2013/05/31

「下手すると・・・・」は魔の言葉

知人に「下手すると」が口癖の人がいる。

例えば、向こうから大きな犬が近づいてくると。

彼は、「下手すると、あの犬ヤバいかも。」と言う。

曇り空の雲の色がだんだん黒っぽくなってきたのを見上げながら、

「下手すると、雨がヤバいかも。」

渋滞のなかで、クルマがなかなか進まないと、「下手すると遅刻しちまうなぁ」とつぶやいたり。

2013/05/30

方法についての雑感

人は、新しい方法を覚えたら、それを試してみたくなる。
その方法の効果を実感したいからだ。
例えば、早く走る方法を会得したランナーは、その方法に夢中になる。
記録をのばすことで自身の進化を感じて、生まれ変わった気分になる。
そのランナーの成長ぶりを賞賛する周囲の人々の笑顔に、彼は心の充足を得る。

適切な方法の成果は、いつもポジティブに働く。

効率の良い方法は、時間や手間の短縮を生み出すから、生産活動が活発になる。
方法は新しい産物を作り出す。
方法は新しい発想を生み、新しい時代を作り出すかも知れない。

政治の専門家としての政治家は高度な政治的判断を下す。
そう思われている。
だが、その先生方を選んでいるのは私達だ。

私達は、日常生活の地平を蟻のように動き回っている生活者である。

生活者には複雑な政治の知識や方法を学ぶ時間がない。
それほど、政治の場は日常生活からかけ離れている。

密室の作業も多い。
専門家の先生が政治という独占事業に専念しているせいかも知れない。
日常生活者がその事業に取り組もうとしても、多くの場合、素人として除外される世界である。

素人は邪魔者だという先生方を、私達は本当に選んだのだろうか。
新しい発想を生み出すには、まず「前提」を疑えという思考方法がある。
先生方を先生としてあらしめているのは、選挙に当選したという「大前提」である。

それは、さて置いといて。

日常生活者は、日常生活の中からいろいろな方法を探っている。
その継続が、生活者としての自立を獲得させている、と思う。

社会的な出来事は日常生活と密接に繋がっている。
政治とは行為であり、社会的な作用であると言える。

政治とは、様々な社会の意見の、調整や統合や決定に向けての作用(仕事)である。
その仕事を行うためには政策が必要だ。
政策とは、政治の仕事を行うための基本方針のようなもの。
思想であり実行方法である、と思う。

日常生活者には、生活者としての思想や実行方法がある。

ところがそれは、極めて個人的であり利己的であるとされて、「国のため」という政治思想のレベルまでは届き得ない、とされている。

「国のため」に考えることが政治家の宿命である。

「飯のため」に考えることが生活者の宿命である。

政治家の先生方から見れば、生活者とは、「国のため」という思想には程遠い私利私欲のために奔放している蟻のような存在かも知れない。
その「私利私欲の群れ」を「国のため」に活用するのが「選挙」なのかも知れない。

私達は、その「選挙」で私達の「私利私欲」の何パーセントかを「国のため」に捧げている。
政治家の先生方は、ささやかではあるが塵も積もれば山となる有権者から捧げられた「私利私欲」を入手。

それを政治の仕事の糧としている。

そこで私達の私利私欲の何パーセントかは、うまく「国のため人民のため」に機能している、ということになるのか・・・。

生活者の「私利私欲」は意外と強靭である。

それを増収した先生方が「私利私欲」のエネルギーに毒されて、「私利私欲」の怪物となるのか・・・。

複雑な政治の知識や方法を学ぶ時間がない生活者には、今のところ不明である。

新しい方法は、どこで発見されるのだろう。
国政の専門機関でか、大学の研究室でか、日常生活の片隅でか。
方法を発見する方法もあるかもしれないから、発展する方法が日常生活を面白いものにする、かも知れない。

