2018/12/09

支考の雑談のような句「いま一俵買おうか春の雪」 

「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか(著 大輪靖宏)」に「芭蕉を受け継ぐ弟子たち」というタイトルで、主だった門人の紹介文が記されている。
その中に短いが、各務支考の紹介文もある。

「各務支考(かがみ しこう)(1665~1731)は芭蕉没後、美濃派を起こして蕉風の普及に努めた人で、著書も多い。」(「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか」より引用)

芭蕉は1644年生まれだから、1665年生まれの支考は芭蕉より二十一歳若いことになる。
この芭蕉と支考の関係が面白い。

芭蕉と支考がどのようにして知り合ったのか。
いつごろ支考は蕉門に加わったのか。
私には、それを明らかにする術はない。

2018/12/08

この冬はじめての雪かき

【この冬はじめて、クルマが降雪のため雪に埋まった。】


朝起きたら、クルマに30センチぐらいの積雪。
家の前の駐車場も、たっぷりの白い雪。
なので、この冬初の雪かきとなった。

天気予報は、強い冬型の気圧配置になると言っていたが、そのわりには寒くない。
雪かきをすると、地面と接している部分の雪は融けかかっている。
ここのところ暖かい日が続いたので、地面の温度はまだ低くない。
その地面に着地した雪は融ける。

でも、降っている雪の量が多いので、融けるのが積もるのに追いつけない。
積もる雪は、ゆうゆうと融ける雪を追い越してザンザカ降り積もる。
その結果の今朝の積雪である。

積雪の底の雪は、融けて水っぽくて重い。
積雪の上層の雪は、スコップやスノーダンプの底にくっついて離れず、雪かきがやりにくい。
パウダーなのだが、スキーの底にくっつく嫌なパウダーである。
おそらく、雪かきがやりにくい雪質は、スキー滑降にとっても面倒な雪である。

私が雪かきをしていると、愛犬が家のなかで騒ぐ。
ワンワン吠えて、ピーピー泣く。
私が雪と遊んでいると思っているのだ。
自分(愛犬のことね)をほったらかしにして、白いもの(雪のことね)で遊んでいる。

近所迷惑なので、雪かきを途中にしたまま愛犬の散歩に出かける。


【家の入口付近を雪かき。】


公園の植え込みには、ドウダンツツジの紅葉がまだ残っていて、白い雪に映えている。
紅葉した赤い葉が、いっそう鮮やかである。
下の写真のドウダンツツジは、夏の頃にヤブガラシにおおわれてゴチャゴチャになっていた植栽。

それが、ヤブガラシも枯れてなくなり、スッキリして、いい感じになっている。
雪対策のため、荒縄でしばられて窮屈そうだが、ヤブガラシまみれよりはいいでしょう。

ドウダンツツジは、ヤブガラシにからまれない冬のあいだ、上空の開放感を楽しんでいる。

ほんまかいな。
この重い頭の雪は・・・
気にしない気にしない。


【雪の公園を愛犬と散歩。】


【公園に住みついているノラネコ。雪が降っても健在。】

おや、ノラネコくんも健在だ。
この冬も、ここで越年するのですね。
ふてぶてしいひと睨みに、愛犬はうつむいてばかり。

ご立派ご立派とブツブツ言いながら、足早に遠ざかる愛犬。

ノラネコくんにエサをやっているオバハンがいるんやでえ、と私。

せやろ、そうでなきゃ生きていかれへんわ、と愛犬。

それにしても、ようこえとるわ、と私。

そのオバハンに、よっぽどええもん食わしてもろてはるんやろ、と愛犬。

そんなこといいな、うちでなんも食わしたらんみたいやんか、と私。

感謝してまっせ、と大あくびする愛犬。

雪が積もると、ふだん聞こえない雑談が、どこからともなくヒソヒソと聞こえてくるもんです。


【雪の上に散ったドウダンツツジの紅葉。】

2018/12/06

芭蕉のさわやかな一句「田や麦や中にも夏はほととぎす」

「曾良書留」にある芭蕉句

元禄二年四月三日に、「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行(芭蕉と曾良)は那須黒羽の余瀬(よぜ)に到達。
四月四日に、黒羽大関藩家老浄法寺図書(じょうほうじ ずしょ)に招かれ、四月十日まで浄法寺宅に滞在したと「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」にある。
「曾良随行日記」には、四月六日より九日まで雨止まずと記されてある。
梅雨時だったと思われる。

下記の句は、四月七日の作。

田や麦や中にも夏はほととぎす
松尾芭蕉

この句は「おくのほそ道」には載っていない。
「曾良書留(俳諧書留)」に記された芭蕉の句である。

時期的に水田の稲は緑が濃くなりだし、麦畑の麦は赤みがかった黄色になりかけている頃の作。
稲や麦が成熟に向かって、変化していく季節。
夏から秋にかけて実りをむかえ、収穫され脱穀されて、食料となっていく。
稲や麦は、そういう農家の労働の対象としてある。
そして農家の労働は、人の命の糧を産み出す尊い仕事である。

「田や麦や」句文

下の文章は、この句の前におかれた句文の一部。

「苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

「粒々にからきめ」とは「粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)のことであろう。
「粒粒辛苦」とは、米や麦の一粒一粒は、農民の苦労と努力の結果実ったものであるという意味。
唐の詩人「李紳(りしん)」の「憫農(のうをあわれむ)」が出典となっているとのこと。
芭蕉はそれを踏まえて「粒々にからきめ」と言ったのだろう。

「粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく」は、「農民の苦労と努力をまのあたりにして」という意味かと思われる。

句文を現代語にした私の「訳文」は以下の通り。

「(稲の)苗は緑色、麦の穂は赤みがかった黄になってきた。米や麦の一粒一粒につらい思いをする農民の働きも間近に目にする。まったく(農家の人たちは)春秋の趣や月雪の景色以外、今は夏の初めであるから、(忙しくて)名勝地ひとつすら見ることができない。(そういう農民の苦労を見て私は)、ただ言葉をのみ込んで、黙って筆を置くだけであったなあ。」

農民と芭蕉との対比

「田や麦や」とは、人にとって無くてはならない食料を生産する場所である。
また、その生産に携わっている農民をも、「田や麦や」で表しているように思われる。
農民は、水田や麦畑での作業におわれて、行楽地で景色を眺めるなどの人生の楽しみを享受できないでいる。

それにくらべたら私は、夏にやってくる渡り鳥の「ほととぎす」のようなもの。
いろいろな景色を見ながらこの地にやってきた。
鳴きながら旅を続ける「ほととぎす」に、芭蕉は句を作りながら旅を続けている自身を重ねたのだろう。
「田や麦」と「ほととぎす」との対比は、「苦労の絶えない農民」と「漂泊詩人である芭蕉自身」との対比であるように思われる。
「定住するもの」と「流動するもの」との対比。

それはまた、「農業生産に携わる者」と「文化の創造に携わる者」との対比でもある。
夏の田園地帯で、芭蕉はその「取合せ」を見たのだろう。

芭蕉の思いをさわやかな一句にした

「定住するもの」は「流動するもの」の到来を楽しみに待つ。
冬が来れば、春の到来を待ち焦がれ。
ウグイスが鳴けば、「ほととぎす」もと、その声を待ちわびる。

「田や麦」は、収穫され脱穀され食料となっていくなかで、一年中農民についてまわる存在。
そのなかで芭蕉は「夏はほととぎす」なのである。
その地その地で、ひととき人々の気分を潤す鳴声をあげる「ほととぎす」のように、芭蕉は流動する者として、句を作ることで世の中に潤いをもたらしたいと思ったのではあるまいか。
またしても私というトーシロの推測。

それにしても、梅雨時に作ったとは思われないさわやかな一句。
あまり話題にのぼらない句ではあるが、私は名句だと思う。

田や麦や中にも夏はほととぎす



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2018/12/01

芭蕉の縄文的発想「猪もともに吹かるゝ野分かな」

幻住庵記

元禄三年四月六日から七月二十三日まで、芭蕉は大津にある国分山の幻住庵に滞在した。そのとき、俳文「幻住庵記」を書いている。

「幻住庵記」は何度も改稿が試みられ、八月中旬にようやく最終稿が完成。
最終調整の後、蕉門の発句・連句集である「猿蓑」にて公表された。
その「幻住庵記」に猪(イノシシ)についての記載がある。

「昼は稀々(まれまれ)とぶらふ人々に心を動かし、あるは宮守(みやもり)の翁(おきな)、里のをのこども入り来たりて、ゐのししの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我(わが)聞きしらぬ農談、」(「芭蕉年譜大成」より「幻住庵記」の一部を引用)

「日中はごくまれに訪ねてくる人たちに興味をおぼえた。あるときは、神社の番をしているご老人がみえた。あるときは、村里の男たちが訪ねてきた。イノシシが稲を食い荒らしたり、兎が豆畑にやってくるなど、私が聞いたことのない農業の話を(していく)」

芭蕉は琵琶湖の南側にある幻住庵で三ヶ月半の閉居生活をおくったが、たまに訪れる地元の人達と雑談を交わすこともあったようである。
その話のなかで、稲を食い荒らしたというイノシシの話に興味をおぼえたのだろう。

猪の句

この「幻住庵記」の最終稿は、芭蕉が幻住庵を引き払って大津滞在中(義仲寺?)に完成。
そのころ、琵琶湖西岸にある堅田本福寺の住職三上千那(みかみ せんな)に書簡をおくっている。
その書簡にイノシシを詠んだ下記の句を添えている。

(いのしし)もともに吹かるゝ野分(のわき)かな
松尾芭蕉

元禄三年八月四日の作と「芭蕉年譜大成」にある。
この句は「幻住庵記」にあるようなイノシシの「食害」の句ではない。
この句の感想を述べる前に、野生動物の「食害」についてちょっと書いておこう。

山村部におけるイノシシやツキノワグマ、カモシカやサルの「食害」は現代でもよく聞く話。
「幻住庵記」には、里の男たちの話として、イノシシやノウサギの「食害」のことも書かれている。
これを読めば、野生動物の「食害」が江戸時代からあったことがうかがわれる。
でもそれは、江戸時代どころか、もっと以前からあったと考えられる。
農耕文化が始まった弥生時代から野生動物の「食害」はあったと思われる。

野生動物の「食害」は弥生時代から

話はちょっとそれるが、以前読んだ『「森の思想」が人類を救う』という梅原猛氏の講演集に「環境破壊」について述べておられる箇所があった。
この本のなかで梅原氏は、「環境破壊」の危機について、「人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して以来、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。」と書いている。

日本では、「縄文時代」と呼ばれている頃は、狩猟(漁撈)採集文化だった。
森の中の植物を採集し、獣や魚を捕獲。
それらを食料にして暮らしていた。
縄文文化は、あるがままの自然を利用して人の暮らしを成り立たせてきた文化だと言われている。

やがて、稲作技術をもった人々が日本にやってきて、平野部の森を開墾し、水田や畑を作った。
現代で「弥生時代」と呼ばれている農耕文化の到来した時期である。

弥生人たちは、縄文人たちがやらなかったことをした。
それは、縄文人たちが神のいる場所として崇めた森を、農作地を作るために破壊したこと。
この農耕文明を基盤にしてできあがった都市文明が、森林破壊をいっそう進めることになったと梅原氏は述べておられる。
その頃から、森のイノシシやノウサギは、田や畑作地に新しい餌場を求めるようになったのだ。

縄文人の自然観

縄文人たちは、森のなかから必要なものだけを頂いて暮らしていた。
それは、自然との共生を目指した暮らし方だと言える。
イノシシやノウサギを捕獲しても、自分たちの食料にする以上の殺戮は行わなかったに違いない。
資源の枯渇に注意を払いつつ自然のもとで生きたのである。
であるから、田畑のない縄文時代には「食害」は存在しなかった。

芭蕉が暮らしていた幻住庵にやってきた人たちは、農家の男たちである。
田畑から収穫をあげることが生活の支えになっている人たちである。
イノシシやノウサギの「食害」は、さぞ頭痛の種であったことだろう。

一方芭蕉は、自然を愛する漂泊詩人であるから、イノシシやノウサギの食害は我聞きしらぬ農談」となる。
だが、まったく無関心ではない。
農民にとっては害獣であるイノシシにたいして、芭蕉は別の想像力を働かせた。
台風(野分)という自然災害に対しては、イノシシも人間もともに被害を受ける存在であるという発想。

芭蕉の縄文的発想

強大な自然の力にたいしては、縄文人と同じように人間は自然の力を神と崇める。
そして、自然の神の前では、野生動物と人間は共存状態にある。
と芭蕉が思ったかどうかは定かではないが・・・

ただ、森の恵みや海の幸を求める旅を続けながら暮らしていた縄文人と、俳諧の新境地を求めながら旅を続けている芭蕉には共通するものがあったのではないだろうか。
大津の農民の、弥生人のような定住性にたいして、縄文人のような芭蕉の流動性。
言ってみれば芭蕉は、縄文人の「DNA」が濃かったのかもしれない。

だから縄文人のように、野分にイノシシとともに吹かれるという発想ができたのではないだろうか。
掲句は、芭蕉の「縄文思想」を詠ったものなのではという風に私は想像をしている。
農耕文明のなかでは、「猪もともに吹かるゝ野分かな」などという有様は考えにくい。

森や田畑を暴風が吹き飛ばし、人家の近くに出没する害獣のイノシシをも一緒に吹き飛ばしたことだろうなあという芭蕉の感慨も感じられるのだが。
「野分」にイノシシが登場するのは唐突である。
森の恩恵を受け、森と共生している生き方への共鳴があるからこそ「猪もともに吹かるゝ」という芭蕉の縄文的自然観が表現されているように思えるのだ。

