投稿

5月, 2013の投稿を表示しています

「下手すると・・・・」は魔の言葉

知人に「下手すると」が口癖の人がいる。

例えば、向こうから大きな犬が近づいてくると。
彼は、「下手すると、あの犬ヤバいかも。」と言う。
曇り空の雲の色がだんだん黒っぽくなってきたのを見上げながら、
「下手すると、雨がヤバいかも。」
渋滞のなかで、クルマがなかなか進まないと、「下手すると遅刻しちまうなぁ」とつぶやいたり。

方法についての雑感

人は、新しい方法を覚えたら、それを試してみたくなる。
その方法の効果を実感したいからだ。
例えば、早く走る方法を会得したランナーは、その方法に夢中になる。
記録をのばすことで自身の進化を感じて、生まれ変わった気分になる。
そのランナーの成長ぶりを賞賛する周囲の人々の笑顔に、彼は心の充足を得る。

適切な方法の成果は、いつもポジティブに働く。

効率の良い方法は、時間や手間の短縮を生み出すから、生産活動が活発になる。
方法は新しい産物を作り出す。
方法は新しい発想を生み、新しい時代を作り出すかも知れない。

政治の専門家としての政治家は高度な政治的判断を下す。
そう思われている。
だが、その先生方を選んでいるのは私達だ。

私達は、日常生活の地平を蟻のように動き回っている生活者である。

生活者には複雑な政治の知識や方法を学ぶ時間がない。
それほど、政治の場は日常生活からかけ離れている。

密室の作業も多い。
専門家の先生が政治という独占事業に専念しているせいかも知れない。
日常生活者がその事業に取り組もうとしても、多くの場合、素人として除外される世界である。

素人は邪魔者だという先生方を、私達は本当に選んだのだろうか。
新しい発想を生み出すには、まず「前提」を疑えという思考方法がある。
先生方を先生としてあらしめているのは、選挙に当選したという「大前提」である。

それは、さて置いといて。

日常生活者は、日常生活の中からいろいろな方法を探っている。
その継続が、生活者としての自立を獲得させている、と思う。

社会的な出来事は日常生活と密接に繋がっている。
政治とは行為であり、社会的な作用であると言える。

政治とは、様々な社会の意見の、調整や統合や決定に向けての作用(仕事)である。
その仕事を行うためには政策が必要だ。
政策とは、政治の仕事を行うための基本方針のようなもの。
思想であり実行方法である、と思う。

日常生活者には、生活者としての思想や実行方法がある。

ところがそれは、極めて個人的であり利己的であるとされて、「国のため」という政治思想のレベルまでは届き得ない、とされている。

「国のため」に考えることが政治家の宿命である。

「飯のため」に考えることが生活者の宿命である。

政治家の先生方から見れば、生活者とは、「国のため」という思想には程遠い私利私欲のために奔放している蟻のような存在…

耳鳴りが気になる

イメージ
ここ2週間ぐらい耳鳴りが続いている。

仕事が混んできて、疲労がたまっているからだろうと自己診断。

そんなに険悪な感じはないので、まだ病院へは行っていない。

そんなに険悪ではないと判断したのは、始終耳鳴りがするという訳ではないからだ。

また耳鳴りがひどくて眠れないとか、耳鳴りのせいで人の話や物音が聴き取りにくいというような症状は全く無い。

正面顔と横顔の印象の違う人

イメージ
例えば私が、側に立っている人物を横から見た時、そのときの相手の顔は「横顔」という一般的な呼び方になる。
それに対して、正面から見た場合は、「縦顔」ではなく「正面顔」というややぎこちない呼び方になってしまう。

免許証など、公の証明書に貼付けられる顔写真は、この「正面顔」と決まっている。
銭湯でよく見かける、犯罪者の指名手配のポスターには横顔が添えられていることもある。

人物を特定するには、横からの「見え方」も必要だから。

よく「まともには見られない顔」という言い方があるが、たぶんそれは正面から見た時の顔のことだと思われる。
これは「顔が醜すぎて、憎々しくて、まっすぐに向かい合って見るには、平常心を保てないほど苦痛である。」という意味合いの罵詈雑言の慣用句である。
いわゆる「正視に耐えない」というやつ。