結局、すべては、方法に拠る。

耳鳴りが気になる

気になる耳鳴り
おや、この音は何?
ここ2週間ぐらい耳鳴りが続いている。

仕事が混んできて、疲労がたまっているからだろうと自己診断。

そんなに険悪な感じはないので、まだ病院へは行っていない。

そんなに険悪ではないと判断したのは、始終耳鳴りがするという訳ではないからだ。

また耳鳴りがひどくて眠れないとか、耳鳴りのせいで人の話や物音が聴き取りにくいというような症状は全く無い。

2013/05/29

正面顔と横顔の印象の違う人

横顔美人
私って美人でしょ。
例えば私が、側に立っている人物を横から見た時、そのときの相手の顔は「横顔」という一般的な呼び方になる。
それに対して、正面から見た場合は、「縦顔」ではなく「正面顔」というややぎこちない呼び方になってしまう。
免許証など、公の証明書に貼付けられる顔写真は、この「正面顔」と決まっている。
銭湯でよく見かける、犯罪者の指名手配のポスターには横顔が添えられていることもある。

2013/05/24

夕方の手と指の乾燥対策

犬も乾燥状態は苦手
顔も老けたが手も老けた。
夕方のお肌の乾燥に悩んでいる女性が多いらしい。

女性は夕方になると、朝に鏡で見たときの自身の顔よりも5歳老けて見えるという。

そういうことが多々あると、多くの働く女性が嘆いているとか。

仕事の疲れの蓄積や、日中の肌の乾燥が、夕方の女性の顔を老けさせているらしい。

2013/05/23

ケヤキの葉にコブが付いている(ケヤキフシアブラムシの虫コブ)

ケヤキの葉のコブ
ケヤキの新緑にコブが?
ケヤキの葉のコブ
朝の散歩に公園へ出かけたら、ケヤキの葉にたくさんの「コブ」がついているのに気がついた。
写真のように、葉の表面にイボのようなものがひっついている。
せっかくの新緑が、イボ付きでは格好が良くない。
初々しい若葉が、良くないものに蝕まれているような感じだ。

2013/05/22

葉陰に咲くイロハモミジの赤い花と女の生き方

イロハモミジの赤い花
新緑の葉陰に咲いている赤い花。
ようやく温かくなってきた青森市内の公園で、イロハモミジの赤い花を見つけた。

小さな赤い花は、新緑のモミジの葉の陰で、隠れるように咲いている。

以前の記事で書いたハウチワカエデの花によく似ているのは、同じカエデ科カエデ属の仲間であるから。

2013/05/21

今年は開花期間が長かった桜(ソメイヨシノ)

最後の桜の花
公園の桜の最後の花。
今年は桜の花が不作の年だと以前の記事で書いた。

しかし、桜の花は5月の連休終了後も細々と咲き続けていたのだ。

例年のように、パッと咲いてパッと散るというスタイルでは無い。

普通は、桜の葉が出そろったら、もう花は散ってしまっている。

2013/05/19

2013年春終盤 残雪多い八甲田

残雪が多い
今年の2月26日に、青森市酸ヶ湯温泉にある気象観測地点で観測史上最高の566センチメートルの積雪を記録した。
5月も終盤に入ったというのに、八甲田山は、まだまだ残雪が多い。
私は八甲田山に通って、今年で20年ちょっとになるが、こんなのは初めて。
今日は残念ながら、カメラを忘れたので、残雪をたっぷり積んだ八甲田の春の写真は掲載できない。

2013/05/16

古風な女性の鼻血(淑女の営み)

古風な景色がよく似合う
私は古風な女です。
鼻穴をほじっているうちに、鼻血が出てしまうことがたまにある。
通常、目をこすったり、痒い耳の穴を指で掻いたりしても血が流れ出ることは無いのに、なぜ鼻からだけ出血があるのだろう。
それは、鼻穴に関しては、鼻をほじるという通常の行為の範囲を逸脱してしまう事が多いからだ。
鼻の穴のちょっと奥に、左右の鼻穴を隔てている「鼻中隔」という壁がある。
この鼻中隔の粘膜の、鼻の入り口に近い部分には、細い血管がいっぱい集まっている。

