2017/12/31

「問わず語り」という慣用表現について

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」
なんてのは、よく目にする文章である。

今まで何度もこんな文章を目にして、私は何の抵抗もなく読み流していた。
それがあるとき、この文章はちょっと変ではないかと思うようになった。
そう思いはじめると、私のなかでこの文章は、変以外のなにものでもないものになってしまっていた。


この文章の、どこが「変」かというと・・・。
まあ文章なんてどこかに「変」が潜んでいて、それが面白かったり、それが騙しだったりするもの。
と、トーシロながら思っているのだが。

そもそも文章を書くということは、何かを仕掛けることなので、読む人が「変」と思えば「変」。
「変」じゃないと思えば、「変」じゃない。
「変」とか「変」じゃないとかよりも、その仕掛けを解き明かすこと。
それが、文章を読む楽しさだと、トーシロながら思っている。

それはそうなのだが、一旦湧き上がった「変」という思いは捨てきれない。
ということで、この文章のどこが「変」かと言うと、「問わず語り」という言葉が「変」。

この「問わず語り」という言い回し。
誰が誰に対して問わないのか。
誰が誰に対して語るのか。
私には、どーもこのあたりがピンとこないのである。

というのは、「問わず」と「語り」の連続した動作の主は、同一人物でなければならないという漠然とした思いが、私にはあるからである。

たとえば、「やらずぼったくり」という慣用表現がある。
この「やらず」と「ぼったくり」の連続した動作の主は同一人物である。
そんな感じで「問わず語り」も同一人物の動作であると思っているのだ。

「問わず語り」や「やらずぼったくり」は「動詞+動詞」。
いわゆる「複合動詞」である。
そうであれば動作の主は同一でなければならない。

問わないのは「彼女」、語るのも「彼女」

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」
上記例文の登場人物は、「彼女」と「僕」。
この「問わず語り」における「彼女」と「僕」の関係はどうなのだろう。
いったい、「問わず」と「語り」の連続した動作の主は、どちらなのか。

それを「彼女」であると想定すると。
「彼女」が「僕」に何も問わずに、「彼女」が「僕」に何かを語り始めたということになる。

つまり「彼女」は、長い沈黙があったにもかかわらず、「僕」に対して何かしゃべってもいいですかと問うこともなく、勝手に何かを語りだした。
こういう「彼女」の、驚くほどの身勝手さが、「僕」を身震いさせた。

問わないのは「僕」、語るのは「彼女」

「変」では無いが、どこか「変」。
というのは、これは一般的ではないからだ。
良識ある世間は、そうではない。

一般に慣用表現には、世間に認められた意味がある。
長い年月を経て、人々が使い慣らしてきた意味があるから慣用表現なのである。

「問わず語り」には、相手に問われもしないのに自分から語り出すこと、という公に認められた意味がある。
上記例文でいうと「問わず語り」は、「僕」に問われもしないのに「彼女」が自分から語り出したということになる。
問わないのは、「問わず語り」を語る「彼女」ではない。
「僕」が「彼女」に何も問わずにいるのだ。

「問わず語り」は、この例文では「僕がそのことについて何も問わずにいるのに、彼女は自分からそのことについて語りだした」を省略した言い方とも思える。

行為か事柄か

ひょっとしたら「問わず語り」は、「問わず語り」という行為よりも「問わず語り」が暗に示している事柄にスポットライトを当てるための慣用表現なのかもしれない。

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」

「僕」は「彼女」に対して、ある事についてなかなか訊き出せないでいた。
それを訊くことが、「彼女」を傷つけることになるのではないかという心配が「僕」にあったからである。
そのため、長い沈黙が続いた。

その沈黙を破るように、「彼女」は「問わず語り」に、そのことについて話はじめた。
その話の内容は、「僕」の想像をはるかに越えるほど凄いものだったので、「僕」は驚きのあまり自身の身震いを隠すことができなかった。

というような事柄を上記例文から思い浮かべることができる。
これは「問わず語り」という慣用表現の持っている独特のイメージ力が、そういう事柄を思い浮かべるのに効力を発揮するからだろう。

問われず語り

本当は「問わず語り」ではなくて、「問われず語り」と言うべきかもしれない。
そうすれば、「問わず語り」にまつわる「変」な印象を拭い去ることができるのではないだろうか。
しかしどうして「問われず語り」と言わずに、「問わず語り」と言うのだろう。

「問われず語り」だったら、語呂的にまどろっこしいからか。
「問われず語り」だったら、いかにも間が抜けているふうにも感じられる。
「問われず語り」だったら、どことなく言い訳っぽい。

「問わず語り」とは、語りの聞き手である「僕」の印象を、この例文の作者が書いているである。
語り手である「彼女」は、これから「問わず語り」を行うぞという決意で話し始めるわけではない。
無意識のうちに語りだした結果、それが「問わず語り」になったということだ。
これが「問われず語り」だったら、「彼女」が問われないことに対して意識しつつ語り出したということになりはしないだろうか。

「問わず語り」は。こんな意図的でわざとらしいものであってはならない。
なぜなら、話し方を「問わず語り」だと決めるのは、語りの聞き手でなければならないと思っているからだ。

「問わず語り」という慣用表現には、その場の行きがかり上、気がついたら自分から話し始めていたというニュアンスがある。
まるで魔法にでもかけられたように、訊かれもしない身の上話を、物語を語るように話してしまう。
「問わず語り」は、そういう傾向を含んでいる。

動作の主は、やはり同一人物

話は戻るが、問わないのも語るのも「彼女」と想定すると、もうひとつ別の解釈がある。

「問わず」とは、尋ねないということではなく。
「相手が、話を聞ける状態かどうかを問題にすることもなく」という意味にもとれる。
「問わず」には、「相手を考慮しない」という微妙な意味合いが含まれているのではないだろうか。
「問わず」は、いわゆる「空気が読めない系な人(KYな人)」の行為。
そういうふうに考えれば「問わず語り」とは、結局「自分語り」ってことになる。

周りが見えていない人。
人の話を聞かない人。
気が利かない人。
自尊心が強い人。
こんな人が、聞くに耐えない「自分語り」を長々と実行する。

しかしこれでは、「問わず語り」のセンチメンタルな面が、突如として消えてしまう。
一般に「問わず語り」には、心中を明かすという切実なニュアンスがある。
「自分語り」では、そういうデリケートな面が無くなってしまう。
これでは「問わず語り」は表現として色を失ってしまう。

とはずがたり

と、ここまで空想の世界をさまよっていたら、古典の「とはずがたり」が頭に思い浮かんだ。
これは「とはずがたり」という告白形式で書かれた日記風読み物で、作者は後深草院二条という鎌倉時代中期の女性とされている。

現代人が使う「問わず語り」は、案外、この古典に端を発しているのではなかろうか。
この「日記文」の題名となっている「とはずがたり」は、「問わず」と「語り」の「動詞+動詞」の「複合動詞」では無い。
これらの動詞がつながって、名詞化されて出来たものなのではないだろうか。
「問わず語り」は「とはずがたり」という名詞なのである。

「複合動詞」では無いから、誰が誰に対して問わないのか、誰が誰に対して語るのかなんてことは、あまり関係がない。
鎌倉時代の王朝文芸の作者が「問わず語り」調で書いた物語の題名が、そのまま現代の慣用表現として使われているのではなかろうか。
「とはずがたり」が長い時代を生き延びて、現代の慣用表現としての「問わず語り」に乗移っている。

「問わず語り」とは、過去の物語を踏まえた表現なのだろう。
言葉は時代を超えて生きながらえる生き物。
現代を基準にして言葉を考えるから、ちょっと「変」という感想が生まれる。
日本の古典に触れることで、言葉の生き生きとした姿を見ることができるのかもしれない。
そう思った「問わず語り」巡りであった。

2017/12/26

はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに

古くから、能を郷土芸能としている地域は、日本全国に割と多い。
青森県の東通村に伝わる郷土芸能。
能舞は、国の重要無形民族文化財に指定されている。
そんな立派な能もあれば、その地域だけでひっそりと行われる里神楽もある。
小さな村の、田舎芝居。
神楽のような能のような。

田舎芝居と一口に言っても、色々ある。
文字通り田舎で、お祭りの時に催される素人芝居。
都会の役者が演じるものでも、見ていられないほど下手くそな芝居。
それも田舎芝居。

舞台と言えるほどの施設もない。
そんな山間の村で、夏祭りの出し物として演じられる能舞。
演じる人が下手でも、「田舎芝居!」とやじる者はいない。

一般に能舞で使われる能面は、彫り込まれた立体的なものがほとんど。
この山村では、ただの平板に目の穴を開け、口の穴を開け。
塗料で眉や鼻や頬を描いたものを使っている。
村の老人たちは、このお面を「板面(いたづら)」と呼んでいた。
「いたづら」という呼び方には、それはそれで、それなりの古風な趣が感じられる。

この「板面」はリバーシブルになっている。
表が翁なら裏が鬼神だったり。
貧しい山村の倹約精神が、そうさせているのである。
はて、翁と鬼神が同時に出る場面では、どうすることやら。

そんな「素人の心配」をよそに、今年も村の青年会で夏祭りの準備が進められている。
青年会と言っても、かなりの高齢者で占められているのだが。

やはり祭りのメインは能舞。
翁の役をやるのは、村はずれに一人住まいしている老人。
翁であるからこの老人に面など不要と思われる。
しかし、素顔が怒りっぽい顔つきなので、やはり柔和な翁の板面が必要である。

開催日が間近に迫って、今夜も独りで熱心に舞を練習している老人。
ふと気がつくと、板面の裏面の塗料が汗で溶け出したのか、老人の鼻に色が移っている。
板面の染料が鼻の頭との摩擦で、鼻に色移りしたものと思われる。
翁の裏は、恐ろしげな鬼神。
鬼神を描いたサイケデリックな原色が、老人の鼻に。

癇癪持ちの老人は、板面を脱ぎ捨てて床に投げつけた。
それでも気がおさまらずに、足で板面を蹴ったりした。
だが、すぐに正気にかえった。
「蹴りな!そんなに蹴りーな!」と声を出して、怒りを制した。

大事なお面である。
村人の共有財産である。
そう思うと、老人の心に自制の念がよみがえった。
「蹴りな!そんなに蹴りーな!」

鼻の色は移りに蹴りな板面(いたづら)に。
鼻にお面の裏の色が移ったとしても、怒って板面にあたって蹴ったりしてはいけない。
老人は気を取り直したが、興奮したせいでひどく疲れた。

