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支考の雑談のような句「いま一俵買おうか春の雪」 

「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか(著 大輪靖宏)」に「芭蕉を受け継ぐ弟子たち」というタイトルで、主だった門人の紹介文が記されている。
その中に短いが、各務支考の紹介文もある。

「各務支考(かがみ しこう)(1665~1731)は芭蕉没後、美濃派を起こして蕉風の普及に努めた人で、著書も多い。」(「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか」より引用)

芭蕉は1644年生まれだから、1665年生まれの支考は芭蕉より二十一歳若いことになる。
この芭蕉と支考の関係が面白い。

芭蕉と支考がどのようにして知り合ったのか。
いつごろ支考は蕉門に加わったのか。
私には、それを明らかにする術はない。

芭蕉と行動した支考の記録 ただ「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」から、芭蕉と支考の接点を探るしかない。
下記に、「芭蕉年譜大成」を参照して、芭蕉とともに行動した支考の記録をまとめてみた。
(緑色)は、私の独り言。

●【元禄三年冬】芭蕉が京都滞在中に六吟歌仙を興行。
「連衆」の中に支考の名がある。
「芭蕉年譜大成」では、これが「連衆」としての支考の初登場。
(おそらく支考の蕉門入門はこの年と思われる。)
この六吟歌仙に、中村文邦や向井去来も参加している。
(※「連衆」とは、連歌や連句を共同制作するために集まるメンバーのこと。)

●【元禄四年八月十四日】大津で待宵の会。支考も同席。

●【同年年八月十五日】木曾塚草庵(無名庵)で月見の会。
支考も同席。

●【同年八月中旬】膳所連衆による八吟歌仙。
「連衆」として盤子(支考)の名がある。

●【同年八月十八日】支考らと石山寺詣で。
同日、瀬田川で舟遊び。

●【同年九月三日】膳所連衆による十二吟歌仙。
「連衆」に盤子(支考)の名がある。

●【同年十月中旬】江戸に向かっている芭蕉・桃隣主従に、遅れて発った支考が熱田で合流。
熱田滞在中、梅人亭で催された九吟一巡興行の「連衆」に支考の名がある。

●【同年十月中下旬】三河新城(しんしろ)で十二吟歌仙。
「連衆」に支考の名がある。
別席での十二吟歌仙にも支考は参加している。

●【同年十一月】江戸の山口素堂亭での忘年句会に支考も参席。
(これまでの行動記録から、支考は江戸まで芭蕉に同行していたと推測される。)

●【元禄五年一月二十三日】水田正秀宛書簡に、「爰元(ここもと)盤子・桃隣一所に越年(えつねん)」とある。
(芭蕉の江戸帰着に同行した支考は、そのまま芭蕉とと…

この冬はじめての雪かき

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朝起きたら、クルマに30センチぐらいの積雪。
家の前の駐車場も、たっぷりの白い雪。
なので、この冬初の雪かきとなった。

天気予報は、強い冬型の気圧配置になると言っていたが、そのわりには寒くない。
雪かきをすると、地面と接している部分の雪は融けかかっている。
ここのところ暖かい日が続いたので、地面の温度はまだ低くない。
その地面に着地した雪は融ける。

でも、降っている雪の量が多いので、融けるのが積もるのに追いつけない。
積もる雪は、ゆうゆうと融ける雪を追い越してザンザカ降り積もる。
その結果の今朝の積雪である。

積雪の底の雪は、融けて水っぽくて重い。
積雪の上層の雪は、スコップやスノーダンプの底にくっついて離れず、雪かきがやりにくい。
パウダーなのだが、スキーの底にくっつく嫌なパウダーである。
おそらく、雪かきがやりにくい雪質は、スキー滑降にとっても面倒な雪である。

私が雪かきをしていると、愛犬が家のなかで騒ぐ。
ワンワン吠えて、ピーピー泣く。
私が雪と遊んでいると思っているのだ。
自分(愛犬のことね)をほったらかしにして、白いもの(雪のことね)で遊んでいる。

近所迷惑なので、雪かきを途中にしたまま愛犬の散歩に出かける。




公園の植え込みには、ドウダンツツジの紅葉がまだ残っていて、白い雪に映えている。
紅葉した赤い葉が、いっそう鮮やかである。 下の写真のドウダンツツジは、夏の頃にヤブガラシにおおわれてゴチャゴチャになっていた植栽。
それが、ヤブガラシも枯れてなくなり、スッキリして、いい感じになっている。 雪対策のため、荒縄でしばられて窮屈そうだが、ヤブガラシまみれよりはいいでしょう。
ドウダンツツジは、ヤブガラシにからまれない冬のあいだ、上空の開放感を楽しんでいる。
ほんまかいな。 この重い頭の雪は・・・ 気にしない気にしない。




おや、ノラネコくんも健在だ。 この冬も、ここで越年するのですね。 ふてぶてしいひと睨みに、愛犬はうつむいてばかり。
ご立派ご立派とブツブツ言いながら、足早に遠ざかる愛犬。
ノラネコくんにエサをやっているオバハンがいるんやでえ、と私。
せやろ、そうでなきゃ生きていかれへんわ、と愛犬。
それにしても、ようこえとるわ、と私。
そのオバハンに、よっぽどええもん食わしてもろてはるんやろ、と愛犬。
そんなこといいな、うちでなんも食わしたらんみたいやんか…

芭蕉のさわやかな一句「田や麦や中にも夏はほととぎす」

「曾良書留」にある芭蕉句 元禄二年四月三日に、「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行(芭蕉と曾良)は那須黒羽の余瀬(よぜ)に到達。
四月四日に、黒羽大関藩家老浄法寺図書(じょうほうじ ずしょ)に招かれ、四月十日まで浄法寺宅に滞在したと「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」にある。 「曾良随行日記」には、四月六日より九日まで雨止まずと記されてある。
梅雨時だったと思われる。
下記の句は、四月七日の作。
田や麦や中にも夏はほととぎす 松尾芭蕉
この句は「おくのほそ道」には載っていない。 「曾良書留(俳諧書留)」に記された芭蕉の句である。
時期的に水田の稲は緑が濃くなりだし、麦畑の麦は赤みがかった黄色になりかけている頃の作。 稲や麦が成熟に向かって、変化していく季節。 夏から秋にかけて実りをむかえ、収穫され脱穀されて、食料となっていく。 稲や麦は、そういう農家の労働の対象としてある。
そして農家の労働は、人の命の糧を産み出す尊い仕事である。

「田や麦や」句文 下の文章は、この句の前におかれた句文の一部。

「苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

「粒々にからきめ」とは「粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)のことであろう。 「粒粒辛苦」とは、米や麦の一粒一粒は、農民の苦労と努力の結果実ったものであるという意味。 唐の詩人「李紳(りしん)」の「憫農(のうをあわれむ)」が出典となっているとのこと。
芭蕉はそれを踏まえて「粒々にからきめ」と言ったのだろう。
「粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく」は、「農民の苦労と努力をまのあたりにして」という意味かと思われる。
句文を現代語にした私の「訳文」は以下の通り。

