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青森市の大晦日の夜空模様

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平成26年12月31日16時49分の気象庁予報部発表によると。

これから1月1日にかけて、低気圧が急速に発達。
その影響で、東日本と西日本の沿岸部を中心に非常に強い風が吹き荒れる模様。 海は大しけとなるところがある。
暴風や暴風雪、高波に対する警戒が必要。 その後、1月3日頃にかけて強い冬型の気圧配置となる。 北日本から西日本の日本海側を中心に、大雪に警戒し、なだれや着雪に厳重注意とのこと。

除雪ロータリー車とダンプカーによる運搬排雪作業

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夜中に家の前の道路で、運搬排雪作業が行われた。
家の前の道路は、対面通行、片側一車線。
それが、今年の大雪で道幅がどんどん狭まってきていた。
一車線分のスペースしか空いていない状態が、もう2週間ほど続いている。
自動車のすれ違いができずに、交通が渋滞することもたびたび。

「爆弾低気圧」がそれた青森市の上空を眺めながら、「無理な外出」について考えてみた

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17日~19日の「爆弾低気圧」の影響で、北海道や本州の日本海側地方では、大雪による不幸な死亡事故が相次いで発生。
また、新潟の津南町では、2メートルを超える積雪があったという。 大雪による土砂災害が発生し、集落(新潟・津南町、長野・栄村)が孤立状態に陥ったり。 北海道の根室市では高潮によって、最大1.5メートルの浸水が発生したり。 この低気圧の来襲で、降雪地帯ではなくても、積雪量の記録を更新する地域が続出している。

雪上の脚立(きゃたつ)が転倒して作業員が脚立天板から地面に転落した

店舗の屋外壁面に、作業員がサインプレートを、脚立を足場にして取付。
冬場の作業なので、地面は積雪状態。
脚立を立てる場所の雪面は、何度も固く踏みしめた。

作業中に何気なく脚立をずらしたところ、脚立の一本の脚が踏み固めた場所から外れる。
おまけに、脚立の天板に立っての作業。
作業中、体重心がずれて、脚立の一本の脚が、踏み固めていない雪中に潜り込む。
脚立が転倒し、作業員が転落。
脚立の高さは、約85センチ。

芭蕉が演出する劇「旅人と我が名呼ばれん初時雨」

旅人と我が名呼ばれん初時雨 
松尾芭蕉

よく知られた芭蕉の句であるが、中句の「我が名呼ばれん」の意味がイマイチわからない。
「呼ばれん」の「ん」は推量の助動詞か。
昔、推量の助動詞「む(ん)」には以下の意味があると習った。

(1)推量(~ダロウ)
(2)意志(~タイ)
(3) 勧誘・適当(~ナサイ、~ノガヨイ)
(4) 仮定・婉曲(~トシタラ、~ヨウナ)

これを「旅人と我が名呼ばれん」に当てはめてみる。

(1)推量:私は旅人と呼ばれるだろう。
(2)意志:私は旅人と呼ばれたい。
(3)勧誘・婉曲:私の名を旅人と呼びなさい。
(4)仮定・婉曲:私は旅人と呼ばれているようだ。

はたして、この四つのうちのどれか?
それは、次のように、この「旅の劇」の「場」と「登場人物」しだいのように思われる。

(1)旅行先:行く先々で出会う人々は、私を旅人と呼ぶことだろう。
(2)見送り人に囲まれたスタート地点:これから旅に出る私は、今ここで皆さんに旅人と呼ばれたい。
(3)旅行を計画中の家で:家の者よ、私を旅人と呼びなさい、気分はもう旅の空。
(4)旅の途中の町で:この町の人達からも私は旅人と呼ばれているようだ。

