2015/11/29

青森市平和公園の池にマガモのつがいがやってきた

マガモ。


白鳥の飛ぶ姿が空に見られるこの頃、マガモのつがいが平和公園の池にやってきた。
マガモは冬鳥。
北方からやってきて、池で休憩しているのか、ここを冬の住み処にするのか。

この池は、岸に草むらが無いから、鴨にとってはあまり快適ではないだろう。
食べ物は、水草の葉や茎を食べるというから、その程度なら、なんとかありつけるかもしれない。


枯れたガマの側が好みか?


マガモが、もっと南へ下るか、ここにしばらく滞在するかは天候次第。
この冬、青森が暖冬少雪だったら、この池にとどまっているかもしれない。

以前この池で、カラスが鴨を襲っているのを見かけたことがある。
そんなカラスがやってきたら退散するしかない。

カラスは定住者、マガモは闖入者。
カラスも必死。
カラスとマガモの姿を見比べたら、やっぱり悪役はカラス。

こうして池に水鳥がやってくると、公園の景色が和む。
マガモの愛らしさが、人の気持ちを穏やかにしてくれるから、マガモは悪役の反対。

悪役の反対って・・・・良い役?善役?

それはともかく、平和公園の池に、ついにマガモがやってきたのだった。
どこから、どんなふうにこの池にたどり着いたのか。
それは、このつがいだけが知っている。

人間が知らない無数の営み。
自然に生きるものの無数の営み。
そんな世界から、この池に姿を現したひとつがいのマガモ。


マガモのつがい。手前が雄、奥が雌。

丸く膨らんだサンシュユの花芽

サンシュユの花芽(丸い形)と葉芽(細く先のとがったもの)。
青森市内にある平和公園のサンシュユがすっかり葉を落とした
葉が無くなると、写真で明らかなように、膨らんだ花芽が目立ってくる。
サンシュユの花芽は、褐色の総苞片に守られて、今は静かに眠っている状態である。
この状態を、植物生理学では「休眠」というらしい。

2015/11/28

なぜ「古池や」なのか、「古池」とは何か?

「古池や蛙飛びこむ水の音」の句の仕上がりについては、下記の逸話がある。

芭蕉は、先に「蛙飛びこむ水の音」という中七と下五の部分を作っていた。
そして、上五を何にしようと思い悩んだ。
貞亨3年の春に、江戸深川村の芭蕉庵で開かれた句合(くあわせ)でのことである。
松尾芭蕉の「古池や」の句は、この年内に発刊された「蛙合(かわずあわせ)」に収録されている。
「蛙合」は芭蕉の門人である仙化(せんか)の編集とされている。

この句合で、「蕉門十哲」の第一の門弟と言われている宝井其角(たからいきかく)は、「山吹や」にしてはどうでしょうと芭蕉に提案した。
芭蕉は、その提案を採用せずに、「古池や」に決めたとされている。
この逸話は、おなじく「蕉門十哲」のひとりである各務支考(かがみしこう)が編集した「葛の松原(元禄5年刊)」に載っているという。

芭蕉が「山吹や」を採用しなかったのは、「山吹」が伝統的な和歌の世界で多く使われてきた「雅語」であるため、これを使わなかったのではということが言われている。
芭蕉は、和歌から独立した、俳諧独自の世界を築こうとしたのだ。

ところで「古池」とは何なのだろう。
現代でいう「古池」の意味は、古い池のこと。
古い池とは、古くからある池を意味している。
昔作られた池で、歴史と風格が感じられる池というイメージ。
現代では、名庭園の中の古池とあれば、訪れる人も多い。

江戸時代と今日とでは、言葉の持っているニュアンスが違うのではないだろうか。
江戸時代に使われていた「古し」には、「遠い昔のことである」という意味もある。
ということは、「古池」には、遠い昔に池であったという意味合いがあるのではないだろうか。
遠い昔は池であったが、今は池としての外観を保っていないという意味での「古池」。
ちょっと大きめの窪地に雨水が溜まったような、人の手で管理されていない荒れ放題の池。

おそらく芭蕉は、そんな侘しい世界を想定したのではあるまいか。
花鳥風月とか、雪月風花とか、そんな美意識とは相対するような世界を。

そんな世界に蛙が飛びこむ。
和歌では鳴く蛙が題材として取り上げられる。
だが、芭蕉の視点は、脚を投げ出して弧を描く蛙に向けられた。
そして「水の音」。

この、あまり優雅でない動きと音を実現させる場としての「古池」なのではあるまいか。
「古池」には、使い物にならない池というニュアンスもあったかもしれない。
この古臭くて用を成さない池に蛙が飛び込んだということは、蛙にとっては何か用があったのだろう。
蛙は、人に見捨てられたような廃墟の池に住んでいるのかもしれない。
「水の音」は、その蛙の存在証明。

「古」とは時間のこと。
時が過ぎていくとともに、朽ち果てていくということ。
やがて、池は干上がり、蛙も住めなくなる。

だが芭蕉には、まだ「水の音」が聞こえる。
雨が降れば、蛙の鳴き声も聞こえる。

古くなって朽ちていくものと、そのなかで生きているものとの対比。
相反するものが、ひとつの世界のなかで「水の音」をたてて作用しあっているという情景。
「山吹や」では描ききれない情景である。

古びたものへの共感と愛着。
朽ちていくものに対する美意識のようなもの。
そんな意識が芭蕉のなかにあって、それで「古池や」なのではあるまいか。

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2015/11/27

なぜ芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」という句が面白いのか

松尾芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」は、「俳句」の代名詞のように言われている。
「俳句」に興味の無い方でもこの句は知っている。
というほど、世間に広く知られている。

私もこの句の淡々とした雰囲気が好きなのだが。
この句のどこが、そんなに優れているのか。
と、もし人に尋ねられても、残念ながら、私にはなんとも答えられない。

「俳句」の優劣を定める秤(はかり)を、私は知らないからだ。
何よりも、「俳句」の実作者でも無い。
ただ芭蕉や蕪村の「俳句」の世界に興味を持っているだけなのである。

公園を散歩するように、私は、先人の描いた風景のなかを歩いている趣味の散歩人に過ぎない。

さて、「古池や」の句が、多くの人々に親しまれているのは、題材が身近であるからだと私は思っている。
だから、この句の情景を、多くの人が脳裏に思い描くことができる。
物思いのスクリーンに映し出して楽しむことができるのだ。

私達の目や耳や鼻は、常に何かを探っている一面がある。
見慣れないものを見ると、「あれは何だろう?」と思ったり。
良い匂いを嗅いで、「これは何の香りだろう?」と思ったり。

どこかから水の音が聞こえると、「あれは、何の水の音?」と側の人に尋ねる。
すると誰かが答える。
「おおかた、そこの古い池に蛙でも飛び込んだのだろう。」
「なあんだ、その水の音だったのか。」と尋ねた人は頷く。

そんな日常会話の文脈が、そのまま句になっている。

ところが俳諧とは、日常のことをそのまま描き出すという文芸ではない。
当たり前のことをそのまま詠んでも、読む側の好奇心は満たされない。

そのため、「俳句」には「取り合わせ」という句作の方法がある。
「取り合わせ」とは、「俳句」を作る際に、意外なもの(無関係なもの・縁の無いもの)同士を組み合わせること。
そうすることによって、限られた字数の詩である俳諧にイメージの広がりが生まれる。

たとえば芭蕉の句である「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
「蛸壺」と「夢」と「月」の組み合わせは意外性で満ちている。
それらを俳諧に組み入れて、ひとつの世界を創作する。
日常において無関係なものが、俳諧でつながりを持つことによって、日常とは別の世界が広がる。
私たちは、俳諧を読むことによって、ありきたりな日常とは別の世界に遭遇することになる。

では、「古池や蛙飛びこむ水の音」は、どうだろう。
「古池」と「蛙」と「水の音」の関係には、特別な意外性は見られない。
この句には、「取り合わせ」の方法は使われていないようである。
一見、当たり前のことがそのまま描かれている。