今夜はこれで終いにしよう。
自宅に向かって、山道をトボトボ歩いていると、何やら白いものが降ってきた。
「はて、冬でもないのに。」

老人は、その白いものを手で受けてじっと見た。
見てびっくり。
これは、我が頭の白髪ではないか。
それが夜の闇を縫うように、降り落ちる。

我髪夜に降る、とは。
さては、鬼神の板面の祟ではなかろうか。

白髪は、最初短めのものが降っていたが、それがだんだん長めのものに変わってきた。
その長さは、まるで鬼神の髪の毛のようである。
鬼神の長めの髪は、背の方で縞になって垂れている。
長め背縞に。

その髪の縞を、背で揺らしながら舞うのが鬼神の演技の見せ所なのだが。
今は、そんなことはどうでもよかった。
ただただ怖かった。
老人は、恐ろしさのあまり、知らずに駆け出していた。

山道を鬼神のごとく駆け上がる翁。
山の柏の葉が風にざわめく。
老人の首の後に、ピタリと冷たい手が。
「ひえーっ、ひえーっ。」
それは、夜露に濡れた柏の葉だったのだが・・・。

「ああ、おそろしや。」
長めの髪で背が縞になっている鬼神の姿が、老人の頭から離れない。
我髪夜に降る、鬼神の長めの髪で背が縞に。
鼻の色は移りに蹴りな板面に我髪夜に降る長め背縞に。

「ひえーっ、ひえーっ。」
老人の叫び声が、谷にこだまする。

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2017/12/23

おくやまにもみぢふみわけなくしかのこゑきくときぞあきはかなしき

秋は物悲しい季節である。
葉を落として、黒く尖った木々の枝先が、曇天を刺すように連なる。
暗い雲の下を鳴きながら飛んでいく夕暮れの雁。
そんな晩秋の景色に触れると、いっそう物悲しい気分になってくる。

秋子は、自身の名前に季節の秋の字が用いられているせいか、秋に対する思い入れが人一倍強い。
秋は、冬が間近な季節。
過ぎていく秋を、物悲しく思う気持ちが募ると、人恋しい気持ちも募ってくる。
人恋しい気持ちには、しみじみとした哀愁が伴う。

秋子は食品開発課の上司である奥山課長を密かに慕っていた。
課内での飲み会の席で、思いのほか酔いがまわっていた秋子は、奥山課長にビールを注ぎながら「お慕い申しております・・・」と言った。
そんな秋子の古風な言い方を戯言のように聞き流しながらも、奥山は好感を持った。
短歌をたしなむ奥山は、古風な趣を日本人の知的共有財産だと思っていた。

マイペースな今の若い女子社員は、上司にお酌などめったにしない。
奥山は、秋子の仕草に雅な情緒を感じて、その雰囲気を楽しんでいた。
「この子は私の趣味を感じとるアンテナを持っている。」
などと、秋子を評価した。

そんな二人の様子をじっと見ている男子社員がいた。
奥山課長と同期入社の鹿野係長だった。
鹿野は入社当時から業績が芳しくなく、今では同期の奥山の後塵を拝することとなった。
奥山の有能さを認めている鹿野は、先を越されたことを恨んではいなかった。

その鹿野は、理知的な雰囲気を漂わせている秋子に好意を寄せていた。
そして、秋子が奥山を好いていることをうすうす感じてもいた。

食品開発課は、奥山課長をリーダーとして新商品の開発に取り組んでいる。
奥山は自らが提案した「もみじ麩」の商品化に熱心だった。
「もみじ麩」は、すでに他社で商品化されていたが、奥山が考えているものは、日本ならではの美しい細工食品としての「もみじ麩」であった。
日本人が古来より抱いている美意識を、現代の商品に反映させよう。
それが、奥山が抱いているテーマであった。

その「もみじ麩」の着色の見分けを、奥山は鹿野に頼んだ。
色彩感覚に自信が無い鹿野は、秋子に仕事を手伝ってもらおうと思った。
一石二鳥。

「奥山にもみじ麩見分け・・・・」と鹿野は秋子に話しかけた。
話の末尾が聞き取りにくい鹿野の話し方に、秋子は苛立ちを覚えていた。
その口調が泣きながら言っているような感じなので、秋子はいつもの「泣く鹿野」が始まったと思った。

秋子は、鹿野の態度を男らしくないと思いながらも、係長である鹿野の申し出を断る訳にもいかない。
それで秋子は、「もみじ麩」の着色の見分けに協力することにした。
あいかわらず優柔不断で決断力に乏しい鹿野は、なかなか自分の意見を言わない。
泣くような声で、秋子の判断ばかりを求める。

奥山課長は、麩という日本の伝統的な食品に、「もののあはれ」的な色合いを添えようとしているのだ。
奥山課長がイメージしている「もののあはれ」的な色合いを、秋子はよく理解していた。
麩という食品は、精進料理や懐石料理に採用されながらも、やがて庶民の食卓にあがるようになった。
「もののあはれ」も、古の王朝文芸の感覚から離れて、庶民的な色合いを発するようになった。
そんな色合いの「もみじ麩」を課長は希望しているのだ。

鹿野係長は、そんなことには無頓着。
私に泣くようにせがむばかりで、自身では結論を出そうとしない。
奥山課長に、「もみじ麩」の見分けを頼まれて泣く鹿野の哀れさ。
それよりも、こういう男が部下では奥山課長が可哀想だ。

奥山課長の苦労が痛いほどわかった。
心が哀愁に震えて、秋子はしみじみとした気持ちになった。
奥山課長が哀れであった。
鹿野係長の無能さが悲しかった。

奥山に「もみじ麩」見分け泣く鹿野声聞く時ぞ秋は悲しき。

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2017/12/22

布さらすうすや川辺冬木立

布さらすうすや川辺(かわべの)冬木立
野沢凡兆

最初この句を読んだ時「うすや」の「うす」は「失す」だと思った。
「うすや」の「や」は詠嘆の間投助詞「や」。
「や」は、句の切れ字でもある。
それで、この句から感じたイメージは以下の通りであった。

季節は冬。
川に晒された布が、川べりの物干しに下げられている。
川の水で晒したあとは、天日に晒すために布を広げているのだ。
川から上がった布が、次々と干されていく。

幾枚も、幾枚も。
干されるたびに、いままで見えていた川辺の風景が消えていく。
川辺の木立が視界から消える。
真っ白な布の幕が冬の陽光に輝いている。

ああ、川辺の木立が白く消えていくなあ。
と凡兆はため息をつく。
人の生活と自然との境目が白い布のようで面白い。
そう、凡兆は感じたのか。
そんな冬の情景を句に詠んだ。

江戸時代では、綿や麻の布を純白にするために、川に布を晒した。
さらにそれを天日に晒して漂泊したという。
掲句は、凡兆がその作業を眺めながら詠んだものと、私は思っていた。

ところで最近、「野洲川(やすがわ)や身は安からぬさらしうす」という句を見つけた。
この句は、松尾芭蕉の「存疑句」と言われているもの。
そのせいかこの句は、「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」には載っていない。

滋賀県野洲市に「 百足山(むかでざん)十輪院」という寺院がある。
その境内に「野洲川や・・・」の句を刻んだ「芭蕉句碑」があるという。
ただこの句の出典が不明であるため、この句が芭蕉作であるかどうかの真偽は不明となっている。

この句で私が気になったのは「野洲川」「さらしうす」という言葉。
野洲川(やすがわ)は滋賀県最大の川で、琵琶湖に注いでいる。
野洲川は「野洲晒(やすさらし)」で知られている川である。
「野洲晒」とは、野洲地方の産物の晒し麻布。
この麻布を、野洲川の水に晒す工程があるとのこと。

京都で和装繊維製品総合卸売業を営んでいる「株式会社市原亀之助商店」のホームページに、「野洲晒」についての説明がある。
それによると「野洲晒」は、「晒粉に浸し>水洗>布炊き>布天日干し>灰汁うち>杵で布搗(ぬのつち)>糊付け」という工程を経るという。

この工程の「杵で布搗(ぬのつち)」とは、臼のなかに布を入れて杵で打つこと。
とすれば、 「野洲川や身は安からぬさらしうす」「うす」とは「臼」のことと思われる。


【布晒し作業のイラスト。「日本山海名物図会(平瀬徹斎 撰、長谷川光信 画)」国立国会図書館デジタルコレクションサイトより。


上の図は、国立国会図書館デジタルコレクション>日本山海名物図会 5巻>[4]にあるインターネット公開許可のある画像。
画像右側の説明書きの部分を、私が拡大したものが下にある縦長の画像である。
このページのタイトルが「奈良晒(ならさらし)」となっているのを読むことができる。


奈良晒の説明書き。「日本山海名物図会(平瀬徹斎 撰、長谷川光信 画)」国立国会図書館デジタルコレクションサイトより。


「奈良晒」をインターネットで検索していたら、小学館の「日本大百科全書(ニッポニカ」の記事に辿り着いた。
その記事を簡略にまとめると下記のようになる。
  1. 農家の副業として行われた。
  2. 生産工程は、農閑期に手績(う)みにより糸を作る。
  3. 織り上げたのち、灰汁(あく)に浸(つ)けて不純物を除く。
  4. 臼(うす)で搗(つ)いて柔軟にする。
  5. 河原や野原で晒す。
これを読むと「野洲晒」と「奈良晒」の工程に、共通している部分があることが分かる。

「臼(うす)で搗(つ)いて」という共通部分は、布晒しの工程で「臼」を使うことを示している。
「野洲晒」でも、下の画像の「奈良晒」のイラストにあるような「臼」を使っていたに違いない。
これで、「野洲川や身は安からぬさらしうす」「うす」は「臼」であることが分かった。


布晒しの臼のイラスト。「日本山海名物図会(平瀬徹斎 撰、長谷川光信 画)」国立国会図書館デジタルコレクションサイトより。


と、ここまで長々と書いたのは「野洲川や身は安からぬさらしうす」と「布さらすうすや川辺冬木立」との共通点を探るためであった。

このふたつの句に共通する言葉は、「川」と「さらし(す)」と「うす」である。
そしてふたつの句が、布を漂泊する「晒し」という仕事を取り上げている。

となれば、凡兆の「布さらすうすや川辺冬木立」の「うす」は「失す」ではなくて「臼」であると言えるのではあるまいか。

凡兆は、「布晒し」の産地の川辺りを歩いていた。
そして、木立の間に置かれた布を晒す「臼」を目にしたのだろう。
人のいない川辺りにポツンと置かれた「臼」の存在感が凡兆にとって印象的だった。
これが、寒い冬に布を晒す道具の「臼」なのだと心を動かされる。

