2020/09/17

「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」異論もありかな

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

藤原敏行朝臣の作とされているこの歌は、秋になるとよく耳にする歌のひとつである。
すぐれた秋の歌として、多くの人たちに愛吟されている。

私もこの歌に出会ったころは、「ああ、なんて良い歌なんだろう」と思った。
秋の到来が風の音で表現されていて、心が洗われるような清々しさを感じたものだった。

ところが、このごろの私は、そんなに「良い歌だ」とは思わなくなっている。
この歌に、何か、しらじらしいものを感じてしまうのだ。

それは、なぜだろう。

私の感想などシロートの戯言のようなものなのかもしれない。
古来よりこの歌は、「古今和歌集」に入集(にっしゅう)するなどして称賛されてきた「秀歌」なのである。

現代における「古今和歌集」の評価はともかく。
当時「勅撰集」に採用されるということは、公に「良い歌だ」と認められることである。
大王(おおきみ:天皇や上皇)認定の「秀歌」に「しらじらしい」とイチャモンをつけるなど、無礼千万なこと。

しかし私のなかでは、秋は目で見つけるものであるという根強い思いがあるのだ。
その思いは、「秋きぬと」の歌との出会いのはるか前に、サトウハチロー氏の「小さい秋みつけた」という歌によって育まれたものである。

庶民詩人の詩を愛読していた私は、たしかに宮廷詩人との出会いに新鮮な感覚を覚えた。
だが、私のなかの庶民としての視点は根強いものだった。
私の庶民的な視点は、「秋きぬと」の歌に「小さい秋みつけた」的な思いが欠落していることを私に気づかせたのだった。

歌は季節を詠むものであるから、歌人が季節の変化を見逃すはずは無い。
というのが私の、この歌にたいする「疑念」の発端となっている。

優れた歌人なら盛夏の最中であっても、「ちいさい秋」を見つけることができるはずである。
当然、藤原敏行朝臣も秋の兆候である「ちいさい秋」に気がついていたことだろう。
どこからともなく飛んでくる赤とんぼを目にしたり、鈴虫の鳴き声を耳にしたり。
日中の暑さは夏のものだが、朝晩の涼しさに過ぎ去る夏を感じたり。
稲が実り、果物が実り、ススキが花を咲かせる。

でもそういう兆候から目を逸らして、「秋が来たという変化は、まだ私の目にははっきりと見えないけれど」というしらじらしい前提を、歌を読む者に突きつける。
その前提を盾にして、「風の音で、突然、秋の到来を知り、はっと驚いたよ」と今更ながら読者に告げる。
ずいぶんわざとらしい歌であると感じるのは私だけだろうか。

たとえ和歌の愛好者が平安時代の農民や商人であっても、彼らもまた歌人同様に自然の変化に敏感だったはずである。
自然からの情報をもとに暮しを成り立たせていたからである。
そんなファンを前にして「風の音で、突然、秋の到来を知り、はっと驚いたよ」はないでしょう。

「私の疑念の発端」に話をもどそう。
藤原敏行朝臣は、なぜ「ちいさい秋」を無視せざるを得なかったのだろう。

この歌は「古今和歌集」に、秋の部の巻頭歌として収録されている。
歌の前に「秋立つ日詠める」という詞書(ことばがき)がついている。
どうやら「秋立つ日」という詞書に、私の疑念の答えがありそうだ。

「秋立つ日」とは立秋のこと。
立秋とは、「二十四節気(にじゅうしせっき)」のひとつ。
「二十四節気」とは、一年を春夏秋冬の四つに分け、さらにそれぞれの季節を六つに分けたもの。
一年を二十四等分した形の暦で、春夏秋冬の自然を数理的に区切ったものである。

この方法は、中国の戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)の頃に作られたと言われている。
「二十四節気」が日本に伝わったのは、平安時代の初め頃とのこと。
藤原敏行朝臣は平安時代前期の歌人である。

さて、ここからは私のヘッポコ推理になる。
藤原敏行朝臣は多くの日本人同様に、季節の移ろいを目で追っていた。
ところが、世の中に「二十四節気」なる自然の見かたが流行りだした。

「二十四節気」は、古代中国での農作業の目安として作られた暦である。
それが平安時代に日本に伝わったということは、日本の農業が「二十四節気」を応用しようとしたのかもしれない。
あるいは、農作業とは無関係に、宮廷貴族の間で「春分」や「夏至」が風流であるからと「二十四節気」がもたらす季節感を重宝したのかもしれない。

いずれにしても、平安歌人たちは、「二十四節気」を頼りに、安易に春夏秋冬を感じとるようになった。
「二十四節気」は平安歌人達の「歌の参考書」になったのである。
極端なことを言えば、「立秋」になる前に秋の歌を詠むのは野暮とか、そんな傾向が頭をもたげていたのかもしれない。

このことに、藤原敏行朝臣は大いに驚いた。
まさに、「二十四節気」は、安易な季節感の「風の音」だったのである。
実際の季節の機微は、誰の目にも「さやかに見えねども」になりつつあるなと危惧した。
「二十四節気」には「小さい秋みつけた」が無いじゃないかと、藤原敏行朝臣がひそかに憤ったかどうかは定かではない。


定かであるかもしれないのは、紀貫之(きのつらゆき)の「二十四節気」に対する「執着」である。
「古今和歌集」の撰者であった紀貫之は、自ら「二十四節気」を意識した歌を「古今和歌集」に収録している。

