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芭蕉と柳「田一枚植ゑて立去る柳かな」

田植えをしているのは、もちろん早乙女である。
この句をはじめて読んだとき、私はそう感じた。
そして立ち去ったのも早乙女なのだ。

この句の「柳」には2重のイメージがあると思った。
ひとつは女性である早乙女。
もうひとつは、芭蕉がその木陰で憩った畔道の柳の木。

芭蕉の句に「梅柳さぞ若衆かな女かな」というのがある。
この句から察するに、芭蕉にとって「柳」は女性のイメージなのである。
それも、ちょっと艶かしい女性のイメージ。

田一枚植ゑて立去る柳かな
松尾芭蕉

今年のドウダンツツジの紅葉は色が冴えない

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今年、ドウダンツツジの紅葉が冴えない。
毎年、公園の生垣になっているドウダンツツジの真紅の紅葉を、散歩の楽しみにしていたのだ。
それが、今年の紅葉は黒っぽい赤。
鮮やかさに欠ける。

この夏に枯れかかったせいなのだろうか。
それはある程度復活したのだったが、完ぺきではなかったのだろう。
あの燃えるような紅葉を、今年は楽しめそうにない。

まだ傍観者であった芭蕉「春や来し年や行きけん小晦日」

もう少しで10月も終わる。
11月に入ると年の暮れも間近。 のどかな秋の日も終わり、せわしない年末に入る。
津軽地方は、そろそろ雪の季節を迎える。
春や来(こ)し年や行きけん小晦日(こつごもり)
松尾芭蕉
芭蕉19歳のときの作として有名な句である。 制作年代が分かっているものの中で、芭蕉最古の作と言われている。

ところが私には、この句に19歳という若いエネルギーが感じられない。 この句の、落ち着きがあってちょっと皮肉っぽいところが、妙に年よりくさいと感じている。

芭蕉の誘導「山路来て何やらゆかし菫草」

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春から初夏にかけて、低山の山道を散歩しているとスミレに出会うことがある。

山野で出会う花としてスミレは、そんなにめずらしい植物ではない。
ハイキングでよく見かける小さな花。
小さい花だが、その紫色の美しさはすばらしい。

山路(やまじ)来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)
松尾芭蕉

芭蕉の視線「道の辺の木槿は馬に喰はれけり」

木槿(ムクゲ)はアオイ科の落葉低木。
観賞用は、大きいもので4メートル近くまで成長する。
しかし野生の木槿は10メートルを越えるぐらいまで大きくなるものもあるという。
木槿の花は、朝咲いて夕方には萎みかける。
初夏に花が咲き始めると、一本の木で毎日次々と咲き続ける。 木槿は、生命力の強いのが特徴であるとのこと。
梅雨の頃から秋まで、木槿は花を咲かせているという。
道の辺(みちのべ)の木槿(むくげ)は馬に喰(く)はれけり 松尾芭蕉

句の前書きに「馬上吟」とある。
旅の途中、馬に乗って移動中のときの句であるらしい。
馬に乗ってと言っても、芭蕉が手綱をさばいているわけではない。 手綱をとっているのは、馬方(馬子)のオヤジ。 芭蕉は馬方に「乗り賃」を払って乗っているわけである。
木槿は日向を好む植物。 道路際の林縁で咲いていたのだろう。
その木槿の花を、芭蕉の乗った馬がパクリと食べた。 あるいは、手綱をとっている馬方が、自分の愛馬に木槿の花を食べさせた。
馬が木槿の花を食べるのかどうか、私にはわからない。 でもこの句は、馬は木槿の花を食べるという前提のもとにつくられている。
それと、もうひとつ。 この句は、かなり「叙事的」である。 「・・・・の・・・・は・・・・に・・・・されてしまった。」という滑らかな語り口の、叙事的な句になっている。
ところで、詩は、「叙事」と「抒情」で出来上がっているといわれる。 とすれば、掲句の「抒情」となる芭蕉の感情は、どのようなものなのだろう。 馬が木槿を食べるなんて面白い。馬に木槿の花を食べられて残念だ。あんまり道草を食う馬なのでイライラする。馬方よ、馬に木槿を食べさすなよ。 などなどが思いつく、
また、「喰はれけり」の「けり」を詠嘆の助動詞だとすると、芭蕉は木槿を食べた馬を目撃しなかったのかもしれない。

「道端に木槿の花が見当たらない。これはきっと馬に食われてしまったのだなあ。」という馬上の芭蕉の嘆きか。
「馬に乗って旅をするなんて、あまり風雅とは言えないなぁ」と芭蕉は思ったのかも。

叙事的な句は、出来事そのまんまである。
「だっ、だから、どうしたってんだい!」と心穏やかでない御仁もいらっしゃることだろう。
出来事の裏にある芭蕉の抒情を、推測してみるのも面白い。

