2018/12/09

支考の雑談のような句「いま一俵買おうか春の雪」 

「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか(著 大輪靖宏)」に「芭蕉を受け継ぐ弟子たち」というタイトルで、主だった門人の紹介文が記されている。
その中に短いが、各務支考の紹介文もある。

「各務支考(かがみ しこう)(1665~1731)は芭蕉没後、美濃派を起こして蕉風の普及に努めた人で、著書も多い。」(「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか」より引用)

芭蕉は1644年生まれだから、1665年生まれの支考は芭蕉より二十一歳若いことになる。
この芭蕉と支考の関係が面白い。

芭蕉と支考がどのようにして知り合ったのか。
いつごろ支考は蕉門に加わったのか。
私には、それを明らかにする術はない。


芭蕉と行動した支考の記録

ただ「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」から、芭蕉と支考の接点を探るしかない。
下記に、「芭蕉年譜大成」を参照して、芭蕉とともに行動した支考の記録をまとめてみた。
(緑色)は、私の独り言。

●【元禄三年冬】芭蕉が京都滞在中に六吟歌仙を興行。
「連衆」の中に支考の名がある。
「芭蕉年譜大成」では、これが「連衆」としての支考の初登場。
(おそらく支考の蕉門入門はこの年と思われる。)
この六吟歌仙に、中村文邦や向井去来も参加している。
(※「連衆」とは、連歌や連句を共同制作するために集まるメンバーのこと。)

●【元禄四年八月十四日】大津で待宵の会。支考も同席。

●【同年年八月十五日】木曾塚草庵(無名庵)で月見の会。
支考も同席。

●【同年八月中旬】膳所連衆による八吟歌仙。
「連衆」として盤子(支考)の名がある。

●【同年八月十八日】支考らと石山寺詣で。
同日、瀬田川で舟遊び。

●【同年九月三日】膳所連衆による十二吟歌仙。
「連衆」に盤子(支考)の名がある。

●【同年十月中旬】江戸に向かっている芭蕉・桃隣主従に、遅れて発った支考が熱田で合流。
熱田滞在中、梅人亭で催された九吟一巡興行の「連衆」に支考の名がある。

●【同年十月中下旬】三河新城(しんしろ)で十二吟歌仙。
「連衆」に支考の名がある。
別席での十二吟歌仙にも支考は参加している。

●【同年十一月】江戸の山口素堂亭での忘年句会に支考も参席。
(これまでの行動記録から、支考は江戸まで芭蕉に同行していたと推測される。)

●【元禄五年一月二十三日】水田正秀宛書簡に、「爰元(ここもと)盤子・桃隣一所に越年(えつねん)」とある。
(芭蕉の江戸帰着に同行した支考は、そのまま芭蕉とともに江戸日本橋彦右衛門方に滞在したようである。)

●【同年一月下旬】支考と両吟歌仙を巻く、とある。

●【同年年二月八日】芭蕉は近藤左吉(呂丸)宛て書簡で、奥州行脚に赴く支考を呂丸に紹介。
(芭蕉の親心かな。)
「風雅も少し相(あい)心得候」(と支考を評価している。)
(※呂丸は、山形羽黒山麓の手向村在住の染物屋。)

●【同年二月十日】支考奥州行脚の餞別句会。
芭蕉・其角その他十一人同席とある。

●【同年五月七日】去来へ書簡を執筆。
(その手紙の最後に、支考の「行状」について触れている。)

●【同年六月中下旬】支考、奥羽行脚を終えて江戸帰着。
第三次芭蕉庵を訪問。

去来宛て書簡に支考の「悪口?」

下記が、元禄五年五月七日に、芭蕉が京都の向井去来(むかい きょらい)に宛てた書簡の支考に関する部分である。
その長い書簡の最後の方で、芭蕉は支考の「行状」に対する「苦情?」を述べている。

「盤子は二月初めに奥州へ下り候。いまだ帰り申さず候。こいつは役に立つやつにて御座なく候。其角を初め連衆皆々悪(にく)み立て候へば、是非なく候。尤も投げ節(ぶし)何(なん)とやらをどりなどで、酒さへ呑めば馬鹿尽くし候へば、愚庵気をつめ候事なりがたく候。定めて帰り候はば上(のぼ)り申すべく、其元(そこもと)へ尋ね候も御覚悟に成さるべくと存じ候故、内語(ないご)此(かく)の如くに御座候。史邦へもひそかに御伝へ、沙汰なき様(やう)に御覚悟成さるべく候。」『「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」より引用)

「盤子(ばんし)」は支考の別号。
「投げ節」は、当時遊里を中心に広まった流行歌。
「其角」は、江戸蕉風俳諧の門人である宝井其角(たからい きかく)のこと。
「史邦」は、尾張の蕉風俳諧の門人である中村史邦(なかむら ふみくに)のこと。

この手紙の文を、私なりに現代語にしたものが下記である。

「支考は、二月の初めに奥州へ旅に出ましたが、まだ帰っておりません。こいつは、役立たずであります。其角をはじめ江戸の門人仲間が嫌っているのは無理からぬ事であります。とりわけ投げ節なんとか踊りなどで、酒でも飲めば馬鹿の限りを行っているので、私の住まいでも(私に)気を使うことも致しません。きっと江戸に帰ってくれば、京都へ上がって、あなた(去来)のところへ訪ねていくでしょうから、あらかじめ心構えをしておくべきと思っております。そういうわけで、心の中での話でございます。史邦へもこっそりとお知らせして、問題が起こらないようにあらかじめ心構えをしておくべきでしょう。」

このとき芭蕉は、老年にさしかかった四十九歳。
支考は、青年を終えて中年になりつつある二十八歳。
芭蕉からみれば支考は、息子のような年頃である。

支考は奥州の旅に出てから三ヶ月の間、手紙ひとつよこさない。
芭蕉は、支考が連絡してこないのに腹を立てているようだ。
呂丸宛の紹介状を持たせたのだから、支考は旅の様子を逐一報告すべきだと芭蕉は苛立っているのだ。

芭蕉のユーモア

そして、江戸での支考の「行状」をユーモラスに去来に伝えている。
この手紙は、芭蕉が支考のことをかばっているような文面であると私は思っている。
支考はこういう仕方のない奴だから、そちらを訪ねるようなことがあっても気を悪くしないようにと去来に忠告しているのだ。

「芭蕉年譜大成」の記録によれば、去来と史邦は元禄三年冬の六吟歌仙で支考と出会っている。
そのとき去来は、14歳年下の支考の人となりを見取っていたのではあるまいか。

また其角は、支考の奥州行脚の餞別句会に参加している。
いくらか旅費もカンパしたことだろう。
この餞別句会に十一人も同席したのだから、支考が江戸で嫌われ者だったとは考えにくい。

この去来宛書簡は、かなりの長文である。
最後に芭蕉は、支考のことを冗談交じりに書き添えて、去来を「うふふ」と笑わせたかったのではあるまいか。

雑談のような句

さて、前置きが長くなってしまった。
そういう支考の句のなかで、私が好きな句をひとつ。

いま一俵買おうか春の雪
各務支考

冬が終わって春になりはじめたが、なごり雪が降ったりしてまだ寒い日が続いている。
そんな頃の炭屋の前で、長屋住まいの町人が、もう一俵炭を買おうかどうか客同士で雑談を交わしている様子が思い浮かぶ。

そんな様子が思い浮かぶのは、この句に物語的なものが潜んでいるからではあるまいか。
ひょっとしたらこの句は、「歌仙(俳諧の連歌)」の中の一句かもしれない。
座の文芸である歌仙は、「連衆」が、前の句のイメージをもとにそれぞれの「場面」を描き、それが連なって一つの世界が紡ぎ出される。

支考が描き出した「場面」は、ありふれた庶民の姿である。
表現も井戸端会議の雑談のようで、くだけていてわかりやすい。
であるから私達は、この句にまだ寒い春を実感することができる。

空虚と実体

冬から春先にかけて、三寒四温と言い表されているように、寒暖が繰り返される。
冬でもなく春でもないような気候。
ところで冬や春は、川とか土とか雪とかのような実体を伴った言葉ではない。
季節という、空気のような実体を伴わない言葉である。
それは、空虚といえば空虚。

その空虚さを、様々な実体が発するイメージで描くのが俳諧の一面ではないだろうか。
支考のこの句は「一俵」や「買おうか」や「雪」で、「場面」を肉厚にして、春の物語を醸し出している。

「芭蕉の風雅(著 長谷川櫂)」に支考が書きとめた芭蕉の言葉として次の文が引用されている。
「風狂は其言語をいへり。言語は虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事は難(かた)し。」(支考「陳情の表」)

これは俳諧師が身をおくべき場のことを言っているのではないだろうか。
花鳥風月という、ある意味空虚な季節感のなかに立って、そこから実体のあるものを句の言葉として用いる。
逆に、現実に居座って、花鳥風月の空虚な世界をイメージすることは難しい。
俳諧師は常に空虚ななかに居なければならない。
と芭蕉(支考も)は言っているのではあるまいか。