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ

この歌の詞書は「春立ちける日よめる」となっている。
「二十四節気」の「立春」の日に詠んだ歌である。

この歌を私は「夏に袖を濡らして水遊びをしていた水が冬には凍ってしまったが、『立春』の今日の風がその氷を溶かして再び夏の水にもどしている」と「解釈」している。
極端に言えば、「立春」になったから氷が溶けたのだという歌である。

さらに紀貫之の「古今和歌集」収録の歌をもうひとつ。

川風の涼しくもあるかうち寄する波とともにや秋は立つらむ

この歌の詞書は「秋立つ日、うへのをのこども、賀茂の河原に川逍遥しける供にまかりてよめる」となっている。
「立秋」の日に詠んだ歌であると詞書に記し、「立秋」になって川風が涼しくなったと詠っているのだ。

「うへのをのこども」とは、殿上人(てんじょうびと)たち、あるいは殿上に出仕する男性たちのこと。
「川逍遥」とは川遊びのこと。
平安貴族は、よほど水遊びが好きだったようである。

それはともかく、この歌でも紀貫之は「立秋」という暦の概念を題材にしている。
「立秋」という「二十四節気」の視点から自然を詠っているのである。


これに反して藤原敏行朝臣は、古来からの日本人の自然に対する視点を守りたかったのではないかと私は思っている。

紀貫之は、平安時代前期から中期にかけて活躍した歌人である。
紀貫之の、「二十四節気」自然観で作られた歌を、藤原敏行朝臣が読んでいたかどうかは私には不明である。
藤原敏行朝臣の没年は、901年(昌泰4年)とも907年(延喜7年)とも言われている。
一方、「古今和歌集」の奏上は、905年(延喜5年)とも912年(延喜12年)とも言われている。

だが、藤原敏行朝臣は、暦をもとにした歌作りが流行ることを予測していたのではないだろうか。
そしてそれを「秋きぬと」で痛烈に皮肉ったのである。
そう私は思っている。


ここでもう一度「秋きぬと」を見てみよう。

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

この歌の私なりの意訳は以下のとおりである。
「秋になったと暦が示すと、歌人たちはそのことに目を奪われて、目の前の自然を見ようとしない。あちこちから聞こえる『立秋』というささやきが、まるで暦に従えという『風の音』のように聞こえてきたので驚いてしまったよ」

この歌には、藤原敏行朝臣が「二十四節気」で季節感を理解することに、文化的な危機を感じている様子がうかがえる。
歌は、季節の兆候を見出して作るものだという藤原敏行朝臣の歌論のようなものを感じるといえばおおげさだろうか。

「秋の到来が風の音で表現されていて、心が洗われるような清々しさ」という表のムードの裏には、藤原敏行朝臣の「二十四節気」風自然観にたいする不満が貼りついているように私は感じている。
そういう作者の不満をこの歌に感じてしまうと、この歌の持っている情緒が薄れ、「ああ、なんて良い歌なんだろう」という感動が私の中で消えてしまうのである。


私をそういう気分にさせている藤原敏行朝臣のもうひとつの歌をここに上げよう。

白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん

 
この歌も、「古今和歌集」に収録されている。
「白露(しらつゆ)」とは、白く光って見える露のことであり、「二十四節気」の「白露(はくろ)」のことでもある。

この歌の一般的な解釈は以下の通りである。
「木の葉の上の白く光って見える露は一色なのに、秋になるとその露がどのようにして木の葉を様々な色に染め上げるのだろうか」
この歌の詞書に「是貞のみこの家の歌合によめる」とあるから、歌合せの相手に対して問いかけている歌であることがわかる。

しかしこの歌は、暦を歌の題材に多用しがちな風潮に対する問いかけのようにも私には思えるのだ。
「暦にある白露はひとつの概念でしかないのに、その概念をどのように用いれば秋の様々な紅葉や様々な自然の機微を表現することができるのだろうか」という藤原敏行朝臣の問いかけである。

「秋きぬと」の歌にしらじらしさを感じるとしたら、それは、季節感を「二十四節気」から得ようとする平安歌人にたいして感じた藤原敏行朝臣の興ざめした気持ちが伝わってくるからではあるまいか。

これがこの歌にたいして抱いた私の「疑念」の答えである。

2020/08/22

センニンソウかなと思ったらボタンヅルだった

ボタンヅルの花
ボタンヅルの花。


滝沢山地の沢に沿った広い林道の林縁で見つけた花。
センニンソウかなと思ったが、帰宅して調べたら、ボタンヅルだった。

ボタンヅルは、キンポウゲ科センニンソウ属の落葉つる性半低木。
キンポウゲ科には有毒植物が多いが、ボタンヅルも有毒である。

「半低木(はんていぼく)」とは、茎の根元の部分が木質化し「木本」と「草本」の中間の性質を持つ植物のこと。
地中や根元で数本の幹に分かれ、主幹が不明瞭のものが多いとされている。
半低木として知られている身近な野草にヨモギがある。

白い花弁に見えるものは萼片(がくへん)である。
萼片の役割は、蕾のときに花を包み込んで保護すること。
また萼片(萼)は、花が咲いたら、花弁を支える役割もあるとのこと。

花弁の役割は、内側にある雄しべと雌しべを保護すること。
その他に、花粉を運ばせるために、昆虫にたいしてアピールする役割もあると言われている。

ボタンヅルの花弁のような白いものは萼片であるから、ボタンヅルには花弁がないことになる。
というか、萼片が花弁の役割を果たしているのだ。
それならこの白いものは花びらでいいじゃないかと、トーシロの私は思いたくなるが、萼は萼であるらしい。
植物の世界は微妙である。