「まとも」という言葉には「真面」という漢字があてがわれていることが多い。
だから「まとも」には「正面顔」という意味合いも若干含まれていると思うが・・・。
「まともじゃない」という言い方は「正面顔じゃない」という意味とは程遠い。
「まともな生活」とは「正面顔で生活する」という意味ではない。

「あいつは、まともじゃないよ」は「あの人は一般的な社会通念からは外れた生活態度・行動スタイルの人」ぐらいの意味だろうか。
とにかく、「真面(まとも)」という言葉の使い方として、正面顔が文脈に大きくイメージされることは、あまり無い。

でも、「まとも」という言い回しに、ごくごくわずかに、正面顔がチラチラ見え隠れするのも事実だ。

「まともな生活」のパーツには「正面顔で生活する」というイメージがあっても良いような気もする。
「正面を向いて生きていこう」みたいな言い方もあることだし・・・。

正面顔と横顔の見た目の印象が違う人は、割といる。

正面顔はのっぺりと平坦そうだが、横顔はホリが深くて、その立体的な有り様は別人のようだ、というようなこともある。
横顔に自信のある横顔美人な女性は、真正面よりも、斜め横向きで人に対したらいいんじゃない、と心の奥で考える。

そして、やや横目的な目つきで、相対する人に目をやったりする。
その対談相手が年配者の場合、彼は「こいつまともじゃないな」と思ったりするかも知れないが、横顔美人の若い女性は、平気だ。

彼女は、自身を良く見せようとする意識が強いので、老人の思いには気…

夕方の手と指の乾燥対策

イメージ
夕方のお肌の乾燥に悩んでいる女性が多いらしい。

女性は夕方になると、朝に鏡で見たときの自身の顔よりも5歳老けて見えるという。
そういうことが多々あると、多くの働く女性が嘆いているとか。
仕事の疲れの蓄積や、日中の肌の乾燥が、夕方の女性の顔を老けさせているらしい。

ケヤキの葉にコブが付いている(ケヤキフシアブラムシの虫コブ)

イメージ
ケヤキの葉のコブ 朝の散歩に公園へ出かけたら、ケヤキの葉にたくさんの「コブ」がついているのに気がついた。
写真のように、葉の表面にイボのようなものがひっついている。 せっかくの新緑が、イボ付きでは格好が良くない。 初々しい若葉が、良くないものに蝕まれているような感じだ。
寄生 まだ初々しいから、こんなイボがつくのだろうか。 ネットで調べたら、「ケヤキフシアブラムシ」という虫の仕業。 ケヤキフシアブラムシは、卵で越冬するらしい。 秋の終わり頃に、卵を身ごもった雌の成虫がケヤキの樹皮の隙間に入り込み、冬を過ごすといわれている。 その卵は、早春に「孵化」を行う。 幼虫は、ケヤキの若葉の裏面に寄生して、樹液を吸って生育。 その刺激で、葉の細胞が変化して、写真のような袋状のコブをつくるらしい。
幼虫は、このコブの中でさらに生育を進める。 葉の上のコブは、第二の卵みたいなものだね。 ケヤキフシアブラムシは羽のついた成虫になると、このコブを出て中空に飛び出す。 第二の寄生先である笹類の中で夏を過ごすらしい。 季節が変われば寄生先を変えるとは、なかなかの遊び人。
遊び人の苦労 この公園の近所には笹薮は見当たらない。 青森市周辺の里山まで飛ばなければ、ケヤキフシアブラムシは笹のごちそうにはありつけないのだ。 人間の感覚では、「寄生」というあり方は楽な生き方のように感じられるが、ケヤキフシアブラムシはこの虫なりの必死の努力で生きているようだ。 遊んでいるようでも、必死の努力で生きている人は、いる。
一年のうちで、ケヤキと笹を往復する習性は面白い。
ケヤキと笹に、どんな共通点があるのだろう。
それをいちばん良く知っているのは、いまのところ、ケヤキフシアブラムシだけのようだ。
生まれ故郷はケヤキの隠れ家で、夏の遊び場は笹薮。
生まれ故郷のケヤキには、クロハナカメムシというのがいて、これがケヤキフシアブラムシを食べるという話もある。
夏の遊び場の笹薮でも、ケヤキフシアブラムシは何かの小鳥の餌になっているかも知れない。
遊び人にも、それなりの苦労が多い。