それが、言葉の調子が整えられ、俳諧として仕上げられている。
日常見慣れた風景でも、句として詠まれれば、なんとなく味わい深い景色に見える。
実際には、日常見慣れた風景ではないのかもしれない。

蛙の動きを目で追うなんてことは、普通の大人はあまりしない。
蛙が水面に飛び込んでたてた水の音に聞き入ることもない。
生活の場の片隅にある古池を、ゆっくり眺めることも、あまりない。

しかし、そうして日常を見る芭蕉の視点が、人々に日常の再発見をもたらしたのかもしれない。
あるいは、この句に触れた大人たちは、子ども時代のなつかしい風景を思い出すかもしれない。

次に、この句の作者が天下の松尾芭蕉であることも、この句を有名にしている一因であると私は思っている。
あの芭蕉が「こういう句」を作ったんだってと、世間のうわさになる。
「古池や」が世間に知れ渡る。

人々が口にする「こういう句」とはどういう句なのだろう。
天と地を対比させて、イメージに広がりを持たせるような芭蕉の句。
「古池や」は、このような句では無いという意味での「こういう句」なのだ。

「荒海や佐渡に横たふ天の河」というようなダイナミックなイメージの句では無い。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」というような、大胆な劇的台詞の句でも無い。
小さな池に小さなカエルが飛び込んだときにたてた小さな音のことを詠んだ句。

空でもない海でもない、川でも山でもない、極めて日常的な世界。
従来の句と違い、芭蕉が「こういう句」を詠んだことで、人々は「虚を突かれた」感じがしたのだろう。
それは、いままで見過ごしてきた小さな世界。
その取るに足りない世界を、天下の芭蕉が人々の目の前に突きつけたのだ。

少々驚いて、「ああ」と呻いている隙に、「古池や蛙飛びこむ水の音」が人々の頭の中に居座って動かなくなる。
それが「古池や」を有名にした一因であると私は思っている。
あくまでも一因。

そこが、「古池や蛙飛びこむ水の音」という句の面白いところではなかろうか。


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2015/11/25

サンシュユのえんじ色の落葉

公園のサンシュユ。
春にはこの公園で真っ先に黄色い花を咲かせるサンシュユ
そのサンシュユの紅葉もとうとう終わった。
渋いえんじ色の落葉が、サンシュユの木の根元を埋めている。
落葉になっても、なかなか色が抜けないところが、桜の落葉を思わせる。
だが、サンシュユの落葉は桜ほどカラフルではない。
渋いえんじ色の濃淡で統一されている。

一見何でもないブログ記事にアクセスが集中した

Bloggerの簡易アクセス解析の画面。


今日、何気なくその「統計」のページを覗いたら、あるページに大量のアクセスがあったことが表示されていた。

Bloggerの「統計」は、このブログのページビュー数とか、アクセスの際の検索キーワードとか、参照元URLを知る事が出来て、とても便利な機能なのだ。

2015/11/24

人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する

「人口に膾炙する」とは、主に文学作品が広く世間に知れ渡り、もてはやされることの意とか。

「人口(じんこう)」とは、うわさ話などをする人の口のこと。
「膾炙(かいしゃ)」とは、膾 (なます:肉を細かくきざんだもの) と炙 (あぶりにく) のこと。
膾 (なます) と炙 (あぶりにく) は、だれの口にも美味しく感じられるということから、「人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る」という意になったという。
出典は、中国の「周朴詩集序」であるとか、孟子の言葉に基ずくとか。

「人口に膾炙する」で、よくある使用例は以下の通り。
『芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、もっとも人口に膾炙した句である』。

この句は「俳句の代名詞」と呼ばれるほど広く知れ渡っている。
俳句に興味の無い人でも、この句をそらで口にできる人は多い。
そういう意味では広く大衆に愛されている句であると言える。

その「愛唱句」が、「人口に膾炙する」と表現されると、ちょっと違和感を覚える。
慣れ親しんだものが、実は身近な存在ではなかったという感じに。

それほど「人口に膾炙する」は「人口に膾炙しない」表現なのだ。
現代では、まったく広く知れ渡っていない、馴染みのうすいものである。

ところが、芭蕉の解説記事などでは、時々見かける表現でもある。
芭蕉が江戸時代に活躍した俳諧師であるから、レトロな表現を利用するのか。
あるいは難解な言い方の方が高尚な印象であるからか。
あるいは、人気の句に対する慣用的な言い回しなのか。

「古池や蛙飛び込む水の音」は芭蕉43歳のときの作。
翌年に「笈の小文」の旅を控えた時期である。
芭蕉はこの年に、「よく見れば薺花咲く垣根かな」とか「名月や池をめぐりて夜もすがら」という句を作っている。
これらはみな平易な言葉と、句の「文脈」が日常会話的であり、いかにも親しみやすいという格好になっている。

華やかな雰囲気の和歌的な言葉を避け、意識的に、俗世間で使われている言葉を選んでの句作のように思われる。

こういう句を「人口に膾炙する」と、難解に言い表すことで、高尚な印象を与え、過度に俗世間の手垢にまみれることを防ごうという目的があるからなのだろうか。

江戸時代に俳諧は、伝統的な和歌に比べて低俗なものとして見下されていた歴史がある。
芭蕉は、和歌に代表される貴族文化の「風雅」に対して、庶民文化の「風雅」としての俳諧作りを目指した詩人ではなかったかと私は思っている。

俗な言葉のなかに、伝統的な「詩情」に匹敵するものを見出そうとした江戸時代の詩人。

ここで、もういちど「人口に膾炙する」という言い回しについて考えてみると。
「膾 (なます) と炙 (あぶりにく) は、だれの口にも美味しく感じられる」という感覚は、かならずしも格調高いものではない。
むしろ、詩歌の人気の様子を、食べ物の例えで語るのは、どちらかと言うと俗な言い方になるのではあるまいか。
となると、『芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、もっとも人口に膾炙した句である』という使用例は、「難解に言い表すことで、高尚な印象を与え、過度に俗世間の手垢にまみれることを防ごうという目的」とは矛盾することになる。

どうして芭蕉の有名な句に「人口に膾炙する」という「言い回し」を用いるのか。
それが芭蕉の「俗を取り込んだ句」に対する慣例的な言い方なのか。
私には、難解な謎である。

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◆松尾芭蕉おもしろ読み

2015/11/23

梅が香にのつと日の出る山路哉

私の主観的な推測によれば、前回書いたテンプレートは、この句にもあてはまる。
そのテンプレートとは「季節(季語)+天+地」のこと。
「梅が香」→季節(季語)
「天」→「日」
「地」→「山路」

梅が香にのつと日の出る山路哉
松尾芭蕉

芭蕉51歳のときの作。
前回取り上げた「五月雨の空吹き落せ大井川」の句よりも前、元禄七年一月の作である。

二句とも、江戸を出て、故郷の伊賀上野に向かう旅の途中で詠んだもの。
「梅の香に」の句に特徴的なものは「のっと」という擬態語。
芭蕉が擬態語を用いて作った句を、時々見かける。
ほろほろと山吹ちるか滝の音」とか「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな」など。

2015/11/22

雪が降るまで咲いているのかミヤコグサ

枯芝に混じって、緑鮮やかなミヤコグサ。


青森港新中央埠頭へ散歩に出かけたら、ミヤコグサがまだ咲いていた。
公園の小山の西斜面に群生している。
一面の枯芝に混じって、ミヤコグサの緑色だけが色鮮やか。
その緑色の葉のなかに、鮮やかな黄色の花がまだ花盛り。


ミヤコグサの花盛り。


 この間見かけたものの、もう枯れてしまったことだろうと思っていたのだが、まだまだ健在のご様子。
赤茶色に熟した果実(豆果)は、裂開しているものがほとんど。
この間みたいな緑色の豆果の鞘は、もう見当たらない。