ボタンヅルとセンニンソウはそっくりに見える。
通りすがりに見た程度では区別がつかない。
センニンソウのほうが名が売れているので、この花を見るとセンニンソウかなと思いがちだ。
しかし、それぞれ明確な特徴を持っている。

以下にボタンヅルの特徴を上げる。
●葉が三出複葉【センニンソウ:奇数羽状複葉/小葉の数は5枚が多い】
●雄しべ(細くて多数あるやつ)が萼片とほぼ同じ長さ【センニンソウ:雄しべが萼片より短い】
●蕾の頭が丸い【センニンソウ:蕾の頭が尖っている】

ここにあげた写真ではわかりにくいが、おおきな違いは葉の付き方。
三出複葉(ボタンヅル)と羽状複葉(センニンソウ)の違いは明確である。
さらに、蕾の頭に注目すれば、見分けは私みたいなトーシロでも可能である。


ボタンヅルの蕾
蕾の頭が丸い。雄しべが萼片と同じ長さ。

葉の様子
葉は三出複葉。茎に稜角あり。

葉の様子
葉が牡丹の葉に似ているのでボタンヅル。

ヒバの林床に顔を出していたベニナギナタタケとキソウメンタケというキノコ

ベニナギナタタケ
独特の存在感で、ベニナギナタタケが束生している。


今日は、下折紙沢の沢の中を歩いて、ちょっと涼んだ。
沢から川原に上がると、川原のなかに平坦な丘のような場所があった。
まるで谷の中の舌状台地。
幅が10メートルぐらい、高さが2メートルぐらいのミニ舌状台地である。
沢に平行して下流のほうへ200メートルほど伸びている。
台地の上がヒバの林になっていた。

ここのヒバの林床には、草が生えていない。
ヒバの落葉や広葉樹の落葉が敷き詰められていて、黒っぽい地面になっている。
黒い地面からニョロニョロ、キノコが伸びていた。
猛毒のカエンタケかなと思ったが違うようだ。
カエンタケに似ているが、カエンタケはもっとズングリムックリしている。
このキノコは、細長くてヒョロヒョロ伸びている。

帰宅してから調べてみたら、ベニナギナタタケとキソウメンタケだった。
両者とも外形は、ほぼ同一。
色が赤っぽいのがベニナギナタタケ。
黄色いのが、キソウメンタケ。

二種ともシロソウメンタケ科のお仲間であった。
ベニナギナタタケは、古くなると脱色してオレンジ色とかピンク色になるという。
てことは、私がキソウメンタケとみたキノコは、脱色したベニナギナタタケである可能性もある。

いや、それはない。
オレンジ色がかった黄色いキノコは、地面から顔を出したばかりの細いものも、オレンジ色がかった黄色い色で、古くなって赤色が脱色したようには見えない。
ちょっとややこしいが、オレンジ色がかった黄色いキノコは、キソウメンタケに間違いない。

それはそうと、ヒバ林にキノコが生えるなんて珍しい。
青森ヒバには、抗菌作用のあるヒノキチオールという成分が豊富である。
キノコは、言わずと知れた菌類である。
抗菌作用が豊富である林のなかは、キノコにとって好ましくない生育環境である。
なのに、ニョロニョロとキノコ。

ヒバの林にキノコ類が少ないのは事実である。
私は、長年ヒバ林を散策してきたが、ヒバの倒木にキノコが付いているのを見たことがない。
ベニナギナタタケとキソウメンタケは、ヒバ林でも平気なキノコなのだろう。
ヒバ林のなかで、こんなキノコに出会ったのは初めてである。


ベニナギナタタケ
鮮やかな紅色のベニナギナタタケ。

ベニナギナタタケ
クネクネしているベニナギナタタケ。

キソウメンタケ
束生したり単生したりのキソウメンタケ。

キソウメンタケ
ヒバの大木の下にキソウメンタケ。

キソウメンタケ
束生しているキソウメンタケ。

下折紙沢沿いの林道脇で咲いていたツルニンジンの花

ツルニンジンの白っぽい花
広鐘形のツルニンジンの花。


滝沢山地の林道の林縁で、ツルニンジンの花に出会った。
ツルニンジンは、キキョウ科ツルニンジン属の多年草。
蔓植物である。
別名は「ジイソブ」。

ジイソブは、「爺のソバカス」という意味の長野県木曽地方の方言とのこと。
「ソブ」がソバカス。
ツルニンジンによく似た野草である「バアソブ」に引っ掛けて「ジイソブ」という呼び名が普及したと言われている。
婆に対して爺。

バアソブもキキョウ科ツルニンジン属の植物で、ツルニンジンのお仲間である。
お仲間というか、日本に自生しているキキョウ科ツルニンジン属の野草は、ツルニンジンとバアソブしか無いとのこと。
ツルニンジン属には爺と婆しかいない。

見分け方は、ツルニンジン(ジイソブ)の方が花が大きくて、花の表が白色であることが多いとされている。
バアソブの特徴は、葉の裏面や縁に白い毛が付いていること。

ツルニンジンに比べて、バアソブの個体数は希少であるとされている。
バアソブは、環境省レッドリストで「絶滅危惧Ⅱ類(VU)」に指定されている。
「絶滅危惧Ⅱ類(VU)」とは、絶滅の危険が増大している種のこと。