春という不確かであいまいな時間のなかに居て、「一俵」とか「買おう」とか「雪」とかの実体のある言葉で、支考は「いま一俵買おうか春の雪」という物語をつくっているのだろう。

芭蕉の遺書を代筆

芭蕉は元禄七年十月十二日申の刻に没する。
十月十日の遺書(遺状その二)には、「支考此度(たび)前後の働き驚き、深切(しんせつ)実を尽くされ候。此段(このだん)頼み存じ候。庵の仏は則ち出家の事に候へば遣わし候。」と書かれている。

芭蕉の遺書を代筆したのは、「此段(このだん)頼み存じ候」とこの遺書にある通り支考である。
芭蕉にとって支考は、気の利かない無礼なやつだったが、「風雅も少し相心得」て、充分役に立つやつだったのである。

そして芭蕉は、支考に対する感謝の言葉を支考に書かせた。
死に瀕していて、芭蕉は支考にニヤリと笑いかけたのであろうか。
支考も芭蕉に「ニヤリ」と笑い返したに違いない。
そんな師弟関係を、私は想像している。

2018/12/08

この冬はじめての雪かき

【この冬はじめて、クルマが降雪のため雪に埋まった。】


朝起きたら、クルマに30センチぐらいの積雪。
家の前の駐車場も、たっぷりの白い雪。
なので、この冬初の雪かきとなった。

天気予報は、強い冬型の気圧配置になると言っていたが、そのわりには寒くない。
雪かきをすると、地面と接している部分の雪は融けかかっている。
ここのところ暖かい日が続いたので、地面の温度はまだ低くない。
その地面に着地した雪は融ける。

でも、降っている雪の量が多いので、融けるのが積もるのに追いつけない。
積もる雪は、ゆうゆうと融ける雪を追い越してザンザカ降り積もる。
その結果の今朝の積雪である。

積雪の底の雪は、融けて水っぽくて重い。
積雪の上層の雪は、スコップやスノーダンプの底にくっついて離れず、雪かきがやりにくい。
パウダーなのだが、スキーの底にくっつく嫌なパウダーである。
おそらく、雪かきがやりにくい雪質は、スキー滑降にとっても面倒な雪である。

私が雪かきをしていると、愛犬が家のなかで騒ぐ。
ワンワン吠えて、ピーピー泣く。
私が雪と遊んでいると思っているのだ。
自分(愛犬のことね)をほったらかしにして、白いもの(雪のことね)で遊んでいる。

近所迷惑なので、雪かきを途中にしたまま愛犬の散歩に出かける。


【家の入口付近を雪かき。】


公園の植え込みには、ドウダンツツジの紅葉がまだ残っていて、白い雪に映えている。
紅葉した赤い葉が、いっそう鮮やかである。
下の写真のドウダンツツジは、夏の頃にヤブガラシにおおわれてゴチャゴチャになっていた植栽。

それが、ヤブガラシも枯れてなくなり、スッキリして、いい感じになっている。
雪対策のため、荒縄でしばられて窮屈そうだが、ヤブガラシまみれよりはいいでしょう。

ドウダンツツジは、ヤブガラシにからまれない冬のあいだ、上空の開放感を楽しんでいる。

ほんまかいな。
この重い頭の雪は・・・
気にしない気にしない。


【雪の公園を愛犬と散歩。】


【公園に住みついているノラネコ。雪が降っても健在。】

おや、ノラネコくんも健在だ。
この冬も、ここで越年するのですね。
ふてぶてしいひと睨みに、愛犬はうつむいてばかり。

ご立派ご立派とブツブツ言いながら、足早に遠ざかる愛犬。

ノラネコくんにエサをやっているオバハンがいるんやでえ、と私。

せやろ、そうでなきゃ生きていかれへんわ、と愛犬。

それにしても、ようこえとるわ、と私。

そのオバハンに、よっぽどええもん食わしてもろてはるんやろ、と愛犬。

そんなこといいな、うちでなんも食わしたらんみたいやんか、と私。

感謝してまっせ、と大あくびする愛犬。

雪が積もると、ふだん聞こえない雑談が、どこからともなくヒソヒソと聞こえてくるもんです。


【雪の上に散ったドウダンツツジの紅葉。】

2018/12/06

芭蕉のさわやかな一句「田や麦や中にも夏はほととぎす」

「曾良書留」にある芭蕉句

元禄二年四月三日に、「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行(芭蕉と曾良)は那須黒羽の余瀬(よぜ)に到達。
四月四日に、黒羽大関藩家老浄法寺図書(じょうほうじ ずしょ)に招かれ、四月十日まで浄法寺宅に滞在したと「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」にある。
「曾良随行日記」には、四月六日より九日まで雨止まずと記されてある。
梅雨時だったと思われる。

下記の句は、四月七日の作。

田や麦や中にも夏はほととぎす
松尾芭蕉

この句は「おくのほそ道」には載っていない。
「曾良書留(俳諧書留)」に記された芭蕉の句である。

時期的に水田の稲は緑が濃くなりだし、麦畑の麦は赤みがかった黄色になりかけている頃の作。
稲や麦が成熟に向かって、変化していく季節。
夏から秋にかけて実りをむかえ、収穫され脱穀されて、食料となっていく。
稲や麦は、そういう農家の労働の対象としてある。
そして農家の労働は、人の命の糧を産み出す尊い仕事である。

「田や麦や」句文

下の文章は、この句の前におかれた句文の一部。

「苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。」

「粒々にからきめ」とは「粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)のことであろう。
「粒粒辛苦」とは、米や麦の一粒一粒は、農民の苦労と努力の結果実ったものであるという意味。
唐の詩人「李紳(りしん)」の「憫農(のうをあわれむ)」が出典となっているとのこと。
芭蕉はそれを踏まえて「粒々にからきめ」と言ったのだろう。

「粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく」は、「農民の苦労と努力をまのあたりにして」という意味かと思われる。

句文を現代語にした私の「訳文」は以下の通り。

「(稲の)苗は緑色、麦の穂は赤みがかった黄になってきた。米や麦の一粒一粒につらい思いをする農民の働きも間近に目にする。まったく(農家の人たちは)春秋の趣や月雪の景色以外、今は夏の初めであるから、(忙しくて)名勝地ひとつすら見ることができない。(そういう農民の苦労を見て私は)、ただ言葉をのみ込んで、黙って筆を置くだけであったなあ。」

農民と芭蕉との対比

「田や麦や」とは、人にとって無くてはならない食料を生産する場所である。
また、その生産に携わっている農民をも、「田や麦や」で表しているように思われる。
農民は、水田や麦畑での作業におわれて、行楽地で景色を眺めるなどの人生の楽しみを享受できないでいる。

それにくらべたら私は、夏にやってくる渡り鳥の「ほととぎす」のようなもの。
いろいろな景色を見ながらこの地にやってきた。
鳴きながら旅を続ける「ほととぎす」に、芭蕉は句を作りながら旅を続けている自身を重ねたのだろう。
「田や麦」と「ほととぎす」との対比は、「苦労の絶えない農民」と「漂泊詩人である芭蕉自身」との対比であるように思われる。
「定住するもの」と「流動するもの」との対比。

それはまた、「農業生産に携わる者」と「文化の創造に携わる者」との対比でもある。
夏の田園地帯で、芭蕉はその「取合せ」を見たのだろう。

芭蕉の思いをさわやかな一句にした

「定住するもの」は「流動するもの」の到来を楽しみに待つ。
冬が来れば、春の到来を待ち焦がれ。
ウグイスが鳴けば、「ほととぎす」もと、その声を待ちわびる。

「田や麦」は、収穫され脱穀され食料となっていくなかで、一年中農民についてまわる存在。
そのなかで芭蕉は「夏はほととぎす」なのである。
その地その地で、ひととき人々の気分を潤す鳴声をあげる「ほととぎす」のように、芭蕉は流動する者として、句を作ることで世の中に潤いをもたらしたいと思ったのではあるまいか。
またしても私というトーシロの推測。

それにしても、梅雨時に作ったとは思われないさわやかな一句。
あまり話題にのぼらない句ではあるが、私は名句だと思う。

田や麦や中にも夏はほととぎす



<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/12/01

芭蕉の縄文的発想「猪もともに吹かるゝ野分かな」

幻住庵記

元禄三年四月六日から七月二十三日まで、芭蕉は大津にある国分山の幻住庵に滞在した。そのとき、俳文「幻住庵記」を書いている。

「幻住庵記」は何度も改稿が試みられ、八月中旬にようやく最終稿が完成。
最終調整の後、蕉門の発句・連句集である「猿蓑」にて公表された。
その「幻住庵記」に猪(イノシシ)についての記載がある。

