越(こゆ)る日は、終日(ひねもす)雨降(ふり)ければ、」とある。
芭蕉はこの文の後に同行者千里(ちり)の句を置いた。
「秋の日の雨江戸に指おらん大井川(ちり)」

「江戸に指おらん」の「に」は、場所をあらわす格助詞の「に」。
「指おらん」の「ん」は、推量をあらわす助動詞「む」の変形の「ん」。
「江戸に指おらん」は、江戸では指を折って数えていることだろうというような「意味」かと思われる。

この秋の長雨は、江戸にも降っているだろうか。 江戸では、旅立ってからの日数を指折り数えて、芭蕉がどのあたりを歩いているか話題になっていることだろう。 だが、私達は東海道の難所であるこの大井川をまだ越せないでいる。 という句のイメージと思われる。
しかし、「秋の日の雨江戸に指おらん大井川」は指折り数えると字余りの句である。
富士川での芭蕉の句「猿を聞人捨子に秋の風いかに」も、字余りの句。 両方とも沈んだ句調となっている。

説明的な字余り句 旅の出発に際しては、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とか「秋十とせ却って江戸を指す故郷」とか名調子で詠いあげていたのに。
捨て子に出会ってから、ちょっと説明的な字余り句になった。
そのせいか、イメージの広がりが乏しくなってしまったように思われる。

千里(ちり)の句の後は、「馬上吟(ばじょうのぎん)」と前書きされた芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句が続く。
この句は前出の句と違って、リズミカルである。
でも、この句をそのまま鑑賞すれば、ちょっと状況説明的であり、イメージの広がりを感じ取るには難しい。

「イメージの広がり愛好者」の私としては、ちょっと物足りない句である。

杜牧の「早行」を演じる 「道のべの」の句の後に、芭蕉の紀行文が続く。

「廿日餘(あまり)の月かすかに見えて、山の根際(ねぎわ)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚(おどろ)く。」芭…

逢魔ヶ時の川景色

イメージ
愛犬が川のほうへ行きたいというので、街外れの川岸まで散歩した。
川岸といってもコンクリート護岸されていて、その護岸に接している土手道を歩いたのだが。

夕方の混雑したスーパーの前を通り、信号を越えて、西日を浴びたクリーニング店の横から住宅街に入る。

30分ぐらい、アパートや住宅が立ち並ぶ小路を歩くと、広い原っぱに出る。
この原っぱが、昔の河川敷であったらしい。
草深い原っぱの一本道の向こうに、こじんまりと築かれた堤防がある。




堤防の上からは、川の上流方向に、山頂付近が黒い雪雲に覆われた高い山が見えた。
川の源流のひとつは、この山の中腹あたりを流れている。

その流れがここまで届くのに、どれぐらいの時間がかかるのだろう。
そう思って川面を見下ろすと、四羽の鴨が列を組んで泳いでいる。
今夜のねぐらをさがして、さまよっているのだ。

ふいに「鴨の放浪家族」という言葉が思い浮かんだ。
なぜか、そういうふうに見えたのだ。

すると、あの鴨たちは人間の放浪家族が魔法をかけられて鴨の姿になったのでは、と思えてきた。
そう考えたら、人間の親子以外のなにものでもないように見える。
暗くなりかけた川面を不安げに寄り添って泳いでいる。
妙になつかしい気がした。

かつて私もそうだったような郷愁が、私の脳裏をよぎった。
ひょっとしたら私は、放浪の鴨が魔法をかけられて人間の姿になったのではないか。




愛犬は、そんな私の感傷におかまいなし。
堤防の端の草むらの匂いを嗅いでいる。

堤防道路の上流側から、小さな犬を連れた女性が歩いてくる。
むこうさんも、愛犬の散歩のようである。

背の高い女性で、ロングドレスをなびかせている。
まるで洋館住まいのような、お上品なおスタイル。

女性が、大きな口を開いて「こんにちは」と声をかけてきた。
暗くなりかけているが、「こんばんわ」にはまだ早い。
黄昏、またの呼び名は逢魔ヶ時(おうまがとき)である。

私の愛犬は知らん顔をして、道端の草を食べている。
「いつもこちらをお散歩ですか?」と目を光らせて興味深げな女性。
長い道を歩いてきて、ようやく人に出会ったという感じだ。
「いや、うちの犬が、たまたまこっちに来たものだから」と私。

「えっ」と女性はびっくりした様子。
ちょっと大仰な身振りであった。
「それじゃあなたは、ワンちゃんについて来たの?」と女性。
「そうですよ、犬の散歩…

◆今まで書いた記事一覧(この文字をクリックすると展開します。)

スポンサードリンク