いつかバアソブにも出会いたいものだ。
バアソブの別名は、ヒメツルニンジン。
婆よりも姫の方が可愛い。

ツルニンジンとよく似た名前の植物にツリガネニンジンがある。
ツリガネニンジンはキキョウ科ツリガネニンジン属の植物で、割とよく見かける。
ツルニンジンは、ツリガネニンジンと名前が似ていて、科が同じお仲間であるようだ。


ツルニンジンの葉
ツルニンジンの葉。

蔓性植物
蔓性植物。

葉
葉。

下から撮影して、ツルニンジンの花の内側を見る
ツルニンジンの花を下から撮影。

2020/08/15

雲谷高原の林の中に咲いていたヌスビトハギ

ヌスビトハギの花
ヌスビトハギの花。


名前は聞いたことがあるが、まだお目にかかったことのない野草。
ヌスビトハギ。
雲谷高原の林の中を散歩していたら出会った。

雑木林の林床に群がって繁茂している。
群生というほどではないが、小規模の群れが点在している様子である。

ヌスビトハギは、マメ科ヌスビトハギ属の多年草。
私などは、マメ科とくれば、葉が羽状複葉が多いと決めつけているがヌスビトハギは三出複葉である。

同じマメ科のヤマハギも三出複葉。
なによりも、マメ科のシロツメクサ(クローバー)が三出複葉である。
マメ科の葉は、羽状複葉と決まっていない。
いろいろござる。

ヌスビトハギの花は蝶形花(ちょうけいか)。
蝶形花もマメ科の植物に多い花の形。
蝶形花とくればマメ科。
これも、私のあやしい「決めつけ」となっている。

花は小さくて可憐なのだが、名前が「ヌスビトハギ」とはどういうことだろう。
「盗人」と冠せられるほど、この草は悪さをしたのだろうか。

「ヌスビトハギ」の命名には諸説あるようだ。
いちばん出回っているのが、「果実が泥棒の足跡に似ているため」というもの。
私は、ヌスビトハギの実も泥棒の足跡も見たことがない。
ヌスビトハギが結実するころ、また雲谷高原に出かけてみよう。

ところで、「ヌスビトハギ(盗人萩)」のような変な名前をあてがわれている野草にたまに出会う。
「ヘクソカズラ(屁糞葛)」とか「ママコノシリヌグイ(継子の尻拭い)」とかが代表的なもの。

それ相応の由来があって変な名前が付けられたのか。
変な名前の後に、もっともらしい由来が付け加えられたのか。
私には、知る由もない。
草に付けられた変な名前が、世間一般に広く普及しているのだから、野草に対して変な思いを抱いている人が多いということだろう。

そういう人から見れば、多くの人が「雑草」として嫌っている草を愛でているのだから「野草ファン」も変な人に違いない。

追伸:「雑草」という草はない。草には、その存在を示す名前がある。


ヌスビトハギの三出複葉
葉は、三出複葉。

ヌスビトハギの花と茎と葉
花と茎と葉。

青い森セントラルパークで咲いていたイヌエンジュの花

イヌエンジュ
イヌエンジュ。


青い森セントラルパークは、八重咲きムクゲの花盛りだった。
のんびりと公園の中を散歩していたら、西の端でイヌエンジュの白い花が咲いていた。
こちらも花盛り。

イヌエンジュの総状花序に鼻を近づけると、かすかに甘い香りがする。
香りは、ハリエンジュ(ニセアカシア)ほど強くはない。
ハリエンジュは春に、強い香りをあたり一面に漂わせる。
その香りに誘われて、ミツバチが飛んでくる。
青森県産の「アカシア蜂蜜」は、ハリエンジュの花の蜜を原料にしている。

ハリエンジュの花期は5~6月である。
イヌエンジュのは、7~8月。
イヌエンジュの蜜も、「アカシア蜂蜜」の原料になっているのだろうか。
それは、私には不明。

イヌエンジュの総状花序を覗くと、なるほど花の形がマメ科っぽい。
葉も奇数羽状複葉でマメ科っぽいのだが、遠くから見るとマメ科の樹木には見えない。
ハリエンジュにくらべて、葉が大きいせいだろう。
それに、ハリエンジュの総状花序は垂れているが、イヌエンジュのは立ち上がっている。
このへんの違いでイヌエンジュは、同じマメ科のハリエンジュのお仲間にはなかなか見えない。

アイヌ民族は、イヌエンジュの木を「チクペニ」と呼んで、墓標にしたとのこと。
また、「悪い神様」や「魔物」や「伝染病」から身を守るために、チクペニの枝でお祓いをしたと言い伝えられている。

わたしたちにとっては、イヌエンジュはハリエンジュほどに知られていない。
利用されてもいない。
自然と共生する生き方が身についているアイヌ民族にとっては、イヌエンジュは生活や信仰に欠かせない資源だったのだ。
それだけに、イヌエンジュを熟知していたことだろう。

自然と共生するために、自然のことを知る。
自然を知って、生活のスタイルを変える。
わたしたちは自然を知って、それに関連した文化を知り、日常の気分を変える。

チクペニの幹や枝の強い香りで「コロナはらい」を行うのも気分転換に良いかもしれない。


イヌエンジュの総状花序
イヌエンジュの花

幹
幹。

マメ科っぽい花の形
花をアップ。なるほどマメ科だ。

イヌエンジュの葉をズームアップ。
葉。奇数羽状複葉。

海辺の草むらで繁茂しているブタクサ(ブタクサモドキか?)