様々な場で様々な人達に自身が旅人であることをアピールし、それによって旅人としての自己を確認する主人公の姿が思い浮かぶ。

「呼ばれん」の「ん」には、推量の助動詞の、全ての意味が込められているのかもしれない。
おそらく、芭蕉の時代には、「推量の助動詞」などという概念は無いはず。
現代の「古典文法」は後世の解釈。
現代人では、計り知ることのできない世界が芭蕉の句にあったのかもしれない。

そこに「初時雨」が加わる。
初時雨は、場の演出。
旅人となるだろうという漠然とした予感。
探求者としての旅人でありたいという志。
多くの人々から、「彼は人生を旅人として生きた」と認められたい願望。

「時雨」は冬の季語。
冬の初めに、降ったり止んだり、短時間のうちに変化する雨のこと。
この時雨が降り出すと、厳しい冬の到来となる。
旅の始まりに初時雨とくれば、「冬旅の劇」に緊張感が加わる。 それが、劇を観る者に、臨場感を抱かせる。
もしかしたら初時雨は観客のことであるかもしれない。 初時雨(観客)よ、私を旅人と呼んでおくれ、私は旅人として生き続けるのだから・・・。 観客は、ドラマチックな旅人の人生を予…

熟成が進むカツラの果実

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この寒さで、カツラの実の熟成が進んでいる。
袋果の色が、だいぶ黒ずんできた。
あとは、袋果が弾けて、羽根の付いた種子が飛び出すのを待つばかり。

白い雪景色にナナカマドの赤い実

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青森市内は昨夜から今朝にかけて40センチぐらいの降雪があった。

今日の日曜日は、仕事の予定だったが、終日雪片付け。
駐車場に積もった雪をスノーダンプに積んで近くの公園まで運ぶ。
駐車場の雪が片付くまで、その繰り返し。

2015年(平成27年)の干支である羊のイラストを描いてみた

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来年(平成27年)は未(ひつじ)年。
新年の年賀状用に、羊のイラスト素材を描いた。
ところで、「未」がなぜ「羊」なのか。

それは、わからない。

そういえば今年は午(うま)年で、馬のイラストを描いたのだった。
「午」が、なぜ「馬」なのか。
これもわかりません。

クリスマスが近いのでポインセチアのイラスト

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ポインセチアに花びらは無い。
赤い花びらのように見えるのは葉。 つぼみを包んでいた葉で、「苞葉(ほうよう)」というらしい。 その苞葉の赤と葉の緑が、クリスマスカラーとなっている。
そのため、ポインセチアはクリスマスを飾る観葉植物として、人気が高い。

川沿いに暮らす人の意識と、川から離れた場所で生活する人の意識

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初冬の大雪は峠を越えた。
家から離れた川沿いの道へ、犬と朝の散歩。
途上、この前のドカ雪の名残がそこかしこに。

まだ冬の初め。
気温が上がれば融けて消えるだろうという、安楽な見込みがそこかしこに。

消えそうで、なかなか消えない。
そのうちまたドカ雪、というのが現実的な見通し。

夜の雪景色の写真が面白い

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デジタルカメラの撮影モードを「夜景」にして、夜の街の写真を撮ってみた。
これは、新発見。
なかなか面白い。
夜の写真だから、空が黒い。
その黒い空の下、街灯や信号機の光に照らされた雪の様子が面白い。
降り続く雪片が、光に舞っているようで。

青空と、雪の上の青い影に安堵感を感じる冬晴れの日

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突然のドカ雪がちょっと止んで、今日の午前中、青空が見えた。
空が青いと、雪の影も青い。
白い雪面にクッキリと青い影。

これはどうしてか、などとは考えない方が良い。
考えている間に、また雪雲がやってきて、青空が隠れてしまうから。
青い影も消えてしまう。

冬の青空は貴重なもの。
なぜとか、どうしてとか問わずに、そのままの風景を受け入れてみる。

12月初旬の大雪に埋もれて、雪と人の関係について、ちょっと考えた

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青森市内で、夕べはかなりの降雪があった。
昨日の日中から今日の朝方にかけて、40~50センチは降り積もった様子。
今シーズン初めての雪かきとなった。