私は、調子の良いリズミカルなこの句に、流れるような芭蕉の視線を感じる。
「空(空想…

農民たちの祈願「あの雲は稲妻を待つたより哉」

私が子どもの頃、津軽半島の村では、雷の閃光のことを「イナビカリ」と呼んでいた。

「あっ、イナビカリが光った!」と叫んで耳をふさぎ、身を縮こませる。
すぐに「ドドドーン」という音が響き渡る。
「あっ、落ちた、近い近い!」と騒ぐ。
子ども達にとって、雷鳴の恐怖は、まだ遊びの範疇だった。

その頃は「稲妻」が標準語で、「イナビカリ」は津軽の方言だと思っていた。
が、「イナビカリ」は「稲光」と漢字表記される立派な標準語。

芭蕉の自負「色付くや豆腐に落ちて薄紅葉」

「紅葉豆腐」と聞くと、秋に京都の料亭などで出されるシャレた一品のような印象だが、実際は、「豆腐小僧」という妖怪がお盆で持ち歩いている豆腐の事。

「豆腐小僧」とはあまり知られていない妖怪。
でも、江戸時代の草双紙(※江戸時代の娯楽本)などに多く登場している妖怪とのこと。

竹の笠をかぶって丸盆を持ち、その盆の上に「紅葉豆腐(モミジの型を押した豆腐)」を乗せて歩く小僧妖怪。
特に悪さはしないという。
色付くや豆腐に落ちて薄紅葉 松尾芭蕉

芭蕉の無常「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」

芭蕉にはふたつの風景が見えている。
無数の蝉が嵐のように鳴き盛る風景と、音も無く静まり返った風景。 喧騒と静寂のふたつの風景を対比させ、そのなかで、夏の一日を鳴き暮らす命の営みを浮かび上がらせようとしている。
地上に出た蝉が、成虫として生きている期間は、現代では2週間~3週間だといわれている。 私が子どもの頃は、蝉の地上での寿命は1週間だといわれていた。 芭蕉の時代は、その寿命が、もっと儚いものだとされていたかもしれない。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
松尾芭蕉
句の前書きに「無常迅速」とある。 「無常迅速」とは、現世の移り変わりがきわめて速いこと、そして、人の死が早く来ることの意であるとか。 特に「無常」とは、あらゆるものは生死の繰り返しであるという考え方のこと。

芭蕉は、蝉の「生」と「死」のふたつの風景を見ていたのだろう。
この句は芭蕉47歳のときの作とされている。
47歳といえば、「おくのほそ道」の旅が終わって一年後の年。
亡くなる年の4年前の作である。

「無常迅速」とあるように、自身の人生もそのようなものだという思いが強くあったのかもしれない。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」という漠然とした思いよりも鮮明にあったのかもしれない。
夏を精一杯鳴いて生きている蝉には「生」の風景しか見えていない。 芭蕉は、そういう蝉の風景を見つつ、もう一方で蝉の鳴き声の途絶えた風景をも見ている。
芭蕉の耳に届いている「蝉の声」には、「やがて死ぬ」という「けしき(予兆)」は感じられない。 だが、芭蕉の目には静寂の風景が見えている。

そして、そういう芭蕉を見ている「無常迅速」という「目」を、芭蕉は感じていた。
芭蕉が蝉を見ているように、芭蕉もまた「無常迅速」によって見下されている存在である。

「やがて死ぬ」の「やがて」は、「すぐに」とか「ただちに」とかの意。
さらに、「そのまま」とか「引き続いて」という意味も「やがて」にはある。

「蝉は志半ばで倒れる」という思いが、芭蕉にはあったのかもしれない。
あんなに懸命に鳴いていた声が、そのまま途絶える。
いつのまにか静寂になる。

「蝉の声」は芭蕉にとって、「なにかを訴えている声」であり「なにかを念じている声」であり「なにかを問いかけている声」であったのかもしれない。
その思いや考えを抱いたまま、志半ばで倒れる。

何かヒントをつかみかけたまま、…

芭蕉のミニマムライフ宣言「ものひとつ我が世は軽き瓢哉」

上五が数え歌の出だしのようで調子が良い。
勢いが感じられる。
芭蕉が発する宣言のようなものか?