葉陰に咲くイロハモミジの赤い花と女の生き方

イメージ
ようやく温かくなってきた青森市内の公園で、イロハモミジの赤い花を見つけた。

小さな赤い花は、新緑のモミジの葉の陰で、隠れるように咲いている。
以前の記事で書いたハウチワカエデの花によく似ているのは、同じカエデ科カエデ属の仲間であるから。

今年は開花期間が長かった桜(ソメイヨシノ)

イメージ
今年は桜の花が不作の年だと以前の記事で書いた。

しかし、桜の花は5月の連休終了後も細々と咲き続けていたのだ。
例年のように、パッと咲いてパッと散るというスタイルでは無い。
普通は、桜の葉が出そろったら、もう花は散ってしまっている。

2013年春終盤 残雪多い八甲田

残雪が多い 今年の2月26日に、青森市酸ヶ湯温泉にある気象観測地点で観測史上最高の566センチメートルの積雪を記録した。
5月も終盤に入ったというのに、八甲田山は、まだまだ残雪が多い。
私は八甲田山に通って、今年で20年ちょっとになるが、こんなのは初めて。
今日は残念ながら、カメラを忘れたので、残雪をたっぷり積んだ八甲田の春の写真は掲載できない。

古風な女性の鼻血(淑女の営み)

イメージ
鼻穴をほじっているうちに、鼻血が出てしまうことがたまにある。
通常、目をこすったり、痒い耳の穴を指で掻いたりしても血が流れ出ることは無いのに、なぜ鼻からだけ出血があるのだろう。 それは、鼻穴に関しては、鼻をほじるという通常の行為の範囲を逸脱してしまう事が多いからだ。 鼻の穴のちょっと奥に、左右の鼻穴を隔てている「鼻中隔」という壁がある。 この鼻中隔の粘膜の、鼻の入り口に近い部分には、細い血管がいっぱい集まっている。