雪質は水分を含んだ重い雪。
粘着性も強いようで、雪がスコップにひっついて、雪かき作業がやりにくい。

冬の早朝の雪景色

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公園の冬景色を見るなら、早朝が良いね。
冷え切った朝は、雪が美しいから。

初冬の公園の、裸木に咲く雪の花。

雪国の履き物は防寒長靴が一番

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長靴を新調した。 私の場合、ゴム長靴は、3年ぐらい使って買い換えが恒例になっている。

現場仕事での使用がほとんどだから、消耗が早い。
長靴の甲や胴部が損傷しやすく、水や雪が侵入してお役ごめんとなることが多い。

ゴム長靴の素材はメーカーによって様々。
天然ゴムあり合成ゴムあり、塩化ビニールや人工皮などなど。
写真の長靴は、ホームセンターで3,980円で購入。
天然ゴム製長靴はもっと高価だから、新調した長靴は天然ゴム製ではない。
パンフレットを見ると、メーカー独自の軽量配合ゴム使用となっている。

カラフルで安価な塩化ビニール製の長靴が多く出回っているが、昔ながらの天然ゴム製長靴も環境に優しいという点で見直されてきている。
天然ゴムは、引っ張ってもちぎれにくく、キズになっても裂けにくい。
また、こすっても摩耗しにくい。
天然ゴムは雪道でも滑りにくい。
消却しても、ダイオキシンなどの有害物質が発生しない。
などの利点がある。

だが、天然ゴムの長靴は経年劣化する。
これには、シリコンオイルを塗るなどの「お手入れ」で対応すれば、劣化はある程度防げるようである。

ただ、現場仕事用の長靴に、天然ゴム製の高価なものはもったいない。
値段が手頃で防寒機能の良いものが、雪国仕様の長靴を選ぶ基準。
新調した長靴は、3mmメッシュウレタン裏布 ハイパイル付きとなっている。
これが防寒機能を高めているようなので、防寒機能優先で、この長靴を選んだ次第。
敷き皮が標準装備となっているが、この上に、さらに一枚敷き皮を敷けば保温力が増す。
靴が冷たくて脚が冷えると腰痛が悪化しやすいと言われている。
腰痛持ちには特に、長靴の防寒機能が大切である。

冬は腰痛が起きやすい季節。
寒さが増せば、長靴のなかに靴用の「携帯カイロ」を入れて、防寒力をパワーアップ。
あらゆるシーンでの雪国の履き物は、防寒長靴が一番であると思う。










雪景色は、成熟し続けて滅びる樹木の姿を際立たせる

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青森市内に、昨夜から今朝にかけてまとまった降雪があった。
この冬はじめて、街が白く雪におおわれた。
公園の裸木は、雪の花ざかり。

音のない公園の静かな賑わい。
世俗を離れた風雅な宴会のことを「清宴」という。
世俗の真っ只中の公園で、透明感あふれる清宴が繰り広げられている、という感じ。

公園の散歩者は、年毎に描き換えられる新しい絵を見ている。
公園の樹木は、年々姿を変えるから、公園の冬の風景は、年々変わる。

散歩者も年々変わる。
年老いていく。
雪の中で、自分の老いに気づく。
自分の老いを思い知る。
長寿の樹木からみれば、人とは、なんとはかない生き物であることか。

だが、樹木の物差しで人を見ることはできない。
人をみるのは、生きている人の目。

人は、自身のはかなさを「樹木の目」では見ない。
街の風景や社会の活動や他人との交友によって、「人のはかなさ」が消されていくから。
何かを生産し続ける人は、老いをはかないとは感じない。



風景に「はかなさ」を感じること自体、自身が強い生命力を持っている証と思っている。
そのことを、俳句にしたり歌にしたり詩にしたり。
そうすることで、自身のはかなさを突き放す。
お酒を飲んで、騒いで忘れる。