物を描くことで、「もの」の存在感を表現しようとする凡兆。
凡兆は、この川辺りの冬木立のなかで行われる「布晒し」の作業を思い浮かべた。
農閑期の農民たちが、寒空の下で「晒し」を生産する。

「布さらすうす」という生活(仕事)の道具と、「川辺冬木立」という冬の自然。
それらを、切れ字「や」で結びつけた凡兆。
「や」には、強い詠嘆が込められている

自然のなかに置かれた臼を描くことで、布を晒す農民の存在感を強く表現しようとしたのではあるまいか。
掲句は、そういう凡兆の感情が伝わってくるような叙景句であると私は感じている。


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2017/12/17

あまのはらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも

冬になると、大根の煮物が食べたくなる。
寒さが増すたびに、大根の煮物を食べたいという気持ちが募る。

そうなると、度々訪れる天野原食堂。
ここの大根と豚バラの煮物は最高に美味しい。
豚バラの旨味が程よく染み込んだ飴色の大根。
口の中で、ジュワ~と広がる幸せの味。
もう絶品だと私は思っている。

天野原食堂は、天野という名字のご夫婦が経営している食堂。
奥さんの旧姓が原だったので、ふたり合わせて天野原食堂という屋号になったのだとか。

駅を出て、駅前の通りをしばらく歩くと、右手に飲食店街の長い横丁が見えてくる。
その横丁に入り、店の看板に照らされた細い道をしばらく歩く。
すると、前方のはるか奥に、天野原食堂の赤い提灯が小さく見える。
横丁の途中には広い畑が海のように横たわっており、海のなかの小道を渡って続きの横丁へと辿り着く。

その続きの横丁の最奥で、天野原食堂の赤い提灯が灯っているのだ。
今の時期は、畑のなかの作物がすっかり取り払われて、暗がりの中、露出した土塊が波のようにうねって見える。

横丁の入口から、はるか遠くにある天野原食堂の赤い提灯を望み見るときの、思いもかけない気分は何だろうか。
ちょっとしたときめきを抱きながら、天野原食堂をふりさけ見る。
天野原ふりさけ見れば・・・・。
この気分は、大根と豚バラの煮物によるものではない。

天野原食堂の美味しい大根の煮物のことを、ある女性に教えたことがあった。
その女性に再会できるかもしれないという、期待のような憧憬のような。
もしかしたら、郷愁に似た気持ちかもしれない。

その女性とは三笠という和食処で出会った。
三笠は、ここからそれほど遠くない春日町の丘の上にある和食処である。
丘と言っても、駅前の通りからは、ちょっとした山のように見える。
商店の灯で明るい駅前通りからは、和食処三笠のある一帯は、黒い塊の山のようであった。
黒い山の中に、和食処三笠の乳白色の明かりがポツンと灯っている。
春日なる三笠の山に・・・・、明かりが灯っている。

私も彼女も独りで和食処三笠に食事に来ていた。
あるとき、カウンターに隣り合わせになったことがあった。
いろいろと食べ物の話に花が咲いて、彼女が大根の煮物が好物だと言ったので、天野原食堂の大根と豚バラの煮物は格別だと教えたのだった。

彼女は季節によって食事をする店を変えるのだと私に言った。
その季節の旬のものを美味しく食べさせてくれる店を巡っているのだという。
季節ごとに店を巡るとは、まるでお月さまのようですねと私が言ったとき、彼女はまるで夜空の月のように微笑んだ。
「それでは冬になったら天野原食堂を訪ねてみたいと思います。」と言って、お月さまは席を立った。

前方で、天野原食堂の小さな提灯が赤く灯って揺らいでいる。
第一横丁の賑やかな飲食店街を過ぎて、寂しい畑地にさしかかる。
土のうねりが、行く手を阻む波のように見える。
畑の片隅に置いてある板切れが、難破船の残骸のように闇に浮かんでいる。
駅の近くとは言っても、地方都市のこと。
通りから一歩外れると、いたって侘しい。

広い畑地の向こうの第二横丁は、第一横丁よりもひっそりとしていて静かな佇まい。
畑の道の中ほどに差し掛かったとき、天野原食堂の格子戸の前で人影が動いた。
その人影は、女性のように思えた。
女性は、入口の前でちょっと立ち止まってから暖簾をくぐり、ガラス戸を開けた。
店の中の明かりが彼女に降り注ぎ、その女性は月のように白く光った。

胸の鼓動が高鳴った。
私の足は、今にもひとりでに駆け出しそうだった。
ああ、あの女性に違いない。
あの月の女性に違いない。
天野原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも。

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2017/12/16

一茶の風とインターネット「焚ほどは風がくれたるおち葉かな」

「今日はヒトデ祭りだぞ!」というブログで、「【100万PV達成】雑記ブログでアクセスアップする方法を全て教える」という記事をみつけた。

【100万PV達成】とは、一ヶ月間にブログのページビュー数(PV数)が100万回あったということ。
ページビュー数とは、ブログのページが開かれた回数を表す数字のことである。
このページビュー数の数字が多いブログは、それだけ多くの訪問者が訪れているということになる。

月間100万PVと言うと、一日あたりの平均PV数が約33,000回。
これは、すごい数字。
私のブログ「雑談散歩」の、PV数の一ヶ月分でさえ33,000回には遠く及ばない。

2017/12/15

意味のない音と無意味なことば

「あなたを思えばこそ言ったんですよ。」とその男が言った。

私が考え事をしながら道を歩いていたら、前方からやってきた男にぶつかりそうになったのだ。
私の不注意なのだが、「どこ見て歩いてるんだよ。」と高飛車に言われると、ムカつく。
「おまえが避けて通ればいいだろう。」と身構えて睨んでしまった。
男は中年の勤め人風。
私は、遊人風。

その男のほうが、私をよく見ていなかったのだ。
私の風体をチェックしていれば、そんななめた口はきけなかったはず。
男の顔がちょっと困惑気味になって「あなたを思えばこそ言ったんですよ。」と言った。

「怪我でもしたら大変でしょう、前をよく見て歩いて下さいよ。」
私は、初対面の人に親身に思われるほど人懐っこい顔をしているわけではない。
その男は如才ない言葉で、その場を繕うとしたのだろう。

「その『くそ』って何だい。」と私が言った。
「えっ?・・・。」と男の目が宙を泳いだ。
目をパチパチ。
まるで目の中に虫が入ったみたいに。

「だから『思えばくそ』の『くそ』ってどういうことだい。」
「いや・・・、わたしは『思えばこそ』って言ったのですが・・・。」

たしかに私の耳は「こそ」という音を聞いたようだった。
だが私は「思えばこそ」というようなことばの使い方を知らなかった。

「くそ」のほうが私の日常に馴染んでいる。
「くそえらそうにしやがって!」とか「くそくらえ!」は私の口癖。
それで私の短絡な脳は、「くそ」にしてしまったようだった。

ところが、やっぱり「こそ」だった。
しかも「思えばこそ」なんて、なにがなにやら意味不明。

「じゃ、その『こそ』って、どういう意味だい?」
私はイラついて、その男に迫った。

「いや、そのー・・・、話の流れでそう言ったまでですよ。」
と男が言った。

ことばとは不思議なものだ。
ろくに意味も知らずに、勢いや流れで、つい口に出してしまう。
それが案外、自然に相手に伝わる。
相手も、そのことばの意味を知らないのだが、疑うこともなく了解する。
話し手は話の流れで言い、聞き手はそれを、心地よく聞き流してしまう。

「こそ」も、そういう音なのだ。
私の脳は、どんどん「こそ」の意味から遠のいて、「こそ」を音としてしか聞き分けられなくなっている。

するとその「こそ」が、「ガガ」とか「ゲゲ」とかのように、まったく意味のない音のように思えてくる。
この男が発した「こそ」という音には、いかなる意味もない。

この男の「こそ」は、自身では所有していない意味を、あたかも持っているかのごとく再現した音なのだろう。
そして多くの人は、自身の記憶にまだ残っているかすかな意味を、もっともらしく聞き流す。

だがその音は、ことばとしては無効になった音だ。
言っても無意味な音。
言っても言わなくても同じという空疎な響きの音。

そういう日常に慣れた勤め人と、そういう日常に無知な遊人が、ぶつかりそうになったというオハナシ。

突然、男のポケットで携帯電話が鳴る。
サンタナの「哀愁のヨーロッパ」。
前奏だけが虚しく繰り返される。
意味のないことばと、意味ありげな音。

「ことばはもう一度、音からやり直したほうがいい。」と言ったのはどなただったか。
チャンドラーで無いことは確かだ。
私は、チャンドラーの名文句なら、たいがい知っている、と思っている。

男は、ほっぺたに貼付けた携帯電話に向かって「はい、はい、」と言いながら、私の脇を足早に通り抜けた。
「はい、はい、はい・・・。」と言う安堵した背中が、目の前から遠ざかる。

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2017/12/12

月花の愚に針たてん寒の入り

「寒の入り」とは、暦の上で寒が始まる「小寒」のこと。
一年を二十四等分して季節を分けたのが二十四節気。
「小寒」は、その二十四節気の二十三番目にあたる。

旧暦の十一月後半から十二月前半あたりに「小寒」の日があるという。
「小寒」の前の二十二番目は、おなじみの「冬至」。
「小寒」の後の二十四番目は、二十四節気の最後「大寒」。

「小寒」から一層寒い日が続くようになるので、「寒の入り」と呼ばれている。
江戸時代では、「寒の入り」が来ると本格的な冬が始まるとされていた。
現代では、「寒の入り」の頃には体調を崩す人が増え、風邪やインフルエンザが流行する。

月花(つきはな)の愚に針たてん寒の入り
松尾芭蕉

元禄五年十一月二十九日、「寒の入り」の日の発句。
「寒の入り」になったら、体の変調を治すために鍼治療を受ける習慣が、江戸時代にあったのだろうか。
寒くなると血の巡りが悪くなって、体のあちこちが凝ってくる。
それを解消するために鍼治療を受けることになる。
鍼治療が、筋肉の緊張をゆるめ血行状態を良くすることは一般に認められていることである。