「昼は稀々(まれまれ)とぶらふ人々に心を動かし、あるは宮守(みやもり)の翁(おきな)、里のをのこども入り来たりて、ゐのししの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我(わが)聞きしらぬ農談、」(「芭蕉年譜大成」より「幻住庵記」の一部を引用)

「日中はごくまれに訪ねてくる人たちに興味をおぼえた。あるときは、神社の番をしているご老人がみえた。あるときは、村里の男たちが訪ねてきた。イノシシが稲を食い荒らしたり、兎が豆畑にやってくるなど、私が聞いたことのない農業の話を(していく)」

芭蕉は琵琶湖の南側にある幻住庵で三ヶ月半の閉居生活をおくったが、たまに訪れる地元の人達と雑談を交わすこともあったようである。
その話のなかで、稲を食い荒らしたというイノシシの話に興味をおぼえたのだろう。

猪の句

この「幻住庵記」の最終稿は、芭蕉が幻住庵を引き払って大津滞在中(義仲寺?)に完成。
そのころ、琵琶湖西岸にある堅田本福寺の住職三上千那(みかみ せんな)に書簡をおくっている。
その書簡にイノシシを詠んだ下記の句を添えている。

(いのしし)もともに吹かるゝ野分(のわき)かな
松尾芭蕉

元禄三年八月四日の作と「芭蕉年譜大成」にある。
この句は「幻住庵記」にあるようなイノシシの「食害」の句ではない。
この句の感想を述べる前に、野生動物の「食害」についてちょっと書いておこう。

山村部におけるイノシシやツキノワグマ、カモシカやサルの「食害」は現代でもよく聞く話。
「幻住庵記」には、里の男たちの話として、イノシシやノウサギの「食害」のことも書かれている。
これを読めば、野生動物の「食害」が江戸時代からあったことがうかがわれる。
でもそれは、江戸時代どころか、もっと以前からあったと考えられる。
農耕文化が始まった弥生時代から野生動物の「食害」はあったと思われる。

野生動物の「食害」は弥生時代から

話はちょっとそれるが、以前読んだ『「森の思想」が人類を救う』という梅原猛氏の講演集に「環境破壊」について述べておられる箇所があった。
この本のなかで梅原氏は、「環境破壊」の危機について、「人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して以来、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。」と書いている。

日本では、「縄文時代」と呼ばれている頃は、狩猟(漁撈)採集文化だった。
森の中の植物を採集し、獣や魚を捕獲。
それらを食料にして暮らしていた。
縄文文化は、あるがままの自然を利用して人の暮らしを成り立たせてきた文化だと言われている。

やがて、稲作技術をもった人々が日本にやってきて、平野部の森を開墾し、水田や畑を作った。
現代で「弥生時代」と呼ばれている農耕文化の到来した時期である。

弥生人たちは、縄文人たちがやらなかったことをした。
それは、縄文人たちが神のいる場所として崇めた森を、農作地を作るために破壊したこと。
この農耕文明を基盤にしてできあがった都市文明が、森林破壊をいっそう進めることになったと梅原氏は述べておられる。
その頃から、森のイノシシやノウサギは、田や畑作地に新しい餌場を求めるようになったのだ。

縄文人の自然観

縄文人たちは、森のなかから必要なものだけを頂いて暮らしていた。
それは、自然との共生を目指した暮らし方だと言える。
イノシシやノウサギを捕獲しても、自分たちの食料にする以上の殺戮は行わなかったに違いない。
資源の枯渇に注意を払いつつ自然のもとで生きたのである。
であるから、田畑のない縄文時代には「食害」は存在しなかった。

芭蕉が暮らしていた幻住庵にやってきた人たちは、農家の男たちである。
田畑から収穫をあげることが生活の支えになっている人たちである。
イノシシやノウサギの「食害」は、さぞ頭痛の種であったことだろう。

一方芭蕉は、自然を愛する漂泊詩人であるから、イノシシやノウサギの食害は我聞きしらぬ農談」となる。
だが、まったく無関心ではない。
農民にとっては害獣であるイノシシにたいして、芭蕉は別の想像力を働かせた。
台風(野分)という自然災害に対しては、イノシシも人間もともに被害を受ける存在であるという発想。

芭蕉の縄文的発想

強大な自然の力にたいしては、縄文人と同じように人間は自然の力を神と崇める。
そして、自然の神の前では、野生動物と人間は共存状態にある。
と芭蕉が思ったかどうかは定かではないが・・・

ただ、森の恵みや海の幸を求める旅を続けながら暮らしていた縄文人と、俳諧の新境地を求めながら旅を続けている芭蕉には共通するものがあったのではないだろうか。
大津の農民の、弥生人のような定住性にたいして、縄文人のような芭蕉の流動性。
言ってみれば芭蕉は、縄文人の「DNA」が濃かったのかもしれない。

だから縄文人のように、野分にイノシシとともに吹かれるという発想ができたのではないだろうか。
掲句は、芭蕉の「縄文思想」を詠ったものなのではという風に私は想像をしている。
農耕文明のなかでは、「猪もともに吹かるゝ野分かな」などという有様は考えにくい。

森や田畑を暴風が吹き飛ばし、人家の近くに出没する害獣のイノシシをも一緒に吹き飛ばしたことだろうなあという芭蕉の感慨も感じられるのだが。
「野分」にイノシシが登場するのは唐突である。
森の恩恵を受け、森と共生している生き方への共鳴があるからこそ「猪もともに吹かるゝ」という芭蕉の縄文的自然観が表現されているように思えるのだ。

なお掲句は、九月六日の曲水(在江戸)宛書簡では、「猪のししのともに吹かるる野分哉」と改案されている。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/23

蕪村のリアルな視線「五月雨や滄海を衝く濁水」

蕪村の五月雨の句

与謝蕪村の有名な五月雨(さみだれ)の句に、「五月雨や大河を前に家二軒」がある。
私は、この句に詩的なイメージよりも現実的な恐怖感のほうを強く感じてしまう。
それは、この句を読むと近年に発生した西日本の集中豪雨のことを思い出してしまうからだ。

蕪村は、そういう恐怖や不安を詩に描いたのかもしれない。
強大な自然の営みと、弱々しくて儚い人間の営みとの対比。
そこから独自の詩情を描き出そうとしている蕪村の視線が感じられる。
大雨が降ると氾濫してしまいそうな大河。
そして、その大河のそばを離れない家族のドラマも垣間見える。

五月雨や滄海(あおうみ)を衝(つく)濁水(にごりみず)
与謝蕪村

掲句は、青々と広がっている海面に、大雨による川の濁流が怒涛のように流れ込んでいる光景を詠んだ句である。
「衝(つく)」という語や「濁水」が、その流れの激しさを物語っている。
実際にその場にのぞめば、身震いが起きそうな荒々しい光景である。

私は「五月雨や大河を前に家二軒」にある「家二軒」の儚い存在感が気になるが、「五月雨や滄海を衝く濁水」の「滄海を衝く濁水」の色彩感覚にも惹かれる。

永遠の繰り返し

川の水が、山から里へと長い距離を流れるあいだに増水し、濁流となって広い海に流れ込むという空間の広がり。
それと同時に、穏やかだった川面が時を経るに従って盛り上がり、スピードをあげて海面に衝突するという時間の変化も感じられる。

この蕪村の句は、花鳥風月や山紫水明の雅の世界を詠んだ歌や俳諧とは対局をなすものである。
この句は、もっと根源的な自然の営みを詠っているように思われる。

海の水分が蒸発して雲になり、その雲が山の上空で雨を降らせ、雨が川の水となって流れて海にもどる。
そういう時間の流れを、蕪村は目に見える光景(空間)の背後に描こうとしたのではないだろうか。
掲句には、自然における永遠の繰り返しを感じさせるものがある。
それは、蕪村の他の句にも感じられる。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」とか「菜の花や月は東に日は西に」とかの句に、自然は永遠に繰り返し続けるというようなイメージが潜んでいるように思われる。

自然を旅の同伴者とした芭蕉

芭蕉の五月雨の句として有名なものに「五月雨をあつめて早し最上川」という句がある。
「おくのほそ道」の旅で、山形の最上川を詠んだ句である。
折からの梅雨で増水して、急な流れになった川を舟が下っていくのを見て、「水みなぎって舟危(あやふ)し」と「おくのほそ道」に記している。

あるいはこれは、自身が川舟に乗っているとの想定をもとにして作った句なのだろうか。
川岸から見るよりも、舟に乗って川のなかに身をおいてみると、川の流れを早く感じるものだという。
それはまた、早い川の流れのなかを漂う漂泊感や流浪感のような思いではなかったろうか。

芭蕉の自然の荒々しさを詠んだ句に、「荒海や佐渡に横たふ天の河」「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」がある。
このふたつの句を読んで感じるのは、自然の変転のなかに雄大美を見出して漂泊していく芭蕉の姿である。