また、次の雪が降る。
その枯れた景色を見て、「人生は、はかない」なんて、ちょっと思う。
でも、仕事に熱中したりスキーをしたりして、そのことを忘れる。


枝についているカツラの果実の上にも雪が積もった。
そのおかげで、果実の成熟が進む。
雪が、果実の熟成を促しているのだ。 まだ青い実がだんだんと熟して、紫黒色(しこくしょく)に変わり、厳冬の雪の上に種を散らす。
樹木には、はかないなんていうイメージは無い。 成熟し続けて、滅びるのみ。
雪景色は、そんな樹木の姿を際立たせる。

樹木の姿を見て、散歩者も思う。
成熟し続けて滅びるのみ。


ナット・キング・コールの名前の由来を長い間勘違いしていた

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すばらしい声の持ち主として賞賛されたナット・キング・コール氏(1919年~ 1965年)。
久しぶりにナット・キング・コールの歌声をYouTubeで聞いた。
曲名は「Around The World」。
好きな曲のひとつである。

ジャズピアニストからポップスシンガーとしてもデビューした彼は、「モナリザ」や「トゥーヤング」、「スマイル」を高らかに歌い上げていた。

ところで、彼の名前の英語表記は「Nat King Cole」。
私はこれを「Not King Call」と、長い間勘違いしていた。

というのは、今から30年ぐらい前に、ラジオで以下のような話(逸話?)を聞いたからだ。

ナット・キング・コールの本名はナサニエル・アダムズ・コールズ(Nathaniel Adams Coles)。
彼の歌声を聴いたファンが、「あなたが歌うときの大きな叫びにも似た声はすばらしい。まるであなたの歌声は王の叫び(king call)みたいだ。」と賞賛したそうな。

それを聞いたナット・キング・コールは、「いや、私の歌声は、そんな大それたものじゃない。私の声は王の叫びでは無いよ(not king call)」と謙遜したという。
そして、このことをきっかけに、ナサニエル・アダムズ・コールズはナット・キング・コール(Not King Call)と名乗るようになったのだと。

今思えば、この話はラジオのディスクジョッキーのジョークだったのだろう。
あるいは、ナット・キング・コール氏本人が発したダジャレだったのかも知れない。

しかし、それを当時の私は本当の話として聞いたのだ。
すばらしい歌声の持ち主の、名前の由来としてすっかり信じ込んだ。

間違いに気付いたのは、それから何年経ってからだったか。
ずいぶんと長い間、私のなかでNat King ColeはNot King Callだった。
なんという無知。
無知ゆえの錯誤。

ナット・キング・コールは、叫ぶように歌う歌手ではない。
ダイナミックでソウルフルな歌い方をするトム・ジョーンズさえをも、叫ぶように歌う歌手とは誰も言わない。

叫ぶように歌うのは、私の下手なカラオケ。
近所迷惑な唸り歌。

そもそも、歌声に対して、「king call」という英語もおかしい。
これでは、ジョーダンとしても通じないではないか、と思った次第。
あのラジオを聞いたということ自…

「山は暮れて野は黄昏(たそがれ)の薄(すすき)かな」与謝蕪村

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晩秋の山は早い時刻から暮れかかる。
山から下りて、山の方を振り返ったら、まだ陽は沈んでいないが、山は暗くなりつつあった。
背後の山が暮れていくのを感じながら、山麓の野を歩く。