それでも、写真のように花をいっぱい咲かせているから、若い果実が出来そうな勢いである。
ただ、受精させる虫がいなければ、結実しない。

もう訪れる昆虫もいないのに、一面に花を咲かせているミヤコグサである。
寒さに耐えて、懸命に雪を待ってでもいるような花の咲きぶり。
白い雪の世界に黄色い花を添えることが出来るだろうか。

枯れ色の芝にミヤコグサの緑と黄色。
その上に白い雪が降り積もったら、どんな風情になるやら。

春を偲んで冬に咲くミヤコグサの可憐な姿。
ほんとうに、雪が降るまで咲き続けるかもしれない。


熟した果実。


ミヤコグサの蝶型花。

2015/11/21

六月や峰に雲置く嵐山

亡くなる四ヶ月前の句

松尾芭蕉は、元禄七年の初冬に五十一歳で他界。
亡くなる四ヶ月ぐらい前の夏に、次の句を作っている。

六月や峰に雲置く嵐山
松尾芭蕉

この句の前書きに「嵯峨」とある。
京都の門人、向井去来(むかいきょらい)が営む落柿舎(らくししゃ)での作とされている。

ふたつの句の関連性

この年の秋に、「菊の節句」の奈良を訪れた際に菊の香や奈良には古き仏たちと詠んだ。
この時に発病し、その約一月後に、芭蕉は不帰の人となる。

このふたつの句を読み比べていると、なにやらこのふたつの句には関連性があるように思えてくる。
それは京都と奈良という、いにしえの都「平安京」や「平城京」があったという歴史のせいであるかもしれない。
  • 六月や峰に雲置く嵐山
  • 菊の香や奈良には古き仏たち

句の対応とテンプレート

「六月や峰に・・・」以前に作られたもので「五月雨の空吹き落せ大井川」という句がある。
元禄七年の五月の作と言われているから、「六月や峰に・・・」のちょっと前に作られた句である。
ふたつの句の、一方にあるものに対するものが、他方にもあるという意味で、「五月雨の空・・・・」の句は「六月や峰に・・・・」の句と対応している。
  • 五月雨の空吹き落せ大井川
  • 六月や峰に雲置く嵐山
「五月雨の」と「六月や」→季節(季語・月)。
「空」と「雲」→天。
「大井川」と「嵐山(地域)」→地。
芭蕉は「季節(季語)+天+地」というテンプレートに沿って「六月や峰に・・・」を作ったように思える。
念のために元禄七年の三つの句の作順を記しておこう。

  1. 五月雨の空吹き落せ大井川(五月)
  2. 六月や峰に雲置く嵐山(六月)
  3. 菊の香や奈良には古き仏たち(九月)

京都と奈良の句

さて、「六月や・・・」の句は京都の名勝地「嵐山」の、夏の景観を詠ったもの。
「嵐山」は桂川右岸の地名であるとともに、その地域にある嵐山という標高381.5メートルの山の名前でもある。
その山の緑の峰に白い雲がそびえている。
背後には青い空。
嵐山に夏の陽光が輝いている様子が、目に見えるようである。

京都ではそんな句を残した。
それでは、奈良ではどうだろう。
菊の節句の奈良で句を考えていたとき、京都嵯峨で詠んだ句が脳裏をよぎったのではあるまいか。
と同時に、「季節(季語)+天+地」というテンプレートも。

京都と奈良を比較

夏の京都では、嵐山の景観が良かった。
そしてこの奈良には、天平時代からの古い仏像がたくさんある。
折しも、菊の香が漂う時期。

「奈良には古き仏たち」の「には」は、比較の格助詞「」に係助詞「」の付いたものと考えられる。
そうだとすると京都と奈良を比較しているようにもとれる。

「京都には景勝地の嵐山があり、奈良には古い仏像がたくさんある」というような。
一方には現在の素晴らしい空間があり、他方には歴史を感じるものがあるという形で、「六月や・・」の句と「菊の香や・・・」の句が対応していると空想できる。

「季節(季語)+天+地」というテンプレートを「菊の香や・・・」では、「季節(季語)+地+歴史(天)」に置き換えている。

季節(季語)→菊
地→奈良
歴史(天)→古き仏

「天」も「歴史」も、現時点からは遠く眺める対象であるという意味合いを持っている。

土地誉めの句

「六月や・・」の句と「菊の香や・・・」の句は、京都と奈良の特色を讃えているという点で対応している。
また、それぞれの句に「その土地を象徴するような季節感」と「天空(歴史)」と「地名」が共通の要素としてあるという点で、ふたつの句はマッチしている。
芭蕉は、亡くなる直前に、自身と因縁の深い京都と奈良の「土地礼賛」の句を作ったのである。
ふたつの句を読んで、私はそう感じた。

生から死へ

「六月や峰に雲置く嵐山」の句は「五月雨の・・・」のダイナミックさを引き継ぎつつ「菊の香や・・・」のしっとりと落ち着いた世界へと橋渡しをしているように感じられる。

「峰」に「雲」を置いて、静か佇んでいる「嵐山」。
それはダイナミックな生の躍動感の静まりでもある。
芭蕉は静かな嵐山から、奈良の仏たちの死の世界を遠く眺めていたのではあるまいか。

なんという「屁理屈」と、お思いの方もいらっしゃることでしょう。
でも、このように芭蕉の句を考えることが、私の芭蕉を読む楽しみなのである。


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◆松尾芭蕉おもしろ読み

2015/11/20

芭蕉の個別の発句を独断的に関連付けてみる試み

「蛙飛び込む水の音」の上五を「古池や」にしようと思ったとき、芭蕉はどんな池をイメージしていたのだろう。

「古池や蛙飛び込む水の音」の句は芭蕉43歳のときの作とされている。
同じ43歳のとき、「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」という気になる句を作っている。
この句の、どこがどういうふうに気になったのかについては、以前記事にした
蛇足だが、この記事(よく見れば・・・)は、今のところ私の芭蕉関連の記事のなかで、もっとも多く読まれている。

2015/11/19

反対の反対は賛成か?「荒海や佐渡に横たふ天の河」

子どもの頃、賛成か反対かという意見を求められて、「反対・・・の反対」とふざけて答えた経験をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。

「反対の反対」は、子どもにとっての言葉遊び。
まわりの子ども達が「賛成」を表明するなかで、あえて「反対」を唱える心地よさ。
突然「反対」と言って、皆の気をひき、続けてまた「反対」と否定することで、気をそらす。

「えっ、あいつ反対なのか、なんでだろう?」という周囲の関心や注意が、もう一度「反対」が繰り返されることで失速する。
相手を「なあんだ」と言わせるお子様レトリック。
子どもの面白半分の戯れである。
子どもにとって、ことば遊びは面白半分の戯れ。
「反対の反対」に深い意味はない。

そのふざけ好きな子どもが大きくなってから、「弁証法」という「知識」を週刊誌などを読んで得るようになる。
ヘーゲルという昔のドイツの哲学者が唱えたという「否定の否定」とかいう思考方法に触れたりして、はっと驚く。

『驚き、桃の木、山椒の木。これは、俺がガキの頃しょっちゅう使っていた「反対の反対」じゃないか?』
どうやら、大人になっても言葉遊びがお好きなようで。

ところが「否定の否定」は「反対の反対」ほど単純ではない。
「反対の反対」だって賛成と同じかどうかは明確ではないのだが・・・・・。

それはおいといて、下記は芭蕉の有名な句。

荒海や佐渡に横たふ天の河
松尾芭蕉

「横たふ」とは、水平方向にのびて存在すること。
「荒海」の沖に佐渡島があって、島の上空には「天の河」が横たわっているというイメージ。

私は以前の記事で、「荒海は、佐渡島の上空に横たわっている天の川のようである」というイメージを書いた。
それを、『「荒海」と「天の河」は、まるで、一枚の絵の中に組み込まれた二つのイメージのようである。』としたのだった。