2013/05/15

「力言葉」の素材

「力を入れる」という言葉がある。

意味は、熱心に努力をするとか、一生懸命物事にとりかかるということ。

支援するとか肩入れするとかの意味もあるらしい。

「力が入っているね」という意味で、「リキが入ってるねぇ」という言い方が流行ったこともあったが、この頃はあまり聞かない。

「力む(りきむ)」という、名詞の「力」が動詞化した言葉を、もとの名詞に押し戻して「リキ」と読ませる。

「リキが入ってるねぇ」は音読みの新鮮な違和感がもたらす独特な効果を演出するための言い方なのだと思われる。

「力」という言葉の、その「使われ方」が豊富なのは、それだけ「力」という言葉が魅力的だからに違いない。


この世の中の、多くの問題は、「力」で解決できるものがずいぶんある。

「力」を得れば「富裕」になれる事が多い。

「力」は自身の存在を意義多いものにし、人生を豊かにする。

だが、肉体的な筋力であれ、金銭的な財力であれ、頭脳的な知力であれ、それらを所有できる人間は限られている。

「努力」だけではカバーできない、いろいろな条件がつきまとうからだ。

それでも、多くの人間は「力」に対して強いあこがれを持っている。

「力」を得ようとする努力と、「力」に対する追従が同時に行われるのだ。

私たちにとって魅力的なのは、時代の先端を行く新鮮な「力言葉」の存在だ。

「行動力」とか「記憶力」とか「指導力」とか「企画力」とか、そういう昔からの、古びたものでは無い「力言葉」が求められている。

「編集力」や「言葉力」、「情報力」といった新鮮な響きを持っている「力言葉」に多くの人々が魅力を感じている、と思う。

それら、いままで存在しなかった「力言葉」の出現が、いままで存在しなかった自身の能力の出現と重なるからだろう。

そんな「予感」と「錯誤」は表裏一体。

しかし、そのどちらも、「力」の仕業だと言えなくもない。


「力言葉」は「能力」の変身である。

あるいは、「力言葉」によって自身が変身する。

「錯覚力」とか「見聞力」とか「日常力」とか「怠慢力」とか「疑問力」とか「平凡力」とかのように、幸いな事に「力」は様々な言葉に馴染みやすいので、私たちは様々な能力を手に入れることができそうである。

「能力」の未知の領域は豊富であるから、「力言葉」の素材は豊富にある。




2013/05/14

「力言葉」の方法

「力言葉」が相変わらず流行っている。

十数年前に「老人力」という「力言葉」が話題になってから、言葉(名詞)の後に「力」を添えた「力言葉」が増えた。

「力言葉」と同様に、言葉の後に「パワー」をくっつけた「パワー言葉」も流行ったが、今は「力言葉」の方が優勢なようである。

「ママさんパワー」とか「地域パワー」とか「熟年パワー」とか、「パワー言葉」はなにやら、あてがわれた印象が強いように私は思う。

これは私の極個人的な意見だが、他人や団体や組織から「無料奉仕」を前提としてアテにされた「なんらかの活動力」を言い表すのに「パワー言葉」が使われているような気がする。