「(稲の)苗は緑色、麦の穂は赤みがかった黄になってきた。米や麦の一粒一粒につらい思いをする農民の働きも間近に目にする。まったく(農家の人たちは)春秋の趣や月雪の景色以外、今は夏の初めであるから、(忙しくて)名勝地ひとつすら見ることができない。(そういう農民の苦労を見て私は)、ただ言葉をのみ込んで、黙って筆を置くだけであったなあ。」

農民と芭蕉との対比 「田や麦や」とは、人にとって無くてはならない食料を生産する場所である…

芭蕉の縄文的発想「猪もともに吹かるゝ野分かな」

幻住庵記 元禄三年四月六日から七月二十三日まで、芭蕉は大津にある国分山の幻住庵に滞在した。そのとき、俳文「幻住庵記」を書いている。

「幻住庵記」は何度も改稿が試みられ、八月中旬にようやく最終稿が完成。
最終調整の後、蕉門の発句・連句集である「猿蓑」にて公表された。
その「幻住庵記」に猪(イノシシ)についての記載がある。

「昼は稀々(まれまれ)とぶらふ人々に心を動かし、あるは宮守(みやもり)の翁(おきな)、里のをのこども入り来たりて、ゐのししの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我(わが)聞きしらぬ農談、」(「芭蕉年譜大成」より「幻住庵記」の一部を引用)

「日中はごくまれに訪ねてくる人たちに興味をおぼえた。あるときは、神社の番をしているご老人がみえた。あるときは、村里の男たちが訪ねてきた。イノシシが稲を食い荒らしたり、兎が豆畑にやってくるなど、私が聞いたことのない農業の話を(していく)」

芭蕉は琵琶湖の南側にある幻住庵で三ヶ月半の閉居生活をおくったが、たまに訪れる地元の人達と雑談を交わすこともあったようである。
その話のなかで、稲を食い荒らしたというイノシシの話に興味をおぼえたのだろう。

猪の句 この「幻住庵記」の最終稿は、芭蕉が幻住庵を引き払って大津滞在中(義仲寺?)に完成。
そのころ、琵琶湖西岸にある堅田本福寺の住職三上千那(みかみ せんな)に書簡をおくっている。
その書簡にイノシシを詠んだ下記の句を添えている。

(いのしし)もともに吹かるゝ野分(のわき)かな
松尾芭蕉

元禄三年八月四日の作と「芭蕉年譜大成」にある。
この句は「幻住庵記」にあるようなイノシシの「食害」の句ではない。
この句の感想を述べる前に、野生動物の「食害」についてちょっと書いておこう。

山村部におけるイノシシやツキノワグマ、カモシカやサルの「食害」は現代でもよく聞く話。
「幻住庵記」には、里の男たちの話として、イノシシやノウサギの「食害」のことも書かれている。
これを読めば、野生動物の「食害」が江戸時代からあったことがうかがわれる。
でもそれは、江戸時代どころか、もっと以前からあったと考えられる。
農耕文化が始まった弥生時代から野生動物の「食害」はあったと思われる。

野生動物の「食害」は弥生時代から 話はちょっとそれるが、以前読んだ『「森の思想」が人類を救う』という梅原猛氏の講演集に「環境破壊」に…

蕪村のリアルな視線「五月雨や滄海を衝く濁水」

蕪村の五月雨の句 与謝蕪村の有名な五月雨(さみだれ)の句に、「五月雨や大河を前に家二軒」がある。
私は、この句に詩的なイメージよりも現実的な恐怖感のほうを強く感じてしまう。
それは、この句を読むと近年に発生した西日本の集中豪雨のことを思い出してしまうからだ。

蕪村は、そういう恐怖や不安を詩に描いたのかもしれない。
強大な自然の営みと、弱々しくて儚い人間の営みとの対比。
そこから独自の詩情を描き出そうとしている蕪村の視線が感じられる。
大雨が降ると氾濫してしまいそうな大河。
そして、その大河のそばを離れない家族のドラマも垣間見える。

五月雨や滄海(あおうみ)を衝(つく)濁水(にごりみず)
与謝蕪村

掲句は、青々と広がっている海面に、大雨による川の濁流が怒涛のように流れ込んでいる光景を詠んだ句である。
「衝(つく)」という語や「濁水」が、その流れの激しさを物語っている。
実際にその場にのぞめば、身震いが起きそうな荒々しい光景である。

私は「五月雨や大河を前に家二軒」にある「家二軒」の儚い存在感が気になるが、「五月雨や滄海を衝く濁水」の「滄海を衝く濁水」の色彩感覚にも惹かれる。

永遠の繰り返し 川の水が、山から里へと長い距離を流れるあいだに増水し、濁流となって広い海に流れ込むという空間の広がり。
それと同時に、穏やかだった川面が時を経るに従って盛り上がり、スピードをあげて海面に衝突するという時間の変化も感じられる。

この蕪村の句は、花鳥風月や山紫水明の雅の世界を詠んだ歌や俳諧とは対局をなすものである。
この句は、もっと根源的な自然の営みを詠っているように思われる。

海の水分が蒸発して雲になり、その雲が山の上空で雨を降らせ、雨が川の水となって流れて海にもどる。
そういう時間の流れを、蕪村は目に見える光景(空間)の背後に描こうとしたのではないだろうか。
掲句には、自然における永遠の繰り返しを感じさせるものがある。
それは、蕪村の他の句にも感じられる。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」とか「菜の花や月は東に日は西に」とかの句に、自然は永遠に繰り返し続けるというようなイメージが潜んでいるように思われる。

自然を旅の同伴者とした芭蕉 芭蕉の五月雨の句として有名なものに「五月雨をあつめて早し最上川」という句がある。
「おくのほそ道」の旅で、山形の最上川を詠んだ句である。
折からの梅雨で…

初雪や水仙の葉のたわむまで

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青森市の初雪 朝起きて窓の外を眺めたら、一面の白い雪。
私にとっては、今朝の雪が初雪で初積雪。 青森地方気象台によると、昨夜の9時前に青森市に初雪が降ったという。 その頃はお疲れで、めずらしく早く床に入っていたから初雪は見ていない。 今年の青森市の初雪は、平年より16日遅く、去年よりも6日遅いという。
平年よりも温暖な晩秋の結果である。

ともあれ、今朝の雪が、私が目撃した2018年の青森市での初雪と初積雪。
初雪といえば、芭蕉にはいくつかの初雪の句がある。
以下の句は、遅い初雪の年に作られた一句。

貞享三年の江戸の初雪
初雪や水仙の葉のたわむまで
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」によれば貞享三年十二月十八日の作とされている。
この日は新暦の一月三十一日に当たるという。
江戸であっても、一月末に初雪とはかなり遅い。
掲句と同日に作られた句と推察される「初雪や幸ひ庵にまかりある」の前書きを、芭蕉は以下のように書いている。

「我が草の戸の初雪見んと、余所にありても空だに曇り侍れば、急ぎ帰ることあまたたびなりけるに、師走中の八日、はじめて雪降りけるよろこび」(芭蕉年譜大成より引用)

「私の暮らしている庵で初雪を見ようと、外出していても空が雪雲で暗くなると、急いで帰宅することが何度もあるなかで、師走の中旬の八日目(十二月十八日)、ついに初雪が降った喜び(を句に詠んだ)」