配置としてみれば、「天の河」は天であり、「荒海」は地である。
天と地は対照的であり、対義的な関係とも言える。

さて通常的な視点では、荒海に横たわっているのは佐渡島の方である。
ところが芭蕉は、佐渡島に横たわっている「天の河」と書いた。

この句を「荒海」は、佐渡島の手前に横たわって、こちらとあちらを隔てている「天の河」のようなものだととらえると、通常の視点(海のなかに横たわる島)とは反対(つまり、島の前に横たわる海)になる。

さらに「荒海」と「天の河」とは対義的な関係にあるから、地にあるものをあえて天にあるものと置き換えるのは、上下が逆であり、ある意味で反対である。

海の中に横たわっている島が、反対に海を横たえている。
天にあるはずの「天の河」が反対に地を流れている。

つまり佐渡島を軸として、「荒海」と「天の河」が天地反対になっている風景。

「佐渡」の上空は「荒海」で、その「佐渡」と芭蕉とを隔てているのは「天の河」なのである。
芭蕉が描いているのは、そういう風景とも感じることができる。

実際に海が荒れていれば、空は黒々として星も見えず、島影さえも見えなかったに違いない。
芭蕉は、そんな風景のなかに何かを見出そうとしたのだろう。

海に横たわっている佐渡島は見えないが、その反対(横たわっている海)は見える。
「天の河(天の星)」は雲で覆われて見えないが、その反対(地の海)は見える。

反対の反対は「天の河」であるという私の屁理屈。
佐渡島が軸となって、天と地が回転する。

七夕が近いこの日、目に見えるのは「天の河」と化した「荒海」なのか、「荒海」と化した「天の河」なのか・・・・・・。

大しけの「荒海や佐渡に横たふ天の河」

この句を、こういう風に読んでみると面白い。

反対の反対は、賛成ではない。
それは、まったく違う世界の現出。


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2015/11/17

卒業写真の老人

「卒業写真」は、荒井由実(現・松任谷由実)さんの代表的なヒット曲のひとつ。
この歌は、当の松任谷由美さんが歌うよりも、山本潤子さんの方が好きという方もいらっしゃるようで。
ま、好きずきってことですね。
それはさておき、その歌詞に下記のような一節がある。

「町でみかけたとき 何も言えなかった
卒業写真の面影がそのままだったから」


私は現在64歳である。
その私が、彼を町で見かけたとき、何も言えなかった。
中学校卒業記念写真の顔そのままだったから・・・・・。

埋火や壁には客の影法師

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えてから、京都、大津、伊賀上野などで暮らし、48歳の初冬に、江戸深川にもどってくる。
年が明けて、元禄5年、49歳の5月に「第三次芭蕉庵」が完成。
この草庵で、51歳の初夏に、帰郷のために江戸を離れるまでの2年間を暮らしたとされている。
この旅立ちが最期であったので、この時以来、もう芭蕉はこの草庵にもどることは無かった。

埋火(うずみび)や壁には客の影法師
松尾芭蕉

2015/11/16

暑き日を海に入れたり最上川

「出羽三山巡礼登山」を終えた芭蕉は、鶴岡に出た。
鶴岡から川舟で最上川に出て、酒田に到着。

酒田は、夏場はフェーン現象により暑くなることが多い土地柄。
芭蕉が酒田を訪れたのは元禄2年6月13日。
夏の暑い盛りであったと思われる。

暑き日を海に入れたり最上川
松尾芭蕉

2015/11/15

芭蕉登山する「雲の峰幾つ崩れて月の山」

芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で出羽三山に立ち寄り、羽黒山、月山、湯殿山に登ったとみられる。
芭蕉が、後にも先にも「登山」をしたのは、この出羽三山だけではあるまいか。
出羽三山の巡礼登山。

「おくのほそ道」本文に、「六月三日、羽黒山に登る。」とある。
6月3日は羽黒山の登り口から南谷に登り、南谷にある宿泊施設で一泊。
4日の昼に本坊宝前院若王寺にて俳諧興行。
5日に南谷から三の坂を経て羽黒山山頂に到着、羽黒本社に詣でたとされている。

2015/11/13

あらたふと青葉若葉の日の光

「あら」は、現代語では「ああ」で、驚いたり感動したりしたときに、思わず発する言葉。
「たふと」は、形容詞「たふとし(尊し)」の語幹用法。
「あらたふと」は、「ああ尊いことだ」という意。
この句をストレートに読むと、芭蕉の自然賛歌が輝いているようにみえる。

あらたふと青葉若葉の日の光
松尾芭蕉

降っていた雨が止んで、陽がさしこむ。
陽の光が、新緑の葉を透かして、地面に濃淡様々な影をつくる。
光が地面に届くことが尊いのだ、と芭蕉は思ったのかもしれない。

「おくのほそ道」で日光での作とされている句。
しかし、初案は「室の八島」という「歌枕」で、日光での作ではないという説もあるらしい。
初案の句は「あらたふと木の下闇も日の光」。
闇に光が届くほど尊く、霊験あらたかというイメージ。

それを改めたのが掲句「あらたふと青葉若葉の日の光」。
その「日の光」と地名の日光を掛けて、「おくのほそ道」では日光での作としているらしい。

それまで降っていた雨が止んで、雲が去って青空がひろがり、陽光がかがやく、というのは私の空想。
この句を読むと、そんなシーンが思い浮かぶ。
若葉を通して降りそそぐ日の光が神々しく感じられる。
豊かな森と輝く光のシンフォニー。

「日の光」=日光=東照宮=徳川家康=徳川幕府という図式で、この句は時の権力に対する芭蕉のヨイショだという説もあるらしい。

だが、名所としての日光は、東照宮だけでもっているわけではない。
中禅寺湖があり、華厳の滝があり、男体山があり、戦場ヶ原もある。
その自然景観が尊いのだ。

神々が宿っている自然が豊かである故に、この国は「四民安堵(しみんあんど)の栖穏(すみかおだやか)なり」と芭蕉は、句の前文で言っているのではないだろうか。
徳川幕府の治世のおかげばかりでは無いとは、芭蕉はあえて言わない。
「憚多くて筆をさし置ぬ」と述べるのみであった。

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草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

「おくのほそ道」に記された最初の句である。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・・・・・」という冒頭の文章はあまりにも有名。
この文章の結びとして、以下の句が書き記されてある。

草の戸も住み替はる代(よ)ぞ雛(ひな)の家
松尾芭蕉

ものの本によると、旅の出発直前に、芭蕉が岐阜の門人「安川落梧(らくご)」に宛てた手紙の中に掲句の初案があるという。

2015/11/11

おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉

これも芭蕉の有名な句。
有名すぎて、微妙に間違って覚えている方も多い。

「おもしろうてやがて悲しき鵜飼哉」とか「おもしろうてやがて寂しき鵜飼哉」とか。

私の知人で「おもしろうて屋形悲しき鵜飼舟」と言った人がいた。
なるほど、これはこれで面白い。

また、「楽しいのは一時、終わってしまえば、その倍寂しくなる」というような格言的な意味合いでも使われることの多い句である。

しかし芭蕉は、格言や諺には興味が無かっただろう。
現実を、短い言葉で切り取った美の世界にしか興味が無かったのでは、と私は思っている。


長良川で鵜飼見物



おもしろうてやがて悲しき鵜舟(うぶね)

松尾芭蕉

元禄元年夏の芭蕉の発句。
この年の四月に「笈の小文」の旅を須磨で終えた芭蕉は、その足で京都、伊賀、岐阜、大津、名古屋などを周遊している。
掲句は、岐阜滞在中、長良川の鵜飼見物の際に詠んだ句とされている。
鵜飼とは、鵜を飼いならして鮎などを捕獲する漁法。
鵜舟は、この鵜飼漁に使う舟のこと。