ものひとつ我が世は軽(かろ)き瓢(ひさご)
松尾芭蕉
「ものひとつ」は持ち物は一つというイメージ。 「我が世」とは、芭蕉自身の人生(旅)のことと思われる。 「瓢」とは、容器としての瓢箪。

自分の人生の持ち物は、旅に携帯する瓢箪ひとつであるなぁというのが、この句から感じとれるネガティブな印象である。
あるいは、自分の人生は、ものひとつない家の中に転がっている軽い瓢箪のようなものという感慨か。
これもネガティブ。

だが、「ものひとつ」を先頭に配置したことで、「ものひとつ」が芭蕉のポジティブな意志として感じられる。
次に「我が世は」と続けて大見得を切る。
劇である。

「ものひとつ我が世は」とくれば、それは「わしの人生は、ものひとつでいいんだよ。」という態度を表している。
「ものひとつでいいんだよ。」とは「あまりものを持たずに、シンプルでいいんだよ。」という風に感じとれる。

現代の「ミニマムライフ」に通じるような暮らしぶり。
衣服や食器、電化製品なども、なるべく持たずに身軽になり、もっと自由な発想で暮らそうぜというのが「ミニマムライフ」の基本姿勢。 その「ミニマムライフ」が、芭蕉にとっては「ものひとつ」ということなのだ。

「軽き瓢哉」は、「わしの人生は、目のまえに転がっている軽くて丈夫で便利な瓢箪みたいなものさ。」という感じ。

「シンプルでいいんだよ」、「瓢箪でいいんだよ」というのがこの句のポジティブなイメージである。

そして、芭蕉の「ミニマムライフ宣言」はかなり劇的である。
「我が世は」は「旅人と我が名呼ばれん初時雨」の「我が名」に通じる劇的さ。「軽き瓢哉」は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の「風のしむ身哉」に通じる劇的さ。 ともに旅立ちの宣言的な句である。 「ものひとつ我が世は軽き瓢哉」とは芭蕉四十三歳の頃の作だとされている。 四十三歳は、「野ざらし紀行」の旅から帰って二年目、「笈の小文」の旅の一年前の年である。
芭蕉は、次の旅の準備として、暮らしぶりを「ものひとつ」にしようと、自分自身と周囲に宣言したのだろう。

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◆松尾芭蕉おもしろ読み

雨上がりの朝、公園のカツラの落葉が甘く匂っている

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犬の散歩に、いつもの公園に立ち寄ったら、カツラの落葉の匂いが地面からたちこめていた。
カツラの紅葉(黄葉)は終わりかけていて、ほとんどが落葉している。

その落葉の絨毯に足を踏み入れた時、甘い香りがしたのだ。
砂糖醤油がちょっと焦げかかったような香り。
いままで体験した中で、今日がいちばん強く、香りを感じた。

芭蕉の重複「年々や猿に着せたる猿の面」

ネットでは芭蕉の様々な句に出会う。
だが、そのすべての句が、ほんとうに芭蕉の作であるかどうか、私には調べようもない。

芭蕉作と伝えられている俳諧には、「存疑句」や「誤伝」、「贋作」も少なからずあるという。
信頼できる文献として、今栄蔵氏校注の「芭蕉句集」(新潮日本古典集成)がある。
なんら調べる手立ての無い私としては、この「芭蕉句集」に頼らざるを得ない。

年々(としどし)や猿に着せたる猿の面
松尾芭蕉

芭蕉の岐路「旅に飽きてけふ幾日やら秋の風」

吉本隆明氏に「言葉からの触手」(河出書房新社)という刺激的な題名の著作がある。
「あとがき」で吉本氏自身が言っているように、この本は、「生命が現在と出合う境界の周辺をめぐって分析をすすめている」断片集でできている。
その「断片集」の60ページ目に「11 考える 読む 現在する」という題の「断片」がある。 以下に、私が気になっている冒頭の文章を引用させていただく。 「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業は<考えること>をたすけるだろうか。さかさまに、どんな資料や先立つ思考にもたよらず、素手のまんまで<考えること>の姿勢にはいったばあい<考えること>は貧弱になるのではないか。わたしたちは現在、いつも<考えること>をまえにしてこの岐路にたたずむ。」 与謝蕪村は芭蕉の句を、松尾芭蕉は西行の歌を下敷きにして作った句がいくつかあると言われている。 与謝蕪村の「門を出ればわれも行人秋のくれ」は、松尾芭蕉の「此道や行人なしに秋の暮」を下敷きにしていると言われている。
芭蕉の句をモチーフに蕪村がオリジナルを作ったのである。

また、松尾芭蕉の「何の木の花とはしらず匂哉」は、西行の歌「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」を踏まえていると言われている。
これらは、吉本氏の言う「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業」の結果の創作なのだろう。 そして、その創作物を読む私たちも、「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業」を続けなければ、その創作物にうまく接することができないでいる。