自然と同伴者である芭蕉。
その自然へのアプローチの仕方が「荒海や佐渡に横たふ天の河」であり、「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」であり、「五月雨をあつめて早し最上川」であると思えるのだ。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という「おくのほそ道」の冒頭の文章にも、自然(年月)を旅の同伴者としてとらえている芭蕉の思いが表れているように思える。

蕪村の生活思想

一方蕪村は、自然(年月)を、その日その日の出来事とともにリアルに感じとろうとしているように思える。
たとえば「春雨や暮れなんとしてけふもあり」という句。
この句から感じるのは、今日という暮らしの存在感である。
それは観念の世界に流れ込まない現実の、さりげない夕暮れである。
そういう一日一日の繰り返しが「遅き日のつもりて遠きむかしかな」なのだと思う。

「五月雨や滄海を衝く濁水」には、月日の繰り返しに対する蕪村の思いを感じる。
海面に怒涛となって濁水が流れ込む光景は、いちにちかふつかの出来事かもしれない。
だが、この光景の背後には、永遠の「繰り返し」があるという蕪村の自然観が潜んでいると私は感じている。

それは、芭蕉のように自然の同伴者とはなり得ない、生活者蕪村の生活思想に拠っているのではあるまいか。
「滄海を衝く濁水」という畏怖に似た色彩描写が、蕪村のリアルな視線を物語っているようである。
「濁水」とは、雄大な海のなかへ循環していく荒々しい自然の姿。
その繰り返しの道に、蕪村が同伴できる余地はない。

蕪村は荒々しい自然を目の前にすることで、自身を鼓舞しようとしているのだろうか。
芭蕉は、荒々しい自然の中から自身が身を捧げるべき美の世界を見つけ出そうとしているのだろうか。

現実的な蕪村と観念的な芭蕉。
「享保の大飢饉」のなかで青年期をむかえ、「天明の大飢饉」に至る全国的な天候不順のなかで老年期を過ごした生活者蕪村とその視線。
それは、西行や宗祇を倣って漂泊のなかで一生を閉じた放浪詩人である芭蕉の視線を追いつつ、辿り着いた「ものの見方」なのではと私は感じている。

「五月雨や滄海を衝く濁水」という句をもとに、蕪村や芭蕉のことを雑然とながらも、考えてみた次第である。


<関連記事>
蕪村しみじみ

初雪や水仙の葉のたわむまで

【初雪散歩】

青森市の初雪

朝起きて窓の外を眺めたら、一面の白い雪。
私にとっては、今朝の雪が初雪で初積雪。
青森地方気象台によると、昨夜の9時前に青森市に初雪が降ったという。
その頃はお疲れで、めずらしく早く床に入っていたから初雪は見ていない。
今年の青森市の初雪は、平年より16日遅く、去年よりも6日遅いという。
平年よりも温暖な晩秋の結果である。

ともあれ、今朝の雪が、私が目撃した2018年の青森市での初雪と初積雪。
初雪といえば、芭蕉にはいくつかの初雪の句がある。
以下の句は、遅い初雪の年に作られた一句。

貞享三年の江戸の初雪


初雪や水仙の葉のたわむまで
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」によれば貞享三年十二月十八日の作とされている。
この日は新暦の一月三十一日に当たるという。
江戸であっても、一月末に初雪とはかなり遅い。
掲句と同日に作られた句と推察される「初雪や幸ひ庵にまかりある」の前書きを、芭蕉は以下のように書いている。

「我が草の戸の初雪見んと、余所にありても空だに曇り侍れば、急ぎ帰ることあまたたびなりけるに、師走中の八日、はじめて雪降りけるよろこび」(芭蕉年譜大成より引用)

「私の暮らしている庵で初雪を見ようと、外出していても空が雪雲で暗くなると、急いで帰宅することが何度もあるなかで、師走の中旬の八日目(十二月十八日)、ついに初雪が降った喜び(を句に詠んだ)」

芭蕉は、やっと初雪が降ったのを喜び「初雪や幸ひ庵にまかりある」に次いで「初雪や水仙の葉のたわむまで」と詠んだ。
芭蕉四十三歳のときである。

さりげない日常を平易な言葉で

貞享三年は、春に芭蕉庵において、蛙の句二十番句合が興行された年。
松尾芭蕉の句として世間に知れ渡った「古池や蛙飛びこむ水の音」が生まれた年である。
その年の冬に、芭蕉は初雪と水仙の句を詠んだ。
「古池や・・・」と掲句、どちらも平易な言葉でさりげない日常の光景を詠んだ句である。

水仙の別名は雪中花。
水仙の花は、冬から春にかけて咲くという。
青森市では水仙が咲くのは、春の雪どけのころであるが、東京地方では真冬に水仙が開花する。
新宿御苑の日本水仙(ニホンズイセン)の見頃の時期は十二月上旬から二月上旬ごろだとされている。

とすれば、芭蕉が水仙の葉に積もった初雪を見たときは、水仙の花が咲いていたことだろう。
「初雪や水仙の」の「水仙」は「水仙の花」をも表しているのだ。

取り合わせが軽妙

貞享三年は、芭蕉が第二次芭蕉庵で暮らしていた時期。
その冬に、芭蕉庵に初雪が降るのをいまかいまかと楽しみに待っていた芭蕉。
それは、花開いた水仙と初雪との取り合わせを見たかったからではないだろうか。

心配なのは、どっさりと初雪が降っては水仙がつぶれてしまうこと。
その心配が、「急ぎ帰ることあまたたびなりけるに」にあらわれている。
それが、水仙の葉がたわむ程度にうっすらと雪化粧。
花のしたで、緑の葉と白い雪の色の取り合わせが美しい。
まさに、心待ちにしていた初雪が降ったのである。
雪と葉の「たわむまで」という調和と均衡。
その軽妙さ。

さらに、「初雪や水仙の葉のたわむまで」には動きの面白みがある。
時間の推移とともに初雪がとけて緑の葉の上を流れ、雪のかすかな重みにたわんでいた葉がしなやかにもとに戻る。
水仙の花は、そんな時間の経緯をじっと見ている。

初雪や水仙の葉のたわむまで

そしてこの年の最後の句が「月雪とのさばりけらし年の暮れ」。
「月」といえば、「名月や池をめぐりてよもすがら」もこの年の作である。
「月や雪やと、今年は、いろいろな言葉を思いのまま自由にやってきたことだなあ」という芭蕉の、貞享三年の〆の句であるように思われる。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/18

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

【「芭蕉紀行文集」(岩波文庫)より、「竹の奥」俳文と発句】


「大和(やまと)の國に行脚(あんぎゃ)して、葛下(かつげ)の郡(こほり)竹の内と云(いふ)處に(は)、彼(かの)ちり(千里)が旧里(ふるさと)なれば、日ごろとゞまりて足を休む。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

「大和の国に旅を進め、葛下の郡、竹の内という所に着いた。ここは、同行者の千里(ちり)の故郷なので何日かの間とどまって旅の足を休めた。」

大和竹内村に数日滞在

芭蕉は伊賀上野から、同行者の生まれ故郷である「竹の内(竹内村)」に向かう。
「竹の内」では、苗村千里の実家もしくは庄屋の家に数日滞在したと思われる。
伊賀から「竹の内」までは名張街道を経由して行ったのだろうか。
行程の記載はない。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく
松尾芭蕉

『天理本「野ざらし紀行」』には、句の前書きとして「やぶよりおくに家有。」とある。
「わた弓」とは、綿打ち弓のことで、弓の形をした綿打ち道具。
綿の繊維をほぐすために、弓の弦を指ではじいて使うとのこと。
綿を打つときに琵琶のような音色がするという。

竹林で琵琶の音を聞く

『天理本「野ざらし紀行」』にある「やぶよりおくに家有。」「家」は、芭蕉が滞在した家なのだろう。
竹やぶの奥の芭蕉の宿からさらに奥に農家があって、その農家で綿打ちの作業をしている。
清々しい竹の間を通って聞こえてくる綿打ち弓の音が、琵琶の音色のようで心が休まることだというイメージの句。

風でざわめいている竹林の中を貫いて響いてくる風雅な音に、芭蕉はしばらく耳を傾けたことだろう。

「実」から「虚」へ

兄や姉妹、親類縁者が暮らす「実」の地である伊賀上野を離れ、芭蕉はまた「虚」の世界の旅人となった。
こうして旅の宿に身をおいていると、綿打ち弓の音さえ琵琶の音色に聞こえてくる。
この宿では竹林が、芭蕉の「虚」の世界を「実」の世界から隔てているようである。

竹林に集まって酒宴をひらき、清談を行い、琴や琵琶で音楽を楽しんだという中国の「竹林の七賢」の伝説もある。
芭蕉は竹林に、風雅な世界を囲い込むバリアーのようなものを感じていたのかもしれない。