なお掲句は、九月六日の曲水(在江戸)宛書簡では、「猪のししのともに吹かるる野分哉」と改案されている。


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2018/11/23

蕪村のリアルな視線「五月雨や滄海を衝く濁水」

蕪村の五月雨の句

与謝蕪村の有名な五月雨(さみだれ)の句に、「五月雨や大河を前に家二軒」がある。
私は、この句に詩的なイメージよりも現実的な恐怖感のほうを強く感じてしまう。
それは、この句を読むと近年に発生した西日本の集中豪雨のことを思い出してしまうからだ。

蕪村は、そういう恐怖や不安を詩に描いたのかもしれない。
強大な自然の営みと、弱々しくて儚い人間の営みとの対比。
そこから独自の詩情を描き出そうとしている蕪村の視線が感じられる。
大雨が降ると氾濫してしまいそうな大河。
そして、その大河のそばを離れない家族のドラマも垣間見える。

五月雨や滄海(あおうみ)を衝(つく)濁水(にごりみず)
与謝蕪村

掲句は、青々と広がっている海面に、大雨による川の濁流が怒涛のように流れ込んでいる光景を詠んだ句である。
「衝(つく)」という語や「濁水」が、その流れの激しさを物語っている。
実際にその場にのぞめば、身震いが起きそうな荒々しい光景である。

私は「五月雨や大河を前に家二軒」にある「家二軒」の儚い存在感が気になるが、「五月雨や滄海を衝く濁水」の「滄海を衝く濁水」の色彩感覚にも惹かれる。

永遠の繰り返し

川の水が、山から里へと長い距離を流れるあいだに増水し、濁流となって広い海に流れ込むという空間の広がり。
それと同時に、穏やかだった川面が時を経るに従って盛り上がり、スピードをあげて海面に衝突するという時間の変化も感じられる。

この蕪村の句は、花鳥風月や山紫水明の雅の世界を詠んだ歌や俳諧とは対局をなすものである。
この句は、もっと根源的な自然の営みを詠っているように思われる。

海の水分が蒸発して雲になり、その雲が山の上空で雨を降らせ、雨が川の水となって流れて海にもどる。
そういう時間の流れを、蕪村は目に見える光景(空間)の背後に描こうとしたのではないだろうか。
掲句には、自然における永遠の繰り返しを感じさせるものがある。
それは、蕪村の他の句にも感じられる。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」とか「菜の花や月は東に日は西に」とかの句に、自然は永遠に繰り返し続けるというようなイメージが潜んでいるように思われる。

自然を旅の同伴者とした芭蕉

芭蕉の五月雨の句として有名なものに「五月雨をあつめて早し最上川」という句がある。
「おくのほそ道」の旅で、山形の最上川を詠んだ句である。
折からの梅雨で増水して、急な流れになった川を舟が下っていくのを見て、「水みなぎって舟危(あやふ)し」と「おくのほそ道」に記している。

あるいはこれは、自身が川舟に乗っているとの想定をもとにして作った句なのだろうか。
川岸から見るよりも、舟に乗って川のなかに身をおいてみると、川の流れを早く感じるものだという。
それはまた、早い川の流れのなかを漂う漂泊感や流浪感のような思いではなかったろうか。

芭蕉の自然の荒々しさを詠んだ句に、「荒海や佐渡に横たふ天の河」「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」がある。
このふたつの句を読んで感じるのは、自然の変転のなかに雄大美を見出して漂泊していく芭蕉の姿である。

自然と同伴者である芭蕉。
その自然へのアプローチの仕方が「荒海や佐渡に横たふ天の河」であり、「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」であり、「五月雨をあつめて早し最上川」であると思えるのだ。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という「おくのほそ道」の冒頭の文章にも、自然(年月)を旅の同伴者としてとらえている芭蕉の思いが表れているように思える。

蕪村の生活思想

一方蕪村は、自然(年月)を、その日その日の出来事とともにリアルに感じとろうとしているように思える。
たとえば「春雨や暮れなんとしてけふもあり」という句。
この句から感じるのは、今日という暮らしの存在感である。
それは観念の世界に流れ込まない現実の、さりげない夕暮れである。
そういう一日一日の繰り返しが「遅き日のつもりて遠きむかしかな」なのだと思う。

「五月雨や滄海を衝く濁水」には、月日の繰り返しに対する蕪村の思いを感じる。
海面に怒涛となって濁水が流れ込む光景は、いちにちかふつかの出来事かもしれない。
だが、この光景の背後には、永遠の「繰り返し」があるという蕪村の自然観が潜んでいると私は感じている。

それは、芭蕉のように自然の同伴者とはなり得ない、生活者蕪村の生活思想に拠っているのではあるまいか。
「滄海を衝く濁水」という畏怖に似た色彩描写が、蕪村のリアルな視線を物語っているようである。
「濁水」とは、雄大な海のなかへ循環していく荒々しい自然の姿。
その繰り返しの道に、蕪村が同伴できる余地はない。

蕪村は荒々しい自然を目の前にすることで、自身を鼓舞しようとしているのだろうか。
芭蕉は、荒々しい自然の中から自身が身を捧げるべき美の世界を見つけ出そうとしているのだろうか。

現実的な蕪村と観念的な芭蕉。
「享保の大飢饉」のなかで青年期をむかえ、「天明の大飢饉」に至る全国的な天候不順のなかで老年期を過ごした生活者蕪村とその視線。
それは、西行や宗祇を倣って漂泊のなかで一生を閉じた放浪詩人である芭蕉の視線を追いつつ、辿り着いた「ものの見方」なのではと私は感じている。

「五月雨や滄海を衝く濁水」という句をもとに、蕪村や芭蕉のことを雑然とながらも、考えてみた次第である。


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初雪や水仙の葉のたわむまで

【初雪散歩】

青森市の初雪

朝起きて窓の外を眺めたら、一面の白い雪。
私にとっては、今朝の雪が初雪で初積雪。
青森地方気象台によると、昨夜の9時前に青森市に初雪が降ったという。
その頃はお疲れで、めずらしく早く床に入っていたから初雪は見ていない。
今年の青森市の初雪は、平年より16日遅く、去年よりも6日遅いという。
平年よりも温暖な晩秋の結果である。

ともあれ、今朝の雪が、私が目撃した2018年の青森市での初雪と初積雪。
初雪といえば、芭蕉にはいくつかの初雪の句がある。
以下の句は、遅い初雪の年に作られた一句。

貞享三年の江戸の初雪


初雪や水仙の葉のたわむまで
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」によれば貞享三年十二月十八日の作とされている。
この日は新暦の一月三十一日に当たるという。
江戸であっても、一月末に初雪とはかなり遅い。
掲句と同日に作られた句と推察される「初雪や幸ひ庵にまかりある」の前書きを、芭蕉は以下のように書いている。

「我が草の戸の初雪見んと、余所にありても空だに曇り侍れば、急ぎ帰ることあまたたびなりけるに、師走中の八日、はじめて雪降りけるよろこび」(芭蕉年譜大成より引用)

「私の暮らしている庵で初雪を見ようと、外出していても空が雪雲で暗くなると、急いで帰宅することが何度もあるなかで、師走の中旬の八日目(十二月十八日)、ついに初雪が降った喜び(を句に詠んだ)」

芭蕉は、やっと初雪が降ったのを喜び「初雪や幸ひ庵にまかりある」に次いで「初雪や水仙の葉のたわむまで」と詠んだ。
芭蕉四十三歳のときである。

さりげない日常を平易な言葉で

貞享三年は、春に芭蕉庵において、蛙の句二十番句合が興行された年。
松尾芭蕉の句として世間に知れ渡った「古池や蛙飛びこむ水の音」が生まれた年である。
その年の冬に、芭蕉は初雪と水仙の句を詠んだ。
「古池や・・・」と掲句、どちらも平易な言葉でさりげない日常の光景を詠んだ句である。

水仙の別名は雪中花。
水仙の花は、冬から春にかけて咲くという。
青森市では水仙が咲くのは、春の雪どけのころであるが、東京地方では真冬に水仙が開花する。
新宿御苑の日本水仙(ニホンズイセン)の見頃の時期は十二月上旬から二月上旬ごろだとされている。

とすれば、芭蕉が水仙の葉に積もった初雪を見たときは、水仙の花が咲いていたことだろう。
「初雪や水仙の」の「水仙」は「水仙の花」をも表しているのだ。

取り合わせが軽妙

貞享三年は、芭蕉が第二次芭蕉庵で暮らしていた時期。
その冬に、芭蕉庵に初雪が降るのをいまかいまかと楽しみに待っていた芭蕉。
それは、花開いた水仙と初雪との取り合わせを見たかったからではないだろうか。

心配なのは、どっさりと初雪が降っては水仙がつぶれてしまうこと。
その心配が、「急ぎ帰ることあまたたびなりけるに」にあらわれている。
それが、水仙の葉がたわむ程度にうっすらと雪化粧。
花のしたで、緑の葉と白い雪の色の取り合わせが美しい。
まさに、心待ちにしていた初雪が降ったのである。
雪と葉の「たわむまで」という調和と均衡。
その軽妙さ。

さらに、「初雪や水仙の葉のたわむまで」には動きの面白みがある。
時間の推移とともに初雪がとけて緑の葉の上を流れ、雪のかすかな重みにたわんでいた葉がしなやかにもとに戻る。
水仙の花は、そんな時間の経緯をじっと見ている。

初雪や水仙の葉のたわむまで

そしてこの年の最後の句が「月雪とのさばりけらし年の暮れ」。
「月」といえば、「名月や池をめぐりてよもすがら」もこの年の作である。
「月や雪やと、今年は、いろいろな言葉を思いのまま自由にやってきたことだなあ」という芭蕉の、貞享三年の〆の句であるように思われる。


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2018/11/18

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

【「芭蕉紀行文集」(岩波文庫)より、「竹の奥」俳文と発句】


「大和(やまと)の國に行脚(あんぎゃ)して、葛下(かつげ)の郡(こほり)竹の内と云(いふ)處に(は)、彼(かの)ちり(千里)が旧里(ふるさと)なれば、日ごろとゞまりて足を休む。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

「大和の国に旅を進め、葛下の郡、竹の内という所に着いた。ここは、同行者の千里(ちり)の故郷なので何日かの間とどまって旅の足を休めた。」

大和竹内村に数日滞在

芭蕉は伊賀上野から、同行者の生まれ故郷である「竹の内(竹内村)」に向かう。
「竹の内」では、苗村千里の実家もしくは庄屋の家に数日滞在したと思われる。
伊賀から「竹の内」までは名張街道を経由して行ったのだろうか。
行程の記載はない。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく
松尾芭蕉

『天理本「野ざらし紀行」』には、句の前書きとして「やぶよりおくに家有。」とある。
「わた弓」とは、綿打ち弓のことで、弓の形をした綿打ち道具。
綿の繊維をほぐすために、弓の弦を指ではじいて使うとのこと。
綿を打つときに琵琶のような音色がするという。

竹林で琵琶の音を聞く

『天理本「野ざらし紀行」』にある「やぶよりおくに家有。」「家」は、芭蕉が滞在した家なのだろう。
竹やぶの奥の芭蕉の宿からさらに奥に農家があって、その農家で綿打ちの作業をしている。
清々しい竹の間を通って聞こえてくる綿打ち弓の音が、琵琶の音色のようで心が休まることだというイメージの句。

風でざわめいている竹林の中を貫いて響いてくる風雅な音に、芭蕉はしばらく耳を傾けたことだろう。

「実」から「虚」へ

兄や姉妹、親類縁者が暮らす「実」の地である伊賀上野を離れ、芭蕉はまた「虚」の世界の旅人となった。
こうして旅の宿に身をおいていると、綿打ち弓の音さえ琵琶の音色に聞こえてくる。
この宿では竹林が、芭蕉の「虚」の世界を「実」の世界から隔てているようである。

竹林に集まって酒宴をひらき、清談を行い、琴や琵琶で音楽を楽しんだという中国の「竹林の七賢」の伝説もある。
芭蕉は竹林に、風雅な世界を囲い込むバリアーのようなものを感じていたのかもしれない。

「野晒紀行」に書かれていない竹内村のこと

「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」によると、芭蕉は「竹の内」の里の長(おさ・庄屋?)にあたる人物に、「竹の奥」と題した俳文と掲句を書いて「蕉散人桃青」と署名し押印した懐紙を贈っている。
その人物は油屋喜衛門という名で、芭蕉の俳文は「其里の長也ける人」を称賛する内容になっている。

ということは、「わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく」の句は、里の長である油屋喜衛門への挨拶句で、芭蕉が宿泊したのも油屋喜衛門宅であったのかもしれない。
だが「野晒紀行」には、油屋喜衛門や懐紙についての記載はない。

「芭蕉年譜大成」によると、芭蕉は翌年(貞享二年)の初春にも、伊賀から大和竹内村を再訪している。
よっぽど竹内村が気に入ったようであるが、このことも「野晒紀行」には記載されていない。


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2018/11/16

芭蕉の帰郷「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

「野晒紀行」は紀行文ではなくて「俳文集」

「野晒紀行」は、「てふ」の茶店のあと、唐突に「閑人(かんじん)の茅舎(ぼうしゃ)をとひて」という話(文章)に続く。

芭蕉は、俗世間を離れてゆったりと暮らしている人物の草庵を訪ねる。
その草庵がどこにあって、どういう人物が暮らしているのかについての記載はない。
「蔦植ゑて竹四五本の嵐哉」と一句あるだけである。
そしてこの「閑人の茅舎」から一足飛びに故郷に帰り着く。