「針たてん」の「針」は鍼治療の「針」のことと思われる。
「月花の愚」で、風雅に酔いしれることを愚行としている。
月や花に執着する風雅の生活を、愚かしい性癖であると自己批判。
寒さが厳しくなる前に、この愚かしい性癖を鍼治療で追い払ってしまおうという気持ちを詠んだ句のようである。
俳諧師としては自虐的な句のように見える。
「針たてん」には、鍼治療の「針」を自らたててやろうという強い意思が表現されている。

だが芭蕉は鍼灸師では無い。
俳諧師である。
鍼灸師では無いのだから、自らの病癖を治療することは出来ない。
俳諧師ならば、俳諧創作の不出来(愚)を自ら改めることが出来なくもない。

このとき芭蕉は四十九歳。
芭蕉は、出生地の伊賀上野で、十代後半頃俳諧に興味を抱いたとされている。
「春や来し年や行きけん小晦日」は芭蕉十九歳のときの作で、作年次が判明している最古の句となっている。
俳諧の世界に身を入れてから、元禄五年の「寒の入り」まで約三十年を経ている。

三十年の俳諧生活。
四十一歳からは、その俳諧生活に「俳諧行脚」の暮らしが加わる。
そうして四十九歳。

このごろは、風雅三昧に旅三昧。
ちょっと「風狂」が過ぎているから、そういう自分にお灸を据えねばならんな。
もう爺だし。
それに「寒の入り」だし。

というような自虐的表現の裏に、創作上の戒めを込めているのではなかろうか。
と私は思ったりしている。

「月花」という伝統的な題材にばかり凝り固まって、芭蕉が提唱する「新しみ」や「かるみ」に目を向けない傾向は愚かしいことで、「寒の入り」になったのを良い機会に、そんな傾向には針をたて、お灸を据えねばならないという芭蕉の胸の内かもしれない。
いわば、自虐的なポーズを装った俳諧批評。

この句ができる半年ちょっと前、元禄五年五月七日、芭蕉が向井去来に送った書簡には、江戸においては「点取俳諧」がはびこって勢いを増していることが書き添えられている。
以下はその書簡を「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋したものである。
「此方俳諧の体、屋敷町・裏屋・背戸屋・辻番・寺方まで、点取はやり候。尤も点者共の為には、悦びにて御座有るべく候へ共、さてさて浅ましく成り下がり候。中々新しみなどかろみの詮議思ひもよらず、随分耳に立つこと、むつかしき手帳をこしらへ、磔・獄門巻々に言ひ散らし、あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候。愚案此節、巻きて懐にすべし。予が手筋此の如しなど顕し候はば、尤も荷担の者少々一統致すべく、然らば却つて門人共の害にもなり、沙汰もいかがに了簡致し候へば、余所に眼を眠り居り申し候。」
上記抜粋を、私なりの「意訳」でまとめたものが以下の箇条書きである。
  1. 近頃の俳諧事情は、江戸の町のあらゆる階層の人達の間で点取俳諧が流行っていること。
  2. 点料を稼いで生活している点者にとっては喜ばしいことであろうが、なんとまあみっともなくおちぶれたことである。
  3. とても「新しみ」や「かろみ」などの句法を検討する考えもない。
  4. 目立って聞こえてくることは、気味の悪い俳諧をこしらえて、「磔巻」とか「獄門巻」とか触れ回っていること。
  5. あるものは古臭くて重厚で、句の作りがまったくなっていない。
  6. 私のアイデアはこういう時期には、懐に隠しておこう。
  7. 私の俳諧の方法はこういう具合であると明らかにすれば、本当に私に同意してくれる人が多少はいるであろう。
  8. そういう人たちをひとつにまとめなければならないが、そうすれば逆に門人たちに害が及ぶ。
  9. 蕉門の者で点料で生計を立てている者もいるので、その扱いをどう判断すれば良いのか。
  10. 関係ないこととして、目をつぶって知らん振りをしておこう。
こんな手紙を去来に出した芭蕉ではあるが。
「芭蕉年譜大成」によると、芭蕉は延宝三年(三十二歳)頃から点者(てんじゃ)生活に入り、延宝末年(三十七歳)には江戸中屈指の俳諧点者に数えられていたという。
俳諧点者とは、俳諧(句)を評点し、その優劣を判定する者。
その際の報酬を「点料」という。

やがて芭蕉は、点取に狂奔する俳壇大衆とその点料で生活を立てる点者間の顧客争奪に嫌気を覚える。
点を掛けること自体に対する疑問も生じ、芭蕉は点者生活から抜け出して俳諧そのものに徹すべく江戸都心部から離れた深川に隠棲する。
延宝八年、芭蕉三十七歳の冬のことである。

それから芭蕉五十一歳の元禄五年。
元禄五年五月七日の去来宛書簡にあった「点取はやり候」さてさて浅ましく成り下がり候」という「此方俳諧の体」は半年後の「寒の入り」まで続いていたのかもしれない。
去来への手紙では「余所に眼を眠り居り申し候。」と書いたが、芭蕉は目をつぶって知らん振りは出来なかった。

芭蕉は、かつて自身がその点者として生計をたてていたことを、愚かしいこととし「月花の愚」と詠んだのかもしれない。
「あるは古き姿に手おもく、句作り一円きかれぬことにて御座候」という「此方俳諧の体」を戒めようとした。
厳冬期を前に、自身の愚かしい記憶と「此方俳諧の体」に針をたてて、自身ともども俳諧をリフレッシュさせようとしたのではあるまいか。

例によって、私の個人的な空想に過ぎないのだが。

月花の愚に針たてん寒の入り

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2017/12/11

紫陽花の雪囲い、えっ紫陽花って木だったのか?

立木に結わえられて、雪囲いされている紫陽花。


 愛犬の散歩で訪れている公園は、もうほとんど雪囲いが終わっている。
大掛かりなものは、板で組んだ屋根があり、まるで小屋のようになっている。

簡単なものは支柱を立てて、植え込みをその支柱ごと結わえているもの。
もっと簡単なのは、植え込みを荒縄で結わえただけのもの。


紫陽花の天然のドライフラワー?。花弁に見えるのは、実はガク(萼)。


公園で、そんないろいろな雪囲いを眺めていたら、紫陽花が雪囲いされているのが目に入った。
側の立木を支柱代わりにして結わえられているもの。
ただ紫陽花の茎だけが荒縄で束ねられているもの。
そのなかには、上部の「房」が今朝の雨を吸って重くなり、地面へ頭を垂れているものもある。

なんだ丈の高いものは草まで雪囲いするのか、と違和感を覚えた。
枯れた茎を切ってしまえば、また来年の春に地面から伸びてくるものを、と思ったからだった。
それからすぐに「いや違うだろう。」という「訂正」が頭をよぎった。
毎年春になると紫陽花の枯れたような茎から新芽が出てくるのを、私は目撃しているではないか。
てことは、紫陽花って木(木本)だったかな?

散歩から帰って調べてみた。
結果、紫陽花は木本だった。
紫陽花は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種とウィキペディアにある。
紫陽花の枯れた枝が空洞になっているのをよく見かけたから、紫陽花は草だと思っていたのだが、なんと木だったのだ。
年輪が出来、幹が年々太くなるものを木だと思っていたのだが、そうではない木もあったのだ。

年輪ができるものが木であるという見方は多くの人に普及していると思われる。
であるから、私のように勘違いされる方はけっこういらっしゃるかもしれない。
勘違いするには勘違いするだけの理由があるのだ。
  1. 外見が木っぽくない(幹が草っぽいとか)。
  2. アジサイのサイがヤサイのサイを連想させ、アジサイは草本であると思い込みやすい。
以上が私の勘違いの理由。
ちょっとこじつけがましいが。

しかし実際草本と木本の見極めは難しい。
「立てば芍薬、座れば牡丹」で知られる芍薬と牡丹。
どちらも似たような大輪の花を咲かせるので、その見分けが難しいことでも知られている。
芍薬と牡丹の大きな違いとは、芍薬は草であり、牡丹は木であるということだという。
芍薬は、冬に茎が枯れてしまい、地中の根から春の新芽が出る。
牡丹は、幹のまま冬を越して、紫陽花のように春に幹から新芽を出す。

この違いは、冬の過ごし方の違い。
幹(茎)のまま冬を越すのが木本。
茎は枯れて、根が残って冬を越すのが草本。
タンポポのようにロゼット葉で冬を越すのも草本。

冬期に茎(幹)があるかないかで木か草かを見分けること。
これが紫陽花は木だと知った私の到達点。

都市公園では、低木類は雪囲いされる。
アジサイは幹を持った低木で、毎年その幹から芽を出すから雪囲いされているのだね。
しかし外見が草のようであるから、ツツジみたいに丁寧な屋根付きの雪囲いは施されない。

雪の重さに幹が耐えられるように、荒縄で幹を束ねられるだけ。
バラバラだと、雪の重さで折れてしまうが、荒縄で団結すれば折れない。
60年代の労働者みたいにスクラムを組んでいるのだね。


萼片(ガクヘン)は枯れると葉のようにも見える。


上部が重いので、支えが無いと倒れ込む。

猫の恋やむとき閨の朧月

早春の猫の発情期の鳴き声を、「うるさいなあ」と感じる人は多い。
うるさいはずである。
発情期の鳴き声のなかには、メス猫を奪うためにオス猫同士がバトルする雄叫びも含まれるからである。

恋に焦っているオス同士が、あふれるばかりの敵愾心を相手に向かってぶつけているのだから大音量になる。
もちろん、オス猫を呼び込もうとしているメス猫の鳴き声もかなりうるさい。
それに応えて、メス猫の鳴き声をまねるように鳴くオス猫の声が、また一段とうるさい。
そんな猫達の鳴き声が、行き来し増幅する。

猫の恋やむとき閨(ねや)の朧月
松尾芭蕉

元禄五年の春の句。
芭蕉四十九歳のときの作。
芭蕉は、元禄五年の正月を江戸日本橋橘町の仮住まいで迎えている。
深川の第三次芭蕉庵への入居は五月中旬であるから、この句は橘町の仮居での作と思われる。