「力言葉」の素材

「力を入れる」という言葉がある。

意味は、熱心に努力をするとか、一生懸命物事にとりかかるということ。

支援するとか肩入れするとかの意味もあるらしい。

「力が入っているね」という意味で、「リキが入ってるねぇ」という言い方が流行ったこともあったが、この頃はあまり聞かない。

「力む(りきむ)」という、名詞の「力」が動詞化した言葉を、もとの名詞に押し戻して「リキ」と読ませる。

「リキが入ってるねぇ」は音読みの新鮮な違和感がもたらす独特な効果を演出するための言い方なのだと思われる。

「力」という言葉の、その「使われ方」が豊富なのは、それだけ「力」という言葉が魅力的だからに違いない。


この世の中の、多くの問題は、「力」で解決できるものがずいぶんある。

「力」を得れば「富裕」になれる事が多い。

「力」は自身の存在を意義多いものにし、人生を豊かにする。

だが、肉体的な筋力であれ、金銭的な財力であれ、頭脳的な知力であれ、それらを所有できる人間は限られている。

「努力」だけではカバーできない、いろいろな条件がつきまとうからだ。

それでも、多くの人間は「力」に対して強いあこがれを持っている。

「力」を得ようとする努力と、「力」に対する追従が同時に行われるのだ。

私たちにとって魅力的なのは、時代の先端を行く新鮮な「力言葉」の存在だ。

「行動力」とか「記憶力」とか「指導力」とか「企画力」とか、そういう昔からの、古びたものでは無い「力言葉」が求められている。

「編集力」や「言葉力」、「情報力」といった新鮮な響きを持っている「力言葉」に多くの人々が魅力を感じている、と思う。

それら、いままで存在しなかった「力言葉」の出現が、いままで存在しなかった自身の能力の出現と重なるからだろう。

そんな「予感」と「錯誤」は表裏一体。

しかし、そのどちらも、「力」の仕業だと言えなくもない。


「力言葉」は「能力」の変身である。

あるいは、「力言葉」によって自身が変身する。

「錯覚力」とか「見聞力」とか「日常力」とか「怠慢力」とか「疑問力」とか「平凡力」とかのように、幸いな事に「力」は様々な言葉に馴染みやすいので、私たちは様々な能力を手に入れることができそうである。

「能力」の未知の領域は豊富であるから、「力言葉」の素材は豊富にある。




「力言葉」の方法

「力言葉」が相変わらず流行っている。

十数年前に「老人力」という「力言葉」が話題になってから、言葉(名詞)の後に「力」を添えた「力言葉」が増えた。

「力言葉」と同様に、言葉の後に「パワー」をくっつけた「パワー言葉」も流行ったが、今は「力言葉」の方が優勢なようである。

「ママさんパワー」とか「地域パワー」とか「熟年パワー」とか、「パワー言葉」はなにやら、あてがわれた印象が強いように私は思う。

これは私の極個人的な意見だが、他人や団体や組織から「無料奉仕」を前提としてアテにされた「なんらかの活動力」を言い表すのに「パワー言葉」が使われているような気がする。

他者が利用しやすい便利な「パワー」として。


それに対して「力言葉」については、自身に備わっている「力」を自身のために使うという印象を私は持っている。

自己啓発型に近いかもしれない。

「老人力」はともかく、「編集力」とか「情報力」とか「言葉力」とかがそうだ。

これらは、個人の才能や隠れた能力を引き出すための「力言葉」であると思う。


「企画力」とか「演技力」とか「表現力」とかは従来の能力のことだが、「編集力」とか「言葉力」はもっと幅広い意味と対応力と実用性を持っているように思われる。

従来の「力」では実現できなかった世界を、新しい「力言葉」が実現させる。

その、仕組みや方法が追究されている。

もともと言葉に備わっている色々な「力」の再発見・再開発・再評価が「力言葉」なのかも知れない。


いま、もっとも必要な「力(方法)」は何か。

いま、もっとも意味のある「力(方法)」は何か。

「力」は「方法」を強調した一種のデモンストレーションとなっている。

「方法」は地味だが、「力」には華々しい説得力がある。

様々な従来の「力」を従えて、それをより現実的に活用する「方法」が「編集力」であったり「情報力」であったり「言葉力」であるのかも知れない。

言葉の後に「力」を添える意味は、閉塞状況の中で弱まっている意欲や挑戦欲を言葉で喚起するためだ。

「力」や「欲」を分類し関係づけて、意味と対応力と実用性を持たせることが「力言葉」の方法なのだろう。

「方法」とは、一面、「これは、こういうふうに使ったら良いのでは」というアイデアの提示とも言える。

そういう意味合いでは、このブログもある種の「方法」なのだというのが今回のオチ。

おそらく、ほとんどのブロ…

視界の一部がチラチラ(チカチカ)して、ものが見えにくい・閃輝暗点

イメージ
久しぶりにパソコンで細かい作図の作業を長時間したら、首筋が凝った。
今回は疲れたなぁと思っていたら、そのうち、視界の一部がチラチラし出した。
上の写真のように、一部(この写真では犬)は普段通り見えるが、その周囲がチラチラ(チカチカ)して見えにくいような症状。