「野晒紀行」に書かれていない竹内村のこと

「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」によると、芭蕉は「竹の内」の里の長(おさ・庄屋?)にあたる人物に、「竹の奥」と題した俳文と掲句を書いて「蕉散人桃青」と署名し押印した懐紙を贈っている。
その人物は油屋喜衛門という名で、芭蕉の俳文は「其里の長也ける人」を称賛する内容になっている。

ということは、「わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく」の句は、里の長である油屋喜衛門への挨拶句で、芭蕉が宿泊したのも油屋喜衛門宅であったのかもしれない。
だが「野晒紀行」には、油屋喜衛門や懐紙についての記載はない。

「芭蕉年譜大成」によると、芭蕉は翌年(貞享二年)の初春にも、伊賀から大和竹内村を再訪している。
よっぽど竹内村が気に入ったようであるが、このことも「野晒紀行」には記載されていない。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/16

芭蕉の帰郷「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

「野晒紀行」は紀行文ではなくて「俳文集」

「野晒紀行」は、「てふ」の茶店のあと、唐突に「閑人(かんじん)の茅舎(ぼうしゃ)をとひて」という話(文章)に続く。

芭蕉は、俗世間を離れてゆったりと暮らしている人物の草庵を訪ねる。
その草庵がどこにあって、どういう人物が暮らしているのかについての記載はない。
「蔦植ゑて竹四五本の嵐哉」と一句あるだけである。
そしてこの「閑人の茅舎」から一足飛びに故郷に帰り着く。

ここまで「野晒紀行」を読んできて、私同様多くの読者は「はて?」と思ったことだろう。
はたしてこれは「紀行文」なのだろうか?と。

2018/11/13

此梅に牛も初音と鳴きつべし

【東都名所「江都名所 湯しま天神社」歌川広重 (国立国会図書館デジタルコレクションより転載)】


若き日の芭蕉は、西山宗因の「江戸俳壇」への台頭とともに、宗因風(談林俳諧)の影響を強く受け、宗因風に傾倒したとされている。
そして、延宝三年ごろ、芭蕉は談林俳諧流行の波に乗って活発な俳諧活動を展開したと「芭蕉年譜大成」にある。
まだ深川村の草庵に隠棲する前の芭蕉は、「江戸中屈指の俳諧点者」に登りつめていたという。

ではそのころの、宗因風に傾倒したという芭蕉の句。
言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風がみられる芭蕉の句とは、どんなものであったのだろう。

(この)梅に牛も初音と鳴きつべし

延宝四年春、芭蕉三十三歳のときの句。
「芭蕉年譜大成」によれば、掲句は芭蕉が友人の山口素堂と両吟で天満宮奉納二百韻を興行した際の発句とされている。
深川の草庵(芭蕉庵)に入庵する前の作なので、芭蕉は「桃青」の俳号を用いている。

「此梅に」とは湯島天神(湯島天満宮)の境内に咲いている「ここの梅に」というニュアンスと、「この美しい梅に」というニュアンスが含まれているように思われる。

天満宮といえば、菅原道真公を祀っている神社。
その天満宮には、梅が植えられて牛の象がおかれている。

開花期と初音がほぼ同時期であるから、和歌では梅に鶯というのが定番であるが、芭蕉は天満宮の梅に置物の牛を取り合わせた。

「初音と」の「と」は、「・・・のように」という比喩の格助詞。
「鳴きつべし」の「つべし」は、「つ(確述の助動詞)」+「べし(推量の助動詞)」で「きっと・・・だろう」の意。

あまりにも天満宮の梅が美しいので、置物の牛さえも初音のように、きっと鳴声をあげることだろう。
という滑稽諧謔な場面を、芭蕉は作りあげた。
生きた牛が鶯の初音のように鳴いても面白いが、置物の牛が鳴くのだからなおさら面白い。

掲句の場面自体は滑稽であるが、梅の美しさは損なわれてはいない。
むしろ梅の美しさを、よりいっそう引き立てているような芭蕉の滑稽句である。
ただの言葉遊びではなく、滑稽句のなかにうまく美を組み込んでいるという印象の句である。

「牛も」の「も」は「・・・さえも」という類推の係助詞。
と同時に「もー」という牛の鳴声に掛けているように思われる。
これを言語遊戯性と言えなくもない。

それと、句全体に自然なリズムが感じられるのは、句のなかの語の韻のせいではあるまいか。
「梅」と「牛」の、「う」音の韻。
「初音」と「鳴きつ」の、「つ」音の韻。
「牛」と「べし」の、「し」音の韻。

こんな風に芭蕉は談林俳諧の流行を追いつつ、「江戸中屈指の俳諧点者」に登りつめる。
しかし、「点取りに狂奔する俳壇大衆とその点料で生活を立てる点者間に演じられる顧客争奪の生存競争」に失望感を抱くようになるのである。

【※「赤文字」は「芭蕉年譜大成」からの引用】


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/12

宗因の諧謔「ながむとて花にもいたし頸の骨」

前回の記事で西山宗因のことについてちょっと触れた。
宗因は、延宝期(1670年代)を中心に流行した宗因風(談林俳諧)の創始者。
しかし、宗因風の言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風が次第にマンネリ化して、宗因の死を契機に宗因風俳諧は衰退したとされている。

では、その宗因風の言語遊戯性や滑稽諧謔とはいかなるものであったか。
以下は、宗因作の有名な句である。

ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
西山宗因

この句は一幽という俳号で、万治元年刊の「牛飼」(燕石撰)や、寛文六年刊の「俳諧独吟集」(重徳撰)に収められている。【「貞門俳諧の諸問題」(中村俊定)より】

美しい桜の花を、よく見ようと思って眺めていたら首の骨が痛くなったというイメージの句である。
桜の花を愛でるという風雅と、首を傾けて上を見続けた結果首を痛めてしまった滑稽さの取り合わせが軽妙なユーモア(諧謔)を生んでいる。
落語のネタにでもなりそうな皮肉な句であるが、この句にはパロディ(言語遊戯性)も備わっている。

西行に「眺むとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」という歌がある。
新古今和歌集に収録された歌である。
「ただ眺めているだけと思っても、眺めているあいだにも桜の花に非常に慣れ親しんだので、今となっては花が散って花と別れることが悲しいことになってしまった」というイメージの歌である。

西山宗因はこの西行の歌をもじって「散る別れこそ悲しかりけれ」という風雅な詠嘆を「いたし頸の骨」とまぬけな失態に変えてしまった。
西行の短歌の五・七の部分を借用し、「いたく(甚く)」という語を「いたし(痛し)」ともじったのである。

この西行の歌を知らない読者でも「ながむとて花にもいたし頸の骨」はけっこう笑える。
さらに、この句が西行の歌のパロディであると知っている読者は、笑いつつ、イメージの転換の巧みさに感心する。
「さすが宗因」とうなずく。
これが宗因風(談林俳諧)の真骨頂であるとされている。

延宝期に全盛を誇ったとされる宗因風(談林俳諧)に芭蕉(当時は桃青)は心酔したという。(芭蕉年譜大成による)

【桃青もまた宗因との一座を機にこれに心酔し、その波に乗って活発な俳諧活動を展開する。延宝三年頃からは門人もでき、「坐興庵」を称して点者生活に入り、次第に一門の勢力も増して、延宝末年には江戸中屈指の俳諧点者に数えられるに至る。】「芭蕉年譜大成:著 今榮蔵」より引用

芭蕉は延宝期に、宗因風のレトリックの習熟に努めたと思われる。
ただ、時を経るに従って、心は別の方を向くようになったのであろう。
芭蕉の高弟である向井去来の「去来抄」には、芭蕉の言として「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と記されているという。

宗因の俳諧から学ぶことが多かったので今の蕉風があると、芭蕉は言っている。
「中興開山」とは、いったん衰えたものを再び盛んにし、新たな作風を切り開いた人物という意味かと思われる。

「貞徳」とは、松永貞徳(まつなが ていとく)のこと。
松永貞徳は「貞門俳諧・貞門派」の祖と呼ばれ、宗因風(談林俳諧)が台頭するまで、その作風が流行したという。
「貞門俳諧」の流行で、俳諧は庶民の文学として普及し、江戸時代の庶民の知的啓蒙に役立ったとされている。

2018/11/11

芭蕉の香り「蘭の香やてふの翅にたき物す」

蘭の香の句

「其(その)日のかへさ。ある茶店に立寄(たちより)けるに、てふと云(いひ)けるをんな、あが名に發句せよと云(いひ)て、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)侍る。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

芭蕉一行は、西行谷からの帰りに、とある茶店に立ち寄る。
その茶店の「てふ」という名の女性が、白い絹の布を出して、「私の名前が入った句を詠んで下さい」と芭蕉に頼んだ。
そこで芭蕉は、その布に詠んだ句を書き付けた。

蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す

「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」には、掲句に「校注」が付いている。

その「校注」によると、この挿話は西山宗因の物語にならったものであるらしい。
服部土芳の「三冊子(赤冊子)」に、そう記されてあるとのこと。

西山宗因のエピソード

西山宗因は江戸前期の連歌師で俳人。
宗因は、自由・斬新な作風の宗因風(談林俳諧)を展開して、若い日の芭蕉もそれに学んだとのこと。
しかし宗因風俳諧は、その言語遊戯性や滑稽諧謔の作風が次第にマンネリ化し、天和二年三月の宗因の死を境に冷え込んでいった。(芭蕉年譜大成による)
宗因風の衰退の後、あらたな試みとしての芭蕉の蕉風が注目されることとなった。

三冊子によると、宗因が伊勢神宮への参宮の際に立ち寄った茶店があった。
宗因はその茶店の女将に「つる」という彼女の名前を入れた句を詠んでくれるように頼まれたという。
そこで宗因は、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」という句を作って、茶店の女将に贈った。

蕉風の香りの翼

芭蕉の「蘭の香やてふの翅にたき物す」は、この宗因のエピソードに模して作られた句であるらしい。
もしかしたら、芭蕉が立ち寄ったという茶店での「てふ」との出会いは、宗因の物語に模した芭蕉のフィクションであるのかもしれない。

そう考えると「蘭の香」は、芭蕉の香りのことではないかと思えてくる。
「たき物」とは薫物の意で、香をたいてその香りを衣服などにしみこませること。
その昔は宗因風(談林俳諧)が羽ばたいていたが、今では蕉風の香りを染み込ませた翼が自由に飛び回っているというイメージではあるまいか。

「出立のころにはすでに宗因風からも模索期の天和調からも脱皮して、芭蕉の目には明白な新境地が見えていた。旅中作には天和調の破調句そのたの残滓が若干影をとどめるが、宗因風以来の、滑稽諧謔のための複雑な言語遊戯技巧と過剰な当世風は払拭されて俗外に詩美を求める新風が打ち出される。」芭蕉年譜大成より引用
「旅中作」「旅」とは「野晒紀行」の旅のこと。

「蘭の香やてふの翅にたき物す」の句は、まさに今榮蔵先生が述べておられるような、新風の香りを行く先々に染み渡らせようとしている芭蕉の思いを表している。

「野晒紀行」の旅が、野晒になることを否定しつつ、自身をより活かそうというプラス志向の旅であるということ。
掲句は、それを象徴するような芭蕉の発句であると、私は感じている。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/10

梅が香や砂利しき流す谷の奥 

【猿蓑俳句鑑賞。国立国会図書館デジタルコレクションより】


インターネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」で「猿蓑(さるみの)俳句鑑賞(著:伊東月草 古今書院 昭和十五年出版)」を見ていたら服部土芳の句に出会った。

梅が香や砂利(じゃり)しき流す谷の奥 
服部土芳

インターネットで調べると、服部土芳(はっとり とほう)は、松尾芭蕉と同郷で伊賀上野の俳人。
芭蕉の後輩にあたり、伊賀蕉門の中心人物として活躍したという。
土芳は、有名な俳論書である「三冊子(さんぞうし)」を著したことでも知られている。
「三冊子」は、芭蕉の俳論を伝える貴重な資料となっている。

句の前書きに「庭興」とある。
「庭興」とは、庭の味わいとか、庭の面白みとかの意味であろう。

「砂利しき流す谷」とあるので、「枯山水」という様式の日本庭園を詠ったものと思われる。
白い玉砂利を敷き詰め、その中に灰色などの色をもった石をポツポツと配置する。
そんな水の流れを模した小さな谷が思い浮かぶ。

砂利を敷いて川の流れを表現した谷の奥から、梅の香りが漂っているというイメージである。
春の日の静寂な一角を切り取ったような句である。

掲句は、蕉門の句集である「猿蓑」の、「巻之四 春」に収められている。
「巻之四 春」は、十五句目まで梅を題材にとった句が続く。
土芳の句は、その四番目。
四番目に、爽やかな梅の風がそよいだという印象の句である。

伊東月草は、掲句を評して「現在の私達の俳句観からいふと、いかにもお誂へ向に過ぎる境致で、大して迫力を感じないが、」と述べている。
ここで使われている「境致」とは、禅宗における伽藍や庭園の作庭法のことと思われる。
「俳句観がお誂え向きの境致」という文脈から考えると、この「境致」は「境地」の誤植ではないかと私は思っている。
「俳句観がお誂え向き」とは、日本庭園の風流・風雅を重んじるということが、当時の俳諧師の心情としてあったということなのだろう。

しかし私は、梅の香りと無機質な砂利の谷を設定し、その奥を感じる心は、日本庭園の風流・風雅を重んじる心情だけではないような気がしている。
この句には、様々な対比が感じられる。

梅と石。
季節の動きと、静止した築庭。
春の躍動感と、過ぎた冬の寂寞感。
生命の活動と、生命の活動がない物質。
ぬくもりと、血の通っていない冷たさ。
華やかな雰囲気と、無表情。
生と死。

梅と石から様々なイメージが湧くので、「枯山水」の庭にイメージの広がりが感じられて面白い。
石が冷たく支配していた冬の庭に、春のぬくもりが流れ込むという時間の流れも感じられる。
掲句の「谷の奥」からは、様々なイメージが流れているように感じられるのだ。
そんな様子を土芳は、「梅が香や砂利しき流す谷の奥」とさり気なく句に詠んでいる。
この「さりげなさ」が伊東月草のいう「大して迫力を感じない」につながるのだろう。

土芳の伊賀上野の庵である「蓑虫庵(みのむしあん)」に作った庭なのだろうか。
草庵を作り、庭を作り、庭の句を作り。
土芳は、伊賀上野の藤堂藩士を若くして退き「蓑虫庵」に隠棲してからは、俳諧一途の生涯であったという。

なお「蓑虫庵」という草庵の名は、芭蕉の「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」という句にちなんでいるとのこと。

2018/11/08

イモカタバミとベニカタバミの見分け方

【葯が黄色】

アップルヒルの緑地に咲いていた花

この記事にある写真は、10月21日に「道の駅なみおか アップルヒル」の緑地で撮ったもの。
葉が3小葉からなる複葉でカタバミに似ているので、写真を撮ったときはムラサキカタバミではないかと思っていた。

それが今日、「日本の野草(山と渓谷社)」で調べてみたら、この花はムラサキカタバミではなかった。
この花の葯(やく)は、上の写真の通り黄色である。
葯とは、雄しべの先っぽの花粉の入った袋のこと。
だが、ムラサキカタバミの葯は白色。

それに、ムラサキカタバミの花の中心部(雄しべや雌しべが集まっている部分)は、こんなに濃い紫色ではない。
ムラサキカタバミの花の中心部は、「日本の野草」の写真を見ると淡い黄緑色になっている。


【イモカタバミ】

イモカタバミ

この花をムラサキカタバミと見間違えるほどだから、写真の花はカタバミの仲間であることは間違いない。
そこで、インターネットの野草サイトをいろいろ見て回ったら、この花はイモカタバミというカタバミ科の植物だった。

ところが、このイモカタバミにそっくりなカタバミがある。
そのそっくりさんは、ベニカタバミというカタバミ科の野草。
ベニカタバミの葉は花弁よりも小さくて光沢がある。
葉の柄が短いので、ベニカタバミの葉は地を這うようにして広がっている。

一方イモカタバミの葉は、この記事にある写真の通り、花弁と同じぐらいに大きい。
それに葉の柄も長いので、花びらにせまるように葉が生い茂っている。

「イモ」と「ベニ」の見分け方

以下に、イモカタバミとベニカタバミの見分け方をまとめておこう。

花の形
●イモカタバミ:やや細長い。
■ベニカタバミ:やや丸みを帯びる。

小葉の形
●イモカタバミ:はっきりした倒心形。
■ベニカタバミ:切れ込みの浅い倒心形。

葉の大きさ
●イモカタバミ:花弁と同じぐらい大きい。
■ベニカタバミ:花弁より小さい。

葉のツヤ
●イモカタバミ:ない。
■ベニカタバミ:ある。

葉柄(ようへい)
●イモカタバミ:葉がひょろひょろと伸びるぐらい長い。
■ベニカタバミ:葉が地に接するぐらい短い

自分で二期作

イモカタバミの花期は4月から6月。
暑い夏は、半休眠し葉も枯れて地下部だけが残るという。
そして涼しくなった秋頃からまた咲き始め、12月まで咲いているものもあるという。

あのミヤコグサも、イモカタバミ同様盛夏は休眠し、涼しくなってからまた花を咲かせていたのかもしれない。


【イモカタバミの葉】

【葉の柄が長い】

2018/11/07

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

西行谷

芭蕉は、西行が晩年に庵を結んだとされている西行谷を訪れる。
【「芭蕉紀行文集 中村俊定校注」(岩波文庫)】によれば、西行谷は、神路山(かみぢやま)の南にある谷とのこと。
神路山は、伊勢神宮内宮の南方の山域の総称である。

「野晒紀行」には以下の文がある。

「西行谷(さいぎゃうだに)の麓(ふもと)に流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

西行谷の麓に沢が流れ込んでいる。
芭蕉は、その沢で芋を洗っている女たちを見かけた。

芋を洗う女


芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

女たちが芋を洗っている光景を見て、西行なら、この風情を歌に詠むことだろう。
さて、どんな歌を詠むことだろうなあ。
というような、西行谷を訪れた芭蕉が、敬愛する西行に対して詠んだ挨拶句なのではと感じたが。

ところが、この句をもうちょっと読み込んでみると、また違うイメージが湧いてくる。
「芋洗ふ女」を見て、西行が「芋洗ふ女」の歌を詠む格別な所以がないのである。
西行は、桜の歌人として広く知られている。
しかし、「仕事に励む女」を題材にして多くの歌を詠んだという西行の話はほとんど聞かない。

だからといって、「芋洗ふ女」の歌を詠むはずがないとは言えないのだが・・・

「芋洗ふ女」は女の子か?