ここまで「野晒紀行」を読んできて、私同様多くの読者は「はて?」と思ったことだろう。
はたしてこれは「紀行文」なのだろうか?と。

2018/11/13

此梅に牛も初音と鳴きつべし

【東都名所「江都名所 湯しま天神社」歌川広重 (国立国会図書館デジタルコレクションより転載)】


若き日の芭蕉は、西山宗因の「江戸俳壇」への台頭とともに、宗因風(談林俳諧)の影響を強く受け、宗因風に傾倒したとされている。
そして、延宝三年ごろ、芭蕉は談林俳諧流行の波に乗って活発な俳諧活動を展開したと「芭蕉年譜大成」にある。
まだ深川村の草庵に隠棲する前の芭蕉は、「江戸中屈指の俳諧点者」に登りつめていたという。

ではそのころの、宗因風に傾倒したという芭蕉の句。
言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風がみられる芭蕉の句とは、どんなものであったのだろう。

(この)梅に牛も初音と鳴きつべし

延宝四年春、芭蕉三十三歳のときの句。
「芭蕉年譜大成」によれば、掲句は芭蕉が友人の山口素堂と両吟で天満宮奉納二百韻を興行した際の発句とされている。
深川の草庵(芭蕉庵)に入庵する前の作なので、芭蕉は「桃青」の俳号を用いている。

「此梅に」とは湯島天神(湯島天満宮)の境内に咲いている「ここの梅に」というニュアンスと、「この美しい梅に」というニュアンスが含まれているように思われる。

天満宮といえば、菅原道真公を祀っている神社。
その天満宮には、梅が植えられて牛の象がおかれている。

開花期と初音がほぼ同時期であるから、和歌では梅に鶯というのが定番であるが、芭蕉は天満宮の梅に置物の牛を取り合わせた。

「初音と」の「と」は、「・・・のように」という比喩の格助詞。
「鳴きつべし」の「つべし」は、「つ(確述の助動詞)」+「べし(推量の助動詞)」で「きっと・・・だろう」の意。

あまりにも天満宮の梅が美しいので、置物の牛さえも初音のように、きっと鳴声をあげることだろう。
という滑稽諧謔な場面を、芭蕉は作りあげた。
生きた牛が鶯の初音のように鳴いても面白いが、置物の牛が鳴くのだからなおさら面白い。

掲句の場面自体は滑稽であるが、梅の美しさは損なわれてはいない。
むしろ梅の美しさを、よりいっそう引き立てているような芭蕉の滑稽句である。
ただの言葉遊びではなく、滑稽句のなかにうまく美を組み込んでいるという印象の句である。

「牛も」の「も」は「・・・さえも」という類推の係助詞。
と同時に「もー」という牛の鳴声に掛けているように思われる。
これを言語遊戯性と言えなくもない。

それと、句全体に自然なリズムが感じられるのは、句のなかの語の韻のせいではあるまいか。
「梅」と「牛」の、「う」音の韻。
「初音」と「鳴きつ」の、「つ」音の韻。
「牛」と「べし」の、「し」音の韻。

こんな風に芭蕉は談林俳諧の流行を追いつつ、「江戸中屈指の俳諧点者」に登りつめる。
しかし、「点取りに狂奔する俳壇大衆とその点料で生活を立てる点者間に演じられる顧客争奪の生存競争」に失望感を抱くようになるのである。

【※「赤文字」は「芭蕉年譜大成」からの引用】


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2018/11/12

宗因の諧謔「ながむとて花にもいたし頸の骨」

前回の記事で西山宗因のことについてちょっと触れた。
宗因は、延宝期(1670年代)を中心に流行した宗因風(談林俳諧)の創始者。
しかし、宗因風の言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風が次第にマンネリ化して、宗因の死を契機に宗因風俳諧は衰退したとされている。

では、その宗因風の言語遊戯性や滑稽諧謔とはいかなるものであったか。
以下は、宗因作の有名な句である。

ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
西山宗因

この句は一幽という俳号で、万治元年刊の「牛飼」(燕石撰)や、寛文六年刊の「俳諧独吟集」(重徳撰)に収められている。【「貞門俳諧の諸問題」(中村俊定)より】

美しい桜の花を、よく見ようと思って眺めていたら首の骨が痛くなったというイメージの句である。
桜の花を愛でるという風雅と、首を傾けて上を見続けた結果首を痛めてしまった滑稽さの取り合わせが軽妙なユーモア(諧謔)を生んでいる。
落語のネタにでもなりそうな皮肉な句であるが、この句にはパロディ(言語遊戯性)も備わっている。

西行に「眺むとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」という歌がある。
新古今和歌集に収録された歌である。
「ただ眺めているだけと思っても、眺めているあいだにも桜の花に非常に慣れ親しんだので、今となっては花が散って花と別れることが悲しいことになってしまった」というイメージの歌である。

西山宗因はこの西行の歌をもじって「散る別れこそ悲しかりけれ」という風雅な詠嘆を「いたし頸の骨」とまぬけな失態に変えてしまった。
西行の短歌の五・七の部分を借用し、「いたく(甚く)」という語を「いたし(痛し)」ともじったのである。

この西行の歌を知らない読者でも「ながむとて花にもいたし頸の骨」はけっこう笑える。
さらに、この句が西行の歌のパロディであると知っている読者は、笑いつつ、イメージの転換の巧みさに感心する。
「さすが宗因」とうなずく。
これが宗因風(談林俳諧)の真骨頂であるとされている。

延宝期に全盛を誇ったとされる宗因風(談林俳諧)に芭蕉(当時は桃青)は心酔したという。(芭蕉年譜大成による)

【桃青もまた宗因との一座を機にこれに心酔し、その波に乗って活発な俳諧活動を展開する。延宝三年頃からは門人もでき、「坐興庵」を称して点者生活に入り、次第に一門の勢力も増して、延宝末年には江戸中屈指の俳諧点者に数えられるに至る。】「芭蕉年譜大成:著 今榮蔵」より引用

芭蕉は延宝期に、宗因風のレトリックの習熟に努めたと思われる。
ただ、時を経るに従って、心は別の方を向くようになったのであろう。
芭蕉の高弟である向井去来の「去来抄」には、芭蕉の言として「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と記されているという。

宗因の俳諧から学ぶことが多かったので今の蕉風があると、芭蕉は言っている。
「中興開山」とは、いったん衰えたものを再び盛んにし、新たな作風を切り開いた人物という意味かと思われる。

「貞徳」とは、松永貞徳(まつなが ていとく)のこと。
松永貞徳は「貞門俳諧・貞門派」の祖と呼ばれ、宗因風(談林俳諧)が台頭するまで、その作風が流行したという。
「貞門俳諧」の流行で、俳諧は庶民の文学として普及し、江戸時代の庶民の知的啓蒙に役立ったとされている。

2018/11/11

芭蕉の香り「蘭の香やてふの翅にたき物す」

蘭の香の句

「其(その)日のかへさ。ある茶店に立寄(たちより)けるに、てふと云(いひ)けるをんな、あが名に發句せよと云(いひ)て、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)侍る。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

芭蕉一行は、西行谷からの帰りに、とある茶店に立ち寄る。
その茶店の「てふ」という名の女性が、白い絹の布を出して、「私の名前が入った句を詠んで下さい」と芭蕉に頼んだ。
そこで芭蕉は、その布に詠んだ句を書き付けた。

蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す

「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」には、掲句に「校注」が付いている。

その「校注」によると、この挿話は西山宗因の物語にならったものであるらしい。
服部土芳の「三冊子(赤冊子)」に、そう記されてあるとのこと。

西山宗因のエピソード

西山宗因は江戸前期の連歌師で俳人。
宗因は、自由・斬新な作風の宗因風(談林俳諧)を展開して、若い日の芭蕉もそれに学んだとのこと。
しかし宗因風俳諧は、その言語遊戯性や滑稽諧謔の作風が次第にマンネリ化し、天和二年三月の宗因の死を境に冷え込んでいった。(芭蕉年譜大成による)
宗因風の衰退の後、あらたな試みとしての芭蕉の蕉風が注目されることとなった。

三冊子によると、宗因が伊勢神宮への参宮の際に立ち寄った茶店があった。
宗因はその茶店の女将に「つる」という彼女の名前を入れた句を詠んでくれるように頼まれたという。
そこで宗因は、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」という句を作って、茶店の女将に贈った。

蕉風の香りの翼

芭蕉の「蘭の香やてふの翅にたき物す」は、この宗因のエピソードに模して作られた句であるらしい。
もしかしたら、芭蕉が立ち寄ったという茶店での「てふ」との出会いは、宗因の物語に模した芭蕉のフィクションであるのかもしれない。

そう考えると「蘭の香」は、芭蕉の香りのことではないかと思えてくる。
「たき物」とは薫物の意で、香をたいてその香りを衣服などにしみこませること。
その昔は宗因風(談林俳諧)が羽ばたいていたが、今では蕉風の香りを染み込ませた翼が自由に飛び回っているというイメージではあるまいか。

「出立のころにはすでに宗因風からも模索期の天和調からも脱皮して、芭蕉の目には明白な新境地が見えていた。旅中作には天和調の破調句そのたの残滓が若干影をとどめるが、宗因風以来の、滑稽諧謔のための複雑な言語遊戯技巧と過剰な当世風は払拭されて俗外に詩美を求める新風が打ち出される。」芭蕉年譜大成より引用
「旅中作」「旅」とは「野晒紀行」の旅のこと。

「蘭の香やてふの翅にたき物す」の句は、まさに今榮蔵先生が述べておられるような、新風の香りを行く先々に染み渡らせようとしている芭蕉の思いを表している。

「野晒紀行」の旅が、野晒になることを否定しつつ、自身をより活かそうというプラス志向の旅であるということ。
掲句は、それを象徴するような芭蕉の発句であると、私は感じている。


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2018/11/10

梅が香や砂利しき流す谷の奥 

【猿蓑俳句鑑賞。国立国会図書館デジタルコレクションより】


インターネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」で「猿蓑(さるみの)俳句鑑賞(著:伊東月草 古今書院 昭和十五年出版)」を見ていたら服部土芳の句に出会った。

梅が香や砂利(じゃり)しき流す谷の奥 
服部土芳

インターネットで調べると、服部土芳(はっとり とほう)は、松尾芭蕉と同郷で伊賀上野の俳人。
芭蕉の後輩にあたり、伊賀蕉門の中心人物として活躍したという。
土芳は、有名な俳論書である「三冊子(さんぞうし)」を著したことでも知られている。
「三冊子」は、芭蕉の俳論を伝える貴重な資料となっている。

句の前書きに「庭興」とある。
「庭興」とは、庭の味わいとか、庭の面白みとかの意味であろう。

「砂利しき流す谷」とあるので、「枯山水」という様式の日本庭園を詠ったものと思われる。
白い玉砂利を敷き詰め、その中に灰色などの色をもった石をポツポツと配置する。
そんな水の流れを模した小さな谷が思い浮かぶ。

砂利を敷いて川の流れを表現した谷の奥から、梅の香りが漂っているというイメージである。
春の日の静寂な一角を切り取ったような句である。

掲句は、蕉門の句集である「猿蓑」の、「巻之四 春」に収められている。
「巻之四 春」は、十五句目まで梅を題材にとった句が続く。
土芳の句は、その四番目。
四番目に、爽やかな梅の風がそよいだという印象の句である。

伊東月草は、掲句を評して「現在の私達の俳句観からいふと、いかにもお誂へ向に過ぎる境致で、大して迫力を感じないが、」と述べている。
ここで使われている「境致」とは、禅宗における伽藍や庭園の作庭法のことと思われる。
「俳句観がお誂え向きの境致」という文脈から考えると、この「境致」は「境地」の誤植ではないかと私は思っている。
「俳句観がお誂え向き」とは、日本庭園の風流・風雅を重んじるということが、当時の俳諧師の心情としてあったということなのだろう。

しかし私は、梅の香りと無機質な砂利の谷を設定し、その奥を感じる心は、日本庭園の風流・風雅を重んじる心情だけではないような気がしている。
この句には、様々な対比が感じられる。

梅と石。
季節の動きと、静止した築庭。
春の躍動感と、過ぎた冬の寂寞感。
生命の活動と、生命の活動がない物質。
ぬくもりと、血の通っていない冷たさ。
華やかな雰囲気と、無表情。
生と死。

梅と石から様々なイメージが湧くので、「枯山水」の庭にイメージの広がりが感じられて面白い。
石が冷たく支配していた冬の庭に、春のぬくもりが流れ込むという時間の流れも感じられる。
掲句の「谷の奥」からは、様々なイメージが流れているように感じられるのだ。
そんな様子を土芳は、「梅が香や砂利しき流す谷の奥」とさり気なく句に詠んでいる。
この「さりげなさ」が伊東月草のいう「大して迫力を感じない」につながるのだろう。

土芳の伊賀上野の庵である「蓑虫庵(みのむしあん)」に作った庭なのだろうか。
草庵を作り、庭を作り、庭の句を作り。
土芳は、伊賀上野の藤堂藩士を若くして退き「蓑虫庵」に隠棲してからは、俳諧一途の生涯であったという。

なお「蓑虫庵」という草庵の名は、芭蕉の「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」という句にちなんでいるとのこと。