ブタクサ属
これから伸びていく花穂。


海辺の空き地の草むらに咲いているオオアカバナを見に行ったら、ブタクサと出会った。
空き地の海寄りの場所に、かなりの勢いで繁茂している。
花穂がこれから伸びようとしているところである。

でも、ブタクサにしては葉が細い。
ブタクサの葉はヨモギの葉に似ているが、ここのブタクサの葉はニンジンの葉を連想させる。
インターネットで調べてみたら、ブタクサモドキではないかとも思えてきたが、判然としない。

モドキ(擬)と言われるだけあって、ブタクサとブタクサモドキはそっくりである。
花穂がもっと伸びて、花が開く頃でないと判別できないかもしれない。

いずれにしても、ブタクサ属の野草であることに間違いはない。
ブタクサもブタクサモドキもキク科ブタクサ属の植物。
ともに北アメリカ原産の帰化植物である。
「外来生物法」によって「要注意外来生物」に指定されている。

ブタクサ属は、花粉症の原因植物として有名である。
日本国内では、スギやヒノキに次ぐ患者数が存在するとのこと。
秋の花粉症の代表的なアレルゲンとなっている「嫌われもの」なのである。

私の知り合いにも、ブタクサ属がアレルゲンとなっている花粉症患者がいる。
彼女は「ブタクサ」と聞いただけで、鼻の奥がむず痒くなるという。
こんな写真を見せたら、クシャミ連発であろう。


ブタクサ属
葉が細め。

ブタクサ属
横顔はブタクサモドキか?

海辺の空き地に繁茂していたオオアカバナ

オオアカバナの花びら
オオアカバナの花弁。


海辺の空き地でオオアカバナを見たという話を、野草好きの知人から聞いたので行ってみた。
埠頭の突端の方へ進むと、なんとオオアカバナの群落が形成されつつあった。
草むらのなかにピンクの可憐な四弁花が点在している。

オオアカバナは、環境省のレッドリストで「絶滅危惧Ⅱ類(VU)」に指定されている。
青森県以外では、ほとんど見かけることが無くなったとされる野草だが、私の近所ではけっこうお目にかかれる花である。
2018年9月20日に車道脇の側溝から伸びているオオアカバナに出会ったこともある。

ここで私がオオアカバナを最後に見たのは、2015年9月6日であった。
それ以来今日まで、ここではオオアカバナの姿は見ていない。
ひょっとしたら、気がつかなかっただけかもしれない。
もうここのオオアカバナは無くなってしまったと思いこんで、注意深く探さなかったのだ。
先入観は旺盛だが、観察眼に欠ける「自称野草ファン」であった。

最初に私がオオアカバナを見つけたのは、ここから西側の石ころで埋まった荒れ地だった。
湿った草原を好むオオアカバナにとって、石ころだらけの荒れ地は、厳しい生息場所であったに違いない。
ここの埠頭は強い西風が吹いていることが多い。
きっと、オオアカバナのパイオニアの種子が、石ころだらけの荒れ地から西風に乗って、ここへ飛んで根付いたのだろう。

この草むらでは、秋の終わり頃になると雀の群舞が見られる。
なぜここで雀は群舞するのであろうか。
おそらくエサになる種子が多いからだろう。
夏から秋にかけて、この草むらには様々な野草の花が咲き乱れる。
その結果、豊富な果実が地面にばらまかれるのだ。
よりどりみどり。
雀の乱舞は、秋の実りのお祭りであったのだ。

オオアカバナの種子は、小鳥で運ばれることが多いと聞いたことがある。
ここのオオアカバナのパイオニアを救ったのは、秋の終わりに乱舞した雀かもしれない。
などと考えながら、一眼レフを携えて、猛暑の埠頭をさまよった次第である。


オオアカバナの茎
オオアカバナの立ち姿。

花びらの拡大写真
雌しべの柱頭が4裂している。

2020/08/13

三好橋

遠方で暮らしている姉からメールが届いた。
そのメールには、雪の積もった川原を歩く小さな人物のモノクローム写真と、ワープロで書かれたと思われる短いメモの写真が添付されていた。

そのメモによると、古いモノクローム写真の裏には「S42.1 岩木川有料道路 ○○○○」と書かれていたという。
「○○○○」は私たちの母親の名前である。

姉は従兄弟から送られてきた写真を、メールに添付して私に送ってきたのだった。
それから察すれば、この写真を撮ったのは昭和42年1月当時の従兄弟である。
このメモも、近年になって古い写真を見つけた従兄弟が書いたもの。
写真に写っている母は、当時は45歳になっていたはずである。

メモの後半には、以下のような内容の文が綴られてあった。
これらは、古い写真を見つけた従兄弟が、写真を見て思い出したことを書いたメモを、私がまとめたものである。

(1)岩木川に架かっている三好橋の取り壊しが始まって、橋を渡ることが出来ない時期があった。
(2)橋の近くの凍った川面にロープが張られ、歩くべき道がわかるように目印として葦の茎を雪に差し込んであった。
(3)その道には、箱が設置されていて、百円ぐらいの利用料金が徴収されていた。
(4)従兄弟は、私の母から、氷が割れて自分が川に落ちるかもしれないので、渡りきるまで見てほしいと頼まれたという。
(5)従兄弟は母親を見送りながら、「なぜか、悲しい・寂しい思い」を覚えたという。

モノクローム写真の右端には、多数の橋脚を抱えた百足のような木造橋が写っている。
これが昭和42年頃の三好橋である。
写真の母は、雪の積もった河川敷を対岸の旧出野里村を目指して歩いている。
生家を訪れた母が、自分が暮らしている家へ戻る途中の写真である。
母が進んでいる前方に、川筋のようなラインが写っている。