桜の花の落下

イメージ
花が丸ごと落下 今年の桜は、花の付きが悪いというのが話題になっていた。
咲いている桜の花の数が極端に少ないので、花の咲いた木にボリュームが無いとか。 寂しい開花だとか。 そしてよく聞いたのが、花びらではなく、椿の花みたいに花ごと散っているのを多く見かけたという話。

単色の鮮やかさ・チューリップの花の色合い

イメージ
朝の犬の散歩コースに、小学校の裏を歩くことがある。 その裏庭に植えられたチューリップの色合いが鮮やかだったので、写真に撮った。
あまり手入れされていない感じのお花畑は、緑色の草が生い茂っている。 緑の絨毯から浮いたチューリップの花の色鮮やかさが、春の可愛い雰囲気を漂わせていて楽しげだ。 チューリップならではの優しい色合いが広がっている。

ハウチワカエデの赤い花

イメージ
秋に鮮やかな紅葉を見せるハウチワカエデの赤い花が咲いた。
花としては、小さくて目立たないが、花の色は紅葉同様鮮やかである。
ハウチワカエデの花は、高い位置にひっそりと咲いているので、うつむいて歩いていては目に入らない。
この花は、両性花と雄花が混在しているらしい。
なぜ、そうなのか。
理由を考えれば、それなりに説明がつくのだろうが、その理由にはあんまり興味が無い。
遥か昔からそうであるものに、理由はいらないように思う。
両性花と雄花が混在していることがもたらす結果というのか効果というのか、それには多いに興味がある。

「存在理由」ばかりを探っていたのでは、面白い結果を見落としてしまうような気がする。

過去の歴史は面白いが、現在の進行具合も目が離せない。

おそらく、人間みたいに「私の存在理由ってなんだろう?」と花は考えない。

実がつけば良いんじゃないかという楽天性が花を咲かせているのだろう。

結果が良ければ良いのだ。

そこで「両性花と雄花が混在している仕組みの利点」というキーワードで検索してみたが、良い検索結果は得られなかった。

利点などとは、損得勘定にとらわれて俗っぽいイメージだが、目に見えない「存在理由」よりははるかに興味深い現実だ。

感覚や経験を超えた世界の「存在理由」で、ハウチワカエデの花が咲いているのではないだろう。

くよくよ自身の存在理由を思い悩んでいる若者が、ハウチワカエデの赤い花を眺めて、心を癒すという「利」があれば、良いのでは。

きっと小さくて目立たない花だから、両性花と雄花が混じっていることで、受粉効果の向上が期待できるのでは、と俗っぽい素人は考えている。

さて、どれが両性花でどれが雄花か、私にはまだ見分けがつかない。



ドウダンツツジの若葉と虫

イメージ
公園の垣根に植えられたドウダンツツジが一斉に若葉を出し始めた。 まだ葉の形までは成長していない。
ドウダンツツジの花期は、葉が出てから約一週間後と言われている。 もうすぐ、白い釣り鐘状の花が咲きあふれることになるだろう。 その様子が満天の星のようだからか、「満天星躑躅」という漢字が当てられているらしい。

余談だが、ドウダンツツジに病害虫はほとんどつかないと庭木好きの女性から聞いたことがある。 「こんなに可愛い花が咲くのに虫がつかないなんてねぇ」 その女性は高らかに笑った。
でも、ドウダンツツジにも害虫がつくらしい。 害虫がつかない樹木なんてないんじゃない。 「蓼食う虫も好きずき」と言うではないか。
その女性は、何か勘違いをしていたのだろう。 そういえば、「虫が好かない」という言い方を「虫も好かない」と勘違いしている人もいる。 意味的には「虫も好かない」の方が解りやすいのだが。
「虫も殺せない人」という言い方があるが、「虫が殺せない人」でもある。 だが、「虫が殺せない人」は「虫も殺せない人」では無い。 ただ単に虫が殺せないだけで、他の殺生はしているかも知れないから。
その女性は、「虫も殺せない人」だった。 「虫も殺せない人」は一面、優柔不断でもある。 何かを排除しなければ人は生きていけない、という側面もある。 「虫も殺せない人」って虫がつきやすいのでは・・・。 その女性は、自身の願望を庭に植えていたのかも知れない。
ドウダンツツジは、秋の紅葉の赤がまた美しい。 虫食いの無い葉が、一斉に赤く染まるのは見事だ。


ブログを書く方法とは?