前書き

「芭蕉(コレクション日本歌人選)著:伊藤善隆 笠間書院発行」によれば、この句には以下の前書きがあるという。
「岐阜の庄、長良川の鵜飼とて、世に事々しう言ひののしる。まことや、その興の人の語り伝ふるに違はず、淺智短才の筆にも言葉にも尽すべきにあらず。こころ知れらん人に見せばやなど言ひて、闇路に帰る、この身の名残惜しさをいかにせむ。」
この前書きの、私の下手な現代語訳は以下の通り。

「岐阜の里の長良川の鵜飼は、非常に仰々しく評判になっている。そういえば確かにその面白さは、人のうわさ通りで、知恵が浅く才能に乏しい私は、その面白さを文にも言葉にも言い尽くすことができそうにもない。趣向を理解できる人に見せたいものだと同行の者に言って暗い夜道を帰る。この心残りな気分をどうしたらいいだろうか。」

鵜飼の風流を理解できない

まさに、この前書きで掲句の説明がなされていると思われる。
芭蕉は、世間で評判になっている珍しい漁法としての鵜飼を見物しに行ったのだ。

そして、その漁法を目の当たりに見て、評判通りの面白さであると感じた。
だが自分には、知識もなく能力もないので、この面白さや漁の仕組みをうまく表現することはできそうにない。
知識も能力もない者は、表現するべきではない。

この漁法の風流さを理解できる能力の持ち主に鵜飼を見せたいものだと同行の者に言いながら、芭蕉は夜道を帰った。
鵜飼の趣を、自身でうまく言い表せないことが残念でしょうがない。

そういう気持ちを素直に句にしたのが「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」なのではないかと私は思う。

やがて悲しき

漁師に縄で操られている何羽もの鵜が、次から次へと水中に潜っては鮎を飲み込み、それを舟の上に吐き出すのだから、芭蕉にとっては珍しく、なおかつ面白いに違いない。
暗い川面で、明々とかがり火に照らされて、その「劇」が演じられているのだ。

その観客である芭蕉は、自身を「こころ知れらん人」とは思っていない。

なぜこんなことをするのかという思いが、しだいに募ってくる。
鵜がせっかく飲み込んだ鮎をまた吐き出させる。
鵜が飲み込んだものを、人の食べ物として提供するなんて。
これは、風流なのか、それとも動物ショーなのか。
ショーであるなら、もっと観客にわかるような演出があってしかるべき、などと思ったかどうか・・・?

とにかく芭蕉には、鵜飼の趣向が理解できない。
面白いことは面白いが、同時に「わけわからないよ」という混乱した状態。

だからそういう鵜飼を理解し表現できないことが心残りで悲しい。
それが「やがて悲しき」の内容ではないかと私はイメージしている。

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2015/11/10

五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん

芭蕉には、「五月雨」の句が多い。
なかでも、有名なものに以下のふたつがある。

「五月雨をあつめて早し最上川 」
「五月雨の降残してや光堂」

だが、次の句もなかなか良いと私は思っている。

五月雨に鳰(にお)の浮巣(うきす)を見にゆかん
松尾芭蕉

ドウダンツツジの紅葉がそれなりに最高潮

ドウダンツツジの生垣
冴えない色だったドウダンツツジの紅葉が鮮やかさを増していた。

犬の散歩の途中、例のドウダンツツジの生垣を見物に行ったら、この前よりも鮮やかに色づいている。
ドウダンツツジ本来の炎のような赤色を取り戻したようだ。
今年は不調さがめだったドウダンツツジだったが、晩秋に命を吹き返した感がある。
来春の再生に向けて、活動を続ける植物の姿は美しい。
もう、葉が散りかけているので、紅葉の最高潮は、ここ2~3日ではなかろうか。

2015/11/08

青い海公園緑地のモミジの紅葉

青い海公園
今日の青い海公園は曇り空。
風は無く、温かい海辺だった。

公園の緑地を散歩していると、あざやかなモミジの紅葉。
芝生上の赤い落葉の絨毯が、とてもきれい。

左の写真は、どんよりと曇った陸奥湾の上空。
青い海公園(新中央埠頭の根元)から北防波堤を眺めている。
海の波は穏やか。
カモメがゆったりと海面を漂っていた。

名月や池をめぐりて夜もすがら

「名月」とは陰暦八月十五日の夜の月。
「池をめぐりて」は池の周囲を回っての意。
「夜もすがら」とは、夜通しとか夜の間中ずっととか。

名月や池をめぐりて夜もすがら
松尾芭蕉

芭蕉四十三歳の頃の作とされる。
四十三歳と言えば、「笈の小文」の旅へ出かける1年前のことである。

一門の宝井其角(たからいきかく)、仙化(せんか)らと芭蕉庵月見の会を催した席での作であるらしい。
この句は、月見会で隅田川に舟を浮かべ、その舟の上で芭蕉が吟じたものとも言われている。

この句を読んだ人は、月を眺めながら池の周りを夜通し歩き回る芭蕉の姿を、なぜ思い浮かべるのだろう。
句が実体験に基づいてのみ作られるものでは無い以上、池の周囲を夜通し歩き回る芭蕉の姿は読者の思い込みの産物であるかもしれない。
  1. 旅に生きた俳諧師であるから、名月を眺めながら夜の間中ずっと池のまわりを歩くことなど、芭蕉には訳も無いこと。
  2. 池の水面に映った月の美しさに、我を忘れて池のまわりを歩いていた。
  3. 満月の光があまりにも明るくて、辺りが夜なのか昼なのか判然としない不思議な光景だったので、その雰囲気に浸りたくて池の周りで遊んでいた。
などと読者は「池をめぐりて」で芭蕉の行動に着目してしまう。

(1)について
芭蕉が旅に出たのは自身の独特の人生観からである。
学ぶべき先人である西行や宗祇、李白、杜甫が旅に生きたように、芭蕉も旅に生き旅に死んだ。

そういう芭蕉の、旅の目的のひとつは句作。
旅を通して先人の境地に近づき、自身の俳諧の新境地を得ようとしたものと思われる。

たしかに芭蕉は池をめぐりながら句作を練っていたかもしれない。
そして一句、名句が出来た。
「名月や池をめぐりて夜もすがら」

旅に生きた俳諧師だった芭蕉は、リアリストであったに違いない。
そうでなければ、長期間の難儀な旅を続けることができない。
芭蕉は体を休めることを選び、夢の池の畔で名月を眺め続けたのではあるまいか。

(2)について
これもよく聞く話。
「名月」と「池」が並べば、池の水面に映った名月が思い浮かぶのは無理もないこと。
だが、池に映った名月は、本当に美しいだろうか。
その情景は風雅な装いを見せてはいるが、情緒があるだけで月の美しさの表現には至っていないように思われる。
どんなにきれいな池でも、池の中の月は、しょせん池の中の月、天空の月には敵わない。

(3)について
これは、ちょっとありそう。
でも、それは一時のこと。
夜通しでは、その雰囲気に慣れすぎて、句に詠んだときの新鮮な感覚が薄れてしまうのでは。

などと思案をめぐらせていると、私の空想は、芭蕉不在の風景にたどり着く。
なぜなら「名月」と「池」だけのほうが、この句の美しさが増すからである。

芭蕉は、人間が介在することのない情景を句にしようとしたのでは。
つまり、天空の「名月」と地上の「池」の間に人影は無い。

無人の世界。
名月が、池の上空を、夜もすがらめぐっているような夢幻の世界。
雲に隠れたり現れたりしながら、煌々と光を放っている月。

その月明かりを浴びている池の姿。
池に映った月ではなく、池そのものの存在感。
普段は見たことのない池の姿がそこにある。

その神秘的な光景に眺めいる。
夜を通して眺めていたいものだという芭蕉の思いが、残像のように幻の世界を現出させる。
そういう静寂な美の世界が夜もすがら展開する様を芭蕉は句にしようとしたのではあるまいか。
あくまでも私の空想にすぎないのだが。


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11月にあざやかな黄色い花を咲かせているミヤコグサがすごい!