発情した猫の鳴き声は、深夜になってもなかなか止まない。
芭蕉にとっては、その鳴き声がやかましくもあり興味深くもあったのではなかろうか。
猫の鳴き声は千変万化。
芭蕉はそれを、人の言葉に翻訳しようと耳を傾ける。
メス猫の鳴き声に芭蕉は、「まったく奔放なもので・・・・」と思った。
源氏物語の「朧月夜」を思い出したのである。
「朧月夜」は、物語中随一艶やかで奔放な気性の女性である。
「朧月夜」はメス猫がモデルであったのか、などと芭蕉が思ったなんてことは、ただの私の空想。

地上の生き物の営みと、天空の月との取り合わせによって空間的な広がりが感じられる句である。
「猫の恋」の騒然とした様子と、それが止んだときの「閨の朧月」の静寂感との対比が、朧な春の夜を表現していて面白い。
などという感想を掲句に持ったのだが。
ただ、どうして芭蕉は「閨」という言葉を使ったのだろう。

「閨」とは寝室の意であるが、特に夫婦の寝室という意味合いが濃い。
いきなり「閨」では、句を読む者が戸惑う。
しかも「やむとき」の「とき」もなんとなく唐突な印象である。
「朧月」というボンヤリとしたムードに対して「とき」は、あまりにも端的で鮮明だ。
「猫の恋やむころ閨の朧月」と詠んだ方が雰囲気が良いのでは、とトーシロの私は勝手に思ったりしている。

ひょっとしたらこの句は、発句ではなく「歌仙(俳諧の連歌・連句)」の前句(長句・五七五)なのではあるまいか。
この句が、歌仙で表された物語のなかの一幕だとすると、なんとなくイメージが湧いてくる。

猫の鳴き声が止んで、急に静まり返った「閨」に今は春の朧月の光が射し込んでいる。
音で充満していた「閨」が、今は朧な光に満ちている。
猫の鳴き声に耳を奪われ、朧月の淡い光に目を奪われ。
そんなこの空間に不足しているのは人の恋ではないだろうか、と芭蕉が投げかける。

芭蕉は源氏物語を下敷きにして、曖昧に「閨の朧月」という語を使い、これに続く詠み手に仕掛けていたのかもしれない。
さて、これに続く付句(七七)はどんなだったろうか。
次のメンバーは、凡兆か去来か其角か。
凡兆なら、軽くかわす。
生真面目そうな去来なら、正面から攻め込んで討ち死に。
其角は、芭蕉の期待通り。
などとトーシロは勝手な空想を楽しんでいる。

「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべしとなり」と先師(芭蕉)が仰った。
芭蕉の弟子である向井去来が著した「去来抄」に、そうあるとか。

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2017/12/09

雪国の冬の必需品、ゴム長靴にあいた穴(亀裂)を補修する

ゴム長靴補修キット。


 三年前に買ったゴム長靴に穴(亀裂)が開いて、水が靴内に入り込むようになった。
釘かなんかで引き裂いてできた穴では無く、劣化によるひびわれが進んで細長い穴があいているような状態である。
雪かきをしているときに靴下が濡れて足が冷たくなってくる。
これは、とても我慢できるものではない。

三年経ったとは言え、冬場だけの使用なので、このまま捨てるのはもったいない。
それに、外見もそんなにヘタってはいない。
まだ黒ツヤが残っている。

まだ黒ツヤが残っているのに、浅いひびわれが生じて、劣化が進んでいるような部分もある。
「ミツウマ」のメーカー品なのにと思ったが、今時の合成ゴムは劣化が早いらしい。
ホームセンターで売っている千円前後の安いゴム長靴は一冬ぐらいの寿命だという。
合成ゴムより天然ゴムの方が劣化が早いと言われている。
でも、昔の天然ゴム製の長靴の方が、今の合成ゴムの長靴よりも寿命が長かったような気がする。

という気分で、近所のホームセンターをうろついていたら、「ゴム長靴補修キット」というのを見つけた。
インターネット販売のページにも出ていて、レビューが一件だけだったが、「上手く行きました・・・・すばらしい商品です。」とベタ褒めされていたものである。
一件だけのちょっとあやしいレビューなのだが。
ホームセンターでの値段が、税込みで511円だったので、試してみることにした。


パッケージの裏に「ご使用方法」の記載がある。

付属の紙やすり。

亀裂部分周辺を紙やすりで荒らす。


付属の紙やすりで、亀裂部分周辺のゴム表面を荒らす。
ゴムの表面を適度に荒らした方が、接着剤の効き目が強い。


補修用パッチ


補修用パッチを適当な大きさに切ったら、下の写真のように四隅の角を落として角丸にしておくと剥がれにくくなる。
補修用パッチには、裏に粘着剤が施されているので、裏紙を剥いで長靴に貼り付ける。


適当な大きさに切ったパッチと接着剤。

接着剤を亀裂周辺に塗って伸ばす。

接着剤を塗ったら五分間放置し、そのあとパッチ(合成ゴムシート)の裏紙をはがして貼り付ける。

もう一ヶ所の亀裂部分に紙やすりをかける。

パッチを貼る。

肉盛り補修剤。


補修用パッチの合成ゴムシートは、薄くてちょっと頼りない感じだったので、上の写真の「肉盛り補修剤」をパッチごと上塗りして補強した。
これで、パッチが端から剥がれるのも防げると思う。
ちなみに、セメダインの「クツ底の肉盛り補修剤・シューズドクターN」は、ホームセンターで1100円ぐらいだった。
修理材料の購入合計額は1600円ぐらいだが、今回は材料の2.5割ぐらいを使用した。
材料経費が400円のゴム長靴補修である。

「肉盛り補修剤」を塗ったあとは約24時間静置することと使用説明書に書かれてある。
さて、修理の出来栄えやいかに。
愛犬の散歩や自宅前の雪かき、現場での軽作業。
この時期、雪国ではゴム長靴の使用機会が多い。


パッチの上と、パッチ周辺に塗る。

「シューズドクター」付属のヘラで伸ばして塗る。

2017/12/08

草いろいろおのおの花の手柄かな

芭蕉は元禄元年八月に、仲秋の名月を鑑賞するために美濃の地から信州更科への旅に出る。
「更科紀行」の旅である。
そのときに芭蕉は、見送りに来た岐阜の門人たちに留別吟を残している。
留別吟とは、旅立つ人があとに残る人に向けて詠む別れの句のこと。
芭蕉にとっては、「笈の小文」の旅へ出て以来、信州更科を経て、約十ヶ月ぶりに江戸へ帰る旅となる。

草いろいろおのおの花の手柄かな
松尾芭蕉

掲句は、その留別吟のひとつ。

見送りの門人たちを草に喩えているというのが一般的な「解釈」であるようだ。
いろいろな特長を持った草があるように、私(芭蕉)にはいろいろな特長を持った弟子がいる。
その弟子たちがそれぞれの特長を活かしてすばらしい花を咲かせている。
という、見送りの門人たちへの感謝と賞賛の念を表明している句であるとされている。
なるほど。
平易で馴染みやすい句である。

芭蕉の俳諧は様々なイメージを表現している。
ひとつの句の中にイメージが混在しているのではと思うこともしばしばである。
当然のことながら、新たなイメージを句から感じたときは、それまでとは異なる視点でその句に接していることになる。
視点を変えれば、別な世界が広がって見える。
これも芭蕉の俳諧を読む楽しさのひとつ。

草が大地に根を張って、雨風をしのいでいろいろ努力している結果、おのおのの開花が実現している。
花が咲いているのは草の手柄であるというイメージ。
そういうイメージがある一方、いろいろな草が豊かに生い茂っているのは、それぞれの花の手柄であるというイメージ。
花が受粉を促し結実して種子をつくる。
その種子が発芽して草を生い茂らせている。

鶏が先か卵が先かではないが。草と花の手柄あらそいという印象を掲句から感じている。
花は、芭蕉が師となっている蕉門の喩え。
草は、その門人の喩え。
そうであるとしたら、これは門人と蕉門(芭蕉)の一門発展の手柄あらそいを彷彿させる。

以下は「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋。
「近来各地の芭蕉人気の上昇を背景に、旅の経過地ごとに前回にも増した歓迎に逢う中で各地の蕉門勢力は増大する。再訪の地尾張では一月半にわたって多くの新参も交える連日の句会に引き回され、・・・・・・・・。歳末から翌春三月までの伊賀帰省中のは俳交の記録と参入の門人の顔ぶれも一挙に増え、滞在中に再訪した伊勢山田でも多数の新人の参加で賑わう。・・・・・初訪問の岐阜俳壇の歓迎は殊に熱烈で、ここに蕉門の一淵叢(えんそう)が誕生する。」                                          ※淵叢(えんそう):物事の寄り集まる所。活動の中心地。(ブログ管理人注)
上記抜粋を読むと、「笈の小文」の旅の訪問地での蕉門の盛況ぶりを窺い知ることができる。
掲句は、芭蕉がその盛況ぶりの感想を句に詠み、その句を留別吟としたのである。
「笈の小文」の旅を終えた芭蕉の感想が、そのまま留別吟となったのだと思う。

蕉門という花が見事に咲き乱れているのは、草に喩えた門人たちの活躍によるものである。
と同時に、生い茂る草のように門人たちが活躍できるのは、蕉門という大きな花が咲いているから。
芭蕉が蕉門の名声を世に轟かせているからである。
蕉門俳諧の発展の手柄は、草(門人)と花(蕉門=芭蕉)の双方にあるという芭蕉のメッセージのようにも受け取れる留別吟である。

芭蕉は、蕉門の一淵叢(えんそう)が誕生」した岐阜の門人たちに「君たちもえらいが、俺もえらい。」と言い残して信州更科へ旅立ったのです。


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2017/12/05

月はやし梢は雨を持ちながら

芭蕉は「鹿島紀行」の冒頭部分で「このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり」と書いて、「鹿島紀行」の目的のひとつが鹿島での月見であることを記している。
鹿島にある鹿島神宮は、万葉集に集められた「防人の歌」の歌枕の地である。

また「旅立ち」や「門出」を意味する言葉である「鹿島立ち」は、防人が旅立つ際に道中の無事を鹿島神宮に祈願したことに由来すると言われている。

「鹿島紀行」の旅の後、その年内に「笈の小文」の旅。
さらに翌年の「更科紀行」、翌々年の「おくのほそ道」と芭蕉の旅は続く。
芭蕉の「鹿島詣」は、これから続く「俳諧行脚」への無事祈願も目的のひとつだったのかもしれない。