2018/11/08

イモカタバミとベニカタバミの見分け方

【葯が黄色】

アップルヒルの緑地に咲いていた花

この記事にある写真は、10月21日に「道の駅なみおか アップルヒル」の緑地で撮ったもの。
葉が3小葉からなる複葉でカタバミに似ているので、写真を撮ったときはムラサキカタバミではないかと思っていた。

それが今日、「日本の野草(山と渓谷社)」で調べてみたら、この花はムラサキカタバミではなかった。
この花の葯(やく)は、上の写真の通り黄色である。
葯とは、雄しべの先っぽの花粉の入った袋のこと。
だが、ムラサキカタバミの葯は白色。

それに、ムラサキカタバミの花の中心部(雄しべや雌しべが集まっている部分)は、こんなに濃い紫色ではない。
ムラサキカタバミの花の中心部は、「日本の野草」の写真を見ると淡い黄緑色になっている。


【イモカタバミ】

イモカタバミ

この花をムラサキカタバミと見間違えるほどだから、写真の花はカタバミの仲間であることは間違いない。
そこで、インターネットの野草サイトをいろいろ見て回ったら、この花はイモカタバミというカタバミ科の植物だった。

ところが、このイモカタバミにそっくりなカタバミがある。
そのそっくりさんは、ベニカタバミというカタバミ科の野草。
ベニカタバミの葉は花弁よりも小さくて光沢がある。
葉の柄が短いので、ベニカタバミの葉は地を這うようにして広がっている。

一方イモカタバミの葉は、この記事にある写真の通り、花弁と同じぐらいに大きい。
それに葉の柄も長いので、花びらにせまるように葉が生い茂っている。

「イモ」と「ベニ」の見分け方

以下に、イモカタバミとベニカタバミの見分け方をまとめておこう。

花の形
●イモカタバミ:やや細長い。
■ベニカタバミ:やや丸みを帯びる。

小葉の形
●イモカタバミ:はっきりした倒心形。
■ベニカタバミ:切れ込みの浅い倒心形。

葉の大きさ
●イモカタバミ:花弁と同じぐらい大きい。
■ベニカタバミ:花弁より小さい。

葉のツヤ
●イモカタバミ:ない。
■ベニカタバミ:ある。

葉柄(ようへい)
●イモカタバミ:葉がひょろひょろと伸びるぐらい長い。
■ベニカタバミ:葉が地に接するぐらい短い

自分で二期作

イモカタバミの花期は4月から6月。
暑い夏は、半休眠し葉も枯れて地下部だけが残るという。
そして涼しくなった秋頃からまた咲き始め、12月まで咲いているものもあるという。

あのミヤコグサも、イモカタバミ同様盛夏は休眠し、涼しくなってからまた花を咲かせていたのかもしれない。


【イモカタバミの葉】

【葉の柄が長い】

2018/11/07

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

西行谷

芭蕉は、西行が晩年に庵を結んだとされている西行谷を訪れる。
【「芭蕉紀行文集 中村俊定校注」(岩波文庫)】によれば、西行谷は、神路山(かみぢやま)の南にある谷とのこと。
神路山は、伊勢神宮内宮の南方の山域の総称である。

「野晒紀行」には以下の文がある。

「西行谷(さいぎゃうだに)の麓(ふもと)に流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

西行谷の麓に沢が流れ込んでいる。
芭蕉は、その沢で芋を洗っている女たちを見かけた。

芋を洗う女


芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

女たちが芋を洗っている光景を見て、西行なら、この風情を歌に詠むことだろう。
さて、どんな歌を詠むことだろうなあ。
というような、西行谷を訪れた芭蕉が、敬愛する西行に対して詠んだ挨拶句なのではと感じたが。

ところが、この句をもうちょっと読み込んでみると、また違うイメージが湧いてくる。
「芋洗ふ女」を見て、西行が「芋洗ふ女」の歌を詠む格別な所以がないのである。
西行は、桜の歌人として広く知られている。
しかし、「仕事に励む女」を題材にして多くの歌を詠んだという西行の話はほとんど聞かない。

だからといって、「芋洗ふ女」の歌を詠むはずがないとは言えないのだが・・・

「芋洗ふ女」は女の子か?

西行が晩年に、子どもの遊びを詠った「たはぶれ歌」と称されている十三首の歌が「聞書集(ききがきしゅう)」にあるという。
芭蕉が西行谷で目撃した「芋洗ふ女」が家事を手伝う女の子たちということも考えられなくもない。
でも、「野晒紀行」に、「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とある。
「をんな」は成人した女性の意なので、「女の子」は無理かな・・・

そこをあえて「芋洗ふ女」の「女」を「をみな」と読めば、「をみな」は若い女性ということになる。
若い女性のなかには女の子も含まれるのではあるまいか。

芭蕉が見た女の子たちは、わらべ唄なんかを歌いながら手伝い仕事をしていた。
遊びながら家の手伝いをしている女の子たちを見て、芭蕉は、西行なら「たはぶれ歌」を詠んだことだろうなあと思い、それを「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」と句にした。

でも「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とあるから、無理かなあ・・・

それでは、いったい誰が歌を詠むのだろう?

「谷」を省略?

今まで「野晒紀行」で字余りの句を三句ほど読んできたが、掲句も字余りの句である。
「いもあらうをんな さいぎゃうならば うたよまん」で八・八・五となる。

天和元年五月十五日に、芭蕉は高山伝右衛門宛書簡で、字余りについて以下のように述べている。

「文字あまり、三四字、五七字あまり候ひても、句のひびき能(よく)候へばよろしく、一字にても口にたまり候を御吟味有るべき事。」(「芭蕉年譜大成 著:今榮蔵」より)

以下は、私の現代語訳。

「字余りは、三文字四文字、五文字七文字余りましても、言葉の音としての響きが巧みであればよろしいでしょう。字余りが一文字でも音の通りが悪ければ検討するべきです。」

これによれば、芭蕉が気にしているのは字余りよりも句のリズムであるようだ。
「野晒紀行」の旅に出る三年前の、門人に対する芭蕉の句作についての「教え」である。

この芭蕉の「教え」を参考にすると、「いもあらうをんな さいぎゃうならば うたよまん」はこれ以上句のリズムをこわしたくないギリギリの字余りであるかもしれない。

ギリギリということは、リズムを整えるための文字の省略もあるのでは、という推測が可能ではないだろうか。

「芋洗ふ女」が歌を詠む

私の推測はこうである。
芭蕉は中の句に「西行谷ならば」というニュアンスを含ませつつ「谷」を省略して「西行ならば」としたのではないだろうか。
そうであれば、「いったい誰が歌を詠むのだろう?」の答えは「芋洗ふ女」である。

芋を洗っている女よ、あなたも西行谷の人なら、もちろん歌を詠むのでしょう、というイメージ。
この場合の「芋洗ふ女」は女の子ではなくて成人である。

「この由緒ある西行谷の付近で暮らしているのだから、西行に倣ってあなたも歌を詠むのでしょう」
こう話しかけて、芭蕉が「芋洗ふ女」にちょっかいを出しているのでは、と思えてくる。
おっと、これは私の余計な空想。

これもまた、芭蕉の句を読む私の楽しみである。


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2018/11/06

駿河から伊勢神宮へ「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

大井川の川越

芭蕉一行は大井川にさしかかる。
富士川は舟に乗っての川越(かわごし)だった。
一方大井川は、馬や人足を利用しての川越になる。

雨が降り続いて川が増水すると、旅人は何日も川留(かわどめ)の憂き目をみる。
芭蕉と千里(ちり)の一行も、雨のために足が止まったようである。

「野晒紀行」には、「大井川越(こゆ)る日は、終日(ひねもす)雨降(ふり)ければ、」とある。
芭蕉はこの文の後に同行者千里(ちり)の句を置いた。

「秋の日の雨江戸に指おらん大井川(ちり)」

「江戸に指おらん」「に」は、場所をあらわす格助詞の「に」
「指おらん」「ん」は、推量をあらわす助動詞「む」の変形の「ん」

「江戸に指おらん」は、江戸では指を折って数えていることだろうというような「意味」かと思われる。

この秋の長雨は、江戸にも降っているだろうか。
江戸では、旅立ってからの日数を指折り数えて、芭蕉がどのあたりを歩いているか話題になっていることだろう。
だが、私達は東海道の難所であるこの大井川をまだ越せないでいる。
という句のイメージと思われる。

しかし、「秋の日の雨江戸に指おらん大井川」は指折り数えると字余りの句である。
富士川での芭蕉の句「猿を聞人捨子に秋の風いかに」も、字余りの句。
両方とも沈んだ句調となっている。

説明的な字余り句

旅の出発に際しては、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とか「秋十とせ却って江戸を指す故郷」とか名調子で詠いあげていたのに。
捨て子に出会ってから、ちょっと説明的な字余り句になった。
そのせいか、イメージの広がりが乏しくなってしまったように思われる。

千里(ちり)の句の後は、「馬上吟(ばじょうのぎん)」と前書きされた芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句が続く。
この句は前出の句と違って、リズミカルである。
でも、この句をそのまま鑑賞すれば、ちょっと状況説明的であり、イメージの広がりを感じ取るには難しい。

「イメージの広がり愛好者」の私としては、ちょっと物足りない句である。

杜牧の「早行」を演じる

「道のべの」の句の後に、芭蕉の紀行文が続く。

「廿日餘(あまり)の月かすかに見えて、山の根際(ねぎわ)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚(おどろ)く。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下、私の現代語訳。

「二十日を過ぎた頃の月がかすかに見えて、そのせいか山麓の道がかなり暗くて見えにくいなかを、馬の上に鞭をぶら下げて、数里すすんだが、まだ一番鶏の鳴き声がない。中国の詩人杜牧(とぼく)が朝早く立つときに見たという残夢にうつらうつらしていたら、小夜の中山という谷がけわしい場所を通っていたので、いつのまにと驚いて目が覚めた。」

ここでは、中国の漢詩に造詣が深いという芭蕉が、その素養のほどを垣間見せている。
というか、杜牧の漢詩「早行」の世界を、芭蕉が観客に演じてみせているような場面である。

この文の後に芭蕉の句「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」が置かれている。

駿河から伊勢へ

さて、「野晒紀行」の旅は、駿河からあっというまに伊勢に入る。
この間特筆すべきことがなかったのか、「小夜の中山」から伊勢までは空白である。

以下は、伊勢のくだりの文章。

「松葉屋風瀑(ふうばく)が伊勢に有(あり)けるを尋音信(たづねおとづれ)て、十日許(ばかり)足をとゞむ。腰間に寸鐵をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)有(あり)。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。
 暮(くれ)て外宮(げぐう)に詣(まうで)侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)處ゝ(ところどころ)に見えて、また上もなき峯(みね)の松風、身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起(おこ)して、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下、私の現代語訳。

「松葉屋風瀑が伊勢の家に帰っていると便りがあったので訪問して十日ほど滞在した。私の姿形は、腰に小刀を着けず、襟のあたりに袋をひとつかけて、手に数珠を持っている。僧侶のように見えないこともないが、身は俗世間の塵にまみれている。世間の一般人にも見えるが剃髪している。私は僧侶ではないと言っても、神宮側に僧侶の仲間とみなされて、神前に入ることを許してくれない。
 夕暮れになってから伊勢神宮外宮にお参りしたとき、一の鳥居の後ろ側がほの暗く、お灯明がところどころに見えて、限りもなく尊い峰の松風が、身にしみて感じられるほど深い感動をおぼえて、」

松葉屋風瀑宅に十日も滞在しても、この屋敷での特筆すべきことが何もなかったのか、ここも空白。

「あらし」は「嵐」ではなく「あるらし」か?