可憐な花。
犬の散歩で、新中央埠頭へ。
埠頭の根元(南側)の緑地で、小さな黄色い花が咲いているのが目に入った。

今頃何の花だろうと近づいてみたら、なんとミヤコグサだった。
ミヤコグサは、春から初夏にかけて咲く植物。
それがなんで今頃?

2015/11/07

辛崎の松は花より朧にて

「辛崎」は地名。
現在では唐崎と表示。
唐崎は滋賀県大津市の北西部に位置し、琵琶湖西岸にある。

近江八景


この地には、唐崎神社が鎮座している。
その境内にある「唐崎の松」は、景勝地で、近江八景のひとつ。
また、「滋賀の唐崎」は歌枕としても有名である。

辛崎(からさき)の松は花より朧(おぼろ)にて
松尾芭蕉

2015/11/05

俳諧のセンスが短歌を越える?「春なれや名もなき山の薄霞」

春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)
松尾芭蕉

前書きは「奈良に出る道のほど」となっている。
「野ざらし紀行」の旅で奈良へ出る途上で詠んだ句。

春になって温かくなり、周辺の山に薄い霞がかかっている様を句にしたもの。
旅人にとって春は、大歓迎の季節。
「なれや」は断定の助動詞「なれ」プラス詠嘆の間投助詞「や」。
「やっと、春になったことだなぁ」という喜びの気持ちが「春なれや」にこもっている。
そして、うれしい春到来の現象として「山の薄霞」の景色がひろがる。

芭蕉は時々、「歌枕」を辿って句を作る。
以前記事にした「秋風や薮も畠も不破の関」のようにその土地の名所を句に組み込んで句の姿を整えている。

また、世に知られた和歌や漢詩を元に句を作ったり。
たとえば、最近記事にした「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」のような。
私たちはそこに芭蕉の幅広い教養や見識を垣間見ることになるのだが。

ところが、この句の山は、「天香久山」ではない。
「名もなき山」なのである。

ただ尾根を連ねただけの名無し山。
その山に、春の霞がかかっている姿を眺めて感嘆している句なのだ。

「久方の天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも(柿本人麻呂)」とか「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく(後鳥羽院)」とかの歌を頼りとせずに、堂々と無名の山で勝負している。
無名の山であるから、「天香久山」の余韻に寄り道することなく、ストレートに春到来の喜びが伝わってくる。

だが、あえて「名もなき」とする必要があったのだろうか。
と、こう考えると、「名もなき」が妙にわざとらしい。

「名もなき民の声をきけ!」という「アジテーション」が流行った時代があった。
個人としての民に名前が無いという意味ではない。
一部の知識人や政治家の意見だけに耳をかたむけるよりも、多くの人々の声を聞いたらどうだ、というような意味だったと思う。

もし現代から、遠い過去のことを推し測ることが可能であるならば。

推し測って考えると、「名もなき山」とは、天香久山に限らず、あちこちの連なる峰々、見渡す限りの山々のこと。
その山々に春の霞がかかっているという情景。

「名もなき山」の「山」とは、特定の山を指すのではなく、複数の山を意味しているとしたら、なんとダイナミックな視点だろうか。
「名もなき山」とすることで、芭蕉は、「天香久山」に象徴される短歌の世界を、俳諧のセンスで越えようとしたのかもしれない。

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2015/11/04

仄かな命の存在感「海暮れて鴨の声ほのかに白し」

海暮れて鴨の声ほのかに白し
松尾芭蕉

貞享元年十二月十九日、在熱田での発句。
このとき芭蕉は四十一歳。
「野晒紀行」の旅の途上での発句である。
句の前書きに「尾張国熱田にまかりける頃、人々師走の海見んとて船さしけるに」とある。

芭蕉一行は、船の上で、海に夕日が沈むのを眺めていたのだろう。
凪いでいたとしても、師走の海である。
一抹の緊張感は、あったに違いない。
やがて、その緊張を忘れるほど景色に見入る。
夕暮れの海の、色の変化を目で追っていたことだろう。

明ぼのや白魚しろきこと一寸

シラウオとシロウオは混同されやすい。
漢字では、シラウオは白魚で、シロウオは素魚だという。
パソコンでもそのように漢字変換される。

白魚(しらうお)は、白っぽい半透明の、細長い小魚で、死ぬと白くなる。
素魚(しろうお)は飴色がかっているが、ほとんど透明で、これも死ぬと白く濁る。
姿も料理の仕方もそっくりなのだが、魚としてはまったくの別種。

多くの句の題材となっているのは、白魚の方が圧倒的に多い。
シロウオと比べると、シラウオの方が語呂が良くて聞きやすいせいだろうか。
女性の細長い指を、シロウオのような指とは言わないのもそのせいか。
「白波(しらなみ)」や「白砂(しらすな)」、「白鳥(しらとり)」もこの類か・・・・。

桜(ソメイヨシノ)の紅葉は、見る人を退屈させない

ソメイヨシノの紅葉は、美しく、しかも変化に富んでいて退屈しない。

まだ緑の葉が瑞々しいうちに、ちらほらと枝の各所で部分的に紅葉が始まる。
その、緑の葉と赤や橙に染まった葉のコントラストが美しい。
徐々に、木全体に紅葉が進む。
紅葉した葉は、順次カラフルな落葉になる。
地面をおおう落葉の彩。
枝に残っている葉を見上げると、頭上も彩。

芭蕉がクローズアップしたもの「秋風や薮も畠も不破の関」

「不破の関」は、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町にあった関所。
673年に天武天皇の命により設置されたものだという。
789年に廃止。

秋風や薮(やぶ)も畠(はたけ)も不破の関
松尾芭蕉

「野ざらし紀行」の旅で美濃に立ち寄ったときの句。
1684年の作であるから、「不破の関」が廃止されてから900年近くも経っている。
かつてあったものが消えて900年経った場所に芭蕉は立っている。
「秋風」や「藪」や「畠」は芭蕉の目の前に現存するが、「不破の関」は存在しない。
遠い過去のものとなった史跡である。

2015/11/03

蔦植て竹四五本のあらし哉

蔦はブドウ科の植物。
蔦の幹はつる性で、どんどん伸びる。
幹から出ている巻きひげの先端が吸盤になっている。
その吸盤で、樹木や壁を「伝う」ことから「つた(蔦)」という名前になったとのこと。
山ブドウの葉同様に、秋の紅葉が美しく、冬には落葉する。

(つた)(うえ)て竹(たけ)四五(しご)本のあらし哉
松尾芭蕉

前書きに「閑人の茅舎をとひて」とある。
「閑人(かんじん)」とは、俗世間を離れてわび住まいする風流人のこと。
「茅舎(ぼうしゃ)」とは、茅葺きの家のこと。

「野ざらし紀行」の旅の途中の句である。
この句は、俗世間を離れて生活している風流人の、茅葺きの家を芭蕉が訪ねたときに作られた。

芭蕉が訪ねたとき、秋の強風が吹いていたのだろう。
強風に苦労しながら歩いている芭蕉の目の前に、蔦と竹があるだけの庭と茅葺きの簡素な家があった。
それは「閑人の茅舎」としての趣を充分に備えていた。
芭蕉好みだったのだ。
芭蕉が、ここが目的の庵だと知ったとき、一句が湧いて出た。

「蔦植て竹四五本のあらし哉」
この嵐に苦労してここまでたどり着いたのに、この簡素な庵にとっては、4~5本ある竹を揺らす程度の嵐なのだ。
「閑人の茅舎」とは、こうも世間から隔てられているものだろうか、というイメージ。

蔦が絡まっている竹が4~5本あるだけの小さな庭を嵐が吹き抜けているという情景の句だが、その庭の奥に建っている簡素な庵の存在が感じられる句であると思う。
さらに言えば、庵の住人である「閑人」の人柄も、「蔦植えて竹四五本」から察せられる。
この簡素な庵のなかでの芭蕉と「閑人」の歓談も目に浮かぶようである。