では、「どんな資料や先立つ思考にもたよらず、素手のまんまで」作られたものとは、どんなものなのだろう。
次の芭蕉の句が、それにあたらないだろうか。

旅に飽きてけふ幾日(いくか)やら秋の風
松尾芭蕉

この句に「知的な資料」や「先立つ思考」の存在は感じられない。
芭蕉が「素手のまんまで」考えた句である。

そして、この句が「貧弱」であるかどうかは、私にはわからない。
ただ芭蕉にも、こういう気分におちいるときがあるのだと思い知る。

芭蕉は、旅を続けることをまえにして、幾日この「岐路」にたたずんだことだろう。
「秋の風」が「旅に飽き」た芭蕉に旅立ちをうながしている。

「旅に飽き」た芭蕉は、また新たな旅を「素手のまんまで<考えること>」から始めようとしているのか…

芭蕉の旅情「よるべをいつ一葉に虫の旅寝して」

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「一葉」にはいろいろなイメージが含まれている。
一枚の写真を一葉の写真と言ったり。
「その部屋の畳の上には、一葉の古い写真が落ちていた」なんてね。

俳諧では、「一葉」とは桐の葉を指すとか。
「一葉(いちよう)落ちて天下の秋を知る」という故事・格言もある。 もっとも青桐の葉が落葉するころは、あたり一面、紅葉が最盛期で、天下は秋真っ盛りなのだ。 この格言が、「大仰な言い方の割には間が抜けている」という意味なら分かるのだが・・・・。

芭蕉と白秋「石山の石より白し秋の風」

石山の石より白し秋の風
松尾芭蕉

私がこの句を読んで真っ先に思い浮かんだのは、北原白秋のこと。
「白し秋」で白秋となり、北原白秋を連想してしまったのだ。

これは芭蕉の誘導によるものか。
おっと、芭蕉は、明治の詩人北原白秋のことを知るはずもない。

芭蕉が誘導しようとしたのは、「五行思想(五行説)」の白に由来する「白秋」
五行思想では秋の色は白であるという。

目の前に白い石山があって、その石よりも白い秋の風が吹いているというイメージ。
「おくのほそ道」の旅で、芭蕉は那谷寺(なたでら)を参拝し、境内の白い奇岩を目にする。
その白い岩と秋をオーバーラップさせたのだ。
目の前の白い岩と天空の白秋との対比。

特異な様相の岩を白秋と対比させることによって白さを際立たせ、秋の風を白い岩と対比させることによって、目の前の冬を思い起こさせる。
これが芭蕉の誘導の仕掛けか?

全体に「し」の音が韻を踏んで句の調子を整えている。
「石山の」という「上五」の出現と同時に全てが出来上がったような句の名調子である。

そういえば、青森県にも白い岩があった。
青森県平川市にある白岩森林公園の白い岩は凝灰岩でできていて、雪のように白い。
この白さに比べれば、那谷寺の白い岩は、写真で見る限り、グレーっぽい。
白岩森林公園の白い岩山を目撃したら、芭蕉翁はどんな句を詠まれたことだろう。

ところで、芭蕉は北原白秋のことをまったく知らないのだが、白秋は芭蕉のことをよく知っている。
そして、下に引用した「詞」を作ったのだった。
芭蕉 馬で目ざめて、峠で明けて、
夢は野末の茶のけむり。
煙たつならほそぼそたちやれ、
月に芭蕉のひとり旅。    (作:北原白秋)

「野晒紀行」の旅で芭蕉が詠んだ「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」の句をもとに作った「詞」である。 この旅には千里(ちり)という同行者がいたのだが、北原白秋は「芭蕉のひとり旅」にしてしまった。 「月に芭蕉のひとり旅」という絵が、目に浮かぶようである。


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「野ざらしを心に」から持続する旅「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」

「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に おもひて旅立ければ、」
と、句の前文にある。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」という思いは、旅(野ざらし紀行)の間中ずっと芭蕉の心の中にあったのだろう。 ポジティブな思いで旅を続ける芭蕉だが、不慮の死というのも念頭にあったに違いない。 そして親しい友人「谷木因(ぼくいん)」の住む大垣までたどり着いた。


死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮 松尾芭蕉

「旅寝」というスタイルは、芭蕉にすれば「死」に近いものだったのかも知れない。 その「旅寝」を重ねた末に、やっと大垣にたどり着いたよという、芭蕉の心の区切りの句であるように思う。
芭蕉は「旅の劇」のなかで来し方を振り返る。 そして出発のときの台詞(野ざらしを心に風のしむ身哉)に対して、どこかで「締め」をせねばなるまいと思った。 それは区切りをつけることでもあり、気を引き締めることでもあっただろう。