「また上もなき峯の松風、身にしむ計、ふかき心を起して、」の後に芭蕉の以下の発句が続く。

みそか月なし千とせの杉を抱くあらし

「みそか月なし」とは、晦日には月が籠もって出てこないという「暦情報」そのまま。
「千とせの杉」は樹齢が千年を越えているであろうと言われる杉のこと。
この千年杉は、伊勢神宮のご神木のひとつになっている神聖な木であるのかもしれない。

そんな神聖な木を、抱いて揺すっているように吹いている強風。
千年の歳月に比べれば、この「あらし」の時間は一瞬の出来事であろう。
「みそか月なし」と吟ずることで、千年の時間を一瞬のうちに揺すっている夜の臨場感を芭蕉は描き出している。
と同時に、大自然の力を備えた「天」の存在感をも描き出しているように思われる。

この句は、伊勢神宮の社殿も神木も「天」によって抱かれた存在なのだという芭蕉の感慨のようにも読み取れる。
月のない闇空と伊勢神宮の境内。
上空と、地上の千年杉との対比。
この句を図式的に読むと、上空の闇と伊勢神宮を結んでいるのが「あらし」ということになりはしないだろうか。

「みそか月なし」の闇空が長い腕のような「あらし」を伸ばして、神宮境内の「千とせの杉」を抱いているのだ。

話はそれるが、この句も字余りである。
上の句の「みそか月なし」が七文字になっている。

意味的に言えば、「みそか月なし」は「みそか月」とイコールである。
なので、上の句を「みそか月」と詠んだ方が五文字ですっきりするのではないかと、トーシロ的には考えたりするのであるが。

まさか、「なし」と「あらし」とで韻を踏もうとしたのではあるまい。
いや、韻を踏んで強調したかった「月なし」とは何なのだろう。

と、ここで私はとんでもないことを思いついた。
「あらし」は「嵐」のことではなく、「あるらし」の変形の「あらし」なのではあるまいか。
「あらし」の意味は、「あるらしい」とか「あるにちがいない」とかである。

こう考えると、芭蕉が「みそか月なし」にこだわった理由がわかるような気がする。
今夜は晦日で月が出ないが、もし月が出ていたなら、この神聖な千年杉を月が抱くようにして光り輝いていたことだろう。
いや、そういう月を見たかったのだが、「月なし」とは残念だ。

こういうイメージの句だとすると、この句は「千とせの杉」の姿に感動した芭蕉が「千とせの杉」と「見えない月」を讃えた句ということになる。

まったくトーシロ(私)のくせに、実にとんでもないことを考えるものである。

芭蕉の引用

芭蕉は伊勢神宮外宮にお参りしたとき、西行の「山家集」にある「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」の歌を紀行文に引用している。
静岡の「小夜の中山」では、杜牧の漢詩「早行」を引用したり。

「野晒紀行」のこのくだりには、実に引用が多い。

芭蕉同様の「知的な資料」をもちあわせなくては、読者は芭蕉が表現している世界に近づけないのだろうか。

多くの芭蕉読者は、謎掛けや呪文のような芭蕉句を遠ざけ、身近に感じられる発句を傍に引き寄せて、それらを自身の「知的な資料」としているのかもしれない。

などと、西行や中国の漢詩に疎い私は、ただとぎれとぎれの感想をいだくばかり。
ただ、杜牧の「早行」は、高校の漢文の授業で習ったような記憶がかすかにある。

なお芭蕉は、「野晒紀行」の旅も含めて、生涯に六度伊勢神宮に参宮し数多くの句を残したとされる。


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2018/11/04

逢魔ヶ時の川景色

【夕暮れの川景色。】


愛犬が川のほうへ行きたいというので、街外れの川岸まで散歩した。
川岸といってもコンクリート護岸されていて、その護岸に接している土手道を歩いたのだが。

夕方の混雑したスーパーの前を通り、信号を越えて、西日を浴びたクリーニング店の横から住宅街に入る。

30分ぐらい、アパートや住宅が立ち並ぶ小路を歩くと、広い原っぱに出る。
この原っぱが、昔の河川敷であったらしい。
草深い原っぱの一本道の向こうに、こじんまりと築かれた堤防がある。


【雪をかぶった山。】


堤防の上からは、川の上流方向に、山頂付近が黒い雪雲に覆われた高い山が見えた。
川の源流のひとつは、この山の中腹あたりを流れている。

その流れがここまで届くのに、どれぐらいの時間がかかるのだろう。
そう思って川面を見下ろすと、四羽の鴨が列を組んで泳いでいる。
今夜のねぐらをさがして、さまよっているのだ。

ふいに「鴨の放浪家族」という言葉が思い浮かんだ。
なぜか、そういうふうに見えたのだ。

すると、あの鴨たちは人間の放浪家族が魔法をかけられて鴨の姿になったのでは、と思えてきた。
そう考えたら、人間の親子以外のなにものでもないように見える。
暗くなりかけた川面を不安げに寄り添って泳いでいる。
妙になつかしい気がした。

かつて私もそうだったような郷愁が、私の脳裏をよぎった。
ひょっとしたら私は、放浪の鴨が魔法をかけられて人間の姿になったのではないか。


【川面の鴨】


愛犬は、そんな私の感傷におかまいなし。
堤防の端の草むらの匂いを嗅いでいる。

堤防道路の上流側から、小さな犬を連れた女性が歩いてくる。
むこうさんも、愛犬の散歩のようである。

背の高い女性で、ロングドレスをなびかせている。
まるで洋館住まいのような、お上品なおスタイル。

女性が、大きな口を開いて「こんにちは」と声をかけてきた。
暗くなりかけているが、「こんばんわ」にはまだ早い。
黄昏、またの呼び名は逢魔ヶ時(おうまがとき)である。

私の愛犬は知らん顔をして、道端の草を食べている。
「いつもこちらをお散歩ですか?」と目を光らせて興味深げな女性。
長い道を歩いてきて、ようやく人に出会ったという感じだ。
「いや、うちの犬が、たまたまこっちに来たものだから」と私。

「えっ」と女性はびっくりした様子。
ちょっと大仰な身振りであった。
「それじゃあなたは、ワンちゃんについて来たの?」と女性。
「そうですよ、犬の散歩なんだから」と私。
「だって、それじゃ主従関係が逆じゃないの」

「へっ、主従関係って!?」と私。
「人間がワンちゃんをリードしなきゃ、わがままな犬になってしまうでしょう」と女性。
「もう、十分わがままなんですよ」
私の愛犬は、草喰いに夢中で、ムシャムシャと音をたてている。
女性の愛犬は、おすわりして、草喰い犬をじっと見ている。

「それじゃ、主人の命令をきかない犬になってしまいますわ」と女性。
「だって犬なんだから、人のことばなんかわかるはずもありますめい」
「主人」とか「命令」とか言うのを聞いて、急に私は下僕ことばになってしまった。
やはり、私は魔法をかけられた放浪鴨なのかもしれない。

「まあ・・・とんでもないこと」と洋館の奥様はおどろいた様子。
「さあ、エリザベス帰りますわよ」とおすわりをしている犬に語りかけた。

それから女性は、じっと待っているエリザベスに、高らかに号令をかけた。
「エリザベス、レッツゴーホーム」
おすわりをしていた犬が、まるで魔法をかけられたみたいに、ピョコンと立ち上がって、回れ右をし、主人のあとをスタスタと歩きはじめた。
ロングドレスのシルエットが、みるみる暗がりのなかへ消えていく。
 
私の愛犬は、口の端から草の細長い切れ端を垂らしてそれを見送った。
愛犬のヨダレが、垂れた草の葉に粘りついている。
私は、草の葉を犬の口から取り出して、タオルで口のまわりのヨダレをぬぐった。
「散歩のときは、犬がご主人様さ」
愛犬が、うれしそうに尾を振る。

街は暮れて、空には星がまたたいて。

川の方からは、まだねぐらが見つからないのか、ガーガーと鳴く鴨の声が聞こえた。
またそれが私には、妙になつかしかった。

2018/10/31

猿を聞人捨子に秋の風いかに

【富士川渡船場の絵。「五十三次名所図会 蒲原 岩渕の岡より不二河眺望」歌川広重画。国立国会図書館デジタルコレクションより 】

富士川の捨て子

東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。
富士川付近からも富士山を望見できるのだが、「富士を見ぬ日(江戸離れ)」を目指した旅なので、芭蕉はもう富士には触れない。

以下は、「野晒紀行」の富士川について書かれた文である。

「富士川のほとりを行(ゆく)に、三(み)つ計(ばかり)なる捨子(すてご)の、哀氣(あはれげ)に泣有(なくあり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計(ばかり)の命待(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげてとをるに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

次に、私の現代語訳。
「富士川の辺りを進んでいると、三歳ぐらいの捨て子が悲しそうに泣いているのに出会った。富士川の急流を渡るのに比べると、浮世の荒波を渡るのはむずかしい。露のようなはかない命が消えるのを待つ間もないと捨て置かれたのであろう。小萩の根本に捨て置かれて秋の風が冷たく吹いている。捨て子は小萩の花のように今夜に散るかもしれない、明日にはしおれるだろうと思われ、袂から食物を出して捨て子の方へ投げて通るけれども、」

富士川を長江に模して


猿を聞人(きくひと)捨子(すてご)に秋の風いかに

中国の長江で、川の両岸の猿が悲しげに鳴いているなかを、舟がまたたくまに急流を下ったという漢詩を連想させるような挿話と発句である。
その漢詩は「白帝城(はくていじょう)」と題された李白の作。
日本三大急流のひとつである富士川の急流を、芭蕉は長江の急流に模したのだろう。

掲句の「猿を聞人」とは、猿の鳴き声を聞きながら長江を舟で下った李白のことと思われる。
猿の鳴き声ならばいかに悲しそうでも、これを聞き流してそのまま船で下ることが出来る。
だが、寒い秋風に晒されている捨て子の泣き声だったら、どうして船で通り過ぎることができようか。
というイメージなのではと私は感じている。

捨て子に説教

掲句の後に次の文章が続く。

「いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「どうしてそんなに泣くことがあろうか。おまえは父親に憎まれたと思っているのか、母親に嫌われたと思っているのか。父親はおまえを憎んでなどいないだろう、母親はおまえを嫌ってはいないであろう。ただ言えることは、おまえが捨てられたことは、天がおまえに与えた運命であるから、そのことに気づかないおまえの未熟さを嘆け。」

これはちょっと主観的な意訳が過ぎるであろうか。
なんと芭蕉は、三歳ぐらいの捨て子に、考え方や生き方について説教したのである。
いや説教というより叱咤激励か・・・
上記の激励を切りに、この捨て子のエピソードは終わっている。

捨て子のその後

そのあと、この捨て子はどうなったのだろう。
芭蕉に言い聞かされて泣くのをやめ、プラス志向に転じ、渡し船の船頭の弟子になったか、商人に拾われて丁稚奉公に励んだか。

そんなことまで芭蕉は書かない。
「野ざらし」ではじまり、「野ざらし」を打ち消しながら「野晒紀行」の旅を進めていた芭蕉。
芭蕉は、この富士川でも「野ざらし(マイナス志向)」を打ち消したに違いない。

プラス志向

ちなみに、「猿を聞人捨子に秋の風いかに」に対するインターネットの評判は悪い。
それは、芭蕉が捨て子にわずかばかりの食料を投げ与えて、薄情にもその場を立ち去ったという「解釈」に因っている。

はたしてそうだったのか。
あるいは、この話自体が、「富士川の急流」と「浮世の荒波」を掛け合わせるためのフィクションだったのか。
それは芭蕉のみぞ知る。

ただ私は、「野晒紀行」の旅を、芭蕉がマイナス志向を打ち消していく旅だと感じているゆえに、捨て子の生きる道を空想したまでである。


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2018/10/29

芭蕉の江戸離れの句「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

【「西行物語(敬文堂刊)」国立国会図書館デジタルコレクションより。「風になびく・・・」の歌は左側、後ろから二番目にある。】


西行の富士の歌

「西行物語」によれば、西行は陸奥への旅の途中、東海道を東に進みながら駿河国で「風になびく富士のけふりの空にきえてゆくえも知らぬ我思ひかな」と詠んでいる。
その敬愛する西行の五百回忌の年に、芭蕉が奥州・北陸の地を行脚したのが「おくのほそ道」の旅だったが、それは「野晒紀行」の旅から五年後のこと。

「野晒紀行」の旅で芭蕉は、西行とは逆に東海道を西に進み、箱根の関にさしかかる。
箱根あたりで芭蕉は、西行の富士の歌を思い浮かべていたかもしれない。
ところが、あいにく箱根は雨降りで、周囲の山は雲に隠れて見えない。
箱根からは、雄大な富士山を望むことができたのに。
そこで芭蕉は見えない富士山を句に詠んだ。

見えない富士の句


霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
松尾芭蕉

「関越ゆる日は雨降りて、山みな雲に隠れたり」という句の前文が「野晒紀行」に書かれている。
富士山は歌枕の地である。
古来より多くの歌人たちが、富士を歌に詠んでいる。

芭蕉は、富士山が雲に隠れて見えないのなら、見えない富士を句にするのも面白いと思ったのかもしれない。
そして、それをそのまま句に詠んだのである。

箱根から雄大な富士の姿を眺めることができれば、それは旅の大きな励みになる。
上方の人々への、旅の土産話にもなる。

「初度の文学行脚の途上で雄大な富士の姿を望見できないことはとても残念なこと。
だがそれを「口惜しや」とか「無念なり」とか句に詠んだら、マイナス志向になる。
「野晒紀行」の旅は、不吉な言葉である「野ざらし」を掲げながらも、それを打ち消していく旅である。
それは、マイナス志向を打ち消していく旅でもある。
【※初度の文学行脚:「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」より引用。】

「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句で、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の暗雲を打ち消した。
霧と時雨の箱根では、雲に隠れて富士が見えないというマイナスを、打ち消してプラスに変えなければならない。

「秋晴れに富士」という絵に描いたような風景美よりも、むしろ「霧しぐれ」に隠れた見えない富士を描いた方が、「却って」面白いと芭蕉は思ったのではあるまいか。
西行は、富士山の噴煙が空にあがって消えていく様を「わが思ひ」と詠んだ。
芭蕉は、視界から消えた富士を「面白きと詠んだのである。
  • 【※「面白き」の「き」は過去をあらわす助動詞の「き」ではなく、形容詞「面白し」の連体形の「面白き」と解釈した。したがってこの句では「面白き」の下にくる語が省略されていると思われる。私は活用語の連体形について感動・詠嘆をあらわす「哉(かな)」ではないかと思っている。(古文のお勉強を忘れないために)】

「富士を見ぬ日」とは何か

私は上記のように感じたのだが、「富士を見ぬ日ぞ」の「日」がどうも気になる。
「日」で芭蕉は何をあらわそうとしたのだろう。

話は八年後のことになるが、元禄五年に第三次芭蕉庵が竣工したとき芭蕉は「芭蕉を移詞(うつすことば)」という俳文を綴った。
その俳文のなかに「地は富士に対して、柴門景を追ってななめなり」という文がある。
富士山を眺めることが、芭蕉にとって日々の楽しみであった。
そう伺い知れる文であると思う。

芭蕉が「野晒紀行」の旅に出立したのは、第二次芭蕉庵からであった。
第二次芭蕉庵も第三次芭蕉庵も、第一次芭蕉庵の近くに建てられた。
したがって、芭蕉が江戸深川で暮らしていた頃は、晴れていれば富士山を望み見ることが出来る環境にいたことになる。
それが芭蕉庵での日常だった。