芭蕉は、やっと初雪が降ったのを喜び「初雪や幸ひ庵にまかりある」に次いで「初雪や水仙の葉のたわむまで」と詠んだ。
芭蕉四十三歳のときである。

さりげない日常を平易な言葉で 貞享三年は、春に芭蕉庵において、蛙の句二十番句合が興行された年。
松尾芭蕉の句として世間に知れ渡った「古池や蛙飛びこむ水の音」が生まれた年である。
その年の冬に、芭蕉は初雪と水仙の句を詠んだ。
「古池や・・・」と掲句、どちらも平易な言葉でさりげない日常の光景を詠んだ句である。

水仙の別名は雪中花。
水仙の花は、冬から春にかけて咲くという。
青森市では水仙が咲くのは、春の雪どけのころであるが、東京地方では真冬に水仙が開花する。
新宿御苑の日本水仙(ニホンズイセン)の見頃の時期は十二月上旬から二月上旬ごろだとされている。

とすれば、芭蕉が水仙の葉に積もった初雪を見たときは、水仙の花が咲いていたことだろう。
「初雪や水仙の」の「水仙」は「水仙の花…

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

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「大和(やまと)の國に行脚(あんぎゃ)して、葛下(かつげ)の郡(こほり)竹の内と云(いふ)處に(は)、彼(かの)ちり(千里)が旧里(ふるさと)なれば、日ごろとゞまりて足を休む。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

「大和の国に旅を進め、葛下の郡、竹の内という所に着いた。ここは、同行者の千里(ちり)の故郷なので何日かの間とどまって旅の足を休めた。」

大和竹内村に数日滞在 芭蕉は伊賀上野から、同行者の生まれ故郷である「竹の内(竹内村)」に向かう。
「竹の内」では、苗村千里の実家もしくは庄屋の家に数日滞在したと思われる。
伊賀から「竹の内」までは名張街道を経由して行ったのだろうか。
行程の記載はない。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく
松尾芭蕉

『天理本「野ざらし紀行」』には、句の前書きとして「やぶよりおくに家有。」とある。
「わた弓」とは、綿打ち弓のことで、弓の形をした綿打ち道具。
綿の繊維をほぐすために、弓の弦を指ではじいて使うとのこと。
綿を打つときに琵琶のような音色がするという。

竹林で琵琶の音を聞く 『天理本「野ざらし紀行」』にある「やぶよりおくに家有。」の「家」は、芭蕉が滞在した家なのだろう。
竹やぶの奥の芭蕉の宿からさらに奥に農家があって、その農家で綿打ちの作業をしている。
清々しい竹の間を通って聞こえてくる綿打ち弓の音が、琵琶の音色のようで心が休まることだというイメージの句。

風でざわめいている竹林の中を貫いて響いてくる風雅な音に、芭蕉はしばらく耳を傾けたことだろう。

「実」から「虚」へ 兄や姉妹、親類縁者が暮らす「実」の地である伊賀上野を離れ、芭蕉はまた「虚」の世界の旅人となった。
こうして旅の宿に身をおいていると、綿打ち弓の音さえ琵琶の音色に聞こえてくる。
この宿では竹林が、芭蕉の「虚」の世界を「実」の世界から隔てているようである。

竹林に集まって酒宴をひらき、清談を行い、琴や琵琶で音楽を楽しんだという中国の「竹林の七賢」の伝説もある。
芭蕉は竹林に、風雅な世界を囲い込むバリアーのようなものを感じていたのかもしれない。

「野晒紀行」に書かれていない竹内村のこと 「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」によると、芭蕉は「竹の内」の里の長(おさ・庄屋?)にあたる人物に、「竹の奥」と題した俳文と掲句を書いて「蕉散人桃青」と署名し押印した懐紙を贈っている。
その人物は油屋喜衛門とい…

芭蕉の帰郷「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

「野晒紀行」は紀行文ではなくて「俳文集」 「野晒紀行」は、「てふ」の茶店のあと、唐突に「閑人(かんじん)の茅舎(ぼうしゃ)をとひて」という話(文章)に続く。

芭蕉は、俗世間を離れてゆったりと暮らしている人物の草庵を訪ねる。
その草庵がどこにあって、どういう人物が暮らしているのかについての記載はない。
「蔦植ゑて竹四五本の嵐哉」と一句あるだけである。
そしてこの「閑人の茅舎」から一足飛びに故郷に帰り着く。

ここまで「野晒紀行」を読んできて、私同様多くの読者は「はて?」と思ったことだろう。
はたしてこれは「紀行文」なのだろうか?と。

「紀行文」ないし「紀行」とは、旅行中の行動・人との出会い・見聞・感想などを、旅の足どりを追って書き記した文章のこと。
「野晒紀行」で記されている文章のほとんどは、発句の「前書き」であり、発句に添付された「説明文」である。

以前「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句のことを記事にしたとき、「野晒紀行」の名称について触れたことがあった。
「野晒紀行」は、芭蕉の命名では無いと書いたのだった。

とすれば、この「野晒紀行」は、紀行文として芭蕉が上梓したものではない可能性が大きい。
後世の人々によって「野晒紀行」と名付けられはしたものの、実は芭蕉の「旅の発句と俳文を集めたもの」なのではないだろうか。

こう考えると、それぞれの発句に添付された文章が、旅の時間の流れにたいして唐突であることが納得できる。
芭蕉の職業は俳諧師である。
芭蕉はいつでもどこでも句を詠まなくてはならない。
また、句を詠むことができなくてはならない。

旅のなかで俳諧のことを考え、思いついた句を書きとめる。
そして、その句にふさわしい文章を書きとめる。
おそらく、こうしてできた「吟行」の成果をまとめたものが、後世の人々に「野晒紀行」と命名されたのだろう。
私は、そう考えている。

亡き母の墓参りのための帰郷 さて、「野晒紀行」での、故郷の伊賀上野に到着した際の文章は以下の通り。

「長月(ながつき)の初(はじめ)、故郷に歸りて、北堂の萱草(くわんさう)も霜枯果(しもがれはて)て、今は跡だになし。何事も昔に替(かは)りて、はらからの鬢(びん)白く、眉(まゆ)雛(皺)寄(より)て、只(ただ)命有(あり)とてのみ云(いひ)て言葉はなきに、このかみの守袋(まもりぶくろ)をほどきて、母の白髪(しらが)お(…

此梅に牛も初音と鳴きつべし

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若き日の芭蕉は、西山宗因の「江戸俳壇」への台頭とともに、宗因風(談林俳諧)の影響を強く受け、宗因風に傾倒したとされている。
そして、延宝三年ごろ、芭蕉は談林俳諧流行の波に乗って活発な俳諧活動を展開したと「芭蕉年譜大成」にある。
まだ深川村の草庵に隠棲する前の芭蕉は、「江戸中屈指の俳諧点者」※に登りつめていたという。

ではそのころの、宗因風に傾倒したという芭蕉の句。
言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風がみられる芭蕉の句とは、どんなものであったのだろう。

(この)梅に牛も初音と鳴きつべし

延宝四年春、芭蕉三十三歳のときの句。
「芭蕉年譜大成」によれば、掲句は芭蕉が友人の山口素堂と両吟で天満宮奉納二百韻を興行した際の発句とされている。
深川の草庵(芭蕉庵)に入庵する前の作なので、芭蕉は「桃青」の俳号を用いている。