月はやし梢(こずえ)は雨を持(も)ちながら
松尾芭蕉

貞享四年八月十五日、鹿島根本寺の前住職、仏頂和尚の隠居所である長興庵に宿泊した際の発句である。
ここで芭蕉は仏頂和尚との旧交を温めながら月見をしようとしたのだが、あいにくの雨で空は曇っていたようである。
だが、未明(あかつき)に雨が上がって、月の光が見えた。
そのときのことが「鹿島紀行」に記されている。
以下、抜粋。
ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此寺におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるににたり。あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるゞると月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。
「人をして深省を発せしむ」とは、「発人深省(はつじんしんせい)」のことと思われる。
出典は杜甫の五言律詩「遊龍門奉先寺」であるとか。
「発人深省」とは、「人を発憤させ啓発して、物事を深く考えるようにさせること。」と辞書にある。
仏頂和尚は、そういう人物だったのだろう。
芭蕉は、そういう人物と語らい、「しばらく清浄の心をうるににたり」だった。
やがて「あかつき(未明)」に、空が少し晴れた。
皆が仏頂和尚に起こされて、雲間から差し込んだ月の光を眺めた。
もしかしたら月の光は一瞬だったかもしれない。

一瞬の「月のひかり」「雨の音」、それらの趣があまりにも侘びしくて、句を詠もうとしても言葉がなかった。
はるばると江戸から月を見に来て、その素晴らしさを描こうと思ったのに、甲斐もない。
芭蕉の思惑通りにはならないことだった。

そう紀行文に書きながら、芭蕉は掲句を詠んだ。
ほんとうは感動的な名月鑑賞の句を作りたかったのだが、満足に月を見ることが出来なかったということなのだろう。

「月はやし」は、雲の速い動きのため、見え隠れする月が、まるで素早く移動しているように見えること。
その錯視を「月はやし」と表現したというのが、現代での一般的な「解釈」のようである。

私は別の感想を持った。
未明(あかつき)の月ではあるけれど、明方が近い。
太陽が見る見るうちに上がって、明方の月が薄らいでいく。
あるいは、西の方角にまた雲が迫り出してきて、月は隠れてしまう。
あかつきにせっかく顔を見せかけた月だが、早くも姿を隠してしまったという「月はやし」なのではないだろうか。
月ははやくも姿を隠してしまったが、梢には昨夜の雨がまだ残っていて、明方の薄明かりに輝いている。

「梢は雨を持ちながら」とは、梢は雨の雫をとどまらせているけれどもというイメージに思える。
「持ちながら」の「ながら」は逆接の接続助詞で「~けれども」の意と思ったからである。
掲句は、「月」と「梢」を対照的な存在として描いているのではなかろうか。
それが、天と地の空間的な広がりを現出させている。

月は、はやくも空から姿を隠してしまった。
芭蕉は、カメラを夜明けの広大な空から、寺の境内の梢に移動させる。
梢の細枝に付いている雨露をズームアップ。
水滴が夜明けの光に輝いて見える。

月はやし梢は雨を持ちながら

この句は、鹿島の月を詠ったものではないであろう。
月が消えた後の、梢の枝に付着した水滴を詠った句なのではあるまいか。
もしそうであれば、紀行文の「はるゞると月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。」という下りが辻褄が合うように思えるのだ。

掲句に対する私の感想は、紀行文を読んで類推したものである。
紀行文を読まなかったら、掲句について別の感想を持ったかもしれない。
雨上がりの月は動きが早い。
まるで天空のパノラマショーみたいに。
それと比べて、境内の杉の古木は、じっと動かず。
杉の梢には、まだ雨の水滴が残っているけれども、月は早くも西の空に沈みかけている。
などと。
いろいろなイメージを持っているのが、芭蕉の俳諧である。

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2017/12/04

花にうき世我酒白く飯黒し

「銀シャリ」という言葉を初めて聞いたのは、子どもの頃。
テレビドラマを見ていたときだったような。
刑務所での食事の時間に、受刑者がつぶやく。
「もうクサイ飯は食い飽きた。早くシャバへ出て銀シャリが食いてえぜ。」
そうそう、「シャバ」という言葉もそのドラマで覚えたのだった。
テレビドラマは、津軽半島の寒村で暮らす子ども達にとって、未知の世界のボキャブラリーの宝庫だったのだ。

2017/12/02

葱白く洗いあげたる寒さかな

昨夜の降雪で白くなった公園。凛とした寒さが、この公園を美しくしているようだ。
青森市は本格的な冬に入ったのか、ここのところ寒い日が続いている。
寒い日が続くと、私みたいな初老のオジンでも、体が寒さに慣れてくる。
津軽の冬仕様の体になってくるのだ。

2017/11/29

馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

芭蕉は時々、自身の姿を離れた位置から眺め、その姿を句に表現している。
自身の姿を客観視しつつ、句に登場させるというスタイル。
たとえば、「冬の日や馬上に凍る影法師」という句。
自身が身を置いている光景を叙景句として詠み、それを進行している「劇」のように読者に見せる。
読者に想像させる。
そして読者は、その「劇」の登場人物としての芭蕉の「抒情」に触れて感動する。

以前記事にした「埋火や壁には客の影法師」は、もっと間近で自身と応対している芭蕉の句。
ときに荒野を舞台に、ときには庵を舞台に、芭蕉は自身の「劇」を読者に示してきたように私は感じている。
「秋深き隣は何をする人ぞ」の句においても、そんな印象を持ったのだった。

2017/11/27

公園のフジの木から出ているキノコは天然のエノキタケか?

雪をかぶったキノコ

11月22日のキノコの状態

22日に愛犬の散歩で公園に寄ったら、パーゴラに絡んでいるフジの幹からキノコが出ていた。
幹の上の方は、なかば雪におおわれながら顔を出している状態。
このフジからキノコが出ているのを見るのは初めてである。
じっくり見たら、どうやら天然のエノキタケに似ている。
天然のエノキタケは、以前金木の山で採ったことがあり、私には馴染みのキノコ。
おいしい食菌である。


雪のなかからこんにちは。


キノコの傘裏のヒダの様子がエノキタケに似ている。
全体の雰囲気もエノキタケ。
と言っても、スーパーで売っている栽培物の白く細長いエノキタケしか見たことがない人にはピンとこないかもしれませんが。

天然のエノキタケのいちばんの特徴は、柄(茎)にある。
柄の表面は、細かい毛で被われて、ビロードの感触。
柄の色のポピュラーなスタイルは、柄の上部が茶色。
それが下に行くほど色が濃くなり、柄の根元は黒褐色になる。
柄全体が黒いビロード状の場合もある。
これが、エノキタケの同定の目安。

次に特徴があるのは傘の裏のヒダ。
色は白色から乳白色。
ヒダの間隔は密ではない。
よく見ると、大きなヒダの間に小さなヒダがある。
これも、エノキタケを同定するときに注意する点である。

さて、このフジの幹についたキノコはというと、ヒダの特徴はエノキタケに酷似している。
問題は、いちばんの決め手である柄の特徴。
柄の表面を細かい毛が被っているかどうかは、ちょっと確認しがたい。
毛があるような無いような・・・。
柄の色については、黒い部分がない。
柄の色は、一様に茶色である。
株の中には黒っぽい柄の個体もあるにはあるのだが。

過去に採ったことのあるエノキタケは、柄がすべて黒いビロード状だった。
というか、そういうキノコでなければエノキタケと認めていないのが私の選択基準であった。
このフジの木のキノコは、はたしてエノキタケであるのかどうか。
インターネットで検索して、写真を調べてみると、柄の色がこのフジのキノコに似たエノキタケもたくさんあった。

柄に細かい毛が生えていて、柄の色が茶色から黒っぽい茶系なら、ほぼエノキタケに間違いなしということなのだろう。
であるから、柄の色に関して言えば、このキノコがエノキタケであってもおかしくはない。

エノキタケに似たキノコに、猛毒のコレラタケがある。
コレラタケのヒダの色は、傘の色とほぼ同じである。
これがエノキタケとコレラタケを見分けるポイントのひとつ。
コレラタケは、傘の中央部に突起のような膨らみがあるものもあり、これが判別のポイントであるが、膨らみの無いものもあるので要注意である。

なお、コレラタケの傘の表面は平滑だが吸水性がある。
傘が湿っている時は暗褐色で縁部に条線が見える。
しかし、乾けば中央部から縁部に向かって淡色となる。
この吸水性のため、傘の中央部と縁部で色の濃淡があらわれる。
エノキタケは傘の表面に粘性が見られる場合があるが、コレラタケは湿っていても粘性は無い。
それと、コレラタケの柄の色は、淡黄土色ないしは、淡粘土色である。

慣れていれば、エノキタケとコレラタケの違いは容易に見分けられるという。
しかし、私はコレラタケを見たことがない。
なので、今回のフジの幹のキノコを、これはコレラタケでは無いという自信は無い。

エノキタケは、ナメコのように深山のキノコではなく里のキノコである。
庭の、柿の木の切り株から出たり。
それぐらい人間の生活の場のすぐ近くで発生したりするキノコである。
また発生時期は、秋の終わりごろから冬を経て、初春の頃まで。
他のキノコが出なくなるころ、ようやく出始めるキノコなのだ。
エノキタケは、雪の下からでも出てくるので、ユキノシタという別名があるほど。
そういう訳で、疑問を残しながらも、この日はフジの幹のキノコは、エノキタケである可能性が高いと感じたのだったが・・・。
(下へ続きます。ここまでお読みいただいたのなら、写真群の下にある記事もお読みください。)


幹の割れた溝から発生している。

ヒダの様子もエノキっぽい。

幹の下の方は株状に発生。大きなヒダの間に小さなヒダが見える。見れば見るほど美味しそうなキノコ。

柄(茎)の色がいまいち。

フジの絡まるパーゴラ。手前の幹のこちら側にキノコがついている。

11月27日のキノコの状態

公園のパーゴラでキノコを発見してから5日経った。
今日(27日)、また公園へ寄ってみた。
すると、例のキノコは、全体的に傘の色が黒っぽく変色している。
水分を吸って色が濃くなっている状態に見える。
傘の表面にヌメリ感は無く、平滑感が目立つ。
あんなに美味しそうだったのに、今日のキノコの外観は不味そうな印象に変わってきている。
昨日は雨模様だった。
雨に濡れて傘が変色しているということは、このキノコはコレラタケのように吸水性があることになる。
それに、湿っているせいなのか、22日には見えなかった条線が傘の縁にあらわれている。