と同時に安堵感もあった。
「旅寝の果てよ」とは、何やら歌謡曲でも歌っているようなムードがある。

旅装束の芭蕉、舞台上手から、「青い山脈」の4番を歌いながら登場。
木因は舞台中央で、待ち遠しいように芭蕉に手を振っている。

「父も夢見た 母も見た 旅路のはての その涯の 青い山脈 みどりの谷へ 旅をゆく 若いわれらに 鐘が鳴る」

芭蕉、元気な足取りで谷木因に近づく。 歌声も若々しい。 遠くでお寺の鐘が鳴る。
木因、拍手で迎える。 「お元気そうで、何よりでございます。」と木因、芭蕉に駆け寄る。 「木因殿、しばしお世話になりますぞ」芭蕉は、道中に思案した木因に対する挨拶句を吟じる。
「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」

舞台に燃えるような夕焼け。
まさに「旅寝の果て」の「秋の暮」。

芭蕉も木因も、落ちていく夕日の影となって舞台下手に去って行く。
「青い山脈」の前奏曲が、無人となった暗い舞台に高らかに響き渡る。
それは、芭蕉の大垣到着を祝うファンファーレのようであった。

<幕>

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芭蕉が見る天空と地上絵「月見する座にうつくしき顔もなし」

名月や座に美しき顔もなし
松尾芭蕉

これは、ロングショットとクローズアップの「芭蕉視点」の典型的な句のひとつではあるまいかと、私が感じた句である。

天空に名月、地上に「名月観賞会」の人々とその顔つき。
この句を読む読者の視線は、芭蕉に誘導されて名月を眺め、そして一座の人々の顔の上に落ちる。
そこには戯画的なユーモアがある。
と同時に、美と醜という世間的な価値基準のことに思い至る。

坂梨峠の紅葉と大舘のきりたんぽ鍋

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快晴の今日は、坂梨峠へ紅葉見物。

坂梨峠とは、青森県平川市と秋田県鹿角郡小坂町の県境にある国道282号線の峠、
国道7号線を大館方向に走り、碇ヶ関で鹿角方面という道路標識に従って、左手側道に入る。
古遠部温泉への分岐を過ぎると、国道282号線は山道に入る。
その山道の区間が、紅葉の隠れた名所となっている。

八甲田山や十和田湖の紅葉も良いが、坂梨峠の紅葉も格別な趣がある。

芭蕉のカメラワーク「炉開きや左官老い行く鬢の霜」

元禄五年、芭蕉49歳の作とされている。
芭蕉は、元禄七年の冬に51歳で亡くなっているから、他界する2年前の句。

「炉開き」とは、一般では、冬を迎える準備として囲炉裏の蓋を開けること。
茶の湯では、10月の終わりから11月の初めにかけて、茶事の風炉に変わって炉を開いて用いることだという。

私が生まれた津軽半島の村の家にも囲炉裏があった。
ただ私が子どもの頃、暖房には薪ストーブや石炭ストーブを使っていたので、囲炉裏の蓋はほとんど閉じられたままだった。

八甲田山の紅葉と,森のなかの滝

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おとといの晩に降った雪が山陰に白く残っている今日の八甲田。
紅葉と滝見ハイキングに出かけた。

国土地理院発行の北八甲田の地形図を見ると滝のマークは3箇所程度しか見当たらない。
北八甲田には地図には記されていない滝がたくさんあるようだ。

今日訪れた滝もそのひとつ。
道路から森の中へ入って20分~30分程度なのだが、あまり知られていない。
もちろん、滝に到る遊歩道も無い。
下草やネマガリタケの無いブナの森を、コンパスを頼りに沢に向かって歩くと、滝の水音が聞こえてくる。

「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」から「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」への改作

前回、芭蕉の句の改作についてちょっと書いた。 今回も気になる「改作」を見つけたので、これについて書いてみたい。
枯枝に烏(からす)のとまりたるや秋の暮
松尾芭蕉
掲句が、初案。 それを改作したのが、次の句。
かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮
松尾芭蕉
例によって、私的にどちらが好きかと問われれば、もちろん初案の方。 初案の方が、時間の流れやカラスの動きが感じられて好きなのだ。 それに、空間の広がりも感じられる。

「清滝や波に塵なき夏の月」から「清滝や波に散りこむ青松葉」への改作

前回、松尾芭蕉の辞世の句についてちょっと書いた。
辞世の句とは、死に面した俳諧師が、この世に別れを告げるためにつくる句のこと。
芭蕉の場合は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が辞世の句として世に知られている。

しかし、芭蕉が書いたと言われているこの句の前書きは「病中吟」となっている。
この句を芭蕉が辞世の句として意識して作ったのなら、「辞世」という前書きがつくのではという疑問が残る。

この句は亡くなる4日前の作とされている。
その後、亡くなる2日前に、長兄や門人宛てに遺書を書いている。
長兄への遺書は自筆だったという。
芭蕉は、病状が日増しに悪化するなかで、自身の病死のことが念頭にあったのだろう。

肉体は衰弱していても意識がはっきりしていたのだから、辞世の句を遺そうというのであれば、前書きを「辞世」とするはずである。
芭蕉は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を辞世とは意識して無かったのではあるまいか。

紅葉がピークの山で、ナラタケは終了、ムキタケや本格ナメコはこれからが最盛期か?