「此梅に」とは湯島天神(湯島天満宮)の境内に咲いている「ここの梅に」というニュアンスと、「この美しい梅に」というニュアンスが含まれているように思われる。

天満宮といえば、菅原道真公を祀っている神社。
その天満宮には、梅が植えられて牛の象がおかれている。

開花期と初音がほぼ同時期であるから、和歌では梅に鶯というのが定番であるが、芭蕉は天満宮の梅に置物の牛を取り合わせた。

「初音と」の「と」は、「・・・のように」という比喩の格助詞。
「鳴きつべし」の「つべし」は、「つ(確述の助動詞)」+「べし(推量の助動詞)」で「きっと・・・だろう」の意。

あまりにも天満宮の梅が美しいので、置物の牛さえも初音のように、きっと鳴声をあげることだろう。
という滑稽諧謔な場面を、芭蕉は作りあげた。
生きた牛が鶯の初音のように鳴いても面白いが、置物の牛が鳴くのだからなおさら面白い。

掲句の場面自体は滑稽であるが、梅の美しさは損なわれてはいない。
むしろ梅の美しさを、よりいっそう引き立てているような芭蕉の滑稽句である。
ただの言葉遊びではなく、滑稽句のなかにうまく美を組み込んでいるという印象の句である。

「牛も」の「も」は「・・・さえも」という類推の係助詞。
と同時に「もー」という牛の鳴声に掛けているように思われる。
これを言語遊戯性と言えなくもない。

それと、句全体に自然なリズムが感じられるのは、句のなかの語の韻のせいではあるまいか。
「梅」と「牛」の…

宗因の諧謔「ながむとて花にもいたし頸の骨」

前回の記事で西山宗因のことについてちょっと触れた。
宗因は、延宝期(1670年代)を中心に流行した宗因風(談林俳諧)の創始者。
しかし、宗因風の言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風が次第にマンネリ化して、宗因の死を契機に宗因風俳諧は衰退したとされている。

では、その宗因風の言語遊戯性や滑稽諧謔とはいかなるものであったか。
以下は、宗因作の有名な句である。

ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
西山宗因

この句は一幽という俳号で、万治元年刊の「牛飼」(燕石撰)や、寛文六年刊の「俳諧独吟集」(重徳撰)に収められている。【「貞門俳諧の諸問題」(中村俊定)より】

美しい桜の花を、よく見ようと思って眺めていたら首の骨が痛くなったというイメージの句である。
桜の花を愛でるという風雅と、首を傾けて上を見続けた結果首を痛めてしまった滑稽さの取り合わせが軽妙なユーモア(諧謔)を生んでいる。
落語のネタにでもなりそうな皮肉な句であるが、この句にはパロディ(言語遊戯性)も備わっている。

西行に「眺むとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」という歌がある。
新古今和歌集に収録された歌である。
「ただ眺めているだけと思っても、眺めているあいだにも桜の花に非常に慣れ親しんだので、今となっては花が散って花と別れることが悲しいことになってしまった」というイメージの歌である。

西山宗因はこの西行の歌をもじって「散る別れこそ悲しかりけれ」という風雅な詠嘆を「いたし頸の骨」とまぬけな失態に変えてしまった。
西行の短歌の五・七の部分を借用し、「いたく(甚く)」という語を「いたし(痛し)」ともじったのである。

この西行の歌を知らない読者でも「ながむとて花にもいたし頸の骨」はけっこう笑える。
さらに、この句が西行の歌のパロディであると知っている読者は、笑いつつ、イメージの転換の巧みさに感心する。
「さすが宗因」とうなずく。
これが宗因風(談林俳諧)の真骨頂であるとされている。

延宝期に全盛を誇ったとされる宗因風(談林俳諧)に芭蕉(当時は桃青)は心酔したという。(芭蕉年譜大成による)

【桃青もまた宗因との一座を機にこれに心酔し、その波に乗って活発な俳諧活動を展開する。延宝三年頃からは門人もでき、「坐興庵」を称して点者生活に入り、次第に一門の勢力も増して、延宝末年には江戸…

芭蕉の香り「蘭の香やてふの翅にたき物す」

蘭の香の句「其(その)日のかへさ。ある茶店に立寄(たちより)けるに、てふと云(いひ)けるをんな、あが名に發句せよと云(いひ)て、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)侍る。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

芭蕉一行は、西行谷からの帰りに、とある茶店に立ち寄る。
その茶店の「てふ」という名の女性が、白い絹の布を出して、「私の名前が入った句を詠んで下さい」と芭蕉に頼んだ。 そこで芭蕉は、その布に詠んだ句を書き付けた。
蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す
「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」には、掲句に「校注」が付いている。
その「校注」によると、この挿話は西山宗因の物語にならったものであるらしい。
服部土芳の「三冊子(赤冊子)」に、そう記されてあるとのこと。
西山宗因のエピソード 西山宗因は江戸前期の連歌師で俳人。
宗因は、自由・斬新な作風の宗因風(談林俳諧)を展開して、若い日の芭蕉もそれに学んだとのこと。
しかし宗因風俳諧は、その言語遊戯性や滑稽諧謔の作風が次第にマンネリ化し、天和二年三月の宗因の死を境に冷え込んでいった。(芭蕉年譜大成による) 宗因風の衰退の後、あらたな試みとしての芭蕉の蕉風が注目されることとなった。

三冊子によると、宗因が伊勢神宮への参宮の際に立ち寄った茶店があった。
宗因はその茶店の女将に「つる」という彼女の名前を入れた句を詠んでくれるように頼まれたという。
そこで宗因は、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」という句を作って、茶店の女将に贈った。

蕉風の香りの翼 芭蕉の「蘭の香やてふの翅にたき物す」は、この宗因のエピソードに模して作られた句であるらしい。
もしかしたら、芭蕉が立ち寄ったという茶店での「てふ」との出会いは、宗因の物語に模した芭蕉のフィクションであるのかもしれない。

そう考えると「蘭の香」は、芭蕉の香りのことではないかと思えてくる。
「たき物」とは薫物の意で、香をたいてその香りを衣服などにしみこませること。
その昔は宗因風(談林俳諧)が羽ばたいていたが、今では蕉風の香りを染み込ませた翼が自由に飛び回っているというイメージではあるまいか。

「出立のころにはすでに宗因風からも模索期の天和調からも脱皮して、芭蕉の目には明白な新境地が見えていた。旅中作には天和調の破調句そのたの残滓が若干影をとどめるが、宗因風以来の、滑稽諧謔のための複雑な言語遊戯技巧と過剰な当…

梅が香や砂利しき流す谷の奥 

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インターネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」で「猿蓑(さるみの)俳句鑑賞(著:伊東月草 古今書院 昭和十五年出版)」を見ていたら服部土芳の句に出会った。

梅が香や砂利(じゃり)しき流す谷の奥 
服部土芳

インターネットで調べると、服部土芳(はっとり とほう)は、松尾芭蕉と同郷で伊賀上野の俳人。
芭蕉の後輩にあたり、伊賀蕉門の中心人物として活躍したという。
土芳は、有名な俳論書である「三冊子(さんぞうし)」を著したことでも知られている。
「三冊子」は、芭蕉の俳論を伝える貴重な資料となっている。