新たな俳諧生活の「日」

こう考えると、「富士を見ぬ日ぞ」の「日」は、芭蕉が江戸で富士を眺めて暮らしていた日々を示唆していると考えられる。
「初度の文学行脚」で富士山の近くにさしかかったとき、富士は霧と時雨のために見えなかった。
そして旅を続ければ、江戸深川芭蕉庵から遠ざかり、「富士を見ぬ日」が新たな日常になる。
それは同時に江戸での「俳諧生活」から遠ざかり、「新たな旅の俳諧生活」に暮らすことになる。

そういう「新たな日常=新たな俳諧生活」もまた興味深いものであるという芭蕉の感慨。
その感慨が込められた「日」なのではあるまいか。

「旅先での新たな俳諧生活」は新たな創作につながるかもしれない。
芭蕉は、「富士を見ぬ日」である「新たな俳諧生活」を「面白き哉」と句に詠んだ。
そうやって、雲に隠れた富士の横を意気揚々と通り過ぎたことだろう。

旅の同行者の紹介文

「野晒紀行」では、掲句の後に同行者である苗村千里(なえむら ちり)の紹介文が続く。

「何某(なにがし)ちりと云いけるは、此(この)たびみちのたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心を盡(つく)し侍る。常に莫逆(ばくげき)の交(まじはり)ふかく、朋友信有(ある)哉此(この)人。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「何とかいう名字のちりという者は、今回の旅の助けになってくれている人で、いろいろと気を配って世話をすることに心をつくしている。普段から親しい間柄でつきあいもふかく、この人は信用のおける友人である。」

芭蕉を富士に預け行く

芭蕉は同行者をほめたたえ、その文の後に「深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく)」という苗村千里の句を載せている。
芭蕉がこの箇所に千里の句を配置したのは、まさにこの句を「みちのたすけ」とするためだったのではあるまいか。

千里の句は「旅で留守にしている江戸深川よ、富士山が見れなくて心残りな芭蕉を富士山に預けていくよ。」ということではないであろう。
なぜなら「深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく)」は、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」に呼応して作られたものと思うからである。

芭蕉の新たな俳諧模索の句

それは、「江戸深川よ、芭蕉庵で富士山を眺めていた頃の芭蕉を、富士山に預けていくよ。」という意味合いを含んでいる句なのではないだろうか。

千里が富士山に預けたのは「富士を見る日>江戸深川芭蕉庵での日常的な俳諧」だったのだろう。

そして千里が此(この)たびみちのたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心を盡(つく)し」たのは、【芭蕉の富士を見ぬ日>芭蕉の「初度の文学行脚」>芭蕉の新たな俳諧模索】だったのではあるまいか。

芭蕉の江戸離れの句は、芭蕉の旅立ちの句。
「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」は、新たな俳諧模索の句だったのだと私は感じている。


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2018/10/27

秋十とせ却って江戸を指す故郷

【芭蕉紀行文集(岩波文庫)より「野ざらし紀行」の頁。】


「野晒紀行」の旅

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」の貞享元年のページには、以下の記述がある。
「貞享元年八月、芭蕉は初度の文学行脚に旅立つ。以後、生涯を終えるまでの十年の歳月の間に通計四年九箇月を旅に暮らす境涯に入る。」

この「初度の文学行脚」で芭蕉は、俳諧紀行文「野晒(のざらし)紀行」を著している。
芭蕉が「野晒紀行」の旅へ出発したのは、貞享元年八月の中旬頃とされている。
「旅人と我が名呼ばれん」という思いを、この頃すでに抱いていたのではあるまいか。

「野晒紀行」の旅の行程の概略は、以下の通り。
江戸深川から東海道経由で伊勢→伊賀上野→大和北葛城郡竹内村→吉野→山城・近江路→美濃大垣→桑名→熱田→名古屋→伊賀再訪(越年)→奈良→京都→伏見→大津→水口→桑名再訪→熱田再訪→鳴海→甲斐→甲州街道経由で江戸帰着(貞享二年四月末頃)。

旅の同行者は、門人の苗村千里(なえむら ちり)。
芭蕉はこの旅で多くの土地を訪問し、多くの知己を得たとされている。
結果的に「蕉門」の地盤を築く旅になったのである。

芭蕉の年齢は、四十一歳から四十二歳の頃。
季節は、秋から翌年の初夏まで。
日数は、約八ヶ月半。

俳諧紀行文「野晒紀行」

「野晒紀行」の書き出しは、「千里に旅立(たびだち)、路糧(みちかて)をつゝまず、三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)に入(いる)と云(いひ)けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享(ぢようきょう)甲子(きのえね)秋八月江上の破屋をいづる程(ほど)、風の聲そゞろ寒氣也」となっている。
芭蕉の俳諧紀行文の第一作が、この「野晒紀行」である。

以下は、私の下手な現代語訳。
「旅の携帯食を持たずに、千里の長い旅に出る。子の刻の月の下では、無我の境地に至ると言われている。そういう昔の人の言葉をよりどころにして、貞享“きのえね”の年の秋八月、川のほとりの草庵を出るにつれて、風の音がなんとなく寒々と聞こえる。」

「江上の破屋」とは、旅の詩人としての「風狂」的なイメージを、深川の芭蕉庵にかぶせようとしたのだろう。
「風の聲そゞろ寒氣也」は「この旅は困難なものになるであろう」という芭蕉の心境を吐露したもののように思われる。

この書き出しの後、芭蕉は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とつぶやく。
それは、劇を演じる旅人の台詞のようである。
この句を詠むことによって、芭蕉は旅の舞台に立ったのである。

そして続けて、もっと名調子な台詞を独白する。
あたかも観客に語りかけるように。

旅立ちの句

秋十(と)とせ却(かえ)って江戸を指(さ)す故郷

これから故郷へ向けて江戸を旅立つ身だが、江戸で十回の秋を過ごした歳月を思うと、故郷は伊賀上野ではなくて、逆に江戸のような気がしてくるなあ。
という感慨を、旅の舞台で観客に向かって披露する。

観客とは、「初度の文学行脚」を見送る杉山杉風(すぎやま さんぷう)や李下(りか)ら門人たち。
やがては紀行文を読むであろう読者たち。
そして、その観客たち後ろには、旅人の行く末を見つめる芭蕉自身がいる。
これから書く紀行文の編者として、この旅の始終に目をこらしている芭蕉。
芭蕉は劇を演じ、その劇を見て「野晒紀行」を書いていたのかもしれない。

こうして冒頭部分にあげた旅の行程を、四十一~四十二歳の芭蕉が、秋から翌年の初夏へと約八ヶ月半かけて歩み続けたのであった。

ところで、上にあげた二句は、旅立ちの句として対をなしているように私には感じられる。
それは言ってみれば、「はじまり」と「おわり」である。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」は、たとえ「野ざらし」になってもかまわないという決意を「心」に、寒風を「身」に受けて、旅に出発するという句。

一方、「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の「却って」は「帰って」に掛けているように思われる。
「野ざらし」になってたまるものか、十数年過ごした故郷とも言える江戸を目指して、かならず帰って来るよ。
帰ってきて、この旅を成就させてみせる。
そういう決意の句のようにも感じられる。

プラマイゼロ

「野ざらし・・・・」と声に出したものの、「野ざらし」なんて縁起でもない。
不吉な言葉を口に出したら、それが現実になる。
【そういう考えが、芭蕉にあったかどうか・・・・。言葉の達人であった芭蕉は、誰よりも言葉を畏れていたのではあるまいか。】

とにかく、「野ざらし」はマイナス志向。
ここは、プラス志向の句をもうひとつ作って、プラマイゼロにしなければならない。
【そういう考えが、芭蕉にあったかどうか・・・・】

だが、出発そうそう無事帰着の句では、「野ざらし」の覚悟や意気込みにかっこうがつかない。
そこで、さらに調子をあげて「秋十とせ却って江戸を指す故郷」と体言止めの力強い句を詠む。
しかし、江戸を故郷と思って旅に出るぐらいのイメージでは、プラマイゼロにはならない。

プラマイゼロにするためには、「野ざらし」に続く句が「自己成就予言」でなければならない。
「却って」は、予想とは反対になるさまをあらわす言葉である。
「反対に」とか「逆に」という意味がある。

「却って」で俳諧の旅の成就を願う

芭蕉は「却って」という言葉を使うことで、「野ざらし」とは「逆を指す」という呪文を念じたのである。
「逆を指す」とは、「野ざらし」に向かう方向を変えて「江戸を指す」ことにつながる。
さらに、「江戸」を「故郷」と想定し、かならず「故郷」に「却って>帰って」俳諧の旅を成就させようと、「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句を詠んだのではあるまいか。

「野ざらし」で「はじまり」、「江戸を指す故郷」で「おわり」である。
「おわり」を予言することで、人生はじめての長旅の成功を祈ったのである。

「野晒紀行」の旅で大垣に到着したとき、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」という句を作っている。
その前文に「武蔵野を出づる時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、」とある。

芭蕉は、「野ざらしを心に」の句を作った後、すぐに「秋十とせ却って江戸を指す故郷」を作って、縁起でもない思いを打ち消したのだった。
だが「野ざらし」のことが、旅の途上大垣あたりまでずっと頭に残っていたのかもしれない。

その思いを「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」ですっかり打ち消した。
この句でプラマイゼロどころか、プラスを獲得したという心境になったのではなかろうか。

お笑いめさるな、いつもの「トーシロ」の推測なのだよ。

ところで、芭蕉が江戸に出てきたのは、寛文十二年(1672年、二十九歳)の春であるから、貞享元年(1684年、四十一歳)は厳密に言うと「秋ととせあまりみとせ」となる。
念のために。

「野晒紀行」の名称について

なお、「芭蕉紀行文集(岩波文庫、中村俊定校注)」によれば、「野ざらし紀行」は芭蕉自ら命名したものではないとのこと。
元禄七年(1694年)には「芭蕉翁甲子の紀行」、元禄十一年(1698年)には「芭蕉翁道乃紀」、正徳五年(1715年)には「草枕共野ざらし紀行共いふ」とある。
それが、明和五年(1768年)には「野ざらし紀行」、安永四年(1775年)には「野晒紀行」や「甲子吟行」となったという。


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2018/10/24

手を打てば木魂に明くる夏の月

【「芭蕉年譜大成」と「芭蕉紀行文集」。】


木魂信仰

「木魂(こだま)」は、森のなかの木に宿る精霊。
遠い昔には、そう言われていたという。
山や谷で大きな声を出すと、その声が遠くからかえってくるように聞こえる現象はこの「木魂」という精霊のしわざであると信じられていた。

その信仰は、樹木に神様が宿っているという自然崇拝や山岳信仰につながるものであったのだろう。

「木魂」が反響音であると江戸時代には、解明されていたかどうか。
たとえ解明されていたとしても、江戸時代の人々は現代人よりも「木魂」に対して神秘的なイメージや「信仰心」を抱いていたのではあるまいか。

句文集「嵯峨日記」の句

手を打てば木魂に明る夏の月
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」には、元禄四年四月二十三日の作と記されている。
上方漂泊中の芭蕉が、向井去来の別荘である落柿舎に滞在していたときの句である。
四月二十三日は「終日来客なし。」であったという。

落柿舎は京の嵯峨野にあった。
嵯峨野の西側には小倉山があり、北側に愛宕山がある。
南側は嵐山である。
「芭蕉年譜大成」によれば、芭蕉は落柿舎に元禄四年四月十八日より五月四日まで滞在し、「嵯峨日記」を著した。

落柿舎で独り住まいを楽しんだ芭蕉

岩波文庫「芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記」を読むと、廿三日の日付の箇所に掲句が収まっている。
芭蕉は「獨住(ひとりすむ)ほどおもしろきはなし」と書いて、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなう」という「隠棲者」の言葉を引用している。
孤独を楽しんでいたようだが、凡兆夫妻や史邦、丈艸、乙州、それに曾良と訪問客も多かったようである。

孤独を楽しみ、来客も楽しみ、芭蕉は落柿舎でゆったりとした時間を過ごした。
そんな日々のなかで、掲句は終日来客がなかった日の発句である。
そのせいか、独り住まいの清々しさが伝わってくるような句であると感じた。

明け方の清らか嵯峨野のイメージ

「明くる夏の月」とは夏の残月のことだろうか。
未明に目覚めて、誰か人がいるような気配を夢うつつに感じる。
芭蕉は横になったまま手を叩いてみたが、誰も返事をしない。
森閑とした嵯峨野におられるのは、「木魂」という精霊だけ。
その精霊が、芭蕉の手の音に応えている。
やがて夜が明けはじめ、夏の残月が精霊の気配とともに、朝日に消えかかる。
私は掲句にそんなイメージを感じた。

二十三夜の月待信仰

掲句が二十三日の発句で月が題材であるため、「二十三夜の月待(つきまち)信仰」の句という読み方もあるようだ。
「月待信仰」とは、定まった月齢の夜に、月の出を待ってその夜の月を祀る信仰のこと。
旧暦の二十三日の夜も、この「定まった月齢の夜」にあたっていて、二十三夜と呼ばれていたという。

ただしこの「月待信仰」は、人々が集まって行うものであったらしい。
訪問客のいなかったこの日の夜に、芭蕉はたったひとりで「月待」を行ったのだろうか。

いや、森閑とした嵯峨野で、芭蕉は多くの精霊たちを感じていたのかもしれない。
そして、その精霊たちと「月待」を行ったのだろう。

芭蕉が、月よ出ておいでくださいと柏手を打つ。
しばらくして、その「木魂」がかえってくる。
それが、人々が集まって柏手を打っているように聞こえる。
多くの精霊たちのしわざである。