黄昏の野に、ススキが黄金色に輝いている。
この温かそうなススキの薮に潜り込んで、一晩過ごそうか。




山は暮れて野は黄昏の薄かな  
与謝蕪村

行くあても、泊まる宿もない旅。 背後から、ものさびしい闇が追ってくる。 やがてススキ野も、暗闇にとざされてしまう。
絶望にも似た焦燥感。 暗いススキ野の中で凍え死んでしまうのではないかという不安。
里へ下りれば人家があると思ったが、灯りも見えない。 山を下りる途中、朽ちた小屋を見つけた。 あの小屋にとどまるべきだったと思っても、もう遅い。
暗くなった山へもどるのは、ススキ野にいるよりも恐い。 暮れていく原野で呆然としている旅人の、平穏を失った心。
蕪村は、こういう心境を句にしたのでは無いかも知れない。 が、こういう状況に陥ったら、どうするか。




ススキの上端を寄せて結わえ、小さな細長いドームを作る。 さらに、周囲のススキをナイフで刈り取って集める。 それをドームの壁に縫うように差し込んで、幾重にも補強する。 これで、雨が降っても大丈夫。 断熱効果もあるし。
ドームの奥にススキを敷き詰めて、寝床をつくる。 石を集めて炉をつくり、枯れ木を集めて、ちょろちょろ燃やして暖をとる。 人心地ついたところで、俳句を詠む。
山は暮れて野は黄昏の薄かな
絶望感が薄れて、ほのかな希望が湧いてくる。 こんな遊び心が無ければ、旅はやっていけない。
暮れ方に時雨れ。 でも、寒くは無い。

みのむしの得たりかしこし初時雨  
与謝蕪村



<関連記事>
蕪村しみじみ

雨上がりのカツラの果実に、水滴がついて良い感じになっている

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以前、カツラの果実のことを記事にしたことがあった。
カツラの果実は、小さな青いバナナのような形をしている。 これは、今年の初夏の頃、実を結んだものだ。 カツラの実は、雪が降ってもまだ枝に残っている。
果実は、成熟すると黒紫色になるから、青いうちはまだ熟していない。

ピックアップのタイヤをスタッドレスタイヤに交換

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来週から雪になりそうなので、今日、ピックアップのタイヤ交換をした。
写真のスタッドレスタイヤは、今シーズンで三度目の冬をむかえる。
まだまだ、タイヤの溝も山もクッキリしていて大丈夫。
この冬も事故の無いように、と念じながら交換作業を行った。



ちなみに、ハイラックス・スポーツピックアップ4WDエキストラキャブの標準タイヤサイズは255/70R15。
これは、タイヤ幅が255㎜、偏平率が70%、Rはラジアルタイヤであることの意、ホイール径が15インチということ。
タイヤの偏平率とは、タイヤの幅に対してタイヤ横面の高さがどれくらいあるかを、100分率で表した数値。 タイヤがどのくらい平べったいかを表していて、数値が小さくなればなるほど薄っぺらなタイヤになる。 軽自動車のタイヤの偏平率がだいたい55%。
ところで、もうひとつ。 スタッドレスタイヤのスタッドってどういう意味か。 スタッド(stud)とは鋲のこと。 したがって、スタッドレスタイヤ(studless tire)とはスパイクの無いタイヤという意味。 スパイクタイヤの使用は、粉塵公害による健康被害防止を目的に、1990年頃、法規制されている。
今から25年ぐらい前は、冬の雪道にはスパイクタイヤが使われていた。
そのスパイク(スタッド)が積雪の無い道で、舗装道路の表面を削って粉塵を発生させていたのだ。
規制されてから四半世紀。
今では、冬タイヤと言えば、スタッドレスタイヤのことである。

写真のスタッドレスタイヤのサイズは、265/70R15でけっこう重い。 タイヤホイールも組み込んであるから、持った感じで、24~26キログラムぐらいはある。

でも、4本のタイヤを手動で交換する作業は、私的には、そんなに大変な作業ではない。
作業時間は40分程度。

まだまだいける。
年2回の、ピックアップのタイヤ交換は、私の体力を予測するバロメータのようなもの。





ずっと使われてきた言葉の周辺に、身近な風景のなかに、何かがある。

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あるブロガーが、メールで私に問い合わせてきた。

自分はいつも、自分には何かがあると思っている、と。
自分には、言葉で表現する才能や、物事を見極める才能があると、いつもそう思いながらブログを書いているのだと。
そういう態度について、あなたはどう思うかという内容だった。