句の前書きに「庭興」とある。
「庭興」とは、庭の味わいとか、庭の面白みとかの意味であろう。

「砂利しき流す谷」とあるので、「枯山水」という様式の日本庭園を詠ったものと思われる。
白い玉砂利を敷き詰め、その中に灰色などの色をもった石をポツポツと配置する。
そんな水の流れを模した小さな谷が思い浮かぶ。

砂利を敷いて川の流れを表現した谷の奥から、梅の香りが漂っているというイメージである。
春の日の静寂な一角を切り取ったような句である。

掲句は、蕉門の句集である「猿蓑」の、「巻之四 春」に収められている。
「巻之四 春」は、十五句目まで梅を題材にとった句が続く。
土芳の句は、その四番目。
四番目に、爽やかな梅の風がそよいだという印象の句である。

伊東月草は、掲句を評して「現在の私達の俳句観からいふと、いかにもお誂へ向に過ぎる境致で、大して迫力を感じないが、」と述べている。
ここで使われている「境致」とは、禅宗における伽藍や庭園の作庭法のことと思われる。
「俳句観がお誂え向きの境致」という文脈から考えると、この「境致」は「境地」の誤植ではないかと私は思っている。
「俳句観がお誂え向き」とは、日本庭園の風流・風雅を重んじるということが、当時の俳諧師の心情としてあったということなのだろう。

しかし私は、梅の香りと無機質な砂利の谷を設定し、その奥を感じる心は、日本庭園の風流・風雅を重んじる心情だけではないような気がしている。
この句には、様々な対比が感じられる。

梅と石。
季節の動きと、静止した築庭。
春の躍動感と、過ぎた冬の寂寞感。
生命の活動と、生命の活動がない物質。 ぬくもりと、血の通っていない冷たさ。
華やかな雰囲気と、無表情。
生と死。

梅と石から様々なイメージが湧くので…

イモカタバミとベニカタバミの見分け方

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アップルヒルの緑地に咲いていた花 この記事にある写真は、10月21日に「道の駅なみおか アップルヒル」の緑地で撮ったもの。
葉が3小葉からなる複葉でカタバミに似ているので、写真を撮ったときはムラサキカタバミではないかと思っていた。
それが今日、「日本の野草(山と渓谷社)」で調べてみたら、この花はムラサキカタバミではなかった。 この花の葯(やく)は、上の写真の通り黄色である。 葯とは、雄しべの先っぽの花粉の入った袋のこと。 だが、ムラサキカタバミの葯は白色。
それに、ムラサキカタバミの花の中心部(雄しべや雌しべが集まっている部分)は、こんなに濃い紫色ではない。 ムラサキカタバミの花の中心部は、「日本の野草」の写真を見ると淡い黄緑色になっている。


イモカタバミ この花をムラサキカタバミと見間違えるほどだから、写真の花はカタバミの仲間であることは間違いない。 そこで、インターネットの野草サイトをいろいろ見て回ったら、この花はイモカタバミというカタバミ科の植物だった。

ところが、このイモカタバミにそっくりなカタバミがある。 そのそっくりさんは、ベニカタバミというカタバミ科の野草。 ベニカタバミの葉は花弁よりも小さくて光沢がある。 葉の柄が短いので、ベニカタバミの葉は地を這うようにして広がっている。
一方イモカタバミの葉は、この記事にある写真の通り、花弁と同じぐらいに大きい。 それに葉の柄も長いので、花びらにせまるように葉が生い茂っている。
「イモ」と「ベニ」の見分け方 以下に、イモカタバミとベニカタバミの見分け方をまとめておこう。
花の形 ●イモカタバミ:やや細長い。 ■ベニカタバミ:やや丸みを帯びる。
小葉の形 ●イモカタバミ:はっきりした倒心形。 ■ベニカタバミ:切れ込みの浅い倒心形。
葉の大きさ ●イモカタバミ:花弁と同じぐらい大きい。 ■ベニカタバミ:花弁より小さい。
葉のツヤ ●イモカタバミ:ない。 ■ベニカタバミ:ある。
葉柄(ようへい) ●イモカタバミ:葉がひょろひょろと伸びるぐらい長い。 ■ベニカタバミ:葉が地に接するぐらい短い
自分で二期作 イモカタバミの花期は4月から6月。 暑い夏は、半休眠し葉も枯れて地下部だけが残るという。 そして涼しくなった秋頃からまた咲き始め、12月まで咲いているものもあるという。
そういえば、青森市の新中央埠頭緑地のミヤコグサも雪が降る頃まで…

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

西行谷 芭蕉は、西行が晩年に庵を結んだとされている西行谷を訪れる。
【「芭蕉紀行文集 中村俊定校注」(岩波文庫)】によれば、西行谷は、神路山(かみぢやま)の南にある谷とのこと。
神路山は、伊勢神宮内宮の南方の山域の総称である。

「野晒紀行」には以下の文がある。

「西行谷(さいぎゃうだに)の麓(ふもと)に流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

西行谷の麓に沢が流れ込んでいる。
芭蕉は、その沢で芋を洗っている女たちを見かけた。

芋を洗う女
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

女たちが芋を洗っている光景を見て、西行なら、この風情を歌に詠むことだろう。 さて、どんな歌を詠むことだろうなあ。 というような、西行谷を訪れた芭蕉が、敬愛する西行に対して詠んだ挨拶句なのではと感じたが。
ところが、この句をもうちょっと読み込んでみると、また違うイメージが湧いてくる。
「芋洗ふ女」を見て、西行が「芋洗ふ女」の歌を詠む格別な所以がないのである。
西行は、桜の歌人として広く知られている。
しかし、「仕事に励む女」を題材にして多くの歌を詠んだという西行の話はほとんど聞かない。

だからといって、「芋洗ふ女」の歌を詠むはずがないとは言えないのだが・・・

「芋洗ふ女」は女の子か? 西行が晩年に、子どもの遊びを詠った「たはぶれ歌」と称されている十三首の歌が「聞書集(ききがきしゅう)」にあるという。
芭蕉が西行谷で目撃した「芋洗ふ女」が家事を手伝う女の子たちということも考えられなくもない。
でも、「野晒紀行」に、「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とある。
「をんな」は成人した女性の意なので、「女の子」は無理かな・・・

そこをあえて「芋洗ふ女」の「女」を「をみな」と読めば、「をみな」は若い女性ということになる。
若い女性のなかには女の子も含まれるのではあるまいか。

芭蕉が見た女の子たちは、わらべ唄なんかを歌いながら手伝い仕事をしていた。
遊びながら家の手伝いをしている女の子たちを見て、芭蕉は、西行なら「たはぶれ歌」を詠んだことだろうなあと思い、それを「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」と句にした。

でも「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とあるから、無理かなあ・・・

それでは、いったい誰が歌を詠むのだろう?