芭蕉は「野ざらし紀行」の旅から帰って2年のち、以下の句を作っている。

「ものひとつ我が世は軽き瓢哉」

芭蕉の脳裏に、「閑人の茅舎」があったか無かったか・・・・・。

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八甲田周辺の冬枯れ風景

ブナの森。


犬の散歩を兼ねて北八甲田連峰の東に位置する尾根を散策。

青森県道40号青森田代十和田線から別れて、八甲田温泉へ至る道(青森県道242号後平青森線)を進む。
旧上北鉱山跡の横を通って、七戸町の「みちのく有料道路」と合流する道である。
この道は、八幡岳と七十森山をつなぐ稜線を山越えする。

その峠に、広い駐車スペースがあったので、そこにクルマを止めた。
広場から南東方向に山道(林道)がのびている。
その山道をのんびりと散歩。


尾根上のブナの森。


尾根と言っても、広がりのある森になっていて、けっこう太いブナが目立つ。
ちょっと歩いただけでも、幹周り2メートルぐらいのブナを4~5本見かけた。

森の中は、ネマガリタケの竹薮が少なく、歩いていて気分が良い。
短い時間だったが好天に恵まれ、森の散歩を満喫できた。
今度は弁当持参で長く歩いてみたい森である。
紅葉の森も良いが、すっかり葉を落とした森も、さっぱりして清々しい感じがする。
こういう森の姿は寂びしすぎるという方もいるが、そんな寂しさも中に生きる力の躍動が感じられる。

冬枯れのブナの純林は、裸木の枝に躍動感があって面白い。


太いブナの木が多い。

ブナの純林。

カラマツの黄葉が美しい。

奥の山は、雲をかぶった岩木山。

稜線上のピークと山腹のカラマツ林。

北八甲田連峰赤倉岳断崖の雪。

山腹のカラマツの黄葉と青空のコントラストが美しい。

山腹のカラマツと稜線のブナ。

晩秋のカラマツ。

稜線の上空にポッカリ雲。

2015/11/02

芭蕉の夢うつつ「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」

まるでイメージの寄せ集めのような句。
「馬に寝て」「残夢」「月遠し」「茶」「煙」。
個々のイメージをつなぎ合わせると以下のような情景が思い浮かぶ。

馬上で寝て、夢の続きを見ているような夢うつつのとき、月は遠くに消えそうで、茶の煙が空にたなびいた。

どうも、そのまんまだね。

夢うつつの馬上旅。
進むほどに、不思議な世界が目の前に展開する。
さっきまで頭上にあった月がいつのまにか遠くに退く。
茶の煙がゆらゆらと立ちのぼっている。

どこからどこまでが夢なのか。
馬上で居眠りしていることが、夢の続きであったのか。
まるで旅自体が幻影のような。
そんな宙に浮いているような情景。

「廿日余の月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚。」
という前文があって、そのあとに句が続いている。

馬に寝て残夢(ざんむ)月遠(つきとお)し茶の煙(けぶり)
松尾芭蕉

掲句は、「前文」が無ければ宙に浮いたままだが、この前文で地上のものとなっている。
「前文」中の「小夜の中山(さよのなかやま)」とは、現在は、静岡県掛川市「佐夜鹿(さよしか)」にある峠。
峠の両脇は、目もくらむ深い谷。
古くから、箱根峠や鈴鹿峠と列んで、東海道の三大難所とされていた。

「忽驚(こつきょう?)」とは文字通り、たちまち驚くこと。
古文での「驚く」には、「はっと気が付く」や「はっとして目を覚ます」の意味がある。

「杜牧(とぼく)が早行」とは、唐の詩人「杜牧」が作った「早行」という題の漢詩。
「早行(さうこう・そうこう)」とは、早朝に旅立つこと。

そこで、ネットで「杜牧」の「早行」という詩を探し出して読むと、この芭蕉の「前文」とほとんど重なっている。
「前文」に、「杜牧が早行の残夢」と記してあるように、この句は「早行」のイメージそのままのような印象である。
「早行」に無いものは、「茶の煙」だけ。

「茶の煙」とは、早朝に茶農家が摘んだ茶葉の熱処理のため、茶葉を蒸すことによって発生した煙のことなのだろう。
季節は秋であるから、茶どころである一帯には「茶の煙」が立ち上がっていたに違いない。

芭蕉は、まだ暗いうちから宿を出た。
馬にまたがりながら、ときどき眠気におそわれる。
夢うつつの状態での、早朝の旅立ちだった。
掲句の「前文」に「馬上に鞭をたれて」とあるが、芭蕉は鞭を持っていなかっただろう。
馬方のオヤジが手綱を引いていたのだから。

ここらへんから芭蕉の「前文」は「杜牧の早行」と渾然一体となる。
芭蕉は居眠りしながら、「杜牧の早行」の世界を彷徨っていたのだろう。
それが芭蕉の「残夢」。

その夢見心地も、難所である「小夜の中山」に差し掛かったところで終了。
馬方のオヤジが、馬上の芭蕉に声をかけた。

「だんな、こっから先は寝ぼけてちゃいけませんぜ。馬から転がり落ちたら千尋の谷底でさ。」なんてね。
馬方のオヤジはリアリストである。
お客を無事に目的地まで届け、その料金をいただかなくてはならない。
家に帰れば、子どもの8~10人ぐらいはいたかもしれない。
「杜牧の早行」なんて知る由もない。

芭蕉は、馬方の叱責にも似た掛け声に、はっと我に返った。
その我に返ったところも、「杜牧の早行」と重なる。

目覚めて、険しい峠を行く芭蕉の眼に、平穏な山里の「茶の煙」が見えた。
目の先に平穏があって、安堵した芭蕉だった。

私がこの句で面白いと感じたのは、句の表面に現れない馬方の存在感である。
そのことを芭蕉は意識したか、しなかったか。

私も馬方のオヤジと同じ、「杜牧の早行」なんて知る由もない。
芭蕉の旅の無事を願うばかりなのだ。

以下は、ネットで拾った「杜牧」の詩「早行」。
ご参考までに。

垂鞭信馬行(鞭を垂れて馬に信せて行く)
数里未鶏鳴(数里未だ鶏鳴ず)
林下帯残夢(林下残夢を帯び)
葉飛時忽驚(葉飛んで時に忽ち驚く)
霜凝孤雁迥(霜凝りて孤雁迥かに)
月暁遠山横(月暁にして遠山横たわる)
僮僕休辞険(僮僕険を辞することを休めよ)
時平路復平(いずれの時か平路平かならん)


2015/11/01

津軽半島大倉岳ハイキングその2(大倉岳山頂~赤倉岳~駐車場)

大倉岳山頂から赤倉岳を眺める。


大倉岳(677m)を下り、赤倉岳(563m)への分岐を左折する。
ハイキング道は、大倉岳の山腹を巻くようについている。
山腹の道は、石がゴロゴロしている片斜面で歩きづらく、わかりにくい。

でも、赤倉岳へ続く稜線の方角を見極めていれば迷うことはない。
ハイキング道は大倉岳山腹から稜線へと続いている。

大倉岳から赤倉岳へ続く稜線は、津軽半島の脊梁山脈の分水嶺である。
西側の斜面を下る沢は日本海に流れる。
東側の斜面を下る沢は陸奥湾に流れ込む。


赤倉岳に向かう尾根道。西風が強い。


この稜線は西風をまともに受けるので、風が強い。
山がブンブンと唸り声をあげている。

日当たりの良い場所に、風よけのタープを張って昼食。
のんびりと尾根の雰囲気を楽しんだ。
ハイキング道を往来する登山者は無し。

尾根道の中間よりも赤倉岳寄りに、五所川原市金木町と蓬田村の境界線上の山である袴腰岳に向かう分岐がある。
15年前に2度ほど、この道を通って袴腰岳に登った。
その時は袴腰岳へ続く稜線上の道は明瞭だったが、今は定かではない。