他者が利用しやすい便利な「パワー」として。


それに対して「力言葉」については、自身に備わっている「力」を自身のために使うという印象を私は持っている。

自己啓発型に近いかもしれない。

「老人力」はともかく、「編集力」とか「情報力」とか「言葉力」とかがそうだ。

これらは、個人の才能や隠れた能力を引き出すための「力言葉」であると思う。


「企画力」とか「演技力」とか「表現力」とかは従来の能力のことだが、「編集力」とか「言葉力」はもっと幅広い意味と対応力と実用性を持っているように思われる。

従来の「力」では実現できなかった世界を、新しい「力言葉」が実現させる。

その、仕組みや方法が追究されている。

もともと言葉に備わっている色々な「力」の再発見・再開発・再評価が「力言葉」なのかも知れない。


いま、もっとも必要な「力(方法)」は何か。

いま、もっとも意味のある「力(方法)」は何か。

「力」は「方法」を強調した一種のデモンストレーションとなっている。

「方法」は地味だが、「力」には華々しい説得力がある。

様々な従来の「力」を従えて、それをより現実的に活用する「方法」が「編集力」であったり「情報力」であったり「言葉力」であるのかも知れない。

言葉の後に「力」を添える意味は、閉塞状況の中で弱まっている意欲や挑戦欲を言葉で喚起するためだ。

「力」や「欲」を分類し関係づけて、意味と対応力と実用性を持たせることが「力言葉」の方法なのだろう。

「方法」とは、一面、「これは、こういうふうに使ったら良いのでは」というアイデアの提示とも言える。

そういう意味合いでは、このブログもある種の「方法」なのだというのが今回のオチ。

おそらく、ほとんどのブログは何らかの方法なのだ。

ものの見方の工夫法を得るとか、考え方の多様性を得るとか、文章を作る能力を得るとか、カタルシスを得るとか、収入を得るとか・・・。







2013/05/11

視界の一部がチラチラ(チカチカ)して、ものが見えにくい・閃輝暗点

視界がチラチラする見本画像
画像にすれば、視界の一部が
こんな感じでチラチラする。
久しぶりにパソコンで細かい作図の作業を長時間したら、首筋が凝った。
今回は疲れたなぁと思っていたら、そのうち、視界の一部がチラチラし出した。
上の写真のように、一部(この写真では犬)は普段通り見えるが、その周囲がチラチラ(チカチカ)して見えにくいような症状。

桜の花の落下

地面に落下した桜の花
落下した桜の花の「顔」。
花が丸ごと落下
今年の桜は、花の付きが悪いというのが話題になっていた。
咲いている桜の花の数が極端に少ないので、花の咲いた木にボリュームが無いとか。
寂しい開花だとか。
そしてよく聞いたのが、花びらではなく、椿の花みたいに花ごと散っているのを多く見かけたという話。

単色の鮮やかさ・チューリップの花の色合い

赤色チューリップ
絵本によくある、赤いチューリップ。
朝の犬の散歩コースに、小学校の裏を歩くことがある。
その裏庭に植えられたチューリップの色合いが鮮やかだったので、写真に撮った。

あまり手入れされていない感じのお花畑は、緑色の草が生い茂っている。
緑の絨毯から浮いたチューリップの花の色鮮やかさが、春の可愛い雰囲気を漂わせていて楽しげだ。
チューリップならではの優しい色合いが広がっている。