22日には、エノキタケと同定しかけたのだが、今日の観察で、いまいち不明となってきた。
エノキタケに似たキノコが雪の降るこの時期に発生したら、それはエノキタケであると言いたいところだが、正体は不明。
キノコ採りは食中毒を伴う危険な遊び
確信があってもミスを犯してしまうのがキノコ採りなのである。
毒キノコの中には、致死性の毒をもったキノコも数多く存在している。
採り慣れたキノコであっても、採集の現場で何か違和感を覚えたら、そのキノコは採らないことが肝心。
そういう思いを強くした「公園のキノコ観察」であった。


傘の縁に条線っぽいものが見える。

ヒダの色は変色していない。

すっかり不味そうな色具合に変わってしまった。

2017/11/21

雑水に琵琶聴く軒の霰哉

「琵琶」で真っ先に思い浮かぶのは平家物語。
平家物語といえば、琵琶法師である芳一が登場する「耳なし芳一」の話。
芳一が得意とするのは平家物語の「壇ノ浦の段」の弾き語りであった。

子どもの頃、その怪談話の映画をテレビで見て震え上がったものだった。
以来、「琵琶」という楽器に対しては、どちらかというと暗いイメージを抱いていた。
子どもの頃のイメージが払拭されたのは、NHK-FM放送の「邦楽百番」で琵琶の豊かな音色を聴いたときだった。
今にして思えば至極当然。
映画「耳なし芳一」での琵琶による劇中演奏は、子どもが怯えるほどに怪談らしく脚色されたものだったのである。

2017/11/20

まだ11月なのに突然の大雪、青森の街は一夜にして真冬の景色に

クルマはすっぽり雪をかぶり。


天気予報通り大雪となった青森市。
クルマも駐車場も雪に覆われて、この冬最初の雪かきとなった。
昨晩から今朝にかけて30cmちょっとの降雪。
昨日の朝はほとんど雪が積もっていなかった青森市が、一夜明けたら真冬状態になった。
最深積雪値32cmは、この時期にしては大雪である。


駐車場も雪に埋もれた。


一日の平均気温は昨日に引き続きマイナス。
最低気温が-2.5℃。
最高気温は0.8℃。
体がまだ寒さに慣れていないので、強く寒さを感じた一日だった。

夕方6時頃のテレビニュースでは、「青森で80cm 北日本で大雪」というテロップが出た。
アナウンサーは「今日は青森県の酸ヶ湯(すかゆ)で80cmの積雪を記録」とおっしゃる。
青森のことをよく知らない人が聞いたら、「青森県の酸ヶ湯っていう町で、もう80cmも雪が積もったんだって。青森って、スゲー雪の多いところだねえ」とたまげるに違いない。
確かに青森は雪の多い所である。
でも、酸ヶ湯っていう町は無い。
酸ヶ湯という住所も無い。

酸ヶ湯は、北八甲田山中標高890mの場所にある一軒家の温泉地のこと。
酸ヶ湯温泉という宿以外に、民家は一軒もない。
一軒の民家も無いのに、なぜ毎年酸ヶ湯の積雪が話題になるのか。
それは、ここに「アメダス」と呼ばれる気象庁の無人観測施設があるから。

青森では、山に雪が大量に降るのはあたりまえ。
こんな集落もないところの積雪情報が何の役に立つんだい、と思われる方も多いかもしれない。
そう、そう。
でもこの情報は、北八甲田山の冬山を滑る山スキーヤーにとっては貴重な情報となっているのだ。

それは、さておき。
酸ヶ湯温泉の住所は、「青森県青森市荒川南荒川山国有林酸湯沢50番地」。
八甲田山の山の中とは言え、青森市内なのである。
なので、まだ11月20日なのに「酸ヶ湯で80cmの積雪を記録」とくれば、それは、まだ11月20日なのに「青森市で80cmの積雪を記録」となるのである。
厳冬期に入って、「酸ヶ湯で4mの積雪を記録」とくれば、それは「青森市で驚異の4mの積雪を記録」となる。
これが、青森市は世界一の豪雪都市という説に拍車をかけている。

世界には、青森市よりももっと雪が降り積もる山間部の町や村がたくさんある。
でも人工が30万人クラスの都市では、その降雪量において青森市は世界一になるらしい。
酸ヶ湯抜きでも、そうなるらしい。

こんな雪の降る土地に人間が30万人も暮らしているなんて。
別の言い方をすれば、その条件下での都市機能が世界一ということなのかな・・・。
青森市民の雪に対する対応力が世界一ということなのか・・・。
それは定かではない。
まあ、雪のある時期が2ヶ月半ぐらいだからね。
30万人都市でも、なんとかやっていけるのさ。

しかし、以下のことは確実に言える。
この冬も、酸ヶ湯という名の幻の巷に、全国のテレビ視聴者を仰天させるほどの大雪が降り続ける。


とりあえずこの冬最初の雪かき。


近くの中学校では、急遽、除雪機で雪片付け。


一面の白。街は真冬の様相。


雪が積もっても、無表情な愛犬。


雪道を登校する小学生。

2017/11/19

晩秋のドウダンツツジの紅葉に白い雪

雪をかぶったドウダンツツジの紅葉。


青森上空に強い寒気の流れ込みがあり。
そのせいで、今日も少し雪が降った。
気象庁発表の今日の降雪は18cm。
最深積雪値も18cm。

青森市内の初雪は、先一昨日の16日だった。
去年より十日遅いという。
今年は雪の降るのが早いなあと思っていたのだが、平年と比べても十日も遅いとか。

愛犬の散歩で公園を歩いたら、ドウダンツツジの紅葉に白い雪がのっかっていた。
白い雪がかぶさると、紅葉の赤が一層鮮やかに見える。
紅葉の始まりの頃は、ドウダンツツジの葉は褐色がかった色で、あまりきれいではない。

このまま枯れてしまうのではないかと思うくらい褐色が濃い葉もある。
それが、雪が降るくらいに冷え込むと、真紅に豹変して燃え上がる。
褐色の葉は、ドウダンツツジの紅葉がまだくすぶっている状態なのだ。

白と言えば、ドウダンツツジは春に、壺型の白く小さな花を無数に咲かせる。
まるでツツジっぽくない花だが、ドウダンツツジはツツジ科ドウダンツツジ属の植物。
八甲田山でよく見かけるウラジロヨウラク(ガクウラジロヨウラク)は白っぽい淡紅色の壺型の花を無数に咲かせる。

雰囲気が似ているので、ドウダンツツジはヨウラクツツジの仲間かなと思ったことがあったが、違うようだ。
ドウダンツツジは、ヨウラクツツジ属ではなくてドウダンツツジ属。

花は葉が出はじめてからすぐに咲くので、ドウダンツツジは、春に花の白でにぎわい、秋に雪の白で葉を落とす。
白で始まって白で終わるようなものである。

ドウダンツツジの紅葉が、この公園の最後の紅葉である。
ドウダンツツジは耐寒性に優れていると言われている。
なので雪が降るようになっても、なかなか葉を落とさないのか。

この赤い葉が散ると、公園の色彩は、だんだんとモノクロームに近づいていく。
古代中国の陰陽五行説では冬のことを「玄冬」というらしい。
「玄」は黒。
青森の都市公園のほとんどは、冬になると黒い木々に囲まれた侘しい空間になる。

ドウダンツツジの紅葉を眺めながら、ピックアップのタイヤをスタッドレスタイヤに交換した。
タイヤ交換中も、雪が舞っている。
雪片がボルトやホイールの裏につくと、ボルト締めが充分にできない。

そこで、OA機器清掃用のエアダスターで、付着した雪片を吹き飛ばしながらスタッドレスタイヤを装着。
無事終了した。
明日は大雪になるという予報。
ボリュームのあるドウダンツツジの紅葉は、今日で見納めか。


赤と白が際立つ。

紅白。

白い雪が赤く染まりそう。

2017/11/04

留主の間に荒れたる神の落葉哉

元禄二年八月二十一日に、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の最終地美濃大垣に着く。
同年九月六日、伊勢に向けて揖斐川から船出するところで「おくのほそ道」の旅を終えている。
その結びの句は、「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」。

芭蕉は、伊勢神宮の式年遷宮を奉拝し、そのあと伊賀上野の郷里と大津、膳所(ぜぜ)、京都を漂泊することになる。
この間、「幻住庵記」や「嵯峨日記」を書き、京都で「猿蓑」を監修し刊行している。

2017/11/03

津軽地方北西部新田開発の象徴、つがる市「銀杏ヶ丘公園」の大イチョウ

「銀杏ヶ丘公園」の門。


 つがる市にイチョウの巨樹があるというので寄ってみた。
その大イチョウは、「銀杏ヶ丘公園(いちょうがおかこうえん)」のなかに立っている。
「銀杏ヶ丘公園」の場所は、住宅地のなかにあり、ちょっとわかりにくい。

住所は、つがる市木造(きづくり)曙(あけぼの)。
国道101号線を五所川原から鰺ヶ沢に向かって走り、つがる市役所方面へ右折。
国道101号線上には、道路標識でつがる市役所方面への右折を示す交差点が2箇所ある。
「銀杏ヶ丘公園」へ行くには、そのうちの二つ目の交差点を右折したほうがわかりやすい。
右折して350mぐらい走ると五能線の踏切に出る。
踏切を越えて道なりに750mぐらい走ると右手に生垣に囲まれた公園が見えてくる。


イチョウの巨樹。


大イチョウは、公園の西側に立っている。
敷き詰めた黄色い落ち葉のせいで、根元一面が輝いている。
イチョウを囲っている木柵に固定された看板によると、このイチョウは昭和六十年四月現在、幹の周囲は7m、樹高は25mであるという。

青森県深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」の幹の周囲は22m、樹高は31m。
この「北金ケ沢のイチョウ」は、日本一の大イチョウであるとされている。
さらに、青森県十和田市にある「法量のイチョウ」は日本で四番目のイチョウの巨樹であるという。

その他、青森市に「宮田のイチョウ」あり、青森県黒石市に「袋のイチョウ」あり。
ともに樹齢を重ねたイチョウの巨樹である。
言うまでもなく青森県は全国に知られたヒバ王国。
だがこうしてみると、イチョウの巨樹が県内各地に点在しているイチョウ王国でもあると言えそうだ。