赤倉岳西斜面は風衝地。


平坦だった稜線の道は、しだいに、なだらかな登りの傾斜となって赤倉岳へ続いている。
赤倉岳西斜面の七合目から山頂までは、石ゴロゴロの風衝(ふうしょう)地。
立木は無く、背の低い灌木と笹が生えているだけである。
低い山だが、高山的な雰囲気を持っている。

赤倉岳山頂にも鳥居と祠がある。
こちらの赤い祠は大倉岳のものよりもかなり小さい。
赤倉岳にあるから「赤倉岳神社」か?
ネットで調べてみても、この祠に関する情報は出てこない。
「赤倉信仰」というキーワードで探すと、出てくるのは岩木山の赤倉神社が圧倒的に多い。
この小さな祠は、岩木山へ登拝できない方のための「遥拝所」なのかもしれないと、勝手に空想。


赤倉岳山頂の鳥居と祠。


赤倉岳山頂から前大倉岳(左)と大倉岳(右)を眺める。


赤倉岳山頂から眺める大倉岳が素晴らしい。
金木町方向(上の写真右手)に下っている稜線がなだらかである。
いつか、あの稜線の道を使って金木町から登ってみたいものだ。

赤倉岳の山頂も大倉岳同様、ほぼ360度見渡せる。
遠望を楽しみながら山頂の道を歩くと、ルートはブナの森の中へと続いている。
赤倉岳の西側は風衝地だが東斜面は気分の良いブナの森になっている。

森の中の平坦な道を進むと、本コース最大の長い急斜面が待っている。
15年前はロープが設置されていたと記憶しているが、今はない。
下りの急斜面で滑落しては大変と、登山道沿いの藪の中を笹につかまりながら下った。
本コースはつづら折れの登山道が多いのだが、ここだけは急斜面に沿ったまっすぐな道になっている。



赤倉岳から続く尾根道も快適。


ブナの木立に囲まれた尾根道。


下りも、ブナの立木に囲まれた尾根歩き。
幅の広い尾根あり痩せ尾根ありで、歩いていて退屈しない。
コースの尾根は、スタート地点からゴールへと、ループ状になっている。
これほどハイキングに適した地形も珍しいのではないかと思うほどである。
天然の回遊路。

本日の行程は、この回遊路を時計回りに回っている。
これが逆回りだと、赤倉岳への長い急斜面の直登で疲れが増すかもしれない。
このコースは時計回りが楽と私は思っている。

さて、緩い傾斜の尾根道をどんどん下っていくと、蓬田口の分岐がある。
分岐の右の道を下りる。
やがて尾根から谷へ下りる、ちょっと急な道になる。
その道を下りれば、平坦な道が駐車場のあるゴールまで続いている。
この平坦地が地殻変動などで盛り上がれば、ループ状の尾根の、内側の谷は、大きな湖になるのでは、などと妄想しながらゴールを目指した。

途中で阿弥陀川(あみだがわ)を徒渉する。
一番下の写真の場面である。
川岸にあるカエデの紅葉が、ちょっと疲れ気味の登山者を出迎えてくれた。

大倉岳山頂からゴールまでの下りは、膝を庇い気味にのんびりあるいたので、2時間ちょっとかかった。



快適な道なので、気分よく歩ける。


柔らかい道なので、膝に衝撃がこない。


阿弥陀川の谷を一周している尾根道。


谷の紅葉もほとんど落葉している。


尾根道もいよいよ終盤。


尾根から谷に下りる。


紅葉したカエデがお出迎え。

津軽半島大倉岳ハイキングその1(阿弥陀川登山口~前大倉岳~大倉岳山頂)

駐車場付近にハイキングコース案内の看板(ここがスタート地点であり、循環コースのゴールでもある)。逆時計回りに赤倉岳に向かう場合は、ここが登山口となる。


15年ぶりぐらいで、津軽半島大倉岳(677m)へハイキング。
蓬田村から大倉岳阿弥陀川(あみだがわ)登山口までの自動車道は、案内標識が倒れていたり不鮮明になっていたりで分かりづらい。

15年前のぼんやりとした記憶を探りながら、登山口を目指した。
林道に入ってから阿弥陀川に架かる橋をいくつか渡る。
林道分岐には標識が欠落したところもあり、注意が必要。

最後は、橋のない浅瀬を自動車で「渡渉」して駐車場(標高178mぐらい)へ到着。
「自動車渡渉」は四駆が無難。
この川越えだけは、鮮明に覚えていた。


登山道案内図の看板。


5~7分ほど、林道を歩く。


大倉岳ハイキングコースは稜線歩きがほとんど。
ヒバやブナの木立が並ぶ細い尾根道のプロムナードは快適そのもの。
ハイキング道路は、全体によく整備されている。

地元の山岳会である「大倉山好会」の方たちが、登山道の刈り払い作業などをボランティアで行い、整備してくださっているおかげである。
会の方たちの、この山を大切に思っている気持ちが、大倉岳ハイキング道を歩いていると伝わってくる。

コースは森の中あり、痩せ尾根あり、無立木で高山の雰囲気あふれる風衝地ありで、変化に富んでいて面白い。
こんなに楽しいハイキングコースなのに、どうして今まで足が向かなかったのだろう。
これからは、四季折々に訪れたい山である。


大倉岳登山口の看板。この看板の裏が登山道。


尾根に向かって斜登行する。


ヒバの木が並ぶ快適な尾根道。


斜面を上がって尾根を乗り換える。

尾根道は快適で、良く整備されている。


低山の尾根歩きは最高。


前方に464ピークが現われる。


尾根上に延々と延びるハイキング道。


前方に前大倉岳が見える。


前大倉岳山頂付近に建っている避難小屋。


前大倉岳(577mぐらい)の山頂付近には、上の写真にある青いペンキで塗られた避難小屋が設置されている。
今年で、築35年であるとのこと。
この小屋を建設したのも、前述の「大倉山好会」の方々。
手弁当持参で、無償で造り上げた手作りの労作である。
(※2016年9月現在、この避難小屋は台風で傾いて利用できない状態である。)

建物は積雪時を考慮して高床式になっている。
現在、入口へ登る階段が老朽化して、少々危険な状態。
室内は、北八甲田仙人岱ヒュッテのような造りになっていて使い勝手が良さそうだ。
小屋周辺の広場も丁寧に刈り払われている。

津軽半島にはいくつものハイキングコースがあるが、避難小屋があるのは大倉岳と梵珠山(ぼんじゅさん)のみである。


避難小屋の内部。


小屋周辺は念入りに刈り払いが行われている。


大倉岳が姿を現す。


避難小屋のある前大倉岳の尾根を進むと、落葉した木立を通して大倉岳が見えてくる。
前大倉岳をちょっと下ってから大倉岳の登りになる。
登りの途中に赤倉岳(563m)方向への分岐がある。

大倉岳の斜面は急だが、登山道はつづら折れになっているので、登るのはそんなに大変ではない。
いくつカーブを回ったろうか。
もうそろそろと思う頃、空が開けて山頂に建っている赤い鳥居が目に入る。

山頂には、「大倉岳神社」の祠がぽつんと建っている。
ブルーシートに包まれて、もう早々と冬支度。
この「大倉岳神社の裏手に、五所川原市金木町方面から登る登山道がある。

のんびりと歩いたから、山頂までは2時間半かかった。
通常は1時間半から2時間の行程とのこと。

大倉岳山頂からは、津軽山地(中山山脈)の山々、津軽海峡、下北半島、陸奥湾、八甲田などが見渡せて、すばらしい眺望だった。

風が強かったが、陽がさして気分が良かった。
去りがたい雰囲気の大倉岳山頂だったが、次の目的地である赤倉岳に向かう。


大倉岳山頂の鳥居と祠。