そうしているうちに、その精霊に呼応するように二十三夜の月が姿をあらわしたというイメージ。
「明くる夏の月」とは、月が嵯峨野の山の端から空へおいでくださったという表現なのだろう。

この天と地の対比が、「月の出」の風景の広がりを感じさせている。
芭蕉が独住している空間を神秘的なものにしている。
これもまた「獨住ほどおもしろきはなし」なのかもしれない。

なお、元禄四年四月二十三日は、太陽暦では1691年5月23日である。
この日の月のかたちをインターネットの「満月カレンダー」で調べたら、月齢24.8の三日月であるとのことだった。


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2018/10/18

上林暁の「野」を読んだ感想

【「本をつんだ小舟」と、「野」が収録されている上林暁の短編集「聖ヨハネ病院にて/大懺悔」】

「野」についての、宮本輝氏の読後感想

本棚を整理していたら、二十年ぐらい前に読んだ「本をつんだ小舟(文藝春秋)」という本が奥のほうから出てきた。
この本の著者は、宮本輝氏。
「本をつんだ小舟」は、宮本輝氏の中学時代から高校時代にかけての読書歴をまとめたエッセー集である。

「本をつんだ小舟」をめくると、【上林暁(かんばやし あかつき)「野」】というページが目にはいった。
そうだ、思い出した。
二十年ぐらい前に「本をつんだ小舟」を読んだとき、この「野」という小説を読んでみようと思ったのだった。

いつのまにか、すっかり忘れていた。

宮本輝氏は「野」について、【いい小説を味わいたいと思う人は、ぜひ「野」を初めから終わりまで精読してもらいたいものである。】と述べておられる。

家の周辺にある「野」の散策物語

そこでいろいろ調べて、市内の書店から上林暁の「聖ヨハネ病院にて/大懺悔(講談社文芸文庫)」という文庫本を取り寄せた。
文庫本なのに価格が1,500円(税別)とは、ずいぶん高いんじゃねーかと思いながら。
「野」はこの短編集の二作目にあった。

「野」は「二年ばかり前のこと、薄い靄のかかった或る晩秋の日の午後、私は或る郊外電車のG駅へ通ずる広いバス道路を歩いていた。」という文章で始まる。
ひとつのセンテンスのなかに「或る」がふたつも続けてあるのがちょっとくどいなと思ったが、この「くどさ」が「野」の微妙な味付けになっている。

「私」という主人公が暮らしている家の周辺に広がる「野」。
おそらく舞台は東京都(旧東京市?)の武蔵野あたりと思われる。
小説「野」は、その「野」を散策する物語であると、わたし(ブログ管理人のことね)は感じた。

主人公の境遇

まず、「私(小説の主人公のことね)」とは、いかなる人物か。
それを小説の文章からひろってみると以下のようになる。
  1. 「敗残の身を持て余し、生きているとも思われない日々を過ごしている」
  2. 「日々の食事も乏しく」
  3. 「からだは病み」
  4. 「文学への希望は報われず」
  5. 「あばらや同然の家の中に、親子五人が生活とも言えない生活を営んでいる」

(2)の後に、「朝飯二杯、昼飯二杯、夕飯三杯ときめて」とか。
(5)の前に、「畳は破れ、襖には穴があき」とある。
こういうところが、わたしには「くどさ」であり、微妙な味わいに感じられるのだ。
「敗残」なのに、ちょっとユーモラスでもある。

「私」の生活は、上記(1)~(5)のように苦労がたえない。
ところが、この小説には、苦労が多々な物語にありがちな暗さが感じられない。
たとえて言えば、暗雲が立ち込めているような暮らしぶりなのだが、いたって晴れやかな雰囲気なのだ。
この小説を読んで、そう感じたのはわたしだけだろうか。

苦労の多い生活のなかで「私」は、昔のことも昨日のことも、今現在のことも夢のなかのことのように思われる「精神薄弱状態」にある。
さらに、「俗風景が詩的風景に見えたり、散文的な雰囲気が神秘的な雰囲気と感じられる」ことが多くある。
また作者は、「私がここにこれから書こうとしている野の風景も、すべてそういう精神の所産なのである。」と「私」に述べさせている。

「私」は、「自分の上にのしかかる現実の重みから脱れるために」「野」へ出るのであった。

ふたつのタイプの登場人物

こうして「私」は、「野」を散策するなかで様々な「野」に出会うのである。
まず、登場人物をあげてみよう。
この小説の登場人物はふたつのタイプに分けられる。

ひとつは、遠くから眺めるだけの「野」の風景の添景のような人たちである。
もうひとつは、現実の人間関係の中に登場する人物である。

前者は、添景としてただ眺めるだけの存在なので、前者から現実的な対応をせまられることはない。
しかし、思索の対象として「私」の詩的(神秘的)な好奇心を刺激している。
一方、後者に対しては、「私」は現実の人間関係を保っている。

風景の添景のような人々

前者のタイプは、以下の人々である。
  1. 「神学校通り」でバスを降りた神学校の学生:「ひたむきな精神で過ごすことの出来る彼に、私は言いようのない羨望を感じたのだ。」
  2. 近所にある大学の運動競技場の学生たち:「私は何ひとつ運動競技が出来ずに学生時代を過ごして来たけれど、・・・・青春をむなしく過ごしてきたと悔恨したことは一度もない。」
  3. 近くの喫茶店に集まって高談している実業専門学校の学生たち:「私は七度び生まれ変わっても実業家などにはなりたくないと思うのである。」
  4. 弓の稽古をしている跛の神学生:「狂熱的であった。」
  5. ゴルフパンツのようなズボンをはいて、カスミ網で雀をとる男:「その男の身振りはいよいよ得体の知れない奇怪なものに思われるのであった。」
  6. 植木屋の老人と買い手の若者:「小狡い若者と、耄碌した老人との取引を、胸苦しさのため夢のなかでのようにぼんやり聞きながら、」
  7. 乗馬倶楽部の騎手:「気息奄々として薄汚い姿をしていた私は、格別の思いで、彼の新鮮な姿を見守らぬわけにはいかなかった。」
  8. 大鷲神社の酉の日に集まる人々:「幸運が授かると言えば、どんなちっぽけな場所も見逃さず、押し寄せてゆく人間の浅間しさ、弱さ、悲しさなどを考えながら、」
  9. 若い男女がボート遊びをしている池のすぐそばで、畑仕事をしている農婦と娘:「野に出て、土にまみれた百姓の姿を見ると、世にも悲しい気持ちになる。」
この他にも、神学校の西洋人とか、応召出征する青年を見送る人々とか、演習帰りに行進する兵隊たちとか、様々な人物たちが添景として登場する。
そして、それらの人々は「そういう精神の所産」である「野」そのものでもあるように、わたしには感じられる。

家族や親戚、交友関係にある人々

次に後者のタイプ。
現実の人間関係の中に登場する人物は以下の人々である。
  1. 主人公の妻と子どもたち:「私」の収入がないに等しいので、家庭生活に自信を失いつつある妻。小説の最終部では、神経衰耗(すいこう)に陥り入院するが、三ヶ月後に回復して退院する。
  2. 親戚の青年:「私」が見送りした応召出征する青年。出征の電車の席で、見送りにきた「私」にニコニコ笑いかける。
  3. 大学時代の友人:「私」の貧しい家に、立身出世した友人が10年ぶりに訪れる。「私」と妻は惨めな思いをする。
  4. 友人:文学仲間のKさんとA君。「野」のZ池へ三人で遊びに行った思い出をつづった部分が、この小説のなかで最も明るい雰囲気を漂わせている。楽しかった日のエピソードに多くの文字数が費やされている。
おそらく、KさんとA君が「私」の理解者なのだろう。
「野」での夢遊病者のような主人公の散策劇のなかで、このZ池のシーンが唯一の救いのように描かれている。

主人公の好奇心の対象となる動物たち

面白いことに、「野」にはたくさんの動物が登場する。
この動物たちにたいして「私」は、「野」の添景のような登場人物たち同様に、活き活きとした好奇心を働かせている。
  1. 神学校の庭の雀。
  2. 武蔵野牧場の牛。
  3. 枯蘆の茂みの雀。
  4. 路ばたの山羊。
  5. 乗馬倶楽部の馬。
  6. 池のかいつぶり。
  7. 小川で毛並みを洗われているシェパード。

町の風景がどうして「野」に見えたのだろう

「野」というと、広い原っぱのような場所を思い浮かべる。
だが、この小説の舞台となっている「野」は、二箇所の風致区に指定された区域を有する
東京郊外の町である。
年代は、雰囲気的に太平洋戦争開始前と思われる。

この小説にある「野の風景」とは、当時の東京郊外の町の風景なのである。
その町の風景のなかに、神学校や欅並木や櫟林や、麦畑、農家、牧場、乗馬倶楽部馬場、神社、S池、Z池、そして「野の果ての静かな病院」などが点在している。
こういう町の風景が、「私」にはどうして「野」に見えたのだろう。

それは、この感想文の初めのほうで引用した文章に拠っている。
ちょっとくどいが、もう一度詳しく引用しよう。

「その当時の私は、遠い昔に自分のしたことが夢のように思われるのは勿論のこと、昨日一昨日にしたこともなんだか夢のようだし、今さっきしたことも、更に現在自分がなしつつあることも夢のなかの事のように思われる精神薄弱状態にあったから、一寸でも風変わりな雰囲気に接すれば、私の心の状態はもはやそれを只事とは思わないのであった。そのために、俗風景が詩的風景に見えたり、散文的な雰囲気が神秘的な雰囲気と感じられるくらい珍しくはないのであった。私がここにこれから書こうとしている野の風景も、すべてそういう精神の所産なのである。」

「私」にとっては、自身が暮らしている町が「野の風景」であるのと同様に、町のなかの人々も「野の風景」なのである。
そして、二人の友人(文学仲間)と「私」の窮乏な「文学生活」を支えてくれている妻が、「私」の散策物語のなかでは夢ではなく現実的な存在となっている。
言いかえれば、「非文学的世界」である町の風景は「俗風景」となり、そのなかに潜む「詩的風景」「神秘的な雰囲気」「野の風景」なのであった。

「野の風景」と「町の風景」が逆転する

それが、物語の最後には、「野の風景」が「町の風景」に逆転する。
その部分を引用しよう。

「私はその朝鮮女が熊手を持っているのを見ると、私も一つ熊手が欲しくなった。私は十銭の小さな熊手を買った。それには箒のつもりで藁しべを挟み、出世大鷲神社御守護のお守りもついていた。私は熊手を持って、ひどく嬉しくなって、すぐに家にかえって来た。家にかえると、冗談ともつかず本気ともつかず、妻や子供や自分の頭にその熊手をのせ、今までは病気やなんかしてどうもよくなかった、来年は一つの幸運に授かろうじゃないかと言って、高く笑った。」

小説「野」は、「精神薄弱状態」にある「私」が「そういう精神の所産」「野の風景」を書いた私小説である。
だが、そういう小説にありがちな観念的な表現は、ほとんどみられない。
「私」が「野の風景」をみる目は、夢想的でありながらも現実的な根拠をもっているように思われる。

それは、「私」自身の存在が「夢」的なのであって、周囲の「野の風景」「野の風景」としての現実なのである。
極端に言えば、「私」は「野」をウロウロと歩き回る「犬」のような存在であったのかもしれない。
だが、「犬」の眼で見た「町の風景」を「野の風景」として描くというほどこの小説は技巧的ではない。

「俗風景」への精神の逆転

それはともかくとして、おそらく「私」は、妻の入院を契機に「夢」的な存在から開放されたのだろう。
覚醒したと言うべきか。

であるから最後の「来年は一つの幸運に授かろうじゃないか」という精神の逆転が成るのだと感じたしだいである。
活き活きとした「俗風景」への精神の逆転である。

「赤字」:「野」からの引用です。

上林暁(かんばやし あかつき):1902年~1980年。文学への純粋な情熱を胸底に七十八年の生涯を私小説一筋に生きた。(講談社文芸文庫「聖ヨハネ病院にて/大懺悔」ブックカバーより)

2018/10/15

小滝の森でナメコ採り

【山麓の紅葉。今年はちょっと鮮やかさに欠ける。】


きのうの日曜日は仕事だったので、きょうは代休をとって、ことし初のキノコ採りにでかけた。
毎年キノコ採りハイキングに出かけている「小滝の森」。
お天気にめぐまれて、気分のいい一日を過ごすことができた。

収穫は、ナメコが少々。
サモダシ(ナラタケ)は、大きくそだったものが黒く腐っている。
そんな状態のものがほとんどで、私の行く森では、ナラタケは発生終了のようである。

ナメコも、傘が開ききったものが腐っているのをたくさん見かけた。
同時に、ナメコの幼菌も、まだ発生している。
ナメコの収穫は、もうちょっと期待できそうである。

ツキヨタケ(毒)は終了したのか、姿をみかけなかった。
ツキヨタケが終了しそうなころに出てくるムキタケ(食)も幼菌しかみかけなかった。
猛毒のドクツルタケの白い姿は皆無。