年若いブロガーは、老齢になりつつある「公園の散歩者」に、暇つぶしの質問を気まぐれに投げかけてきたのだ。

公園の落ち葉と青草

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晩秋のすばらしい青空。
秋の長い影と落ち葉の雰囲気が、なかなか良い。
赤色がだんだん枯れて茶色になっていく落ち葉。
その上に、樹木の濃い影。
影から浮き上がった鮮やかな紅葉。
それらが一体となって枯れていく。
影も光も、落ち葉に吸収されて、枯れの世界に引き込まれていく。

広告の原点は、素朴で堂々とした看板にあった

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今年も、青森市内のリンゴ倉庫の「歳末セール」が始まった。
去年よりも、ちょっと早いような気がする。
倉庫入口の「りんご、こちら」の看板が、おいでおいでして、お客さんを招いている。
2014年のリンゴの作況について、青森県庁のホームページにその記載がある。

デジカメが「レンズエラーを検出しました」というエラーメッセージとともに起動しない

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とうとう愛用のデジタルカメラが壊れた。
山歩きや、犬の散歩、仕事の現場撮影と多用して 6年。
ついにお別れの時がきた。

「6年も酷使したのなら、そろそろ買い換え時。」という声もあるが。
長年、使い慣れた道具とのお別れはさびしい。

カメラが動かなくなった原因は、「レンズエラー」

山で写真を撮り終わった後、スイッチをオフにしても、鏡筒が引っ込まない。
モニターをのぞくと、画面の下側に、「レンズエラーを検出しました」というエラーメッセージ。

以前にもこういうことがあったが、そのときはオンオフを繰り返したらすぐに回復したのだった。
バッテリーがなくなりかけているときにも、このエラーメッセージが時々出ていた。
そこで充電したものを差し込んでみたが、今回、症状は変わらない。

このカメラは、鏡筒が3段になっている。
ズームしたり引っ込んだりを繰り返しているうちに鏡筒の隙間に微細なゴミが入り込んだのだろう。
山歩きで使用していたので、そういうトラブルは考えられる。
汚いウエストポーチの中へ、カメラをケースに入れずに裸で突っ込んでいたのだから、なおさら。

ダメ元で、鏡筒部分に潤滑油を垂らし、レンズ部分をつまんで回してみたら「ギギッ」と音がして、それっきり。
もう、ピッピというエラー音も出なくなった。
オシャカである。



ネットで調べたら、「レンズエラー」の修理代金は1万円前後であるという。
「カメラのキタムラ」ではキヤノンIXY630が1万3千円を切る価格で販売されている。

今回壊れたカメラの、シリーズ最新版である。
やはり買うなら使い慣れたキヤノンIXYが良いということで購入。
仕事に遊びに、デジタルカメラは必需品となっている。

新しいキヤノンIXYは、新しい機能で充実している。

(1)光学12倍ズームの「高倍率ズーム」。
(2)カメラが自動でシーンを判断して、ブレ補正を切り替え、いつでもブレを抑える「マルチシーンIS」。
(3)カメラが自動で被写体に合わせてふさわしい設定に自動調整する「こだわりオート機能」。
などなど、ホント自動が多いね。




つまり、楽してイイ写真が撮れるかも知れないという機能で充実している。
ところで、デジカメの「レンズエラー」は他メーカーでも起こっている故障のひとつ。 その予防・対策をネットで調べてみたが、どこのメーカーでも打ち出していない。 壊れたら、新し…

初冬にすっかり葉を落として、幹と枝だけになった木を裸木(はだかぎ)という

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落葉の季節は侘しいというのが通念のようだが。
落葉した木は美しい、という見方もある。