「谷」を省略? 今まで「野晒紀行」で字余りの句を三句…

駿河から伊勢神宮へ「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

大井川の川越 芭蕉一行は大井川にさしかかる。
富士川は舟に乗っての川越(かわごし)だった。
一方大井川は、馬や人足を利用しての川越になる。
雨が降り続いて川が増水すると、旅人は何日も川留(かわどめ)の憂き目をみる。
芭蕉と千里(ちり)の一行も、雨のために足が止まったようである。
「野晒紀行」には、「大井川越(こゆ)る日は、終日(ひねもす)雨降(ふり)ければ、」とある。
芭蕉はこの文の後に同行者千里(ちり)の句を置いた。
「秋の日の雨江戸に指おらん大井川(ちり)」

「江戸に指おらん」の「に」は、場所をあらわす格助詞の「に」。
「指おらん」の「ん」は、推量をあらわす助動詞「む」の変形の「ん」。
「江戸に指おらん」は、江戸では指を折って数えていることだろうというような「意味」かと思われる。

この秋の長雨は、江戸にも降っているだろうか。 江戸では、旅立ってからの日数を指折り数えて、芭蕉がどのあたりを歩いているか話題になっていることだろう。 だが、私達は東海道の難所であるこの大井川をまだ越せないでいる。 という句のイメージと思われる。
しかし、「秋の日の雨江戸に指おらん大井川」は指折り数えると字余りの句である。
富士川での芭蕉の句「猿を聞人捨子に秋の風いかに」も、字余りの句。 両方とも沈んだ句調となっている。

説明的な字余り句 旅の出発に際しては、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とか「秋十とせ却って江戸を指す故郷」とか名調子で詠いあげていたのに。
捨て子に出会ってから、ちょっと説明的な字余り句になった。
そのせいか、イメージの広がりが乏しくなってしまったように思われる。

千里(ちり)の句の後は、「馬上吟(ばじょうのぎん)」と前書きされた芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句が続く。
この句は前出の句と違って、リズミカルである。
でも、この句をそのまま鑑賞すれば、ちょっと状況説明的であり、イメージの広がりを感じ取るには難しい。

「イメージの広がり愛好者」の私としては、ちょっと物足りない句である。

杜牧の「早行」を演じる 「道のべの」の句の後に、芭蕉の紀行文が続く。

「廿日餘(あまり)の月かすかに見えて、山の根際(ねぎわ)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚(おどろ)く。」芭…

逢魔ヶ時の川景色

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愛犬が川のほうへ行きたいというので、街外れの川岸まで散歩した。
川岸といってもコンクリート護岸されていて、その護岸に接している土手道を歩いたのだが。

夕方の混雑したスーパーの前を通り、信号を越えて、西日を浴びたクリーニング店の横から住宅街に入る。

30分ぐらい、アパートや住宅が立ち並ぶ小路を歩くと、広い原っぱに出る。
この原っぱが、昔の河川敷であったらしい。
草深い原っぱの一本道の向こうに、こじんまりと築かれた堤防がある。




堤防の上からは、川の上流方向に、山頂付近が黒い雪雲に覆われた高い山が見えた。
川の源流のひとつは、この山の中腹あたりを流れている。

その流れがここまで届くのに、どれぐらいの時間がかかるのだろう。
そう思って川面を見下ろすと、四羽の鴨が列を組んで泳いでいる。
今夜のねぐらをさがして、さまよっているのだ。

ふいに「鴨の放浪家族」という言葉が思い浮かんだ。
なぜか、そういうふうに見えたのだ。

すると、あの鴨たちは人間の放浪家族が魔法をかけられて鴨の姿になったのでは、と思えてきた。
そう考えたら、人間の親子以外のなにものでもないように見える。
暗くなりかけた川面を不安げに寄り添って泳いでいる。
妙になつかしい気がした。

かつて私もそうだったような郷愁が、私の脳裏をよぎった。
ひょっとしたら私は、放浪の鴨が魔法をかけられて人間の姿になったのではないか。




愛犬は、そんな私の感傷におかまいなし。
堤防の端の草むらの匂いを嗅いでいる。

堤防道路の上流側から、小さな犬を連れた女性が歩いてくる。
むこうさんも、愛犬の散歩のようである。

背の高い女性で、ロングドレスをなびかせている。
まるで洋館住まいのような、お上品なおスタイル。

女性が、大きな口を開いて「こんにちは」と声をかけてきた。
暗くなりかけているが、「こんばんわ」にはまだ早い。
黄昏、またの呼び名は逢魔ヶ時(おうまがとき)である。

私の愛犬は知らん顔をして、道端の草を食べている。
「いつもこちらをお散歩ですか?」と目を光らせて興味深げな女性。
長い道を歩いてきて、ようやく人に出会ったという感じだ。
「いや、うちの犬が、たまたまこっちに来たものだから」と私。

「えっ」と女性はびっくりした様子。
ちょっと大仰な身振りであった。
「それじゃあなたは、ワンちゃんについて来たの?」と女性。
「そうですよ、犬の散歩…

猿を聞人捨子に秋の風いかに

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富士川の捨て子 東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。
富士川付近からも富士山を望見できるのだが、「富士を見ぬ日(江戸離れ)」を目指した旅なので、芭蕉はもう富士には触れない。

以下は、「野晒紀行」の富士川について書かれた文である。

「富士川のほとりを行(ゆく)に、三(み)つ計(ばかり)なる捨子(すてご)の、哀氣(あはれげ)に泣有(なくあり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計(ばかり)の命待(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげてとをるに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

次に、私の現代語訳。
「富士川の辺りを進んでいると、三歳ぐらいの捨て子が悲しそうに泣いているのに出会った。富士川の急流を渡るのに比べると、浮世の荒波を渡るのはむずかしい。露のようなはかない命が消えるのを待つ間もないと捨て置かれたのであろう。小萩の根本に捨て置かれて秋の風が冷たく吹いている。捨て子は小萩の花のように今夜に散るかもしれない、明日にはしおれるだろうと思われ、袂から食物を出して捨て子の方へ投げて通るけれども、」

富士川を長江に模して
猿を聞人(きくひと)捨子(すてご)に秋の風いかに

中国の長江で、川の両岸の猿が悲しげに鳴いているなかを、舟がまたたくまに急流を下ったという漢詩を連想させるような挿話と発句である。
その漢詩は「白帝城(はくていじょう)」と題された李白の作。
日本三大急流のひとつである富士川の急流を、芭蕉は長江の急流に模したのだろう。
掲句の「猿を聞人」とは、猿の鳴き声を聞きながら長江を舟で下った李白のことと思われる。
猿の鳴き声ならばいかに悲しそうでも、これを聞き流してそのまま船で下ることが出来る。
だが、寒い秋風に晒されている捨て子の泣き声だったら、どうして船で通り過ぎることができようか。
というイメージなのではと私は感じている。

捨て子に説教 掲句の後に次の文章が続く。

「いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「どうしてそんなに…

芭蕉の江戸離れの句「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

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西行の富士の歌 「西行物語」によれば、西行は陸奥への旅の途中、東海道を東に進みながら駿河国で「風になびく富士のけふりの空にきえてゆくえも知らぬ我思ひかな」と詠んでいる。
その敬愛する西行の五百回忌の年に、芭蕉が奥州・北陸の地を行脚したのが「おくのほそ道」の旅だったが、それは「野晒紀行」の旅から五年後のこと。