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八甲田山の紅葉は、山麓一帯がピーク。
山の中腹付近は、落葉が始まっているから、そろそろ八甲田大岳の初冠雪がありそうなこの頃。

この日曜日も八甲田山の山麓でキノコ採り。
紅葉の森の中へ入る。
昼過ぎから、山は雨降り。
雨に濡れた紅葉がきれいだった。

帰り道の城ヶ倉大橋は、雨にも関わらずたくさんの人出。
橋の上で背中を濡らしながら、城ヶ倉渓谷の紅葉を見下ろしていた観光客たち。

芭蕉の憧憬「此道や行く人なしに秋の暮」

病床にて「秋深き隣は何をする人ぞ」と自身の幻に語りかけた芭蕉だった。
それでもまだ旅(俳諧)をイメージして道を探し続ける。
この「秋深き・・・」の3日前に作った「此道や行く人なしに秋の暮」の「此道」のことを、芭蕉は考え続けていたのかもしれない。

此道(このみち)や行く人なしに秋の暮
松尾芭蕉

これは芭蕉の憧憬の句であると私は思う。
もう此の道を歩いて行けないかもしれないという、芭蕉自身の無念な思い。
此の道を行く人は誰もいないという落胆。
だが、歩き続けたいという芭蕉の憧憬が、無念や落胆を心の外へ追い出す。

そして芭蕉は、亡くなるまで俳諧(旅)の道を憧憬し続けた。
「此道」は自身の俳諧(旅)の道の延長であり、まだ歩いたことのない旅(俳諧)の道なのかもしれない。

芭蕉の俳諧は、ご覧の通り、素人の私が話題にしたくなるほど「扇情的」である。

芭蕉は、句を「劇」として演じているようにも思われる。
視線が動的で、躍動感のある句も多い。
そのような句が読者の感情を煽る。
読者が芭蕉の句に惹かれる所以ではないだろうか。
その扇情的な句が、晩年になって、次第に静寂な感じを帯びてくる。

「菊の香や奈良には古き仏達」
と現在と過去を対比させた静止画を描き。
その後に、「此道や行く人なしに秋の暮」と行く末を眺めて立ち止まる。
「秋深き隣は何をする人ぞ」と自身の来し方や過ぎ去った日々を思い起す。
臥床して、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と夢想する。

これらは芭蕉が、自身の「先」をイメージして作った句であるように思う。
その先が生であっても死であっても、その先には「此道」があることだろう。

現在と過去の対比や未来と過去の対比、あるいは未来と現在の対比。
そのように、時間を対比させた句を作ることによって、芭蕉は相対するものを劇的に対決させようとしているのではないだろうか。

その劇のなかに、芭蕉が憧憬し続けた「此道」が見えるようである。
「菊の香や奈良には古き仏達」では、「菊の香」=現在。「古き仏達」=過去。「此道や行く人なしに秋の暮」では、「此道や行く人なし」=未来。「秋の暮」=現在あるいは過去。「秋深き隣は何をする人ぞ」では、「「秋深き」=現在。「隣は何をする人」=過去であると同時に未来「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」では、「旅に病んで」=現在。「夢は枯野をかけ廻る」=未来。 と、こう書くとあ…

キノコ採りは、山岳遭難や食中毒を伴う危険な遊び

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今年の青森市周辺の山では、ナラタケが大豊作。
そのおかげで、キノコ採りの入山者が増大しているという。

平日でも、八甲田山周辺の山岳道路には、キノコ採り達の路上駐車が多く、交通の妨げになっている程だと、知り合いのトラック運転手が言っていた。

「道路脇の空き地に駐車してくれればいいものを、面倒くさいから路上駐車しているんだ。」と憤懣顔。

10月に入って、キノコ採りはピークを迎えている。
路上駐車もピークらしい。
それに伴って、山岳遭難事故も増えているようである。
「キノコ採り遭難」というキーワードでネット検索してみると、この時期は大量にヒットする。 「またキノコ採りで遭難」「キノコ採り中に遭難し死亡」「キノコ採り遭難非常事態」「止まらないキノコ採り遭難」「キノコ採り遭難相次ぐ2人死亡」「キノコ採り男性(68)が行方不明」 などなど。

死亡事故の大半は高齢者。
崖から沢へ転落して死亡したり。
急斜面で足を滑らせて滑落し、頭部を強く打って死亡したり。
山の険しい地形に、体力的に対応できなくなったお年寄りの死亡事故が目立つ。