2013/05/10

ハウチワカエデの赤い花

ハウチワカエデの花
ハウチワカエデの赤い花。
秋に鮮やかな紅葉を見せるハウチワカエデの赤い花が咲いた。

花としては、小さくて目立たないが、花の色は紅葉同様鮮やかである。

ハウチワカエデの花は、高い位置にひっそりと咲いているので、うつむいて歩いていては目に入らない。

この花は、両性花と雄花が混在しているらしい。

なぜ、そうなのか。

理由を考えれば、それなりに説明がつくのだろうが、その理由にはあんまり興味が無い。

遥か昔からそうであるものに、理由はいらないように思う。

両性花と雄花が混在していることがもたらす結果というのか効果というのか、それには多いに興味がある。

「存在理由」ばかりを探っていたのでは、面白い結果を見落としてしまうような気がする。

過去の歴史は面白いが、現在の進行具合も目が離せない。

おそらく、人間みたいに「私の存在理由ってなんだろう?」と花は考えない。

実がつけば良いんじゃないかという楽天性が花を咲かせているのだろう。

結果が良ければ良いのだ。

そこで「両性花と雄花が混在している仕組みの利点」というキーワードで検索してみたが、良い検索結果は得られなかった。

利点などとは、損得勘定にとらわれて俗っぽいイメージだが、目に見えない「存在理由」よりははるかに興味深い現実だ。

感覚や経験を超えた世界の「存在理由」で、ハウチワカエデの花が咲いているのではないだろう。

くよくよ自身の存在理由を思い悩んでいる若者が、ハウチワカエデの赤い花を眺めて、心を癒すという「利」があれば、良いのでは。

きっと小さくて目立たない花だから、両性花と雄花が混じっていることで、受粉効果の向上が期待できるのでは、と俗っぽい素人は考えている。

さて、どれが両性花でどれが雄花か、私にはまだ見分けがつかない。


ハウチワカエデ
ハウチワカエデ。
ハウチワカエデ
ハウチワカエデ。

2013/05/09

ドウダンツツジの若葉と虫

ドウダンツツジの若葉
ドウダンツツジの初々しい若葉
公園の垣根に植えられたドウダンツツジが一斉に若葉を出し始めた。
まだ葉の形までは成長していない。
ドウダンツツジの花期は、葉が出てから約一週間後と言われている。
もうすぐ、白い釣り鐘状の花が咲きあふれることになるだろう。
その様子が満天の星のようだからか、「満天星躑躅」という漢字が当てられているらしい。

2013/05/07

ブログを書く方法とは?

ある程度の記事数を書き重ねているうちに、「ブログを書く方法」のようなものが脳裏にうっすらと湧く。

実体はまだ不確かな、おぼろげな影のように。

私が解っているのは、ブログを書くということは情報を集めることであるということ。

見聞きや実体験を通して、たくさんの情報が、生活者である「私」を通過し続けている。

それらの「情報(話)」を集める。

情報の、ひとつひとつの「意味」を自分なりに探る。

様々な共通点を見据えて、情報の分類を試みる。

自分にとって「意味のある情報」を拾い出す。

自分にとって「役に立つ情報」を関係づける。

自分が今まで気づかなかったことは何だろうと考える。

無意識の中に、役に立つ考え方があるのではないかと意識する。

そういう考え事の経過として、多分、「発見」があるのではないか。

ブログを書く方法とは、「発見」するための技術のようなもの?