「野晒紀行」の旅で芭蕉は、西行とは逆に東海道を西に進み、箱根の関にさしかかる。
箱根あたりで芭蕉は、西行の富士の歌を思い浮かべていたかもしれない。
ところが、あいにく箱根は雨降りで、周囲の山は雲に隠れて見えない。
箱根からは、雄大な富士山を望むことができたのに。
そこで芭蕉は見えない富士山を句に詠んだ。

見えない富士の句
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
松尾芭蕉

「関越ゆる日は雨降りて、山みな雲に隠れたり」という句の前文が「野晒紀行」に書かれている。
富士山は歌枕の地である。
古来より多くの歌人たちが、富士を歌に詠んでいる。

芭蕉は、富士山が雲に隠れて見えないのなら、見えない富士を句にするのも面白いと思ったのかもしれない。
そして、それをそのまま句に詠んだのである。

箱根から雄大な富士の姿を眺めることができれば、それは旅の大きな励みになる。
上方の人々への、旅の土産話にもなる。

「初度の文学行脚※」の途上で雄大な富士の姿を望見できないことはとても残念なこと。
だがそれを「口惜しや」とか「無念なり」とか句に詠んだら、マイナス志向になる。
「野晒紀行」の旅は、不吉な言葉である「野ざらし」を掲げながらも、それを打ち消していく旅である。
それは、マイナス志向を打ち消していく旅でもある。
【※初度の文学行脚:「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」より引用。】

「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句で、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の暗雲を打ち消した。 霧と時雨の箱根では、雲に隠れて富士が見えないというマイナスを、打ち消してプラスに変えなければならない。
「秋晴れに富士」という絵に描いたような風景美よりも、むしろ「霧しぐれ」に隠れた見えない富士を描いた方が、「却って」面白いと芭蕉は思ったのではあるまいか。
西行は、富士山の噴煙が空にあがって消えていく様を「わが思ひ」と詠んだ。
芭蕉は、視界から消えた富士を「面白き※」と詠んだのである。
【※「面白き」の「き」は過去をあらわす助動詞の「き」ではなく、…

秋十とせ却って江戸を指す故郷

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「野晒紀行」の旅 「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」の貞享元年のページには、以下の記述がある。
「貞享元年八月、芭蕉は初度の文学行脚に旅立つ。以後、生涯を終えるまでの十年の歳月の間に通計四年九箇月を旅に暮らす境涯に入る。」

この「初度の文学行脚」で芭蕉は、俳諧紀行文「野晒(のざらし)紀行」を著している。
芭蕉が「野晒紀行」の旅へ出発したのは、貞享元年八月の中旬頃とされている。
「旅人と我が名呼ばれん」という思いを、この頃すでに抱いていたのではあるまいか。

「野晒紀行」の旅の行程の概略は、以下の通り。
江戸深川から東海道経由で伊勢→伊賀上野→大和北葛城郡竹内村→吉野→山城・近江路→美濃大垣→桑名→熱田→名古屋→伊賀再訪(越年)→奈良→京都→伏見→大津→水口→桑名再訪→熱田再訪→鳴海→甲斐→甲州街道経由で江戸帰着(貞享二年四月末頃)。

旅の同行者は、門人の苗村千里(なえむら ちり)。
芭蕉はこの旅で多くの土地を訪問し、多くの知己を得たとされている。
結果的に「蕉門」の地盤を築く旅になったのである。

芭蕉の年齢は、四十一歳から四十二歳の頃。
季節は、秋から翌年の初夏まで。
日数は、約八ヶ月半。

俳諧紀行文「野晒紀行」 「野晒紀行」の書き出しは、「千里に旅立(たびだち)、路糧(みちかて)をつゝまず、三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)に入(いる)と云(いひ)けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享(ぢようきょう)甲子(きのえね)秋八月江上の破屋をいづる程(ほど)、風の聲そゞろ寒氣也」となっている。
芭蕉の俳諧紀行文の第一作が、この「野晒紀行」である。

以下は、私の下手な現代語訳。
「旅の携帯食を持たずに、千里の長い旅に出る。子の刻の月の下では、無我の境地に至ると言われている。そういう昔の人の言葉をよりどころにして、貞享“きのえね”の年の秋八月、川のほとりの草庵を出るにつれて、風の音がなんとなく寒々と聞こえる。」

「江上の破屋」とは、旅の詩人としての「風狂」的なイメージを、深川の芭蕉庵にかぶせようとしたのだろう。
「風の聲そゞろ寒氣也」は「この旅は困難なものになるであろう」という芭蕉の心境を吐露したもののように思われる。

この書き出しの後、芭蕉は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とつぶやく。
それは、劇を演じる旅人の台詞のようである。
この句を詠むことによって、芭蕉は旅の舞台に立ったの…

手を打てば木魂に明くる夏の月

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木魂信仰 「木魂(こだま)」は、森のなかの木に宿る精霊。
遠い昔には、そう言われていたという。
山や谷で大きな声を出すと、その声が遠くからかえってくるように聞こえる現象はこの「木魂」という精霊のしわざであると信じられていた。

その信仰は、樹木に神様が宿っているという自然崇拝や山岳信仰につながるものであったのだろう。

「木魂」が反響音であると江戸時代には、解明されていたかどうか。
たとえ解明されていたとしても、江戸時代の人々は現代人よりも「木魂」に対して神秘的なイメージや「信仰心」を抱いていたのではあるまいか。

句文集「嵯峨日記」の句手を打てば木魂に明る夏の月
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」には、元禄四年四月二十三日の作と記されている。
上方漂泊中の芭蕉が、向井去来の別荘である落柿舎に滞在していたときの句である。
四月二十三日は「終日来客なし。」であったという。

落柿舎は京の嵯峨野にあった。
嵯峨野の西側には小倉山があり、北側に愛宕山がある。
南側は嵐山である。
「芭蕉年譜大成」によれば、芭蕉は落柿舎に元禄四年四月十八日より五月四日まで滞在し、「嵯峨日記」を著した。

落柿舎で独り住まいを楽しんだ芭蕉 岩波文庫「芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記」を読むと、廿三日の日付の箇所に掲句が収まっている。
芭蕉は「獨住(ひとりすむ)ほどおもしろきはなし」と書いて、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなう」という「隠棲者」の言葉を引用している。
孤独を楽しんでいたようだが、凡兆夫妻や史邦、丈艸、乙州、それに曾良と訪問客も多かったようである。

孤独を楽しみ、来客も楽しみ、芭蕉は落柿舎でゆったりとした時間を過ごした。
そんな日々のなかで、掲句は終日来客がなかった日の発句である。
そのせいか、独り住まいの清々しさが伝わってくるような句であると感じた。

明け方の清らか嵯峨野のイメージ 「明くる夏の月」とは夏の残月のことだろうか。
未明に目覚めて、誰か人がいるような気配を夢うつつに感じる。
芭蕉は横になったまま手を叩いてみたが、誰も返事をしない。
森閑とした嵯峨野におられるのは、「木魂」という精霊だけ。
その精霊が、芭蕉の手の音に応えている。
やがて夜が明けはじめ、夏の残月が精霊の気配とともに、朝日に消えかかる。
私は掲句にそんなイメージを感じた。