これらのイチョウに比べたら「銀杏ヶ丘公園」のイチョウは小さいし、まだ若い。
若くて小さいが、間近に見ると大きい。
その存在感に圧倒される。
歴史のなかで消えずに存在し続けているという内に秘めたエネルギー。
その存在感は、大イチョウの秘めたエネルギーから伝わってくるのかもしれない。

看板によると、この大イチョウは、「新田開発の大業完成近く津軽4代藩主信政公が木作御刈屋改築の工事を起こし、これが落成した貞享元年(西暦1684年)8月自ら鍬をもって庭前(北の方)に1株お手植えされたものであります。」とある。

貞享元年八月と言えば、松尾芭蕉「野ざらしを心に風のしむ身哉」と詠って「野ざらし紀行」の旅に出た頃。
芭蕉の「俳諧行脚」はこの年から始まったとされている。
以後、生涯を終えるまでの十年間に、芭蕉は合計四年九ヶ月を旅の空の下で暮らすことになる。

その頃、弘前藩四代目藩主津軽信政が植えたのが、この大イチョウである。
イチョウは現存して、津軽地方北西部の新田開発の歴史を今に伝えている。
「銀杏ヶ丘公園」は、藩政時代の「木作代官所」の跡地であり、その敷地には藩主が巡検の際に寝泊まりする「御仮屋」も建っていたという。
「木作」とは木造地区の江戸時代の呼び名。
「銀杏ヶ丘公園」は、まるで「史跡」のような公園である。

つがる市の旧木造地区には、1944年に国史跡に指定された「亀ヶ岡石器時代遺跡」がある。
現在から見れば謎の多い縄文時代の遺構が史跡としてクローズアップされている。
その一方で、現在の津軽地方田園地帯成立の歴史の、象徴のような「木作代官所跡地」が都市公園として市民の憩いの場となっている。

やがて時が過ぎて「銀杏ヶ丘公園」の大イチョウ「公孫樹」が千歳ぐらいになるとする。
そんな時に、藩政時代の新田開発や藩主が手植えしたイチョウの木が、遠い時代の謎の象徴のようになることがあるかもしれない。
縄文時代と古墳時代が何かによって分断されたように、津軽地方の新田開発の歴史が何かによって分断される。
それまでのコミュニティが消失する。
すべては、縄文時代の土器や土偶のように破壊されて、謎の存在となる。

「銀杏ヶ丘公園」の大イチョウを見ていたら、そんな空想が湧いてきた。
近未来サスペンス映画の見過ぎだろうか。
それとも、大イチョウの霊力のせいだろうか。

イチョウは、太古より生きながらえた樹木。
氷河期をも乗り越えたと言われている樹種。
縄文時代のはるか以前からこの地に存在していたかもしれないイチョウ。
現在、その子孫が都市公園の一角で市民に親しまれている。

古代から現在まで、消失したコミュニティの時代を貫いて生きている。
そういうイチョウ類の存在に、改めて感じ入った。


「公孫樹」の看板。

太い幹。

巨樹の裏側。

分かれて伸びている幹。なにやら、霊力を感じてしまう。

粒が大きい銀杏の実。

2017/10/28

北八甲田黒森の山麓でのキノコ採りを断念して藪漕ぎ黒森登山

本日の行程図(赤色点線:登り、青色点線:下り。行程線はブログ管理人の書き込み)。出典:国土地理院ホームページ。

北八甲田・黒森山麓

北八甲田黒森の山麓は、自動車道路から眺めると、歩くのに快適そうなブナの森が広がっている。
地形図を見ると、小さな沢が集結している北東向きの谷もある。
これはキノコが大量にあるのではと期待して、コンパスを合わせて山に入ったが、キノコは見当たらない。

谷をふたつばかり越えても、キノコのニオイもカケラも無い。
天気は良いし、時刻はまだ早い。
そこでキノコ採りを断念して、黒森登頂をめざすことにした。
黒森は、去年の春の残雪期にツボ足で登っている
そのとき、無雪期でもいけるのではと思ったのだが、それを実行することにした。

北八甲田黒森は国立公園の「普通地域」

黒森(標高1022.7m)の東西に張り出した稜線の北西側(市町村境界の青森市側)は、「十和田八幡平国立公園」の「普通地域」に指定されている。
国立公園の「特別地域」や「特別保護地区」では、原則として指定遊歩道以外に立入る場合は、環境省(環境大臣)などへの許可申請が必要だが、「普通地域」への立入りはその限りでは無いという。
黒森には登山道や遊歩道は無いが、自然散策目的での入山に規制はない。
またキノコ採りも、その行為自体に規制はない。
そういう「自然公園法」の「解釈」のもと、黒森藪漕ぎ登山を楽しむことにした。

尾根直下はネマガリタケの猛烈な藪

標高750mから850mぐらいまでの傾斜の緩い部分は、ネマガリタケの藪が少なく快適に登ることが出来た。
標高850mあたりから急登を強いられる。
それまで膝ぐらいの高さだったネマガリタケが、2mぐらいの丈に変わる。

足を滑らせると転落の危険があるような急斜面登高。
むしろ、丈2mの太いネマガリタケが幸いした。
両手それぞれでネマガリタケの茎を2~3本束ねて掴み、それを手掛かりにして上体を引き上げる。
一歩一歩確実に斜面を踏んで、足場を確保し高度を稼ぐ。
三点支持の方法で、ハシゴを登るように斜面を這い上がった。

66歳には思えない程、バカなことを楽しんでいる。
もがきながら藪漕ぎしてると、やがて前方が開けてきた。
稜線がすぐそこに。
斜度は緩くなり、ネマガリタケの丈も低くなる。

尾根の上で一呼吸。
急斜面を登っているときは、2~3度引き返そうかなと思ったが、登りきってしまったら気分は爽やか。
ひと仕事終えた気分。
体が活性化して四肢に力が漲っている。
尾根に上がれば、山頂は目前。
山頂までは、膝ぐらいの藪漕ぎだった。
のんびりと尾根歩きを楽しんだ。

黒森山頂風景

残雪期の黒森山頂は見晴らしが良かったが、今は樹間から高田大岳や雛岳を遠望するしかない。
横長の山頂部分は藪に覆われていて、腰を下ろすスペースもない。
山頂部には、イヌツゲに似た葉の、低木の群落があった。
あとで調べたらアカミノイヌツゲという常緑樹だった。
その群落近くで、黒森の三角点を発見。

アカミノイヌツゲ

この木は主に北海道、本州中部以北に分布しているという。
高さは2mほど。
  1. 亜高山帯の尾根筋の岩場や湿原の周辺に生える。
  2. 類似するイヌツゲとの相違点は、葉の中間から上縁にかけて鋸歯があること。
上記2点が同定の決め手。
この低木に赤い実がついていれば同定は確実なのだが、私が見た範囲内では赤い実は見当たらなかった。
アカミノイヌツゲは雌雄異株で、私が見たのは雄株だけだったのではと思っている。
もっと山頂付近を見回れば、赤い実を目撃できたかもしれない。

「八甲田黒森」という名の火山

国立研究開発法人産業技術総合研究所の地質調査総合センターのホームページ>研究紹介>地質情報データベース>カテゴリから探す>火山>日本の火山データベース>第四紀火山>火山名称で探す>D:本州(東北)>八甲田黒森と進むと下の画像のページに行き当たる。


出典:地質調査総合センターデータベース


北八甲田連峰の東の端っこにちょこんとある小さな山だけれど、「黒森溶岩」で出来た成層火山だったのだ。
ちなみに北八甲田連峰は「北八甲田火山群」
南八甲田連峰は「南八甲田火山群」となっている。

大岳も小岳も高田大岳も、「北八甲田火山群」として一括りにされているのに、黒森だけが「八甲田黒森」と言う名の独立した火山として扱われている。
黒森は、特別な存在であるらしい。
八甲田連峰の山の名前は、「○○岳」とか「〇ヶ峰」とか「〇〇倉」とかいうのがほとんど。
そのなかで「黒森」という控えめな名前。
千メートルちょっとという低い山。
登山道も無く、人に見向きもされない山。
国立公園の区域ではあるけれど、「普通地域」という普通っぽい区分け。
そんな印象の山だが、「黒森」よおまえは、ひょっとしたら大物?

黒森峠方向にピンク色の目印テープ

下山にどこを下ろうかと、頂上直下の斜面を眺めていたらピンクの目印テープが目に入った。
そのテープは、10~15メートルぐらいの間隔で高田大岳方向に続いている。
おそらく黒森峠から登ってきた登山者(好き者)の目印なのだろう。
しばらく目印を辿って下りてみたが、こちらのルートの方が腰ぐらいの藪で歩きやすい。
斜度も、登ってきたルートよりも緩い。
標高900mぐらいまで目印を頼りに下山し、そのあとは徐々に右手に方向を変えて、のんびりブナの森を散策し、自動車道路に出た。

まとめ

黒森峠の入山口(標高818m)は、私のスタート地点(標高735m)よりも83mぐらい標高が高い。
黒森登山は、黒森峠からの方が幾分楽。
急登と尾根歩きを楽しむなら、今日の私のルート。
そんな感想を持った黒森山行だった。

それにしても非火山性の山地だと思っていた黒森が火山だったとは。
この事は下山後にインターネットで調べて知ったことなのだが、意外な事がわかって面白い山歩きだった。
「人は知らじな火を噴きし山のあととも」
であったのだね。


キノコを探して、黒森北側山麓に入る。ご覧の通り、開けていて歩きやすそうなブナの森。

千手観音の雰囲気を持ったブナの巨木。

キノコの気配は、まったく無し。

頂上に近い尾根を目指して、藪のない山麓を登る。

登るにしたがって斜度が増す。

最後は、2メートルを越える丈のネマガリタケの密林を、壮絶に藪漕ぎ。

尾根で一息ついて、田代方向を眺める。

東西に長い尾根の東方向を見下ろす。

尾根続きの黒森山頂方向を見上げる。

山頂付近の藪。イヌツゲに似た灌木の群落がある。奥のこんもりとしたところが山頂か。

アカミノイヌツゲの群落。

三角点発見。

黒森山頂の樹間から高田大岳(左)と雛岳(右)を眺める。

頂上直下にピンクの目印テープがあった。

山頂付近の目印テープは、10~15メートルぐらいの間隔で高田大岳方向に続いている。

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