上空には黒っぽい雲がかかっていて、いまにも雪が降りそうな空模様となっている。
広い雪原の川原と対岸の白い堤防と曇天の空。
その風景に押しつぶされそうなほど小さな母が、黒い影となって凍った川を渡ろうとしている。
写真からは、防寒着を着た母が、右手にカバン、左手には風呂敷包みのようなものを持っているのがわかる。
これが母の日常のスタイルであった。
日常のスタイルのまま、非日常的な場所に足を踏み入れたのである。

平成11年に「社団法人 日本橋梁建設協会」が発行した「虹橋」という資料をインターネットで見ることが出来た。
その小冊子に「橋ものがたり【青森の橋】」という特集記事があって、三好橋が取り上げられている。

以下はその抜粋である。
「旧三好橋は、昭和29年に木橋で架けられ、西北地区の交通に重要な役割を果たしてきたが、昭和41年8月12日の豪雨出水により、全長342mの内、流心部132mが流され、これを契機に災害復旧費と改良費とを合併して架替に着手、昭和46年3月に完成した。」

この記事を参考にすると、三好橋は橋の中心部より出野里村寄りの位置で、全体の三割近い部分が流失したことになる。
このあたりの岩木川の河川敷は、三好村側の方が広い。

その流失部分は写真には写っていない。
橋は、写真の右端上で切られていて、川の流心部分に当たる橋は写っていない。
とすれば、写真の母は、恐る恐る川の上を歩いていたことになる。
前述した「川筋のようなライン」とは、川面と向こう岸にできた段差のラインなのだ。

道理で写真の母の歩幅が狭いはずである。
一歩一歩確かめるような足取りで、母が凍った川の道を歩いている写真だったのだ。
こんなふうに写真を見ていると、この写真のテーマが見えてきた。
それは、撮影者が無意識のうちに写してしまった現実であるのかもしれない。

昭和42年といえば、「高度経済成長」が後半期に入った頃。
日本の自動車生産台数がアメリカに次いで世界第二位になった年。
橋は物流の象徴となり、辺境の地である津軽半島の村にもその波が押し寄せていたのである。

木橋を、鋼材とコンクリートの近代的な橋に架け替えるために解体する。
そのすぐそばで、凍った川を恐る恐る渡らなければならないという古い習慣に支配された、原始的とも言える行動を余儀なくされる。
このモノクロームの写真は、「高度経済成長」と「古い習慣」との対比が、隠れたテーマとなっているように思えるのである。

そういう習慣がなければ、人は凍った川を歩いて渡らないであろう。
母の川渡りは、きっと古い習慣に裏打ちされた行為なのだ。

しかも、そんな危険をおかすのに料金を取られてしまう。
凍った川に道をつくって、人を渡らせて小遣いを稼ぐという習慣。
二重に古い習慣を、母同様に多くの人たちが渡っていたのだろう。

写真の撮影者である従兄弟はこのとき「なぜか、悲しい・寂しい思い」を感じたとメモに書いている。
「悲しい・寂しい思い」の出どころが不明なのである。
それはこの津軽半島の寒村の冬景色に、あまりにも多くの「悲しさ」や「寂しさ」が混沌と染み込んでいたせいではあるまいか。

慣れ親しんだ木橋が、近代に飲み込まれて解体されるという寂しさ。
危険だと思っても、古い習慣に従わざるを得ない叔母の悲しさ。
危険な場所を、葦を立てることで有料道路にしてしまう地域の風習の悲しさ。
さらに、危険と知りつつも、そのなかに身をおいてしまう捨て身な叔母の気質の寂しさ。

千切れた百足のような三好橋は、それらの「悲しさ」や「寂しさ」の象徴として、風雪のなかに身をさらしていたのかもしれない。

WordPress5.5にアップデートしたら投稿ページや固定ページのブロックエディタにエラーが出て編集できなくなった


WordPressを最新バージョンにアップデートしたら、記事の編集ができなくなった


昨夜WordPressのダッシュボード(管理画面)を開いたら、WordPress5.5_JPのアップデート通知が届いていた。
以前にも書いたが、私の「イラスト素材」サイトは、WordPressで作っている。

いつもは自動アップデートするのになあと思いながら「更新」ボタンを押してWordPressを5.5にバージョンアップした。
そのあと、書きかけの投稿を編集しようとして編集画面を開いたら、あらあら、ブロックエディタが崩れてしまって、記事や画像を追加することが不能になっていた。
これは大変。

WordPressのバージョンは、常に最新のものにしておくことがサイトのセキュリティーを保つ上で重要であるとされている。
また最新バージョンは、パフォーマンスの向上や編集機能を向上できるように作られているはず。
なので私は、WordPressの最新バージョンが発表されると、躊躇することなくアップデートしている。

もちろん、WordPressサイトのPHPバージョンも最新のものにしている。
サイトのダッシュボードに、PHPバージョンを最新のものするように通知がくるので、それに従っているのだ。

WordPressのバージョンをダウングレードする?