二十三夜の月待信仰 掲句が二十三日…

上林暁の「野」を読んだ感想

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「野」についての、宮本輝氏の読後感想 本棚を整理していたら、二十年ぐらい前に読んだ「本をつんだ小舟(文藝春秋)」という本が奥のほうから出てきた。
この本の著者は、宮本輝氏。
「本をつんだ小舟」は、宮本輝氏の中学時代から高校時代にかけての読書歴をまとめたエッセー集である。

「本をつんだ小舟」をめくると、【上林暁(かんばやし あかつき)「野」】というページが目にはいった。
そうだ、思い出した。
二十年ぐらい前に「本をつんだ小舟」を読んだとき、この「野」という小説を読んでみようと思ったのだった。

いつのまにか、すっかり忘れていた。

宮本輝氏は「野」について、【いい小説を味わいたいと思う人は、ぜひ「野」を初めから終わりまで精読してもらいたいものである。】と述べておられる。

家の周辺にある「野」の散策物語 そこでいろいろ調べて、市内の書店から上林暁の「聖ヨハネ病院にて/大懺悔(講談社文芸文庫)」という文庫本を取り寄せた。
文庫本なのに価格が1,500円(税別)とは、ずいぶん高いんじゃねーかと思いながら。
「野」はこの短編集の二作目にあった。

「野」は「二年ばかり前のこと、薄い靄のかかった或る晩秋の日の午後、私は或る郊外電車のG駅へ通ずる広いバス道路を歩いていた。」という文章で始まる。
ひとつのセンテンスのなかに「或る」がふたつも続けてあるのがちょっとくどいなと思ったが、この「くどさ」が「野」の微妙な味付けになっている。

「私」という主人公が暮らしている家の周辺に広がる「野」。
おそらく舞台は東京都(旧東京市?)の武蔵野あたりと思われる。
小説「野」は、その「野」を散策する物語であると、わたし(ブログ管理人のことね)は感じた。

主人公の境遇 まず、「私(小説の主人公のことね)」とは、いかなる人物か。
それを小説の文章からひろってみると以下のようになる。
「敗残の身を持て余し、生きているとも思われない日々を過ごしている」「日々の食事も乏しく」「からだは病み」「文学への希望は報われず」「あばらや同然の家の中に、親子五人が生活とも言えない生活を営んでいる」
(2)の後に、「朝飯二杯、昼飯二杯、夕飯三杯ときめて」とか。
(5)の前に、「畳は破れ、襖には穴があき」とある。
こういうところが、わたしには「くどさ」であり、微妙な味わいに感じられるのだ。
「敗残」なのに、ちょっとユーモラスでもある。

小滝の森でナメコ採り

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きのうの日曜日は仕事だったので、きょうは代休をとって、ことし初のキノコ採りにでかけた。
毎年キノコ採りハイキングに出かけている「小滝の森」。 お天気にめぐまれて、気分のいい一日を過ごすことができた。
収穫は、ナメコが少々。 サモダシ(ナラタケ)は、大きくそだったものが黒く腐っている。 そんな状態のものがほとんどで、私の行く森では、ナラタケは発生終了のようである。
ナメコも、傘が開ききったものが腐っているのをたくさん見かけた。 同時に、ナメコの幼菌も、まだ発生している。 ナメコの収穫は、もうちょっと期待できそうである。

ツキヨタケ(毒)は終了したのか、姿をみかけなかった。
ツキヨタケが終了しそうなころに出てくるムキタケ(食)も幼菌しかみかけなかった。
猛毒のドクツルタケの白い姿は皆無。

毎年毎年、キノコの出方には変化がある。
毒キノコも食菌も、豊作の年もあれば不作の年もある。
今年はナメコが豊作と聞いたが、私はその恩恵に授かっていない。
八甲田山麓の紅葉は、そろそろ終わりかけ。 色づいた葉が枯れはじめて、散る準備をしている。
初冠雪の話はまだない。
でも、山は寒波来襲とともに初冠雪・初雪の時期。 雪が降る前の森のにぎわいは紅葉だが、キノコは隠れたにぎわい。
その隠れたキノコを見つけ出して採るのだから、キノコ採りは宝さがしに似ている。
楽しい遊びだが、キノコ採りは山岳遭難や食中毒の危険をともなう遊びでもある。

そんな危険をクリアして、今年もキノコ採りを楽しむことができた。
キノコ採りは、自身の判断力と体力を確認する遊びである。

いわば、キノコ探しは自分探し。
今年も元気な自分を見つけることができた。
それは、大豊作。
いえいえ、少し過大評価。




















地に倒れ根に寄り花の別れかな

「劇的な句」とは 芭蕉の追悼句のなかで「劇的な句」と言えば、「塚も動け我泣声は秋の風」があげられる。
私の知るかぎりでは、こんなに激情をあらわにした芭蕉の句は他に見あたらない。

私が言う「劇的な句」とは、芭蕉が激しい感情をあらわにして詠いあげた句のこと。
あたかももうひとりの芭蕉が、ヤマ場の舞台で台詞を発するように。
そういうシーンを思い起こさせる句のことである。

「塚も動け我泣声は秋の風」の句では、自身の「劇」のなかへ観客を誘い込み、その「劇」のなかで芭蕉は亡き友の面影をよみがえらせようとしたのではあるまいか。

現実には登場しえない故人を、芭蕉の「劇」のなかに「我泣声」を発するもうひとりの芭蕉とともに登場させたのである。

伝えるための「劇的な句」 舞台上での感情過多な台詞は、芝居をみている観客に劇の内容を鮮明に伝えるために必要である。
舞台を間近でみている観客は、その迫力に圧倒される。

芭蕉は、自身の悲愁を門人以外の者にも広く伝えるために「劇的な句」を詠んだのであろう。
伝えることで、死者は芭蕉の「舞台」の上でよみがえる。

亡き担堂和尚のための追悼句地に倒れ根に寄り花の別れかな
松尾芭蕉

貞享三年の春の句であると「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」では推定されている。
前書きに「坦堂和尚を悼み奉る」とある。
知人の死に対する追悼の句である。

地に倒れたのは芭蕉か? この句にある「地に倒れ」たのは、芭蕉なのだろうか。
悲しみのあまり、地面に倒れ伏す芭蕉。
倒れたまま、桜の木の根元に寄りすがる。
これもまた「劇的」なシーンである。

知人の死を悼むように花びらが散っている。
故人は、花を愛した俳諧師であったのだろう。
その花が、ひらひらと散っている様は、故人との別れを惜しんでいるようである。
そういう情景を芭蕉は演じようとしたのだろうか。

地に倒れたのは担堂和尚か? また、「地に倒れ」たのは、担堂和尚であるようにも受けとれる。
旅に死すというイメージである。
旅の途次で病が高じてか、担堂和尚は地面に倒れ伏す。
傍らで桜の花が咲いている。
せめて桜の花の下で死のうと、木の根元へ身を寄せる旅人。
やがて、花に包まれた旅人の亡骸が、桜の下で発見される。
そういう「劇」も思い浮かぶ。
芭蕉もまた「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「劇」的に宣言した旅人なのである。

担堂和尚の死を、地に落ちた花…

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