「空が青い」という情報は、それだけでは、空が青いという事実に踏みとどまる。

気持ちのよい青空だから気分が快活で、曇り空だったらワシの頭じゃ解決不能だと思われる問題にも挑戦できそうだ。

「空が青い」という情報を、自身で見いだした「意味」に関係づけることができる。

「空が青い」と言うことは、こういうことなんだと発見する。

情報と現実の新しい関係を発見することが、ブログを書くことの目的なのでは・・・。

その目的は、「日常生活(私たちには日常しか無いからなぁ)」のなかから何かを発見するための技術の獲得・育成につながる。

ブログを書いていくうちに、方法と目的の関係も解ってくるかも知れない。

自然に発生する発想を、発想力として育てることも可能である。

山を歩くということが「試みの冒険」であるように、ブログを書くということも「試みの冒険」であるに違いない。



サンシュユの葉の新芽

サンシュユの花と葉の新芽
葉の新芽が出始めたサンシュユ。
青森市内の桜の開花は不順だが、平和公園のサンシュユは順調のようだ。

満開の花の傍らから、初々しい葉の新芽が顔を出し始めた。

サンシュユは早春に花を咲かせる木だから、寒さには強いのだろう。

サンシュユは江戸時代中期に、中国や朝鮮半島から渡来した植物と言われている。

外来種として生き延びてきたのだから、天候の不順に対しても強いのかも知れない。

私たちは、野生種としての純度が高いと自然環境に強いと考えがちであるが、本当のところは解らない。

人間ほど自然環境に対して順応できる動物はいないのでは、と私は、素人考えでそう思っている。

自然交配であったか人工交配であったか、その起源は別として、人間が作った園芸種であるソメイヨシノが、天候の不順にはかくも弱い。

その危うさが日本人の情を誘うのか。

人間は、稲に代表される農作物を自然環境に対して「強いもの」に品種改良してきた。

自然の造作は気ままなようだが、人間の手による創造は確かなものを目指してきたのだろう。

でも、大自然の前では確かなものは何も無い。

観賞用の桜の花が不作で、それは稲やリンゴなどの農作物の不作につながるのではないかという危惧がある。

公園のサンシュユは順調に葉を出しつつあるが、天候次第で、この夏、実を結ぶとは決まっていない。

サンシュユ
方々の枝で緑の新芽が顔を出している。

2013/05/06

かろうじて咲いている桜

枝先の桜
公園の桜
青森市は、今年は桜の不作の年であったが、かろうじて咲いている桜もちらほらある。

「かろうじて」とは、困難な状況のなかで、やっとのことで成し遂げられたことを言い表すのに用いられる言葉(副詞)。

「辛くして」が音変化した言葉だと言われている。

「からくも(辛くも)」という言い方もあるが、これは「ぎりぎりのところで」という意味。

どちらの表現も合うような、今年の桜の咲き方だ。

枝先の桜は寒気にさらされて危うい感じである。

上の写真の桜も、危機一髪だったのかも知れない。

下の写真は、いわゆる胴吹き桜。

胴吹き桜にしてはずいぶんな量だ。

よく見ると、胴吹き桜もあるが、幹から伸びた細い枝の先で咲いているのもあるようだ。

胴吹き桜は、おもに老木とか弱った木とかで多く見られるという。

今年はあちこちで胴吹きの桜を見た。

季節外れの寒気に、辛い状態の桜の樹木が、かろうじて咲かせているのだろう。

まるで母親に厚く抱かれた赤ちゃんのように見える。

困難な状況のなかでも、守らなければならないものがある。

植物のとる方法も、動物のとる方法も同じだ。


胴吹き桜。

さみしい鯉のぼりと「こいのぼり」の童謡

幼稚園の鯉のぼり
薄曇りの空に舞う鯉のぼり。
「こどもの日」の昨日は、曇ったり、晴れ間が覗いたり、雨が降ったりで、パッとしなかった。
振替休日の今日も、昨日と似たようなお天気。
鯉のぼりが寂しく風に舞っていた。
上の写真は、幼稚園の駐車場に掲げられた鯉のぼり。
休日だから園児はいない。

2013/05/05

陸奥国津軽郡之絵図とよさこい演舞

よさこい演舞
新町通りで行われた「よさこい」の演舞。
今年の連休期間、青森地方はパッとしない天候が続いている。

行楽気分を盛り上げる「五月晴れ」も無かった。

天候は芳しくないし、連休期間でも仕事が混んでいるので、山へ行く気分にはならない。

仕事の合間に、青森市内本町の「郷土館」へ展示物の見物に出かけた。

ついでに、新町通りを中心に行われていた「AOMORI春フェスティバル」もちょっと覗いてみた。


「青森県立郷土館」ではこの期間限定で、1階の特別展示室にて「青森県立郷土館所蔵絵図セレクト展」が催されている。

郷土館見物の最大の目的は、このセレクト展で公開されている青森県重宝(歴史資料指定)の「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」を見ること。

特別展示室での写真撮影は禁止(常設展示室は許可を得れば写真撮影可)なので、この興味深い「古絵図」を画像に残すことはできなかった。

「郷土館」で所蔵している「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」は「正保国絵図」というものの副本の忠実な写しであるらしい。

絵図の裏書きから、1685年の作成であるとされている。

この絵図には、津軽半島の先にアイヌ集落2カ所、夏泊半島の先にアイヌ集落3カ所の記載がある。

この地方の先住民が、海を背にした半島の先っぽに追いやられた様子が、伺い知れる資料だ。

当時の津軽地方の地名が、現在のものと同一のものが多いのも興味深い。

もし、アイヌ人が記録を残す民族であったなら、この地方のもっと面白い絵図が見れたかも知れない。

アイヌ人が名付けた地名が、後からやってきた「和人」の地名に、いかに変わっていったのか興味深いところだ。


ところで、この「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」は「県重宝」ということだが、「県重宝」って青森県民の重要な宝物ってことなのかなぁ?