アップデートされたWordPress5.5_JPが、私がサイトで利用しているテーマやプラグインと互換性が無いためにエラーが生じているのは明確である。
アップデート直後のエラー発生であるのだから。
こういうことは、WordPressを利用していれば、起こりうることであると言われている。

こういう場合は、バージョンアップしたWordPressサイトをダウングレードすれば解決する場合がある。
WordPressが正常に動いていたバージョンに戻すのである。
私の場合、昨夜アップデートする前のバージョンに戻せば、正常に動くはずである。

ダウングレードするには、いろいろな方法があるらしいが、WordPressをダウングレードするためのプラグインである「WP Downgrade」をインストールして使うと比較的容易にできる。

「WP Downgrade」をインストールしようかと思ったが、「急いては事を仕損じる」結果になることもある。
一日置いてから対処することにしようと決めた。

WordPressサイトのテーマである「Luxeritas」を最新バージョンにアップデートして解決


今日WordPressの編集画面を開いてみたが、ブロックエディタのエラーは昨夜のままだった。
「イラスト素材サイト」のダッシュボードをよく見ると、「WordPressイベントとニュース」という欄に、「WP 5.5-jpにアップデート後、固定ページの編集が不可に」というユーザーの報告があった。
同様の報告がもう一件あって、お二方ともWordPressのテーマは「Luxeritas(ルクセリタス)」を使っているとのこと。

俺と一緒じゃん。

なお、訳知りなユーザーからの「このエラーに関しては、テーマ『Luxeritas』を3.10.0にアップデートすれば直ります。」というアドバイスも載っていたので、「Luxeritas」制作者のホームページに飛んで、「Luxeritas」の最新バージョンがリリースされていることを確認した。
制作者の「るな」さんが、「WP 5.5 での大幅なブロックエディタ変更に対する対応」として、さっそく「Luxeritas 3.10.0 」をリリースしてくださったのだ。

るなさん、お盆の忙しい中ありがとうございます。


「Luxeritas」を「3.10.0」にアップデートして、私が使っているブラウザであるGoogle Chromeのキャッシュを削除したら、投稿ページも固定ページも編集可能状態にもどった。
フーッ、良かった。

さて、最新バージョンである「WordPress 5.5『エクスタイン』」は、「スピード、SEO、セキュリティの3つの主要分野で新たな力を発揮します。」と謳われている。
日々進化しているWordPressに触れる楽しみが多くなりそうである。
最新バージョンの細かい部分の使い勝手が、まだしっくりこないが、まあそのうち慣れることだろう。

2020/08/11

久しぶりに一眼レフでアカバナをクローズアップ撮影した

アカバナの花
アカバナの花。

花弁の拡大写真
花を拡大。


事務所の駐車場の側溝に根付いているアカバナが、花を咲かせていた。
ここのアカバナを撮影するのは、2018年9月1日以来である。
前回の方が花の数が多かったので、ここのアカバナはこれから9月にかけて花盛りをむかえるのだろう。

今日は、久しぶりに一眼レフで撮った。
機種は、キヤノンの「EOS Kiss X7i」
レンズは18-55mm。
本格的なマクロ撮影は出来ないが、マクロ撮影的な雰囲気のあるクローズアップ撮影ができるレンズである。

前回の写真も、それなりにクローズアップ撮影になっていたが、コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)で撮ったものなので物足りなさがある。
一眼レフの方が、背景のボケ味が良い。
被写体の鮮明さも一眼レフならでは。
アカバナの茎に生えている短い腺毛をはっきりと見ることができる。

花の様子もわかりやすい。
アカバナの花弁は4枚。
花の直径は6mm~10mm。

花びらの形は倒卵形で、先端が浅く2裂している。
萼片は4個。
雄しべは8個で、そのうちの4個が長めである。
上の花の写真では、1個の長めの雄しべが、雌しべの陰に隠れている。

雌しべは1個で、雌しべの白い柱頭が棍棒状になっている。

一眼レフでの野草の撮影は、なかなか楽しい。
楽しさを思い出したアカバナ撮影だった。

ただ、写真を見ればわかる通り、まだ未熟な自己満足の世界である。



アカバナの茎
アカバナの茎。短い腺毛が生えている。

アカバナの蕾
蕾。葉にも腺毛が多い。

アカバナの葉
葉。粗い鋸歯がある。

2020/08/05

道端の街路樹の根元に群生していた微小な花、ヌカイトナデシコ

ヌカイトナデシコ
ヌカイトナデシコの花。


愛犬の散歩で見つけた花。
ものすごく小さな花で、以前から気になっていたのだった。
今日、名前を知ることができて、気分がスッキリ。

花の直径は3~4ミリぐらい。
草丈は、10~20センチ。
細い葉が茎の節(ふし)を抱くように対生している。
葉も細いが、茎は更に細くて糸のよう。

インターネットで調べたら、ヌカイトナデシコという一年草だった。
所属は、ナデシコ科カスミソウ属。
ヨーロッパ原産の帰化植物であるという。
ヌカイトカスミソウやワイセイカスミソウという別名がある。
開花時期は6月から9月でけっこう長い。

なかなか謙虚な帰化植物で、目立たずにひっそりと咲いている。
態度がでかい帰化植物が多いなかで、ヌカイトナデシコちゃんなら、まあ許せるかなてな感じの草である。

「1997年の神奈川県横浜市での記録が初めて」とウィキペディアにあるから、まだ新しい帰化植物であるらしい。
私の「山渓カラー名鑑・日本の野草」には載っていない。
私が持っている版は、1996年10月発行だから、載っていないのは当然か。