西行が晩年に、子どもの遊びを詠った「たはぶれ歌」と称されている十三首の歌が「聞書集(ききがきしゅう)」にあるという。
芭蕉が西行谷で目撃した「芋洗ふ女」が家事を手伝う女の子たちということも考えられなくもない。
でも、「野晒紀行」に、「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とある。
「をんな」は成人した女性の意なので、「女の子」は無理かな・・・

そこをあえて「芋洗ふ女」の「女」を「をみな」と読めば、「をみな」は若い女性ということになる。
若い女性のなかには女の子も含まれるのではあるまいか。

芭蕉が見た女の子たちは、わらべ唄なんかを歌いながら手伝い仕事をしていた。
遊びながら家の手伝いをしている女の子たちを見て、芭蕉は、西行なら「たはぶれ歌」を詠んだことだろうなあと思い、それを「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」と句にした。

でも「をんなどもの芋(いも)あらふを見るに、」とあるから、無理かなあ・・・

それでは、いったい誰が歌を詠むのだろう?

「谷」を省略?

今まで「野晒紀行」で字余りの句を三句ほど読んできたが、掲句も字余りの句である。
「いもあらうをんな さいぎゃうならば うたよまん」で八・八・五となる。

天和元年五月十五日に、芭蕉は高山伝右衛門宛書簡で、字余りについて以下のように述べている。

「文字あまり、三四字、五七字あまり候ひても、句のひびき能(よく)候へばよろしく、一字にても口にたまり候を御吟味有るべき事。」(「芭蕉年譜大成 著:今榮蔵」より)

以下は、私の現代語訳。

「字余りは、三文字四文字、五文字七文字余りましても、言葉の音としての響きが巧みであればよろしいでしょう。字余りが一文字でも音の通りが悪ければ検討するべきです。」

これによれば、芭蕉が気にしているのは字余りよりも句のリズムであるようだ。
「野晒紀行」の旅に出る三年前の、門人に対する芭蕉の句作についての「教え」である。

この芭蕉の「教え」を参考にすると、「いもあらうをんな さいぎゃうならば うたよまん」はこれ以上句のリズムをこわしたくないギリギリの字余りであるかもしれない。

ギリギリということは、リズムを整えるための文字の省略もあるのでは、という推測が可能ではないだろうか。

「芋洗ふ女」が歌を詠む

私の推測はこうである。
芭蕉は中の句に「西行谷ならば」というニュアンスを含ませつつ「谷」を省略して「西行ならば」としたのではないだろうか。
そうであれば、「いったい誰が歌を詠むのだろう?」の答えは「芋洗ふ女」である。

芋を洗っている女よ、あなたも西行谷の人なら、もちろん歌を詠むのでしょう、というイメージ。
この場合の「芋洗ふ女」は女の子ではなくて成人である。

「この由緒ある西行谷の付近で暮らしているのだから、西行に倣ってあなたも歌を詠むのでしょう」
こう話しかけて、芭蕉が「芋洗ふ女」にちょっかいを出しているのでは、と思えてくる。
おっと、これは私の余計な空想。

これもまた、芭蕉の句を読む私の楽しみである。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/06

駿河から伊勢神宮へ「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

大井川の川越

芭蕉一行は大井川にさしかかる。
富士川は舟に乗っての川越(かわごし)だった。
一方大井川は、馬や人足を利用しての川越になる。

雨が降り続いて川が増水すると、旅人は何日も川留(かわどめ)の憂き目をみる。
芭蕉と千里(ちり)の一行も、雨のために足が止まったようである。

「野晒紀行」には、「大井川越(こゆ)る日は、終日(ひねもす)雨降(ふり)ければ、」とある。
芭蕉はこの文の後に同行者千里(ちり)の句を置いた。

「秋の日の雨江戸に指おらん大井川(ちり)」

「江戸に指おらん」「に」は、場所をあらわす格助詞の「に」
「指おらん」「ん」は、推量をあらわす助動詞「む」の変形の「ん」

「江戸に指おらん」は、江戸では指を折って数えていることだろうというような「意味」かと思われる。

この秋の長雨は、江戸にも降っているだろうか。
江戸では、旅立ってからの日数を指折り数えて、芭蕉がどのあたりを歩いているか話題になっていることだろう。
だが、私達は東海道の難所であるこの大井川をまだ越せないでいる。
という句のイメージと思われる。

しかし、「秋の日の雨江戸に指おらん大井川」は指折り数えると字余りの句である。
富士川での芭蕉の句「猿を聞人捨子に秋の風いかに」も、字余りの句。
両方とも沈んだ句調となっている。

説明的な字余り句

旅の出発に際しては、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とか「秋十とせ却って江戸を指す故郷」とか名調子で詠いあげていたのに。
捨て子に出会ってから、ちょっと説明的な字余り句になった。
そのせいか、イメージの広がりが乏しくなってしまったように思われる。

千里(ちり)の句の後は、「馬上吟(ばじょうのぎん)」と前書きされた芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句が続く。
この句は前出の句と違って、リズミカルである。
でも、この句をそのまま鑑賞すれば、ちょっと状況説明的であり、イメージの広がりを感じ取るには難しい。

「イメージの広がり愛好者」の私としては、ちょっと物足りない句である。

杜牧の「早行」を演じる

「道のべの」の句の後に、芭蕉の紀行文が続く。

「廿日餘(あまり)の月かすかに見えて、山の根際(ねぎわ)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚(おどろ)く。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下、私の現代語訳。

「二十日を過ぎた頃の月がかすかに見えて、そのせいか山麓の道がかなり暗くて見えにくいなかを、馬の上に鞭をぶら下げて、数里すすんだが、まだ一番鶏の鳴き声がない。中国の詩人杜牧(とぼく)が朝早く立つときに見たという残夢にうつらうつらしていたら、小夜の中山という谷がけわしい場所を通っていたので、いつのまにと驚いて目が覚めた。」

ここでは、中国の漢詩に造詣が深いという芭蕉が、その素養のほどを垣間見せている。
というか、杜牧の漢詩「早行」の世界を、芭蕉が観客に演じてみせているような場面である。

この文の後に芭蕉の句「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」が置かれている。

駿河から伊勢へ

さて、「野晒紀行」の旅は、駿河からあっというまに伊勢に入る。
この間特筆すべきことがなかったのか、「小夜の中山」から伊勢までは空白である。

以下は、伊勢のくだりの文章。

「松葉屋風瀑(ふうばく)が伊勢に有(あり)けるを尋音信(たづねおとづれ)て、十日許(ばかり)足をとゞむ。腰間に寸鐵をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)有(あり)。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。
 暮(くれ)て外宮(げぐう)に詣(まうで)侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)處ゝ(ところどころ)に見えて、また上もなき峯(みね)の松風、身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起(おこ)して、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下、私の現代語訳。

「松葉屋風瀑が伊勢の家に帰っていると便りがあったので訪問して十日ほど滞在した。私の姿形は、腰に小刀を着けず、襟のあたりに袋をひとつかけて、手に数珠を持っている。僧侶のように見えないこともないが、身は俗世間の塵にまみれている。世間の一般人にも見えるが剃髪している。私は僧侶ではないと言っても、神宮側に僧侶の仲間とみなされて、神前に入ることを許してくれない。
 夕暮れになってから伊勢神宮外宮にお参りしたとき、一の鳥居の後ろ側がほの暗く、お灯明がところどころに見えて、限りもなく尊い峰の松風が、身にしみて感じられるほど深い感動をおぼえて、」

松葉屋風瀑宅に十日も滞在しても、この屋敷での特筆すべきことが何もなかったのか、ここも空白。

「あらし」は「嵐」ではなく「あるらし」か?