毎年毎年、キノコの出方には変化がある。
毒キノコも食菌も、豊作の年もあれば不作の年もある。
今年はナメコが豊作と聞いたが、私はその恩恵に授かっていない。

八甲田山麓の紅葉は、そろそろ終わりかけ。
色づいた葉が枯れはじめて、散る準備をしている。

初冠雪の話はまだない。
でも、山は寒波来襲とともに初冠雪・初雪の時期。
雪が降る前の森のにぎわいは紅葉だが、キノコは隠れたにぎわい。

その隠れたキノコを見つけ出して採るのだから、キノコ採りは宝さがしに似ている。
楽しい遊びだが、キノコ採りは山岳遭難や食中毒の危険をともなう遊びでもある。

そんな危険をクリアして、今年もキノコ採りを楽しむことができた。
キノコ採りは、自身の判断力と体力を確認する遊びである。

いわば、キノコ探しは自分探し。
今年も元気な自分を見つけることができた。
それは、大豊作。
いえいえ、少し過大評価。


【ちょこんと切り株の上にのっかっているサモダシ(ナラタケ)が三本。私にとって、今年の初もの。】


【涸れ沢のブナの紅葉。もう、終わりかけ。】


【大量にあったが、腐り始めているナメコ。来年はタイミングよく収穫できますように。】


【腐りかけたナメコの成菌の向こうにナメコの幼菌。一番手と二番手の交代劇。】


【つぶナメコちゃん。これは頂戴いたしました。】


【こんなのはじめて。めずらしや、立ち枯れのブナの、地上から2メートルぐらいの位置についていたナメコ。】


【林床にヤブがないブナの森はここだけ。地表の下は、軽石や火山灰層で水はけが良すぎるのか。ここはいつ来ても乾いた森である。こんな森はキノコが少ない。キノコがなくても、気分のいいブナの森。】


【傘は開いているが、きれいなナメコ。グットタイミングで見つけた。】


【沢の近くの倒木についていた、おいしそうなナメコ。】


【名無しの小滝。この滝の周辺の森が「小滝の森」。】

2018/10/14

地に倒れ根に寄り花の別れかな

「劇的な句」とは

芭蕉の追悼句のなかで「劇的な句」と言えば、「塚も動け我泣声は秋の風」があげられる。
私の知るかぎりでは、こんなに激情をあらわにした芭蕉の句は他に見あたらない。

私が言う「劇的な句」とは、芭蕉が激しい感情をあらわにして詠いあげた句のこと。
あたかももうひとりの芭蕉が、ヤマ場の舞台で台詞を発するように。
そういうシーンを思い起こさせる句のことである。

「塚も動け我泣声は秋の風」の句では、自身の「劇」のなかへ観客を誘い込み、その「劇」のなかで芭蕉は亡き友の面影をよみがえらせようとしたのではあるまいか。

現実には登場しえない故人を、芭蕉の「劇」のなかに「我泣声」を発するもうひとりの芭蕉とともに登場させたのである。

伝えるための「劇的な句」

舞台上での感情過多な台詞は、芝居をみている観客に劇の内容を鮮明に伝えるために必要である。
舞台を間近でみている観客は、その迫力に圧倒される。

芭蕉は、自身の悲愁を門人以外の者にも広く伝えるために「劇的な句」を詠んだのであろう。
伝えることで、死者は芭蕉の「舞台」の上でよみがえる。

亡き担堂和尚のための追悼句

地に倒れ根に寄り花の別れかな
松尾芭蕉

貞享三年の春の句であると「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」では推定されている。
前書きに「坦堂和尚を悼み奉る」とある。
知人の死に対する追悼の句である。

地に倒れたのは芭蕉か?

この句にある「地に倒れ」たのは、芭蕉なのだろうか。
悲しみのあまり、地面に倒れ伏す芭蕉。
倒れたまま、桜の木の根元に寄りすがる。
これもまた「劇的」なシーンである。

知人の死を悼むように花びらが散っている。
故人は、花を愛した俳諧師であったのだろう。
その花が、ひらひらと散っている様は、故人との別れを惜しんでいるようである。
そういう情景を芭蕉は演じようとしたのだろうか。

地に倒れたのは担堂和尚か?

また、「地に倒れ」たのは、担堂和尚であるようにも受けとれる。
旅に死すというイメージである。
旅の途次で病が高じてか、担堂和尚は地面に倒れ伏す。
傍らで桜の花が咲いている。
せめて桜の花の下で死のうと、木の根元へ身を寄せる旅人。
やがて、花に包まれた旅人の亡骸が、桜の下で発見される。
そういう「劇」も思い浮かぶ。
芭蕉もまた「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「劇」的に宣言した旅人なのである。

担堂和尚の死を、地に落ちた花にたとえた

さらに、もうひとつ。
地面に落ちた花を、芭蕉は担堂和尚の死にたとえたのかもしれない。
花は散って、翌年の春に咲くために根に帰る。
根のそばに寄って、再生のための養分になる。

あなたとの別れは、そんなしばしの花の別れのようなものでしょう。
と芭蕉が、舞台で別れの言葉を発する。

季節がめぐれば、桜の花が再生するように、あなたも花とともに再生するのでしょう。
という芭蕉の「劇」。
その「劇」のなかで、芭蕉は亡き友の面影をよみがえらせようとしているのだ。
そういうふうに読むと、掲句も「塚も動け我泣声は秋の風」のような「劇的な句」であるように思われる。
「地に倒れ根に寄り」という畳み掛けるような言葉が、散った花に対する芭蕉の感情の高まりを表しているように思われる。

崇徳院の「花は根に鳥は古巣に帰るなり」

この句を彷彿させる歌に、崇徳院の「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき(千載和歌集)」がある。
この歌の「花は根に鳥は古巣に帰るなり」が「格言」のように巷に流布している。
それが、この歌をなお有名なものにしている。

散った花は根本に落ちて木の養分となる。
空をあてもなくとびまわっているようにみえる鳥も、夜になればねぐらへ帰る。
このようにすべてのものは、元にもどるという意味合いの格言である。

芭蕉の時代に、この歌が格言として利用されていたかどうかは定かではない。
ただ思えるのは、この歌から感じられる死生観を元にして、芭蕉が掲句を作ったのではないかということ。
「地に倒れ根に寄り花の別れかな」は、芭蕉が演じる「劇」において、亡き友の再生を願う「わかれうた」なのかもしれない。


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2018/10/11

三尺の山も嵐の木の葉哉

私ぐらいの年代(1951年生まれ)では、一尺が約30cmであることを知っている。
したがって三尺は、約90cmとなる。

また三尺(さんじゃく)と聞けば、子供のころ着ていた浴衣の帯のことを思い出す。
子どものころ生活した家の、畳の短辺の寸法も、三尺に近い値だった。

現在では、ベニヤ板やコンパネなどでサブロク板といえば、三尺×六尺の大きさの板のこと。
90cm×180cmは、ホームセンターなどで売られているベニヤ板やコンパネのポピュラーなサイズである。

このように三尺は、今でも身近な存在である。


三尺の山も嵐の木の葉哉
松尾芭蕉

元禄三年十二月末の句とされている。
前書きに「大津にて」とある。
芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて、上方近辺を漂泊した時期の作である。
元禄三年の大晦日ごろに、芭蕉は京都から大津の義仲寺(ぎちゅうじ)境内の無名庵(むみょうあん)に移っている。

さて、掲句の「三尺の山」については、インターネットにいろいろな書き込みがある。
その多くは、「三尺の山」は存在しないというもの。
この句の「三尺の山」とは、きわめて低い山のたとえであるという「解釈」がほとんどである。

それは上五の「三尺の」の「の」を、比喩に用いられる格助詞としているからだろう。
そこから、「三尺しかないような低い山も」という「解釈」を導きだしている。

そこで、古文の格助詞「の」について調べてみると、「比喩」の働きをもつ格助詞「の」は、用言を修飾する連用修飾語になるとのこと。
ところが、「三尺の」に続く「山」は体言(名詞)である。
この句に用言は無い。
体言と助詞だけでできた句なのである。

もしかしたら芭蕉は、「山」の前につけるべき「低い」とか「小さい」とかの形容詞を省略して、「三尺の」でその省略した形容詞を修飾したのだろうか。
とすれば「山も」の「も」は、強意を示す係助詞の「も」であろうか。

高い山は風当たりが強いので、嵐の影響を強く受けるのは当然のこと。
このたびは、三尺しかないような低い山でも、まあ嵐の影響で木の葉がすっかり散ってしまっている。
それだけ今回の嵐は強烈だった。
というような。
だが、それではあまりにもそのまんま過ぎる。

私は、違うイメージを感じている。
「三尺の山」は義仲寺の庭に存在したのではあるまいか。
三尺の石灯籠があるように、三尺の作られた山があったのではないか。

無名庵が建っている義仲寺の庭にある「三尺の山」。
「三尺」という身近な寸法を山につけることで、「三尺の山」が人工の山であることを暗に示しているように思われる。

天気の良い日は美しい庭園だったが、嵐のせいで落ち葉に埋もれてしまった。
芭蕉は、人工の庭と自然の脅威を対比させて、そこに無常観を漂わせているのではないだろうか。

「の」が連続する掲句は、軽快な感じである。
と同時に、自然の脅威のスピード感をもあらわしているように私には感じられる。
脅威のスピードが美しい庭を破壊して、折れた枝と落葉の残骸だらけの無残な姿に「山」を変えてしまった。

芭蕉が、「三尺の山」の庭園に感じたのは、無常迅速であったのかもしれない。

この年から四年後の元禄七年十月十二日、芭蕉は大坂(大阪)にて病没。
十月十四日に、この義仲寺で葬儀が行われ、境内に埋葬された。

インターネットで、義仲寺にある芭蕉の墓を探せば、墓の写真は容易に見ることができる。
三角の形をした墓石が印象的である。


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2018/10/08

津軽半島中泊町の「不動の滝」への遊歩道が、土砂崩れのために通行不能だった

【滝ノ沢ふるさと砂防ランドの看板。】


私の知っている限りでは、津軽半島にふたつの「不動の滝」がある。
五所川原市飯詰の「不動の滝・不動滝」。
中泊町中里の「不動の滝」。

「不動の滝・不動滝」という名の滝は、全国に多くあるらしい。
ご近所では、岩手県八幡平市にある「不動の滝」。
昔の修験者の道場だったと伝えられている。
滝の左岸に不動明王が安置されているという。

全国の「不動の滝・不動滝」も、不動明王がその名の由来になっている滝が多いとのこと。
かつての「行場(ぎょうば)」だった滝が多いとか。
はたして、津軽半島の「不動の滝・不動滝」はどうなのだろう。
津軽山地を闊歩した修験者の滝だったのだろうか。
【※行場とは、修験道の修行道場】

今日は愛犬の散歩がてら、中里の「不動の滝」見物にでかけた。
が、残念ながら滝の手前100メートルぐらいのところで土砂崩れが発生していた。
そのため、遊歩道が通行不能になっていた。

狭いV字峡谷の奥にある滝なので、滝に近づくほど谷は険しくなっている。
そのせいで、滝に近づくほど土砂崩れの痕跡が目立っている。

この谷は、土砂崩れが常に発生しているような地形である。
こんな場所に遊歩道を作って観光客を呼び込んでよいものだろうかと、私的には心配になるような峡谷である。

ところどころに「落石危険」の看板が立っている。
「転落危険」の看板も見える。

遊歩道入口の看板には、「危険箇所もあるので、自己責任で行動して下さい」というような意味合いの注意書きが記されている。
たしかに命がけの修験者なら「自己責任」で通じると思うが、老若男女の観光客ではどうなのだろう。

遊歩道は、スタートから行程の三分の一ちょっとは、「深谷沢」の右岸に設けられている。
途中で沢を越えてから遊歩道は沢の左岸に替わる。

道が左岸に替わったあたりから谷が急峻になる。
沢から15メートルぐらい上がった山肌についている遊歩道を歩くことになる。
「深谷沢」は中里川の支流(枝沢)で、この沢の名が谷の険しさを示している。

幅1メートルぐらいの平坦な遊歩道は、よく整備されている。
滝までは、1kmちょっとで、片道徒歩20分~30分の行程である。

よく整備された遊歩道ではあるが、行程のあちこちに土砂崩れの痕跡がある。
大雨の翌日などの入山は、やめたほうが良いと思う。

「不動の滝」への遊歩道入口周辺は、「滝ノ沢ふるさと砂防愛ランド」という親水公園になっている。
小規模ながら、キャンプ場もある。

ホタルの名所になっていて、夏には中泊町主催の「ホタルまつり」が開催されているとか。
ここでホタルを見たら楽しいだろうなという雰囲気漂う「森のやぐら」もある。

訪れる人があまりいないのか、親水エリアである「せせらぎ広場」は雑草に埋もれていた。
大都市の近くにこんな場所があったら賑わうのだろうが、津軽半島の山の中じゃ遊びに来る人も少ないのだろう。

でも、静寂を求めるキャンパーには最高かもしれない。
そういえば津軽半島には、静寂を求めるキャンパー向けのキャンプ場がたくさんある。


【案內看板。】


【「森のやぐら」。】


【「森のやぐら」を見上げる。】


【「森のやぐら」の通路兼ベランダ?】


【「森のやぐら」のステージから通路を撮る。】


【「滝ノ沢ふるさと砂防愛ランド」の管理棟。】


【炊事棟。写真の右側がテントサイト。】


【青森ヒバの木の枝に猿くん。】


【「ホタルの一生」の看板。】


【「不動の滝」の案內看板。】


【堰堤の下の芝生広場。】


【「不動の滝」遊歩道の入口。】


【遊歩道の様子。距離表示看板はこまめに立っている。】


【土砂崩れで通行不能。残念そうに下を見下ろす愛犬。】


【樹間からちょっぴり滝が見える。その滝を撮ったはずだが、この写真では見えない。下手くそ(自分)。】