果実は蒴果(さくか)とのことだが、花から想像して、かなり微小な果実であろうから、肉眼での観察は無理かな。
特に老眼では、無理無理。


ヌカイトナデシコ
群生。

淡いピンクのヌカイトナデシコ
早朝なので、花は開いていない。

2020/07/30

草かと思っていたらキササゲという名の木だった

キササゲの白っぽい花
キササゲの花。


愛犬の散歩の途中で見つけた植物。
住宅街の側溝から生えていた。
背丈は2メートルぐらい。

ずいぶん背の高い草だなと思って写真を撮ったのだが、インターネットで調べてみたら木だった。
キササゲというノウゼンカズラ科の樹木だった。
背丈が15メートルぐらいにまで伸びる高木であるというから驚きだ。

側溝から生えているから草だと決めつけて、幹に触らなかった。
大きな葉っぱに隠れていたので、木の幹とはわからなかった。
先入観念に惑わされずに、幹に触っていれば、木であることに気がついたはずである。

花の色は黄白色(おうはくしょく)で、直径2~3センチ程度。
内側に紫色の斑点があって、よく見ると美しい花である。
円錐花序のように集まって咲いていて、一個一個の花の形は漏斗状もしくは唇弁状である。

唇弁状の花といえば、マメ科の植物によく見られる花冠である。
キササゲも大角豆(ササゲ)のような果実がつくのでキササゲと呼ばれているのだが、マメ科ではない。
ノウゼンカズラ科にも細長い豆鞘状の実ができる。

キササゲは、秋になると30センチぐらいの細長い果実を実らせるという。
豆鞘(蒴果)は晩秋に裂けて種が飛び出す。
種子の発芽率が非常に高いとされているので、こんな側溝でも育っているのだろう。

この側溝のキササゲが大木に育つことはないだろう。
道路に枝を伸ばして、だいぶうるさい感じに育っているので、おそらく盆前には刈られてしまう運命と思われる。
秋にこの場所で、キササゲの細長い果実を見ることはないのだ。


キササゲの大きな葉
桐を思わせる大きな葉。

キササゲの立ち姿
立ち姿。

葉の付き方は、対生と3輪生
葉は対生と3輪生。

花の上の蕾
円錐花序の花の上の蕾。

2020/07/23

素晴らしいヒバ林のある高地場山

高地場山行程略図
高地場山(459m) 山行略図。


天気予報は曇りだったが、予報に反して晴れ間の多い、いいお天気の一日になった。
今日は滝沢山地の高地場山(標高:459m)へ。
2018年9月29日以来の、無雪期高地場山ハイキングである。

高地場山の山頂から南方向へ伸びている尾根の下の谷までは、かすかな踏跡がある。
その踏跡は、林道の廃道を辿っている。
山菜採りの踏跡のように見える。

三面護岸された平沢にかかっているコンクリート橋が、高地場山への登山口。
ここから尾根まで踏跡を辿る。

踏跡が途切れる小さな谷から尾根に上がる。
幅のある尾根を、コンパスを合わせてのんびりと登った。
ヤブは、膝下ぐらい。
時折腰の高さぐらいのネマガリタケのヤブ。
比較的ヤブの少ない、歩きやすい尾根である。

尾根はだんだん急になる。
急な傾斜を登り切ると、しばらく緩い傾斜の尾根歩きになる。
それが過ぎると、また急登。
その急坂を登り切ると、「火焔ブナ」の大木が出迎えてくれる。
木の形が、縄文時代の火焔型土器を彷彿させるので、私が勝手に「火焔ブナ」と名付けたブナの木である。

「火焔ブナ」から頂上のある丘までは、平らな尾根歩き。
低い丘を登ったところが高地場山の山頂広場である。

山頂広場で早いランチをとり、下山。
尾根の東端を、尾根に沿って標高390mあたりまで下りると、広いヒバ林があらわれる。
2018年9月29日の山行で見つけたヒバ林である。

今日の山行の最大の目的は、このヒバ林見物。
前回は、ヒバ林斜面の上部だけを見物してから尾根に登り返し、尾根上を下山したが、今回はヒバ林に沿って谷まで下る計画である。

高地場山のヒバ林はすばらしい。
滝沢山地で、今まで見たヒバ林の中で最大規模。
ヒバの木も比較的大きな個体が多い。
野辺地の烏帽子岳のヒバの原生林も見事だが、高地場山も負けてはいない。
艶のある赤みがかった木肌のヒバが、高地場山の森の様相に変化を与えている。
ブナの森とは違う味わいがあって面白い。

ヒバ林の緩斜面をのんびりと下りた。
いつまでもいたいような、去りがたい場所である。
ヒバ林が終わると、傾斜が急になる。

木に20mのロープを二つ折りにして引っ掛けながら、懸垂下降を5回ぐらい繰り返して、谷底に到着。
谷の沢沿いの微かな踏跡を辿って、コンクリート橋まで帰ってきた。


周辺の山の写真
折紙山方面は、ヤマセでガス模様。

高地場山導入部
登山口のコンクリート橋。背の高い草薮を抜けると、かすかな踏跡に出る。

高地場山の谷道
草薮の下に、山菜採りのかすかな踏跡がある。

高地場山の谷道
ミズ(ウワバミソウ)の生い茂る原っぱ。

高地場山南尾根
尾根に出る。

高地場山南尾根の景観
尾根は、だんだん急登になる。

尾根上のブナの木
また出会えた。「火焔ブナ」。

ヒバ林導入部
ヒバ林。

ヒバ林の中
落ち着いた雰囲気のヒバ林。

ヒバの大木
林のあちこちにヒバの大木。

ヒバの大木
ヒバの大木。

ヒバ林の様子
広いヒバ林。

平沢の枝沢の様子
平沢の枝沢。

沢沿いの帰路の様子
沢に沿って、草薮の下に踏跡がある。

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