初冬にすっかり葉を落として、幹と枝だけになった木を裸木(はだかぎ)という。

樹木は一年中、様々な景観を私たちに提供してくれる。
春の新緑も秋の紅葉も美しい。
そして、初冬の裸木と、厳冬期の雪をまとった木の姿も美しい。
白い雪と黒い木の幹が風景にリズムを与えているような・・・。
それも、裸木の存在感。

晩秋の公園で蝶が舞うように咲いている花(ガウラ)

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緑色が消えて、裸木が目立つ晩秋の公園で、まだ咲いている花があった。
根元に名札が差し込まれていて、「ガウラ」と花の名前が記されている。
ネットで調べてみると、日本名では「山桃草(ヤマモモソウ)」とか「白蝶草(ハクチョウソウ)」と呼ばれている北アメリカ原産の植物。

芭蕉の微視的な季節感「物いへば唇寒し穐の風」

私には、自身の「唇寒し」という感覚がよくわからない。

口を動かす筋肉が寒さに強ばって、うまく物が言えない、ということはある。

もし物を言おうとでもすれば、口元が寒く強ばって、うまくしゃべらせてくれない秋の風だ。
冷たい秋の風が吹いているときは、何も言えない。
まだ寒さに慣れていない身には、秋の風は物を言いづらいというイメージなのだろうか?

コムラサキシキブという小さなお母さんの木

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ブロック塀に囲まれた空き地で、実の付いたコムラサキシキブを見つけた。
葉はすでに散ってしまっているが、紫色の果実は、まだたわわ。
コムラサキシキブは、夏に淡い紫色の小さな花を咲かせる。 可憐な感じのきれいな花なのだが、小さいので、あまり目立たない。 この写真のように、晩秋の実の方がよく目立つ。
コムラサキシキブは、シソ目クマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木。
似た品種のムラサキシキブよりも、身の丈が一回り小さい。
果実は、コムラサキシキブの方が、賑やかな感じ。 葉が散ってしまっても、実はまだ残っていて、紫色に輝いている。

初夏に生い茂る夏草に埋もれて、小さい花を咲かせている低木の名前を知っている人は少ない。
しかし、その低木が紫色の小さな丸い実を無数につけると、通行人達は「あら、ムラサキシキブがきれいね。」と立ち止まる。
晩秋に、草が枯れて木の葉が散る頃も、紫色の実を細い枝にとどまらせている。


まるで、小さなお母さんが大きな子どもを産んだみたいだ。
小さな母親は大きな子どもの陰にかくれて目立たない。
子どもに隠れて、ひっそりと微笑んでいるだけ。

私は、コムラサキシキブの実を見ると、初夏の小さな花の姿を思い出す。
細い枝に並んだ小さなお母さん達。
この実が残っているのは、小さなお母さん達のおかげなのだと思うと、妙に感慨深い気分になる。

コムラサキシキブという古典的な名前の、小さなお母さんの木。
というのが、この木に対する私のイメージである。




尻八城(シリポロチャシ)から大倉岳に続く尾根を散策

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先週の日曜日に続いて、再び「尻八城(シリポロチャシ)」へ。
駐車場にある案内図の「大倉岳まで9㎞」という記載が気になったから、そのルートの確認が目的である。
先週と違ってお天気は上々だが、膝の調子がイマイチ。
ゆっくりとお散歩気分で、ルート探索をすることにした。

ポピーってヒナゲシのこと?(ポピーのイラスト素材)

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「ポピー」のイラストを頼まれた。
簡略なもので良いという注文。

「え?ポピーって何だっけ。」
聞き覚えのある言葉だが、ポピーそのものを思い出せない。

小さい馬のことだったか・・・?
それは、ポニーでしょ。
子犬のことだっけ・・・?
それはパピーでしょ。

色の種類で、ポピーレッドという赤色があるが、ポピーっていったい何だったか。
花の名前のような気がするが・・・。

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