しかし「キノコの事故」は、山中での高齢者に限られてはいない。
自宅での有毒キノコによる食中毒事故もあるのだ。

野生のキノコは、スーパーで売られている栽培物よりも味が濃くて美味しいと言われている。
おまけに無農薬だからヘルシー。

しかし、農薬よりも強い毒を持つキノコがたくさん存在することを肝に銘じなければならない。

私が採るキノコの主なものは、ナラタケ(サモダシ)、ナメコ、エノキタケなど。
これらによく似た猛毒キノコに、コレラタケやヒメアジロガサがある。

ところで私は、山でコレラタケやヒメアジロガサを見かけたことが無い。
猛毒キノコのドクツルタケはたくさん見かけるのだが。

私がキノコ採りの参考書のひとつにしているものに、有限会社グラフ青森発行の「青森のきのこ」がある。
この本には青森のキノコが網羅されているはずだが、コレラタケもヒメアジロガサも掲載されていない。

ひょっとしたら青森市周辺には、コレラタケやヒメアジロガサは発生していないのではと思ったりしている。
これらのキノコに、北限があるのかどうかは知らないのだが。

今は見かけないが、将来にわたってずっと出ないでいるとは限らない。
それに、これらのキノコは猛毒を持っているから、いつでもどこでも、いかなる場合…

芭蕉の静止画「菊の香や奈良には古き仏達」

芭蕉の句は、映像的なものが多いと感じている。
舞台の一場面のような句や、映画のワンシーンのような句。 それが、私が芭蕉を劇の詩人と感じた所以のひとつとなっている。
特に旅の始めの句には、人物(主人公)が登場して、ダイナミックな動きのある句が多いような。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」とか「旅人と 我名よばれん初しぐれ」とか。
そうそう、旅の始めの句ではないが「塚も動け我泣声は秋の風」なんかも激しくダイナミックであると思う。

これらの句は、主人公の劇的な登場がイメージされている。

そんな句と比べて、以下の句はどうであろう。

枯れた後復活したドウダンツツジの生垣が、赤く色づき出した

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公園の生垣になっているドウダンツツジが紅葉し始めている。

夏の盛りに雨不足が続いて枯れかけたドウダンツツジが、秋の初めに復活
そのときの新芽が葉に成長して、今は紅葉を準備中。

今年も、炎のような紅葉を見ることができるだろうか。
一旦枯れかけて葉を落としたので、ボリュームの無さが、ちょっと気になるところ。

新緑を楽しみ、白く可愛い花を楽しみ、紅葉も楽しめるドウダンツツジ。

今年は、ここのドウダンツツジの花の数が少なくて、ちょっと寂しい春だったが、この秋はどうなるのか。

川原のヤナギの木でヌメリスギタケモドキ採り

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今年も恒例のヌメリスギタケモドキ採りのために金木(かなぎ)の山へ。
キノコの収穫はまあまあだった。

今年の特徴は、かなり大き目のものでも、腐ってないものが多かったこと。
例年だと、下の写真のような大きさ(傘の直径が8センチぐらい)のものは、ヒダが黒く腐りかけていることが多かったのだが、今年は保存状態が良く、長持ちしている様子。

そのため、割ときれいなヌメリスギタケモドキをたくさん採ることが出来た。

この川原は、一昨年、下流の堰堤が決壊したため、泥土状の川原の面積が減り、立木が流失したりしてヤナギの個体数も減少している。
その結果キノコの収穫量も減少しがち。

樹齢800年、驚異のヒバ(ヒノキアスナロ)の巨木、喜良市の「十二本ヤス」

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青森県五所川原市金木町喜良市字相野山にヒバ(ヒノキアスナロ)の巨木がある。
この巨木の名は「十二本ヤス」。
ヒバとは、ヒノキアスナロの青森県での呼び名。 青森県内で産出されるヒノキアスナロの木材は青森ヒバと呼ばれている。 青森ヒバは、木曽ヒノキ、秋田スギと共に、日本三大美林とされている。
「十二本ヤス」という名称の由来は、巨木手前の看板に、下記のように書かれている。 幹の途中で12本の枝が分かれて、ちょうど魚を突いて取るヤスの形をしているところから、だれ言うとなく「十二本ヤス(シ)」と呼ばれるようになった。




「十二本ヤス」は喜良市の奥深い山中にある。
「十二本ヤス」の看板に導かれて畑に囲まれた農道に入り、暗い杉林を抜け、小沢の狭いコンクリート橋を渡ると、山中に水田が広がっている。
付近には、今は草に埋もれてしまったが弥生時代の遺跡がある。

その水田を抜けて、金木川に沿った未舗装の林道をクルマで行くと川の合流点に架かっている橋がある。
この橋を渡ってすぐの道が、去年(2014年)、相野股沢の方へ崩れ落ちていた。
まだ林道の完全修理にはなっていないようで、今年も通行止めになっている。
橋の手前に、乗用車5~6台分の駐車スペースがある。