「また上もなき峯の松風、身にしむ計、ふかき心を起して、」の後に芭蕉の以下の発句が続く。

みそか月なし千とせの杉を抱くあらし

「みそか月なし」とは、晦日には月が籠もって出てこないという「暦情報」そのまま。
「千とせの杉」は樹齢が千年を越えているであろうと言われる杉のこと。
この千年杉は、伊勢神宮のご神木のひとつになっている神聖な木であるのかもしれない。

そんな神聖な木を、抱いて揺すっているように吹いている強風。
千年の歳月に比べれば、この「あらし」の時間は一瞬の出来事であろう。
「みそか月なし」と吟ずることで、千年の時間を一瞬のうちに揺すっている夜の臨場感を芭蕉は描き出している。
と同時に、大自然の力を備えた「天」の存在感をも描き出しているように思われる。

この句は、伊勢神宮の社殿も神木も「天」によって抱かれた存在なのだという芭蕉の感慨のようにも読み取れる。
月のない闇空と伊勢神宮の境内。
上空と、地上の千年杉との対比。
この句を図式的に読むと、上空の闇と伊勢神宮を結んでいるのが「あらし」ということになりはしないだろうか。

「みそか月なし」の闇空が長い腕のような「あらし」を伸ばして、神宮境内の「千とせの杉」を抱いているのだ。

話はそれるが、この句も字余りである。
上の句の「みそか月なし」が七文字になっている。

意味的に言えば、「みそか月なし」は「みそか月」とイコールである。
なので、上の句を「みそか月」と詠んだ方が五文字ですっきりするのではないかと、トーシロ的には考えたりするのであるが。

まさか、「なし」と「あらし」とで韻を踏もうとしたのではあるまい。
いや、韻を踏んで強調したかった「月なし」とは何なのだろう。

と、ここで私はとんでもないことを思いついた。
「あらし」は「嵐」のことではなく、「あるらし」の変形の「あらし」なのではあるまいか。
「あらし」の意味は、「あるらしい」とか「あるにちがいない」とかである。

こう考えると、芭蕉が「みそか月なし」にこだわった理由がわかるような気がする。
今夜は晦日で月が出ないが、もし月が出ていたなら、この神聖な千年杉を月が抱くようにして光り輝いていたことだろう。
いや、そういう月を見たかったのだが、「月なし」とは残念だ。

こういうイメージの句だとすると、この句は「千とせの杉」の姿に感動した芭蕉が「千とせの杉」と「見えない月」を讃えた句ということになる。

まったくトーシロ(私)のくせに、実にとんでもないことを考えるものである。

芭蕉の引用

芭蕉は伊勢神宮外宮にお参りしたとき、西行の「山家集」にある「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」の歌を紀行文に引用している。
静岡の「小夜の中山」では、杜牧の漢詩「早行」を引用したり。

「野晒紀行」のこのくだりには、実に引用が多い。

芭蕉同様の「知的な資料」をもちあわせなくては、読者は芭蕉が表現している世界に近づけないのだろうか。

多くの芭蕉読者は、謎掛けや呪文のような芭蕉句を遠ざけ、身近に感じられる発句を傍に引き寄せて、それらを自身の「知的な資料」としているのかもしれない。

などと、西行や中国の漢詩に疎い私は、ただとぎれとぎれの感想をいだくばかり。
ただ、杜牧の「早行」は、高校の漢文の授業で習ったような記憶がかすかにある。

なお芭蕉は、「野晒紀行」の旅も含めて、生涯に六度伊勢神宮に参宮し数多くの句を残したとされる。


<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ

2018/11/04

逢魔時のシャドー

【夕暮れの川景色。】


夕方の散歩で、愛犬が西陽にしびを背に歩き出した。
久しぶりに川へ行くつもりなのだ。
街はずれを流れている川のそばを歩くのが、愛犬の好みのコースのひとつだった。
 
街は、日暮れ前の混雑で騒がしい。
買物客であふれたスーパーの横から、住宅街に入った。
しばらく歩いて、くすんだ色合いの小路を抜けると、広い湿地に出る。

かやが生い茂る湿地は、中世の頃までは河川敷であったらしい。
湿地のなかに、一本の乾いたみちが通っている。
その径の奥に、こじんまりと築かれた堤が見えた。

堤の上からは、雪雲をかぶった山並みが見渡せた。
川は、山の中腹あたりから流れてくる。
その流れがここまで届くのに、どれぐらいの時間がかかるのだろう。
ふとそんなことを思って川面を見下ろすと、鴨が列を組んで泳いでいた。

夜のねぐらをさがして、さまよっているのだろう。
まるで、鴨の放浪家族のように。

キラキラと小波に揺らめく川面。
しだいに濃い影を落としていく夕暮の川景色はわびしい。
あの鴨たちは、もとは人間だったのかもしれない。
不安におびえる家族のように、寄り添って泳いでいる鴨の姿にそんな空想が湧いた。
それは、妙になつかしい光景だった。

ひょっとしたら俺は、鴨の群れからはぐれた人間なのでは。
人間の群れからはぐれ、鴨の群れからもはぐれてしまった哀れな男。
愛犬は、そんな俺の感傷におかまいなしだ。
土手道の端で、草むらの匂いを嗅いでいる。

歩くにしたがって、周囲の茅の背丈が伸びてきた。
茅の穂に視界をさえぎられて、もう街は見えない。
さきほどの夕暮の喧騒がうそのようである。

夕暮の風に、背の高い茅の群れがゆったりと揺れている。
その奥から、ガサガサと音が聞こえた。
音のするほうに目をやると、茅のやぶの中から背の高い女が現れた。
つばの広い帽子。
川風に黒いロングドレスがなびいている。
女は、小さな犬を堤に引っ張り上げた。

女の大きな口が、俺を見つけて「こんにちは」という声をもらした。
獲物に狙いをさだめて押し殺した、獣の息のようだった。
暗くなりかけてはいるが、「こんばんわ」にはまだ早い。
黄昏時、またの呼び名は逢魔時おうまがときである。

「いつもこちらをお散歩?」と女の目が妖しく光っている。
「いや、うちの犬が、たまたまこっちに来たものだから」と俺。
「えっ」と女は、びっくりした様子。
「主人であるあんたが犬の後をついて来たのかい」と女は赤い口を大きく開けた。
初対面なのになれなれしい女の口調に腹が立った
「あたりまえだろ、犬の散歩なんだから」と俺。
「それじゃ主従関係が逆じゃないの」と舌なめずりをする女。

「主従関係って?」
「人間が犬を従えなきゃ、犬はわがままなしもべになってしまうだろう」と女。
愛犬は、草喰いに夢中で、ムシャムシャと音をたてている。
女が連れている子犬は、草喰い犬をじっと見ている。
その顔つきが、人間の子どものように見えた。

「主人の命令をきかない犬になってしまうだろう」と女。
「いや、そんなことはありますめい」
「主人」とか「命令」とか言うのを聞いて、急に俺は下僕ことばになってしまった。
これはまずい。
女のきつい口調に圧倒されてしまっている。
このままでは、魔法をかけられ、魔女に飲み込まれてしまう。
そんな幻想にとらわれて、俺は身構えた。
胸元でこぶしを構えて、シャドーボクシングをはじめたのだ。

「おまえは誰になぐりかかっているのだい」
魔女は驚いた様子で俺にたずねた。
「俺の影をこらしめているのさ。こいつは恐ろしい魔物で、俺のしもべなんだ。あんたにこいつが見えないのかい」
ストレートやフックの連打をくりだしながら、俺は叫んだ。
体が熱くなって勇気が出てきた。
魔女を追い払うために、俺は激しいシャドーを繰り返した。

魔女は、見えないやつがよほど恐ろしかったのだろう。
「チッ」とくやしそうに舌打ちをした。
「まあ・・・とんでもないこと」
魔女は急にしょんぼりとなった。
「さあ、ジャック、帰りますわよ」
女は、じっと待っているジャックに号令をかけた。
「ジャック、レッツゴーホーム」

オスワリをしていた犬が、ピョコンと立ち上がって回れ右をした。
ジャックは、鴨のように腰を振り振り、女のあとをついていく。
魔女のロングドレスのシルエットが、みるみる暗がりのなかへ消えていった。
 
愛犬は、口の端から細長い草の切れ端を垂らして、横目で魔女を見送った。
俺は、垂れた草の葉を犬の口から取り出して、口のまわりのヨダレをタオルでぬぐった。

「誰がなんと言おうと、散歩のときは、犬がご主人様さ」
愛犬に語りかけると、愛犬はうれしそうに尾を振った。

街は暮れて、空から小雪が舞って。
川の方からは、ガーガーと鳴く鴨の声が聞こえた。
それが俺には、安堵の鳴き声のように聞こえて、妙になつかしかった。


【雪をかぶった山。】

【川面の鴨】



◆関連リンク
★エンタメ読物一覧へ

スポンサーリンク