ある程度の記事数を書き重ねているうちに、「ブログを書く方法」のようなものが脳裏にうっすらと湧く。

実体はまだ不確かな、おぼろげな影のように。
私が解っているのは、ブログを書くということは情報を集めることであるということ。
見聞きや実体験を通して、たくさんの情報が、生活者である「私」を通過し続けている。
それらの「情報(話)」を集める。
情報の、ひとつひとつの「意味」を自分なりに探る。
様々な共通点を見据えて、情報の分類を試みる。
自分にとって「意味のある情報」を拾い出す。
自分にとって「役に立つ情報」を関係づける。
自分が今まで気づかなかったことは何だろうと考える。
無意識の中に、役に立つ考え方があるのではないかと意識する。
そういう考え事の経過として、多分、「発見」があるのではないか。
ブログを書く方法とは、「発見」するための技術のようなもの?
「空が青い」という情報は、それだけでは、空が青いという事実に踏みとどまる。
気持ちのよい青空だから気分が快活で、曇り空だったらワシの頭じゃ解決不能だと思われる問題にも挑戦できそうだ。
「空が青い」という情報を、自身で見いだした「意味」に関係づけることができる。
「空が青い」と言うことは、こういうことなんだと発見する。
情報と現実の新しい関係を発見することが、ブログを書くことの目的なのでは・・・。
その目的は、「日常生活(私たちには日常しか無いからなぁ)」のなかから何かを発見するための技術の獲得・育成につながる。
ブログを書いていくうちに、方法と目的の関係も解ってくるかも知れない。
自然に発生する発想を、発想力として育てることも可能である。
山を歩くということが「試みの冒険」であるように、ブログを書くということも「試みの冒険」であるに違いない。


サンシュユの葉の新芽

イメージ
青森市内の桜の開花は不順だが、平和公園のサンシュユは順調のようだ。
満開の花の傍らから、初々しい葉の新芽が顔を出し始めた。
サンシュユは早春に花を咲かせる木だから、寒さには強いのだろう。
サンシュユは江戸時代中期に、中国や朝鮮半島から渡来した植物と言われている。
外来種として生き延びてきたのだから、天候の不順に対しても強いのかも知れない。
私たちは、野生種としての純度が高いと自然環境に強いと考えがちであるが、本当のところは解らない。
人間ほど自然環境に対して順応できる動物はいないのでは、と私は、素人考えでそう思っている。
自然交配であったか人工交配であったか、その起源は別として、人間が作った園芸種であるソメイヨシノが、天候の不順にはかくも弱い。
その危うさが日本人の情を誘うのか。
人間は、稲に代表される農作物を自然環境に対して「強いもの」に品種改良してきた。
自然の造作は気ままなようだが、人間の手による創造は確かなものを目指してきたのだろう。
でも、大自然の前では確かなものは何も無い。
観賞用の桜の花が不作で、それは稲やリンゴなどの農作物の不作につながるのではないかという危惧がある。
公園のサンシュユは順調に葉を出しつつあるが、天候次第で、この夏、実を結ぶとは決まっていない。