ここにクルマを停めて、母沢(もざわ)沿いの林道を5分ぐらい歩くと「十二本ヤス」の看板が立っている。
「十二本ヤス」へは、左手の、鳥居下の階段状の遊歩道を登る。
ちょっ登ると、ヒバの巨木は、すぐに現れる。




手前の看板によると、「十二本ヤス」の詳細は以下の通りとなっている。
樹種:ヒノキアスナロ(別名ヒバ)樹高:33.46m幹周:7.23m樹齢:800年以上所在地:青森県北津軽郡金木町喜良市山 この看板には以下の事も記されている(句読点ママ)。

神木
ヤスの形をした枝は、新しい枝が出て十三本になると必ず一本枯れて、常に十二本になるということから、十二とは十二月十二日の山の神祭日に通じる神聖な数、これは山の神様が宿ったに違いないということで、鳥居を奉納、神木としてあがめ、今日に至っている。金木町の名木である。

伝説
昔、弥七郎という若者が山の魔物を退治したとき、その供養に、退治したときの切株に一本のヒバ苗を植えたという。その木が十二本ヤスになったという事である。

新日本名木百選
平成二年六月二日 国際花と緑の博覧会協会 選定





「十二本ヤス」の位置から山の斜面にかけ…

病床で漠然とした予感に語りかける芭蕉「秋深き隣は何をする人ぞ」

勤め人だったころ、風邪をひいてアパートの部屋で寝込んだことがあった。
そのアパートは、隣の部屋とは階段が別だったので、隣人と顔を合わせることが無いような造りになっていた。

仕事を休んで、日中病床についていると、隣からカタカタと音が聞こえた。
隣の部屋の住人が、中年の女性であるということは知っていた。
てっきりどこかに勤めている人と思っていたので、昼日中の物音に不思議な思いがした。

風邪のせいで神経が過敏になっていたからなのだろう、日中に聞きなれない物音が、ひどく気になった思い出がある。

風邪薬のせいでウトウト眠っているときに、その物音が夢の中に舞い込んだり。
高熱の影響による幻覚かと思ったり。

作者不明の自由律俳句だと思っていた「日暮れて道遠し」

日暮れて道遠し

私は、この句から感じられる豊富なイメージが好きだった。
こんなに短い言葉なのに、様々な情景が思い浮かんで、空想が広がる。
その道は学校帰りの小学生の下校の道か、戦争から故郷の家へ帰る兵士の道か、サラリーマンの帰宅の道か、漂泊者の帰るあてのない彷徨い道か・・・・・・・。
いずれにしてもそのイメージは、どこかへ帰る人の姿と、日が暮れていく情景だった。
帰る人の心中は、待っている人のために早く帰らなければならないという思いだったり、早く家の者に会いたいという希望だったり、朗報を持ち帰ることが出来ない悲嘆な思いだったり、行くあてのない心を持ち歩く絶望だったり・・・・・・。
その足取りも軽快だったり重かったり、あるいは、もう動けなくなって無念にも倒れこんでしまったり。
いろんな情景が思い浮かぶが、暗くなってもなお遠い道を歩き続けようという気持ちが感じられて好きだったのだ。

「日暮れて道遠し」は文語体だが、どこか自由律俳句の面影が感じられる。
この言葉自体が、どんな能書きをも寄せつけない、独立した独特の世界を形づくっているようで興味深かった。

私は、今までこの言葉から教訓的なものを感じたことが少しも無かった。

遅まきながら最近になって、この言葉が、「ことわざ」として利用されていることがほとんどであることを知った。
この「ことわざ」の原典は、中国の史記にある「伍子胥(ごししょ)伝」での伍子胥(ごししょ)が言った言葉であるという。
ネットの「故事ことわざ辞典」には以下の記述がある。

「日暮れて道遠しとは、年をとってしまったのに、まだ人生の目的が達成できていないことのたとえ。また、やらねばならない仕事がたくさんあるのに一向に仕事がはかどらないことのたとえ。」

「日暮れて道遠し」から上のような意味を導き出すなんて、なんという発想だろう。
その想像力は、人生に対して脅迫的でもある。

いくつかの俳諧が「格言」として一般に知れ渡っていることを以前記事にしたことがある。
「文句(言葉)」から教訓や意味を引き出すのに熱心なあまり、その「文句(言葉)」が醸し出している豊かな情感(情景)が見落とされるという意味合いのことを書いたのだった。

言葉から「論理」を導き出すのか。
その言葉から汲み取れる情感を感受するか。

言葉から教育的な格言を探り出して、その中で安堵するか。
言葉の情感の世界…

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