県民の重要な宝物なのに、これを知らない県民は多い。

インターネットの発達した現在なのだから、この「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」を細部まで見物できる画像にして、ネット上で公開したらどうか、なんて発想は当局にはないのだろうか。

絵図の一般公開に、これほど適した方法はないように思われるが・・・。

「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」が一般の庶民に慣れ親しんでしまったら、「重要な宝物」の値打ちが下がるという発想の方が強いんだかもしれないなぁ。

藩主様の時代も今も、お上が考える「重要な宝物」って、そういうものなのだろう。


「AOMORI春フェスティバル」は今年で8回目を迎えるらしい。

その目玉イベントは「よさこい」の演舞であるようだ。

土佐の高知の「よさこい祭り」が北海道の「ソーラン節」と融合?して出来たのが「YOSAKOIソーラン」だとか。

それが全国に広がって「よさこい」として定着したらしい。

その「よさこい」を最大の動員力にして「AOMORI春フェスティバル」が開催されている。

パワーの源は南国の「よさこい祭り」なのだろうが、北方系の味付けが今一で、私には「AOMORI春フェスティバル」の「よさこい」は馴染めなかった。

でも、「AOMORI春フェスティバル」の、新町通りやその他の開催エリアは盛況だったようだ。

2013/05/04

平沢林道から見た折紙山北尾根ルートの残雪

野内川
野内川
東の方に仕事の用事があったので、滝沢へ寄ってみた。
みちのく有料道路の料金所手前の駐車帯に車を停めて、林道を歩き、野内川の水量を見に行った。
野内川と上折紙沢の合流部付近は水量が多くて、長靴ではとても渡れそうにない。
だが、ここを渡渉しないと「折紙山836ルート」は歩けない。

2013/05/03

バラの、赤い葉芽

バラの葉芽
バラの赤い葉芽。
公園のバラ園の葉芽が出始めた。

写真のように、出始めのバラの葉芽はきれいな赤色だ。

この葉芽が、だんだん葉の形になっていくに従って、赤色も緑色に変わっていく。

バラの葉芽の、美しい赤が見られるのも今のうち。

この赤は、花の色よりも鮮やかで、見応えがあるように思う。

バラの葉芽の深い赤色は、人工では、なかなか作れないだろう。

日本の伝統色に薔薇色(ばらいろ)というのがあるが、薔薇色はこんなに濃い赤ではない。

薔薇色は朱色に近い淡い赤色である。

深緋(こきひ)色とも違う。

紅(くれない)色か、濃紅(こいくれない)色の鮮やかなものか。

この赤は、秋の紅葉の時と同様、アントシアニンという色素によるらしい。

落葉樹では、新芽が赤い赤ちゃんで、葉が寿命を終えて紅葉する時も赤ちゃんになることが多いという。

そういえば、カツラの新芽もちょっと赤っぽかったなぁ。

アオギリの新芽も赤い。

余談だが、人間の場合、生まれたては「赤ちゃん」でも、年老いると「白ちゃん」になってしまう。


この時期、桜にばっかり気をとられていると、落葉樹の新芽の美しい赤色を見逃してしまうだろう。

季節の変わり目の千変万化を、身近で感じることは楽しいことだ。


2013/05/02

なぜ桜の花が咲かないのか

桜の枝
まばらに咲いている桜。
桜が咲かない。

もう5月に入ったのに、桜の花がまだ咲かない。

この時期、例年ならとっくに桜が咲いて、そろそろ散り始める頃なのだが。

この地方では、5月の連休(ゴールデンウィーク)に桜の花が見頃をむかえる。

全国的に有名な桜の名所である弘前公園では、5月の連休に多くの観光客でにぎわうのが毎年の光景となっている。

それが今年は、桜がなかなか咲かないので、桜見物の観光ツアーとか弘前市内の宿泊先に予約キャンセルが相次いでいるらしい。

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