かろうじて咲いている桜

イメージ
青森市は、今年は桜の不作の年であったが、かろうじて咲いている桜もちらほらある。
「かろうじて」とは、困難な状況のなかで、やっとのことで成し遂げられたことを言い表すのに用いられる言葉(副詞)。
「辛くして」が音変化した言葉だと言われている。
「からくも(辛くも)」という言い方もあるが、これは「ぎりぎりのところで」という意味。
どちらの表現も合うような、今年の桜の咲き方だ。
枝先の桜は寒気にさらされて危うい感じである。
上の写真の桜も、危機一髪だったのかも知れない。
下の写真は、いわゆる胴吹き桜。
胴吹き桜にしてはずいぶんな量だ。
よく見ると、胴吹き桜もあるが、幹から伸びた細い枝の先で咲いているのもあるようだ。
胴吹き桜は、おもに老木とか弱った木とかで多く見られるという。
今年はあちこちで胴吹きの桜を見た。
季節外れの寒気に、辛い状態の桜の樹木が、かろうじて咲かせているのだろう。
まるで母親に厚く抱かれた赤ちゃんのように見える。
困難な状況のなかでも、守らなければならないものがある。
植物のとる方法も、動物のとる方法も同じだ。


さみしい鯉のぼりと「こいのぼり」の童謡

イメージ
「こどもの日」の昨日は、曇ったり、晴れ間が覗いたり、雨が降ったりで、パッとしなかった。 振替休日の今日も、昨日と似たようなお天気。 鯉のぼりが寂しく風に舞っていた。 上の写真は、幼稚園の駐車場に掲げられた鯉のぼり。 休日だから園児はいない。

陸奥国津軽郡之絵図とよさこい演舞

イメージ
今年の連休期間、青森地方はパッとしない天候が続いている。
行楽気分を盛り上げる「五月晴れ」も無かった。
天候は芳しくないし、連休期間でも仕事が混んでいるので、山へ行く気分にはならない。
仕事の合間に、青森市内本町の「郷土館」へ展示物の見物に出かけた。

ついでに、新町通りを中心に行われていた「AOMORI春フェスティバル」もちょっと覗いてみた。


「青森県立郷土館」ではこの期間限定で、1階の特別展示室にて「青森県立郷土館所蔵絵図セレクト展」が催されている。

郷土館見物の最大の目的は、このセレクト展で公開されている青森県重宝(歴史資料指定)の「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」を見ること。
特別展示室での写真撮影は禁止(常設展示室は許可を得れば写真撮影可)なので、この興味深い「古絵図」を画像に残すことはできなかった。
「郷土館」で所蔵している「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」は「正保国絵図」というものの副本の忠実な写しであるらしい。
絵図の裏書きから、1685年の作成であるとされている。
この絵図には、津軽半島の先にアイヌ集落2カ所、夏泊半島の先にアイヌ集落3カ所の記載がある。
この地方の先住民が、海を背にした半島の先っぽに追いやられた様子が、伺い知れる資料だ。
当時の津軽地方の地名が、現在のものと同一のものが多いのも興味深い。
もし、アイヌ人が記録を残す民族であったなら、この地方のもっと面白い絵図が見れたかも知れない。
アイヌ人が名付けた地名が、後からやってきた「和人」の地名に、いかに変わっていったのか興味深いところだ。

ところで、この「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」は「県重宝」ということだが、「県重宝」って青森県民の重要な宝物ってことなのかなぁ?
県民の重要な宝物なのに、これを知らない県民は多い。
インターネットの発達した現在なのだから、この「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」を細部まで見物できる画像にして、ネット上で公開したらどうか、なんて発想は当局にはないのだろうか。

絵図の一般公開に、これほど適した方法はないように思われるが・・・。
「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」が一般の庶民に慣れ親しんでしまったら、「重要な宝物」の値打ちが下がるという発想の方が強いんだかもしれないな…

平沢林道から見た折紙山北尾根ルートの残雪

イメージ
東の方に仕事の用事があったので、滝沢へ寄ってみた。 みちのく有料道路の料金所手前の駐車帯に車を停めて、林道を歩き、野内川の水量を見に行った。 野内川と上折紙沢の合流部付近は水量が多くて、長靴ではとても渡れそうにない。 だが、ここを渡渉しないと「折紙山836ルート」は歩けない。

バラの、赤い葉芽

イメージ
公園のバラ園の葉芽が出始めた。
写真のように、出始めのバラの葉芽はきれいな赤色だ。
この葉芽が、だんだん葉の形になっていくに従って、赤色も緑色に変わっていく。
バラの葉芽の、美しい赤が見られるのも今のうち。
この赤は、花の色よりも鮮やかで、見応えがあるように思う。
バラの葉芽の深い赤色は、人工では、なかなか作れないだろう。
日本の伝統色に薔薇色(ばらいろ)というのがあるが、薔薇色はこんなに濃い赤ではない。
薔薇色は朱色に近い淡い赤色である。
深緋(こきひ)色とも違う。
紅(くれない)色か、濃紅(こいくれない)色の鮮やかなものか。

この赤は、秋の紅葉の時と同様、アントシアニンという色素によるらしい。

落葉樹では、新芽が赤い赤ちゃんで、葉が寿命を終えて紅葉する時も赤ちゃんになることが多いという。

そういえば、カツラの新芽もちょっと赤っぽかったなぁ。

アオギリの新芽も赤い。

余談だが、人間の場合、生まれたては「赤ちゃん」でも、年老いると「白ちゃん」になってしまう。

この時期、桜にばっかり気をとられていると、落葉樹の新芽の美しい赤色を見逃してしまうだろう。

季節の変わり目の千変万化を、身近で感じることは楽しいことだ。

なぜ桜の花が咲かないのか

イメージ
桜が咲かない。

もう5月に入ったのに、桜の花がまだ咲かない。

この時期、例年ならとっくに桜が咲いて、そろそろ散り始める頃なのだが。

この地方では、5月の連休(ゴールデンウィーク)に桜の花が見頃をむかえる。

全国的に有名な桜の名所である弘前公園では、5月の連休に多くの観光客でにぎわうのが毎年の光景となっている。

それが今年は、桜がなかなか咲かないので、桜見物の観光ツアーとか弘前市内の宿泊先に予約キャンセルが相次いでいるらしい。

なぜ桜の花が咲かないのか。

桜の木は、寒い冬のうちに開花の準備をしているのだから、温かい気候が安定すれば、いつかは花開くはず。

それが、桜の開花の仕組みだ。

まだ開花を促す気温の上昇がないから、桜は咲けないでいる。

それほど今年の春は低温なのだ。

だが、ゴールデンウィークの桜の開花を商売の拠り所としている事業所では、自然の天候の不順は大変な痛手だ。

「なぜ桜の花が咲かないのか」という素朴な疑問が、「どうして桜の花が咲いてくれないのか」という恨み言に近い不満になってくる。

予定が遅延するということは、次の準備に取りかかれないということ。

天候が不順だと商売のスケジュールも不順になる。

桜の時期が過ぎれば、この地方もだんだん暑くなって、夏物のセールに勢いがつく頃。

それが、桜の花が咲けないほどいつまでも寒いと「夏物」が売れず、寒い不景気風が吹き荒れるようになる。

桜はそのうち咲けば自然のつじつまが合うかもしれないが、人間の経済の帳尻は、そのうちでは合わないのだ。

ゴールデンウィークの桜の開花に向けて準備をしてきた商売の努力が無益無駄となってしまう。

実は、桜は咲いていた。

なぜ桜の花が咲かないのか、そう思って、青森市内桜川に立ち寄って、桜の木をよく見ると、ところどころ桜の花が開いて、緑の葉っぱも顔を出している。

葉が出ているってことは、桜はもう終わりなんじゃないの。

例年の豪華絢爛な桜の花の十分の一ぐらいのボリュームで、桜はすでにひっそりと開花していたのだ。

花と花とが疎遠な位置で、実にみすぼらしく咲いている。

それが遠目には、まだ開花していないように見えたようだ。

枝の痩せた桜の木だけがやたら目につく。

弘前市は青森市よりもちょっと温かいせいか、弘前公園の桜は一定のボリュームを保って、ぼちぼち咲き始めているという話だが・・・。

なぜ桜の花が咲かないの…

スポンサーリンク

◆今まで書いた記事一覧(この文字をクリックすると展開します。)

もっと見る